『ペーパー・ムーン』のピーター・ボグダノヴィッチ監督の13年ぶりの新作とのこと。76歳です。ちょっとタイトルというか、邦題がわかりにくい。どうしたって『マイ・フェア・レディ』と混乱するし、あっちはもう何年も残っている名作だし、この映画に関して何年か後まで残そうという気がないのではないかと思ってしまう。もちろん、『マイ・フェア・レディ』にかけたのだろうし、そんな面もなくはないけれど、原題の『SHE'S FUNNY THAT WAY』でも良かったと思う。

以下、ネタバレです。






オーウェン・ウィルソンと女性が三人並んでるポスターに“ロマンティック・コメディ”と書いてあったけれど、別にロマンティックなことにはならない。
最初だけかな…。アーノルドがコールガールであるイジーとの間に流れる空気感は確かにロマンティックだったかもしれない。二人の恋が始まりそうだった。しかし、アーノルドはコールガールを呼ぶ前に家族と電話していたし、当たり前だけれど、家族には隠していた。二人を中心としたラブストーリーにするには無理がある。

そう思っていたら、特に二人の間は進展もなく、アーノルドが発したロマンティックを匂わせるキメセリフは他のコールガールにも囁かれていたことが発覚。そこからはアーノルドの妻デルタはもちろん、イジーのセラピストのジェーンやらセラピストの恋人で脚本家ジョシュ、舞台の役者セスなどが入り乱れる。

これが本当に入り乱れるという感じで、アーノルドはデルタのことを愛してるっぽくはあるけれど多数のコールガールと関係を持っていたからデルタは愛想をつかす、セスはデルタに言い寄るが振られる、ジョシュはジェーンと付き合っていたがイジーに魅かれてしまう。なんやかんやで最終的にはセスとジェーンが恋に落ちたりする。
映画自体が93分とコンパクトな中で、目まぐるしく状況が変わり、登場人物たちも早口で、時に下品な言葉を交えながら話す。会話によって話が進んで行く様子は舞台っぽくもあるし、恋愛群像劇はウディ・アレンっぽくもある。

偶然が引き寄せた人物たちが関係を変えながらわちゃわちゃやるのは年末とかお正月っぽいお祭り感がある。でも、この季節とはいえ、クリスマスデートムービーとは少し違う。恋に落ちる瞬間は描かれていても、一貫してしっかりした気持ちを持って誰かを好きだ!という人はいないので、ロマンティックとは違うのではないかと思う。登場人物、わりと全員ロクでもないです。

ただ、ロクでもないし、とっかえひっかえだと下品なコメディになってしまいそうだけれど、こじゃれていて、キュートで、観終わった後に何か多幸感のようなものが残る。これは監督の手腕なのかもしれない。
またプロデューサーとして、ウェス・アンダーソンとノア・バームバックが名を連ねているのもいい。オーエン・ウィルソンを監督に紹介したのもウェス・アンダーソンらしい。

アーノルドはいろんなコールガールを同じセリフで口説くというロクでもなさですが、オーエン・ウィルソンだからなのか、あまりいやらしくない。
ジェーン役にジェニファー・アニストン。最近、『モンスター上司』や『なんちゃって家族』などコメディで見かけることが多いけれど、早口下品が良かった。電話の相手が自分のことしか話していないとき、電話を切った後に「me,me,me,me,me!」とうんざりしたように言うのがとても好きでした。
デルタ役のキャスリン・ハーン、最近見たな…と思ったら『ヴィジット』のお母さん役だったし、ジョシュ役の人も何か見たことあると思ったら『ネブラスカ』のウィル・フォーテだった。
このように演技のうまいしっかりした俳優さんたちを揃えているのもいい。

そして、群像劇の中でも主演と言っていいと思うけれど、イジー役のイモージェン・プーツがチャーミングでキュート。元コールガールだから肌色多めの服を着ていたり、歩き方もひょこひょこしていたり、なんとなく育ちが悪そうだったり、ブロンドだったりするけれど可愛かった。
コールガールから女優になった人物としてインタビューを受けていて、彼女が話す内容として映画が進行していくのだけれど、最後に「ジョシュと別れたんですって?」という質問に「新しく付き合ってる彼がいて、このインタビューも彼の勧めで受けることにしたの。過去のある女優はネタになるって」と答える。彼はカンフー映画好きで…というようなことを話しつつも、きっと出てはこないのだろうと思っていたら、急に登場した彼がクエンティン・タランティーノだったので、お前か!と立ち上がってつっこみを入れそうになってしまった。あれはずるい。お得意の早口セリフがあったけれど、呆気にとられていたので何を言ったのかまったくおぼえていない。でも、イジーは新しい彼と連れ立って、インタビューを受けていたバーの階段をのぼり、光の射す外へと消えて行く。彼女自体が夢だったのではないかと思われるほどの鮮やかな退場。それは、もしかしたらすべて彼女の作り話で、それもタランティーノ(エンドロールでタランティーノは役名がhimselfになっていた)の入れ知恵だったのではないかと思うほど。
でも、登場人物のその後みたいな映像が本編後に入るのでそれは無さそう。

この映画の幕の引き方が素敵で、多幸感の原因はこのあたりなのかもしれない。あと、主役が最終的には幸せになっているのだから、やはりロマコメでもいいのかもしれないし、クリスマスデートムービーとしてもいいのかもしれない。

ちなみに、タランティーノは監督の友人らしいです。



ジェームズ・ディーンと彼が大スターになる前夜に彼を撮影したカメラマン、デニス・ストックを描いた実話。あの、黒いコートを着て、タバコをくわえ、背中を丸め寒そうに歩いている有名な写真を撮った方。
ジェームズ・ディーン役にデイン・デハーン。似ても似つかないのではないかと思ったけれど、映画を観ると、不思議とジェームズ・ディーンに見えてきた。髪型はもちろんだけれど、三ヶ月で11キロ体重を増やしたらしい。横を向いたときに顎の肉が気になったが、体型を変えるために二時間ごとに食べていたとのこと。

以下、ネタバレです。実話なのでネタバレも何もないですが一応。









この映画でとらえられているのは、とてもゆったりとした時間なので、長期間の話なのかと錯覚しそうだけれど、1955年初頭のほんの少しの期間である。しかも、数ヶ月後にはこの世にはいない人物との話。実在の人物が描かれているから伝記映画ではあると思うけれど、ディーンが亡くなるシーンなどはない。同じ年の9月に亡くなっているから入れようと思えば入れられたとも思うけれど、あくまでも、ディーンの人気が爆発する直前から、カメラマンのデニスがディーンの写真を撮るまでの話。

監督のアントン・コービンがもともとフォトグラファーだからか、静謐で写真っぽい映画に感じた。これは前作の『誰よりも狙われた男』の時も思ったことだったが、その時には終盤にエモーショナルな瞬間があるからそれを生かすための作りなのかと思っていたが、作風なのかもしれない。
さすがに人物の配置などの構図が凝っていて、それがどんどん出てくるものだから、まるで写真展を見に行ったような気持ちで映画を観ていた。

あと、陰影の付け方もうまい。ディーンがこちらを向いた時、片目が影になって隠れていて、何を考えているのかわからなくなるシーンもあった。得体の知れなさやディーンの可能性の底知れなさが強調されていた。

影もそうだけれど、主演二人に関しては黒いスーツやコートという服装が多かったように思う。ジェームズ・ディーンのもともとの写真がモノクロだったせいもあるかもしれないけれど、なんとなく思い出してみても、モノクロ映画を観たのではないかという印象が残っている。故郷のインディアナの農場は雪が積もっており、その中に黒い服でたたずんでいるシーンもあった。ポスターも黒い服の二人が乗る車の色は黒である。

フォトグラファーの映画をフォトグラファーが撮っているということで、きっと監督はデニスの気持ちがよりわかったのではないかと思う。デニスはディーンの人生の瞬間を切り取った。監督もその方法を知っているから、だらだらと自動車事故のシーンなどは入れなかったのだろうと思う。

デニス・ストック役にロバート・パティンソン。デイン・デハーンも彼も、1986年うまれである。実際は、デニス・ストックが1928年、ジェームズ・ディーンが1931年と少しだけデニスのほうが年上だったようだ。いずれにしても同世代である。
それでも、二人の間に友情があったのかどうかが映画を観た限りではいまいちよくわからなかった。

デニスはいち早くディーンの才能に気づいて、写真を撮らせてくれ撮らせてくれと口説き落とすけれど、撮ってそれがLIFE誌に載ったあとは、次はジャズミュージシャンを撮るなどと言っていて、別に、ジェームズ・ディーン専属のカメラマンの話ではないのだということを改めて思い知らされた。

故郷へ同行したのだから友情は芽生えていたのかもしれないけれど、そのあと、ディーンが『エデンの東』のプレミアを欠席し、「一緒にLAへ行かないか?」と誘ったときも、「仕事があって…」と断っていた。
デニスにとってのディーンはなんだったのだろう? それこそ、彼にとっても人生の中で一瞬通過しただけの人物だったのだろうか。

写真を撮るまではストーカーのようにディーンにつきまとっていて、逆にディーンの気持ちがよくわからなかった。
実際のジェームズ・ディーンがどんな人物だったのかは知らないけれど、ぽやぽやした喋り方で、あまり人の話は聞いていない。常にマイペースといった感じで、自分のことしか考えていないように見えた。

二人の心が通い合ったのもほんの一瞬、故郷に一緒に行った時だけだったのかもしれない。その瞬間が写真として今も残っているというのが感動する。デニス・ストックも2010年に亡くなっている。

ただ、退廃的なムードはなかった。デイン・デハーンとロバート・パティンソンというなんとなく病的な印象の二人が共演となったら、もう少しなにか、ドラマティックなことがあるかなとも思ったけれど、案外淡々としていた。先行のスチルで観て受けた印象よりは何も起こらないというか。二人の距離があまり近づかなかったというか。
もちろん、『キル・ユア・ダーリン』のようなことにはならないにしても、同系列のイケメン二人を共演させているのだから、もう少し何か、少女漫画的な要素を入れてほしかった気もする。



待ちに待った新作ですが、『エピソード1/ファントム・メナス』を待ちに待ってずっこけた身としては、期待しすぎるのもあまりよくないのかなとも思っていた。それでも、一体誰のフォースが覚醒するの?などと言いながら、期待しすぎのまま観賞しました。

以下、ネタバレです。









今作を観るにあたってあらためてエピソード4〜6を見直してみて、スター・ウォーズのこうゆうところが好きなんだよなあと思う場面がいくつかあり、それがしっかりと今作にも受け継がれていた。

例えば、最初に宙に浮いた四角っぽいバイクのようなものにレイが乗っていた時、見たことのない変わった形をしていて、それだけで嬉しくなった。
喉がカラカラのフィンが象と豚を掛け合わせたようなおかしなエイリアンと水を飲んでいるシーンにしてもそう。
もう序盤からして、このテイストを求めていたと思った。

変わったエイリアンがたくさん集まる酒場が出てきたのも良かった。バンド演奏も少しですがあって、これこれ!と思いました。

今回監督を引き継いだJ・J・エイブラムスは49歳なんですが、たぶん、彼自身がスター・ウォーズの大ファンなのだろう。簡単に言ってしまえば彼のスター・ウォーズ愛がしっかりと感じられ、受け取ることができた。

エピソード1〜3だか特別編だかが不評で、ファンメイドのものが好評だったなんて話もあったけれど、その感じに似ているとも思う。同じ志を持った方が作ってくれているのだから、好きにならないわけはない。

ドロイドに重要なデータを託して放つとか、敵要塞の破壊なども旧作のオマージュなのかなとも思う。

また、予告でも号泣しましたが、ハン・ソロやレイア姫が出てくる。しかも、ハリソン・フォードとキャリー・フィッシャーなのである。エピソード6が1983年、今年が2015年。32年の時が経っている。当たり前だけれど、その分年もとっているが、その時の経過は私たちの時の経過でもあるので、ノスタルジックな気持ちになり泣けてしまう。特に、ハン・ソロがレイアを抱きしめ、愛のテーマが流れたときにはもうグッとくるなんてもんじゃない。
まあそれに、ファンメイドでありファン向けであることを考えると、違う役者さんを使うという選択肢はないですよね…。

今作の悪役というか、ダースベイダーワナビーの若者、カイロ・レンがハン・ソロの息子だとわかったとき、そして、ハン・ソロとカイロ・レンの一対一での対決が始まった時に予感はしていたけれど、やはり、ハン・ソロは息子に殺されてしまう。
一瞬、殺すなら最初から出さないでほしいとすら思ってしまったけれど、今作でハン・ソロの出番は思ったよりも多いし、ノリがそのままなので見られて良かった。もっとゲスト的な役割なのかと思っていたけれど、準主役です。

あとミレニアム・ファルコンですよね。エピソード4の時点でもオンボロとか言われていた宇宙船ですが、今作でもまた古いなどと言われている。確かに、初登場以来40年近く経っているし、古いのは仕方ないんですが、砂漠の地表にガッコンガッコンぶつかりながら宇宙に飛び立ったときには感慨深かった。

しかし、旧作からのキャラや宇宙船、オマージュなどに歓喜しつつも、新要素やキャラ、演じた役者さんとどれもとても良かったのだ。昔から好きなバンドがあって、でも最新のアルバムは好きではないので、ライブでは昔の曲をやってほしい…なんてことがよくあるけれど、最新のアルバムも好きになれるこの感じはとても幸せなことだと思うし、嬉しい。

まず、ドロイドの新キャラであるBB-8が本当に可愛かった。コロコロ動き回る様子はもちろん、影からちょこっと覗いたり、サムズアップをしてみたり、感情の表現が豊かだった。映画を観る前には新キャラが好きになれるかわからなかったのでグッズは買わないようにしていたけれど、おもちゃが欲しくなった。

レジスタンスのポー・ダメロン役にオスカー・アイザック。常々、オスカー・アイザックは目が暗いので真っ当なヒーローにはなれないのではないか…、どこかで帝国軍に寝返るのではないか…と思っていたけれど、どうもそんなことは無さそう。今作のだいぶ序盤ですでに帝国軍にとらえられていたけれど、拷問されても吐いていなかった(拷問されている姿が少しセクシーに見えてしまったのは、私がオスカー・アイザックが好きだからだと思う)。

それに、最後の要塞へ侵入するシーンでは、フィンやレイやハン・ソロが地上戦をしているのに対して、ポー・ダメロンはうまいパイロットなので宇宙でドッグファイトをしていて、うまいこと部隊を二つに分かれるという役割を担っていたと思う。たぶん裏切りません。

カイロ・レン弱すぎという意見もありますが、一番の悪役はスノークだし、カイロ・レンは父を殺したところで次作でもっと邪悪になるだろうし、今回はこの程度でいいと思う。未熟な弱い悪役として良かったと思う。演じたのはアダム・ドライバー。この人もひ弱そうというか暗そうでいい雰囲気。オスカー・アイザックとは『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』でも共演している。

ちなみにスノークがアンディ・サーキスだった。あと、エンドロールでルピタ・ニョンゴの名前が出てきてどの役かまったくわからなかったんですが、マズ・カナタ役でした。

ドーナル・グリーソンも出てるって聞いたけど出てこなかったな…と思ったら、ハックス将軍役だった。思いっきり顔も出ていたし、このイケメンは誰だと思いながら見ていた人だった。ドーナル・グリーソンは『Frank』や『アバウト・タイム』の印象が強くて、ナヨナヨっとした少し縮れた赤毛の情けない男の印象だったので、今回のようなオールバックで悪そうな役だとわからなかった。なんとなくレジスタンス側かなとも思っていた。

あと、カメオというか、言われないと気づかない関連では、レイが廃材を買い取ってもらう回収屋のウンカ・プルート役にサイモン・ペグ。CGではなく、ちゃんと中に入って演技をしていたらしい。

ダニエル・クレイグもストーム・トルーパー役で出ているとか。捕まったレイがフォースの力で「拘束を解いて、扉を開けて、離れろ」と命令するストーム・トルーパーだそう。最初、「は?何言ってんの?」みたいな感じでいきがりつつも、結局命令されてしまう役ですね。セリフもある。エンドロールのスペシャルサンクスのところに007で使われる“パインウッド・スタジオ”の名前があったのでなんでだろうと思っていたけれどそういうことだった。

また、帝国軍の中にトーマス・B・サングスターがいるらしい。もう一度観たら探してみよう。今のところ聞いたのはそのあたりなんですが、他にも誰か出ていたりするのかもしれない。

今作は主役とも言えるレイとフィンがとにかくいい。新しい主役が好きになれなかったり、旧作キャストのほうがいいと思ってしまったらどうしようと思ったけれど、二人とも大好きになってしまった。二人とも、どの場面でも一生懸命だし、好感が持てるし、なんとなく可愛い。フレッシュな魅力にあふれている。

フィンを演じたのが『アタック・ザ・ブロック』のジョン・ボイエガ。今作でも演技のうまさに感心した。特にマズ・カナタのいる酒場から自分だけが逃がしてもらうシーン。自分の弱さを認めるのが良かった。葛藤がありつつも、それでも仕方ない、自分は逃げるのだという決意。それは、幼い頃に攫われてストーム・トルーパーにされ、そこでの過酷な生活には戻りたく無いという気持ちの強さなのだと思う。一旦逃げられたんだから、もう二度と。フィンがこれまでどんな目に遭ってきたのかが、そのシーンだけでしっかりとわかるのだ。

レイを演じたのはたぶん新人さんなのかな。でも、彼女もとてもいい。
砂漠の星、ジャクーで誰かを待っている少女。でも、突然フィンが現れて、手を引いて逃げる。レイはたくましく生きているけれど、そのままでは何も動かない。無理矢理に手を引っ張られて、新しい世界へ冒険へ出る。物語が動き出す。
もうこのシーンだけで、物語の、スター・ウォーズ新作の導入部分として完璧だった。ワクワクしてしまう。

後半、カイロ・レンとのチャンバラシーンがある。雪に突き刺さったルークのライトセイバー。それを自らの元にたぐり寄せようとするカイロ・レン。ライトセイバーが浮き上がり、ああ取られてしまう…と思うと、その後ろにいるレイがそれをがっちりと掴む。アツすぎる。まるで、ライトセイバーが後継者を選んだかのようだった。

そして、サブタイトルにもなっている、フォースが覚醒する時に、レイが着ている服が、今までただの砂漠の民のような衣装にしか見えなかったのに、しっかりとジェダイの胴衣に見えるのだ。素晴らしい。

最後も、レイは眠っているフィンにしばしの別れの挨拶をしていたので、ジャクーに帰るのかと思っていた。けれども、もう物語は動き始めている。彼女がチューバッカと向かったのはルークの元だった。
今作は行方知れずになっている伝説のジェダイの騎士、ルークを探す物語である。新スター・ウォーズは三部作なのはわかっていたし、レイがとらえられていて、フィンたちが助けに行くぞ!みたいになっている場面で終わってしまったら、中途半端すぎてどうしようかと思っていた。
けれど、一応一段落し、レイがルークにライトセイバーを渡そうとするところで終わり。もうこのタイミング以外ないだろうというシーンで“続く”になる。
振り返ったマーク・ハミルがルークにしか見えなかったのがすごかった。風格があった。『キングスマン』の教授はただのくたびれた爺さんみたいな感じだったのに。さすがである。
ルークはライトセイバーを受け取るのだろうか。それともレイに託すのだろうか。続編が本当に気になるし、わくわくした状態のまま待てる。

ルークは、自分の弟子であるカイロ・レンが父であるハン・ソロを殺したことをフォースの力で多分知っている。カイロ・レンは自分の師匠であるルークと祖父であるダースベイダーが戦ったことも知っているのだろうか。ダースベイダーが祖父であることは知っているみたいだったし、そのことも知っているのかもしれない。
どちらにしても、ルークは責任をとりたがったりけじめをつけたがったりするのだろうと思う。
父と息子、師匠と弟子、エピソード4〜6から連なる因縁。同じことが繰り返されていて、ストーリー的にもグッとくる。そして、やっぱり、ハン・ソロは死なないと話が進まないので仕方なかったのだ…。でも、ハン・ソロとルークの再会も見たかった。残念。

そこで問題になるのが、レイは誰の子供なのかというところだと思う。たぶん、彼女がジャクーで待っていたのは両親だと思う。一瞬だけ子供時代の映像が出ていたので、もう一度じっくりと見たい。
フォースが強いので、おそらく、ルークかレイアのどちらかが親なのではないかと思う。最初、ハン・ソロとレイアの子供は双子という噂も出ていたが、そんなそぶりはなかった。レイはハン・ソロを父親のように思っているというセリフがあったけれど、本当に子供だったらそんなセリフもないように思う。

残された謎は今後明らかになっていくのだろう。妄想しつつ、続編を待ちます。


2014年公開。インドでは2012年公開。
邦題の雰囲気からインドのご婦人がニューヨークに行っててんやわんやするカルチャーギャップコメディなのかと思っていたら違った。
確かにニューヨークへ行っててんやわんやはするけれども、そこまで単純に笑い飛ばせる話ではない。

ニューヨークへ行くけれども、ニューヨークの人との関わりはほとんどない。人はたくさんいても、その中で一人ぽつんと孤独になってしまう感じ。それは、私自身も英語が出来ないまま単身ロンドンへ行ったことがあるのでそこでも感じたことだ。映画の序盤で出てくるカフェでの出来事ほど酷い目には遭わなかったけれど、気持ちはよくわかる。

人種のるつぼと言われるアメリカ、その中心であるニューヨーク。そこで、よそ者たちを集めたサークルとして、短期の英会話スクールが使われていたのがうまい作りだと思う。
ベビーシッター、美容師、タクシー運転手、料理人…みんな外国からアメリカに来た人たちで、英語ができないことで疎外感をおぼえながら暮らしている。英会話の先生自体はアメリカ人でも、ゲイなので、同じような疎外感はおぼえているのだろう。

