最初、ホラーだと聞いていたけれど、いわゆるホラー映画とは違うかもしれない。監督のフェデ・アルバレス、脚本のロド・サヤゲス、プロデューサーのサム・ライミ、出演のジェーン・レヴィと、主要メンバーが2013年の『死霊のはらわた』と同じとなっている。

以下、ネタバレです。







最初のあらすじとして、若者たちが盲目の老人の家に強盗に入ったが、老人に襲われて家から出られなくなるというのを知っていた。だから、いきなり強盗に入る場面から始まって、舞台はずっと家の中なのかなと思っていたら、プロローグ的なものが少しあった。

本来だったら、強盗をする若者というのはホラー映画でいうイチャつくカップルと同じで襲われて当然の存在である。ホラー映画と同様、殺されて当然の若者たちが次々に殺されていくのを見る映画なのかと思っていた。

しかし、プロローグで示されるのは若者たちの境遇である。彼らが住むのは経済破綻したデトロイト。特に、ローリーという女性について詳しく描かれるのだが、典型的な貧困家庭であり、母は家に男を連れ込んでいる。彼女はお金をためて、妹と一緒にこの家を出たいと思っている。

もちろん、強盗は悪いことである。しかし、境遇が示されることで、仕方ないかな…という気持ちにもなるし、映画を観る側が彼女たちの味方になる。強盗が成功するように応援してしまうのだ。
つまり、強盗をする側が善、盲目の老人が悪である。

ただ、盲目の老人にも事情があって、盲目になった原因は戦争だし、家にある金は交通事故で亡くした娘の示談金である。
そうなると単純に強盗頑張れという気にもなれない。

映画の本題は、盲目の老人の家から金を盗み出し、無事に生きて帰ることができるかというものである。ゲームのミッションといってもいい。ただ、それは単純なものではなく、盗む側、盗まれる側にそれぞれ事情があり、最初に示されるのがおもしろい。

そして、盲目の老人なんて楽勝だろうとも思うけれど、退役軍人なので鍛えられた体を持っているし、銃器の扱いも慣れている。家にある示談金はそのまま大切な娘のような存在に置き換わっているから、二度も娘を失うわけにはいかないと躍起になっている。
更に、強盗の若者の一人が銃を持ち込んだために、正当防衛として殺されても仕方のない状況を作ってしまった。
しかも、老人は凶暴な犬を飼っていて、老人の目の代わりになるくらい懐いている。
単純に、無事に逃げ出せるかな?というところとは離れてきている。その複雑さがおもしろい。

ゲーム開始前、ルール説明の締めくくりとして、家の中をなめるように撮るのもおもしろかった。こんなところが舞台になりますよとちゃんと見せてくれた。

最初、決して広くない家の中での鬼ごっことなると、影からバンッ!という大きな音とともに鬼が出てくるびっくり演出が多いのではないかと思った。椅子に座りながらもビクッとしてしまうし、苦手だったのだけれど、意外にもその描写は少なかった。
なぜかというと、鬼は盲目だから、遭遇=死ではないのだ。遭遇をしても、気づかれなければ大丈夫。むしろ、見える場所やすぐ近くに鬼がいる、そこからバレるか逃げられるかのスリルが楽しかった。

強盗を善、盲目の老人を悪として描くのだろうと思っていたし、そのつもりで見ていたけれど、何度か選択をせまられる場面がある。まずい家に入り込んでしまったことがわかって、金は置いて逃げたほうがいいのではないかという序盤の場面、警察に電話したほうがいいのではないかという場面。両方とも、金をあきらめることをせまられるのだが、結局、どちらでも金をとってしまう。
これでは、若者側が悪になってしまうのではないか。

しかし中盤で、老人が娘の交通事故に関連した若い女性を地下で監禁していることが発覚し、終盤にはその目的が亡くした娘の代わりに新たな子供を授かることだったとわかる。こうなると、どちらが悪だかわからなくなる。

結局金を盗み出して家から脱出、女性は妹とデトロイトを出るという目的を果たし、ミッションコンプリートと思われたが、テレビのニュース番組では女性が悪者になっている。当たり前だ。盲目の老人の家に押し入って、交通事故で亡くした娘の示談金を奪ったのである。報道されれば悪いのは強盗のほうだ。

ただ、中盤から後半で老人側の罪が出てきてしまったので、これについてはどうなったのだろう。警察が来たのだから、地下室の存在がわかったと思うし、そこでしていたこともわかるのではないだろうか。しかし、報道をされている雰囲気はなかった。
娘を愛していたが故の行動ということなのかもしれないけれど、老人のほうも悪いやつだったという描写は無くても良かったような気もする。

しかも、盲目老人のほうは生きていたのが後味が悪い。大切な意味のこもったお金をとられたのだから、どこまでも追い詰めそうな気がする。けれど、盲目ゆえに、家の外には出るのは困難なのではないかとも思う。
まだ、アナウンスがあっただけのようだが、同じ監督で『ドント・ブリーズ2』の企画は立ち上がっているらしい。今回の話の続きなのか、それとも舞台を変えて同じような条件でやるのか気になる。



ヘレン・ミレン主演。軍服のヘレン・ミレンが珍しい。
他、アラン・リックマンやアーロン・ポール、『キャプテン・フィリップス』のソマリア海賊役でアカデミー助演男優賞にもノミネートされたバーカッド・アブディなど。

監督は『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』のギャヴィン・フッド。

無人ドローンによる攻撃全般について描かれているのかと思っていたが、一つの事象について濃く描かれている。

以下、ネタバレです。










無人ドローンによる“空からの目”によって、テロリストが発見される。彼らは自爆テロを計画していることもわかり、それを空中から爆撃することにより、仕留める…という計画の遂行について、ほぼリアルタイムで描かれる。

こう書くと簡単そうな計画と思われるかもしれないけれど、対象がイギリス人とアメリカ人のため、様々な場所から許可がおりないと攻撃に移せない。
現場があって、攻撃のボタンを押すドローンの操縦士がいて、計画を統括する大佐がいて、その周囲に何重にも人物が控えている。たらい回し具合はまさにお役所という感じだった。
また、そんなものかもしれないけれど、枠の外の外側にいる上層部は他人事とまでは思っていなくても呑気だなーと思わざるをえなかった。

また、関わる人が多くなればなるほど、いろんな意見が出てきて簡単には事は進まなくなってくる。
監視に気づかれていないからすぐに逃げ出す事はなくても、現場が待っていてくれるはずもなく、刻々と自爆テロに向かって準備が進んで行く。

現場を含めて、各基地や他国を訪問している外相の様子など、すべてを見られるのは観客だけで、把握できているだけに観ながらイライラが募ってしまった。それだけに、他人事ながらも、「テロ行為に手を染めたアメリカ国民に市民権などない(からやっちまえ)」と言い放ったアメリカの外相にはスカッとした。けれど、何事もなかったようにすぐに卓球に戻って行ったので、あまり深く考えてない感じもする。

ただ、ここまでが遅々として進まなかったせいで、テロ犯がいる建物の外、すぐ近くで少女がパンを売り始めて、事態は余計に複雑になってしまう。

今爆撃しなかった場合、自爆テロでの死者は80名と推定されると言っていた。1人の少女と80名の死者。数だけで言ったらそれは爆撃したほうがいいだろう。80名の中には子供も含まれるかもしれない。けれど、80名死ぬだろうというのは予測だ。なんらかの何かがあって、自爆テロは行われないかもしれない。また、爆撃した場合に少女が被害を受ける確率も出していた。高い確率だったが、死亡しない可能性もある。しかし、重症を負うだろう。

爆撃を行えば少女は確実に重症を負う、最悪死去する。しかし、この先起こるであろう自爆テロは防げるし、ずっと追ってきたテロ犯も殺害できる。

映画の中の人たちも必死に考えていたけれど、私も何が正解なのかわからなかった。“世界一安全な戦場”というサブタイトルがついているけれど、少なくとも操縦士と大佐は真剣に考えていた。別に遠く離れてるからって、モニターの中の戦場を他人事などと思っていないし、ゲーム感覚でもなかった。

特に、実際にボタンを押して手をくだす操縦士は、精神的な負担がかかっていそうだった。二人とも若かったし、経験もないと言っていた。その前に少女が遊んでいる姿を見ている。

映画の中の人々も、映画を観ている私たちも、パン売れろパンはやく売り切れろという気持ちで一致団結していた。
けれど、ようやく売り切れ、片付けている最中でミサイルが家を直撃し、少女が吹き飛ばされる。

これが最良の策だったとは思うのだ。少女がいるのに爆弾を落とすなんて許せない!とは一概に言えない。でも、これで良かったのかどうかはわからない。
もっと頭のいい人が考えたら、何かもっといい案が出てくるのだろうか。
プロパガンダの話も考えさせられた。実際に自爆テロが起こって、その後で攻撃をしたら賞賛される。けれど、少女が巻き込まれたことがどこかから漏れたら、攻撃をした側が非難の対象になる。映像は絶対に漏洩させてはならない。

普通、このように緊迫感が続く作品で、任務が無事に完了したら、イエーイ!とハイタッチでもするだろう。カタルシスがおとずれるものだ。
しかし、この作品にはそんな瞬間はない。これしかなかったとは言え、任務が完了しても重苦しいままだ。
後味が悪いというのはまた違うが、重さは残る。映画を観ていた人が全員下を向いて考えてしまう。

笑顔の一つもない。それどころか、操縦士の二人は涙を流していた。実際のドローン操縦士も、自分に直接被害がおよぶことはなくても、極度のストレスでやめていく人が多いらしい。
この映画でも、少女がいるから、と一度ストップをかけたのは彼らだ。しかし、結局上からの命令には逆らえないし、自分たちだって、このままテロリストを野放しにするのもどうかとも思っただろう。仕方ない。けれど、最初の実務がこれでは、この先どうなっていくのだろう。

結局、少女は病院で息をひきとる。映画を観ている私たちは知っても、ドローン操縦士たちにこれを知らせないのは良心だろう。もちろん、映画になってない部分で彼らは知るかもしれないけれど。
息をひきとるシーンと、少女がフラフープで遊んでいるシーンをエンドロールで流すということは、監督自身もこれで良かったとは思っていないのだろう。
けれど、どうしたら良かったのか。答えは出ない。よく考えろと言われているようだった。
パンが無事に売り切れて、少女が間一髪離れて、爆撃が起こって死ぬのはテロ犯だけでした、という映画であったら、よく考えるということもなかったかもしれない。

根本的なこと、無人ドローンで攻撃することの是非なども考えさせられた。技術力のない国からしたら卑怯だと思うかもしれない。けれど、テロ犯をそのままにしておいていいかというとそれも…。

現場で実際に動いている現地工作員役がバーカッド・アブディ。身体能力も高そうだった。本作ではなんとか被害を最小限に食い止めようといろいろ考える。彼の出る映画がもっと観てみたくなった。

ロンドンの国家緊急事態対策委員会の国防副参謀長役にアラン・リックマン、本作が実写では遺作になった。子供へのプレゼントの人形の買い方であわあわしてしまう様子が可愛かった。会議室ではキリッとしていたが、その様子を見ていただけになんとなく彼の味方になってしまう。

ロンドンの司令部の大佐役にヘレン・ミレン。脚本の段階では男性だったらしいが、監督が女性に変更したらしい。これは女性のほうが良かったと思う。なんとなく、少女のことも大切だけど、それでも!という感じが強く出ると思う。

ドローン操縦士役にアーロン・ポール。『ブレイキング・バッド』での実はいい奴な感じが今回も健在。まっすぐで青臭くて純粋。彼に合っている役。

彼らはすべて別々の場所にいるので、撮影も別々だったらしい。劇中では通信でのやりとりはあるけれど、それも相手がいない中での演技だったという。
また、アラン・リックマンやヘレン・ミレンは部屋をうろうろはするものの、基本的に現場以外の人たちは座っている。それでも、緊迫感が続くし、観ていてまったく飽きないのは彼らの演技力だろう。

また、キャスティングに関わっているのが本作のプロデューサーにも名前を連ねるコリン・ファースというのがまたすごい。
すべてがうまく噛み合っている。おもしろかった。


『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』の始まる前、“遠い昔、はるか銀河の彼方で…”のあとの文章で、反乱軍のスパイがデス・スターの設計図を盗み出すことに成功したと書かれていますがその話。

このスピンオフも三部作なのかと思っていたけれど、一作で完結。

監督は『モンスターズ/地球外生命体』『GODZILLA ゴジラ』のギャレス・エドワーズ。

以下、ネタバレです。








ネタバレも何も、反乱軍のスパイが設計図を盗むのに成功することはわかっているし、反乱軍が甚大な被害を被ることもわかっていた。結末は明らかである。それでも十分に楽しめました。

中盤くらいまでは、おもしろくはあるけどスター・ウォーズっぽくないなと感じた。最初に“遠い昔、はるか銀河の彼方で…”の文章は出るが、あのテーマ曲は流れない。文字も流れてこない。この辺はスピンオフだから区別したのかもしれないが、なんとなく気持ちがスター・ウォーズに乗り切れない感じにはなる。

あと、なんというか、少し地味に感じた。惑星間移動はするけれど、空中戦がなかったからだろうか。なんとなく、連続ドラマでも良かったのではないかとも思ってしまった。
ただそんな中でも地上戦でのドニー・イェンは素晴らしかった。ドニーさんがこの作品に出演が決まって以来話題沸騰という感じだったが、アジア映画をあまり観ないので、ドニーさんの作品も観ていなかった。でも、こんなにバシッときまるアクションを見せてくれる人だとは。多人数に囲まれて同時にやっつけるシーンが本当にかっこよかった。
もっと長い時間アクションが観たいので、彼の主演映画も見てみたい。

個人的にはマッツ・ミケルセンが出てくることはなんとなくでしか知らなかったので、こんなにちゃんとした役で出てくるとは思っていなかったので嬉しかった。ちょっと悪役かとも思っていたけれど、主人公の父親役だった。
イードゥのシーンはいらなかったんじゃないかみたいなことも言われていたけれど、マッツの見せ場なのでいります。若い頃の、軍服で子供と戯れるマッツも恰好良かった。
『ファンタスティック・ビースト』のエディ・レッドメインはイケメン役ではなかったのでファンが激増はしないと思うけれど、これはマッツファンが増えてしまうと思った。
また、奥のリアクターに魚雷を打ち込むと連鎖反応的な爆発が起こって破壊されるというデス・スターの弱点はエピソード4(1977年)の時点で明らかになっていたことだけれど、これを仕込んだのもマッツだった。マッツというか、マッツが演じたゲイレン・アーソだった。ああ、あなたが…と思った。

思ったことがすぐに口に出てしまうドロイドのK-2SOも良かった。あまり愛嬌のある形ではないし、これもちょっと地味だと思った。顔が小さく、肩幅がある。ラピュタのロボット兵にも似ている。
しかし、思ったことが口に出てしまう=遠慮のなさがとても良く、緊迫した場面で少しの笑いをもたらしてくれる。“いいロボット(ドロイドだけど)が出てくる映画はいい映画”の法則がここでも発動。
また、形は帝国軍のドロイドだから、それが潜入作戦などに生かされるのもなるほどと思いながら観た。

反乱軍が設計図を盗み出すということだったけれど、主人公のジンは反乱軍という感じではなかった。反乱軍の人間とつながりのある外部の人間だった。まあ同盟軍なのでそれでもいいのかもしれないけれど、一員にはなっていなかったのが意外だった。ドニーさん演じるチアルートとも出会ったばかり。そのせいもあるのか、デス・スターの奥に弱点があって、そのために設計図を盗みに行きたいと評議会で発言をしても聞いてもらえない。いまいち信用してもらえていない。

けれど、少しの間行動をともにしたキャシアンはジンの話にのってくれて、キャシアンの仲間のならず者のような連中を連れて、承認を得ないまま、設計図のあるスカリフへと飛ぶ。
いままで一人だったジンが孤独じゃなくなるこのシーンが良かった。キャシアンもいままで暗殺なども手がけてきたし、明るいヒーローというわけではない。チアルートとベイズも故郷を帝国軍に破壊されている。帝国軍から脱走したパイロット、ボーディーももちろん見つかったら殺される。全員、もう前に進むしかない人たちなのだ。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のようなお気楽さはないけれど、同じようにはみ出し者である。反乱軍の制服も着ていない(でもあれはパイロット用のものなのかも…)。出会ったのは最近でも、帝国軍に対する怒りが彼らを結びつける。ジンも一人の力では怒りをためこむことしかできなかったけれど、行動に移すことができる。

このスカリフに乗り込んでいくあたりからのストーリーが加速度的に盛り上がる。盛り上がりはラストまでずっと続く。

ただ、キャシアンの連れてきた仲間などは上からの命令ではあるけれど汚いことに手を染めていて、後ろ暗いところのある輩どもだったから、この人たちはいつ死んでもおかしくないという気持ちで乗り込んでいくのだろうし、実際、反乱軍側に甚大な被害が出ることを私は知っている。ああ、きっと無事に戻っては来ないのだろうなと思う。

人数が少ない中、どうやって対抗するか。ジンとキャシアンとK-2SOが設計図が保管されているタワーへ、ボーディーは宇宙船に残り、チアルートたちは兵士を引き付けるための撹乱作戦を地上で行う。散り散りになっていく。

反乱軍の基地はジンたちが出て行ったことを知って援軍を送り出す。ここで交わされる会話がエピソード4を見ていることを前提としていて、しっかりと繋がっていくのを感じた。設計図を“彼女”に託し、クローン戦争にも参加した“彼”に渡してもらう。もちろん、彼女はレイア姫、彼はオビ=ワン・ケノービである。そして、姿こそ出てこないが「行くぞ、アンティリーズ」というセリフ。ウェッジ・アンティリーズはこの戦いにもちゃんと参加していたのだ!ファン向けではあるが嬉しい描写である。

タワーでの設計図奪還作戦と、地上での撹乱作戦と、空中戦が同時に繰り広げられる。特に空中戦だけとったらエピソード7よりも派手だったと思う。
盛り上がるが、仲間がどんどん死んでいく。主要キャラが容赦なく倒されていく。知ってはいたけれどつらい。

タワーではK-2SOをコントロールルームに残し、ジンとキャシアンが二手に分かれる。ここで、もしかしたらジンとキャシアンや他の仲間は全員死んでしまって、K-2SOだけが残ってデータを送ったりするのかな…と思った。けれど、倒れるのはK-2SOが先だった。ストームトルーパーから集中砲火をあびて、「さようなら…」なんて。でも、その前に設計図のありかはちゃんとジンたちに伝えた。

ボーディーも電源コードをつないでから、チアルートもマスタースイッチを入れてから倒れる(ちなみにこのマスタースイッチの形状があんまりにもチープなのではという意見もあるみたいだけれど、エピソード4に続く世界なのだからわざとなんじゃないかと思う。設計図もクレーンゲームを横にしたみたいな機械だったけれど、こうゆうのをあんまり最先端というかシュッとしたスマートなものにしてしまうと、世界観に違和感が出てしまう。良いほうに考えすぎかもしれない)。ジンも設計図のデータを無事に送信した。

結局はスカリフ自体がデス・スターによって破壊されてしまうのだ。それでも、全員がやるべきことをやって、希望をバトンのようにして次の人に繋いでから倒れる。

この先、受け取った兵士たちも同じです。データをディスクに保存し、レイア姫に届けなくてはいけないが、帝国軍とダースベイダーに追われ、次々に倒されていく。開かないドアの隙間からディスクだけ渡し、ドアの向こうの兵士は撃たれてしまう。けれど、受け取った兵士は無事にレイア姫に届けた。

このディスクはエピソード4でR2-D2に託され、オビ=ワンに届けられ、ルークが魚雷をぶちこみ見事にデス・スターは破壊される。
登場人物がこれほどまでに死んでしまう話は珍しいと思う。悲しいし、つらいし、ボロボロに泣いてしまう。けれど、私たちは未来(エピソード4以降)を知っている。設計図という名の希望はしっかり反乱軍に渡り、未来は続いていく。

エピソード4の前の話というのは聞いていたけれど、本当にエピソード4の直前である。おそらく5分も経っていない。『クライシス コア-ファイナルファンタジー7-』を思い出した。前日譚というにはあまりにも近すぎるので続けて観たくなる。

本作を観た後だと、何度も観たエピソード4の重みが変わってくる。今までだと、前文を読んで、それを情報として頭に入れた上で、ああいきなり佳境から始まるなと思っていた。でもこれからは、なんでこんなに佳境なのかもわかる。でも、もしかしたら、エピソード4の印象を変えてしまうことを良しとしない意見もあるかもしれない。
それでも、大きなお世話だとは思うけれど、エピソード4が好きな人には本作を観てもらって、この設計図を奪う過程でこんな犠牲が払われていたのだということを知ってほしい。

映画化されなかったら日陰者たちの活躍はずっと日の目を見ることはなかっただろう。こんなことがあったのを知ることができて良かった…という、実話感覚になってしまった。
後付けなのはわかってる。けれど、エピソード4(しつこいが1977年)の時点では、“彼ら”の活躍は文章だけで済まされ、脚本の陰に隠れていたのだ。
それにこのようにスポットライトが当たったのが嬉しい。エピソード7の時も思ったけれど、今回も作ってくれてありがとうございますという気持ちでいっぱいです。

もっといろんな、埋もれている話が観たい。ロード&ミラー監督のハン・ソロの若い頃の話も楽しみ。



イタリアのジャンバティスタ・バジーレが400年前に書いた『ペンタローネ』という民話集が元になっている。『白雪姫』や『シンデレラ』などの原型となる話が収められているらしい。
タイトルを見る限り、本作はこの民話集の中から三編を取り出したものだと思われる。

『本当は怖いグリム童話』のような感じで、民話/童話とはいえ子供向けというよりは、その裏にぞっとするような要素が見えたり、エロやグロも描かれている大人向けである。
『笑ゥせぇるすまん』的な感じで、無茶なものも含め、願いが叶えられるがその代償が支払われるといったストーリー。

監督は『ゴモラ』『リアリティー』でカンヌで賞を獲っているマッテオ・ガローネ。
初の英語作品とのこと。

以下、ネタバレです。







三編の話からなっているがその一編目。
王と王妃が並んで座っている前で道化が芸を披露している。王や周りの侍女らしき人たちは爆笑しているけれど、王妃は眉間に皺を寄せてニコリともしない。
演じているのがサルマ・ハエック。エキゾチックな美女だけれど、ちょっと怖くもある。また、赤いドレスを着ているせいか、威圧感がある。

原作が400年前のものとは知らなかったが、ドレスの型は『エリザベス:ゴールデン・エイジ』のようなエリマキトカゲのような襟なので、時代は昔なのだろうなというのが推測できた。

どうやら王妃は子供を求めているらしい。そこで黒いフードを被った、いかにも怪しい長身の男に助けを求める。
もう見た目からして悪魔っぽいし、言うことを聞いたら不幸になる感じがぷんぷんする。それと同時に、この世界観がたまらないとも思ってしまう。

そして、王(ジョン・C・ライリー)が昔っぽい潜水服で水の中へ入っていく。まるで宇宙服のようなとても水には浮かなそうなごつごつした形の服だった。
そして、私は字幕をあんまりよく読んでなかったのか、“鯨の心臓”と言ったと思ったのだが、実際にはバカでかく凶暴そうな山椒魚のような、なんだかわからない生き物が出てきてギョッとした。そこで初めて、ああこれ、現実の話じゃないのか…と思った。

王は結局この生き物のせいで亡くなるのだけれど、王妃は王には目もくれずに、謎生き物の心臓を一目散で持ち帰り、貪り食う。
口の周りを血で真っ赤に染めて、でもとにかく夢中で食べ続ける王妃に狂気を感じた。でも、グロテスクなのと同時に綺麗だとも思った。

無事に懐妊をしたけれど、1日で産まれたみたいだし、心臓を料理した召使いの生娘の腹もみるみる大きくなっていっていた。そこで、これはなんでもありの話なのだなというのがわかった。魔法の類が存在するファンタジーの世界だった。

ああ、これは生まれた子供が邪悪なパターンかな…と思ったけれど、とてもいい子だった。けれど、髪の毛も真っ白で肌も透き通るくらい白く、どっちの方面なのかはわからないけれど特別な存在であることだけはわかった。目立つ。そして、王妃と同時に妊娠をした召使いの子供もまったく同じ姿だった。
特別な存在がもう一人。うりふたつ。そのヴィジュアルだけでも最高である。
CGではなく、実際の双子が演じているというのも良い。

生まれた王子は自分と同じ姿の男の子を兄弟同然に思って、一緒に遊んでいるし、大事に思っている。
けれど、王妃はあんな目をして授かったのだから、独占したい。当然、召使いの子と遊んでいるのは気に食わない。

そこで、王妃はもう一度最初の悪魔を頼る。王妃は化け物に変身をして、その姿を母親と認識しない息子に殺される。でも、結局、王妃としてはこれが一番幸せなのかもしれない。
この化け物が絡新婦に似ていたのだが、外国にもこのような妖怪が存在するのだろうか。女性の嫉妬が募って化け物になったものが蜘蛛の姿というのは世界共通なのだろうか。

二編目は国が変わり、王がトビー・ジョーンズである。トビー・ジョーンズは特徴的な顔をしているけれど、その娘役のベベ・ケーブさんはほのかに似ている顔だった。娘と言われて納得の顔だった。

娘は素直にすくすく育っているが、王はちょっと変わり者のようだった。娘である姫がバイオリンでお父様あての曲を演奏しても、彼は手の上のノミに夢中。また、鳴き声なのか動くときの音なのか、キュルキュルキュルといった音が加えられていて、映画の中でも可愛いもののように描かれていた。
ペット同然に可愛がり始め、どんどん大きくなっていき、最後には豚くらいの大きさにまで育っていた。最初、なんだか全然わからなかったけれど、足が節足動物のそれだったので、さっき出てきたノミだとわかり驚いた。
ルイ16世が錠前づくりが趣味でマリー・アントワネットに呆れられるというのがよく描かれるが、それを思い出してしまった。よく言えば趣味人。
だけれども、娘よりもノミのほうを大切にするのはどうかと思う。

姫は夢見る少女というか、いつか出会える王子様に憧れている。けれど、王は真剣にはとりあわず、適当な約束をしたために、王子様とは程遠い、野生児のような、熊のような男性にもらわれていってしまう。

体つきもまったく違う。姫はまだまだ少女である。大柄で筋肉質の男性に背負われ、崖を登っていく様子はなんとも言えない、不思議な光景だった。姫が水色のドレスを着ているのも風景と合っていない。半ば誘拐のような形だし、崖の上に連れて行かれては、一人では逃げられない。

こんなナリでも実は優しいというオチかと思った。優しいことは優しいようだったけれど、彼女の望んでいた暮らしではないし、憧れの王子様でもない。

ある日、救助を求める機会が訪れる。旅芸人一座のような一家で、綱渡りによって姫が助け出された。助けてくれたのはお金などはなさそうだけれど、優しそうだし恰好もいい。
なるほど、ここで助けられるために一旦オニにさらわせたのか。運命の出会いのための伏線だったか。

と思っていたが、そんなに甘い話ではなかった。
ここからがまるで悪夢のようだった。オニは追いかけてきて、一家は無残にも惨殺されてしまう。ハッピーエンドなどない。

姫は悟ったような感じに表情を消す。もう戻るしかないと思ったのか、服従することに決めたのか、オニに後ろから抱きついた。と思ったら、首をナイフで切りつけた。

姫は自力で城へ戻る。ずっとドレスのままだったので、泥だらけの血だらけである。水色の可愛らしいドレスが台無しだ。でも、このいかにも少女らしい色合いが泥や血で汚されることで、少女からの卒業を意味しているのかもしれないと思った。
おまけに、手にはオニの首である。

姫も少女から大人になったが、王も反省(では済まされないけれど)をして成長したと思う。

三編目は老女の姉妹が主人公である。
この国は王が好色で、それを演じるヴァンサン・カッセルがとてもよく合っている。

王が綺麗な歌声を聴いて女性を好きになってしまうけれど、実は老女で家に姿を隠してしまう。そうとは知らぬ王は家のドアごしに口説きにくる。

この家には老女が二人住んでいるんですが、王に歌声を見初められたのが姉、そして、声の可愛らしい妹はシャーリー・ヘンダーソンでなるほどと思った。特殊メイクなので、顔ではわかりにくいけれど、声はそのままなのでよくわかる。

王に執拗に口説かれて、これをチャンスだと思った姉は、行為中は明かりを消してもらうことを条件に城へ出かけていく。嫌な予感はしたけれど、まあ、当然明かりをつけますよね。それで、実際は老女というのがバレてしまい、窓から放り出される。容赦ない。

裸のまま、王のベッドの赤い布に包まれて森の木々に引っかかっている様子はあからさまに無様に見えた。

しかし、そこを通りかかった女性が木から下ろしてあげて、泣きじゃくる老女を慰めて去っていくと、老女は見事に美女に若返った。
あの通りかかった女性は誰だったのか説明も何もなかったが、魔女か何かだったのかな。ここで、そういえばこの話はなんでもありだったのだと思い出した。

若返って美女になると、王のベッドの赤い布も高級感が増す。苔むした岩の緑色とのコントラストも素晴らしい。赤く長い髪も美しい。無様さのかけらもない。
そこへ王が通りかかって見初める。一気に王妃である。

わけがわからないまま、妹の元にドレスが届き、婚礼に出席することになる。ドレスは立派でも、髪型はそのままだし、着慣れていないのがよくわかる感じに襟も曲がっている。みすぼらしい。老女だからではなく、わきまえてなさがよくわかってしまう。

城に入るのももちろん初めて。美味しい料理も初めて。一度天国を見てしまったら、元の生活へは戻れないだろう。ましてや今まで一緒に暮らしていた姉が、なぜか若返って王妃になったのだ。なぜ自分だけがこんな姿なのかと嫉妬もするし納得がいかない気持ちはよくわかる。

この城に私も住みたい、どうしたら若返ることができるのかとしつこく聞く妹に、姉は面倒になったか、「皮を剥ぐのよ」と言って城から追い出す。
たぶん、妹としてはこの時点で、あの美しい姿になれるならなんでもするという気持ちになってしまっているので、皮を剥ぐという通常では考えられない選択肢が頭の中を占拠してしまったのだろう。

婚礼に出たドレスそのまま、つけていたアクセサリーなど金品類を与えて皮を剥いでもらう。もちろん若返るはずもない。この話でもドレスが血まみれになった。

一編目では王子が母を乗り越えることで成長し、二編目では姫と王が成長したと思う。けれど、この話だけは誰も成長しない。
姉も元の姿へ戻る。たぶん、王も好色のままだろう。

水に入って謎生物を仕留めた王の葬式シーンは序盤なのだが、その時にこの三国の王や姫が一同に会していた。
そしてラスト、二編目の姫の戴冠式の際も集まっていた。それぞれの話につながりはないが、世界は地続きだというのがわかる。

王の葬式の際にはまだ一編目の王子は赤ん坊だったし、二編目の姫も子供だった。しかし、戴冠式では姫は王女の威厳をたたえていた。ちゃんと強くなっている。素晴らしい演技だと思う。

綱渡りの芸人がお祝いに来ていて、おそらく姫はあの時助けてもらった彼や一連のことを思い出したのではないだろうか。でも泣いたりはしない。ちゃんと威厳を保っていた。

そして、王子と視線を交わしていたのもおもしろい。ああ、あなたもいろいろあったのねという顔にも見えた。

三編とも話自体も面白いが、衣装や色合いが素晴らしく贅沢で見ていてうっとりしてしまう。
監督は元画家らしく、納得のセンスである。監督の他の映画もこんなに美麗なのか気になるので見てみたい。

衣装はMassimo Cantini Parrini。ガブリエラ・ペスクッチとともに『チャーリーとチョコレート工場』や『ブラザーズ・グリム』、『ヴァン・ヘルシング』に参加していたようだ。

叙情的な音楽はおなじみ、アレクサンドル・デスプラだった。この音楽がまたよく合っていた。物悲しくも、美しい。
本作ではフルートも演奏していたようだ。

公式サイトにロケ地の紹介が載っていて驚いた。不思議生物が出てくるし、ファンタジーならばなんとなくCGだと思っていたが、あの森も、あの渓谷も、あの城も実在するとは。
まさにヨーロッパ!という風景はすべてイタリアらしい。
あの不思議生き物すら生息してそうな気がしてくる。



ハリー・ポッターシリーズを観たことがないので繋がりがよくわからなかったのだけれど、ハリー・ポッター内に出てくる『幻の動物とその生息地』という書物(教科書?)の作者が本作の主人公ニュート・スキャマンダーということらしい。全五部作予定。
なので、ハリー・ポッターよりは過去の話だった。

おそらく繋がりがあるのだろうなという人物についてはよくわからなかったし、きっと知っていたらもっと楽しいのだろうと思うけれど、知らなくても楽しめました。

以下、ネタバレです。








ニュート・スキャマンダーというイギリス人がトランクを持ってニューヨークに降り立つところからストーリーが始まる。
このトランクの秘密道具具合がすでにわくわくするんですが、この中には魔法動物がいて、逃げ出したそれらを捕まえるんですね。この動物たちがとても可愛い。ハリモグラの赤ちゃんに似てるニフラーはキンキラなものを集めるのが好き。宝石屋で動きを止めて、置物のフリをしていて、そうゆう知恵も働くのか!と思った。
緑の枝のようなボウトラックルは、風邪をひいていてニュートがポケットで温めてあげていた。懐いている様子だった。

他にも多数不思議な動物が出てきて楽しい。細かい設定の載っている図鑑が欲しいと思ったけれど、『幻の動物とその生息地』として発売もされていたらしい。現在は入手困難らしく残念。五部作の最後の方でニュートが完成させるのだろうか。そうしたらまた発売されるかな。
もしかしたら、リタと呼ばれていた女性が書くのかもしれないなとも思った。彼女はおそらくハリー・ポッターシリーズに出てくるのだろうと思った。写真を飾っていたようだけれど恋人だろうか? 訳ありのように見えた。過去作を見たら、関係がわかるのかもしれない。

人間と魔法使いが対立して、魔法動物も淘汰されてしまい、放っておくと絶滅してしまうところをニュートは研究をすると同時に保護をしているようだった。
おそらくレッドデータブック的なものとか、現実の世界でも問題になっているようなことに警鐘を鳴らしているのかとも思ったけど、そこまで深くは入り込んでなかった。説教臭さはないです。あくまでもエンターテイメント。

そして、逃げ出した動物たちが騒動を起こす。
銀行や宝石屋さんがめちゃくちゃになるのも、人は死んでいなくても騒動である。これは完全にニュートのせい。この責任がどうとかは描かれないのもエンターテイメント作品だなという感じ。
そうやって軽い感じだったので、中盤で騒動が原因で人が死んでしまったので、本当に死んだのかを疑ってしまった。
そして、それもニュートが逃した魔法動物のせいなのかと思ったので、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』のような尻拭い映画なのかと思ってしまった。悪役はウルトロンではなく結局社長じゃないの?と同じく、魔法動物が悪いのではなく、逃したニュートのせいじゃない?というような。

しかし、それはまた別の問題だった。
エズラ・ミラーが出てるのを全く知らなかった。
彼は美青年ですが、影があるというか、何か闇を抱えている役が多い印象。本作でも、美青年っぷりは隠せなくても、髪型がちょっと変なのと、目つきなどもおどおどしていた。今回の悪役というか、悪役に操られてしまう役。

そして、本当の悪役はコリン・ファレルだった。最後に捕らえられるんですが、「元の姿を現せ!」みたいな魔法で変わった姿がジョニー・デップだった。
コリン・ファレルがジョニー・デップとは『Dr.パルナサスの鏡』!とも思った。あと、これほど重要なキャストが急に出てくるってことは、これも旧作関連なのかな?と思ったら、出てきていないようだった。
じゃあ、誰なのか調べてみたら、ヴォルデモート(ハリー・ポッターの悪役)の出てくる前の悪い魔法使いらしい。

本作では一般人というか魔法使いではない普通の人間が巻き込まれてしまう。
対比として、魔法使いの魔法使いっぽい映像が出てくる。杖をふりふりしながら、自分の手は使わずに家事をしたり、壊れた建物を魔法の力で修復したり。
単純に見ていて楽しい。
巻き込まれる男性コワルスキーも、それを見て、驚きながらも目を輝かせていた。

ニュートの不思議なトランクの中に連れて行ってもらったときも、「『昨日何してたの?』『トランクの中に入ってたんだ』なんてね」なんて独り言を言って、にこにこと嬉しそうにしていた。
その気持ちがとてもよくわかる。コワルスキーは観客と同じ目線に立っている。

毎日変わらぬさえない日常。けれど、特別な存在と出会って、世界は一変する。危険はあっても魅力的な冒険。

ちょっと『ドクター・フー』っぽいと思ってしまった。『ドクター・フー』も普通の暮らしをしていた一般人がドクターという未知の存在に出会って、最初は恐る恐る、けれど次第に引き込まれていき、わくわくするような冒険へ一緒に出かけていく話である。
でも、私は『トゥモローランド』ですら『ドクター・フー』だと思ってしまったので、何を見てもそう思ってしまうところがある。

でも、ラスト付近で、コワルスキーの記憶が消されるシーンを見ながら、ああやっぱりこれは『ドクター・フー』っぽいと思った。魔法使いとのことは、人間は覚えていてはいけないのだ。クイニーが魔法の杖を傘の柄の部分のように持って、雨の中で向き合うシーンが美しくも悲しかった。

そのあと、何もなかったかのように、妙にさっぱりした顔をして、雨の中を駆けていくコワルスキーの姿を見るのが切ない。

この後に、ティナとニュートの別れのシーンもあるけれど、別になんとも思えないというか、君たちはお互いがお互いのことを覚えているし、また会う約束をしているからまあいいじゃないかと思ってしまった。

別れのシーンの描きかたの濃さ薄さといい、なんとなく、ニュートよりもコワルスキーの方が主役に思えてしまった。キャラクターとしてもコワルスキーのほうが親しみやすい。

ラストで、コワルスキーが夢であるパン屋をオープンさせ、そこへクイニーが客として訪れると、コワルスキーはにっこり笑うんですよね。
もちろん、彼女のことはおぼえていないのだ。それでも、ああ、良かったと思った。
このパターンに弱いのだ。記憶が消されるとか、記憶喪失とか、なんでもいいんですが、知らないはずなのに、なんかこの人のこと知ってるなあと心の奥底で覚えているパターン。
『時をかける少女』あたりが好きなのもこれです。

『ドクター・フー』にしてはドクター役が三人でコンパニオン役が一人なんですが、これがもし、コンパニオン役が女性だった場合はニュート一人だったかもしれない。最後にパン屋に行くのも、雨の中で別れるのもニュートだったのではないだろうか。

綺麗な終わりかただったけれど、五部作で、次作はコワルスキー出ないのだろうというのが残念。記憶を消した意味がなくなってしまう。
次は違う人間が巻き込まれるのだろうか。
でも、そうしたら本当に『ドクター・フー』になってしまう。

考えすぎかと思ったけれど、2011年に本作の監督のデヴィッド・イエーツが、『ドクター・フー』の映画を計画していて脚本家を探していたらしい。でも、ドラマ版の制作者であり脚本家であるスティーブン・モファットが断って中止になったらしい。

また、主役のニュート・スキャマンダー役に、ニコラス・ホルトとマット・スミスが候補として上がっていたらしい。
本当に『ドクター・フー』になってしまうが、マット・スミスが合いそうな役だった。

ニュート・スキャマンダー役がエディ・レッドメインだと聞いた時、エディがハリー・ポッターシリーズに出たら人気が出てしまう…と思ったけれど、特にイケメン役じゃなかったのでそんな心配もなさそう。
ちょっと変わり者役というか、本作を見た限りだと謎が多く、あまりよくわからない役柄だった。世間一般的なイケメンのイメージとは違うマット・スミスのほうが合いそう。

でも、そうしたら本当に『ドクター・フー』になってしまうし、ドクターを演じた俳優がドクターっぽい役を演じることもないのだろう。

『SPY/スパイ』



『ゴーストバスターズ』のリブート版や見た目がおしゃれなことでも話題になったポール・フェイグ監督作。
世界各地でスマッシュヒットを記録したにも関わらず、日本での公開はなく、DVDスルーになった。

主演がジュード・ロウとジェイソン・ステイサムなのにどうして!?と憤っていたのですが、観てみたら主演はメリッサ・マッカーシーだった…。メリッサ・マッカーシーは日本での知名度はいまいちだし、あのポスターだと二人、もしくは三人が主演だと勘違いしてしまう。
そして、『ゴーストバスターズ』もそうですが、のれない人は多分とことんのれないであろうコメディ映画です。日本では外国のコメディ映画の上映が減っているので、これは公開されなくて仕方がないのかもしれないと納得してしまった。下ネタ、グロネタも多いです。

以下、ネタバレです。










私はジュード・ロウ、ジェイソン・ステイサム、メリッサ・マッカーシーの三人が銃をかまえているポスターを見て、これは三人が主演なのだろうと思っていた。どちらかというと、ジュード・ロウ、ジェイソン・ステイサムの二人がネームバリュー的にも主演寄りなのだろうと推測していた。けれど、そのネームバリューも日本でのことで、アメリカではメリッサ・マッカーシーは超有名人らしい。なので、多分、そこからして私の印象が間違っていた。

そして、最初にキャストの名前が出るんですが、一番手がメリッサ・マッカーシーなので、あれ?と思った。ジュード・ロウは最後に“and Jude Law”と名前が出る。もしかしてカメオ扱いなのだろうか…。
最初、CIAの現場担当のブラッドリー・ファイン(ジュード・ロウ)が潜入捜査をし、それを事務方のスーザン・クーパー(メリッサ・マッカーシー)が音声でサポートをするというシーンがある。これが二人の日常のようだったので、本編でもこの図式のままいくのだろうと思った。ジェイソン・ステイサムはライバルで、二人のサポートを同時にやるのかもしれない。それか、もしかしたら敵なのかもしれない。
そんなことを考えながら観ていたら、ほぼ序盤といってもいいくらいの場所で、ブラッドリーが死んでしまう。なるほど、“and Jude Law”表記に偽りなしである。

けれど、ジェイソン・ステイサムもジェイソン・ステイサムで、こちらもand表記にしたほうがいいのではないかと思うくらい、ほとんど出番がなかった。出番がなかったし、活躍もしない。
ただ、それでもキャラクターとしてとても愛おしい。
平たく言ってしまえばバカである。CIAに所属しているのだし、おそらくやり手ではあるのだろう。けれど、本作ではバカゆえに活躍の機会を逃している。やり手なのかやり手でないのかわからない。けれど、本人は大真面目で一直線。いいキャラクターだし、これをジェイソン・ステイサムが演じているのがいい。

ジュード・ロウも出番こそ少ないものの、すごくかっこ良かった。最初のアクションに、後半のしれっとした感じがイカす。彼もおそらくやり手である。
それに立ち居振る舞いがいい。細身のスーツで背筋がピンと伸び、びしっとしている。
こんな色男を絵に描いたようなキャラクターだから、スーザンも彼のことが好きなんですね。でも、彼は彼女の気持ちにまったく気づいていない。親しくはしているけれど、女性としては見ていない。
でもそんな関係がいい。後半では直接ではないけれど気持ちを打ち明けざるをえない場面があり、その気持ちを知った上で、ファインはスーザンを食事に誘ったりして。でも、スーザンは、ナンシーとの女子会をとったりして。
王子様は振り向いてくれるんだけど、結局気の置けない仲間と過ごしちゃうっていう、胸キュンラブコメの典型みたいな感じですが、良かったです。
結局、酔った勢いでなぜかフォード(ジェイソン・ステイサム)と一晩を共にしてしまうというオチもついていた。フォードとスーザンのわーわーとケンカばっかりする関係も楽しかった。

最初はメリッサ・マッカーシーの体型的に事務方に徹するのだろうと思っていたが、現場に出ていく。とてもアクション向きの体型ではないけれど、走ったり、格闘をしたりと奮闘していた。
二人の男性は出てくるけれど、あくまでも脇役で、これはメリッサ・マッカーシー映画である。
次に活躍するのが同僚のナンシー(ミランダ・ハート)かな。DVDに収録されていたデリートシーンを見ると、パリで気に入ったジャケットがあって、それを着ると人生が変わる、だから絶対に欲しいみたいな一連の話がごっそり削られてた。スーザンとナンシーのだらだらしたおしゃべりもだいぶ削られているようで、本当はもっと出番が多かったっぽい。

そういえば、敵も女性が大ボスになっている。
男性は全部脇役と考えると、なるほど、男女逆転『ゴーストバスターズ』の監督さんだなという感じがする。

本作はタイトルは『SPY』だし、CIAが主役である。スパイガジェットもたくさん出てくる。けれど、ガジェットを実際に使ったりはしない。スパイというよりはアクション要素が強いと思う。
だいたい、主演のメリッサ・マッカーシーの外見が目立ちすぎる。かつらかぶって変装をして、名前を変えても、どうしたって目立ってしまう。まあ、本気で身を隠そうというよりは、監督がメリッサ・マッカーシー大好きで、彼女にいろんな格好させて遊ぼうという愛情たっぷりないたずらだと思うけれど。
序盤、ファインが活躍する場面はスパイ映画っぽかった。あと、オープニングは007シリーズのあからさまなパロディだった。

ただ、007はナイスバディな女性がくねくねと踊っているが本作は違う。もちろん、ボンドガールも出て来ない。
そう考えたけれど、ああ、もしかしてファインとフォードの二人は男性だけど、本作のボンドガールなのでは…。セクシーイケメンと憎めないバカという二つのタイプをご用意。
これは、ある意味男女逆転007なのかもしれない。

でも、ボンドガールは作品ごとに変わるけれど、この二人は変わらないでほしい。もし続編が作られるなら、全員同じキャラでお願いしたいです。監督もポール・フェイグじゃないと駄目だと思う。

ストーリーの根幹には関わらないようなちょっとしたギャグセリフのいくつかは、俳優さんたちのアドリブなのかなと思っていたら、監督のアドリブだった。撮影している途中で、「ここでこのセリフ言って」と割り込んでくる。そのどれもが下品なものだったりすっとんきょうなものだったりで、でも俳優さんたちは仕事だから律儀に言われた通りのセリフを言うんですが、言い終わってから笑っちゃったりしている。
撮影も、アクション!カット!といちいち止めずにカメラをまわしっぱなしでやってるみたいだった。
だからDVDには、メイキングやNG集など特典映像がたっぷり収録されていた。

監督はまるで出演者のようだった。ここまで寄り添うものなのだろうか。
スタントもやってたし、カメオ出演もしている。CIAの事務所に出現したコウモリを動かす役割も担っていた。
他のスタッフが「コウモリを動かす加減がわからないから監督がやってくれると助かる」と言っていた。

監督が一番偉いのではなく、スタッフや俳優の目線まで下りてきて、みんなで一丸となって作り上げていく感じ。その雰囲気の良さがやいい意味でのユルさが作品のカラーとしてもよく表れていると思った。

ストーリーのアイディアを俳優さんから募ったりもしたらしい。
ジュード・ロウは「寝返ったファインは、続編では敵になって出てくるとか」と言っていたけれど、却下されていた。私も却下です。
もし続編があるなら、今度こそ三人平等に活躍してほしいなあ…。

そういえば、エンドロールにヴィジュアル・エフェクト・プロデューサーとしてトム・フォードの名前があった。『ウォーム・ボディーズ』の時にはニコラス・ホルトだしな…と思ったけれど、別の映画でもちょくちょく名前を見かけるし、あのトム・フォードではないのではないか…と思って調べたら、違った。別人です。Thomas F.Ford IVという方らしい。『ウォーム・ボディーズ』もあのトム・フォードではなく同じ方。1996年から活躍しているベテラン。






作家トマス・ウルフと編集者マックス・パーキンズをめぐる実話。

原作は『名編集者パーキンズ』という小説で、A・スコット・バーグというのちにピューリッツァー賞を受賞する方の処女作。1978年に出版された。
ここでは、マックス・パーキンズの生い立ちから描かれていて、映画にも出てくるフィッツジェラルドやヘミングウェイのことも多く書かれているようだが、本作はその中でトマス・ウルフにのみスポットが当てられている。

トマス・ウルフ役をジュード・ロウ、マックス・パーキンズ役をコリン・ファースと人気の俳優がそろっているわりに公開館数が少ないのは、トマス・ウルフ自体が日本であまり有名ではないからかもしれない。

脚本は『ランゴ』『007 スカイフォール』のジョン・ローガン。もともとは彼とA・スコット・バーグが17年前に会い、映画化を申し出たことがきっかけらしい。

監督はマイケル・グランデージ。聞いたことがないなと思ったら、舞台のプロデュースで有名な方で、映画監督は今回が初だそう。
イギリスを中心に1996年から多数の舞台を手がけている。ローレンス・オリヴィエ賞最優秀監督賞やトニー賞も受賞しています。
ロンドンのノエル・カワード劇場でのジュード・ロウ主演の『Henry V』、ジュディ・デンチとベン・ウィショー主演の『Peter and Alice』(脚本はこちらもジョン・ローガン)、ダニエル・ラドクリフ主演の『The Cripple of Inishmaan』などのキャストも豪華な6公演のシリーズも大成功だったらしい。

観ていてなんとなく舞台っぽいなと思ったんですが、それはジュード・ロウがわりと大げさな演技をしているせいかと思ったけれど、監督が舞台の方なら納得。

以下、ネタバレです。







序盤、混んでいる電車の中で、トマスの原稿を読んでいるパーキンズに、スポットライトのように一人だけ柔らかな陽光が当たるシーンがある。それは、パーキンズを他の乗客に紛れさせないための演出でもあると思うけれど、原稿を読みながら心の中に光が広がっていくのを示しているようでもあった。一目で大事な出会いだったのだとわかる。
これも舞台っぽい演出だと思った。