主人公のシャシは、インドで“保守的”に暮らしていたから、最初、単身でニューヨークへ行かなければならなくなったときにも、息子を連れて行こうかしらなどと言って不安そうだった。
けれど、英会話スクールに申し込んで、仲間と出会って友情が芽生えて…。
インドでは女性差別が問題になっている。おそらく、日本以上に地位が低いのだろう。そこで専業主婦をしていたシャシが、外国で誰に言われたわけでもなく、新たな扉を自分の手で開いた。だからこそ得られたものも大きかったし、変われたのだろう。

結婚式でたどたどしいながらも英語でしっかりとスピーチをするシャシ。四週間で変わった妻を見て、弱気になった夫が「まだ俺を愛しているか?」と聞いたり、英語ができないことを馬鹿にしていた長女が泣きじゃくっていたり。その姿を見て、彼らはやっぱりシャシのことを馬鹿にしていたのだろうなと思った。ちゃんと謝りもしないのはどうかと思う。許すシャシは大人である。
自分を尊重してくれるフランス人シェフのローランのほうへ行っても良さそうなものだけれど、やはり家族は大事なのだろうなとも思った。
ローランに礼を言って別れ、インドのお菓子ラドゥを一個多く夫に渡したシャシの姿が神々しくも見えた。

シャシ役の女優さんがとても綺麗だったのだけれど、“70年代から90年代にインド映画に出演”とプロフィールに書いてあって、一体いくつなのかと思ったら、なんと50歳で驚いた。30代後半から40代前半にしか見えない。
彼女は結婚をして俳優業を休んでいて、今作が15年ぶりの復帰作らしく、何かこの映画自体のテーマと繋がる部分があると思った。
また、監督が女性なのもとても納得がいった。本作が長編デビューとは思えない。ウディ・アレンが好きらしい。

実は、インド映画特有の突然踊り出す感じが苦手だったんですが、この映画にはその要素はなかった。
結婚式で踊るシーンはあるけれど、あくまでも自然。
エンドロールでは踊っていたけれど、どちらかというとNG集のような感じで、わいわいと賑やか。愉快な気持ちなる。

登場人物が歌うこともない。けれど、挿入歌のようなものはよく流れ、しかも歌詞がシャシの内面を表したものになっていた。いままでのインド映画だと、シャシが歌いながら踊るところである。

テーマ曲ともいうべき、『English Vinglish』は、そのまま映画の原題と同じタイトルが付いている。
“Vinglish”は辞書にも載っていない造語らしいけれど、崩れた英語とかEnglishのなり損ないという風にとらえてました。VinglishでもこうしてEnglishと肩を並べられるよ、みたいな感じ。



『ラストべガス』



2014年公開。アメリカでは2013年公開。
バチェラー・パーティーでラスベガスへ行くというと、どうしても『ハングオーバー!』シリーズを思い出す。けれど、この映画が『ハングオーバー!』と違うのは、バチェラー・パーティーをするのが中年を過ぎた、もうおじいさんともいえる年齢の人たちだ。
普通なら、おじいさんがバチェラー・パーティー?結婚するの?というところで引っかかってしまうと思うけれど、そこはハリウッド俳優なのでそれほど違和感はない。
パーティーをする幼馴染み四人を演じるのがマイケル・ダグラス(現在71歳)、ロバート・デ・ニーロ(72歳)、モーガン・フリーマン(78歳)、ケヴィン・クライン(68歳)と超豪華。結婚をするのはマイケル・ダグラス、初婚、相手は30代という、現実離れしているがなんとなく納得してしまう。

若者ではないから、バチェラー・パーティーとは言っても、お酒飲んでクスリやってドンチャン騒ぎ、翌朝、何もおぼえてない!みたいなハメを外しすぎることはない。お酒のたしなみ方も心得ている。悪酔いはしない。
逆に、モーガン・フリーマン演じるアーチーは、飲み過ぎると命に関わるという理由で息子(マイケル・イーリー。『オールモスト・ヒューマン』のドリアン役)から逆にお酒を禁じられていた。けれど、気にせずにバンバン飲んでいるため、もしかしたらパーティー中に発作が起こってしまうのではないかと少しひやひやした。
ケヴィン・クライン演じるサムにしても、奥さんからバイアグラとコンドームを渡されて、浮気を許されていたので、もしかしてクスリをあおった途端…みたいなことがあったら嫌だなと思った。
この年代の人たちが主人公では、この四人のうちの誰かが亡くなったりするのかもしれないとも思いながら観ていたけれど、それはなかったので良かった。サムなんかは、クスリに頼らずともばっちりな様子だったので、まだまだお元気。

そんな誰かを死なせることでよりも、人生の悲哀ともいうべきもので、彼らの年代らしさを出したのは素晴らしい。
途中まではコメディらしいコメディ。軽い気持ちで観られる。パディ(ロバート・デ・ニーロ)は自分の妻の葬式に来なかったビリー(マイケル・ダグラス)に腹を立てていたものの、長年のよしみなのか、次第に仲が修復されていく過程も良かった。

けれど、妻を失ったショックで恋のできなかったパディが久しぶりに好きになった歌姫はビリーといい仲になっていて、しかも、パディが愛していた妻も実はビリーのことが好きだったと知ってしまう。
ビリーはパディから何もかもを奪っていて、その事実を知った時のパディのショックを受けしょんぼりした様子はさすが名優ロバート・デ・ニーロといった風だった。
ビリーとパディの関係が危うくなる後半はシリアスで、ただのコメディでは終わらなかった。

ただ、これも主人公が若者ではないからこその展開ですが、パディとその妻の間には一緒に暮らした何十年という時間が流れているんですね。それを思って、パディはビリーを許す。もちろん、ビリーとパディの間にも60年という時間が流れている。もう今更、ちょっとやそっとのことでは崩壊しない絆ができている。60年来の友達関係がうらやましかった。私にもできるだろうか。

四人がマフィアのふりをして生意気な若造をコキ使うシーンがあるんですが、少し前までしょぼくれていたロバート・デ・ニーロがマフィアの演技をした途端に凄みが増すのはさすがだと思った。四人(マイケル・ダグラスは違うかな。三人かもしれない)の少しとぼけたおじいさん演技もくすっとさせられるけれど、それだけではない熟練演技も存分に堪能できる。

ちなみに、『ラストべガス』ってあんまりいい邦題じゃないな…と思ったら、原題のままでした。




実話ですが、事実を知らなかったので、主演がヘレン・ミレンだしBBCフィルムだし、イギリスが舞台なのかと思っていた。イギリスは出てきません。アメリカとオーストリア、そしてドイツの話だった。

以下、ネタバレです。







高齢の女性と若い男性二人の冒険という点で、『あなたを抱きしめる日まで』に雰囲気が似ていると思った。若い男性側はお手伝いのため、目的が違っていた(『あなたを抱きしめる日まで』では名声、本作では金)が、次第に絆が深まっていき、自分とも無関係ではないと思い親身になっていく点も似ている。
また、『あなたを抱きしめる日まで』で「ゲイだからかしら?」みたいな差別発言がさらっと出ていたけれど、本作でも「裁判官が女性で良かったわ」と少し馬鹿にしたような発言が出てきた。これはおばあちゃんらしさというか、ならではのギャグなのかもしれない。

主人公マリアを演じたヘレン・ミレンはそんなとぼけた発言をしつつも、凛としていて気品があった。お供する新米弁護士ランドル役に、『デッドプール』もひかえているライアン・レイノルズ。
『あなたを抱きしめる日まで』のジュディ・デンチとスティーブ・クーガンも合っていたけれど、この二人もいい。ただ、題材が違うから当たり前ですが、本作では二人の関係が疑似家族のようにはならない。二人の関係は近づきはしない。それは、マリアが常にしゃんとしていたからかもしれないし、最初は頼りなかったランドルがどんどんしっかりしてきたからかもしれない。ランドルは、それでも驕ることなく、どこか飄々としたような、呑気な表情は変わらなかった。これはライアン・レイノルズならではなのかもしれない。

イギリスが舞台だと思っていたくらいなので話をまったく知らないまま観たんですが、裁判ものというだけでなく、戦争ものともいえる作品だった。マリアはオーストリアで暮らしていて、そこにドイツ軍が侵攻してきてアメリカに亡命したのだ。
映画の中に現代パートと過去パートがあったけれど、現代は後半までわりと事実をなぞっているだけというか、乾いた印象だった。仕方ないことだけれど、判決が出るまでとかの○○ヶ月後みたいな感じにすぐに時間が飛んでしまい、ぶつ切りの印象も受けた。
それに比べて過去パートは、マリアと姉、父母、叔父叔母と一緒に暮らしていた家も豪華で見ごたえがあった。問題の絵のモデルであるアデーレ役の女優さんが綺麗で、衣装やきらびやかな宝石がよく似合っていた。そこから、ドイツ軍が侵攻してきて、暮らしがめちゃくちゃになり、命からがら亡命をし…というドラマティックな展開だった。

現代パートも、マリアが最後の裁判に臨む決心をするあたりからは俄然盛り上がりを見せた。ドイツ人記者役のダニエル・ブリュールは何か腹に一物抱えていそうな雰囲気だったけれど、終盤まで味方で、何もないのかなと思ったら、父親がナチスだったという告白があった。それが許せないという話だったので衝突はしない。
ドイツ人記者役だし、現代のオーストリアでのシーンがそれほどないから仕方ないけれど、もっとダニエル・ブリュールが見たかった。ヘレン・ミレンの従者のようにライアン・レイノルズとダニエル・ブリュールが並んでいる姿は結構良かった。

俳優関連だと、トム・シリングがどこで出てくるのかと思ったら、過去パートのドイツ軍役だった。マリアの家を監視する。
もちろん、ナチスのやったことは許せないし、今回、この映画を観て怒りもわいたけれど、それとは別に、トム・シリングの軍服姿は恰好良かったです…。体が小さいため、細身で黒だときゅっと締まった感じになるし、頭が小さいので上に広がる形の大きい帽子も似合っていた。
トム・シリングはドイツ俳優だからなのか、映画で軍服姿を見ることが多いように思う。来年一月に公開される『フランス組曲』でも軍服です。それにしても、こんなにトム・シリング出演作の公開が続々決まっていていいのか…。

ラスト、現在のマリアがかつて住んでいた家を訪れる。今はオフィスになっていて中を見学させてもらうのだが、映像は一気に過去パートとなる。その過去パートの中に、現代のマリアが入っていくという演出が良かった。
タイムトラベルものや、片方が長く生きるドクター・フーのようなものでもいいんですけれど、かつて、同じ時を過ごした人物たちの時間がずれてしまうのが好きです。片方が若いままで片方が老いているというような。その他にも、SFでなくてもこのような演出も好きなのだなというのが、今作とこの前観た『あしたのパスタはアルデンテ』でよくわかった。
マリアは自分の結婚式のダンスのシーンで楽しげに手拍子をしていたんですが、あのダンスはユダヤ人の伝統のダンスだったらしいんですね。まだドイツ軍が侵攻して来る前の、幸せな時代の象徴でもある。ここにあるのは、単なる郷愁だけではないのだ。

マリアご本人は2011年に亡くなったらしい。けれど、最近の話であり、クリムトなどというともうだいぶ昔の、歴史上の画家かと思っていたけれど、ちゃんと現在に繋がっているのだと驚いた。
そんな、案外最近の話なのに、映画の撮影時には実際にウィーンの街に鍵十字の旗を掲げたらしい。なかなか大胆なロケである。

この出来事自体が2006年と最近のことだし、きっと有名な話なのだろうから仕方ないのかもしれないけれど、タイトルに“名画の帰還”というのを付けてしまうのはどうなのだろう。返ってこなかったら映画化されていないのもわかるけれど…。
どうなるかわからないドキドキはなくても楽しめる作品ではあります。
ただ、権利は返ってくるとしても、ウィーンの美術館に残るの?ニューヨークに行くの?というのは少し考えて、ああ、でもタイトルが…となった。この、“アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 Ⅰ(黄金のアデーレ)”自体は有名な絵画だし、それがどの美術館にあるというのももしかしたら有名なのかもしれないけれど。



ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンドを演じる007シリーズとしては四作目。『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』が続き物だったのに対して、前作、『スカイフォール』は単体でも楽しめる作品だった。今作は前の三作の総まとめという印象なので、人物名など忘れている場合は見返しておいたほうがいい。
また、今作は『スペクター』というタイトル通り、007シリーズ初期に出てきた悪の組織が出てくるため、過去作も観ておくとオマージュのようなものに気づくことができる。ストーリーは『カジノ・ロワイヤル』で仕切り直されているため、続きではない。なので、知識として知っているならば改めて見直す必要はないと思うし、見直さなくても話がわからなくなるようなことはない。
私は、過去作をほとんど観ていないため、『ロシアより愛をこめて』『サンダーボール作戦』『007は二度死ぬ』『女王陛下の007』を観ました。

以下、ネタバレです。







クリストフ・ヴァルツ演じる悪の大将みたいな人の名前がブロフェルドだと明かされたときにニヤリとした。最初、ヴァルツが白いペルシャ猫を撫でていないことに少しがっかりしたけれど、中盤で白猫がうろうろしていたときは嬉しかった。爆破の後、片目を怪我して出てきたときも、『007は二度死ぬ』と同じ姿なこともわかった。できることなら、ここでスキンヘッドになってくれると尚良かった…(けれど、クリストフ・ヴァルツは後ろ姿でもわかるくらい頭の形が特徴的なので、スキンヘッドは似合わないかもしれない)。この辺は、過去の作品を知らないとわからないことだし、サービスだと思う。
私は『スカイフォール』で初めて007に触れて、Mやマネーペニーでニヤリとできなかったので、今回、基礎知識を入れておいて良かったと思う。

また、オマージュは『女王陛下の007』の雪山の頂上の謎施設と、スキー客がわさわさ乗って来て見失うところだろうか。どうせなら、スキーでの追いかけっこや雪崩を起こしてもらいたかった。そこまでやるとそのまんまになっちゃうし、別にここがメインではないからだろうか。

あとは、メキシコのパレードが『サンダーボール作戦』のオマージュかなとか、電車内での戦闘は『ロシアより愛をこめて』かなとも思ったけれど、そんなことを言っていたら何にでも当てはめられそうな気もするしわからない。

最初のメキシコでの建物崩壊から、崩れた壁を利用して滑り台のようにすいーっと下に降り、そこに都合良くソファがというコントのような流れ、そこからの垂直飛びやくるくる回る曲芸のようなヘリコプター。とにかく派手。
中盤の砂漠の真ん中の施設の建物の爆破も、砂漠だからいいだろとでも言うように、見たことがないような大爆発が起こる。
最後には、『スカイフォール』では少し爆破されただけだったMI6の建物も、爆発により崩壊。

建物の壊し方やアクションなどが派手なので、それに呼応するように話の流れなども大雑把である。これだけやっておいて、脚本が繊細だったらバランスがおかしいのでこれはこれでいい。

一番、おいおいそれは…と思ったのは、ボンドがブロフェルドの施設で拘束されていて、頭に針を刺されているシーン。かなりハイテク機器に見えるのに、ちょっと虚をついただけで、がっちりした拘束がとかれる。
それで、少し前まで頭に針を刺されていたのに、ふらつくこともなくスタスタと走って脱出する。

ここですごくボンドっぽいなと思ったのは、ちゃんと、ボンドガールであるレア・セドゥの手をひいているところ。一人で走って、その後ろに女性がついて走る…というようにはならない。

ここで虚をつくときに使ったのが、オメガの腕時計に仕組まれた小型の時限爆弾。運転している車の謎ボタンを押して、上部から飛び出してピンチを脱するシーンもあった(『ゴールドフィンガー』で助手席が同じ仕組みで飛び出すシーンがあった)。『スカイフォール』でも、小型発信器やグリップがDNAを認識してボンドしか撃つことができない銃などが出てきたが、Qの秘密道具が、より派手になっている。

ショーン・コネリー版を観て思ったんですが、ボンドはスーパーマンなんですね。絶対に負けないヒーロー。そして、傍らには綺麗な女性がいる。スパイガジェットを使いこなしてピンチを脱出。きっとこれこそが、ジェームズ・ボンドなのだ。今回の『スペクター』ではその要素がより濃く感じられた。

私はこれまでダニエル・クレイグ版しか観ていなかったし、映画館でしっかりと観たのも『スカイフォール』が初めてだった。だから、それがジェームズ・ボンドなのだと思っていたけれど、おそらく元々のボンドファンからしたら、普通のスパイ映画と変わらないと思われていたのではないだろうか。今作は昔の作品と比べてみると、より一層、ジェームズ・ボンドらしいのだと思う。それは、スペクターという昔からの悪の組織が出てきたせいもあるのかもしれない。悪の組織との対決である。ど派手にするしかないじゃないか。

ラスト付近、MI6内部でブロフェルドとガラス越しに対峙するシーン、ガラスの銃痕がスペクターのタコのマークになっていた。ここも、大写しになるわけではないし、なんの説明もされないし、実際に銃痕はこうはならないんだろうけれど、遊び心を感じてニヤリとした。現実味はない。

『スカイフォール』が深刻な調子だったのに対して、『スペクター』はどっかんどっかん敵をやっつけながらもりもり進んでいく感じだった。やはり同じダニエル・クレイグ主演であっても、雰囲気はまったく違うと思う。007っぽさでいったら間違いなく『スペクター』なのだ。
これは、どちらが出来が良い悪いではなく、単純な好みですが、私はそれでも『スカイフォール』のほうが好きだった。元々007シリーズのファンならばまた違った意見にもなると思う。でも、私は007シリーズというよりダニエル・クレイグ好きで『スカイフォール』を観たのだ。それで、とてもあの作品が好きになってしまった。ダニエル・クレイグが演じているのはジェームズ・ボンドなので、本当ならば今回の路線でいいのだと思う。でも、今回の路線でやるなら、(あの頃の)ショーン・コネリーのほうが合っている。ダニエル・クレイグがこれをやらなくても良かったのではないか。
ダニエル・クレイグもセクシーイケメンであることは間違いないのですが、彼はクールなタイプだと思う。この作風であれば、ショーン・コネリーボンドのような、匂い立つような雰囲気、胸やけするような濃さ、それでいて飄々とした感じ、胸毛、ニクらしいニヤけ顔などがあったほうがいいと感じた。

148分と上映時間が長いせいかもしれないけれど、登場キャラが多い。モニカ・ベルッチ演じる悪の組織メンバーの未亡人はもう少し活躍してほしかった。ボンドガールが二人とのことだったので、片方が悪役なのかなと思ったけれど、出番が少なかった。フェリックス・ライターも名前だけ出てきたけれど、本当はジェフリー・ライトが出てくると嬉しかった。
悪役も、クリストフ・ヴァルツはたくさん出てくるけれど、アンドリュー・スコットはちょこっとしか出てこなかったのが残念。最初、親しげな態度だったので、私が悪役と思い込んでいただけでもしかして仲間なのかなと思ったが、やはり悪役だった。送り込まれた悪役なので仕方がないけれど、クリストフ・ヴァルツとアンドリュー・スコットの会話シーンなどもあると良かった。一緒に映っているシーンがないのが残念。リーダーと末端のものなので仕方がないのか。
悪役、クリストフ・ヴァルツとアンドリュー・スコットではアクション的な見せ場がないと思われたからか、すっかり映画スターになったデビッド・バウティスタも出てくる。ボンドとの殴り合いなどは彼担当です。

ミスター・ホワイトがこんなに活躍すると思わなかったので驚いた。予告で何度も「You are a kite dancing in a hurricane,Mr.Bond.」のシーンは観ていたのに、あれがミスター・ホワイトだとは気づかなかった。本作ではスペクターの謎について話すし、今回のボンドガールは彼の娘である。
考えてみれば、『カジノ・ロワイヤル』ではお決まりのセリフ、「Bond,James Bond」が出てきたのは、ラストでミスター・ホワイトに名前を聞かれた時だった。『慰めの報酬』の序盤にも出てくるし、最初から重要人物だったのかもしれない。
『スカイフォール』には一切出てこないので、彼のことはダニエル・クレイグボンドの最初の二作を観ていないと、急に出てきても誰かわからないだろう。

今作ではマネーペニーやQが後方支援ではあるけれど、ボンドのサポートにあたっている。若い仲間たちは無理難題を言いつけてくるボンドに文句を言いながらも、彼のことを慕っているからしぶしぶと協力していて、その関係がとてもいい。Mも最終的には協力していた。いい上司。

Qはいつもはボンドと離れたところでパソコンをパチパチやりながら指示を出したりするんですが、見かねて雪山まで押しかけるんですけど、そこのベン・ウィショーの冬仕様の服装が可愛かった。もこもこしていた。
結局はそこでもお願いを聞いてしまうんですが、捨て台詞のように、「I really really hate you」と言っていたのが可愛かった。really二つも付けなくても。字幕ではあっさりと「腹が立ちます」となっていたけれど、それどころじゃない憎まれ口だと思う。
あと、クリスマスがどうのと粋っぽいことを言っていたのに、それが省略された言葉の字幕が付いていたのも残念だった。(「M has been Chsing me for Christmas decorations,〜」?)
なので、吹替でも観たくなりました。

最後、Qの一人アジトみたいなところにボンドが来て「忘れ物がある」と言うシーン、Qのことを迎えに来たのかと思ったら車だった…。「彼は新しいところに馴染めなくて一人でここに」みたいな話が最初に出てきたので、どこか新しい環境に連れ出してあげるのかと思った。Qも結構嬉しそうな顔していたし。あれでは、Qは独りきりでずっとあの場所で仕事をすることになってしまう。でも、別に一人でのほうが仕事しやすいタイプなのかもしれないしいいのかな…。