作家というのはそうゆうものなのかもしれないけれど、トマス・ウルフはやや破天荒な人物として描かれていた。書いていないと死んでしまうような印象。または、作家でなければ本当にダメ人間のようだった。周囲の人間も振り回すだけ振り回す。だからこそ魅力的という面もあるのかもしれない。
しかし、書くことは生きることという感じなので、とにかく原稿が長い。パーキンズは編集者としてそれを削る仕事をしていた。かなり勢い良く削っていたが、結局、30万語から6万語削ったらしい。
削られてベストセラーになった『天使よ故郷を見よ』はネット書店でも高騰しているし、図書館にもないようなので、翻訳版は絶版になっているのだろうか。ちなみに、削る前、編集なし版の『失われしもの』も2000年に出版されたようだけれど、この分だと翻訳版は出ていないのだろうと思われる。『天使よ故郷を見よ』だけでも読めるようになるといいのだけれど。

ごりごり削るシーンで、「他のシーンでは形容的な描写が多いけれど、恋に落ちるシーンは短い、シンプルな言葉でいい。そのほうが際立つ。実際に恋に落ちる時にそんなにつらつら考えないだろう?」というようなアドバイスをするシーンがあり、勉強になった。

トマスとパーキンズはかたや奔放、かたや堅物といった感じで、性格が正反対のようだった。けれど、お互いに周りにはいないタイプの人間だったという事でうまくいっていたのではないだろうか。
トマスは「今まで友達がいなかった」と言っていたが、自分の書いた原稿を読み、親身になってアドバイスをくれたことで友情を感じていたと思う。
パーキンズにとってはそれが仕事でも、トマスにとっては書くことが生きることなのだろうから、そこに寄り添ってくれるというのは多分特別な意味を与えていたと思う。

ジャズクラブに連れて行かれ、最初は乗り気じゃなかったパーキンズも、トマスに曲をリクエストしてもらい、その曲のダンスアレンジをバンドが演奏すると足が自然とリズムを刻んでいた。

後半、かつてトマスが住んでいた家に不法侵入するシーンではパーキンズが窓を壊して鍵を開けていた。前半の彼の様子からは考えられなかった行動だ。
パーキンズもまた違う世界を見せてもらったのだ。

そんなだから、アリーン(奥さんか恋人だと思っていたけれど、既婚者だったので愛人?)も二人の仲に嫉妬する。
拳銃を持って編集部を訪れたときに、パーキンズが編集者っぽいある意味理屈っぽくもある冷静な説得の仕方をしていたのが印象的だった。
アリーンを演じたのがニコール・キッドマン。彼女もノエル・カワード劇場でのシリーズに出演していたようだ(『Photograph 51』)。
恐ろしく顔が整っているけれど、少し怖い感じだったり神経質そうだったり不安定だったりする演技がうまかった。涙を両指で拭う仕草も優雅だった。

また、フィッツジェラルド役でガイ・ピアースもうまかった。誠実そうでそれゆえスランプに陥った作家というのが伝わってきた。出番はそれほど多くないけれど残す印象は強い。

トマスは周囲を巻き込むだけ巻き込んで、アリーンの元も去ったけれど、パーキンズとも結局別れることになる。売れたのは編集者の力だったのではないかと言われたのが気に食わず、自分だけでもできると考えたらしい。
けれど、最期には病院のベッドでパーキンズあてに手紙を残していた。
意識が戻るかどうかと言われていたので、あんな長文の手紙は実話とはいえ映画の中だけの創作だろうと思っていたけれど、ここも実話だったらしい。

感情の起伏の激しさと、周囲を自分勝手に巻き込むエネルギッシュさは作家っぽいなと思いながら観ていたけれど、同じ作家でもフィッツジェラルドのようなタイプもいる。
実際の作家がどんな人物だかはわからないけれど、少し調べてみると映画の通りだったようだ。だから、ガイ・ピアースもジュード・ロウも演技が素晴らしかったのだと思う。
ジュード・ロウは今回、年齢不詳というか、子供のようにも見えるような、大げさで落ち着きのない演技だった。最近では珍しいと思う。

また、本作を観ながら『キル・ユア・ダーリン』のことも少し思い出していて、トマス・ウルフの所業がビートニクっぽいなと思っていたら、ジャッック・ケルアックに影響を与えているらしくて、それも映画だけでわかってしまうのもすごいことだと思った。
ちなみに、トマス・ウルフが『天使よ故郷を見よ』を出版したのが1929年、ジャック・ケルアックが『路上』を出版したのが1957年である。なんとなく時代背景が把握できた。

マックス・パーキンズを演じるコリン・ファースは本作も冷静沈着な役柄だからダーシーと似ている感じ。でもダーシーのほうが不機嫌っぽい。
1900年代アメリカで流行った中折れ帽をずっとかぶっていて、家の中でも取らない。これも頑なだったので実話なのだろうか。それとも、トマスの最期の手紙を読む時に初めて帽子を取っていたので、それを効果的に見せるための手段なのだろうか。

本作では編集者の役なので、原稿をチェックするシーンが多いんですね。そうすると、伏し目がちになって、それがとても良かった。また、片手に赤鉛筆、片手に煙草という組み合わせもたまらなかったです。


セス・ローゲンとかエヴァン・ゴールドバーグとか、例のあの一派がCGアニメを作るというので珍しいと思ったら、ソーセージが主役で恋人がホットドッグのパン、しかもR指定という…。話だけは聞いていたけれど、話題になった『ザ・インタビュー』の公開すらしない国では本作も公開しないと思っていた。しかし、数ヶ月遅れという異例のはやさで公開が決まってびっくりした。

あの一派が監督もつとめているのだと思っていたけれど違って、『マダガスカル3』のコンラッド・ヴァーノン、『きかんしゃトーマス』のグレッグ・ティアナン。
序盤に出てくる曲は素敵だったけどパロディなのかなと思っていたら、リトル・マーメイド、美女と野獣、アラジンと誰でも知っている曲を作曲したアラン・メンケンだった。なんで!?

以下、ネタバレです。







ソーセージに顔が付いている分にはまあぎりぎりセーフかなとも思うけれど、ホットドッグのバンズが縦になって歩いていて、しかもソーセージは全員男、バンズは女というのはアウトである。しかも、二人は合体することを夢見ている。

ただ、いつものようにというかよくあるパターンというか、ソーセージ同士のブロマンスっぽいものとか、憧れのバンズをモノにするために四苦八苦みたいなものはない。ソーセージとバンズは最初から恋人同士である。
ではなぜ結ばれないかというと、各々はパッケージに入ってスーパーマーケットで売られているんですね。人間に買われることで自由になり、楽園に行けると思っている。
しかし、それは間違いで、人間に買われた後は自分たちは食べられることに気づいてしまう。

それでどうするかというと、先に食べられた仲間たちの復讐も兼ねて、人間を倒そうと画策するんですね。
ただ、これがいまいち共感できないせいか、話に入っていけなかった。

こちら(人間)としては、スーパーで買い物をして料理をして食べることは日常のことだし、悪いことをしている意識はない。また、咎められるべきことでもないと思っている。

まだ食べられる食品を廃棄したり、スーパーで買いすぎて腐らせたりという所謂MOTTAINAI問題を主題にしたほうが良かったのではないかと思った。スーパーの店員に捨てられた食材の逆襲とか。
でもそうすると説教くさくなってしまうからやらないか…。
それか、ソーセージなどの加工食品ではなく、牛や豚などが加工され食べられる未来を知って逆襲すれば…とも思ったけれど、それもベジタリアンとか微妙な問題に足を突っ込みそう。

しかも、その人間への逆襲が、事故もあったとは言え、首を切り落とすなどエグい殺し方だった。
後半のスーパーを舞台にした大バトルでは、普通だったら主人公(ソーセージ)たちの応援をしなきゃいけないのだと思うけれど、どうしても悪者(人間)が悪いと思えなかったので、気持ちが入らない。ただスーパーで買い物をしているだけなのに酷い目に遭う。
また、ここで勝ったところでまた明日別の客が買いに来るだろうし、そのうちそれこそ腐って廃棄処分になるかもしれないし、戦いに終わりが見えない。映画を観ながら、どうやって話をたたむのだろうというのが気になってしまった。

ソーセージが男でバンズが女ということで、見た目はアレだけれど合体するにしてもホットドッグとして挟まるだけだろうと思っていたから、これでR15(日本では)だと厳しいと思った。
しかし、中盤、人間がドラッグでトリップするシーンが出てきてなるほどと思った。その後の生首もそうかもしれない。

けれど、後半はもっととんでもないことになる。
ソーセージは序盤からビデ(あのビデ)に因縁をつけられているのだけれど、後半、いろんな液体を飲み込んで悪い方へパワーアップしたビデが、店員の尻に刺さって人間を自在に操り始める。ここの時点でかなりアレですが、そのビデがソーセージを捕まえることにより、店員の股間のチャックからソーセージが飛び出しているという見た目になる。もしかして、この画が欲しかったからビデを出したんじゃないかな…。

そして、人間たちが片付いた後、ソーセージとバンズが合体するんですが、ただ挟まるだけではなく、普通のセックスシーンでした。その雰囲気にのまれたのか、いがみあっていたベーグルとピラピラした中東のパン(ナンの薄いやつみたいなの)も男性同士ですが事に及び始める。そのうち周囲も巻き込んでフリーセックス状態になっていく。これはR15でもぎりぎりです。

このベーグルとピラピラしたパンなんですが、何故いがみあっていたのかよくわからなかった。でも、ベーグルはもともとユダヤ人のパンが起源だったらしく、ピラピラしたパンは見た目がいかにも中東っぽかったのでアラブ人で、その人種間の問題なのかもしれない。
また、フムス(中東の豆料理。ひよこ豆とオリーブオイル、ゴマなどをペースト状にしたもの)を共通項として話していて、少し打ち解けていた。

この辺で人種や性別に関わらず人は愛し合えるみたいなことを描いているのかなとも思ったけれど、そこまで考えていないかもしれない。

それで、「これは実はフィクションなのだよ」というメタ的な説明で話を締めていた。主人公の声を担当しているセス・ローゲンの顔もちょっと出てきたり。続きは映画の外の世界で…みたいなことを言っていたけれど、現実と繋ぐならやっぱり食品廃棄とか積極くさくしたほうが良かったのかなとは思った。

エンドロールでは出てきたキャラクターの絵の下に声を担当した俳優の名前が出てきていたのが親切だった。セス・ローゲン以外は調べないで行ったので、ジェームズ・フランコは出てくるとは思ってたけどアイツかー!とか、ジョナ・ヒル、マイケル・セラ、ダニー・マクブライド、クレイグ・ロビンソンとお馴染みの名前が次々出てきて面白かった。
ビル・ヘイダー、ポール・ラッド、クリステン・ウィグはいてもおかしくない面子だけれど、エドワード・ノートンがいるとは思わなかったのでびっくりした。ベーグル役だった。
ある意味、エンドロールで一番笑ったかもしれない。

あと、好きだったのは、Meat Loafの『I'd Do Anything For Love(But I Won't Do That)』が流れ出したところでミートローフのMeat Loafが出てきたところです。

いろいろと言いたいことがないわけじゃないけれども、この映画が日本で公開してくれたというのが嬉しい。劇場は少ないけれどもヒットはしているようです。

あと、こんな映画だし人間は殺されるけれど、各国の食材や調味料のレイアウトが凝っている大型スーパーマーケットは楽しそうで行ってみたくなった。
あと、悪意なくホットドッグが食べたくなる。


一作目が2001年公開、二作目が2004年、それから12年経っての続編である。劇中も二作目から10年後という設定。

監督は一作目のシャロン・マグワイア、主演は同じレニー・ゼルウィガー。お相手役はコリン・ファースは変わらずだが、ヒュー・グラントではなくパトリック・デンプシーになっている。

一作目二作目は原作小説があったが、今回は原作ではなく原案扱いなので小説ではないのかもしれない。

以下、ネタバレです。







予告で見た通りというか、それ以上のことは起こらなかった印象。
まだ結婚していないブリジットが妊娠し、二人の男の人の父親がどっちかわからないというすったもんだが起こるというそれだけの話。

私はどっちが父親なんだろう?三人で生活するのもいいのかもしれないみたいなことを考えていたけれど、夢物語というか、THE ヒロインのブリジットにすべてが都合よく動き、ダーシーと結婚するという。
既婚者のダーシーはちょうど離婚するところだったし、グラストンベリーで一晩を共にした男性は大金持ちの有名人でしかもいい人、高齢出産で危険なことも何も起こらない。

ただ、多分ブリジット・ジョーンズシリーズとはそうゆうものなのだろう。人間ドラマというよりはコメディなのだ。深刻になっても仕方がない。
そして、私はこのシリーズ自体に特に愛着がなかったのでわからなかったけれど、好きな人は多分最後はダーシーと結婚するということを知っていたのだ。一応三角関係という体をとっていても、所詮当て馬なのだ。
ドジな女の子と気持ちがうまく表せない男性の話であり、もう一人はその二人を盛り上げるためのかませ犬でしかない。

本作でも、ダーシーに比べてジャック(パトリック・デンプシー)の扱いの雑さが気になったけれど、所詮ダーシーの引き立て役なのでそれでいいのだと思う。
キャラの作りが雑すぎて、これ別にジャックじゃなくて旧作のダニエル(ヒュー・グラント)でもよかったじゃないか…と思ったけれど、ダニエルだと本気っぽくなってしまい、勢いでも一晩を過ごすのはダーシーにとってシャレにならない。だったら、まったく知らない人間のほうがまだダーシーが傷つかない。出番がちょっと多いだけでモブとそれほど変わりない。

映画館のキャンペーンで、二人のどっちとくっつくかを予想するクイズのキャンペーンが行われていたけれど、これも、答えが丸わかりの穴あきクイズと同じようなものなのだろう。

多分プロレスというかお約束のようなもので、ブリジット・ジョーンズファンは、用意されたハッピーエンドは知っているけれど、ブリジットとダーシーの恋模様をひやひやした面持ちを作りつつ見守っていたのだ。きっと、ファンにはこの予定調和というか、このシリーズの変わらないところがたまらないのだと思う。
現実味がないと言って首を横に振るのは、ブリジット・ジョーンズシリーズのルールがよくわかっていなかったのだ。

そういえば、元々が『高慢と偏見』の二次小説的なものなのだ。ダーシーに花を持たせるに決まっている。

それで、私が特にブリジット・ジョーンズファンではないけれどなぜ観に行ったかというと、ダーシー役のコリン・ファースが好きだからです。

生真面目役のコリン・ファースは恰好よかった。
江南スタイルを楽しそうに踊っているブリジットを見るダーシーは、なんとなく『高慢と偏見』の舞踏会のシーンを彷彿とさせた。
妊娠を告げられた時に、一回席を外していたけれど、きっと廊下でにっこりしていたに違いない。叫びたい気持ちを押し殺したかもしれない。少し経って戻って来たダーシーは無表情だった。一瞬冷静さを欠いた様子が可愛かった。

また、最後の結婚式のシーンで、バージンロードを歩いていたブリジットの手をとって小さく「Hello.」と言うシーンの優しい声色が本当に素敵でした。

『ザ・ギフト』



ジョエル・エガートン監督作品。アメリカでもスマッシュヒットしたというので期待してました。監督だけでなく脚本も書いていて驚いた。もちろん出演もしています。

気味の悪い人が贈り物をしてくるというので、サイコスリラーものかなとも思ったけれど、ちょっと違う。ひねりがきいている。

ただ、ビクッとさせる演出はあった。私は椅子からちょっと体が浮いてしまったし、近くの席の人は「わっ!」と声が出てしまっていた。苦手な人は注意したほうが良さそう。

以下、ネタバレです。






贈り物というのは、基本的には善意に基づいているため、いただくと嬉しいものである。ただ、一度ならともかく、何度も何度も、しかもそんなに親しくない相手からとなると、何か見返りを求められているのかなとか、裏があるのかななどと勘ぐってしまう。
また、教えたわけでもないのに家を知られているとなると、次第に不気味にもなってくる。

引っ越してきたサイモンとロビン夫婦と隣人とまではいかないけれど近所に住む知り合いのゴード。ただ、知り合いとは言っても、ゴードはこちらのことをよく知っているようだったけれど、サイモンはよく覚えていないようだった。学生時代の知り合いとのことだった。

そんな相手から過剰に贈り物が送られてくる。しかも、見計らっているのかいないのか、日中、サイモンが仕事でいないときに家にやってくる。
悪意はなさそうだけれど、夕飯に混じってこようとしたり、なんとなく家に招き入れないといけないような空気を作ってくる。こちらが少し迷惑に思っているのはわからないのか、単に人付き合いが下手なのか距離感がわかっていなように見えた。
そのような常識の通じない相手は何を考えているかわからない部分もあって、付き合わないで済むならばあまり付き合いたくない。

多数の贈り物と訪問からは執着心のようなものも感じて、その理由がわからないだけに気味が悪かった。
招待された家も豪邸で、人物と家が合ってないだけにいかにもあやしく見えた。二階には子供部屋があったり女性ものの服があったりで、この人はもしかしたらこの豪邸の住民を殺しているのではないか?と思ってしまった。

結局、運転手をやっている家の主人が留守のときにそこを家を偽ったようだが、なぜ見栄を張る必要があるのか。しかも、この訪問時の出来事がきっかけで亀裂が入り、夫婦の家が盗まれるなど、やはりと言っていいのか、不気味なことが起こり始める。

この辺まではよくあるサイコスリラーだと思う。ゴードは『過去のことは水に流そう』という手紙が届く。ここで、ロビンはゴードとの過去についてサイモンに聞くが、教えてはもらえない。

当然ロビンとしては気になるからそのことについて調べ始めるが、そこでサイモンの過去が明るみに出る。過去だけではない、明るみに出たのはサイモンの本性だ。

サイモンはロビンに内緒でゴードのことを独自に調査していた。ロビンはその書類をサイモンに叩きつける。部屋に帰っていくロビンの背中と、叩きつけられて頭を抱えるサイモン。別々の場所にいる二人を一緒に映すカメラワークがおもしろかった。撮影は『フランス組曲』『シングルマン』のエドゥアルド・グラウ。
思えば、ロビンは最初から威圧的な態度をとるサイモンに何か違和感があったようだったけれど、これで決定的に悪い印象になったのだと思う。
そして、それは映画を観ている人の目線も同じである。

サイモンはゴードの元へ謝りに行く。ゴードは誰も聞いていないような飲み屋で催されているクイズ大会の司会をしていた。少しおどけた格好をしているのも悲しい。これは今まで隠していたゴードの真の姿であり、それを見たサイモンにも道場が生まれるのだと思っていた。そして、過去を謝罪し、和解…という流れになるのだと思っていた。

けれど、サイモンには謝る気は全く無く、ここへもロビンに行けと言われたから来ただけだなどと言う。しかも、逆ギレをして、ゴードのことを蹴っ飛ばしていた。
結局、この人は何も変わっていないのだ。過去のゴードに対しての態度も、若気の至りなどではない。
仕事でも汚い手を使う、妻に対しても常に上に立とうとする。サイモンについて知れば知るほど、悪い印象が強くなる。性根が腐っている。

映画を観ている側は最初は主人公だと思っていたサイモンに怒りをつのらせ、ゴードの味方をしたくなってくる。視点の転換の誘導が鮮やかである。

終盤、サイモンにとって念願の子供を授かる。途中でゴードが出てくるかとも思ったが、何もないまま出産をする。そこでサイモンが改心するのかと思った。
しかし、ここでサイモンにとって一番残酷な手法がとられる。中途半端な場所から落とすよりも、一度天に昇らせてから落としたほうが落差でダメージが大きくなる。

まず、子供が生まれて幸福の絶頂のときに電話がかかってきて、汚い手がバレて会社から解雇を告げられる。加えて、妻からも離婚を言い渡される。

そして、家に帰るとゴードからの贈り物が久しぶりに届いている。出産祝いである。ただのベビーベッドかと思いきや、中には1、2、3と書かれた個別の包みが入っていて、そこには写真、音声、映像が。盗撮、盗聴…、すべて監視されていた。

また、妻が倒れた際に、家にあがりこんでいた。
まさかこれは、生まれた子供が実は…のパターンかなと思ったらもっとひどい。レイプをするのかと思っていたが、そんなショッキングシーンはない。わざと映像を切るのである。
いっそ自分の子ではないとわかったほうがまだいい。どちらだかわからないのが一番タチが悪い。

結局、サイモンがなすすべなく病院で一人きりで座り込んで頭を抱えているシーンで映画は終わる。バッドエンド…ではないのだ、これが。映画を観始めたときには考えられなかったことだけれど。

ゴードを演じたのが、本作の監督、脚本のジョエル・エガートン。ハの字眉が気弱っぽく、いい感じに気持ちが悪い。最近は俳優さんで監督をやることも多くなってきているけれど、うまさを感じた。次回作も期待。

サイモンを演じたのがジェイソン・ベイトマン。コメディで見慣れてるから意外な気がしたけれど、裏表がなく正義感の強い男に見えた。最初は。けれど途中から、表情が威圧的に見えたり、口をへの字にして煽るような表情に腹が立ったり…。印象がガラッと変わった。

サイモンの妻ロビンはレベッカ・ホール。長身でショートカット。サバサバしているだけかと思っていたが、途中からは意志の強さも見せる。

言い方がおかしいかもしれないが、ただベストキャスティングというだけではなく、全員、役によく合った顔をしていると思った。



ジョン・ル・カレの小説が原作。エグゼクティブ・プロデューサーにも名を連ねていた。2010年刊行なので、最近の作品だった。

良い邦題だと思ったけれど、小説も日本ではこのタイトルだったみたいなので、良い仕事をしたのは映画の人ではなく、出版の人だったらしい。

監督はベネディクト・カンバーバッチの『パレーズ・エンド』のスザンナ・ホワイト。
ユアン・マクレガー、ステラン・スカルスガルド、ナオミ・ハリス、ダミアン・ルイス、マーク・ゲイティスとキャストも豪華。

以下、ネタバレです。







ジョン・ル・カレなので、一応スパイものだけれど、そこまでゴリゴリのスパイものではなかった。脇役というか、巻き込まれる大学教授、ロシアンマフィア、MI6の三つ巴といった感じ。
また、ダミアン・ルイスは『Homeland』と『ウルフ・ホール』からなんとなく印象が悪かったので、今回もどうせ犯人だろと思っていたけれどそうゆう話ではなかった。今までは食えない役が多かったけれど、良い役でした。ラスト付近でエプロンをしながら料理している様子は可愛かった。
そういえば、同じジョン・ル・カレ作品の映画化『裏切りのサーカス』でスマイリー役のゲイリー・オールドマンも慣れない料理をしていた(映像特典にて)。両シーンは原作にあるのだろうか。

普通の大学教授ペリー(ユアン・マクレガー)がロシアンマフィアのディマ(ステラン・スカルスガルド。ちょっと大げさだけれど、ロシア訛りの英語を話している)が偶然レストランで知り合う。ディマのMI6に情報提供する代わりにイギリスへ家族と一緒に亡命させろという希望を叶えるために、ペリーが尽力することになる。

最初、ペリーは相手がロシアンマフィアということで、恐怖心からしぶしぶ従っていたのだと思う。テニスの誘いだって、別に得意なわけではないし、接待のような形で受けていたのだろう。

ところが途中から二人の間に奇妙な友情が芽生えてくる。これはペリーがいい人すぎることもあるだろうし、ディマの家族思いで豪快な人となりのせいもあるだろう。もちろんその人柄を、ステラン・スカルスガルドとユアン・マクレガーが完璧に演じているのがいい。
一歩間違ったら、ディマが映画の中でずっと悪者になってしまう。ペリーが気が弱いだけの人物なら、悪い奴に脅されながら、嫌嫌付き従い、後半で逃げ出すかもしれないし、それが叶わなければディマを殺してしまうかも。この映画では二人の関係は殺伐としたものにはならない。

ペリーは自分から進んでディマとディマの家族を助けていた。後半では、いつか、ロンドンで一緒にテニスをやろうという約束もしていた。そこで、ディマが「ウィンブルドンで!」という冗談を言うのも二人の良い関係が表れている良いシーンだった。
また、二人で話しているシーンで一回だけペリーが顔をくしゃっとさせて笑うシーンがある。ユアン・マクレガーはだいぶ歳をとったので笑うと皺も目立つのだけれど、その顔はとても素敵だった。けれど、それと同時になぜか泣きそうになってしまった。
なんとなく、未来がないというか、約束は叶わないのがそこでわかってしまった。

この映画、序盤に人が残忍な方法で殺されるシーンとセックスシーンもある。序盤に過激な映像を見せておくことで、映画内で何が起こってもおかしくないことが示唆されていると思った。ちなみに残忍な方法で殺されるのはその最初のシーンだけであり、セックスシーンもそこだけである。

様々な妨害と困難を乗り越えて、ようやくディマの乗ったヘリコプターがロンドンへ向けて飛び立つ。そこで、ペリーが乗らなかった時にもとても嫌な予感がした。
飛び立ったヘリは爆破されたのか、砲撃を受けたのか、煙を上げてくるくるとまわりながら落ちていく。派手な爆発などしない。ヘリに乗っている人物が焦る顔も映らない。静かに、けれど確実に殺されてしまったのがわかる。

映画中、何度も、亡命なんてうまくいかないのだろうと思っていた。ペリーだけでなく、MI6のヘクターも尽力していたけれど、結局上司(マーク・ゲイティス)には許しがもらえてなかった。
けれど、ああ、それでもハッピーエンドなのだなと思った時に、それが打ち砕かれる。やっぱりという思いもあり、絶望感もあった。

そして、マネーロンダリングに使われる銀行も何事もなかったようにロンドンにオープンし、イギリスの議員でもある裏切り者ものうのうとのさばったまま…。日常は変わらない。無力感だけが残る。
そんな虚しい終わり方なのかと思ったら、ディマが文書を残してくれていたという…。

その発見方法も粋だった。ディマの形見とも言える銃をペリーがヘクターに渡しに来る。ヘクターは「これで自殺しろってことか?」と笑って冗談のように言っていたけれど、一人残った時に銃と向き合っていて、本当に自殺してしまうのかと思った。けれど、ヘクターはなにか、逆らえない大きなものに向かってなのか、銃を構える。そこで、中に入っていた丸めた紙に気づいたのだ。
そこにはマネーロンダリングに使われる銀行口座と名前が書かれていた。これで一網打尽にできる。

本当だったら、ディマも生きてイギリスに亡命できたらよかっただろう。ディマは居なくなってしまった。ほろ苦さは残るけれど、それと同時に爽快さも感じられるラストだった。
ジョン・ル・カレ原作ものは『裏切りのサーカス』と『誰よりも狙われた男』しか観ていないけれど、ほろ苦さは共通している。

今回、主演の二人はもちろん良かったんですが、ダミアン・ルイスが役柄もあってとても良かった。スマイリー三部作みたいな感じに、ヘクターシリーズ出てほしい。

あと、ディマの妻、タマラ役のサスキア・リーヴスもとても良かった。マフィアの妻らしく、最初はツンとしていたんですが、ディマにネクタイを結ぶシーンでは少し叩いたりとディマよりも強い気丈な面の見えた。ディマが一人ロンドンへ飛び立つ前には長いキスをして、ちゃんと愛情のあるところも見えたし、ヘリ爆破の一報を聞いた後には、みんなから離れた場所まで駆け出して声をあげて泣いていた。劇中ではほとんど喋らないし、出番もそんなに多くないのですが、どんな人物か完璧にわかったし、印象深いキャラクターだった。


リブート版(クリス・パインがカーク艦長役)三作目。
『スター・トレック』と冠してあると、過去作を見直さなきゃいけないのではないか…と考えてしまい、ハードルが上がってしまうかもしれないけれど、過去のスター・トレックシリーズはもちろん、リブート版の過去二作を観ていなくても楽しめる。
単体で、構えず軽い気持ちで観ても大丈夫だと思う。
もちろん、知っていると楽しいという隠し要素もあったのだと思います。

以下、ネタバレです。








狛犬のようなエイリアンを見上げながら、カーク艦長が何やら交渉をしているシーンから始まる。声も低いし、勝手に大きいサイズを想像していたら、交渉が決裂して襲いかかってきたのは子犬サイズのエイリアンだった。命の危険は大量に襲いかかってくるため鬱陶しい。結局、二、三匹連れたまま転送されて事なきを得る。
このコメディ風味のオープニングで本作のカラーが大体わかった。

軽快なやりとりや軽口のたたき合いが今まで以上に多い。これは、脚本にサイモン・ペグが関わっているからではないかと思う。しかも、だいぶ彼の色が多く出ていると思った。

別の星に墜落し、機体ばらばら、クルーは一部捕虜になってしまい、それ以外の無事だった人たちもばらばらになってしまう。
しかし、クルーをばらけることで、キャラが見えやすくなるし、少人数の方が会話も楽しめる。

また、捕虜の奪還作戦においては、少人数が役割分担をし、エンジニア、医者などその人が自分の仕事をこなすということで、現在よくある形の個人がそれぞれ精一杯のことをするお仕事映画でもあると思った。

これはこれでおもしろいのですが、陸上戦でもあるため、少しこぢんまりしてしまっているかなとは思った。

この後、宇宙に出て行って、混乱させて敵の連携を崩すために大音量で音楽を流すという作戦を立てる。かなり盛り上がるシーンである。ここで何を流すんだろうと興味津々だった。そこで、「ビートと叫びよ」と言って、プレイボタンを押して流れ出したのは、ビースティ・ボーイズの『Sabotage』! 他のどの曲にも間違えようがない、あのめちゃくちゃかっこいいイントロ! 思わず映画館のイスに座り直してしまった。
これ、予告編で使われなくて本当に良かったと思う。サプライズでこの曲がくるからこそ効果がある。
ここまで、おもしろいけれどちょっとスケールが小さいかな…と思いながら観ていたけれど、最高の場面で最高の曲が流れ、本作の私的評価が一気に上がった。

戦闘は宇宙からコロニー内に入っていく。ここで出てくる都市がリングの内側に住居があるというか、重力が無視された上も下もない空間なので、そこを飛ぶのは狭いせいもあるけれどスリリングだった。

敵の正体は結局、かつての宇宙探査船の艦長だった。カークと同じ立場である。カークは本作で冒頭から悩んでいて、艦長の座を退こうとしていた。けれど、悩んだ末に悪の道へ進んでしまった元艦長を諭しながら、自分をも諭していたのだと思う。

この元艦長役がイドリス・エルバでびっくりした。謎の物体に包まれながら宇宙空間へ消えていき、あの胸に付けていたバッジがぽつんと残るという最期だったけれど、より凶悪な姿となっての再登場もあるのだろうか。

カークは今回の旅と戦闘を終えて、悩みを克服し成長した。最後には「次の旅に出るのが楽しみだな!」というようなことも言っていた。
それと同時にスポックも序盤はもうやめるというつもりでいたようだった。彼は亡くなった父に想いを馳せていた。
元祖スポックを演じていたレナード・ニモイが去年亡くなったが、亡くなった父の写真というのもレナード・ニモイであり、作品内で発せられた追悼のメッセージでもあったのだと思う。

そして、本作の公開直前にはアントン・イェルチンが亡くなっている。
最後のカークの誕生日パーティーでカークが乾杯の前に、「そして亡き友に」と言っていて、一瞬、アントンのことかと思ってしまったけれど、映画内で亡くなったクルーたちのことである。アントンは元気そうに、グラスを傾けていた。パーティーでもロシアジョークで女性を口説こうとしていた。

亡くなったなんて信じられないと思っていたが、最後に、“レナード・ニモイへ”という言葉が流れ、その後に“そして、アントンへ”と流れた。本当に残念でならない。



タイトルではわかりにくいけれど、リブートではなく、ボーン三部作の続編。
主演はマット・デイモン、監督は『ボーン・スプレマシー』、『ボーン・アルティメイタム』のポール・グリーングラス。

最初の『ボーン・アイデンティー』が2002年、『ボーン・アルティメイタム』ですら2007年公開であり、鑑賞したのはもっと後だったとも思うけれど内容はほぼ忘れてしまっていた。
本作を鑑賞した後、三部作を見直してみました。

結果、内容を忘れたまま、ボーンと一緒に記憶を辿る旅に出ながら観るのも楽しかった。けれど、ボーンの大体の素性とCIAとの関係くらいはわかっていた方が混乱しないかもしれない。

以下、ネタバレです。三部作についてのネタバレもあります。









一緒に記憶をさぐっていくとは言っても、『ボーン・アイデンティティー』で出てきた時にはまるまる何の記憶も無かったボーンですが、本作では色々と思い出してきている。私よりも事情がわかっているようだった。

CIAに作られた殺人マシーンというのも観ているうちに思い出したので、最初は、ボーンはCIAに属しているのかいないのか、そもそも、ボーンが主人公で善だとすると、CIAは本作では悪になるのかなどがよくわからなかった。
けれど、善悪というよりは、ボーンは元はCIAに属していたけれど、記憶を失ってからは過去を捨てたいと思っていて、もう戻りたくないと逃げ、CIAがそれを追いかけるという構図でした。

また、今旬の女優、アリシア・ヴィキャンデルがCIAの新人職員として出てきて、ボーンを影で手助けしていたので、きっと二人は恋仲になるんだろうなと思っていたらそうではなかった。

そもそも、ヘザー(アリシア)が接触を図ってきて、ボーンがヘザーのことを調べた時に、ヘザーの顔はそっちのけで経歴に注目していた。美人ですが、顔写真はパソコン画面でスクロールされてしまっていたのだ。
ボーンが顔なんて見ていないというのがわかる良い演出だと思う。

ヘザー自体も色仕掛けなど使わないけれど、ボーンも全くなびかないし、事態が収まってもキスなんてしない。
ヒロインとも違って、男でも女でもどっちでもいい役だったと思う。

結局、ヘザーも良心というよりは野心で行動していたのがラスト付近でわかって、これは小さなどんでん返しだと思うんですが、しかし、ボーンはそれすらも見破っていた!という大きなどんでん返しが控えているのが素晴らしい。
どこへともなく、一人去っていく背中が小さくなり、“お馴染みの”テーマ曲のイントロが流れてきて私は全てを思い出しました。

そうだった、共通のテーマ曲があるのだ。それがキメのシーン、思わずニヤリとさせられるシーンの後でイントロがかぶるように流れ出して、エンドロールが始まる。まるで連続ドラマのようだ。
同じ歌が始まって、そうだ、こうだったこうだったと思い出したので、音楽の力の強さを痛感した。

気になって見直した過去三部作ですが、ボーンの父親のことが過去作にも出てきているのかなと思ったけれど、今回初めてだったっぽい。あと、ヴァンサン・カッセルとかトミー・リー・ジョーンズとか豪華だけれど、今回初めて出てきていた。
ヴァンサン・カッセルは字幕では“作戦員”となっていたけれど、過去作でいう工作員なのだと思う。工作員という言葉が何らかの事情で使えなかったのか、はたまた誤訳なのかは不明です。そもそも、作戦員という言葉があるのかどうかもわからないけれど。

本作ではヴァンサン・カッセルが作戦員(工作員)、トミー・リー・ジョーンズがCIA長官だったけれど、過去三部作でも、工作員をクライヴ・オーウェンやカール・アーバン、CIA長官をクリス・クーパーやブライアン・コックスが演じていたりとそれぞれ豪華。

改めて過去作を観てみると、CIAがボーンを追い、ボーンは逃げるが仕向けられた工作員と戦うことになる。ラストはまた一人、影の中へ消えていくという流れが同じであり、それは、本作にも引き継がれていた。
あと、カーチェイスがある。

本作のカーチェイスは工作員がSWATの装甲車を盗んでゴリゴリ走っていく。公道で普通の乗用車が蹴散らされていてパワーがものすごかった。しかも、そのままカジノに突っ込んでいく。そんなだから、車はどんどん壊れていく。

このシーンだけではないのだけれど、ポール・グリーングラス監督の特徴でもある手持ちカメラが多用されている。特にカーチェイスから殴り合いのシーンは、酔いはしないものの、ひと段落して画面が暗転した時に、目がほっとしていた。ちょっと疲れました。

一作目の『ボーン・アイデンティティー』の別パターンのエンディングがDVDに収録されていたので観たのですが、マリーの元にボーンが戻ってきて、長い長いキスをして、その周りをカメラがぐるぐる回って、感動的な音楽が流れているというロマンティックすぎるものだった。
採用されたのは、マリーの経営するレンタルバイク店にボーンがふらっと現れる。マリーは驚きながらも、レンタルの会員証を作りますか?みたいにわざと客に接するような態度をとると、ボーンが「身分証?持ってないんだ」と言うという、記憶をなくした男という面もちゃんと出しているし、ベタベタしすぎないし、完璧な終わり方だった。
ここでボーンのキャラが決定づけられたのではないだろうか。

マリーは次作の冒頭で殺されてしまうけれど、その先、ボーンは誰も信じない、ほぼ笑わない。硬派な一匹狼である。それは、9年ぶりに公開された本作でも同じだった。
つまり、ボーンを演じるマット・デイモンが、変わらず恰好良いのである。




イギリスの古典文学、ジェーン・オースティンによる『高慢と偏見』(1813年)の世界にゾンビをミックスした作品。この原作も小説です(2010年)。

両方とも原作は読んでいません。1940年のローレンス・オリヴィエ版も未見。
1995年のドラマ版は観たのですが(過去の感想『高慢と偏見』)、2005年の映画版『プライドと偏見』は観ていなかったので、今回予習として観ました。

以下、ネタバレありです。
『プライドと偏見』についてのネタバレも含みます。









ダーシーがどこかの家(ベネット家ではない?)で、普通の人間に紛れていたゾンビをあぶり出して退治するというシーンから始まった。こんなシーンはもちろん、本家にはありません。なので、名前だけ本家と同じにして、ダーシーというゾンビハンターが活躍するストーリーなのかなと思った。

しかし、このアバンが終わり、オープニングが入って本編が始まると、「ビングリー邸に若い殿方が越してきたわよ」と母親が本編と同じセリフを色めき立って言う。ただ違うのは、それを聞いている5人姉妹がみんな銃を磨いているということです。この子たちも、ゾンビを倒すための訓練を積んでいる。

続いて、ビングリー邸の舞踏会へ参加するのも同じなのですが、ドレスの下にナイフを忍ばせている。

舞踏会でビングリーがジェーンを見初めるのも一緒、エリザベスがダーシーと会うのも同じである。
しかし、舞踏会にはゾンビが乱入してくる。それを5姉妹が中国で習った少林寺拳法を駆使して倒すのだ。クラシックな衣装のままやるのが面白い。
この、5姉妹がばったばったとゾンビを倒していくシーンが痛快だったし見応えがあったので、後半にもう一回くらいあると良かった。前半のここのみです。

話の流れは大体同じだし、名セリフはちゃんと残されている。コリンズ氏のプロポーズを断ったエリザベスに母親が激怒し、父親に「あなたからもなんとか言ってやってくださいよ」のシーンの「プロポーズを断ったら母さんと絶縁、受けたら父さんと絶縁だ」というセリフ。また、ダーシーとエリザベスの甘い言葉のやり取りの長いシーンが、二人で手合わせしながらになっているのも面白かった。

また、ドラマ版の『高慢と偏見』で話題になった水濡れダーシーのシーン。『プライドと偏見』にはなかったんですが、本作ではわざわざ加えられている。ちゃんと白いシャツに着替えていたけれど、飛び込んだ池が苔だらけですごく汚くて笑った。押さえるべきところをちゃんと押さえられていて、本家へのリスペクトを感じる。

基本的には『高慢と偏見』なんですね。でも、途中途中でゾンビが乱入してくる。だから、タイトル通り、まさに『高慢と偏見とゾンビ』だった。

キャサリン夫人は、ドラマ版でも映画版でもキーキー言ってて怖かったんですが、本作ではとてもかっこいい。伝説のゾンビハンターみたくなっていた。黒い眼帯姿です。

いとこのコリンズ牧師はベネット家の遺産相続人なんですが、ベラベラ喋るわ空気を読めないわで、憎めないところはあるけれど、結婚するとなるとちょっと…というキャラクター。ただ、場が和むというか、作品中で一番愉快なキャラクターでもある。
本作にも出てくるのかなと思っていたら、なんとこれがマット・スミスで驚いた。でも、マット・スミスは出てくるの知っていたし、途中まで出てこないからもしかして牧師なのかな…と思っていたら、本当に牧師で笑ってしまった。

『プライドと偏見』ではコリンズ牧師をトム・ホランダーが演じている。ダーシーと並んだ時にちんちくりん(165センチ)で、これはとてもかなわないなというのが見て取れる。
ただ、マット・スミスは182センチである。ダーシーを演じるサム・ライリーは185センチとそれほど変わらない。
元々マット・スミスが好きなこともあるけれど、ペラペラと喋る様子もキュートに見えるし、このコリンズ牧師なら全く問題なく結婚できると思ってしまった。

後半のリディアとウィカムの駆け落ちの後は、ゾンビ問題を片付けねばならないのでオリジナル展開だった。まあそうなるかなとは思うけれど、ウィカムが原作よりもかなり悪者です。
映画版『プライドと偏見』ではジェーンとエリザベス以外の姉妹にはほとんど触れられていなかったが、本作もほとんど出てこないし、見せ場(?)である駆け落ちもなんとなく問題が片付く感じでちょっとかわいそう。舞踏会でピアノを弾いて怒られるシーンも本作には出てこなかった。
だからこそ、ますます五人で戦うシーンがもっとあったら良かったのになあと思う。

悪役ウィカムを演じているのがジャック・ヒューストン。『キル・ユア・ダーリン』でジャック・ケアルックを演じていた(ちなみにウィリアム・バロウズを演じたベン・フォスターの出演する『インフェルノ』の公開ももうすぐ)。

ラストというかエンドロールのあたりのあれは、続編があるということなのでしょうか? それともあれはあれで終わりなのかな。原作だとどうなっているのだろう。

『高慢と偏見』にうまくゾンビが混じっているし、アイディアはとても面白いけれど、ゾンビ映画としてはどうなのだろう。別に怖くはないです。グロさもない。ゾンビ自体もゾンビというより大怪我をした人みたいに見えるし、コミュニケーションを取れたりもする。 知恵も使っていた。走ってくる。一応、脳は食べていたけれどゾンビっぽくはなかった。

パロディ元の『高慢と偏見』を知らずにこの作品をいきなり見た場合はどう思うのかわかりませんが、元の作品がよくできたラブストーリーだし、ラブストーリー部分はわりと忠実だと思うので、この作品だけ観ても伝わるのではないかと思う。けれど、ドラマ版か映画版、どちらかを観ていた方が楽しめる部分も多くあった。

個人的にはドラマ版が好きです。原作があるものだし、時間の関係もあるのだと思うけれど、映画版はドラマ版の総集編のように見えてしまった。
あとやはり、ドラマ版のダーシー、コリン・ファースがとても素敵です。








ポーランドの巨匠、イエジー・スコリモフスキ監督の新作。
『エッセンシャル・キリング』の監督であり、ロマン・ポランスキーの『水の中のナイフ』のセリフも書いている。
最近では『アベンジャーズ』にも出演し、俳優としても活躍している(冒頭のナターシャを尋問しているロシア人役)。

5時から5時11分の間に登場人物たちの間に起こる出来事を視点を変えながら描く群像劇。

以下、ネタバレです。









登場人物が多い作品であり、時間とカットがかなり細かく刻まれているので、観ている途中で図を描きたくなる。また、ホットドック屋の主人が「世界で一番長いホットドックは何センチでしょうか?」みたいなクイズを出すシーンがあり、その後ろを別の登場人物が通りかかったりしていて、なるほど、これとこれが同じ時間なのねというのがわかったりもする。わかったりもするが、やはり混乱もするので、図を描きたくなる。

登場人物全員がちょっと不穏な雰囲気になっているので、殺人でも起こるのかなと思ったけれど起こらない。最初に出てくる登場人物の、妻がホテルの個室でのオーディションに出かけてしまい嫉妬する夫も、ホテルの部屋の前で死にそうな顔をしてウロウロしていたけれど、別に妻が殺される危機ではない。せいぜい貞操の危機である。妻の貞操の危機というのも大変だとは思うけれど、そこまで必死になることかなとも思ってしまった。

ただ、部屋の中では監督が駆け引きをしながら妻を誘っているし、ホットドック屋の主人はどうやら学校で何かやらかして捕まっていたようだし、バイク便の男は家で留守番をしていた人妻と何かしていたところを夫に見られそうになるし、ゴンドラに乗って建物の修復をしていた男はその建物の一室の女性とポルノ映画を見ているし、少年は質屋に盗みに入って主人の首吊りを見てしまうし、パンクファッションの女性は元彼の部屋を燃やすし、救急隊員は部屋になかなかたどり着けないし、外で絵を描いていたおじいさんの絵には黒いシミが付いてしまうし、全体的に不穏なのだ。

おじいさんの絵もそうだけれど、登場人物の何人かは空に黒いシミを見ていた。監視カメラには謎の黒い点が付いていて拭いても消えない。不穏さと相まって、何か悪いことが起きそうな予感だけは漂っている。

11分間というのは中途半端なようだけれど、監督としては「単純さとシンメトリの美しさに魅かれた」とのことだった。
10分ではなく11分というのが実はミソで、人は10分を境というか合図にして行動を起こす。キリがいいから。
そして、その結果、全てが破滅する。

群像劇というのは、最後に奇跡が起こる場合が多い。その奇跡で、最後は丸く、平和に収まるじゃないですか。全員とは言わないまでも、ほとんどの登場人物に平穏が訪れる。一人一人ではどうにもならないことでも、袖振り合うも多生の縁ではないけれど、出会わないはずの人と偶然出会って、事態が解決する。

けれど、この映画の場合は、奇跡が全て悪い方向に作用する。
夫がホテルの部屋に突撃する。消火器を持っていて、それから泡が出て、見事に転ぶ。監督は具合の悪くなった妻を介抱しようとベランダでお姫様だっこをしていて、それに向かってすっ転んだから、監督も妻も落ちていく。落ちる途中で、ホテルの建物の修復をしていた男性のゴンドラを巻き込んで一緒に落ちていく。男性の手にはバーナー。下に落ちて、大爆発。下を走っていたのは、盗みの少年とパンクの女性、シスターと絵描きの老人が乗ったバスと、バイク便の青年の後ろにホットドック屋の主人が乗ったバイクと、妊婦と救急隊員を乗せた救急車。
登場人物が奇跡的に一同に会し、その全員が巻き込まれた。

呆然としてしまった。群像劇でこんなラストってあるのだろうか。

この事故現場が無数の監視カメラの映像に紛れる。無数のありふれた風景の中、最後にはドット抜けのように、黒いシミになっていた。何も特別なことはない、よくあることだとでも言うように。

黒いシミと合わせて、何か、登場人物の罪と罰みたいな話だろうか。私が知らないだけで、キリスト教の何かなのかもしれない。
登場人物が7人で七つの大罪だったかなと思ったけど、嫉妬が一人と、色欲が多数みたくなってしまったので違いそう。それに、シスターや救急隊員たちは別に罰せられるようなことはやっていない。

監督のインタビューでは、「悪夢の積み重ね」とか「いつ事故に巻き込まれるか、我々は少し先のこともわからない」という話をしていて、キリスト教は関係なさそう。

アバンは、携帯カメラとかパソコンのカメラ、刑務所の監視カメラを使ってのファウンドフッテージで、スクリーンサイズよりも小さく、黒い枠ができてしまっていた。これもなんだか不穏だったのだけれど、監督の話によると登場人物の墓地なのだそうだ。死んでしまっても、これらの映像は残り続ける。映像の中では彼らは生き続ける。文字通りの後から見つかった映像ということだった。墓地なら不穏なのもわかる。

また、犬(監督の飼い犬だそう)目線のPOVがあったり、登場人物の正面にべったり張り付くカメラ(アクションカムの自分撮り?)など、流行りの映像手法が取り入れられていて、とても78歳とは思えない感覚に驚く。
最後のシーンも落ちていく人物を上からという撮り方が面白かった。恨みとかではなく、驚いたような表情で落ちていくんですね…。表情と、空中でおかしな形に曲がった足などをとらえる。
クライマックスのようなシーンだったので、ここを映画の最初に持ってきて、ここに至るまでの過程を描く映画にするパターンはよくあると思うんですが、そうしなかったのは正解だと思う。最後の衝撃が全く違う。

また、音も不穏だった。低い位置を飛ぶ飛行機の轟音がなんども出てきて、落ちるんじゃないかなと不安になる。
街の様子をぐるりと一周見渡す映像では、車の音や人の声など街のノイズが鳴って、無音になり、またノイズが鳴って…と交互にやられ、これも不安になった。と同時に、なぜか『ハイ・ライズ』を思い出した。あれも、何かわからないけどモヤっとした気持ちになるのは同じだった。
ただ、どちらも嫌なんだけれどクセになるというか。スカッとして明るい気持ちになる映画ばっかりではありきたりで楽しくない。このタイプはこのタイプで好きです。


2009年1月に実際に起こったUSエアウェイズ1549便不時着水事故を描く。
監督はクリント・イーストウッド。『アメリカン・スナイパー』に続く実話。
ほぼ全編IMAXカメラで撮影されたとのことで、IMAXで観ました。IMAXが観られる状況ならば、オススメです。

以下、ネタバレです。









バードストライクにより左右のエンジンが停止、機長のサリーは飛行機をハドソン川に不時着させ、乗客155名全員を救う。
最初は救うまでの話なのかと思っていた。けれど、予告編を見ると、救った後で機長が容疑者になったと言われていた。さらに予告編だと、妻が「私はあなたを信じている」というようなことを言っていて、どうやら飛行機事故の後の話なのだなと思った。でも、アクション映画ならともかく、このような人間ドラマで、なぜIMAXカメラで撮影したのかなと思っていた。

サリーにかけられた疑いは、ハドソン川への不時着は乗客を危険にさらした、離陸した空港へ戻るか、他の空港へ着陸した方が良かったのではないかというものだった。国家運輸安全委員会によって、問い詰められていた。