2011年公開。イタリアでは2010年公開。イタリア映画ですが、主題歌というかエンドロールの曲がなぜか中国語に聞こえた。

パスタとかアルデンテとかタイトルについていますが、別に食はそれほど関係がない。主人公が実家のパスタ工場で働くことになるくらいです。

主人公トンマーゾはゲイで、家族の前でカミングアウトしようと兄に相談する。実際の家族会議の場面で、兄が弟の秘密を話し始めるので、それは優しさではないぞ…と思っていたら、兄が自分はゲイであるとカミングアウトしてびっくりした。弟に先に言われたら自分が言えなくなると思ったのだろう。姑息である。その上、父親はショックで倒れてしまうし、工場を継ぐ者もいなくなってしまう。弟は、仕方なく工場で働くわ、カミングアウトはできないわで散々な目に遭う。

作家になりたいという夢もかなえられない、好きな人がいるのに工場で一緒に働く女性とくっつけられそうになる、その好きな人も男性なので家族に紹介できない…。トンマーゾはあらゆることを我慢して、耐えて、自分を偽って生きている。
父母、特に父親が古いタイプの人間で、理解がないと大変ネーなどと思って観ていたけれど、終盤、トンマーゾの祖母の事件で一気に見方が変わった。

祖母は重い糖尿病で甘いものが食べられないようだった。それが、ある晩に、決意をしたように、綺麗に化粧をして、甘いものを存分に食べる。あの食べているときの恍惚とした表情を見て、彼女は甘いものが好きで好きでたまらなくて、我慢していたのだなと知る。
翌朝、彼女は亡くなるが、ここまで生きてきたのだ、好きなことを我慢してまでこれ以上長生きして何になるとでも言いたいようだった。

彼女の行為に勇気づけられてトンマーゾは本当は作家になりたいから工場は継げないと告白する。ゲイであることのカミングアウトはできないが、それは父親が倒れているのでまだ仕方がないだろう。

そして、勇気づけられたのはトンマーゾだけではない。トンマーゾの場合は、ゲイであること、作家になるのが夢であること、それらを隠して、耐えて生きていたけれど、内容は違えども、決して人ごとではないのだ。

これまで、ゲイの登場人物がそれを隠して苦しむ映画などを観ていて、大変だとは思っても、私は同性愛者ではないので自分に置き換えることは難しかった。けれど、この映画を観て、作品の主人公はトンマーゾだけではなく、祖母でもあり、兄であり、すべての登場人物であり、主題はゲイのカミングアウトだけではなく、我慢することでの後悔とあらゆる抑圧からの解放と考えると、もう完全に自分の映画でもあると思った。
もちろん、完全に理解できているわけではないだろう。でも、自分に寄せて考えることができた。

祖母の葬列と、過去の、祖母が若かった頃の結婚式が交錯するラストが美しかった。
祖母は浮かない顔で、過去に望まぬ相手と結婚してるんですよね。これはオープニングでも少し出てくるんですが、本当に結婚したかった相手と無理心中をはかろうとしている。
けれど、結婚式では兄と父が和解していたり、姉の夫とトンマーゾの友達(姉の夫のことが好みだと言っていた)が踊っていたりと、様々なごたごたが丸くおさまっている。祖母の結婚式なので、参列者たちはいるはずのない人々なので、現実ではなく理想なのかもしれない。それでも美しいことには変わりなく、望まぬ結婚ではあっても、何か報われたのかもしれないというような気持ちになった。



カンヌ国際映画祭、ある視点部門グランプリ受賞。良い犬映画に送られるパルムドッグ賞も受賞してます。
カンヌ関連でハンガリー・ドイツ・スウェーデン合作というヨーロッパ映画だと、芸術風味が強すぎてわかりづらいのかと思っていたけれど、そんなことはなかった。エンターテイメント作だと思う。
少女と犬のふれあいを描いてほろりとさせるヒューマンドラマだと思ったら大間違いだった。かなり変わった映画。

以下、ネタバレです。






犬を飼いたい娘と飼いたくない父親。親子仲も悪い。ある日、父親は犬を家から離れた場所に置き去りにしてしまう。
普通だったら、犬を探す少女の冒険ものになるとか、少女と父親の仲が少しずつ修復されて、結局二人で犬を探しに行き、三人で暮らそうねめでたしめでたしみたいなことになると思う。
ところがこの映画はここから少女リリのパートと犬のハーゲンのパートに分かれる。

リリのパートは、ハーゲンを一人で探しつつ、通っているオーケストラクラブのようなところの先生に怒られたり、淡い恋心を抱いてる男の子にはどうやら片想いだったり、父親とわかりあえなかったりと、孤独感を抱えながらも、一生懸命生きようとする姿が描かれている。
このリリを演じたジョーフィア・ブショッタちゃんが可愛らしい。目元にデイン・デハーンにも似た暗さを持つ。いかがわしいクラブに背伸びをしてついていって、お酒を飲んでそのまま床に転がってしまっていたけれど、あんな美少女なのに大丈夫なのかなと思ってしまった。
途中までは髪の毛を後ろで一本にまとめていてパーカーを着るなど、お洒落とは言えない恰好をしているけれど、演奏会のときには髪を下ろし、ブラウスを着ていて、美少女加減が際立っていた。本作が映画デビューとのこと。

リリの所謂人間パートともいえる部分は、イメージしていたヨーロッパ映画的な雰囲気があった。
ハーゲンパートは、最初はリリと同じく急に孤独になってしまった犬の様子が描かれる。喋りだしはしないものの、感情が伝わってくる表情と動きだった。別の犬との交流も見ることができ、どの犬の演技も素晴らしかった。
野良犬のコミュニティのような場所にいるときに、保健所の職員が現れて、捕まらないように逃げるシーンでは、人間が悪者だった。犬視点なのである。このシーンで使われている音楽も、ハラハラ、ヒヤヒヤする、スリリングなものだった。
犬たちの動きなどは可愛らしく動物映画のようだったし、逃げるシーンは恰好良くアクション映画のようでもあった。リリはハーゲンを探してはいるものの、ハーゲンパートとリリパートは別の映画のようだった。雰囲気がまるで違う。

ハーゲンは保健所の職員につかまりそうになったところをホームレスに保護される。このホームレスとの間に絆が生まれるのかなと思った。ところが、このホームレスがまた悪い奴で、闘犬の仲介業者のようなところにあっさりと売り渡してしまう。そして、マフィアのような男がハーゲンを買い取り…。ハーゲンの人生(犬ですが)は転落していく。
マフィアは、薬や暴力を使ってハーゲンをトレーニングし、それはそれは立派な闘犬に仕立てあげた。
おっとりしていたハーゲンは表情も凶暴なものに変わり、別の犬の血で鼻先が真っ赤に染まり…。ひどい、残酷、可哀想というようなことを思いながら見ていた。

このような感じで、ハーゲンパートは刺々しくギスギスしているけれど、その合間合間にゆったりしたリリパートが入るのが何か変な感じ。映画の構成が変わっている。
けれど、本当にこの映画が変わっているのはこの先なのだ。

ハーゲンはマフィアの元から逃げ出すが、結局保健所の職員に捕まってしまう。けれど、そこから抜け出す。保護され、殺処分される寸前の多数の犬を率いて、逃げ出す。
手始めに保健所の職員に襲いかかるんですが、食いちぎっており、完全にホラーの殺し方。もうここから後半はずっとホラーだった。無差別に人間を襲うわけではなく、自分を酷い目に遭わせた人物を狙って殺す。殺され方も凄惨だし、死体もしっかり映る。
ここまでも構成が変わっているなと思っていても、急に突飛な方向へ舵を取り始めたので、ちょっと笑ってしまった。『猿の惑星』や『鳥』が比較に出されているけれどまさにそんな感じの動物の反乱。

リリと別れた直後のハーゲンのみのシーン、犬の表情が豊かだと思ったけれど、そこでは微笑ましさを描いていたわけではなかったのだ。犬可愛いなあなんてほのぼのした気持ちになっていたが、それこそ人間目線であり、犬からしたらなめるなという話である。
おそらく、犬にもしっかり感情があるのだというのが示されていたのだろう。急に意志を持って反乱を起こしたわけではない。最初から意志を持っていたのだ。

ポスターなどから、少女が大量の犬を従えているのかと思ったけれど、それも思い上がりだった。犬が犬を従え、人間を襲う映画だった。びっくりしたけれど、痛快/壮快映画でもある。

当然、最後には父親に襲いかかろうとするのですが、それをリリが止める。リリは地面に寝っ転がって、ハーゲンと同じ高さに目線を合わせる。その横に父親も同じように寝っ転がる。父親は娘とも犬とも初めて同じ目線になった。娘の気持ちになって考える、犬の気持ちになって考えることができるようになったのだ。関係が修復されたと見ていいのだろう。
大量の犬と人間が向かい合って身じろぎしない、静かなエンディングだった。ここまでがちゃがちゃしていたのが嘘のよう。この後味は実際に観ないと体感できないものだ。

エンドロールのハーゲンを演じていた犬の名前がBody és Lukeとなっていた。ésは調べてみたところ、ハンガリー語の&の意味らしいので、二匹で演じていたらしい。穏やかなシーンと凶暴なシーンだろうか。
主人公で出番も多いからハーゲンの演技が目立つけれど、お友達のようになる子犬にも表情があったし、逃げ出す犬たちも統率がとれていた。CGも使っているのだろうと思っていたけれど、“CGに頼らず実現した本物の迫力”と書いてあって驚いた。
『ベートーベン』や『ベイブ 都会へ行く』などを手がけたアニマルトレーナー、カール・ルイス・ミラーの娘でアシスタントもつとめてきたテレサ・アン・ミラーが本作では犬たちのトレーニングをしたらしい。



2014年公開。イギリスでは2013年公開。
イギリスの“ブリテンズ・ゴット・タレント”という素人オーディション番組からオペラ歌手になったポール・ポッツの自伝映画。スーザン・ボイルもこの番組出身らしい。

オペラ歌手というと、なんとなく育ちが良さそうであったり家が金持ちであったり、お高くとまっていそうなイメージだけれど、このポール・ポッツという人はもちろん才能はあったのだろうが、ただの歌好きの一般人であり、その辺にいそうである。そのため、映画自体もオペラ歌手とはいっても、難しさとか格調高さなどはなく、親しみやすいものになっている。こちらも構えずに観ることができる。そもそも、映画で描かれているのがオーディション番組に出るまでであり、ポール・ポッツがオペラ歌手になる前の日常部分なのだ。

伝記とはいっても、すべて真実ではなく、元にした創作なのだろうと思った。盲腸や内臓の腫瘍、のどの病気、自転車での交通事故…。わざとらしいほどに不幸に不幸が重なって、うまくいくものもうまくいかない。なかなか前に進めない。
だが、調べるとそれら全部が本当に起こったことのようであり、更にポール・ポッツご本人のインタビューを見ると、「あれよりもっと不幸なことが起こっていた」と言っていたので驚いた。

のちに妻となる女性ジュルズとの出会いは事実とは少し異なるみたいですが、映画では元々メール友達だった。自分はブラッド・ピットに似ていると言っていたのと、自分の容姿に自身がないことから会うのを拒んでいたが、仕事先の同僚が勝手にメールを送ってしまい、会うことになる。
容姿は聞いていたものとまったく違っても、メール上のことはそんなものだとジュルズはわかっていたのか、特に気にしていない様子だったし、一日デートをしている間に、ポール・ポッツの人柄にひきこまれていたようだ。
臆病で容姿もいまいちだけれど、歌が大好きで心優しい好人物というのがよく伝わってきた。ジュルズが終電で帰るために二人で手を繋いで駅のホームを走り、ジュルズが電車に乗り込んで、窓にはーっと息を吹きかけてポールあてにハートマークを描くシーンのくすぐったくなるほどの青春映画っぷりが良かった。二人は瑞々しくて、キラキラしてて、涙が出てきた。

二人とも好感が持てるし、一人では一歩踏み出せないポールの背中を常に後押ししてあげていて、その関係性も良かった。

ポール・ポッツを演じたのがジェームズ・コーデン。気弱で心が純粋なポールにとてもよく合っていた。体型も似ている。
この映画は一人の男のサクセスストーリーだけれど、ちょうど、ジェームズ・コーデンもこの映画の前の2012年にトニー賞を受賞して、イギリスだけでなくアメリカでも受け入れられたところだったらしい。また、今年、アメリカCBCの長寿トーク番組『ザ・レイト・レイト・ショー』の新司会者に決まった。イギリス自虐ギャグも時々飛び出しているこの番組が好評らしく、更に五年間1000万ポンドという契約での続投が決まったとのこと。彼自身のサクセスストーリーも続いている。

映画内での歌はポール・ポッツご本人の吹替らしいけれど、ボイストレーナーがついて、ジェームズは歌いながら演技をしていたらしい。

ポールの同僚であり友達のブラドン役にマッケンジー・クルック。ポールとは体型も真逆だし、性格もポールがうじうじと悩んでいるところでブラドンはスパンスパンと簡単にいろいろ決定していて、そのコンビがおもしろかった。マッケンジー・クルックが好きなせいもあると思うけれど、ちょい役でも強烈な印象が残った。

最後のオーディション番組のシーン、審査員の映像は実際の番組の映像だったのだろうか。違うとしても、ポッツのそのオーディションで実際に審査をしていた方々みたい。その審査員の一人、ワン・ダイレクションの生みの親としても知られる音楽プロデューサーのサイモン・コーウェルは、この映画の製作にも関わっているようだ。



二回目で気づいたこと。音楽の使い方について。
以下、ネタバレです。







ベッカムがカメオ出演しているとのことでしたが、一回目の時はその情報を観てから聞いたため探しもしていなかったんですが、聞いてから観ると、確かにベッカムだった。序盤の、クリヤキンがKGBで上司からナポレオン・ソロの説明を受けているシーンの映写技師役です。一回目に観たときには、この上下間違えるの必要?と思っていたんですが、なるほど、必要でした。

この場面でもそうなんですが、場面が変わった時のテロップや、イタリア語ロシア語ドイツ語など、各国の英語字幕が同じフォントで黄色と統一されている。ぷくっとしていて、自己主張が強く、目をひく。きっちりと統一した意志を感じる。

60年代が舞台ということで、最初だけ映りがガサガサした触感というかフィルム調になっているように感じた。ソロがギャビーに会うあたりからは普通の映りになっていたので気のせいかもしれない。

金網をそれぞれのスパイ道具で開けるシーン、クリヤキンが得意げになっていますが、その前日の朝に、お互いの盗聴器についての応酬のシーンがあるんですが、These.are.American-made.と嫌味たっぷりにいったあと、ローテクという言葉も付け加えていた。ここを受けてのシーンでもあると思う。CIAのほうが、ガジェットでは劣っているのだ。

前回、後半の潜入シーンは、前半に潜入シーンがあるから省略してその後のド派手カーチェイスを見せ場にしたのだろうと書いたんですが、前半の潜入シーンも省略されていた。
ただ、それも「俺は上の階から見るからお前は下の階から」と分担するんですね。で、分かれた一人一人を分割した画面で見せる。それで、結局何も見つからない、というシーン。見つからないのだから、きっちりとやらなくてもいい。
ここでも、おそらく見せたいのはこの後なのだ。“ザ・キス”という立ったまま気絶させるよくわからないKGBの裏技もそうだろう。ただ本当に見せたかったのは、金庫やぶりからボートチェイスなのだと思う。

普通、停電も復旧して、追われながら金庫を開けようとするならば、音楽も緊迫したものになるだろうし、開ける側も焦ると思うのだ。けれど、ソロは悠々お喋りをしながら作業をしているし、かかっている音楽もフラメンコのような優雅でセクシーなものだった。まるで、女性の服を脱がすようにして金庫を開いていく。開けられるの?開けられないの?というヒヤヒヤよりも、どうせ開けますから、それを前提として、別の部分を見てほしいと言われているようだった。

その後のボートチェイスも、その流れでか、音楽がマカロニ・ウェスタンなのがおもしろい。

更に流れで、ソロが一人、車でつけたラジオから流れるのも、イタリア歌謡だ。朗々と歌い上げられるのは、69年のイタリア映画『ガラスの部屋』のテーマ曲らしい。車の中でワインやパンなどを食べるのには合うが、この音楽は水に沈んだクリヤキンを助けるシーンでも流れ続ける。車のまま水へ突進し、ボートごと沈むが、その車のライトが沈んで行くクリヤキンをとらえる。不思議と音楽と合っていて美しいシーンだ。
ここも、この映画は前日譚だし、どうせ二人が死なないことはわかっているでしょ?とでも言うようだった。ハラハラには重きが置かれていない。

同じ音楽が流れ続ける中、いろんな場面に切り替えられるという手法は拷問のあたりでも使われていた。普通はピンチっぽい緊迫した音楽が流れると思うが、ここではドラマティックで哀愁が漂う曲が使われていた。拷問だけではなく、ヘリに乗せられるギャビーなども同じ音楽の中で描かれる。

その後の、二人が話し合っていて、背後でピントの合っていないルディが燃えているシーンも、音楽自体が呑気なもので、話し合ってはいるものの、二人にとってはルディがどうなろうと特にどうでも良いのだなというのがわかっておもしろい。そもそもピントが合っていないというのが酷い。そして、燃えてしまっても、ソロも自分のジャケットのことしか気にしていなかったのも酷い。

序盤の西ドイツへの逃亡シーンと、最後のカーチェイスは緊迫した音楽が使われていた。けれど、緊迫しすぎないというか、適度に緩めて、変わった音楽がチョイスしてあるのがこの映画がおしゃれになっている所以だと思う。普通、主人公の一人が水に沈んで行き、もう一人が助けるというシーンでスローテンポのイタリア歌謡は流れないだろう。歌い方からも想像はつきましたが、もちろんラブソングです。

ちなみに、ラストで「イスタンブールへ行ってこい」という指令を受けて、続編か!と思いますが、決まってはいないようだ。テレビシリーズの第一話の舞台がイスタンブールらしいので、そこへ続くということらしい。
最後の各キャラプロフィールで、ソロがギャンブラーとかまだ出てきていない設定も書いてあったけれど、これもテレビドラマ版のキャラの設定なのだろうか。
続編が観たいので、“the man from uncle,sequel”などで検索をかけてみましたが、ヘンリー・カヴィルとアーミー・ハマーが是非やりたいと言っているニュースだけで、特に情報はありませんでした。


1969年の月面着陸のあの映像はスタンリー・キューブリック監督の捏造映像だった!?という都市伝説を元にしたストーリー。タイトルのロゴも『時計じかけのオレンジ』風になっています。
出演は『ハリー・ポッター』シリーズのロン役のルパート・グリント、『ヘル・ボーイ』シリーズや『パシフィック・リム』の闇商人役のロン・パールマン。
監督は本作がデビューのアントワーヌ・バルドー=ジャケ。なんと、イギリス人ではなくフランス人だった。

以下、ネタバレです。









ルパート・グリントは『ハリー・ポッター』シリーズで有名なようですが、私は『ハリー・ポッター』を観ていないので、1999年の『ターゲット』の印象が強い。今作も『ターゲット』と同じルパート・グリントでした。どことなく情けなくて、面倒ごとに巻き込まれてしまう。
そのひょろひょろした感じと、がっしり強面のロン・パールマンの二人の対比がおもしろい。闇金業者に突撃したときに、ロン・パールマンの後ろに隠れていたのが、体格の違いなどもよく表れていた。ロン・パールマンに命じられるままに、ひぃぃぃと言いながら金を回収する様子もいい。若い頃のマーティン・フリーマンがやりそうな役。

キューブリックの月面着陸捏造映像の話とはいっても、実話というわけではない。なんせ、元々が都市伝説だし、そもそもこの映画にはキューブリックは出てこない。もともとが偽キューブリックである。なので、全部フィクションとして自由にやっています。

偽の映画を作って何かの事態を救うというと『アルゴ』が思い出されるが、それとも違っていた。また、素人の映画作りというと、ミシェル・ゴンドリー監督の『僕らのミライへ逆回転』なんかも思い出すがこれとも違った。ただ、本作の製作のジョルジュ・ベルマンはゴンドリー監督のプロデュースに多く関わっている方だった。

だったら、もっともっと映画作りのシーンを多く観たかったなあという気もする。後半では撮影シーンも出てくるけれど、物足りなかった。いやに立派なアポロ11号を作るのはどうやったんだろう。月面の砂などの作り方も知りたい。宇宙服も手作りにしてしまっても良かったのでは…など気になる点をすべて映像で見せて欲しかった。
ただ、前衛映画とはいえ、一応、映画監督に撮影を頼んでいるし、日にちもないという設定だったから仕方が無いのだろうか。それに、本物に見せるために作るから、奇抜なアイディアでどうにかするというよりは、地味目な映像になってしまうのかもしれない。

それか、途中でバンドのメンバーが乱入して来て、誤魔化すために君らのPVの撮影だよなどと言っていたけれど、それの撮影風景でもやってほしかった。そちらなら、だいぶめちゃくちゃなことができるだろう。くらげの姿になっていたけれど、楽しそうじゃないか。

映画作りだけの映画にしても良かったのではないかと思うけれど、思ったよりもドンパチが多かった。しかも、撃たれて頭が吹っ飛ぶなど過激なもの。三回くらい吹っ飛んでいた。当然、血の量も多い。この辺で映画の年齢制限がかかったのかもしれない。