私は単純だから、誰も亡くなっていないのだし結果オーライで今更そんなこと言わなくてもいいじゃないかと思っていた。
サリーだって簡単な決断をしたわけではないから、街中に墜落する悪夢を見たり、空母に乗っている戦闘機を見ると、それに自分が乗って命からがら着陸することを考えてしまう。PTSDになりかけているのだ。
それなのに、外部の人間が安全な場所から言いたいことだけ言う姿には憤りを覚えた。

公聴会のシーンは別にIMAXでなくてもいいんですが、サリーの悪夢の中の墜落シーンは音の迫力もさることながら、大きな飛行機が落ちていく様は大きなスクリーンだとより映えて怖い。
また、悪夢だけでなく、事故の様子もサリーが思い出しているという形で映像が出る。
飛行機からの映像と、飛んでいる飛行機を外側からとらえる映像。どちらも素晴らしかった。川に不時着し、水しぶきが上がる様子も大きいスクリーンならでは。
また、飛行機だけでなく、ヘリや救助するボートなど、いろいろな乗り物が出てくる。それが川に浮かんでいるところを遠くからとらえた映像も、テレビや小さいスクリーンでは見応えがないだろう。
通常版を観ていないからわからないけれど、IMAX版との画角の違いでも見え方が違うと思う。

もっと人間ドラマ寄りのものを想像していたし、妻の出番も多いのかと思ったけれど、妻とは電話をするだけで戻って抱き合うこともしない。もちろんサリーの心の支えにはなっていたとは思うけれど、重点は置かれていなかった。

後半にも公聴会のシーンがある。その中で、参加している全員でブラックボックスの音声を聞くシーンがある。登場人物は音声を聞いているだけだが、サリーと副機長は実際にその場にいたし、状況をありありと思い出す。そして、観客にも映像で見せる。208秒間の緊迫した状況。

公聴会の前にサリーが事故のことを思い出しているシーンでも不時着から救助までが描かれるが、ここでは機内や乗客の様子を中心に描かれていた。
その前に、少しの乗客について、家族との関係などを描くことで、155人がモブではなく、ちゃんと心の通った人間だと示されているのがうまい。ほんの少しの時間でも、乗客について描かれていると、キャラクターに親しみが湧いて、死者が出ていないというのはわかっているのに、より緊迫感が増す。また、自分も機内にいるような気持ちになってしまった。「大丈夫ですよ」と安心させるように言っていた客室乗務員の方々が、本当に危機の時には「衝撃に、備えて!」と声をそろえて言っていた。

それでも、慌てているのは乗客たちだけで、客室乗務員や副機長は冷静な対応をしていた。
また、管制官の男性もトラブルがあった1549便をなんとか救おうと必死になって導いていた。ボートで助けに来た方々も迅速に対応していた。

もちろん、タイミングが重なって、155人が救われたのは奇跡的な出来事だったのかもしれない。サリーも腕が良かったのだとは思う。でも、それだけではなく、その場に居あわせた人々が自分の仕事をそれぞれの場所で必死に、けれど冷静にこなしたことでの結果でもあるだろう。

この、人々がそれぞれの持ち場で仕事をする感じから、『シン・ゴジラ』や『オデッセイ』を思い出した。公聴会とか会議のシーンが割と多く、ウェットな描写が少ないのも『シン・ゴジラ』っぽい。

乗客の描写を入れることでモブに見せないというのもうまいなと思ったけれど、同じ不時着シーンが繰り返されても、外からの描写とコックピットの中だけの描写と、描き方が違うと見え方が違ってくるという構成がうまい。さすが、クリント・イーストウッド。しかも、96分とコンパクトなのもいい。
時間が短いから、サリーが家族の元に帰る様子まで入れることもできたのに、おそらくわざわざ抜いている。多分、入れたとしても、どこかで見たような映像になるだけだから別にいいやと思ったのではないだろうか。大成功だと思う。

トム・ハンクスが人格者の役にハマるのは、『キャプテン・フィリップス』や『ブリッジ・オブ・スパイ』でも明らかである。今回もとても良かった。冷静に、誰よりも冷静に努めようとしながらも、脈拍はいつもの倍、悪夢も見る。ジョギングで道路に飛び出してしまったりと、見た目よりも相当堪えている男を演じていた。
また、副機長役のアーロン・エッカートもすごく良かった。最近はアクション映画への出演が多く、『エンド・オブ・〜』シリーズの大統領もそれはそれで好きだけれど、初期のような演技も見たかった。今回、だいぶ痩せていて、どちらかというとどっしりした印象の機長の隣りにいるとひょろっとしていて頼りなくも見える。けれど、事故の時にも、機長の隣りの席で同じように生きるか死ぬかの状況を味わった。機長のことを一番わかっているのは彼である。もちろんサリーの判断を責めることはなく、どんな時にも一緒に反論して、サリーの味方になっていた。サリーが一人きりだったらもっとおかしくなっていたかもしれないし、副機長に救われた面は多いと思う。いい役でした。




佐藤泰志による函館三部作の三作目。映画化された一作目の『海炭市叙景』は観ていないのですが、『そこのみにて光輝く』は観た。ただ、三部作と言えども、函館が舞台というだけで、似てはいない。
ただ、(海を越えるとすぐに青森とは言え)函館の端っこ感とかどんづまり感は同じかもしれない。

以下、ネタバレです。








ラブストーリーならば、恋に落ちる瞬間が描かれているものが好きである。
本作ではポスターなどで、オダギリジョー演じる白岩と蒼井優演じる聡が恋仲になるのはわかっていた。だから、二人が初めて目があった時、出会いの瞬間、何かが変わるのかなと思っていた。だが、そこでは恋に落ちず。

その後、スナックで再会したときにもここかな?と思ったけれど、ちがった。その後でお店から二人で一緒に帰ったときかなと思ったけれどそこでもなく。

その後、夜の動物園でギャーギャーという鳥の騒ぐ声の後で空から大量の鳥の羽根が降ってくる描写があった。それについて、あとで説明があるのかと思ったけれど特に無かった。雪に見立ててるのかと思ったけれど、季節が違っていた。大量の白い羽根が降ってくるのは綺麗だし夢のようだしロマンティックだから、聡か白岩の心象風景をファンタジーっぽい映像で見せたのかと思った。けれど、その後で聡が羽根を持っていたので、現実だったっぽい。鳥の喧嘩かなにかだったとしても、あんなには抜けないだろう。

まあそれでも、ロマンティックだったし、これで本格的に恋に落ちたのだろうと思ったら、聡が理不尽であったり正論であったりする文句をヒステリックに叫び出す。
最初に鳥の求愛を体現していたときに、ちょっとエキセントリックな女性だなとは思ったけれど、夜の動物園で鳥の求愛を取り入れたバレエのようなダンスは美しかったしまあいいかと思った。『花とアリス』のバレエシーンを思い出した。
だけど、このヒステリーシーンで本格的についていけないなと思ってしまった。

聡のことを可愛いとか好きとか思える(白岩目線)とか、聡に共感できるとかなら二人のラブストーリーも見たいけれども、これではもう、恋に落ちなくてもいい。ラブストーリーではなく、白岩という男の人生で良かった。聡はポスターなどには出てくるけれど、メインキャラではなく、妻と別れた白岩が一瞬惹かれそうになって、でも通り過ぎていく女性ということで良かった。やっと出会って、今度こそ運命かなと思った女性と酷い目に遭って別れ、心にまた一つ傷を負うということで終わりで良かった。
職業訓練校の中でもぎすぎすしていたし、ここの人たちとの関係とか、ここの人たちの人生を描いてくれるのでも良かった。
職業訓練校という場所柄、結構個性の強いメンバーが揃っていて、彼らについてもっと知りたかった。聡にはついていけないと思ってしまったけれど、ここにいる人たちの心の痛みのようなものは理解できそうだった。

けれども、聡が謝りに来て、お店に同伴出勤をすることになる。聡は浮き沈みが激しいということだと思うけれど、謝りにくるところとお店での態度はさばさばしていて、これならば好感が持てるのだが、ヒステリックに叫んでいるところは別人のようだった。もう映画は中盤を過ぎているが、キャラクターがまったく掴めない。

白岩も白岩で、過去にあった出来事で傷を負っていて、今はそれを隠して、適当にいい顔をして、でも他人とは距離を置きながら暮らしているようだったので、どんな人物だかよくわからない。本心を隠しているのだからわからないのは当たり前だけれど、映画の登場人物だけではなく、スクリーンの外側で観ている私にもわからなかった。

店の中で、聡のことを白岩が抱きしめたとき、今度こそ本当に恋に落ちたのだろうと思った。
けれど、その後ですぐに元妻に会っていたし、指輪を返されて、指輪をしている自分の左手を慌ててポケットに入れて号泣していた。未練なのだろうか。聡の事を好きになったのならもういいじゃないかと思う。それとも、家族と恋愛は別ということだろうか。

職業訓練校でソフトボール大会があって、白岩は聡に見に来てくれと言う。まさかここで、彼女に誠意を見せるために、タイトル通りにフェンスをオーバーするホームランを打つわけじゃないよな…と思ったら、まさにその通りになってびっくりした。こんなベタな展開でいいのだろうか。こんなに綺麗にまとめようとするならば、出会いから恋に落ちて、仲を深めて…という綺麗な展開にしてほしかった。最後だけ普通のラブストーリーのようにされても、と思ったけれど、原作のあるものだしその通りなのかもしれない。
タイトルはもちろん、ただ単にホームランという意味ではなく、フェンスを越える=心の中の柵を乗り越えて君に近づくとか、鬱屈した日常を打ち破る意味も含まれているのだろう。清々しく爽やかで、何かを振り切ったようなラストだった。
だから、すべてはこれから、恋に落ちるのもこれからなのかもしれない。映画(原作も?)で描かれていたのは、それ以前の話だったのかも。

なんとなく、ラブストーリーにしても、『そこのみにて光輝く』のような極限の愛が見られるのかと思っていた。あれくらい、ギリギリのものが観たかった。そもそも、何を考えているのかよくわからない二人だったけれど、相手を求めているようには見えなかったのだ。
原作の作者が同じだったとしても、映画の監督は違うのだし、作風が違うのは当たり前なのだけれど。でも、ちょっとついていけないなと思ってしまった聡の鳥の求愛の行動が映画オリジナルだというのはなんとも言えない。

『怒り』



吉田修一原作、李相日監督の『悪人』コンビ。
上映時間144分ですが、長さはまったく感じなかった。

以下、ネタバレです。









刑事が殺人事件の現場を調べているシーンから始まるため、考えていたよりもミステリーっぽいのかなと思いながら観始めた。

東京と千葉の房総と沖縄が舞台のストーリーが同時に進行していく。それぞれに素性のわからない謎の男が出てくるので、おそらくこの中の誰かが犯人なのだろうなと思いながら観ていた。
謎の男を演じるのは、綾野剛(東京)、松山ケンイチ(千葉)、森山未來(沖縄)。事件の指名手配の写真が映画中に出てくるけれど、この三人のいずれにも見えてしまう。顔の系統が似ている絶妙なキャスティングだと思う。この辺、原作小説だと叙述トリックを用いているのかもしれないけれど、映画だとばっちり映像が出てしまう。けれど、ちゃんと見てみても誰ともわからない感じがうまい。

三つの物語はほとんど同じ流れである。
素性のわからない男はあやしいけれど、ミステリアスでひかれてしまう。
モテモテで仕事も順調そうだけどどこか空虚感を抱えているゲイの青年。風俗嬢として働いていたけれど、体を壊し田舎に連れ戻された家出少女。波照間島に引っ越してきたばっかりで慣れない環境で生活する少女。
おそらく、ひかれる側も何か生活に満たされない部分があった。

出会って、ひかれて、あの殺人事件の逃亡犯では?と疑うタイミングも三つほぼ同時である。
この中の誰かが犯人なのだろうな。それか、三人ともただあやしいだけで、犯人はまた別にいるのか。それとも、時系列が前後していて、この三人は実は同一人物なのではないか。
素性のわからない男と出会う人物目線ではなく、刑事目線で推理しながら観てしまった。三人とものことを疑ったのである。

結局、三人のうちの一人(沖縄)が犯人で、二人は違った。違ったけれども、登場人物たちも素性のわからない男をそれぞれ疑った。殺人犯ではない人物の事も疑ってしまった。そのことで、無関係の人物を傷つけた。そして、私も疑ってしまったので同罪である。この話は警察ミステリーなんかじゃない。主題は誰が犯人かということではなかった。
更に、三つの話が進行していくと、それがどこかで関係し合う群像劇でも無かった。一つの同じ殺人事件が出てくるけれども、やりとりなどは無い。

考えてみたら、直人(東京)と田代(千葉)には共通点があった。
人を殺してはいなくても、後ろ暗いのとは違っても、ほっといてくれというオーラが出ていた。彼らは人と関わらず生きていきたいと思っていたのだ。
扉を閉じて閉じこもっていたところ、そこをこじあけるようにして、接触してきた人物がいた。優馬(東京)と愛子(千葉)だ。
直人も田代も様子を見ながら、おそるおそる心を開いていく。直人や田代にしたら、きっと、やっと心を開く事ができる相手に出会えたのだろう。しかし、二人とも、その相手に疑われるのだから、たまらない。こっちは接したくなかったのに、向こうからぐいぐい来たのに、結局こんなことになってしまう。やっぱり心を開くんじゃなかった。そう思ったと思う。

しかし、田中(沖縄)の場合は最初からフレンドリーだった。徐々に打ち解けるという過程がなかった。性格なのかもしれないけれど、何を考えているかわからない怖さがある。直人と田代のような人間味がない。

誤解がとけても、東京パートでは結局取り返しがつかないことになってしまう。謝る事すら許されない。
後から考えると、優馬の病気の母親と接するときに、直人が泣きそうな切ない顔をしていた理由もわかってしまう。
昼間も家にいていいよと言われたとき、母親に会わせてもらったとき、一緒の墓に入るかと言われたとき、本当に嬉しかったと思う。今までに感じた事の無い喜びだったろう。「信じてくれてありがとう」という言葉も、後から思い出すと胸が締め付けられる。

だからせめて、千葉パートの愛子と田代は幸せになってほしい。田代がもう一度電話をかけてきてくれて、本当に良かったと思った。田代は愛子と接するうちに、生きる喜びのようなものを思い出したのだろう。電話をかけるのも勇気がいったと思う。傷つけられるくらいなら、接しないのが一番だし、そうやって生きてきた。それでももう一度と思って電話をしたのだから、愛子が田代を変えたのだろう。
直人も、病気でなかったらもう一度優馬にコンタクトをとったのだろうか。あんな猫のような去り方をしたのも、もしかしたら直人の勇気なのかもしれない。

愛している人のことを信じていたら、こんなことにはならなかっただろう。でも、沖縄パートでは無条件で信じて、結局酷い目に遭う。それに、元々は素性がわからない人物なのだ。愛したからといって、無条件で信じるのは難しいだろう。

それに、愛しているからこそというのもある。愛子の父親は、娘の事を愛しているから、相手の素性を独自に調べた。そして、愛子に助言をした。愛子はその助言で揺れてしまい、田代を疑ったのだ。
ただ、ここも心配をするふりをして、愛子を疑っているから自分で動いたのかもしれない。

愛しているなら、何があっても相手の事を信じるというのは綺麗ごとだろう。そんなに簡単にいくわけはない。そこまで強くない。

それに、優馬も愛子も愛子の父親も、今までの生活を考えると、信じるのみでは生きて来れなかっただろう。

優馬はだいぶ生活が派手なようだったし、彼自身も騙したり騙されたりが日常茶飯事だったようだし、周囲の人間もそのような感じだった。
愛子の父親は、村の人たちの噂話で、愛子への偏見を持ってしまっていたかもしれない。狭い村での噂話は洗脳のようなものだろう。
愛子は客のどんな要望にも応えていたというのはもしかしたら信じていてそうなったのかもしれないけれど、その結果、酷い想いばかりをしたと思う。

優馬も愛子も、直人と田代と出会ってからは幸福で、まるで世界が変わったようだったろう。こんなに世界は輝いているのかと、人生捨てたもんじゃないと思っただろう。

それでも、変わらない過去はついてきて、影を落とす。
またか、と思ったのは、直人と田代だけではなく、優馬と愛子もなのだ。

愛する相手のことを無条件で信じて、なおかつ、幸せでいられたら、それにこしたことはない。
疑った優馬と愛子は、相手の事を傷つけた。傷つけられた側の気持ちを思うと苦しい。けれども、疑った彼らの気持ちもよくわかってしまって、それもまた苦しい。どうすれば良かったかなんてわからない。





カンヌ国際映画祭のある視点部門ある才能賞を受賞したルーマニアの映画。
おじさん三人が穴を掘る映画です。

以下、ネタバレです。







なんとなくタイトルや聞いていたあらすじから、わくわくする冒険活劇!みたいなものを想像していたけれど、わりとゆったりしていた。ヨーロッパの映画によくある間とテンポかもしれない。
借金がかさんで家を追い出されそうで…と深刻な様子だけれど、シリアスにならずにくすっとくる要素も入っていた。
そもそも、借金返済のために、家族が残したと思われるお宝を探すために穴を掘るという発想がシリアスにはなりえない状況だけれど。

映画の本編というか主要な部分が穴を掘っているシーンなのかと思っていたが、案外、掘りに行くまでが長かった。でも、会話が多く、コントのようなやりとりがおもしろかった。

800ユーロは貸せないけれど、上司に不倫を疑われながらも金属探知機の業者に赴き、400ユーロで仕事をしてくれる人をさがしてくる主人公。
金をとるとはいえ格安で、善意で週末に手伝ってくれた金属探知機の業者。

それなのに、掘っても何も見つからないからなのか、借金をしている当人は金属探知機の音がうるさくて頭が痛くなるとか、ぴりぴりしていて、おまけに金属探知機のおじさんを殴ろうとするなどひどかった。三人で仲良く穴を掘る話だと思っていたのに、ギスギスして、金属探知機のおじさんは途中で帰ってしまった。

掘っても何も見つかりませんでしたというパターンだと思っていた。掘っているのと違う、他の場所でも金属探知機は鳴りまくってたし、借金をしていた男はひどい態度をとっていたので、罰が下るのかと思ったのだ。

でも、金属の箱が発見される。中に入っているのが古い硬貨の場合、国の物になるため警察へ届けなければならないけれど、こっそり二人で山分けしようという魂胆だった。
けれど、箱を持ち帰る途中で警察に職務質問を受け、警察に連れて行かれる。

ここで、箱を開けてもらうために借金をしていた男は泥棒をしている友達を呼ぶんですが、その友達もよく警察に来たよなと思う。
別に悪さはしてないから逮捕はされないけれど…。周りの人に恵まれ過ぎている。

結局、中から出てきたのは古い株券で、警察に届け出なくても良いので、二人で山分けをしていた。

掘るのを手伝った主人公は、宝石ショップでこれとこれとこれと…あとこれ、それとこれと、大量に買い物をしていた。最初は奥さんにプレゼントかと思ったが、買いすぎである。
それより、こんなに買っちゃって大丈夫なのだろうかと思った。これで、実は株券が偽でした、無効です、どっひゃ〜みたいな展開があるのかと思った。
今度は主人公が借金をすることになり、借金の男が手伝ってどこかで穴を掘ってこれからもよろしくみたいな…。

けれど、特にそんな問題は起きなかった。株券の入っていた箱にアクセサリーを詰め、息子に「これが掘っていた宝物だよ」と見せていた。株券では子供には通じないから。

なるほど。主人公はきっと、息子のことを思いながら穴を掘る手伝いをしたのだろう。最初に『ロビン・フッド』を読んであげていたのもここに繋がるのかもしれない。

宝物を見て、他の子供も寄って来て、「触っていい?」などと言っていてひやひやしたのだが、「もらってもいい?」との質問に「いいよ」と答えていて、びっくりした。太っ腹すぎる。
でも、もともと宝くじが当たったみたいなものだしいいのか。これで、息子のいじめもなくなるかもしれない。義賊っぽくもある。

子供が遊具に高くのぼり、カメラがそれを追っていく。そして、カメラは空を映し、太陽を真ん中にとらえる。
映画内では音楽が流れていなかったけれど、ここでエンドロールとともに初めて曲が流れる。

野太い声からラムシュタインかと思っていたけれど、調べたところ、ライバッハの“LIFE IS LIFE”(87年)という曲だった。

宝石を配っちゃったことにびっくりして、エンドロールの音楽でも驚いた。更に、もう一つ驚いたのは、実話を基にしていたということだ。
借金の男の役の方の曾祖父や家族の実話らしい。彼が監督の友人で、監督が脚本も書きおろしたとか。
さらに、主人公の妻と息子も実際のご家族らしい。

作品のトーン自体はわりと淡々とした感じだったけれど、ラスト付近と映画を観終わった後に驚くことが連続して起きた。おもしろい映画体験でした。



どこかで悪役版アベンジャーズという書き方をされていて、DC勢マーベル勢双方を敵にまわしたなと思ったけれど、アメコミに詳しくない人にはわかりやすいとは思う。
監督は『エンド・オブ・ウォッチ』や『フューリー』のデヴィッド・エアー。

以下、ネタバレです。







原作を読んだことが無いし、マーベルだと、“ディスク・ウォーズ:アベンジャーズ”や“アルティメット・スパイダーマン”でなんとなくキャラクターを知る機会はあるのだが、DCとなるとほとんどわからない。今回の登場人物もジョーカーしかわからなかった。
『バットマン』とか『スーパーマン』シリーズなどで、個々の悪役を出してからのほうが大集合感が出るのかなとは思ったけれど、最初にスカウトするときに個々の自己紹介を交えたようなプロモーションムービーが入るのでわかりやすくなっている。
これが宣伝や予告編の通り、ポップでテンポがよく楽しかった。選曲もかっこいい。

ストーリーなのですが、悪役たちが主人公とは言っても、全員、家族とか恋人とか、大事な人を持っているので、だいぶ人間味があった。メンバーを集めるときに、「メタヒューマンのヒューマン部分が邪魔になるから悪党に任せる」みたいなことを言っていたけれど、この人らも充分ヒューマン部分が邪魔になっていた。
キャプテン・ブーメランはぬいぐるみ愛好家でそれを人質(?)にとられる展開は無かったし、キラー・クロックについても特に大事な人は出てこなかったけれど、他のメンバーは大佐を含め、全員大事な人がいて、そのせいで事が悪化したり進まなかったりと弱点になっていた。

特に、デッド・ショットは娘を溺愛していたり、仲間を大切にしたりと、正義の味方にしか見えなかった。ウィル・スミスが演じていたせいもあるのかもしれない。顔を隠すマスクも短時間しか付けていなかったから見た目も正義の味方っぽい。

ただ、本当に非情な極悪人集団だとすると、メンバー間で一人残るまで殺し合いをすることになったり収拾がつかなくなりそうだし、それこそ退治する側のバットマンやスーパーマンなどを出さなきゃいけなくなって、本末転倒になりそう。たぶん、ガラスを割ってアクセサリーを盗むくらいがぎりぎりなんだと思う。

ここにジョーカーがいたら…とは思った。前宣伝では、さも、スーサイド・スクワッドのメンバーですというような扱われ方をしていた。予告編に出てきた“Really,Really Bad.”(「お仕置きの時間だ」という字幕が付いていたと思う)と言いながら狂気の笑みを浮かべているシーンも、ハーレイ・クインになる前の女性を洗脳というか改造する前のものだった。

それで、仲間にも加わらないジョーカーが一体何をしているのかというと、恋人であるハーレイ・クインが収容所の外に出たものだから、救いに行こうとするべく暗躍している。ジョーカーにも大事な人がいて、その人が行動原理になっていた。狂気の人なのかと思っていたので驚いた。

他の人に対しては非情な振る舞いをするけれど、仲間や家族や恋人は大切にする。そして、見た目が派手。ああ、これはヤンキー映画なのだなと思った。ちょっと思っていたものとは違ったけれど、つまらないというのとは違う。

キャラクターも良かった。特にやはりハーレイ・クインですよね。マーゴット・ロビーは今まで美人だけど派手な顔で特徴はないかなと思っていたけれど、今作は本当にはまってる。表情やちょっとした動きが全部可愛い。あまりサイコパスという感じはしなかった。とにかく可愛かったし、服、髪型、メイクなどキャラクターデザインが最高。コミックス版だとピエロっぽさが強くて、なるほどジョーカーの彼女なのだなというのが見た目でわかる。

メンバーはヤンキー集団っぽいんですが、このメンバーを集めたアマンダ・ウォーラーが結局一番極悪人に見えた。集め方がまず、彼らの娘や恋人を楯にしているあたり非道。魔女にいたっては心臓を人質にとって、何かあるとぐさぐさと心臓を刺していた。
収容所から出したメンバーたちが逃げ出したらいつでも爆破できるように、首に小型爆弾を仕込んで、そのスイッチは手中におさめている。
口封じのために、同僚もためらいなく撃つ。一人ではない。複数人だ。
笑うこともない、もちろん家族など大事な人も出てこない。

この人が本作の敵ではなく、マネージャー的な役割なのもおもしろい。この先、DCの映画に三作出演するらしいので楽しみ。

エンドロール後にはブルース・ウェインと二人で会合をしていて、この二人のほうがよっぽど悪に見えた。

無事に事が済んで、でも悪人なので釈放はされず、彼らは収容所へ戻される。
この時に、クイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』の最初の穏やかな曲調のあたりが流れる。『ボヘミアン・ラプソディ』が使われた本作の予告編がとても恰好良くて、でも予告編で使った曲を本編では使わないという傾向もあるし、使われないものだと思っていた。
仲間がばらばらになり、それぞれにまた日常が戻ってくる。けれど、ケーブルテレビとかエスプレッソマシンとか、前よりは少しだけ快適になる。この一人一人の描写と曲が合っていて、このまま終わるんだろうなと思っていたら曲が止まってしまう。

そして、銃をぶっぱなしながら乗り込んできたジョーカーがハーレイ・クインを救うという…。もう、悪役ではなく、囚われの姫を救いにくる王子様にしか見えなかった。ジョーカーなことを忘れました。





2013年公開『グランド・イリュージョン』の続編。邦題に“2”が付いていないのは、シリーズ物だと敬遠されるからなのかもしれないけれど、本作は前作ありきのものだと思うので、気づかずに本作を観てしまう人が出てしまうともったいない。事情があるにせよ、“2”を付けてほしかった。
本作だけ観ても一応内容はわかるようにはなっている。けれど、本作を観た後に前作を観ても、おもしろくないと思う。

以下、前作のネタバレも含んだネタバレあり感想です。








前作を観たのが結構前なので見直しました。一番大きなネタバレはもう知っているので、途中のカーチェイスのシーンなどが、なんでこの人こんなことしてるんだろう?と少し茶番劇っぽく見えてしまった(本作を先に観ると、前作を観たときにこうなる可能性がある…)。
それでもマジックショーのシーンは、私もその会場にいるみたいにワクワクしたし、有り得ないマジックっぽくってもちゃんとタネを説明してくれるし、ド派手なわりに最後は切ないのが良かった。

ただ、大きなネタバレはもうバラされたし、結局すべては一つの復讐のために…という目的も完遂された。それで、続編で何をやろうというのか。

続編は30年前の、ディランの父親の金庫抜け失敗の事件の回想から始まる。前作に入れても良かったシーンではないかと思うくらい、前作の続きである。

結局、ディランから指令を受けてフォー・ホースメンが悪人を倒すためにマジックショーをしていたというのが前作のネタバレである。
本作も序盤で、ディランからの指令で、携帯電話会社の不正をあばくために、プレゼンテーション会場を乗っ取ってマジックショーに変える。
ホースメンが出てくるシーンは本当にワクワクしたのだが、ショーに入りきらないうちに、バレてしまい、あっという間に逃げることになる。

前作のマジックショーのシーンが好きだっただけに、すぐに終わってしまって残念だったのだけれど、逃げるために用意していたトンネルを抜けた先がマカオだった。ショーをしようとしていたのはニューヨークである。

驚いたし、映画のストーリーを効率的に進めるための、特に説明のされない瞬間移動なのかなと思った。でも、これのトリックもちゃんとタネが明かされる。結構すぐに明かされるので、結局あれはなんだったの?と、もやもやすることもなく観進められる。

ほとんど誘拐みたいな形で四人はマカオに連れてこられたんですが、そこで待っていたのがダニエル・ラドクリフ演じるウォルター。富豪であり、死んだことになっていて、彼に関する個人情報は存在しない中で隠れて悪事を働いている人物だ。悪人なのだろうけれど、愛嬌があるし、その時点では本当の悪人なのかわからなかった。
今回は彼の依頼でホースメンが動く。

彼の部下であり、わりとキーとなるキャラでメリットの双子の兄弟も出てくる。ウディ・ハレルソンの一人二役ですが、こちらには髪の毛があり、結構マシュー・マコノヒーに似ていた。『トゥルー・ディテクティブ』で共演していたし、私生活でも仲良しらしい。
少し色を黒くして、クセのある演技をしていたが、意識しているのかしていないのか。演技分けがおもしろい。

チップを盗み出すために会社に潜入するのだが、潜入自体には前作で便利すぎると思った催眠術を使うのでそれほど手間取らない。

問題は盗み出したあと、係員によって四人が身体検査をされるんですね。
チップはトランプのカードと重ねられていて、四人の間でトランプのカード(とチップ)が行き来する。
手の裏側にあったカードがぱっと表側に移動したり、髪の毛の裏に隠されたり、服の中を滑ったり。

トランプのカードが手の中で消えるというのは、多分マジックの基礎だと思うが、それが存分に楽しめた。
そんなうまく隠せるものなの?とも思うけれど、この前、大道芸人フィリップ・プティ(映画『ザ・ウォーク』の方)の番組を見ていたらタネあかしを交えながら本当にやっていたので、技術的には可能なのである。
このシーンのことかわからないが、この映画では、俳優さんたちが実際にマジックの訓練をしていて、過剰な編集は極力しないようにしているそうだ。
特に、ジャック役のデイヴ・フランコは部屋の反対側にカードを投げて物に当てることができるようになったというからすごい。
前作でも思ったけれど、マジックというのは実際に肉眼で見ないと、ほら、すごいでしょ?と見せられても疑ってしまう。映画はもちろん、テレビでも、映像でならどうにでもいじれてしまう。特に、昨今はCGの技術も進化している。
けれど、本作では、「なるべく実際のマジックを見せて、嘘がないことを見てほしかった。そのために猛特訓をした」と監督は語っていた。
マジック映画を作る上でそこを気にしてくれているのは信頼がおける。

依頼されているとはいえ、ホースメンがやっていることは犯罪だし、FBIも犯罪者集団として彼らを追いかけている。
クライム・ムービーとマジックが合わさっているのがこの映画をおもしろくしているし、オリジナリティがあるところだと思う。
だから、ショーでド派手に見せるのがこのシリーズの売りだと思っていたし、今回もショーのシーンがさぞ盛り上がるんだろうなと思っていた。けれど、派手さは無くても技術で見せるカードマジックのシーンもとてもおもしろかった。
クライム・ムービーならではの、バレるの?バレないの?のヒヤヒヤさもある。

後半ではちゃんとショーのシーンもあった。
その前哨戦のようにして、ロンドンの街角で、メリット以外の三人がそれぞれちがう場所でマジックを披露している。
ルーラに関してはちゃんとしたマジックを披露する前に退散することになるからあっさりしているけれど、アトラスとジャックに関してはここもちゃんとタネが明かされる。天気すらも操れるのだ。

そして、最後のマジックショー。騙される覚悟をしていた。それはこの映画を観るのに臨む姿勢でもある。今回も何かしらどんでん返しがあるのだろうと思っていた。
それでも、最後にぱっと目が覚めるような、世界が一気にひっくり返るような展開にはにやりとさせられるやら驚かされるやら。かなり大掛かりで、やはりド派手である。最後にあの前作と同じテーマ曲が流れると、拍手したくなってしまう。
けれど、四人(とディラン)は終われる身なので、事が済んだらさっと姿を消す。そこには爽快感が残るのだ。

ホースメンがマカオに誘拐された裏で、ディランとサディアスの因縁めいた関係が描かれる。このあたりは、一応最初のシーンでわかるかもしれないけれど、前作を観ていたほうがよくわかると思う。
実は前作で気になっていたところだったのだ。サディアスを収監することには成功したけれど、そんな復讐でディランが得たものはあるのか。そもそも、本当にサディアスが悪いのか。罪を着せて無理矢理逮捕させたようなものだし…ともやもやしていた。

今回、サディアスは敵なのか味方なのか、わからない感じでホースメン(アイ)、ウォルター一派、FBIの間を立ち回る。
そして、最後に明かされる真実…。
飛行機のマジックでスカッとした後で、やっぱりしんみりとしてしまう。でも、そのしんみりも前作とは違っている。前作で残ったもやっとした雲のようなものがすっかり拭われた。
悲しいけれど、良かったと思える。ちゃんとオトシマエがついた。
これはこの作品を観ただけでは味わえなかった感動だし、もちろん前作の最後でこのような想いは抱けなかった。
二作セットで楽しみたい。

けれど、このしっかりとしたオトシマエをつけて、作品をまとめあげたのが一作目とは違う監督というのに驚いた。本作の監督はジョン・M・チュウ。
すでに三作目の制作も決まっているとのことだけれど、どうなるのだろう。ここですっきり終わらせてもいい気もするけれど…。
ディランの父が何故金庫を開けられなかったのか。ディランは開けられたのに。みたいな部分だろうか。誰かの陰謀っぽい感じもする。
また、ホースメンの過去は今回もあまり描かれていないので、その辺だろうか。

でも、前作と今作とで、女性メンバーは変更になっているので過去編をやるのも難しいか。前作の紅一点アイラ・フィッシャーは妊娠したため、降板。
元彼女のヘンリーがいないため、アトラス(ジェシー・アイゼンバーグ)の童貞色が強まっている。前作はちょっとイケメンっぽい感じだったけれど。

ウディ・ハレルソン演じるメリットは相変わらずヘラヘラ飄々としているが、兄弟の関係では悩んでいそうだった。あと、あの見た目でバイクに乗れないのも可愛い。

前作で死んだことになっているデイヴ・フランコ演じるジャックも若造感そのままで可愛かった。カードマジックが得意ということは手先が器用で、それを生かしてスリをしていたということなんだろうな。前作からの設定なので今更ですが。

新しい女性メンバーはリジー・キャプラン。
四人の中で一番男前。でも、かといってガサツというわけではなくキュート。決してお飾りではない。女らしいところがあるようでないようである。魅力的なキャラクターだった。

前作ではマーク・ラファロ演じるディランは熱血FBIから最後に裏の顔になるところがセクシーだったんですが、今回は最初っから裏の顔である。なので最初からセクシーなのと、途中でアクションありマジックありと、今回のほうが見せ場が多いしキャラとして好きです。火も吹く。

でも、セクシーではあっても、一癖も二癖もあるモーガン・フリーマン演じるサディアスの前では圧倒的に子供だった。前作の主役はホースメンの四人ではなくディランだったなと見終わってから思ったんですが、今作ではホースメンとディランではなくサディアスだと思う。

そして、モーガン・フリーマンとマイケル・ケインと並んでると、どうしても『ダークナイト』を思い出す。車内で悪巧みをしている。
マイケル・ケインの息子がダニエル・ラドクリフという役柄で、あー、なるほどイギリス…と思った。人を殺した直後に優雅にお紅茶を飲んでいて、イギリス人っぽさが増していた。
マイケル・ケインは前作よりも開き直ったような極悪人役だった。

マカオのマジック屋の親子も良かった。ただの愉快な親子かと思ったら、ちがったのもおもしろい。
何もわかってないようで、全部わかってるのは彼らでした。良いキャラクター。

この中の誰が続投することになるのかも気になる。ただ、それによってある程度ストーリーの予想もできてしまうので、知らないままでいたい。本作を見る前にもキャストの確認がネタバレに繋がりそうだったので、調べるのは控えていた。いつになるのかわからないけれど、次回作にも期待しています。

『アスファルト』



フランス郊外の団地が舞台と聞いて、なんとなく殺伐としたものを思い浮かべてしまったのは『ディーパンの戦い』のせいだろう。
それか、最近観た『ハイ・ライズ』のせいで、どんなコロシアイ団地生活が始まるのかと思ってしまった。
タイトルから無機質でひんやりしたものを感じ取ったせいかもしれない。
または、フランス映画のイメージかも。

けれど、実際には、思っていたものとは違って、笑いが各所にちりばめられたあったか人情群像劇だった。

以下、ネタバレです。





住民たちが話し合っているシーンから始まる。エレベーターが壊れたけれど管理会社は金を出さないので住民たちで出し合おうというのだ。けれど、それに「二階だからエレベーター使わないし」と反対する人物が一人出てくる。結局、彼だけエレベーターを使わないことを条件に金を出さなくて良いということになる。いますよね、こうゆう協調性のない人。

協調性がないせいなのか、一人暮らしで特に友人などもいないようで、その後の彼一人のシーンはしばらくセリフがない。モノローグもない。
しかし、説明はなくとも、画面を見ていれば彼に何が起こったのかがわかる。

住民会議で訪れた部屋で、500ユーロを出すことをケチったばかりに、他の人たちが寝室へ移動して話し合いをしたから、その会議をした部屋にあったエアロバイクが目に入ってほしくなった。そのエアロバイクを自動で使っている最中に、寝てしまったのか気を失ったのか、とにかく足だけが長時間動き続け、結局車いすで生活することになった。
そして、車いすで団地の前にたたずむ彼を見て、観客からは失笑混じりの声が漏れていた。
因果応報というか、結局こうなるというか。

それで、住民がエレベーターを使わない時間を見計らって買い物をしに行こうとするんですが、当然それは夜中になる。
私は、フランス郊外の団地なんて治安が悪そうだし、夜中に車いすで出かけたら襲撃をされるのではないかと思ってしまった。『ディーパンの戦い』だと、しょっちゅう銃撃戦も起こっていたようだし。

けれど、夜中なのでスーパーが開いていない、忍び込んだ病院のスナックの自販機で、金を入れたのに落ちてこないで途中で詰まる…という程度の悪いことが起きるだけだった。

序盤で酷い態度をとった人物には、その後罰が与えられることが多いが、彼に与えられた罰はその程度のものだった。
そして、その後には、夜勤看護師の女性との出会いがある。
コテンパンにはしないあたりに、監督の優しさを感じた。

優しさは作品全体を包んでいる。
最近観た高層マンション映画『ハイ・ライズ』は、セックスと暴力に満ちていたけれど、この映画には一切出てこない。

治安は良くはないのだと思う。貧困問題も直接は描かれていない。けれど、壁にはスプレーの落書きがたくさんあったり、移民だったり、母子家庭だったりと、観ていれば察することはできる。治安の悪さや貧困など、外側ではなく、内側の人物について描かれている作品なのだ。

同じ団地の住民だが、直接は関わらない三編の話が同時に進行していく。

車いすの男性と夜勤看護師の他には、母がおそらく働きに出ていてほとんど家に居ない高校生と近所に越して来たかつての大女優の話。女優はおそらく60代なので、年齢は親子以上に離れている。けれど、男子高校生がどんどん女優に興味を持ってひかれていく様子が、恋愛すれすれに見えてドキドキした。

もう一編はアラブ系移民の女性とNASAのアメリカ人宇宙飛行士の話。なぜか団地の屋上に降りてしまう。地上についてすぐスタスタ歩いていたし、女性の家の電話を借りてNASAに電話をかけると「はい、NASAです」と会社のように応対され、待ち受けの音楽が『美しく青きドナウ』(『2001年宇宙の旅』で使われた)だったりと、ほとんどコントのようだった。女性の息子は服役していて、宇宙飛行士を息子のように思っているようだった。たぶん宇宙飛行士も同じように思っていたと思う。言葉が通じないながらも、ジェスチャーや“トイレット”など共通の単語を駆使してコミュニケーションをとっていく。

三編とも、人と人が出会い、打ち解けて行く話だ。私は恋に落ちる瞬間が描かれている映画が好きだけれど、このように、出会って打ち解ける過程が描かれているのもいいなと思った。

群像劇は大抵、それぞれの話で一人が主人公になるが、この映画では三編の登場人物が二人いて、二人のどちらかが主人公というわけではない。どちらの気持ちもわかり、両面で楽しめるものとなっている。彼の物語であると同時に彼女の物語でもあるのだ。

彼らはそれぞれ傷を抱えている。車いすの男性はもちろんのこと、夜勤の看護師も生活がつまらなそうだった。男子高校生は一人で起き、冷蔵庫から牛乳をパックに直接口をつけて飲む。注意する人物(母)がいない。女優も過去には活躍しても、年を取って仕事がなさそうだった。宇宙飛行士も宇宙で一人きりで孤独に過ごしていた。アラブ系の女性も息子が服役している。

そんな中で、磁石がひかれあうようにして、出会うべくして出会ったのだ。会話によって、お互いがお互いに救われる。
けれど、その出会いは一発逆転の運命の出会いほど強いものではない。
相変わらず高校生は一人で自転車に乗っているし、女優は仕事がもらえるかわからない。車いすの男性と夜勤の看護師は結局お付き合いをするのかわからない。アラブ系の女性の息子はいつ出所するのかもわからないし、着陸に失敗した宇宙飛行士の今後もどうなるのだろう。

日常はそれほど変わらない。けれど、少しずつ足りなかった何かが、満たされないながらも少し回復したのではないか。鬱々とした毎日に小さくても穴が開いて、風通しが良くなったのではないか。
運命の出会いではなくても、きっと忘れられない出会いになっただろう。

そして毎日は続いて行く。完結はしない。でも、さあ、これからだという気持ちになる。

劇中の各所で、キィーキィーという謎の音が鳴っていて、登場人物たちは「子供の泣き声」とか「叫び声」とか不吉なものを想像しているようだったが、実際には屋根の無いコンテナのようなものの扉が風で軋んでいる音だった。

そんな悪い方向にばっかり考えるな、大丈夫だよというメッセージにも感じた。やっぱり監督さんが優しい。

男子高校生役の俳優さんが気になったので、フランス人俳優さんはわからないんだよなーと思いながらエンドロールの名前を追っていて、マイケル・ピットの名前があって驚いた。アメリカ人宇宙飛行士を演じていた。私の中だと『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のトミー・ノーシスとして有名です。ハリウッド版『攻殻機動隊』にクゼ・ヒデオ役で出るとのことですが、日本人名のままなのか。じゃあ、スカーレット・ヨハンソンも草薙素子なのか。

男子高校生役はジュール・ベンシェトリ。最初女の子かと思ったけれど、胸がなかった。美形でかっこいいけれど、若いしかわいい。劇中では猫背で、やる気がなさそうで、でも60代女性に向かって挑発するような生意気な態度もとる。ぺちっと叩きたくなるようなおでこで、日本人だとタッキーとかKENN系です。

今後注目だと思いながら、公式サイトで監督さんの写真を見たら、彼もやたらと恰好良いのに驚いた。パリ郊外の団地育ち、役者としても活動をしているらしい。
そして、名前がサミュエル・ベンシェトリなのも驚いた。ジュール・ベンシェトリくんのお父さんでした。
母はマリー・トランティニャン。本当にフランス人俳優に詳しくないのでわからないのですが、出演作はいくつか知っている。彼女は2003年に亡くなっている。ジュール・ベンシェトリくん、5歳の時ですね…。劇中では父親を亡くした高校生役なのも何とも言えない。

ジュール・ベンシェトリ出演作は過去に二作あり、いずれも日本未公開とのこと。残念。



1984年公開の『ゴーストバスターズ』の続編ではなく、リブート作品となる。なので、過去作を観ていなくても大丈夫。でも、観ていると、小ネタに気づいて楽しいかもしれない。
私は大昔に観たきりですが、あの有名な主題歌さえ知っていれば、それだけで楽しい気分になれるシーンもあった。

ただ、登場人物を女性に変更して…という話が出たときに、少しどうなんだろうと思ってしまった。でも、予告編を見たら、なんとなく想像していたものとは違っていて、とてもおもしろそうだった。

あと、なぜかイギリス映画だと思っていた。ポール・フェイグ監督の風貌からイギリス人だと思っていたのと、日本ではビデオスルーになってしまった『SPY』がジェイソン・ステイサムとジュード・ロウが主演だからだ。
だから、一緒に出ているメリッサ・マッカーシー(この映画ではアビー役)もイギリス人かと思っていたし、なぜか、クリステン・ウィグもイギリス人のつもりだった。
アメリカ映画でした。

以下、ネタバレです。








IMAX 3Dで観賞。普通の3Dでも同じかもしれないけれど、画面上下の黒い部分にゴーストや、攻撃するレーザーがはみ出るという仕掛けがあり、より効果的に3Dを感じることができた。
上のあたりを自在に飛び回っていて、まるでお化け屋敷のような楽しさがあった。

ゴーストバスターズなので、ゴーストを退治するのだが、ちょっと怖くありながらも、基本的に愛嬌がある。たぶん、怖いものが苦手な人でも楽しめると思う。

大学で働きながらも、過去の幽霊研究の著書が発見されてしまい、解雇される物理学者。
高校の教室を勝手に使ってゴーストを見つける道具を作ったり研究している教師二人。やはり学校を追い出される。
地下鉄の改札係だったが、ゴーストに遭遇し、メンバーとなった女性。改札係時代はお客さんに話しかけても無視され続けていた。
四人とも変わり者ではみ出し者である。野暮ったい。けれど、四人でわちゃわちゃやっている姿はとても楽しそうだったし、観ている側も楽しかった。
ちなみに、四人ともサタデー・ナイト・ライブに出ていたこともあるコメディエンヌである。

旧作は子供の頃に観たきりだったけれど、旧作へのリスペクトはいろいろな場面で感じられた。

まず、あの有名な主題歌がところどころで印象的な使われ方をしていた。あのあの音楽がなければゴーストバスターズじゃない。

後半にタクシー運転手が、あの曲の歌詞の「I ain't 'fraid of no ghost.(幽霊なんて怖くない)」というセリフを言った後、メロディがほんのちょっとだけ流れて粋だなと思った。
そのタクシー運転手は、旧作の主要メンバーであるダン・エイクロイドだったというから、更に粋である。

旧作に出ていたビル・マーレイも出てきます。幽霊を捕まえたなんて信じない研究家の偏屈じいさん役。本人は嫌な役なら出ると言っていたらしい。

また、エンドロール後にシガニー・ウィーバーも登場。ホルツマンの師匠役。その後に、「ズール」という名前が出て来ていたけれど、これが旧作でシガニー・ウィーバーが演じたディナが取り憑かれた幽霊の名前。

他、あの有名なロゴというかマークも出てくる。地下鉄のスプレーの落書き、そして、アニメでも動く。
動き方はとてもキュートだったけれど、一転してでっかくなっていき、その様子はマシュマロマンを彷彿とさせる。あのロゴのゴーストが大きくなるのはなるほどと思う。

また、アグリー・リトル・スパット(醜く小さいじゃがいも)通称スライマーと呼ばれるゴーストも出てくる。むしゃむしゃとゴミを食べ、車に乗って暴走していた。

リスペクトというより、ポールフェイグ監督自身がゴーストバスターズをすごく好きなのではないかと思う。そうでなければ、こんなに愛情を感じる作品にはならないだろう。
ゴーストバスターズを作れて嬉しい!という気持ちが伝わってくる。ファンムービーである。

『ゴーストバスターズ』というのは誰でも知っている作品なので大作だと思うけれど、中に出てくるギャグはこぢんまりしていた。私は好きですが、わりと不評らしいという話も聞く。
たぶん、ギャグパートだけだったら日本では公開されないで、ビデオスルーになるか、バルト9の単館でしか公開されないと思う。

変な赤毛になってしまったエリンが「髪染めの箱にガーフィールドって書いてあった。猫じゃなくて、大統領よ」と言っていた。ゴーストの飛ばされる先は「わからないけどミシガン州あたりじゃない?」というのはデトロイトあたりのゴーストタウンを指しているのだろうか。

また、「マイ・キャットを連れて来ていい?」「猫?」「いや、犬。マイク・ハット」という発音で笑わせるのもアメリカンジョークなんでしょうか。その後、「正式名はマイケル・ハットなんだ」って言ってたのも含めて好きでした。

どれも、爆笑!といった感じではなく、くすっとくる。それがいいんだけれど。

ゴーストバスターズの事務所の受付役というか、事務員さん役にクリス・ヘムズワーズ。おバカなキャラだという話は聞いていたけれど、おバカを通り越して、何もわかっていないキャラだった。イラッともする。
最初に、「ロゴを考えてきたんだ!」と嬉々として出してきたやつがどれもこれも差別的で絵が下手めで、微妙な空気になる感じもおもしろかった。

でも、ケヴィンのような男性がいたら、事務所が華やかになるのもわかる。

後半では体をゴーストに乗っ取られてしまい、本当になんのために出てきたキャラなの?とかわいそうにもなった。
けれど、乗っ取られシーンのクリス・ヘムズワーズは、ああやはりアクションのできる俳優さんだなと再確認した。
アクションといえば、ホルツマンの2丁拳銃に舌を這わせてのLet's go.は予告でもやたらと恰好良かったけれど、それに続くアクションシーンもとても良かった。

エンドロールでにこにこしながら踊っているのも可愛い。文字自体も踊っていて観ている側も嬉しくなる。
やっぱり憎めない。これで好きになる人もいるのではないかと思うくらい愛らしい。

でも、これは男女逆転版なのだ。なんのために出てきたの?とか、イラッとするとか、おバカを通り越して何もわかってないは、普段ならばこのポジションにいる女性キャラに向けての印象なのだ。
そう考えるとちょっと複雑である。

体を乗っ取られたケヴィンが「女は準備が遅い、つなぎを選んでるのか?」と言ったり、序盤でゴーストバスターズあてに、「女にゴースト退治ができるのか?」という苦情メールが届いていた。これは、この映画に対する意見とも思える。
実際に私も最初は思ったし、アメリカでも差別的な発言もあったようだ。