それか、映画を撮影するのがヒッピーの館だというところ。スウィンギング・ロンドンという60年代イギリスの若者文化も本作のテーマになっている。オープニングのサイケな色合いのアニメはイエローサブマリンを思い出した。
この館には多数の上半身裸(映っては無いけれど、上半身だけじゃないかも)の女性たちがいる。また、ドラッグも吸い放題。
アヘンにLSDで、悪夢のようなイメージ映像とともにへろへろになっているロン・パールマンは可愛かったです。ロン・パールマン演じるキッドマンはCIAでベトナム戦争帰還兵という役柄なのですが、PTSDに苦しめられていた。ドラッグのあとで、手の震えが止まっていたので何かを克服できたのかもしれない。ドラッグのおかげではなく、みんなと楽しく遊んだからかもしれないが。

撮影していたヒッピーの館が銃撃戦でめちゃくちゃになり、キッドマンたちは逃亡するんですが、途中で月面着陸のニュースを見る。さきほど、宇宙飛行士役だった青年が「あれ、俺たち?」と聞くと、ルパート・グリント演じるジョニーは「違うよ、着陸成功したんだ…。リアルの映像だよ」と言う。それを受けて、キッドマンが少し不安そうに「…だよな?」と言うのが良かった。あくまでも、捏造なんてありませんでした!ではなく、少しだけぼやかしているのが粋。

エンドロールでは、撮影を頼んだ監督のインディーズ前衛映画『跳ねる』が使われていた。太った男性が跳ねている様子がスローでとらえられているだけ。ダブサウンドにのって、肉がぼよよんと震える。映画内では「三年かけたんだ!」と言っていたのを思い出してくすっとした。


1960年代のテレビドラマ『0011ナポレオン・ソロ』のリメイク。旧作を見ていないので、映画版が決まったエピソードのリメイクなのか、それとも登場人物だけが同じなのかがわからない。
監督は『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』『スナッチ』『ロックローラ』『シャーロック・ホームズ』シリーズのガイ・リッチー。ガイ・リッチーが監督で、アメリカCIAのスパイとロシアKGBのスパイが嫌々コンビを組まされるとなれば、もう期待せずにはいられない。しかも、CIAスパイがヘンリー・カヴィル、KGBスパイがアーミー・ハマーである。先行で公開された映画内のスチルだけ見ても、男前が二人並んでいてとてもかっこいい。

ガイ・リッチー監督作品のプロデュースを多くつとめていたマシュー・ヴォーンが監督し、突い最近公開された『キングスマン』もスパイものであり、比較されることも多いかもしれないけれど、どちらもブロマンスものではあるけれど、作風はかなり違っていた。『キングスマン』のほうがぶっとんだ世界観で派手さはある。しかし、一見地味でも、スタイリッシュさでは本作のほうが上に感じた。

以下、ネタバレです。








アメリカのスパイとロシアのスパイということで、これはいがみ合いながらも仲良くなっていくパターン、いわゆるケンカップルなんだろうなあと思っていた。おおまかに見ればそうなんですけれど、性格が正反対だったり、王道が貫かれているのがたまらなかった。
アメリカのスパイ、ナポレオン・ソロは常に余裕。スーツをびしっと着こなし、背筋もピンと伸びている。女好きな面も考えると、ジェームズ・ボンドタイプだとも思う。
対するロシアのスパイ、イリヤ・クリヤキンは、まず服装が野暮ったい。背が高いが、猫背である。ソロは自分に自信がありそうだったけれど、クリヤキンは自信はあるかないか以前に、そんなことを考えたこともなさそう。
そして、こちらは常に力勝負で全力投球。余裕はない。女性に対する態度も同じ。最初、ギャビーのことをどうでも良さそうだった時には、別にちょっと意地悪なくらいで普通の態度だった。けれど、少し意識し始めるともう駄目で、どんどん好きになってしまう。その様子が見て取れるのがたまらなく可愛い。大型犬を思わせる愛らしさすら感じる。しかも、キューンキューンと、捨てられた犬がさみしげに鳴いている感じ。

このキャラクターを、まるでギリシャ彫刻のように隙の無いハンサムのヘンリー・カヴィルと、嫌味の無いかっこよさとつい笑いがもれてしまう可愛さを兼ねているアーミー・ハマーが演じているのが本当に合っている。
舞台が60年代なのですが、ヘンリー・カヴィルのハンサムさは完璧すぎて少し古さすら感じさせるものなので、世界観とよくマッチしている。また、アーミー・ハマーの、『ソーシャル・ネットワーク』の双子、『白雪姫と鏡の女王』の王子、『ローン・レンジャー』のローン・レンジャーと、なんかきまらない、多少可愛くなってしまう様が今回も出ていていい。あれは、役者の持つ力なのかな…。それとも、育ちの良さがぽやぽやした雰囲気を出してしまっているのだろうか。

前半、施設に潜入するシーンの針金を破る道具、ロシアのほうが技術力は高いのだなというのがわかっておもしろかったし、得意げなクリヤキンの様子もおもしろい。中に入ってからの、金庫を破るソロのスマートさも恰好いい。
逃げたあとでの水上戦、モーターボートをクリヤキンが操縦し、ソロが助手席に乗っていたんですが、荒い運転でソロはぽろっと水中に落ちる。「落ちるなよ!カウボーイ(ソロのこと。アメリカ人だからこう呼んでいる?)」と言ったクリヤキンが、とっくに落ちているソロを確認して、え?ってなるのも良かった。
そして、ソロは陸まで泳いで、止めてある車に乗り込む。ラジオで曲を流しながら、車の中にあったワインやパンを拝借し、優雅にお食事。この時のヘンリー・カヴィルの、水もしたたるいい男っぷりもすごい。本当にハンサムな男性が水に濡れるとハンサム度がアップするのがよくわかった。
優雅にお食事の後ろで、水上ではクリヤキンのボートが別のボートに追い回されている。沈められたところで、やれやれといった感じで助けに入っていた。でも、まだまだ序盤だし、潜入する時のカッターの件でバカにされ、絆もそれほど強くもなっていないけれど、ちゃんと助けてあげるあたりも余裕がある。逆にクリヤキンが陸に上がっていたら、ざまーみろとばかりに放置しそう。

前半、ソロの部屋にロシアの盗聴器が、クリヤキンとギャビーの部屋にアメリカの盗聴器がそれぞれ仕掛けられていた。そのこっちにこんなものありましたよ?いえいえ、こちらにも?みたいな応酬のシーンもそれだけで面白かった。お互いがお互いの部屋の内情を実際に監視してるシーンは映画には出てこないんですが、ソロはホテルの受付のお姉さんを連れ込んで一晩過ごしてるし、クリヤキンとギャビーはギャビーが酔っぱらって挑発するだけで特に何もない。そんなお互いの一晩の性生活をお互いが知っていると思うと、何かおかしい。この辺にもソロの余裕が窺える。

余裕の違いはラストでも感じられた。お互いに、核兵器のディスクを奪ったら相手を殺しても良いとの指令を受ける。ここまで協力してきても、もともとの雇い主はアメリカとロシアなのだ。ましてや、冷戦時代である。そこで、クリヤキンはソロを殺してディスクを奪おうとする。けれど、ソロはクリヤキンがその覚悟で来たのを察し、自分も銃をすぐとれる場所に移動させる。ソロのほうが一枚上手なんですね。なので、たぶん、一触即発の状態からせーので撃ち合いになったら、ソロのほうが勝つと思う。けれど、一瞬はやかったソロの行動は、クリヤキンの父親の形見の時計を彼に投げることだった。
そもそも、その前に、クリヤキンの時計を見つけて確保しておいたのは、優しさと打算、どちらだったのだろうか。すぐに渡さなかったということは、このような事態に備えてのことだったのかもしれない。どちらにしても、ソロのほうが余裕がある。もちろん、クリヤキンはエディプス・コンプレックスの件も関係しているのかもしれない。でも、そもそも、ソロ側としてはクリヤキンを殺すつもりがなかったんですね。

そのあとで、ディスクを燃やしてそれをつまみに酒を飲むシーンが出てくる。屋外で酒を傾ける、先行スチルでも散々見たこれは、本作における打ち上げともいえるシーンだったのだ。やっぱり打ち上げのある映画はいい映画。そして、ラストで彼らがシルエットになるんですが、それがお互いに背を向けているのがいい。最後までこうだ。一件落着のように見えて、仲良しになどなっていない。
(このシルエットは007シリーズのオープニングっぽくしたのだろうか。)

二人にはそれぞれアメリカとロシアが付いているのですが、ガイ・リッチーはイギリスの監督なのに、いやにイギリス色が薄い作品だなと思った。ヘンリー・カヴィルがイギリス俳優だとしても。リメイクだから仕方ないのかな、とも思った。けれど、中盤から出てくるヒュー・グラントが曲者だった。いやにちょい役だなーと思っていたら、とんでもない。
結局、途中から出てきたイギリスが漁父の利で見せ場をかっさらう展開は恐れ入りました。ちゃんと、ガイ・リッチー監督作品だった。

そして、イギリススパイのギャビーもまたいい。最初はただのお姫様ポジションのヒロインかと思ったけれどとんでもない。彼女をめぐる気持ちの移り変わりも良かった。たぶん最初はソロのことが好きで、クリヤキンが気に食わなそうだった。酔っぱらってレスリングでクリヤキンに突進した夜も、ただ酔っぱらっていただけだと思う。けれど、クリヤキンはそこで完全に好きになっちゃうんですね。キスしそうでできないシーンが特に良かった。クリヤキンが手をギャビーの腰のあたりにまわしたときに、彼は恋に落ちたのだと思う。
また、最後にもキス未遂が出てくるのが良かったです。関係は進みそうで進まない。でもだからこそ、次に続けられると思うんですよ。続編ありますよね?

ガイ・リッチー、いままでの作品でも見たいものを見せてくれる監督だったけれど、本作でもそれは変わらない。もういいなあという展開しかない。かゆいところに手が届くというか、頭の中を覗かれているというか。
キャラクターの関係性だけでなく、二回目の潜入シーンを大胆に省略しているのも良かった。一つの映画に二回も潜入シーンいらないもの。そして、省略したあとで、君たちはこれを観たいんだよね?と言わんばかりのカーチェイスにがっつり時間を割く。映画全体の時間があまり長過ぎるのも考えものだ。そこでいるシーンいらないシーンの選別が重要になってくると思うが、この省略は大正解だと思った。道を無視してのカーチェイス、楽しかったです。

『エベレスト3D』



1996年に起こった実話。私はこの事実を知らなかったので、ハラハラしながら観ました。知っていたらまた違った気持ちで観たと思う。
邦題に3Dと付いているので3Dで観たが、それほど効果が感じられなかった。わざとらしさがなく、自然だったのでわからなかったのかもしれない。
それよりも、3Dで観るならついでにとIMAXを選んだのは大正解だった。前半は山の綺麗な風景が高精細で観られるのもいいし、後半は大きなスクリーンと大音量で観て栄える迫力の映像だった。地上での映像はほとんどなく、ほぼエベレストの映像なので、まるで自分がそこにいるかのような感覚になった。それは、『ゼロ・グラビティ』がほぼ宇宙の映像で、自分まで宇宙に行ったような気持ちになったのと似ている。私が一番エベレストに近づいた時間だった。それは、終わったあとには疲れるほどである。それくらい没頭してしまった。また、自分が映画館にいるのが不思議な気持ちにもなった。

出演はジェイソン・クラーク、ジョシュ・ブローリン、ジェイク・ギレンホール、キーラ・ナイトレイ、サム・ワーシントンなど豪華。髭のマイケル・ケリーは『フォックスキャッチャー』時のマーク・ラファロに似ていた。
字幕で観たのですが、吹替も小山力也、山寺宏一、堀内賢雄、杉田智和など、俳優ではなくちゃんとした声優を使っているので良さそう。登山隊の面々はかなり着込んでいてゴーグルを付けていたり帽子をかぶっているので見分けがつき難い。ゴーグルを付けていなくても、少し前に出てきた人物が薄着になってはじめてサム・ワーシントンだとわかった。それが、声が杉田智和ならさっきの人物と今の人物が同じだとすぐにわかるだろう。

以下、ネタバレです。








実話ということで、エンドロール前にご本人の写真や映像が出てくるが、どの人も似ていた。また、実際にあった事故のことを調べてみると、今回の映画化は、起こったことをかなり忠実に描いているようだ。
私はこの悲劇的な事故を知らなかったので、さあどうなるんだろうと少しわくわくした気持ちで観ていた。困難は立ちはだかるものの、みんなで乗り越え、頂上に立てるのだろうと思っていた。それか、一人くらいは非業の死をとげることはあるにせよ、また頂上に立てなかったとしても、全員でが命からがら下山するものだと思っていた。事実は8人死亡という、もっと厳しいものだった。

最初のほうこそ、“にっぽん百名山”のような山紹介番組や観光ビデオのようだった。うっとりするほど景色が綺麗。途中の寺院で僧侶に無事を祈願してもらっていたのもおもしろかった。
途中のキャンプも楽しそう。ジェイク・ギレンホール演じるスコットが隊長をつとめるのはその名もマウンテン・マッドネス隊。上半身裸で日光浴をしていたり、お酒を飲んだりしていた。
この映画の主人公ともいえるジェイソン・クラーク演じるロブ・ホールが率いるアドベンチャー・コンサルタント社の一行も、酒を飲みはしないものの(頂上までとっておくと言っていた)、夜にテントの中で踊ったりしていた。

クレバスにかけた梯子から落ちそうになるシーンはあったが、そこが一番のピンチであり、見せ場なのかと思っていた。ポスターにも使われている。
途中で高山病になる人はいたものの、もちろん省略もしているのだろうが、思っていたよりも簡単そうで、これくらいなら行ってみたいなとも思ってしまった。

けれど、最終アタックが始まってからが本番だった。特に標高8000メートルを超えた地点からはデスゾーンと呼ばれているらしい。人間はそんな高度で生きられるようには作られていないというセリフも出てきた。空気の薄さと寒さと天候の悪さが重なる。さっきまで余裕だったスコットもふらふらになっていた。この辺から、これは簡単な気持ちでは行くことはできない場所なのだというのがわかった。

それでも、数名が頂上へたどり着いていた。日本人のヤスコ・ナンバさんもたどり着き、頂上へ日本国旗をさしていた。ここまで英語だったけれど「ありがとう…」と日本語が出たときに涙が出てしまった。突如聞こえてきた日本語はとても美しかった。それに、日本人だからということで知らず知らずに感情移入してしまっていたらしい。
けれど、下りは天候不順と酸素不足により更に厳しくなった。ここの嵐のシーンの音響の迫力もIMAXならではだと思う。バリバリとした雷の音も怖かった。雪の中に倒れ込み、動けなくなったナンバさんの姿を見て、どうか助けてあげてと思った。自然の前での人間の無力さを思い知らされた。
ちなみに、ヤスコ・ナンバを演じたのは『ドクター・フー』のスピンオフドラマ『秘密情報部トーチウッド』のトシコ・サトウ役の森尚子。吹替でも彼女自身が担当しているようだ。

もう一人、郵便局員のダグにも感情移入していた。みんなより歩みが遅れていた。ガイドのロブは、もう時間切れだと言って下山するように言ったが、もう頂上が見えている場所なのだ。そんな場所から引き返せるだろうか。ましてや、前年に失敗して二度目である。高額な参加費を稼ぐのも、郵便局員では容易ではないだろう。
でも、頂上までは気力でなんとかなるとしても、そこから下山するのは大変なことだろう。気力もそこで尽きる。時間も大幅にオーバーし、酸素も足りなくなる。嵐も迫って来ている。
けれど、ロブもなんとか頂上に連れて行ってあげたいと思い、参加費を特別に割り引いてあげていたようだし、情がわいていたのだろう。その上、数日間、苦楽を共にしていたら当然のことだ。
本当はあの場面で、心を鬼にして、何が何でも下りると言わなくてはならなかったのだ。そのためのガイドだろう。友達ではないのだ。優しさが命取りになった。

少し前に、NHKで、カカボラジという山の登頂を目指すドキュメンタリーが放送されていた。挑戦するのはベテランの登山家三人だったが、本当に登頂直前で引き返していた。きっと引き返すことも勇気なのだ。命があれば、また挑戦できる。





アメリカで2007年公開。日本ではDVDスルー。ベン・アフレック監督作品。本人は出演はしていないけれど、主演は弟のケイシー・アフレック。

私立探偵のカップルが主人公ということで、この二人でシリーズ化できそうだと思ったけれどしていないということは、片方もしくは両方が死ぬか、廃業するか、別れるか、何かしら事情がある、ハッピーエンドではない終わり方なのだろうと思った。
あとから知ったのですが、『私立探偵パトリック&アンジー』という小説があり、そのシリーズの四作目『愛しき者はすべて去りゆく』が原作になっているらしい(原題は映画と同じ『Gone,Baby,Gone』)。シリーズ化されていた。しかも、今回が最後なのかと思ったら、六作目まで出ているらしい。
ここでの邦題、“愛しき者”というのは、誘拐されたアマンダであり、パートナーのアンジーでもあるのだと思う。“すべて”なので。おそらく原作でもアンジーは去るのだ。そうすると、五作目、六作目ではどうなるのだろうか。『私立探偵パトリック&アンジー』シリーズということは、アンジーも戻ってくる?

狭い町で少女アマンダが誘拐される。父親はおらず、母親はコカイン中毒。見かねた叔父叔母が私立探偵であるパトリックをたよってきて…という内容。
中盤くらいで、犯人と思われる麻薬の元締めみたいな男が殺され、アマンダは湖に落ちて死体は上がらず、うやむやのまま、アマンダの死亡届が出され、なんとなく事件が片付いてしまった。
映画の残り時間から考えて、真実は必ずあるのだろうし、その真実は大抵暴かれないほうがいいものであるパターンが多いことを推測しながら観ていた。

結局は、警察の腐敗…なのかもしれないけれど、みんながアマンダのことを考えて行動した結果なのだ。唯一あんまり考えていないのが母親という皮肉である。

難しい問題だと思う。そりゃあ、パトリックの言うことも正しい。というより、パトリックの言うことのほうが、一般的に考えたら正しいのだろう。けれど、正しいことが良いことだとは一概に言えないと思う。夢を見過ぎだと思う。私も、アンジーと同じく、アマンダはジャック警部の家で暮らしたほうが幸せだったと思う。

終わらせ方も残酷だった。母親が心を入れ替えて、娘と仲良く過ごす姿で終わっても良かったと思う。それなのに、母親は新しい男に会いに行こうとしていた。子守りを頼んでいるけどまだ来ないと言っていたけれど、たぶん来なくても、アマンダを置いて出かけていたと思う。それくらいウキウキした様子だった。誘拐された娘が、死んだと思っていた娘が帰って来たのに娘より男をとる。あの態度では、この先も変わらないだろうし、アマンダの将来だって危うい。

子守りを代わりに引き受けたパトリックは、アマンダの隣りに座って何を考えていたのだろう。後悔していたのではないかと思う。これで良かったと心からは思えなかったはず。それか、ジャックやレミーたちと同じ行動に出たい衝動にかられたのではないか。ここにいても幸せになれないというのを痛感しただろう。意見の違いからアンジーとも別れてしまっている。自分のやったことが良いことだったのか、悪いことだったのか、自問自答していたのではないかと思う。パトリックのモノローグはないけれど、彼の想いを考えさせられるラストだった。

この、ああ、もしかして自分は失敗したのでは…という後悔というか、後味が苦さが不気味でいいラストです。

カメラワークもいいなと思える部分がいくつもあって、ベン・アフレックあなどれないと思った。
銃を持って逃げるレミーをパトリックが追うシーンでは、壁ぞいに走るパトリックのすぐ後ろに手持ちのカメラがついていて、この角の先にいるのではないかとドキドキした。緊迫感がある映像になっていた。
パトリックとアンジーが、ジャックのことを通報するかどうか口論するシーンでは、パトリックを映しながら、背後にぼんやりとパトカーのランプが見えて、結局呼んじゃったのか…となんとも言えない苦しい気持ちになった。

また、前半、恋人が殺された母親がアマンダのことも心配しているシーン、車の後部座席で不安げな表情をしているところに日の光が当たっていて、なんとなく、この人は本当に娘のことを心配していると信じたくなった。このあと、車から降りた母親のことをパトリックが慰めるように抱きしめる。もしかしたら、パトリックもこの時のことが忘れられなくて、最後の決断をしたのではないだろうか。





前作が今年5月公開だったので、半年経たずに続編の公開になった。アメリカでは前作は2014年9月だったようです。本作はアメリカでは先月公開だったようなので、アメリカの人のほうが待たされている。前作のラストでは何も解決されなかった…というか、解決されたと思いきや、ラスボス登場で続く!という感じだったので、公開がはやかったのは嬉しい。
前作とはだいぶ種類の違った作品になっています。また、三部作とのことで、今回も終わりません。けれど、今回はアメリカとほぼ同時公開のため、前作のように最後に予告が入りません。一応、アメリカで2017年公開とのことなので、次作はだいぶ待たされそう。

以下、ネタバレです。前作のネタバレも含みます。









この映画のポスターなどには、「第2ステージへ…」と書いてあったのと、タイトルから今回は砂漠の迷路を抜け出す話なのかと思っていた。
しかし、第2ステージというよりは、第2〜第6ステージくらいまであった印象。また、下水などは少し迷路っぽくはあったけれど、基本的に迷路ではないです。常に何かから追われているため、走るシーンは多い。
原題は『The Scorch Trials』。荒れた地で大変な目に遭うというような意味のようです。確かにそんな感じでした。迷宮ではない。

前作は、主人公が送り込まれた謎の閉じられた場所とその周囲の迷路のみが舞台だった。『ソウ』のような感じで、記憶をなくした主人公が閉じ込められた場所から逃げ出そうと知恵を絞るうちに、少しずつ全貌が明らかになるという流れ。主人公は一人ではなく、仲間と力を合わせるのがおもしろかった。その仲間たちのキャラクターがそれぞれしっかりしていたのも印象的。前作はその迷路から抜け出したところで話が終わった。
抜け出しちゃったし、続けられるのかとか、抜け出した先もまた更に巨大な迷路で覆われているのではとか考えたけれど、結局迷路ではなかった。

今回は前作のような閉じられた世界ではなく、外へどんどん出て行き、場所も変わって行く。仲間と一緒に移動し、その先で困難を克服し、また新たな仲間に出会い…という流れから、なんとなく冒険映画っぽくもあると思った。最後に集落が焼き払われるところから『ホビット』も思い出した。ドラゴンなどは出てきませんが。
好みではあると思うんですが、私は前作のシンプルさが好きだったので、今回は世界が広がりすぎかなと思ってしまった。

あと、原作がヤング向けの小説なので仕方が無いけれど、前回以上に主人公補正が強烈にかかっていた。
最初の施設も、迷路を抜け出した精鋭たちを集めているにしては、まったく閉じ込められていなくてどうしたものかと思った。あの施設を抜け出すメイズ・ランナーでも良かったのではないか。それくらい要塞めいたものになっていて欲しかったのに。
まず、個室からダクトを伝って外へ出られてしまうのがおかしい。別の部屋にいたエリスも簡単に行き来していた。部屋から抜け出してからも、最後の扉が鍵も何も閉まっておらず、手動で開けられてしまうのもどうかと思う。
あれだけ執拗に追って来たということは逃がしたくなかったのだろうし、だったらもっと厳重な施設であるべきだと思う。

また、今回は主人公のトーマスが一人で新たな仲間と行動するシーンが多かった。大人も多数出てくる。かつての仲間が個々で活躍する、前作にあったようなシーンが少なくなっていた。前作の最後で、意地悪キャラのギャリーと可愛がられキャラのチャックが死んでしまい、次作でも活躍できそうなのに残念だと思っていたけれど、引き続き出ているニュートやミンホも今回それほど出番がなかったので、これ以上増やしてもどうしようもなかったと思う。本当だったら彼ら二人の活躍をもっと見たかった。
ただ、本作はミンホが連れ戻されるところで終わるため、次は仲間たちも存分に活躍するのではないだろうか。
連れ戻されたミンホを助け出すということは次作こそ施設を舞台にするのかもしれない。そうなると、やっぱり今作は外へ出て行かなくてはならなかったのだ。
それか、今作は折り返しのような作品になるのかもしれない。次はここから施設へ戻って行く話。追っ手はいないけれど、施設に辿り着かせないための障害は用意されているかもしれない。

今回、クランクという呼び方をされているんですが、どう見てもゾンビが出てくる。荒廃した世界のウィルスによって感染した一般人なんですが、うめき声や人間を襲い食らう様、また、噛まれた人間はクランクになるという条件からして、ゾンビです。走るタイプのため、映画の大部分で、ゾンビから逃げ惑うシーンが出てくる。そのため、ほぼ、ゾンビ映画のようになっている。仲間が噛まれ、クランクになってしまい、人間の心が残っているうちに自殺をするシーンの切なさは、そのまんまゾンビ映画のそれである。
また、トーマスの血清から抗体を作る?というようなことを言っていた。トーマスが特別な存在というのはまたヤング向け小説にありがちな主人公特化補正であるが、トーマスが追われている原因がゾンビになった人間を治すためなら、もうこれは三部作が終わったときに、結局これ、ゾンビ映画だったのでは…ということになりそう。
今作を見る限り、荒廃した世界そのものよりもクランク(ゾンビ)が脅威であるようだった。クランクと戦う、もしくは治療することがこの物語の最終的な目的だと思う。迷路を抜け出すことが目的ではなかったのだ。

かといって、主人公補正、ゾンビ映画、迷路じゃない諸々で別につまらなかったというわけではない。前作とはトーンが違うけれど、これはこれでおもしろかった。軽い気持ちで見られる。ニュートとミンホがもっと活躍してほしいというだけです。まだ先ですが、次作も楽しみにしています。


『ヴィジット』



シャマラニストなんて言葉があるほどファン(?)を抱えているM・ナイト・シャマラン監督ということで話題になっている作品。
姉弟が子供だけで訪問し怖い目に遭うので、構造としては『ヘンゼルとグレーテル』や『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』に似ている作品。一応、ホラーだとは思いますが、怖さを求めて行くと物足りないと思う。ただ、びっくりさせる系のシーンは何度かありました。

シャマラン“なのに”おもしろい!みたいな言われて方をしている作品ではありますが、私はほとんどシャマラン映画を観ていないので、他と比べてどうということはわかりません。

以下、ネタバレです。










POVのホラーというとよくある感じですが、姉弟がそれぞれカメラを持っているので、視点が二つになっているのはおもしろい。撮っている人が二人なので、二人ともちゃんと映っている。
夜にカメラを仕掛けて観察するのは『パラノーマル・アクティビティ』を思い出したけど、プロデュースが同じジェイソン・ブラムだったらしく納得した。

カメラも子供たちが持っている(という設定)だし、ほとんど祖父母の家の中で起こることなので、こじんまりとはしている。低予算だろうけれど、アイディアはフレッシュだと思う。新人監督っぽさがあるが、シャマランというのが意外。

映画の公式ページや宣伝を見ると、どんでん返しやそこで起きることの謎について大きく書かれているけれど、その真実自体はそれほど驚くようなものではなかった。
母がいない以上、たぶん本物の祖父母ではないのだろうと思っていた。「病院が大変なことになっている」みたいな話が出てきたときにも、じゃあそうなのかなとは思った。

でも、病院から抜け出してきた患者だとすると、お年寄りなら仕方がないのではないかという気持ちにもなってしまう。そもそも、どうして殺してまで入れ替わってたのかもわからなくなってしまった。孫というか、子供たちと楽しい休日を過ごしたいだけだったのかもしれないと思うと、少し同情すらしてしまう。
また、病院に入れられているお年寄りがあんなに狡猾に動けるのだろうかということも考えてしまった。

もっと、刑務所から脱走したとかただただ悪意だけのほうが良かった。それか、途中で“暗闇さん”というキーワードめいたものが出てくるけれど、悪魔憑きとか現実味のないものにしてほしかった。同情する隙を与えないでほしい。

ラスト付近でパトカーが助けに来ますが、それに乗っているのも警察ではなく、病院から抜け出した患者とか、ぞっとするような、救いの無い終わり方でも良かったと思う。

ただ、この後の本当のラストを見て、そんなトリックとか怖さは別にどうでも良かったのだと思った。
そもそも、姉(と弟)は、離婚した母のために祖父母の家へ行ったのだ。母が少しでも救われたらと思って、ビデオを撮り、祖父母に母の話を聞こうとした。
結局はそこで酷い目に遭ったし祖父母も別人だった。一言で書いてしまったけれど、映画の大部分を占めている本筋はこのあたりです。別人だったので、当然、母の話も聞けなかった。

母は最後に、姉のまわすビデオに向けて、自分で自分のことを話す。そして、母は「怒りは忘れなさい」と言って娘を抱きしめる。ここでの怒りが何だかわからず、偽祖父母に対してかとも思ったけれど、その後流れるのが、まだ小さい姉弟が在りし日の父親と戯れている映像だった。

ホラーとかトリックとかを気にしてここまで観てきたので気づかなかった。姉は、母のために…と頑張ってビデオを撮影していたけれど、結局、自分のためでもあったのだ。その本心についてまったく考えないままに映画を観ていたので、最後ではっとした。
弟を守り、母の“万能薬”を探して、一人で立ち回っていたけれど、彼女だって

こう書いていると弟は何もしていなさそうですが、ムードメイカーです。映画全体のムードメイカーでもある。タイラーという名前なんですが、Tダイアモンドという芸名でラップを披露。子供なのに大人顔負けのちょっと下品目な内容なのが和む。

映画の最後、“弟が「どうしても…」と言うので”という注意書きの後、弟が自分の身に起こった大変なことをラップで歌う。弟がカメラに向かってやっている時、姉は後ろで化粧なのか、何か作業をしていて背中を向けているけれど、何度かちらちらと振り返って見ているのが可愛い。
姉のエピソードで泣かされた後、最後の最後にこの和みシーンが入るのがとてもいい。これがあるのとないのでは作品のトーンがまったく変わる。

シャマラニストの方々だときっとまたまったく違う感想になるのではないかと思う。トリックの甘さは感じたけれど、この主人公姉弟がとても良かったので好きな映画です。





2012年の『マジック・マイク』の続編ではあるけれど、監督はスティーヴン・ソダーバーグから、グレゴリー・ジェイコブズに変更。グレゴリー・ジェイコブズは、ソダーバーグ監督の製作を主につとめている方で、ソダーバーグ・ファミリーだったようです。
けれど、作品の雰囲気は前作とはがらりと変わった。前作は男性ストリッパーの映画と聞いて想像したものとは違ったんですが、今回はそうそうこれこれといった風にしっくりくる内容となっている。
映画としての完成度は前作のほうが高いかもしれないけれど、楽しさや観た後での元気が出る感じはこちらのほうが上だし、なかなかこのような映画はないと思う。

以下、ネタバレです。








前作は主人公のマイク(チャニング・テイタム)がつらそうだった。そりゃあ、男性ストリッパーは楽な仕事ではないと思う。夢もあって、似合わないスーツを着て営業をしている様子も見ていられなかった。踊っているときにも、眉間に皺を寄せて、悲壮感が漂っていて、もうそんなことならやめたらいいんじゃないかとすら思った。

今作も、序盤で一人きりの従業員から、「保険に入らせてほしい」と言われたマイクが、そんな金もなく悩むシーンがあり、今回もこんな路線なのかなと思った。しかし、その従業員を帰らせたあと、一人で作業をしていたところで、ラジオから懐かしのナンバーが流れ出し、ドリルなどを使いながら踊り出してしまう。そこからは、踊ることが好きでしかたがないという感情が溢れ出ているし、その姿を見ているとこちらもわくわくしてくる。
本当に観たかったのはこれなのだと思った。

結局、マイクは前に働いた店の仲間と久しぶりに会って、大会に出るべく旅に出る。
今回、マシュー・マコノヒーが演じていたダラスは出ないんですが、それも良い方向に働いていたような気がする。彼らを抑圧していたのはダラスで、上司的な存在であるダラスがいないからこそ、彼らが思う存分好きなことができ、はっちゃけられたのではないかとすら思えてしまう。
それくらい、マイクはもちろん、他の仲間たちも楽しそうだし、今回のほうがキャラクターがたっているし、何より、全員のことが好きになった。

今回、要はロードムービーなんですね。あまりそりの合わない仲間たちがわいわいやりながら、時には失敗をして、途中で会った人たちに助けられ、旅を通じて結束が強まる。よくあると言えばよくある話だ。最後に大会に出ることからも、『リトル・ミス・サンシャイン』っぽさもある。ただ、こちらは題材が男性ストリッパーです。

旅で辿り着いた先々でステージに上がり、観客を魅了する。もちろん、ステージシーンは大迫力だ。私も会場にいるお客さんと一緒の気分になっていたらしく、きゃーきゃー言ったり、1ドル札をまけない代わりに、拳をぎゅっと握りしめていた。

常に踊っているわけではなく、旅の途中の車の中やお世話になる豪邸の中などで、お喋りのシーンも長い。動きなく、ただただ喋っているというシーンがかなりある。人によっては退屈とも思うかもしれないけれど、私は、彼らの性格が少しずつわかってくるのがおもしろかったし、このような日常パートは大好物なので満足した。
筋骨隆々の男性たちが、カメラのワンショットに入りきれるくらいの狭い場所でわいわいと雑談しているさまから、なんとなく『エクスペンダブルズ』シリーズを思い出した。『エクスペンダブルズ』のアクション以外のシーンですね。筋肉仲間たちの愉快な珍道中といった感じ。
日常パートにしても、ただ仲がいいだけではなく、ちょっともめたりすると本当に楽しい。『アベンジャーズ』などでも見られたあの感じです。

みんなで盛り上がるためにドラッグをやり、“54分後”という表示が出たあと、過剰に落ち込んだ症状が出ていたのもおもしろかった。チャニング・テイタムだけに『21ジャンプストリート』を思い出した。

コンビニの無愛想な店員を笑顔にしろというミッションを受けたリッチーのシーンも最高。バックストリート・ボーイズの『I Want It That Way』に合わせて踊る。スナック菓子をばらまき、冷蔵コーナーの水を勝手に開封して浴びる。これ、ただの迷惑な客では…と思ったし、店員さんもしらけ顔でひやひやした。そして、一曲思いっきり踊り終わると、こう聞く。「チートスと水でいくら?」。
それで店員さんもにっこり。私もにっこり。店外の仲間たちも大盛り上がり。
こんなシーンは前作にはなく、入る余地もなかった。踊る喜びと、観客の喜びを感じると、観ている私だって楽しい。

前作は退廃的な雰囲気が漂っていた。男性ストリッパーを見に来るなんて、隠れていなくてはいけないこと、いけないこと、悪ですらあるようだった。
今回も、ローマの館は会員制クラブだし、薄暗いし、退廃的ではある。でも、そこにいる女性たちは心底楽しそうだった。あっけらかんとしている。主であるローマも女性なので、女性の気持ちがよくわかっているようだった。
ローマを演じたのがジェイダ・ピンケット=スミス。私は『ゴッサム』のフィッシュ・ムーニーだ!と思ってしまったんですが、ウィル・スミスの妻なのを知らなかった。ジェイデン・スミスの母です。
彼女はフィッシュ・ムーニーのときもそうでしたが、周囲を鼓舞するのがうまい。「夫や彼氏に隠れてきている人も多いかもしれない。普段は抑圧している気持ちをここで解放しなさい!男性たちにかしずいてもらう準備はできてる?」と言っていた。その言葉に、会場の女性たちから大歓声があがる。
ローマの言葉にはフェミニズムメッセージも含まれているようだった。男性ストリッパーという特殊な職業を題材とする以上、本当だったら当然描かれなくてはならないことだ。別に話の中心に持ってくることはない。けれど、見に来ている女たちにも光がちゃんと当たっているのが嬉しい。

喜ばせて(悦ばせて)ほしい女性と、女性を楽しませたいと思う男たち。これが主題になっている。
そして、それだけではなくて、男たちも踊ることが、女たちを楽しませることに喜びを感じている。これは、途中の雑談からも察することができるし、最後の大会の準備風景から見ても明らかだった。序盤では「1ドル札の波に埋もれようぜ!」と言っていて、金のためというのもあっただろうけれど、準備の風景を見ていると、様々なアイディアを小道具に仕込んでいたし、ちゃんと練習だってしていたし、好きでなくてはできないことだと思う。本当に、ただのストリッパーではなくエンターテイナーである。

最後の大会のシーンでは最初にジーンズに上半身裸という前作でお馴染みの恰好で出てきて、それから各キャラごとのそのキャラを生かした出し物があるのが素晴らしい。全員に見せ場があって、全員のことが好きになってしまう。
これも雑談からわかることだけれど、彼らだって、人生に迷っているのだ。順調というわけではない。それでも、踊ることが好きだし、楽しませたいと思っているし、実際に会場が盛り上がっているのがなんだか泣けてしまった。

今回、マイクの相手役ではないけれど、親しくなる女性としてゾーイという子が出てくる。本当か嘘かわからないけれど、「男性には興味が無いのよ」と言っていて、それをアンバー・ハードが演じているのがいい。他の映画で観た時よりもメイクが薄く、これくらいのほうが若く見えるし好感が持てた。
最後の大会も見に来るんですが、最初に、マイクが“お?来たね”みたいな感じに素の表情で笑うのがいい。チャニング・テイタムいいです。
それで、いざマイクが踊るときにゾーイをステージに上げるんですが、もう彼女もキャラを忘れているような顔でキャー!ってなってニコニコしているのが本当に可愛い。そこまですかしている感じで、わりと無表情でつんとしていたのに。

最後に、マイクが「笑顔が戻ったね」というのもぐっときた。マイクなりにゾーイを元気づけていたのだ。そして、映画を観ている私も笑顔になっていたことから、一作目で首を傾げながら映画館を出たことに対しての答えでもあると思った。これは元気の無いときにも観たい作品になった。

細かいところで、大会にマトリックスの恰好してる人がいたけど、ジェイダ・ピンケット=スミスが出てるのと関係あるのとか、『トワイライト』をバカにしてたけどジョー・マンガニエロは『トゥルーブラッド』の主要キャラじゃんとかも気になった。

あと、ターザン(ケビン・ナッシュ)の切なさとか、ケン(マット・ボマー)のレベル3のヒーラーで爆笑したとか、キャラそれぞれの細かい部分も全部愛おしいです。
そして、またチャニング・テイタムのことが一層好きになってしまいました。


原題『What We did on our Holiday』。原題とはだいぶ違うけれど、そのまま訳して“僕らが休日にしたこと”では地味だし、そのまま英語のタイトルにもしにくい。ただ、“贈りもの”なんていう言葉からイメージされるような、優しいものとは少し印象が違った。
あと、海賊というとパイレーツかと思ったけれど、ヴァイキングのほうでした。

以下、ネタバレです。








離婚寸前の仲の悪い夫婦がなんらかの理由で里帰りし、そこにいる“じいちゃん”から助言をもらうか、もしくは亡くなるかして、こんな小さなことで言い争っててもね…というように仲直りし、めでたしめでたしというようなストーリーを想像していた。けれども、そんな甘い話ではなかった。

じいちゃんの誕生日会のために帰省したはいいけれど、そこで自分の兄弟に久々に会ってもめている様子は、なんとなく『8月の家族たち』を思い出した。ただ、あそこまでは殺伐としていない。それに、じいちゃん自身は自分で死が近いことを知っているから、なんとなくその言い争いすら愛おしく見守っていて、自分が争いの中に積極的に関わったりはしない。
ただ、頑固ではある。自分はもう長くないことが自分でわかっている。おそらく調子も悪い。けれど、そのことで弱気になって、息子に相談したりはしない。

そんな中で孫たち三人を連れて海へ遊びに行き、事件が起こる。

海へ行く途中で会ったおばあちゃんが素敵だった。多分、じいちゃんは息子たちよりもこのおばあちゃんに心を許している。じいちゃんは子供たちに「この人はガールフレンドとね…」と口を滑らす。当然、「れずびあんってなーにー?」みたいなことになり、おばあちゃんは「私はレズビア国の〜」みたいなことを言って誤魔化す。
こういう話題をさらっと混ぜてくるあたりが、さすがイギリス(スコットランド)というかBBC Filmというか。

子供たちにとってはそんな話を聞くのも新鮮で、車を運転させてもらうのも新鮮。普段、両親が言い争うさまを聞いていることを考えると、何倍も楽しいだろう。海辺というシチュエーションも開放的である。
そこで、具合の悪かったじいちゃんが亡くなってしまう。

最初はもちろん、大人を呼びに行こうということになるが、結局戻っても、いつものように喧嘩をしていて、そうしたら当然、頼りにできないと思う。
結局は、今までもこの繰り返しだったのだと思う。信用されていない親というのはどうなのだろう。

そこで、じいちゃんはヴァイキングだったようだし、ヴァイキング方式で、自分たち(子供たち)だけで弔おうとする。
姉弟妹の三兄弟の真ん中の男の子は元々ヴァイキング好きなので、アイディアを出し、三人は流木を使って舟ならぬいかだを作り、じいちゃんを乗せ、海に放って火をつける。舟葬と水葬が一緒になったようなもので、男の子はあとになって、あの方法が正しかったのかわからないと言っていたけれど、調べてみると、ゲルマン人のヴァイキングがその方法で間違いないようです。

子供たちがせっせと筏を作って弔う準備をしていて、同じ時間に何も知らない大人たちはすでに亡くなってるじいちゃんの誕生日会の準備をしているという、その対比が皮肉だけれどおもしろかった。そして、じいちゃん自身も、呼んで欲しくない人もいたみたいだし、誕生会は望んでなかったのかもしれないと思うと、大人たちが滑稽に見えた。
対する子供たちは、夏特有の冒険というか、きらきらしていた。自作した筏も、漁師が使うロープを拾って作ったのでカラフル。

カラフルな筏に乗せられたじいちゃんが海の果てへ流れて消えて、めでたしめでたし…。というストーリーだったら、でも死体は誰にも見つからないの?とか、死体遺棄とかにならない?とか、舟の燃えた残骸はどうなるの?とか疑問ともやもやがが残ってしまうところだった。

この、瑞々しさすらあるファンタジーやおとぎ話のままでは終わらせない。
ちゃんと警察やマスコミが来て、子供の視点から一気に現実的な大人の視点に変化する。海岸は捜査されるし、マスコミは家の前に群がって家庭内の不和も嗅ぎ付ける。

ラストだって和やかではあるけれど、夫婦は完全には仲直りせずに、別居は解消されない。それでも、事態は少しは良くなって、未来は明るいのかもしれないという希望も持てる。このように、示唆するくらいがちょうどいい。
視点の切り替えと、話が急に動き出す様子が特殊だと思った。

ずっと喧嘩をしている夫婦を演じているのがロザムンド・パイクとデヴィッド・テナント。おそらく、ロザムンド・パイクが『ゴーン・ガール』でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたことで日本公開が決まったのではないかと思われる。
私の中ではデヴィッド・テナントといえば代表作はどう考えても『ドクター・フー』だけれど、この映画のポスターのテナント名前の上には『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』と書いてあり、日本での知名度の低さに驚いた。
実際、映画館にもテナント好きと思われる若い女性はあまりいなかったのもショックだった。もう少し人気があるものだと思っていた。