男女を逆転させることで、ちゃんと問題提起もしているけれど、かといって、女が男を倒す話ではない。倒すのはあくまでもゴーストで、男は悪役ではない。
でもそれは、ケヴィンというキャラクターがいなかったら、怪しげな機械でゴーストを召還したホテルの従業員の男が悪役になってしまい、最終的に女が男を倒すみたいなことになってしまっていたかもしれない。話の分からない市長も男だし。
そう思うと、大して役には立っていなくても、ケヴィンがいかに必要なキャラだったかというのがわかる。

クリス・ヘムズワーズ、キャラはともかくとして、背中が大きくて体型も恰好よかった。beefcakeと呼ばれていて、マッチョという字幕になっていたけれど、もっと性的な意味合いがあるかなと思った。
コメディーとの相性が良いなあと思いながら観ていたけれど、考えてみたら『お!バカんす家族』もとても楽しそうだった。好きなんだろうな。

続編はどうなるのだろうか。あったらいいなと思う。2と言わず、3でも4でも出してほしい。
彼女らと彼にまた会いたい。それくらいいいキャラクターたちだった。

四人の女性がいて、お色気で解決♡みたいなキャラが一人もいないのは清々しいやら意外やら…と思っていたけれど、理由がわかった。
そんなキャラはケヴィン一人で充分だ…。


女性限定鑑賞会というタイトルだと思っていたけれど、会議だった。
女性限定なのはもちろん、コスプレOK、光り物OK、歓声OKという自由なものだった(最初はただの女性限定上映会だったようだけれど、庵野監督が話と違うと言ってOKになった)。

以下、ネタバレを含んだレポです。








コスプレは見た感じ、片桐はいり演じるベテラン官邸職員の小母さんが多かった。頭巾が特徴的だから目立っていたのかもしれないけれど。
あと、カヨコの方と財前統合幕僚長の方はお面+コスプレだった。
アイドルのコンサートのような自作のうちわの方々もいて、“総理、ご決断して♡”と書いてあったりも。

発声可能の応援上映は『劇場版 戦国BASARA-The Last Party-』の絶叫ナイト以来なので、五年ぶりくらいである。
その時はホールだったので予告編などはなかったのだが、今回、映画館で観てみて、予告編やCMの段階から歓声がとぶのがわかった。
セブンイレブンのCMで『デイ・ドリーム・ビリーバー』からもう大合唱である。
そして、東宝系列の映画の東宝のロゴで「東宝!」の声が上がる。

映画の最初の東宝ロゴでも庵野監督の名前でも読み上げと同時に「ありがとう!」という声も上がっていた。こんな楽しい映画を作ってくれたことに対する感謝の気持ちを伝える観客の姿を見ていると、みんなこの映画が好きでたまらないのだろうなと思う。

矢口や赤坂、尾頭ヒロミや防衛大臣など、登場人物が出るたびに歓声が上がっていたし、総理に対しても声が飛んでいた。
カヨコが苦手だったけれど、英語の部分を一緒に言ったりちゃかしながら観ていると、結構好きになってしまった。

ゴジラが血液凝固剤を口に流し込まれるシーンではイッキコールも起こる。エヴァでも使われたあの音楽では手拍子も。

キンブレなのか、わからないけれど、色のチェンジできるペンライトは、ゴジラは赤、自衛隊のシーンでは緑、ゴジラがレーザーを発するシーンでは紫になっていた。

映画のパンフレットに、「結婚指輪をするかしないか(結婚しているかしてないかではなく)も考えて一人一人のキャラを作った」と書いてあったので気にして観てみた。
防衛大臣、赤坂は指輪をしていた。森も途中で家族にメールを送っていたことからもわかる通り、指輪をしていた。
指ばかりをずっと観ていたわけではないし、右手は電話をとったり書き物をしたりと、顔の位置まで上がってくることはあっても、左手は下にあってスクリーンに入っていないことも多かった。

上映後には出演者がゲストで登場。
尾頭ヒロミ役の市川実日子、間准教授役の塚本晋也、泉役の松尾諭に加えて、シークレットで小母さん役の片桐はいりの四人。
四人とも、劇中の衣装で来てくれて大興奮。観客に向かって、泉の名セリフ「まずは君たちが落ち着け」が発せられると、更に歓声が大きくなった。

衣装だったので、役のまま出たほうがいいのか考えて、市川実日子は最初無表情を作ったような難しい顔をしていたけれど、すぐに笑っちゃって可愛かった。
長セリフも披露してくれたけれど、そのあとで、言えたぞ!というように両手を高く上げてガッツポーズをしていたのも可愛かった。

もう一つ可愛いエピソードとしては、尾頭さんをいろんな漫画家が描いたっぽいイラストが流行っている話が出たときに、松尾さんが「壁紙にしたい」と言ったら、市川さんは「家のですか?」って聞き返していて、全員きょとんとしちゃって、その後、気づいたのか気づいていないのか真っ赤になっていたのも可愛かった。

塚本さんは劇中の准教授の癖である、何か発見したときに両手をパチッと合わせるシーンが観客で合うのが嬉しいやら怖いやらといった感じだった。「打ち合わせしてるの?」とか「これは、悪夢? いい夢?」などと言っていた。映画業界に長く関わっている塚本さん(監督)をもってしても、異常な空間なんだな…。

塚本さんは、ぼそっとしたセリフ(「食べてないんだ」のあたり)を「小さい声で」と言われたので、マイクが拾えないくらい小さい声で発したら、アフレコになったらしい。
また、准教授の興奮したセリフ(「飛翔する可能性すら〜」のあたり)はおかしなテンションでやっていて、それもオッケーが出たので大丈夫なんだと思ったら、その後で、庵野監督に「普通にやってください」と言われたと。なので、あの絶妙な感じになっていて、演出がうまいという話だった。

松尾さんは、矢口(長谷川博己)と二人のシーンで歓声が上がっていて、「ムラムラした」と言っていた。
泉が矢口に水を渡す、「まずは君が落ち着け」のシーンは当日加えられたらしい。怒っている人に水を渡すにはどうするか考えて、背後の水をとって投げたら、長谷川さんは取ってくれなくて余計に怒らせたとのこと。
また、一時期で回っていた、“早口で喋らないと出てるシーンをカットする”という噂の出所は長谷川博己らしい。

シークレットゲストの片桐はいりさんは役名も無いらしい。セリフも最初は無かったけれど、あとから加えられた。台本には“絶妙なタイミングで水を渡す”と書いてあって、こんな役はあまりやったことがなかったので余計に緊張したらしい。
撮影は半日くらいだったけれど、今、大森と蒲田の映画館でもぎりをやっているので、撮影よりも長い時間『シン・ゴジラ』に関わっているとのこと。

片桐さんは大田区の出身なのだけれど、『シン・ゴジラ』のロケハンで大田区を訪れた監督だかスタッフが、入る店入る店に片桐はいりのサインが飾ってあって、役をもらったらしい。

片桐さんは「大田区は昔ながらのものも残っているいい場所なのでゴジラに壊されたのではないか」と言っていた。どうしても、オリンピックとゴジラを重ねてしまい、町を壊さないでほしいと思っている、と地元愛も窺うことができた。



奇妙な高層マンションが舞台になっている。ほぼ、マンション内の出来事のみです。
原作はジェームズ・グレアム・バラードによる1975年の小説。
監督はベン・ウィートリー。『ドクター・フー』シーズン8で監督を務めているらしい。シーズン8だとピーター・カパルディがドクター役になった最初のほうかな。まだ見ていません。
ちなみに衣装のオディール・ディックス=ミローも『ドクター・フー』シリーズで80年代から衣装を担当しているとのこと。その他、『ブルックリン』の衣装担当も彼女。もともとは79年にBBCに入社、96年にフリーランスになったらしい。

キャストはトム・ヒドルストン、ジェレミー・アイアンズ、ルーク・エヴァンス、シエナ・ミラーと豪華。

私は出演者と高層マンションが舞台ということ以外にまったく情報をいれずに観たらわからない部分も多かったので、もしかしたら、ある程度ストーリーを把握しておいたり、原作を先に読んだりしたほうがいいかもしれない。
本当は、誰が何階に住んでいるか、知っておいたほうがいいと思うけれど、その情報は公式サイトにも載っていないし、公式側が明かしていないということは知らずに観ろということなのかもしれない。

以下、ネタバレです。









マンションの形は歪である。日照の問題なのか、途中から斜めになっている。設計者のロイヤルは、「五棟作って丸く並べ、指のようにしたい」と言っていた。そのくせ、外観は建物だから当たり前ですが、無機質である。
それはCGのせいかもしれない。実際にある建物での撮影ではなく、外観はすべてCGなのだが、ひんやりしていてなんとなく不気味さが漂っていた。

その得体の知れなさから、100階建てとか通常では考えられない高さを想像していたのだが、40階建てと現実味のあるものだった。
その中で、低層階、中層階、高層階と住んでいる場所ごとに格差が生まれていた。マンションが社会の縮図である。ただ、この映画ほどめちゃくちゃなことにならないにしても、日本でも同じようなことは起こっているらしい。ためしに“高層マンション,格差”で検索してみたら、お悩み相談がぼろぼろ出てきた。

この映画のストーリーとしては、高層階の金持ちの住民がパーティー三昧な毎日を送っているが、低層階の住民は上の階の人間たちの好き勝手に巻き込まれ、電気を止められ不便な生活を強いられている。あることをきっかけに我慢の限界に達し、暴動が起きてマンション内はめちゃくちゃになる…といったところ。

観客はマンションに越して来た医者(トム・ヒドルストン)の目線で観たらいいのかなとも思うけれど、彼にしても考えていることがよくわからない部分もたくさんあった。途中まではまともに見えたが、ペンキで部屋の壁を塗り始める部分もよくわからなかったし、結局、壁に貼っていた写真の女性が姉なのかどうかも不明。あの写真がキーになるのかと思ったけれど、途中からなんの言及もされていなかった。
引っ越しと一緒に持ってきたっぽい段ボールも開封していなかったし、その中身はなんなの?と聞かれたときには、独り言のように「セックスとパラノイア」とぼそりと言っていたけれど、箱の中身がキーになることはなく、明らかにもされなかった。

もしかしたら、ルーク・エヴァンス演じるドキュメンタリー作家が観客が心を寄せるべき相手だったのかもしれない。けれど、それも、見終わって少し情報を見たから言えることだ。
まず、医者の一つ上の階(26階)に住んでいるのかと思っていた。最初、上の階のベランダから声をかけてきたからだ。でもそれは、不倫相手の部屋だったのだ。実際は妻と子と一緒に3階に住んでいた。
この映画では、何階に住んでいるかがかなり重要な位置を占めている。それは、登場人物それぞれの根幹をなすものと言ってもいいと思う。
だから、3階のところを26階と思っていたというのは、キャラクターのことを何も理解できていなかったのだ。

だから、最後に最上階で女性たちに次々に刺された原因もよくわからなかった。レイプ魔と言われていたけれど、26階の女性以外にも手を出していたのだろうか。
ただ、最上階にいた女性たちは男たちから下に見られている様子で、それに怒りをおぼえていそうな描写もあった。だから、ワイルダー(ルーク・エヴァンス)がロイヤルを殺しに来たのを助けるようなことをするのもよく理解できなかった。

また、この映画は原作と同じく70年代が舞台だったらしい。確かに、ルーク・エヴァンスはもみあげが長く、裾の広がったズボンを履いていた。けれどそれは、今の時代のおしゃれで個性的な恰好をしている人なのかと思っていた。このあたりもキャラクターを見誤っている。

時代がよくわからなかったのは、トム・ヒドルストンがスーツだったせいか、いつものトムヒにしか見えなかったせいである。髪型も現在のトムヒだった。時代がよくわからなかったのとは別に、とても恰好よかったです。相変わらずスタイル抜群。

70年代が舞台と聞くと、高層マンションが40階建てなのも納得がいく。現在ではそれほど高くなくても、70年代にはとんでもない高さだろう。

登場人物では他に、医学生(?)の自殺の理由もわからなかった。医師(ラング=トム・ヒドルストン)が「脳に云々」と余命宣告のようなことをしたからだろうか。そもそも、それすらも本当かわからない。それくらい主人公のことが最後まで信用しきれてない。
ラストのモノローグで、「診察が必要な人が多そうなので、マンション内で開業しようと思う」と言っていたけれど、お前が仕組んだんじゃないよね?とも思ってしまった。
また、散乱していた黒いゴミ袋の中身は、やっぱりマンション住民の死体だったのだろうか。

ストーリーは暴動を境に前半と後半に分かれると思う。前半はどこかぴりぴりしていて、取り繕われている印象もうけたが、それでもおすまししているというか、新しい生活の始まりという雰囲気だった。戸惑うことは多くても、そのうち馴染むだろうという希望があった。
ただ、主人公の部屋の生活感のなさが気持ち悪くもあった。

最上階の金持ちはベランダというか屋上庭園のようなところで馬を飼っていて、それも妙な感じだった。その部屋に行くプライベートエレベーターが総鏡張りなのも怖い。合わせ鏡で自分の姿が何人も映っている。

度重なる停電や、おむつをつまらせるな!とダストボックス係に起こられるなど、少しずつ綻びが出てきて、亀裂が広がっていくのが見えるようだった。

そして暴動が起きてからは、マンション内は荒れに荒れる。殺しはもちろん起こる。マンション内のスーパーマーケットでは食料が不足し、自分の妻と食料を交換する者も出てくる。一気に文明のない頃に戻ったみたいになっていて、最上階の金持ちたちはみんな裸でパーティーである。犬も殺して食べる。

前半との対比は面白かったものの、おそらく低層階と高層階との争いだったのだとは思うけれど、誰が誰と戦っているのかがいまいちわからなかった。
女性たちが集まって子供と身を寄せていたのは低層階の人々だったと思う。ただ、ワイルダーの妻は3階なので低層階の人間だが、最上階で産気づいて、高層階の人間に出産を手伝ってもらっていた。ただただ暴力的だったので、低層階は赤子もろとも全員死ねくらいの感じかと思っていたのに。

前半はひんやりした感じ、後半は血なまぐさい暴力。登場人物の行動の理由がよくわからない部分も多く、話もわかりづらかったけれど、映像から受ける印象としては全体的にとても邪悪なものだった。悪夢的というか。
原作も読んで、ちゃんと理解してみたい。




一応『ターザン』の続編にあたるのだと思う。
いつ以来の続編なのだろうと思ったら、2013年にアニメで作られていたようです。一番最初の映画が1918年でその後、映画やテレビシリーズなど含め、50作品くらい作られているのに驚いた。有名なキャラクターではあるけれど、そんなことになっているとは。

ターザン役にアレクサンダー・スカルスガルド。ジェーン役にマーゴット・ロビー。
サミュエル・L・ジャクソン、クリストフ・ヴァルツも出ています。
監督は私的にはジョン・シム出演のドラマ『ステート・オブ・プレイ』『セックス・トラフィック』のシリーズディレクターであり、世間的にはハリーポッターシリーズの監督で有名なデヴィッド・イェーツ。

以下、ネタバレです。





本作が原作や他の作品を基にしているのかどうかはわからないけれど、ターザンは本名のグレイストーク卿ジョン・クレイトンという名前で、英国貴族として、イギリスで政治にも関わっているようだった。そこは独自性があっておもしろかったんですが、ジャングルへ行ってからはなんとなくどこかで観たような、ありきたりなストーリーになっていたのが残念。

無理を言ってついてきたヒロインが、悪者にさらわれる。ターザンは助けるために奮闘し、悪者を倒し助け出してヒロインにキスをする。
ヒロインの美貌に悪者があわよくばと近づいていくのもよくある要素だ。
もう、最初にヒロインが無理を言ってターザンについてきた時点で、絶対に足をひっぱることになるんだろうなと思った。そして、やっぱりさらわれてイライラしてしまった。

最初、サミュエル・L・ジャクソンが悪者かと思ったけれど、すごくいい奴でした。ターザンと一緒にジャングルを駆け抜けて一緒に戦う。けれど、ターザンのような能力はないので、いちいち驚いたり苦労したりする、観客目線のキャラクター。
どちらかというと、こちらがヒロインっぽくもあった。
ターザンと言えば、植物の蔦を使って木から木へ飛び移るアクションが有名だ。その時に、背中に女性がしがみついている画像もよく見かけるが、あれをサミュエル・L・ジャクソンでやる。

そう考えると、ヒロインは二人もいらないのではないかと思えてくる。捕まった女性を助けるために奮闘するわけではなく、ただ単に悪者を倒すためで良かったのではないか。
でも、ヒロインはジェーンなんですよね。それは、ターザンをやる以上、出さないと仕方ないのだろう。

もういっそ、ターザンじゃなくて、動物を自由自在にあやつれるヒーロー物にすれば良かったのではないか。
その場その場に適した仲間(動物)を使って、危機を乗り越えるくらいの奇想天外なものが観たかった。

最後も船の爆発からどうやって逃げたのかわからない。いつの間にかヒロインの後ろに立っていて、それでめでたしめでたしと言われても雑すぎる。
ワニか水牛の助けで、どちらかの背中に乗って帰ってくるくらいのことはしてほしい。動物との絆が中途半端だった。意思疎通ができているのかいないのか。

ターザンであるがゆえに、過去のおさらいというか、回想シーンがちょこちょこ挿入される。それも、中途半端な場面で入るので、その都度、話の流れが止まってしまうように感じた。
もっと上手い方法はなかったのだろうか。

結局、事態が解決してもイギリスには帰らないようだった。
ジェーンがコンゴで子供を産んでいて、このラストにするならば、無理矢理でもついてこなきゃいけなかったのだろう。

そもそも、なんでイギリスに帰って貴族の生活をしていたのだろう。ターザンという名前で呼ばれるのも嫌がっているようだったし、最初はコンゴに行くことすらしぶっていた。行ってみたら、やはりここが俺の居場所と再確認したのだろうか。

ターザン役のアレクサンダー・スカルスガルドは途中で上半身の衣類を脱ぐのだが、その筋肉に驚いた。『メイジーの瞳』のときには優男風の印象だったし、ドラマ『トゥルー・ブラッド』での裸を見てもこんな筋肉ではなかった。この映画のために体を作ったのだろうと思う。
前半で、英国貴族のすました服装でお紅茶飲んでたけれど、そのブラウスのしたにあんな肉体が隠れていたのだと思うと興味深い。




邦画、しかもアクションは観るつもりがなかったんですが、あまりの高い評価につられて行ったらとてもおもしろかった。
私は怪獣映画や特撮にはあまり詳しくなく、ゴジラシリーズも特に観ていないです。根っからのゴジラファンが観たらどう思うかは不明。

以下、ネタバレです。









最初に出てくる東宝ロゴが昔風で、その時点でまずニヤニヤしてしまった。そういえば、『シン・ゴジラ』の昔風のタイトルロゴが一番最初に発表されたときにも同じような気持ちになった。
そして、最初に場所を示すテロップがエヴァンゲリオンを彷彿とさせる明朝体だったときになるほど、と思って、最初に出てきた未確認生物が真っ赤な体液だか血液をぶっしゃー!とぶちまけたときに、ああ、これエヴァンゲリオンでいいんだと確信した。
この最初の生物が這って出てきて、ガメラ風だったので、ゴジラが出てきてこの生物と戦うのかなと思っていた。完全にギャレス・エドワーズ版の影響です。
ところが、この生物がやおら立ち上がって、形を変える。どんどんゴジラっぽくなってくる。形態を変える様子もエヴァンゲリオンに出てくる使徒のようだったし、これを見てる官僚たちが信じられないように「進化だ…」と話している様子も、NERVのようだった。

そして、なんとエヴァンゲリオンと同じ音楽が使われていた。別にレアBGMというわけではなく、テレビシリーズを見たことがある人なら誰でも知っているBGMである。これで、今まで観てきた既視感は意識されたものだったのだと確信した。

ヤシオリ作戦という名前のヤシマ作戦に似た名前のものも出てくるし、よく考えてみたら、『シン・ゴジラ』と言うタイトルからして『シン・エヴァンゲリオン』じゃないか。

もちろんゴジラが出てくるシーンは大きいスクリーンのほうが迫力があっていい。けれど、そこまでゴジラがたくさん出てくるわけではないので、IMAXや4DXじゃなくてもいいかもしれない。
けれど、これでいいと思うのだ。どうせ邦画だとそれほどお金もかけてもらえないし(15億とのこと。これは海外だと低予算の部類)、そのせいでどうせゴジラシーンはしょぼくなってしまうのだ。
邦画のアクション映画の何がいやかって、見ごたえも何もなく、安っぽくなってしまうところだ。予算のせいではなく、単純に下手なのかもしれない。

そうなるならば、ゴジラのシーン(アクションシーン)を一気に削ってしまえばいい。
それで、この『シン・ゴジラ』は何のシーンに割いているかというと、ほぼ会議である。官僚たちがあーだこーだと話し合っている。作戦を立てている。
そんなのがおもしろいのかと思うかもしれないし、書いていておもしろいとも思えないけれど、これがおもしろいのだ。これが一番テクニックがいるところなのかもしれないと思った。

ほとんどの人物は早口で、その喋っている人を正面からとらえるカメラが次々と切り替わる。めまぐるしいし、ちゃんと聞いちゃうから集中して観る。
ゴジラはほとんど最初から出てくるから、日常シーンはなく、ずっと緊迫した状況が続いている。だから、余計なシーンが無くて映画全体が引き締まっている。

どれだけエヴァンゲリオンっぽくてもエヴァンゲリオンではないのだから、当たり前だがエヴァンゲリオンは出てこない。本来ならば、未知の生物に対してエヴァンゲリオンをぶつけるところだが、この世界には存在しない。

ではどうするか。単純な話だが、知恵を出し合うのだ。官僚も自衛隊も学者も、みんなで力を合わせて、巨大な脅威に立ち向かっていく。
「あなた…生きて帰ってきて!」みたいな直接的な表現じゃなくても、とても感動的である。こんな描き方があるのだ。
ちなみに、今まで無表情で捲し立てていた市川実日子が、事態が解決したあとにふっと笑うのがとても可愛かったです。

みんなが自分の出来ることを精一杯やる。登場人物が多く、その一人一人についての描写もちょっとだけしかないけれど、キャラクターが濃くておもしろかった。
スピンオフでもやらないだろうか。
第二、第三の使徒という感じに、第二のゴジラが攻めてきてもいい。日本壊滅しちゃうのでそれはないと思いますが。

ゴジラは東京と神奈川に上陸する。
最初の上陸は東京湾から入り、蒲田、品川と進んでいき…。進んでいくルートは映画を観ながらもリアルに思い浮かべることができる。位置関係がわかる。
二度目も鎌倉に上陸して、多摩川を越えて東京に入ってくる。わかる。
一回目の上陸のあとは、直接被害がなかったところは電車を運行させていた。「横浜まで折り返し運転をしております」というアナウンスが遠くで流れたときに、まあそうするだろうなというのがリアルに想像できた。

そして、緊急事態があったときのテレビのL字型画面。一つのチャンネルだけ変わらず、みなしごハッチを放送する様子。すべて知っている風景だ。

この有事が起こった時の既視感は、3.11の大災害を経験してるから感じるものなのだろう。あの時のことを思い出して、漠然とした不安感に包まれる。

ゴジラと言えば放射能熱線を発射したり、なにかと放射能と関わりがある。洋画だと、核兵器とか放射能の扱いはだいぶ雑なんですが、邦画ではデリケートな問題だし、扱い方によっては、不謹慎と言われるのではないかと思った。
けれど、私たちが放射能の怖さを知っていることを、うまく利点に変えて、怖さだけが助長される作りになっていたと思う。

この映画では、ゴジラの上陸が他人事とは思えない
例えば、アメリカの知らない風景やCNNのニュース速報画面を見ても、このような気持ちにはならない。日本人だからこそ味わえる感覚だ。邦画ならではなのだろう。

リアリティを追求していても、安易に流行りのPOVに逃げていないのもいい。ゴジラを下からみるショットや、最初の船の中を録画している様子など、少しは使われていたけれど、そこまで多用していないのも好感が持てた。

特撮やCGに関しては、詳しい人からはもう少しがんばってくれという声もあるようだけれど、そこまで気にはならなかった。熱戦を背中から出しているシーンは確かに安っぽくは見えた。
在来線爆弾についても、あんな動きしないと言われているのを見たが、あの、電車が蛇のように絡み付くショットは強く印象に残っているので、もうかっこよければそれでいいのではないかと思う。





実在の脚本家ダルトン・トランボの自伝。
この人のことを知らなかったので、家族を顧みない、でも才能のある脚本家の話かと思った。サブタイトルの“ハリウッドに最も嫌われた男”というのも、その原因は気難しい性格ゆえかと思った。
偏屈オヤジが家族のあたたかさに触れて改心するハートウォーミングストーリーを想像していた。

実際には、赤狩りの話だった。家族ものというよりは、社会派ドラマの面が強い。家族も重要な役割なので、家族ものとも言えるけれど、単純にそれだけじゃなかった。

予告編を何度か見て、その時には、共産主義のきょの字も入ってなかったと思ったんですが、今公式サイトの予告編を見直してみたらばっちり入っている。予告編騙しかと思っていたけれど、私がちゃんと見ていなかっただけのようです。