デヴィッド・テナントはドクター以外だと、精神疾患を抱えていたり、過去に何か悪いことが起こっていたりと、どこか影のある役が多い。
けれど今回は、普通のお父さん役である。少しだめな父親ではあるけれど、完璧ではないあたりが人間臭く、こんな役もできるのだと感心した。

ドクターは温厚というか、物事を達観していて、比較的冷静に対処する場合が多かった。けれど、今回は「浮気相手の名前はウォレスよ!」「グルミットもいるのか!?」などという、くだらなすぎて、他人事なら笑いすらもれる言い争いをする場面も見られる。

ちなみに、劇中でのじいちゃんの誕生日会で、お兄さんはスコットランドの正装であるキルトスカートだったけれど、テナントは普通のスーツでした。ロンドンで長く暮らしているという役柄だったからだろうか。この映画のプレミアにはキルトスカート着用で出席したようです。




2005年公開。旧作ですが、以下には2015年版のネタバレも含みますのでご注意ください。











まず、リードがマイルズ・テラーと違ってだいぶ年を取っていたので驚いた。けれど、これは単純に見た目の問題でした。二人とも30歳前後だった。主演のヨアン・グリフィズは『アメイジング・グレイス』の主演の方。その時にも思ったけれど、V6の岡田君に似ている。科学オタクっぽくはない。スーザンとも元々付き合っていたらしい。

それで、リードの隣りにいてベンと呼ばれている人も、ジェイミー・ベルと似つかない。印象がまるで違って、体格ががっちりしていてスキンヘッド、変化する前から少し岩っぽい印象。「俺は力仕事専門だ」とも言っていて、役割もそれほど変わらない。こうなると、ますます、なんであの役をジェイミー・ベルにしたんだろうという疑問がわいてくる。

ヴィクターも元々、金持ちで女好きな嫌味な奴。いかにも悪役になりそうだなという印象で、トビー・ケベルが演じたようなかわいそうな感じとか、なんで彼があんな悪い奴に…という意外性もない。だからこそ、すんなり受け入れられる。

スーザンの弟ジョニーも、血が繋がっているようだった。2015年版ではおそらくマイケル・B・ジョーダンを使いたかったのではないかと思うけれど、スーザンが養女と言う設定だった。あの設定は今後に生かされてくるのだろうか。本作ではジョニーを演じているのがクリス・エヴァンス。キャプテン・アメリカとは違う、おちゃらけた役だった。
でも、彼のおちゃらけ無邪気なキャラがこの作品を軽く観られる愉快なものにしていて良かったと思う。

序盤に宇宙に出るんですが、急に出たので施設のシミュレーション機械のようなもので訓練をしているのかと思ったら、本当に宇宙に出ていた。そして、宇宙嵐を浴びて体に変化をきたす。

ただ、これも、2015年版がひたすら悩んでいたのに対し、こちらは呑気なものである。
スーザンとリードが見つめ合うシーンでは「私を見て」「見えないよ(透明だから)」というロマンティックが台無しになっていた。スーザンの着替えにリードが遭遇してしまったが、スーザンは悲鳴を上げながら姿を消した。ラッキースケベになりそこねている。
リードはトイレに入っているときに紙がなくなってしまったが、伸びる手を使ってトイレットペーパーを取ることができた。顎の皮膚を伸ばしてひげ剃りをしていた。
ベンは岩のために指が太くなってしまい、プッシュホンで電話がかけられない。フォークが持てない。でも、力持ちになったので、生絞りオレンジジュースを簡単に作っていた。
ジョニーにいたっては力を手に入れたことが嬉しそうである。その体を生かして、モトクロス大会に出て目立ち、モテる。

この明るさがいい。2015年版ももっとコミカルにすれば良かったのに。ジョニーが岩の姿になったベンに「耳はどこ?」なんて聞いていたが、2015年版はそんな雰囲気ではななかった。

ベンも岩の姿になって落ち込んではいたけれど、人の自殺を止めたり、玉突き事故のきっかけは起こしても、橋の上から人を救ったりと活躍していた。2015年のベンは軍に利用されただけだったが、こちらは自発的に動き、結果、四人ともが民衆を救った。拍手と大歓声が起きる。これがヒーローである。
マスコミだって飛びつく。ファンタスティック・フォーというネーミングもマスコミがつけた。

こちらのヴィクターは、宇宙に出ての実験が失敗し自社の株が下がった、スーザンもとられたということで、完全に逆恨みしてリードを攻撃する。でも、元々嫌な奴だったし、その行動の意味もわかる。顔の傷を隠すために鉄仮面を被るというのも恰好良い。

バトルシーンでは、リードの体が思ったよりも伸びていてびっくりした。タイヤとかマントとか、思ったよりも自在に変化していた。でも体が伸びるだけなので、直接攻撃というよりは補助的な役割です。でも、四人の特性の生かし方も本作のほうが派手だった。「正義の鉄拳タイムだ!」というキメ台詞も漫画っぽくて良かった。
戦う前に、一人一人が別々に現れて、四人ざっと並ぶのも漫画っぽい絵面でした。

またこれは、町中で行われていて、ギャラリーがたくさんいます。逃げなくていいの?とも思うけれど、誰もいない次元で戦うよりはよっぽどいい。エキストラも呼べなかったのだろうかと思ってしまう。

結局、科学知識によりドゥームを熱して冷やしてかためる。オープニングが、ヴィクターの会社のロビーに彼の銅像を建てていて、リードたちが悪趣味だなどと笑っているシーンだったので、そことかけてあるのも粋。

本作が更に良かったのは打ち上げがあったことです。2015年版は彼らの戦いを誰も知らないし、四人で新しい研究所に並んで話すというひっそりとしたものだった。でも、戦いのあとにはやっぱり大人数の打ち上げがあってほしい。しかも今回は船上パーティである。

最後の戦い前に、ベンは人間の姿に戻るんですが、そのあとで、自分も戦えたらいいのにという意識が芽生える。生身の姿では友が救えないと考え、再び岩の姿へ戻る。すっかりヒーローになっていたのだ。
打ち上げでは横に女性を抱き寄せ、別に元の姿に戻らなくてもいいとも言っていた。そもそも婚約者だか妻だかに嫌われたから戻りたかったのだろうか? 新しい彼女ができればそれでオッケーだったのか。
2015年版のジェイミー・ベルは元に戻りたいと思っていると思うし、私も戻って欲しいです。女のために、みたいな豪快さはあのキャラクターからは感じられなかった。

最後には、ヒューマン・トーチが船からびゅーんと飛んで行って、夜空にファンタスティック・フォーのマークを描く。自由の女神がどーんと映る。
なんか画のつくり方からしてバカっぽいが、派手でいい。パーティーの参加者も喜んでいた。粗は多い作品だと思うけど、軽さとコミカルさと漫画っぽさで深く言及するのが馬鹿馬鹿しくなる感じ。細かいギャグを笑って楽しむものなのだろう。

2015年版もこっちのノリのほうが良かったです。



2015年版。ストーリーや雰囲気など、2005年のものとはだいぶ違うようですが、そもそも、原作が違うとのこと。

以下、ネタバレです。









普通に生活をしていた人たちがある原因で体に異変をきたし、特殊能力を手に入れるという大筋と、登場人物の名前は同じだけれども、他は全く違います。
前作だと宇宙船で宇宙嵐を浴びて、という原因だったけれど、今作では異次元に瞬間移動していた。
その瞬間移動も、装置完成記念というか、前打ち上げというか、酔っぱらった勢いでのものである。
天才科学者のリードと、同じく天才のヴィクターも一緒に酒を飲んで意気投合しかけていた。ジョニーと幼馴染みのベンとともに、酔った勢いで、完全に調子に乗って楽しくなった状態で、おふざけ半分で異次元へ飛ぶ。
見事飛べたものの、向こうで事故に遭い、ヴィクターだけを残して三人で帰ってくる。
その事故が原因で、三人の体に異変が起こる。もちろん、大変な異変だし、自分のことで手一杯になってしまうのもわかる。リードにとってはベンが幼馴染みで親友だし、体を元に戻してあげたいと必死に研究をするのもわかる。

でも、置いてきたヴィクターのことを誰も気にしていない。異次元に行く前の飲み会では友情すら芽生えかけていたのに。
崖に落ちていたし死んだのかと思ったのかもしれないけれど、自分たちがこうなってしまったということは、ヴィクターにもなにかしら異変があるだろうし、なにより異次元に一人残してしまうのは危険すぎる。まず異次元へ戻り、ヴィクターの状態を確かめに行くのが最優先だろう。
それなのに、誰も気にしていない。生きている死んでいるの話にも言及しない。
『火星の人』を最近読んだせいかもしれないけれど、責任を持って迎えに行ってあげてほしい。

ヴィクターはのちにドゥームになるので、仲直りなどしようもないのはわかっている。
でも、それならば、ヴィクターは前半でリードに嫉妬したり、それ以外にも負の感情を抱いていそうだったので、それが原因で敵になったら良かったと思う。それが単なる事故。置いていかれたことを恨んでいたようでもなかった。

『ファンタスティック・フォー』を冠している以上、異次元で事故にあった三人と研究所にいながらにして事故にあった一人の四人と、ドゥームが戦うのはわかっていた。でも、まったくその気配がない。
90分しかないのにこんなことやっていていいのかなと思っていたら、ほとんど唐突ともいっていい感じで異次元で戦いが始まる。異次元空間は薄暗いし、周りには人の住む建造物などもないし、誰にも迷惑がかからずに思いきりバトルができるからスリルがない。何を守って戦っているのかも明確になっていない。そもそもヒーローっぽくは見えない。

ヒーローというのは、やはり民衆から頼られてこそなり得るものだと思う。周囲が囃し立てて、ヒーローが作られるのだ。
彼らの存在は、民衆の前には出ていなかったし、具体的に民衆を何かから救うということもしていない。一部のお偉いさん方には存在が知られていて、軍で利用したいなどという提案が出されていたが、そういうことではない。
挙げ句、“ファンタスティック・フォー”という呼び名も自分たちで考えていた。誰もファンタスティックとは言ってくれないから自分たちで名乗るなんて悲しすぎる。

リード(Mr.ファンタスティック)役にはマイルズ・テラー、その幼馴染みベン(ザ・シング)役にジェイミー・ベル。この二人の少年時代の話も良かったし、大学生になってからもぼんくら科学オタクっぷりが良かった。変身してからが良くなかった。
特にジェイミー・ベルは元々アクションができる俳優なのに、彼の身軽さというかすばしっこさがまったく生かされていなかった。なんせ岩である。見た目にもジェイミー・ベルの名残がまったくない。
名残がないといえば、ヴィクター役のトビー・ケベルそうだ。同じ悪役でも『猿の惑星;新世紀』のコバとは大違いだ。今作だと、トビー・ケベルもジェイミー・ベルも、彼らで会う必要が無い。

元も子もないことを言わせてもらうと、『ファンタスティック・フォー』ではなく、同じ俳優さんたちを使った学園ものが観たかった。

そんなことを考えてしまったのだが、監督が『クロニクル』のジョシュ・トランクで納得した。結局私はこの監督さんの作る『クロニクル』と同じ系譜のものが観たかったのだ。

主人公リードは科学に関しては天才だけれど、人付き合いは下手。幼馴染みのベンだけは、彼に付き合っている。科学の才能も認めていて、コンビのような形で研究を続けている。
ある日、美人で科学の才能もあるスーザンに出会い、恋をする。彼女の弟、ジョニーは学園の人気者で生徒会候補(演じているのがマイケル・B・ジョーダンなので『クロニクル』から設定をいただきました)という点でもリードは萎縮してしまう。
更に、スーザンは幼馴染みのヴィクターと何か関係がある様子。ヴィクターは影のある不良タイプで、同じ学校だけれど、来てはいないようだ。見た目腕っ節ともにリードはかないそうにない。けれど、ヴィクターも科学に精通している。ヴィクターからも、科学やスーザンの件両方で、リードはライバル視される。
リードとヴィクターは、スーザンを賭けた科学バトルをすることになるが…といった内容のほうが観たい。科学バトルは学園で行われる科学コンテストとかでもいい。二人の賭けの対象にされたスーザンが、怒って自分もコンテストに参加してもいい。
それで、全員の発明品がとんでもないもので、事態が大きくなってしまい、結局なんやかんやで地球の平和を守るまでに発展してもいい。

マイルズ・テラーはアーロン・テイラー=ジョンソン、ジェシー・アイゼンバーグが失った童貞俳優臭があるのでそこを生かしてもらいたいのだ。特に前半のメガネが良かったので、本当ならずっとメガネでいってほしかったくらいだ。学園ものならずっとメガネでもいけるはず。

『クロニクル』系のこじらせ男子ものなら、ヴィクターが主人公でもいい。ベンのような相棒もいないし、何せ、トビー・ケベルが何かひどいことを企んでいそうな顔をして、コンピューターに一人で向かっている姿は良かった。

俳優、監督、題材のすべてがかみ合っていない印象を受けた。次作はもう少し話が動くのだろうか。



主演はオスカー・アイザック、その妻役にジェシカ・チャステイン。この二人が好きなので観ました。
『オール・イズ・ロスト 〜最後の手紙〜』のJ・C・チャンダー監督。原題は『A MOST VIOLENT YEAR』なので、このままにするか、『理想の代償』だけでも良かったのではないかと思う。『アメリカン・ドリーマー』というタイトルがありがちというか何か他のタイトルにありがちっぽくておぼえにくい。おそらく、何年後かには「オスカー・アイザックの…、石油の…」という説明になりそう。

以下、ネタバレです。





『アメリカン・ドリーマー』というタイトルも、そのものなので間違いではない。舞台は1981年のニューヨーク。オイルビジネスで成り上がった男の話だ。
成り上がる過程は描かれず、すでに主人公アベル(オスカー・アイザック)の会社は大きくなっている。ピンチに巻き込まれているけれど、それがどんなピンチなのか、その原因は?というのを追及していく流れになっている。
石油業界やビジネスの話なので少しかたく、渋い話ではあるけれど、実話ではないので創作ならではの見せ場もあるし、もやもやした終わり方もしない。

石油を盗んだトラックとアベル自身が偶然出くわすというのも実話だったらあり得なかっただろう。本人が犯人を追跡するシーンはこの映画で一番ハラハラするシーンだった。地味目と思いきや、ちゃんとこのような派手なシーンも入っているのがいい。

部下のジュリアンがオイル輸送中に襲われ、怯えてアベルらに内緒で銃を携帯していたときには、部下ひとりの行動で大きな会社が駄目になる恐ろしさを感じた。しかし、ジュリアンの気持ちもわかる。会社よりも自分の命が大事なのは当たり前のことだ。
ただ、ここまで慎重に慎重にことを運んできて、クリーンな会社経営をしてきたアベルの気持ちもわかる。
妻のアナ(ジェシカ・チャステイン)だって、アベルと会社のことを思って裏金を作っていたのだ。
誰もの気持ちがわかる。けれど、すべてが悪い方向へ動き出していく。アベルはまるで罠だらけの綱渡りをしているようで、とてもゴールへは辿り着けそうに見えない。これはもしかしたら誰もが幸せになれない映画なのではないかと思った。

けれど、ぼろぼろになりながらもなんとか事態は収拾する。本当になんとかという感じだったけれど、後味の悪さはない。

ただ、アベルはあれだけ部下のことを思っているようなことを言っていたのに、ラスト付近では倒れたジュリアンではなく、石油の漏れるタンクを気にしていた。結局は冷酷な男なのか、それとも部下に話していたことも広い意味で考えれば会社のためを思ってのことだしやはり石油のほうが大切なのか。倒れたジュリアンは救えないけれど、石油がタンクから漏れ出すのは止めることができるということだろうか。
映画内で描かれてはいなくても、おそらく、会社を大きくするまでにアベルは大変な苦労をしたのだろう。それが窺えるシーンでもあったとも思う。

このシーンは雪が積もっているんですが、雪の白と、血の赤と、オイルの黒がという色のコントラストが美しかった。映像美にもこだわる監督なのだというのがわかった。

また、このシーンの少し前か後かに、斜め上空から俯瞰でとらえていて、スクリーン左上から車がゆっくりと入ってくるショットがあり、少し変わった構図というか、印象に残っている。雪が積もっている地面が車の走行音を吸収し、妙に静かに思えた。『ダークナイト ライジング』後半の、装甲車が街を巡回するシーンを思い出した。

会社の社長ということで、衣装からもそれがよくわかった。オスカー・アイザックの衣装はオバマ大統領も顧客だという仕立て屋のスーツらしい。舞台が冬ということでキャメルのロングコートも気品が漂っていた。この衣装で犯人と思われる人物を追跡して行くのが迫力があった。
ジェシカ・チャステインの衣装はアルマーニらしく、エンドロールにも大きく名前が出ていた。もともと、彼女自身がジョルジオ・アルマーニと親しいらしい。

ジェシカ・チャステイン演じるアナは途中でギャングの娘だということが観客に明かされるのだけれど、すごく納得してしまった。上品ではあるけれどキモが座っているというか根性がありそうというか。単なるお嬢様とは違う雰囲気がいい。
けれど、「今まであなたの魅力だけで勝ち上がって来たと思ってるの? 私が汚れ仕事をやってきたのよ!」と激昂するシーンがあるが、私はジェシカ・チャステインの怒鳴り演技があまり好きではないのかもしれないと思ってしまった。基本的には好きな女優さんなのですが。びっくりするというか、怖いというか。それは演技がうまいからなのかもしれないけれど。

オスカー・アイザックはやはり今作でも目が暗いので、もしかしたら悪者なのではないかと思ってしまった。けれど、強い野心を持っている男で、結局は彼だけが純粋だった。その純粋さも会社一筋ゆえのことだったのかもしれない。金が足りなくても、妻の親(ギャング)に金を借りることだけは絶対にしなかった。嫌な奴にも頭を下げていた。

髪型が昔風なせいなのか、きっちりした服装だからなのか、40代後半くらいに見えたけれど、何歳という設定だったのだろうか。ご本人は35歳らしい。会社を築き上げて一大勢力になり…という話なので、30代ということはなさそうな気がする。
あと、どうでもいい話ですが、胸毛が無いのが意外だった。剃っていたのかもしれないけれど。


『ハングオーバー!』シリーズのスチュ役でお馴染みエド・ヘルムズ主演。原題は『Vacation』。この邦題は『なんちゃって家族』あたりからの繋がりではないかと思う。『なんちゃって家族』にもエド・ヘルムズは出演。
監督はジョナサン・ゴールドスタイン&ジョン・フランシス・デイリー。『モンスター上司』の脚本コンビ。監督としてはデビュー作となる。
海外のコメディがなかなか映画館でかからなくなり、DVDスルーが大半、上映されるにしても数年後ということが多い中、全国2館とはいえ、無事に上映してくれて良かった。本国での上映も今年7月とそれほど間もあいていない。

以下、ネタバレです。







エド・ヘルムズ演じるラスティが家族の絆を取り戻すべく、妻と子供二人を誘って車でアメリカ横断をする。その途中でいろいろあるロードムービー。
来るぞ来るぞというところで必ずお約束のようなギャグが入る。意外性こそないけれど、それが逆に心地よい。

例えば、「Four Cornersでセックスしたら4州で愛をかわしたことになる!」と名案めいたことを言って夫婦でホテルを夜に抜け出せば、Four Cornersはたくさんのカップルで順番待ちが起こっている。ここも、たぶん誰かと鉢合わせするんだろうなあと思いながら見ていたので意外性はなかった。
加えて、警察が取り締まりに来るんですが、4州それぞれの警察が来て内輪もめをする。ここも1つの州が来たときにこうなることはなんとなくわかった。けれど、ニューメキシコ州の警官がマイケル・ペーニャだったことで爆笑してしまった。『ペントハウス』『アントマン』と、最近個人的によく見ているマイケル・ペーニャがここにも。多分、他の3州も私が知らないだけで有名な人なのだろうなと調べたら、コロラド州警官役のケイトリン・オルソンは長寿ドラマ『It's Always Sunny in Philadelphia』の女性だった。

チャーリー・デイも出てきます。観ていたときには『モンスター上司』の脚本コンビが監督だと知らなかったので驚いた。リバーラフティングのガイド役なんですが、ガイドする前に冗談とも本気ともつかないことを言って家族をこおりつかせる。声が高いのがまたおもしろい。いざラフティングの直前に、ガイドの元へ婚約者からの別れの電話が入る。
不安になりながらもラフティングが始まる。『Without you』が流れ出し、スローでラフティングをしている様子が映される。合っているといえば合っているけれど、サビの♪I can't live〜の部分で、曲の盛り上がりとともに、やけになったガイドが川の流れの厳しい濁流の方向へ舵を取るのが笑った。家族はパニックになっているけれど、悲鳴などはなく、曲が流れ続けている。しかもピンチの曲ではなくて、『Without you』というのが最後には完全に合っていなくておもしろかった。

クリス・ヘムズワーズは唯一日本の公式サイトに名前が出ていたカメオなんですが、カメオというよりは結構しっかり出演していた。ラスティの妹の夫役で、テキサスのカウボーイ。特別にクリス・ヘムズワーズのファンというわけではないけれど、急に出てくると、一気に画面が華やかになるし、スターのオーラのようなものを感じた。他の人の中には紛れず、彼だけ違って見えた。
妹の夫という、親戚というか、実際に近い存在としてかっこいい人がいたら?というような妄想もしてしまった。私も口の端についた汚れを取ってほしい。
また、マイティ・ソーを演じている彼に「君はヒーローだよ」と言わせるのも贅沢だと思った。
ただ、やはり普通の役ではなく、ラスティ夫婦の寝室に上半身裸のボクサーパンツ一枚で入ってくる。リモコンの使い方など、部屋の説明をしながらポージングをしていく。ラスティの妻は「腹筋を見せにきたのね」と言っていたけれど、どうしてもパンツの中にあるとても長いモノに目がいってしまった。考え過ぎかとも思ったけれど、エンドロールでもはみ出している写真(モザイクあり)が出ていて、注目どころが間違えてなくてほっとした。

こんな役で良かったのだろうか?とも思うけれど、そんな役を、普段の役柄とは全く違う俳優さんが嬉々として演じているのを見るのが大好きです。某映画のチャニング・テイタムとか…。

トラックで追いかけてくる恐ろしげな男は最後のほうまで出てこないが、もったいぶった演出で姿を見せたときに、それがノーマン・リーダスだったのにも笑った。確かに悪人顔だけれども! 更に、妻の無くした指輪を届けてくれるという優しい面も…。ただ、姿は怖いけれど優しいというギャップキャラ、というだけではなく、「なんでトラックに熊のぬいぐるみを付けているの?」「子供が寄ってくるからさ」というようなセリフもあった。
これも、ノーマン、こんな役でいいの?とも思った。

ギャグがそれほど新しいものでなくても、所々で出てくるカメオが良いスパイスになっていた。
何かこの感じを知っている…と考えていたけれど、ダウンタウンの年末恒例番組“笑ってはいけない○○”に近い気がする。

ギャグだけでなく、話の流れも予想通りである。家族の絆を取り戻すために出かけ、旅を通じてちゃんと絆は取り戻される。でも、それでいいのではないだろうか。これで、父親が虐げられたままでは可哀想だし、ここまでやって何も変わらないのもがっかりする。
SEALの『Kiss From A Rose』が車から流れ出し、ラスティは「みんなで歌おう!」と呼びかけるが誰ものってこない。しかし、最後、目的地のローラーコースターに乗りながら、コーラスも含めてみんなで一緒に歌う。わかっていても、涙が出た。曲が良いせいもある。旅の終わりの切なさを感じていた。いつの間にか、一緒に旅をしてきた気分になっていた。

後半に出てきたラスティの親役のチェビー・チェイスという俳優さんは、私は知らなかったけれどきっと有名な方なのだろうと調べてみたら、1983年に『National Lampoon's Vacation』という映画に出ていた。タイトルが似ていると思ったら、この作品では本作に出てきた親たちがラスティと妹を連れて旅に出ていた。本作は続編だったのだ。

序盤で、「前回旅に出たのは兄と妹だったけれど、今回は男兄弟だ」と言っていて、何のことを言っているかわからなかった。その前に弟が兄のギターに“ワレメちゃん”と落書きをして、「僕にワレメなんてついてないよ〜」と嘆くシーンがあったけれど、そこのラスティの対応が曖昧すぎてギャグなのかデリケートな話なのかわからず、兄が本当に男の子なのかどうか、温泉のシーンまでわからなかった。だから、“兄と妹”の部分が本当は“姉と弟”の字幕の間違いなのではないかと途中まで思っていた。
それが、83年の映画の話だったのだ。

ちなみに、ナショナル・ランプーンというのは元々はハーバード大学の卒業生が発行していた雑誌で、それがラジオや映画にも派生していったらしい。その一つが、『National Lampoon's Vacation』だったようだ。これはEuropean VacationだのChristmas Vacationだの6作も映画が作られシリーズ化されていて、今作は一応この系譜に入り7作目にあたるらしい。日本だと『お!バカんす家族』単体のようですがそうではない模様。

こんなにシリーズ化されているわりに日本での知名度はどうなのだろうと思ったけれど、一作目は『ホリデーロード2000キロ』というタイトルで、その後はそのまま『ナショナル・ランプーン/クリスマス・バケーション』などのタイトルで一応ソフト化はされているようだ。ただ、大きなレンタルショップにしかなさそう。

後半で実家の車庫にある車は83年の映画で出てきたものらしく、知っていたらここでも感動しただろう。

ラスティが妹と会うシーンで、「あの時はお父さんがローラーコースターで吐いて」みたいな思い出話をしていた。
この映画のオープニングでは様々な家族写真が出ていたけれど、その中の一枚にローラーコースターで盛大にやらかしているものもあった。一般の家族の写真かと思っていたけれど、もしかしたら過去の映画からのカットだったのかもしれない。

エンドロールの写真は、最初トリミングされていて元のサイズに戻すとオチがあるというものだった。エド・ヘルムズだし、写真で笑わせるのは『ハングオーバー!』を意識しているのかなとも思った。




『アントマン』



マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)12作目の作品であり、一作目の『アベンジャーズ』の次から始まったフェーズ2の締めくくりとなる作品。時系列的にも『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』のすぐあとの話とのこと。
CMや予告などでもMCUについてはあまり触れられておらず、単なるヒーローものととらえられているかもしれないけれど、思ったよりも本筋と関わってきていた。当然、今までの作品を把握しておいたほうがニヤリとさせられる場面も多く、話の流れにもついていきやすい。

ただ、すでに11作もあるので観るのが大変だし、大ヒット(と言ってもいいと思う)していて好評なことから、単体で観てもおもしろいのだと思う。むしろ、これから観て、過去に遡ってもいいのかもしれない。

最初はエドガー・ライトが監督をするはずだったが降板。それは残念だったけれど、どの辺で関わっているかわからないけれどテイストは感じられるものになった。
代わりの監督はペイトン・リード。『イエスマン“YES”は人生のパスワード』など、コメディ映画を中心に撮っている方。
エドガー・ライトにしてもそうだけれど、どちらかというとスモールバジェットコメディ映画を撮っていた監督が、マーベルヒーロー映画を撮るのは意外な気がしたけれど、これがとてもよく合っている。しかも、今までのMCUものとはまったくテイストが違う。でも、しっかりと組み込まれているあたりが唸らさせる。

以下、ネタバレです。









まず、主人公スコットが刑務所にいる場面からスタート。何かしら理由があったみたいですが(前日譚コミックに描いてあるらしい…)、冤罪ではないです。しかも、出所してももう一度、盗みを働いてしまう。
ここからして、とてもヒーローものとは思えない。しかも、指紋認証を通り抜けるための採取法、金庫を開くための技術など、手口が鮮やか。撮り方もテンポがよく、まるでクライムムービーのよう。
家宅侵入したのはスコットだけだけれど、その刑務所友達である3人が車から指示を送っていた。スコット一人ではなく、仲間もいるのがよりクライムムービーっぽさをかきたてる。

そして、厳重な金庫をあけても盗むべき金目のものはなく、あったのは古いライダースーツ(実はアントマンスーツ)だった…というところから、いつの間にかちゃんとヒーローものになっていく。ここも盗みのシーンと同様、手口が鮮やか。

ヒーローになると言っても、世界を救うんだ!とか目に見えないものへの責任感が急に芽生えたわけではない。なんせ、スコットは普通の男(前科持ち、離婚歴あり)なのだ。大金持ちでも根っからのヒーローでもスパイでも王子(というか神様)でも科学者でもない。
スコットは、離れて暮らす娘に尊敬されたい、という想いだけでアントマンになることを決意する。

普通の男なのでヒーローになるための特訓もするけれど、特訓シーンもテンポが軽快だった。
鍵穴をすり抜けようとするけれど小さくなるタイミングがはかれずにドアに激突する、蟻と仲良くなろうと蟻の巣へ入るが失敗して通常の人間サイズに戻り蟻の巣を破壊する…。何をやってもうまくいかないのは、彼の人生のようである。けれど、失敗をコラージュのように組み合わせることにより、失望ではなく、やれやれというようなおかしみが生まれ、笑いが漏れる。
これは、スコットを演じるポール・ラッドの力でもあると思う。

特訓の成果を見るために、アベンジャーズの建物へ忍び込むテストをさせられるのだけれど、そこでファルコンと鉢合わせをしてしまう。こんなにはっきりとアベンジャーズメンバーが出て来るのにもびっくりした。途中で「彼らは空の都市の戦いで忙しい」みたいなセリフが出てきて、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』の話をしてるなとは思ったけれど、その程度なのかと思っていた。ファルコンとのちゃんとした対戦が見られるとは思っていなかった。完全に話が繋がっていた。
ファルコンとの戦いはアントマンの生みの親であるハンク・ピム博士には止められるけれど、スコットはなかば強行するような形で戦う。当然、帰ってきて博士に怒られるけれど、実はミッションは見事成功していて、目当てのものは手にできていた。
ここのポール・ラッドの、“ちゃんと取ってきたよ? 何か問題でも?”というような表情が良かった。口をへの字にしてちょっとおどけたような、余裕の表情。少なくとも、雇い主というか上司というか、上の人へ向けての表情ではないんだけど、それが許されるスコット・ラングというキャラクターとそれを演じるポール・ラッドがいい。

なんとなく、飄々としているけれどやるときゃやるみたいなスタイルが、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のスター・ロード、ピーター・クィルのようであり、演じていたクリス・プラットと似ているように感じた。彼の前科は一応消されたものの、二人とも収監されているあたりも同じ。この先、MCU内で二人が会うこともあるのだろうか。

このように、この先のワクワクまで植え付けられる。
今回、エンドロールのあとのオマケ映像ではキャプテン・アメリカとファルコン、そして、バッキー(ウィンターソルジャーというよりバッキーでいいのだと思うけどどうだろう)が出てくる。MCUの次作は『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』である。おそらく、ファルコンが橋渡し役となり、次作にもアントマンが登場するのではないだろうか。
二人は戦っていたし、少なくとも今現在は友好的な感じでは無さそうだ。どのような経緯で協力することになるのかも楽しみ。

もちろんこの先だけでなく、今作を単体で観ても充分にワクワクする。この映画の基本構造の部分ですが、主人公は小さくなって戦うヒーローなのだ。だから、『ニルスの不思議な旅』のような、新しい世界観が広がっている。映像的にも楽しい。
また、本人らが真剣に戦っていても、普通サイズの人間から見たら本当に小さな、些細な戦いになっていて、それがよく表れているのが予告編の機関車トーマスのシーンである。
アントマンたちからしたら、本物の汽車サイズだから轢かれそうになるのはまさに死闘だけれど、普通サイズから見たら、おもちゃがぺこっと脱線しただけである。この、死闘と力の抜ける“ぺこっ”が交互に出てくるのがおもしろい。ちなみにこの最終決戦も行われるのが子供部屋なのも新しい。

このトーマスの脱線シーンは予告編にも出てきて、他の映画を観に行ったときでも必ず笑いが起こっていたけれど、本編はこれで終わりではなく、巨大化するディスクが誤って当たってしまう。機関車トーマスのおもちゃが、逆に大きくなってしまうのだ。大きくなっても、目玉がぎょろぎょろと動き続けているのがシュールだし、予告ですべてを見せているわけではないのもおもしろい。

緊迫しているようで通常サイズの人間から見るとなんてことない戦いは、カバンの中でも繰り広げられていた。誤ってiPhoneに当たってしまい、お気に入りの曲が再生されてしまう。端から見たら、ただの音の出るカバンである。

アントマンの小ささを示すためなのか、スクリーンに対してとても小さく映されるシーンがいくつかある。できることならIMAXで観たかった。小さいスクリーンの2Dでは見つけ難いかもしれない。私は3Dで観たが、しっかりと小さいアントマンが浮き上がっていたのでわかりやすかった。
また、羽アリに乗って飛ぶスリリングなシーンもあるので、3D向けだと思う。あと、ラスト付近の次元世界の幾何学模様も一応3D向けかもしれない。次元世界に迷い込んで、娘の声により呼び戻され…というのは某映画を思い出したけれど、その映画のネタバレになるので書きません。

ヒーローものでありながら、父と娘の話でもある。ファミリーものの要素もあるのだ。スコットと娘キャッシー、ピム博士と娘ホープの話が平行して進行する。
ピム博士役はマイケル・ダグラスなのだけれど、安定感があるというか、さすがの貫禄があった。マイケル・ダグラスがマーベルヒーロー映画に出演するのは意外な気がするけれど、合っているし、作品自体にも深みが出ている。
ホープ役のエファンジェリン・リリーも良かった。二人が母親関連で話をするシーンは泣きそうになった。
それにしても、スコットが次元世界から戻って来れたことで、母親も帰ってくる可能性も出てきた。続編があるのかどうかはわからないけれど気になるところだ。
また、エンドロール後のオマケ映像の一回目のもので、ホープにワスプのスーツがたくされるのもぐっとくる。これも、アントマン自体の続編になるのか、MCUの続編になるのかはわかりません。

また、MCUには出られなくても、アントマンの続編があるならば、3バカは続投させてほしい。あの友達あってのスコットだと思うし、今作でも思った以上に活躍していた。
三人のうちの一人、パソコンが得意な人物役にデヴィッド・ダストマルチャン。『ダークナイト』のシフ役の方。『プリズナーズ』でも同じような役をやっていてずるかった。今回は少しイメージは違います。髪型もリーゼント風。でも、どこか怪しさは残ってるし、何を考えているかわからない感やまともじゃない感もひしひしと伝わってきた。

マイケル・ペーニャも良かった。特に序盤と最後に二回出てくる早口で脱線しながら話すシーンが最高。『アントマン』はファミリーものでありヒーローものでありクライムムービーでありコメディであり…と様々なジャンルが混じっているから、なんとなくとっ散らかったちゃかちゃかした印象を受けるのかなと思っていたけれど、もしかしたら、マイケル・ペーニャのせいかもしれない。
ちなみに、この場合のとっ散らかったというのはいい意味です。いろいろな要素が入っているけれど、それがばらばらになってしまうわけではなく、うまく作用している。賑やかで本当に楽しく、夢中になってしまう。まるでカラフルなおもちゃの入ったおもちゃ箱のようだ。


何の情報も入れないまま観たほうがおもしろい系統のドイツ映画。
宣伝が多くうたれていたのはソニー・ピクチャーズだからかもしれませんが、なんとトム・シリングが主演でびっくり。全国公開もされているし、満席続きらしい。トム・シリング主演の映画が、日本でこんなに注目されるのは初めてだと思う。
また、かなりヒットしているらしく、ハリウッドリメイクも決まっているそうです。

以下、ネタバレです。








なんとなくピエロというと殺人鬼のような印象があって、そのマスクをかぶった人物が使われているポスターとそれが“お前を嘲笑う”というのだから、きっとホラーなのだろうと思っていた。
けれど、ハッカーということで、ピエロのマスクはアノニマスのガイ・フォークスのようなものだった。ホラー的な怖さはないです。
たぶん、ジャンルとしてはクライムムービーになるのではないかと思うけれど、私は犯罪よりも青春の成分が多く感じた。

主人公のベンヤミンは孤独で友達も彼女もいない。強いて言えば、コンピューターだけが友人。顔つきも暗い。
最初、トム・シリングはこんな役かと思ってしまった。素材はいいのに恰好良くはない。でもこんな役もできるんだと驚きもした。
そんな彼がマックスという人物と出会い、影響されて変わっていく。

マックスはエキセントリックだが、求心力のある人物で、ベンヤミンにとって憧れの人物となる。ベンヤミンは自分の得意分野であるハッキングを通して、マックスと、ステファン、ポールと仲間になる。
このグループの名前がClowns Laughing At You、この頭文字をとってCLAY。“ピエロがお前を嘲笑う”という邦題はここからつけられている。
原題は『WHO AM I-Kein System ist sicher』。WHOAMIがベンヤミンのハンドルネーム、そのあとのKein System ist sicherはドイツ語で“完璧なシステムは無い”という劇中でも何度か出てきたセリフ。
邦題も原題もどちらもいいと思う。Clowns Laughing At Youというのは何か決まり文句なのかもしれないけれど、これでGoogleで画像検索をするととても怖い。

いままで一人で行動してきたベンヤミンにとって、仲間と行動するのは犯罪行為であれ楽しそう。些細ないたずらは通り越しているけれど、『クロニクル』を思い出した。
マックスと自分の違いを思い知らされ、ブチ切れ、逆恨みし、爆発する様子も『クロニクル』のようだった。
ベンヤミンの淡すぎる恋心や、ポルシェを盗んで四人で大はしゃぎで夜の街を走る様子など、甘酸っぱくてこれは青春映画以外の何ものでもないと思う。

そんなヒューマンドラマのような描写もありつつ、アングラサイトのチャットのイメージ映像みたいなものは非常にスタイリッシュだった。
地下鉄の電車内に例えられていて、アイコンや匿名性を表すかのように、全員マスクをつけている。
CLAY前のベンヤミンはウサギのマスクをつけていて、いかにもという感じ。CLAY後はピエロです。
その中でカリスマ的な存在のMRXという人物がいて、彼は顔に×かXと書いてあって、特に正体が明かされていない。
MRXからデータが送られてきて、それがCLAYの面々をバカにする内容だった、というなんてことないエピソードも、地下鉄描写だと、MRXからピエロのマスクをかぶった四人がプレゼント箱を受け取り、ワクワクしながら開いたら中にマラカスが入っているというようになっていた。おしゃれ。

音楽に関しても、全体的にインダストリアルテクノが多く使われていて恰好良かった。映像とも合っていました。

結局、MRXの正体に焦点が当たってくるのかなとも思っていて、あの人では…というようなことをいちいち考えつつ観ていたのですが、それは別に関係なかった。今まで出てきてない、話の筋には関係のない人物だった。
少しポール・ダノに似ているこのLeonard Carowという俳優さん、映画版の『戦火の馬』にも出ていたらしい。

映画を観ているうちに忘れてしまうんですが、ベンヤミンのモノローグなんですよね。モノローグというか、自白というか。彼一人がそう話しているだけで、それが本当か嘘かなんてわからない。
そこを逆手にとってのどんでん返しがある。

ベンヤミンの部屋に貼ってある『ファイト・クラブ』のポスターがわざとらしい。これは、観客に対する暗示でもある。
そういえば、マックスが「そうだ!マスクを被ろう」と言った時、マスクは一個しか無かったとか、おチビ、人気者、入れ墨、ふくよかと四人が四人とも特色がありすぎる。特に、マックスはなりたい自分の投影だったのではないか。
そうなると、『クロニクル』よりつらい。『クロニクル』は短い時間ではあったが、友達と仲良く楽しく過ごす時間があった。それすらもない。ずっと一人だった。友達すら、自分で作り出していたのだ。友達にキスされまくっていたのもすべて妄想と考えるとさみしすぎる。これでは青春映画にすらならないではないか。かなしい。
胸が締め付けられて泣きそうになった。

ところが、ここで、もう一ひねりあった。
ベンヤミンのキャラクターとして、『ファイト・クラブ』が好きだったからこそ、こうするアイディアを思いついたのかもしれない。

ベンヤミンは真っ黒な髪を金色に染めて、キメキメになっている。表情は自信に満ちあふれ、姿勢もしゃんとしているのも勘違いではないはずだ。
友達も彼女も自分に対する自信も、すべて入手していた。『クロニクル』ではなかった。こちらは大勝利である。
でも別に、それらを急に入手したわけではない。ベンヤミンは、偶然に会った好きな女の子に勇気を持って話しかける、ピンチに陥った友人のために自分を犠牲にしながら動くなど、今までの彼からは想像できない行動に出た。出会った友人たちによって自分が変わったのだ。主人公成長ものと言ってもいい。
『クロニクル』のアンドリューが童貞をバカにされてうじうじしてマイナス方向にエネルギーを溜めていったのに対し、ベンヤミンは自らを向上させ、しっかり前に進んで行ったのだ。

それにしても、この最後のシーンのために、トム・シリングは今までわざとどんくさい演技をしていたと考えると素晴らしい。
演技内の演技ですが、ユーロポールに忍び込む時、「財布忘れてパパに怒られちゃう。うっうっ」みたいな学生さんになりすますこともしていた。目をうるうるさせていて、いかにも情けない様子で、ユーロポールの警備員も「仕方ないな、2分だけだぞ」と中に入れてしまう。トム・シリング、33歳。

ラストでは、金髪のトム・シリングがカメラ(というかスクリーン越しの私たち)を真っ直ぐに見て、楽しんでもらえたかな?とでもいうようにちょっとウインクをする。
ふいに殴られて頭がクラクラするような感覚をおぼえた。こんなカットを入れてくるとはずるい。
これは、トム・シリングファンが増えるのではないかと思う。ファンにならないまでも注目俳優にはなるのではないか。
結局、犯罪映画でも青春映画でもなく、トム・シリングアイドル映画の面が強い。大歓迎です。

以下、当ブログのトム・シリング出演過去作感想まとめ。
こう並べてみると、どれもいい映画ばかりなのがわかる(カッコ内はいずれもドイツ公開年)。

コーヒーをめぐる冒険』(2012年)
ルートヴィヒ』(2012年)
素粒子』(2006年)
エリート養成機関 ナポラ』(2004年)
アグネスと彼の兄弟』(2004年)


『ピクセル』



『グーニーズ』『グレムリン』などの脚本、『ホーム・アローン』『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』の監督をてがけたクリス・コロンバス監督。
パックマンやドンキーコングなどが宇宙から襲ってくる。対抗するのはかつての天才ゲーマーたちだったという内容。

以下、ネタバレです。







上記の内容は予告編で知らされているもの。パックマンなどが襲いかかると、建物であれ人間であれ車であれ、その場所が四角くぼろぼろと崩れて行くのが視覚的に新鮮だった。人間が襲われても、血は出ないので、刺激的にならないための配慮なのかもしれない。

予告編で、“地球の危機に立ち上がったのはオタクだった!”というような宣伝文句が流れる。それで、いかにも冴えない、決してハンサムとは言えない男たちが主人公というのはおもしろいと思った。今は冴えない、でも、子供の頃はゲームが得意だったという彼らが選ばれたということは、かつての栄光や人生を取り戻すストーリーなのだろうと思った。