トランボ役のブライアン・クランストンが主演男優賞にノミネートされた。

以下、ネタバレです。関連作品である『ヘイル、シーザー!』についてもネタバレがあります。






『ヘイル、シーザー!』も同じ時代であり、題材も同じくハリウッド関係者の赤狩りである。冷戦ものと言ってもいいかもしれない。
『ヘイル、シーザー!』のほうがコメディ色が強いかなとは思う。市街地から離れた場所にある小屋の中で、共産主義者たちが隠れつつ議論をかわしていた。今から考えれば、あの人たちがハリウッド・テンのメンバーだったのかもしれない。『ヘイル、シーザー!』は実話ではないけれども、なぞらえてはいそう。
チャニング・テイタム演じるミュージカル俳優が結局共産主義者たちのリーダーであり、ソ連に憧れて、潜水艦に乗って行ってしまうが、あそこまでやるとやはりスパイ容疑がかかるというか、結局スパイになったりするのだろうか。

あの時代(1940年代後半あたり)の背景、アメリカでの共産主義者に対する弾圧をまったく知らなかったので、『ヘイル、シーザー!』も俳優は豪華だけれど、話は理解できたようなできていないようなと思っていた。けれど、『トランボ』を観た後ならば理解できることも多いと思う。

ただ、『トランボ』は社会派作品とはいっても、堅苦しさはない。逮捕されて、刑期を終え、出所後は特に開き直ったかのような強さが見えた。
トランボの飄々としていて、したたかな様子はおかしみすらある。ブライアン・クランストンがよく合っていた。『ブレイキング・バッド』の教授の印象が強いので、裏で何かとんでもない悪いことを考えているのではないかとひやひやもしたけれど、そんなことはなかった。
年齢も高齢のようにも見えるから、幅広い年齢が演じ分けられていた。もちろん、顔だけではなく演技でも表現していたとは思う。
個人的には肩にインコを乗せていたあたりのトランボが好きです。

トランボご本人は、実際にはどんな人物だったのだろう。
他の名前でもアカデミー賞はもらっているくらいだし、映画の通り、ちゃっかりしたしたたかな人物だったのかもしれない。

映画本編には、予告編に入っていた家族に対して冷たくあたるシーンもある。これだけ観ると、家族をないがしろにする人物なのかなと思ってしまった。でも、それはほんの一部であり、最初から最後まで、基本的には家族想いな男だった。

違う名前で脚本を書いていても、その別名義は家族は知っているから、アカデミー賞授賞式に出席していなくても、家族だけでわっと喜ぶ。
別にステージにあがらなくてもいい。そんなことは重要ではなく、才能が認められたことには変わりない。そして、家のソファに受賞した本人も居て、家族全員で喜びをわかちあえるという状況は逆に幸せそうにも見えた。
けれど、エンドロールで、トランボご本人による音声で、「子供に3歳の時から秘密を背負わせたのは申し訳なかった。父親の職業を聞かれても答えられないのはつらかっただろう」という言葉があった。
確かに、常に守らなければいけない秘密があるというのは大変だったと思う。ましてや小さい子供だ。自分のために子供が苦労するのはしのびなかったと思う。

でも、トランボは意志を強く持って、貫き通していた。決して、権力に屈することなく、自分を曲げていなかった。
そして、それがしっかり娘にも受け継がれていたのが感動的だった。娘は共産主義者ではなく、黒人排斥反対運動をしていたのだが、ちゃんと親のことを見ていて、自分が正しいと思ったことは曲げないというのを学んでいたようだった。

エンドロールに使われていたトランボご本人や家族の写真が、写真集にできそうなくらい素敵だった。
エンドロールを見進めると、どうやら妻のクレオが撮ったものらしい。映画内でもよく写真を撮っていたし、本当にカメラが好きだったようです。



『はじまりのうた』のジョン・カーニー監督。またまた音楽映画。
今回は80年代イギリスを席巻した、デュラン・デュラン、ザ・クラッシュ、A-haなどが多数使われている。

以下、ネタバレです。







『ブルックリン』では1950年代、本作は1980年代が舞台になっているけれど、どちらの映画でもアイルランドは同じく不況である。そして、主人公たちが、そこから抜け出そうとする。二つの映画のテーマは同じだと思う。

主人公のコナーは、貧困のために転校することになるが、その先の学校が荒れ放題。いじめを受け、校長からも疎まれる。そんな中で出会ったから、ラフィナは天使にも見えたのではないだろうか。
一目惚れをして、ラフィナがモデルをしていると聞くと、「僕のバンドのミュージックビデオに出てみないか?」みたいな誘い方をしていて、案外積極的だなと思った。
ただ、その時点ではバンドすら始めていない。相手が決まっているとは言え、モテたくてバンド始めるのと一緒ですね。

メンバーはすっと集まるし、演奏もわりとすぐうまくなるし、バンドとしてあっという間に形になる。あまりこのあたりは、映画内では重要視されていないようだ。
同じ荒れた学校の生徒のようだったし、コナー以外の子らも彼らなりの問題を抱えていたと思うのだ。赤毛だったり、黒人だったり、友達がいなかったり…。個性的っぽいのにあまり描かれないのが残念。
バンド内分裂みたいなのもなかったのかとか、ウサギを飼っている子は少し主張してたが、主人公以外の意見はあまり反映されていないようだった。
あくまでもコナー中心であり、コナーの夢(ラフィナと付き合う)のために都合良く集まったメンバーのように感じてしまった。

ラフィナは最初、すかした感じだったし、ビデオ撮影現場に現れた時も「騙された!帰る!」といったように怒るかと思った。けれど、バンドメンバーにメイクもしてあげる。ビデオ撮影にもノリノリだった。見た目と違ってこの子の性格でしょう。声もかわいい。もっと年上お姉さんかと思ったら、コナーの一つ上だった。

15歳の男の子の簡単に影響されてしまう感じが可愛かった。デュラン・デュランのビデオを見たら、作る曲も似ちゃう。
歌詞も、ラフィナのことを赤裸々に書いていて、すでに告白のようだった。でも、「このモデルっていうのは君のことじゃないからね」と隠しているのが良かった。

その他にも、ザ・キュアーの曲を聴いたあとにはロバスミの髪型にしてたり、スパンダー・バレエの『Gold』のMVを見た後にはポマードをつけて学校へ行ったりしていた。ホール&オーツの『Maneater』を聴いた後に作った曲も曲調が似ていた。いちいち影響を受けるのが可愛い。

ただ、次々できあがる曲にしてもMVにしても、ラフィナの協力があったとはいえ、すぐに形になっちゃったなとは思った。バンド関連のことでの苦労はないです。
これは、もしかしたら監督の特徴なのかもしれない。

『はじまりのうた』にしても、そんなうまくいくか?みたいなところがあったし。それか、音楽的な才能についてはある程度あるもの同士なのだろう。あと、音楽映画なのだし、曲ができない苦悩とかバンドの悩みなどはすっ飛ばさないと話が進まない。

また、そこでも悩んでいては映画が暗すぎてしまうからかもしれない。
コナーは家庭内の問題を抱えてて、学校でもいじめられて浮いていた。これで、バンドまでうまくいかなかったら救いがない。バンドやってるときくらい楽しくあってほしい。

バンド活動が上手くいくことで、学校での問題は克服しつつあり、ラフィナとも次第に仲良くなっていっていた(この辺についても、コナー以外のバンドメンバーにも上向きに働いていたんじゃないかなと思うけれど描かれません)。
それと反対に家庭内での問題はどんどん大きくなっていき、両親は離婚をすることになってしまう。

コナーにはお兄さんがいて、レコードをたくさん持っていて、バンド活動に関してアドバイスもくれて、ギターもうまく、音楽の先生のようになっていた。コナーも憧れているようだった。

序盤は学校も辞めたらしいし、長髪ひげ小太りによれよれのTシャツで、ただのボンクラのように見えていた。ただ、そこには両親との深い確執があり、長男としての責任もあったようだった。
大麻が切れたと言っていたのが本当だかわからないけれど、弟のコナーに本音をぶちまけるシーンがつらかった。
ある程度、兄が犠牲になることで、弟のコナーは好きにやっていられる。それをコナー自身はそれまでまったく知らなかった。

体育館のような場所で演奏するシーンがとても良かった。エキストラとして数人を呼んで、「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のパーティーのシーンのように指を鳴らして踊って」と言うが、エキストラの子らは映画を観たことがなく、ダンスも上手くいかない。
でも、演奏が始まれば、バンドメンバーの衣装もびしっと決まる。ステージの下にはたくさんのお客さん。ミュージックビデオの主役であるラフィナも入ってくる。両親もいて、仲良く踊っている。兄貴も髪を切って爽やかになっていて、バイクで駆け付ける。最高に幸せな空間である。
だけど演奏が終わると、元の寂しい体育館に戻る。両親とお兄さんはもちろん、ラフィナも来ない。現実をつきつけられたようだった。

ラフィナはロンドンに行ってモデルとして活動するという夢にやぶれ、アイルランドに帰って来る。
メイクと髪型のせいかもしれないけれど、普通の女の子になってしまい、年相応に見えた。けれど、まったく魅力的じゃない。
そんな彼女が、今度はコナーのバンドに逆に感化されていたのも良かった。

学校でギグをやるんですが、ここでやる曲がバラードやパンクも混じっていて、ここまでバリバリのニューロマだったので、できればそのままやってほしかった。けれど、バラードはラフィナに対する想いであり、パンクは校長批判だったので、それに合った曲を、ということだったのかもしれない。ニューロマはかっこつけ成分が強く、メッセージを強く伝えるのには向かないのかも。

コナーはラフィナと一緒に、祖父の小さい釣り舟でアイルランドからイギリスを目指す。
思いつきで行動をするのも15歳だと思うけれど、アイルランドからいちぬけみたいな感じで、残される人々の気持ちはどうなっているのだろう。

バンド仲間は? コナーがラフィナと付き合うために集められて、バンド活動もうまく行きそうだったのに、コナー以外のメンバーはアイルランドに残されてしまうのか。
ウサギを飼っていたメンバーは「俺たちを引き上げてくれ」と言っていたし、「これが最後のライブになるかも」という言葉に「いいよ」と応えていたのであれで了承したのだろうか。
いじめっこをローディーとして雇ったのだから、本当はもっと活躍させてあげてほしかったが。

両親はどうでもいいとして、お兄さんはどうだろうか?
彼自身もドイツに行こうとしてあきらめてるという話がでてきた。それは、やろうと思えばできたことだったのか、それとも長男だから無理だったのか。
コナーとラフィナを海へ連れて行ったお兄さんは「やった!」って言ってたし嬉しいのだろう。夢を託したということか。
それとも、兄も、弟の突然の行動に感化されて、これからでもなんでもできると思い、動くのだろうか。
お前だけ逃げやがって、みたいな気持ちにはなっていないことは確かだ。

あと、どれくらいの確率でイギリスへたどり着けるのだろうか。小さく立ち乗りで屋根もない釣り船である。波でも転覆しそうだった。入国はできるのだろうか。
私はそんな細かいことを考えてしまっていたが、そんなこと考えずに、好きな女の子と二人で向かうという行為自体が大切ということなのだろう。

この時に流れていた曲では、振り返るな、前を向いていけ、なりふり構うなというようなことが歌われていて、コナーを応援しているようだった。
曲調は80年代ではないなと思ったら、歌っているのが、アダム・レヴィーンでそりゃそうだと思った。『はじまりのうた』に続いての楽曲提供になる。出演はありません。

後半に出てくる曲はニューロマっぽくないものが多くて、好きだったバンドと私の音楽性の違いにより、好きじゃなくなるパターンに似ていて、少し寂しかった。
でも、前半に出てくるものは、歌詞も素晴らしいし曲も好きだった。音楽映画なのだから、曲が素晴らしいということが一番重要である。

どの曲にもラフィナを好きという気持ち、その時にコナーが考えていること、そして何より音楽が好きという気持ちがぎゅっとつまっている。瑞々しい。
聴いていて、字幕で出る歌詞を読んで、涙が出た。サントラが欲しい。



『ブルックリン』



アカデミー賞作品賞、脚色賞ノミネート。また、主演のシアーシャ・ローナンが主演女優賞にノミネートされた。シアーシャ・ローナンはゴールデン・グローブ賞でもノミネートされていて、他、様々な賞を受賞したりノミネートされたりしている。
シアーシャ・ローナン、観た後で『つぐない』(2007年)の女の子だって知って驚いた。大人になってる!

以下、ネタバレです。








エイリッシュ(シアーシャ・ローナン)は、仕事を求めてアイルランドからアメリカのブルックリンに移り住む。経済移民ですね。
慣れない船旅、慣れない生活、慣れない仕事で当然ホームシックになるが、ある男性と知り合ってからは徐々に生活や気持ちが上向いて行く。職場の仲間とも仲良くなり、仕事も順調。もちろん、男性のおかげだけではなく、慣れてきたこともあるのだろう。
順調に見えた矢先、突然の姉の訃報が入り、帰郷することになる。だけれど、一度アイルランドに帰って来ると、なかなかアメリカには帰してもらえない…という話。

最初に出てくるエイリッシュはとにかく田舎くさい。ほぼノーメイクのせいかもしれないし、服装のせいかもしれない。アメリカに向かう船の中で同室の垢抜けた女性に化粧をしてもらい、多少はマシになる。
その後も、一緒にデパートで働く仲間にも振る舞いなどを教わったり、ビーチに行くにはサングラスがあったほうがいいとか、下に水着を着ていくとか、そこでの常識を身につけて行く。

シアーシャ・ローナンが異常に化粧映えするせいもあると思うけれど、エイリッシュが劇的に洗練されて行く様子には目をみはる。

それは、彼女がアイルランドに帰郷したときに一番よくわかる。
町は変わらない。そこにずっと住んでいる人も変わらない。でも彼女だけが変わったのだ。

エイリッシュの友達は、最初のシーンで二人並んでいても、確かにエイリッシュよりも綺麗に見えた。けれど、帰郷後は田舎の美人というように見えた。主人公のほうがよっぽど綺麗だし、見映えがいいし、垢抜けている。
けれど、アイルランドの町には似合わない。

友達の結婚式がアメリカに帰る予定の日の後だったり、友達に会おうとしたら男の人がついてきたり、地元の職場を手伝わなくてはならなくなったり、なんだかあれよあれよという間に町にとりこまれてしまう。
これは、そのまま東京と地方にも置き換えられるようで、わかりやすかった。多分、地方から東京へ出てきて一人暮らしをしていて、何かあって実家に帰ったときなどに同じようなことになりそう。

もしかしたらすべては母の陰謀なのかなと思ってしまった。陰謀というのはおかしいか。姉も亡くなり、一人きりになってしまったのだから、娘なのだしそばにいてほしかったのだろう。

けれど、少しいるとエイリッシュにとってもアイルランドでの生活が順調に進み始める。
仕事も元々希望していた簿記を生かせる事務職につけた。周囲の人も優しくしてくれる。友達もいる。自分に好意を持ってくれている男性も現れた(ちなみにこれが、出ているのを知らなかったドーナル・グリーソン。最近の出演作の多さに驚く)。

もちろん、もともと住んでいた場所、ふるさとなのだし、馴染むのもブルックリンに行った時よりも早いだろう。
ブルックリンで出会ったトニーからの手紙も、最初は母が隠しているのかと思ったら、そんなことはなく、エイリッシュ自身が読まずに机の引き出しへ入れていた。自主的だった。
結婚までしたのに、そんなに簡単に忘れてしまい、目先の幸せをとるのか。

ブルックリンでの幸せとアイルランドでの幸せ。不幸な部分もどちらにもあるだろうし、だったら知っている人の多いアイルランドを選ぼうとしているのだろうか。
ぬるま湯にずぶずぶと浸かり、もうブルックリンへは戻らないのかと思った。
でもそうしたら、トニーはどうするんだろう。乗り込んできて修羅場になったりするのかななどと考えながら見ていた。

けれど、エイリッシュが以前働いていて、国を出るきっかけとなった店の店主の意地悪なばあさんにより目をさましたようだ。
人づてに聞いた話だと言って、トニーの話を持ち出す。エイリッシュもばあさんに対して「何がしたいか、自分でもわからなくなってるのね」と言っていたけれど、おそらくばあさんは良い悪いではなく、おとしいれるつもりもなく、ご近所の噂話が大好きなのだろう。噂話によって形成される狭い世界の中で、上の人には頭を下げ、下の人をこきつかい生きてきたのだ。ばあさんにとっては狭い世界の上下関係だけがすべてなのだ。
エイリッシュはおそらく、この狭い世界が嫌で、国を出たんですね。それを“思い出した”と言ったのだろう。
そして、この瞬間、誰よりもトニーに会いたくなったようだった。まるで魔法が解けたようにも見えた。

戻る船の中、甲板で初めてアメリカに向かうという女の子に会ったエイリッシュが、かつての自分の姿を女の子に重ねるのが印象的だった。最初に船で向かうときに教わったのと同じように、今度は教えてあげる。
なるほど、こうやって受け継いで行くんだ。
入国管理局で女の子は少し化粧をしていたけれど、それもエイリッシュが教えたのだろう。映像はないけれど、船の中ではかつての逆と同じことが起こったのだろうと推測されて感慨深い。
もう、アイルランドを最初に出た頃のエイリッシュではない。成長している。そして、今になると、最初に船に乗ったときに教えてくれた垢抜けたお姉さんの気持ちもよくわかる。もう立場が違うのだ。

ブルックリンに戻り、エイリッシュが壁に寄りかかってトニーを待つシーン。これが、ポスターなどのメインビジュアルになっている。ラストシーンでした。

ここの服装も本当に可愛いけれど、全体的に色づかいや服の形がレトロで可愛い。古着のワンピースが欲しくなる。
1950年代ということで、『キャロル』と同じ時代ですね。働くデパートの感じも似ていた。この頃のファッションのお洒落さも堪能できる。



『セトウツミ』



原作は漫画とのこと。漫画の一話が読める秋田書店のサイトへ映画の公式サイトからリンクがはられているので読んでみたが、雰囲気はまったく一緒だった。景色などは実際の漫画の舞台に撮ったのだろうか。

また、堺市のロケ地MAP、原作のLINEスタンプ、映画本編には入っていない短編が三つ(個人的には二つ目の『タイミング』が好きです)と公式サイトがかなり充実している。(http://www.setoutsumi.com/)

主演の二人が放課後に喋るのが主な内容である。学生なのに、学校での風景が一切無い。だらだらと喋る。
それはまるでコントのようなやりとりなのだが、そのコントっぽさは関西弁なせいかもしれない。
主演は池松壮亮(福岡出身)と菅田将暉(大阪出身)ということで、二人ともネイティブな関西弁使いである。

私はそれぞれ『海よりもまだ深く』と『そこのみにて光輝く』でしか見たことが無かったのですが、どうやら旬の俳優らしい。
もちろん、この二人のだらだら喋りだけを目当てに行ってもいいと思う。独特なテンポだし笑える。
けれど、映画の内容が喋るだけではない。コピーが“「喋る」だけの青春。”となっているけれど、彼らの青春が喋るだけなのと、映画の内容が喋るだけなのとは違うのだ。ほぼそれだけだけど。
でも、会話の内容や二人の制服の着崩し方や靴の履き方から徐々に見えてくるものを察するのがおもしろい。彼らの家族構成や二人の関係性がわかってくる。
それに、二人以外のサブキャラも抜群にいい。

監督は(私の中で)ブロマンス描写に定評のある大森立嗣監督。

以下、ネタバレです。









舞台はほぼ同じである。川辺の階段のあたりに二人並んで座っている。
一話、二話といった感じのオムニバスになっている。けれど、オムニバスと言えるほどの違いは無く、制服が夏服だったり冬服だったりと、季節が変わって行くくらいです。

最初の一話は、神妙な顔つきというのが一つのテーマになっていて、ああ、顔で笑わすようなコントを何話かやるだけなのかなと思った。

けれど、伏線的に川を見ていたおじさんに学校の怖い先輩が近寄って行って、おや?と思った。瀬戸と内海が話しているシーンはほとんど長回しというか、正面から撮っているだけだけれど、このシーンは急に映画的になる。
どうやら二人は親子で、でも両親は離婚していて、先輩はお父さんから養育費を受け取って、でも18歳の誕生日の今日が最後で…というやたらと重めの設定が急に盛り込まれる。
二人の演技が素晴らしく、泣かされてしまった。

なるほど、こうゆうスタンスかと思った。ただ、コントを撮っているだけではない。

他にも出てくる人がそれぞれいい。
中条あゆみ演じる寺の娘、樫村さんは、瀬戸が言っていたけれど、確かにわびさびも感じる美人だった。
ものすごい美人だけれど嫌味ではない。けれど、美人ゆえに浮世離れしている。他の女子高生とは違っていて、描写はないけれど、たぶん校内でも一人きりっぽかった。
本当に綺麗に撮られていた。

二人の会話の端々には家族構成が出てくる。瀬戸に関しては母親が通りかかる。まさに大阪のおばちゃんといったヒョウ柄を着ていた。母親特有の謎の文面でメールを送ってくるが、愛情を受けているのもよくわかる。
父親は失業中。だから貧乏なのに、飼い猫(三毛猫)に高いエサをあげて離婚危機。喧嘩もしているけれど、母親は父親にも愛情がありそうだった。
認知症で徘徊癖のある祖父(この祖父も通りかかる)。祖母は亡くなっている。

内海の家庭環境は瀬戸の真逆のようで、金持ちの家だけれど家族の愛情は受けてなさそう。一切姿も出てこないし、謎。内海としても親について話す内容がないからなのか、瀬戸との会話にも出てこない。

家族構成など、二人の背景がわかると、ただ話しているだけでも会話に深みが増す。どうやら二人とも、能天気に見えて、幸せな生活を送っているわけでもない風だった。

何話かやったあとにプロローグ的な0話が入る。これは、内海と瀬戸が出会う前の話なので、喋る二人ではないし、一番映画的とも言える。
内海は一人きりで、それを気にするでもなく、周囲を馬鹿にしている。話しかけてくれる同級生もほぼ無視している。

塾までの時間のひまつぶしとして、川辺に座り、本を読みながらイヤホンで音楽を聴く。目も耳も、外界の情報をシャットアウトして、完全に一人きりになり殻に閉じこもっていた。

そこにある日、瀬戸が座ってるんですね。
(「サッカー部だったんちゃうん」)という内海のモノローグが入ることから、同級生の話を聞いてないようでちゃんと聞いてるし、瀬戸の存在も認識していたことがわかる。
その後、部活をやめた原因も、同級生は噂話として話していたが、内海は聞いてないようで、ちゃんと聞いていた。

結局、瀬戸は才能がありながら、他の人のために部活をやめた。いい奴なのも内海は知っている。

内海は塾までの時間が空いていた、瀬戸は部活をやめて暇、需要と供給だと言っていたけれど、それだけじゃないだろ。
後ろからわーわー話しかけてきていた同級生だって、おそらく内海と友達になりたかったのだと思う。それは無視したじゃないか。彼では駄目だったのだ。

瀬戸なら良かった理由は、おそらく、明るく見えても影で挫折を経験しているところと、本当は優しくていい奴なところだろう。
瀬戸は、内海がサッカー部時代のエピソード知ってるって知らないんだろうな。映画では出てこなかったけれど、原作でサッカー部在籍時の話をする回ってあるんだろうか。話の核になりそうなところだし、出てこないかな。

エピローグは樫村さん目線だった。二人のだらだら会話がだいぶ楽しくなってきたので、それで終わらせてほしかった…とも思ったけれど、これはこれでいい。
外部から見る瀬戸と内海二人の様子が描かれる。

樫村さんは瀬戸に好意を持たれているけれど、内海のことが好きなのだ。もしかしたら、内海も樫村さんのことが好きなのかもしれない。けれど、気持ちに応えられないのは、たぶん瀬戸のことを考えてのことだろう。

0話は内海のモノローグもあるし、内海の考えていることはわりとわかる。でも、瀬戸に関しては本心がよくわからない。でも、たぶんそれほど深く考えていなくて、話していることがすべてなのではないかなとも思う。

もしかして、映画でよくある、実は存在しないパターンだったらどうしようかと思った。孤独な内海の作り出したまぼろしだったら…。そして、樫村さんはそれを優しく見守る女子だったら…。

でも、瀬戸は瀬戸でただの馬鹿明るい奴ではなく、家庭に問題はあるし、可愛がっていた猫が死んで号泣する優しい部分もあるし、その前に変な形で部活をやめたりもしている。これらがなかったら、まぼろしを疑ったところだ。でも、瀬戸にも悩みもあるし、人間味はちゃんと感じる。

瀬戸の悩み、内海の悩み。だらだら喋ることで二人が同時に救われている。ちょうどいい存在に思えた。やっぱり需要と供給なのか?

喋りのコントだけ見て笑うだけでもいいけれど、喋るだけの映画とは言わないでほしい。大森監督のブロマンス手腕も堪能しましょう。くだらない馬鹿話とその裏側まで見たほうが絶対におもしろい。

上映時間が75分しかない。いくらでも観ていられる。三時間くらいやってほしい。どうにでもなると思うので、是非続編制作に期待したい。