ただ、襲ってきた敵に対し、“体を撃つと分裂するから頭を狙え”という法則を教えるのはいいにしても、その後、主人公のサム(アダム・サンドラー)が実際に敵を撃ち始めるのはどうなのだろう。法則はNavy SEALsの面々も知らないかもしれない。でも、実際の銃の扱い自体は、海軍特殊部隊より配線業者のほうが優れているということはありえないだろう。

その次のパックマンにしても、カラフルな色の車をゴーストに、そして町をステージに見立て、パックマンを追いかけるというアイディアは楽しい。けれど、実際に車に乗り込んでしまっては、ゲームが得意なのは関係なくなる。カーテクニック勝負になってしまう。ゲームが得意ならば、車を運転するのではなく、上空から見ないとだめだろう。その上で、自分が車に乗りこむのではなく、何か遠隔操作でもいいから、別の方法があったはずだ。

ゲームオタクと、自分が実際にゲームの中に入って戦うのとは要求されるものがまったく違う。銃が扱える、超絶カーテクニックを持っているでは、ゲームオタク以外のものになってしまう。

最後のドンキーコングだって、地上組はゲームの法則など一切関係なく、迫り来る敵を撃ちまくっていただけだ。ゲームオタク二人で撃っていたけれど、むしろSEALsに任せたほうが良かったのではないかと思う。

サムは宇宙船に吸い込まれてドンキーコングステージへ行っていたけれど、ヴァイオレットと大統領は一緒に行く必要あったのだろうか。ヴァイオレットに関しては息子が攫われたし心配ということもあるかもしれない。けれど、大統領は? 幼い頃にクレーンゲームが得意だったことを思い出したのは伏線なのかと思っていたけれど、別に活躍もしていなかった。
そもそも、サムの幼馴染みのウィルがなんで大統領になれたのだろう。何の説明もなく、いきなり大統領になっていたのは唐突だった。幼馴染みが大統領になっていなかったら、サムの元に地球を救ってくれという話もいっていなかっただろう。

すべてがサムに都合が良く進み、そのために唐突な展開になっている部分が多かった。ゲームしかできないと思ったら大間違いだ、銃や車も完璧に扱えるぜ!という願望で、全部サムの夢なのかと思った。けれど、そんな種明かしは無かったです。
これでは、オタクでも軍隊に負けずに戦えるぞ!というのを表したことにはならない。ゲームテクニックではなく、普通の軍隊並かそれ以上の働きをしているし、幼馴染みが大統領になっているというのもずるい。なにかと世話を焼いてくれる。

予告編を見たときに感じた負け犬讃歌のようなストーリーではなかったのだ。子供の頃は輝いていて大人になったらいいことがなくても、その子供の頃に手に入れたゲームテクニックで人生の大逆転をする。そんな、勇気のわいてくるような話なのかと思っていたら違ったようだ。これではむしろ逆、ゲームテクニックだけでは何もできないぞ自分が体を動かせと言われているようである。

大人だから軍顔負けの運動能力を発揮してしまうわけで、もう80年代の子供らを主人公にしたら良かったのではないだろうか。本当にゲームの腕で倒すなら、そのほうがわかりやすい。チャンピオンになっても大人になったら腕も鈍っているだろうし、子供たちのほうが有能ではないだろうか。

劇中では80年代の音楽がよく使われていて、実はこの点からも、サムが一番輝いていた時代の音楽を流すということは、彼の夢なのではないかと疑っていた。
インドの若者がプロポーズをするときに、演出として、自分でiPhoneで曲を流す。Spandau Balletの『True』のイントロが流れ出し、なるほどと思っていたら歌い出しがヒンズー語でインドバージョンのカヴァーだったのが笑った。この映画のために作られたのか、もともとあるものなのかはわかりません。
ラドローがステージ上で気持ち良さそうにTears For Fearsの『Everybody Wants To Rule The World』を歌っていたのも印象的。ホール&オーツやマドンナの80年代の映像も出てきます。

ピーター・ディンクレイジがとにかくいい。顔の表情一つとっても、彼が出てきたシーンはすべて目を奪われた。すかしていて、刑務所に入れられても偉そう。『X-MEN:フューチャー&パスト』では怖かったけれど、今回はかなりおちゃらけ役。どんな役でもできるのが素晴らしい。

ピーター・ディンクレイジ演じるエディがパックマンなどを倒す引き換え条件に、「セリーナ・ウィリアムズとマーサ・スチュワートとデートさせろ」と言うシーンがあって、即座に二人ともが思い浮かばなかった。女優さんかと思ったけれど、テニス選手とカリスマ主婦である。誰のアイディアだかはわからないけど、この二人をチョイスするセンスがおもしろい。
どちらか片方と言われ、結局、セリーナを選び、ご本人が登場。嫌々デートするという役を演じていた。
でも、最後に地球を救った後ではエディのもとに「部屋で待ってるわ」とのメールが届く。エディが部屋を見上げると、部屋の窓からセリーナが手を振っていて、隣りにマーサ・スチュワートも立っていた。まさかのご本人登場で笑ってしまった。手にはパニーニ。

エンドロールがとても良かった。ドット絵で映画の最初から最後までを数分ですべて振り返る。マーサはちゃんとパニーニを持っていて、ここでも笑った。こだわりが感じられた。

そこでこのドットが流れているのを見て、実際にこのようなゲームがあったと考えてみると、展開上の唐突さや、なんでドンキーコングステージに関係ない人がついてくるんだというのも妙に納得した。チープさや昔のクソゲー感を出したのではないだろうか。
また、彼らが戦っている姿をドットで表すために、彼ら自身が戦うことになったのかなと考えると、このエンドロールを作りたいがための映画だったのではないかとも思える。
それくらい、エンドロールは良かったです。

ゲーマーたちが途中からユニフォームを着だすんですが、それも何の説明もなくいつ何のために、作る時間や必要があったのかもわからないまま着ている。最後にはヴァイオレットと大統領も着ていたけれど、本来、ゲーマーたちではないから、ユニフォームを着る想定もされていない人らであり、しかも女性と太った男性だからサイズも誰のでもいいというわけでもないだろうけれど…と首をかしげていたが、これも、エンドロールのドットでお揃いのユニフォーム姿だと見栄えがいいという、ただそれだけのことなのだろうと思った。

あと、後頭部で機械がむき出しになっていて、どう見てもロボットで、ロボットだとも紹介されているマイケルというヴァイオレットの秘書のようなキャラクターがいるんですが、あまり掘り下げがない。
見た目も強烈だし、いくらでも活躍できそうなキャラクターなのにほぼ触れられない。大したセリフもない。あの技術があれば、侵略阻止に貢献できそうだけれども。
キャラクターとしての唐突さ、いてもいなくても良さから、これもやっぱり夢なのではと思わせる一因だった。
あまりにも強烈だったので調べてみたところ、演じたのがトム・マッカーシー。2014年公開のアダム・サンドラー主演『靴職人と魔法のミシン』の監督さんだったので、そのつながりでの隠しキャラっぽい存在だったのかもしれない。


『キングスマン』



マシュー・ヴォーン監督のスパイ映画。原作はマーク・ミラーによるグラフィックノベル。『キック・アス』コンビです。
コリン・ファース、マーク・ストロング、マイケル・ケインと個人的に好きなイギリス俳優が三人揃ったシーンではにやにやしてしまいました。
主演は新人のタロン・エガートン(イギリス人)。

以下、ネタバレです。








テーラーの裏にスパイの基地があって…という設定からまずわくわくする。テーラーなので、スパイもスーツ。このスーツ姿のコリン・ファースがものすごくかっこいい。背筋はきりっと伸びていて、細身のスーツでスタスタと歩く。かけると様々な表示が出る黒ブチ眼鏡もよく似合っていた。
スパイものなのでスパイ道具もたくさん出てくるけれど、それも、指輪、オイルライターや万年筆、フォーマルな靴から飛び出す毒の塗ってあるナイフと、スーツに合わせて不自然の無いものになっているのが粋。ちなみにスーツも防弾らしい。
特に銃の仕込んである傘は大活躍していた。開くと、防弾の役割も果たす。

普通、アクションは動きやすい服で行うものだと思うけれど、スーツ、しかもきっちりしたもので、隙の無いアクションをこなすのがかっこいい。倒した後にはすました感じになるのもいい。

逆に、敵がこれでもかというくらいラフな格好をしているのが対照的でおもしろかった。漫画だからなのか、どちらが悪いとも言えないといった曖昧なものではなく、明確な敵です。しかも最初から出てくる。
敵を演じたのがサミュエル・L・ジャクソン。彼がキャップを被り、ラッパーのような格好をしているのが意外。でも、ただ者ではなさとか底知れなさが出て怖い。
ポスターなどにもこの格好で載っているけれど、服装が敵っぽくないので仲間かと思っていました。

最初のランスロット(ジャック・ダヴェンポート)が教授(マーク・ハミル!)を助けにきたシーンからして、とても恰好良かった。流れるような動きでばったばったと敵を薙ぎ倒し、高いウイスキーは無事にこぼさずに手にとって香りを嗅ぐ。イカす。
この人かっこいいなと思っていたら、その直後にあっという間に殺されてしまうのも漫画っぽかった。しかも殺され方が縦半分にまっ二つに切られるという。これがなぜかグロテスクではない。流れるように敵を倒した続きのようにまっ二つにされるからだろうか。原作が漫画というのを意識しての、マシュー・ヴォーンの演出なのかもしれない。血が吹き出ないせいかもしれない。ともかく、この映画のスタンスがここでわかった気がした。

ここでまっ二つにするのが敵の秘書的な役割の女性。マシュー・ヴォーン監督は「パラリンピックの選手の義足をヒントにしたんだよ」と言っていて、それは観ればわかるんですが、「義足が武器だったらかっこいいなって」ってそれも気持ちはわかるし考えたこともあるけど、実現させてしまうとは。
この映画はマシュー・ヴォーンの“ぼくのかんがえたかっこいいスパイえいが”イズムでもって作られているのだ。

映画内では大量に人が殺されますが、どれもこれもが漫画っぽい。チップが埋め込まれた人たちの頭が順番に爆発するシーンがあるが、普通なら、血みどろでかなりグロテスクになるだろうし、それが大人数だからほぼホラーのようになってしまうのではないかと思う。
この映画では頭が爆発するのと同時に花火が上がる。おまけに音楽は威風堂々である。会議テーブルに円になって座っている人たちの頭が爆発し、花火が上がるのを上からとらえているシーンでは、ロンドン五輪のセレモニーを思い出した。こんなことを書くと不謹慎な!と思われるかもしれないけれど、たぶんこれだけイギリスに傾倒している作品だと意識もしているのではないかなと思うけどどうだろう。

そう言われればそうかとも思うけれど、コリン・ファースにとって、初のアクションシーンらしい。そうとは思えないのが、教会でそこにいる大人数を一人で一網打尽にするシーンである。敵の武器を奪いながらの流れるようなアクションは、序盤のランスロットのシーンの拡大版といった感じ。やっつける側だけでなく、倒される側にも連携した動きが要求される。混乱しているようでいて、すべて計算ずくなのだ。これをワンテイクで撮ったというからすごい。
ここのシーンは『キック・アス』を思い出した。音楽もノリノリである。ただ、ヒットガールが嬉々として殺しまくるのに対し、この映画のハリー(コリン・ファース)は制御が利かなくなっているだけなのだ。
優しい男なので、操られるようにしてそんなことをした自分の行為が許せない。しかも、その後悔の中で、彼自身も撃たれて殺されてしまう。
原作があるものなのでその通りなのかもしれないけれど、本当ならば死なないでほしかった。

これも原作の通りなのだろうしどうしようもないけれど、アーサー(マイケル・ケイン)の展開も残念だった。
コリン・ファースとマイケル・ケインとマーク・ストロングが一つの画面に並んだときに、このメンバーで続編も作ってくれないかなと思ってしまった。けれど、途中でメンバーも減ってしまい、この三人に関してだとマーク・ストロングしか残っていない。
できることならば、このチームのままで進んでいって欲しかった。

マーク・ストロングもとても素敵でした。『裏切りのサーカス』であんなことになってしまったビル(コリン・ファース)とジム(マーク・ストロング)が、この映画では信頼関係を築いているのが感慨深い。
最後の潜入シーンで、マーリン(マーク・ストロング)が飛行機の中から後方支援をするんですが、ロキシーとエグジー二人同時なのであわあわしてしまい、少しコミカルな演技になっていた。コミカルなマーク・ストロングはあまり見られないので良かった。相変わらず渋くていい声。

ちなみに、後方支援をする一人のロキシーは宇宙へ行っているあたりも漫画っぽい。このシーンのマシンも『キック・アス』を思い出しました。

コリン・ファースが英国紳士そのものであるのに対し、彼が連れてくるエグジーは典型的な労働者階級の青年である。彼を一人前のスパイに仕立て上げる、もしくは彼が一人前のスパイへと成長するのが本作のテーマというか中心となる部分である。
エグジーは、常にポケットに手を入れているし、部屋に入るときにノックもしない。裏ピースで挑発する。素行が悪い。住んでいるのも集合住宅だ。

どこにでもいる普通の青年で、彼は映画を観ている側の代理のような役割でもある。観客の視点でテーラーの仕掛けや、おしゃれなスパイ道具の数々を見ている。だから、彼がスパイの世界へ身を投じて行く様はドキドキするし、彼を応援したくなる。

何より、犬や仲間を大事にしたり、うまくいったときのウインクなどがキュートで、生意気なところはあるけれど可愛いのだ。

エグジーはまるで仇をとるように、最後にはハリーと同じ格好、スーツと黒ブチ眼鏡で大暴れをする。本当ならば、この立派に成長した姿をハリーにも見届けて欲しかった。そして、最後の悪戯?ご褒美?悪巧み?を止める役割でも担っていたら良かったのに。

でも、まさに仇討ちなんですが、エグジーが最終決戦の武器として傘を持って行く描写にはぐっときたことも事実で、これはハリーが殺されないと成り立たない。
それでもやはり、あるのかどうかわからないけれど、続編があるならば、コリン・ファースにも出て欲しかったから、殺さないで欲しかったのだ。
スパイというのは厳しい世界なのもわかる。前半でもランスロットがあっさりと半分にされていた。だから、誰だってあっさり殺されてもおかしくないのだ。でも、本当だったらランスロットだって生きていてほしかったくらいなのだ。そうしたら、話がまったく進まないけれど。
主役級、しかもチームを組むようにして戦っている場合は、なるべくならば、チームでわいわいやりながら、全員生還して欲しい。そして、次回作も同じ仲間で観たいのだ。だから駄目だと言っているわけではなく、あくまでも個人的なストーリーの好みの話です。

エグジーを演じたのはタロン・エガートン。2014年公開(日本未公開)の『Testament of Youth』に続く、映画出演二作目らしい。
次作はイギリスで9/9に公開されたばかりの犯罪スリラー映画『Legend』。原作はジョン・ピアーソンの『The Profession of Violence』(1972年)(『ザ・クレイズ』のタイトルで1990年に映画化もされているけれど、日本ではVHSしか出ていないようです)。監督は『ロック・ユー!』のブライアン・ヘルゲランド。トム・ハーディが主演、双子を一人二役で演じる。クリストファー・エクルストン、ポール・ベタニー、コリン・モーガンと魅力的なキャストが揃っている中、名前が上のほうに載っているので、準主役だろうか。大出世である。



『テッド2』



2013年に公開されて(アメリカでは2012年)思わぬ大ヒットをした『テッド』の続編。前作のときに、テディベアが動いて喋るというのは可愛いけれど、かなりブラックだし、マニアックな小ネタが満載で、なぜこれが大ヒットしたのだろうと思った。
前作は昔のアメリカのテレビ番組のネタが多く、よくわからない部分もあったけれど、今作は拾いきれはしないものの、前作より理解できて、個人的な笑いどころも多かった。

以下、ネタバレです。








前作が後半にわりと派手な展開が待っていたのに対し、今作は全体的に小粒な印象。ストーリー自体もとてもシンプルなものだった。
難しいところなどなく、誰にでも理解できるものなので、小ネタや枝になっているようなくだらないエピソードを抜いたら、80分くらいでおさまりそうだし、R15という年齢制限もなくなるだろう。
けれど、『テッド』は敢えてくだらないエピソードを入れてくるし、小ネタ下ネタを混ぜてくる。なぜかというとおもしろいから。

二人がダイバースーツを着てる写真はいろいろなところで使われているし、予告編にも出てきたと思う。これも実は本筋とは関係のない、あってもなくてもいいシーンである。
テッドがジョンのパソコンを勝手に使おうとして、エロ画像をたくさん見つける。こんなことではだめだと、屋外でパソコンを粉々にし、それでも業者には復旧できてしまうと、パソコンを海に沈めに行く。そのシーンであの恰好である。海に沈め、海の中でハイタッチだかサムズアップだかして終了。3分も無かったと思う。沈められたパソコンが誰かに見つかって咎められるわけでもなければ、パソコンが無くて困って海の底に取りに行ったりすることもない。このシーンについて触れられることは、今後一切無い。

このような、投げっぱなしにして終わるギャグがたくさんあった。嬉しいことがあったときに家の屋上から夜にランニングしているランナーに向かってリンゴを投げる遊びをするシーンもそうだし、新人お笑い芸人いじめもそうだ。ちなみに、このお笑いライブのシーン、新人芸人さんがお題を客席から募集するんですが、そこで出てきたある大事件とある人物の間には陰謀説があるんですね。これはやりづらい、笑えない(という部分が笑える)。確かに悪魔である。

あとで伏線として生きてくるわけではない。大きな幹から生えている枝のようなもので、折ってしまっても、木自体が倒れるわけではない。
これ必要か?と思うくだらなさ。そんなシーンばかりなのだ。でも、そのくだらなさが仕様もなくて笑ってしまう。苦笑にも近い。

ラスト付近の病院のギャグだってそうだ。実は生きてましたー!医者も協力してましたー!「愉快な病院だろ?」ってそんなのアリですか? 普通のコメディではどうかと思う。死ぬわけはないとは思っていても、何かもっとまともなやり方があるだろうと、少し腹を立てるかもしれない。でも、この映画の場合、ここまでもくだらないことを散々やってきているから、これくらいでは別になんとも思わないのだ。くだらなさに慣れてしまっていて、この雑さ、ベタさに思わず笑ってしまう。

何を調べてもGoogleのサジェスト(もしかして:)にBlackc○cksが出てくるというギャグは三回出てきてかなりしつこいんですが、三回目はパソコンの画面のみで上に“Blackc○cks?”と出てくるだけなのがおもしろかった。もうGoogleで調べると言い出した時点で、観ている側としてはまたか!と思うんですが、画面を見せられると、出ているのを自分で発見してしまい笑った。

字幕を変えたR12版を公開するそうなんですが、この辺はどうするんだろう。大麻を吸うパイプが男根の形というシーンもあったけれど。そもそも、大麻を吸うシーンがかなり出てくるけど、そのままなのだろうか。

今回、ヒロインがアマンダ・セイフライドなんですが、彼女もばんばん吸う。男根型のパイプも吸ってたので、モザイクをかけたら余計にあやしい感じになってしまう。

可愛いのですが、目が大きくおでこが広いということで、悪口としてゴラム女と呼ばれてしまう。映画を観ないという役なので、それに気づかないが、コミコンでゴラムのコスプレと鉢合わせしてしまい…というシーンもおもしろかった。アマンダ・セイフライドはこんな扱いを許したということで、いい人だということがわかりました。

コミコンのシーンはコスプレでいろいろな人が来ていてそれこそ拾いきれなかったので、一時停止しながら観てみたい。
ダーレクがいたのにはびっくりしたと同時に嬉しかった。NYのコミコンということだったけれど、アメリカでもドクター・フーは人気なんですね。

あと、コミコンのステージで、新スーパーマンを演じる役者を発表する場に出くわしたジョンが、「ジョナ・ヒルです!」と聞いて「FUCK!」と吐き捨てるように言うシーンは笑った。「新スーパーマンは…」と間を持たせる間に、私も一緒に誰なの?とワクワクしたような気持ちで待ってしまった。ジョンの反応がとてもよくわかった。

ジョナ・ヒルは名前だけでご本人登場はないですが、カメオもたくさん出てきた。
アメフト選手のトム・ブレイディの精子泥棒をしにいくシーンも、結局、最初からジョンので良かったみたいなことになるし、全体的にいるのかどうかわからない。この辺もR12版でどうするつもりなのか気になる。

リーアム・ニーソンはご本人役というか彼の演じている役っぽい役なのかもしれない。
エンドロール後のオマケシーンにも出てきたけれど、もう出てきただけで笑ってしまった。どこかしらから、命からがら逃げてきたようで、傷だらけ。でも胸元には子供用のシリアルが大事に入れてあり、ああ、守りきったんだね…という何があったのかは知らないけど謎の感動が。

モーガン・フリーマンが出てきたときも、一瞬カメオかと思ってしまった。テッドとジョンが「すげえ、モーガン・フリーマンだ!」みたいなことを言い出すんじゃないかと思ったけれど、やり手弁護士役でした。
アマンダ・セイフライドも弁護士役なんですが、今回は結局、裁判が大きな木の幹になる部分なのだ。裁判に重きが置かれていて法廷が舞台だから、前作のスタジアムのような派手さはない。けれど、考えさせられる内容だった。

喋るテディベアであるテッドはつまり何なのかという裁判だ。テッドは人間のつもりだから、恋人タラとの間に婚姻届を出す。しかし、彼はぬいぐるみ、つまり、タラの所有物なのではないかということになり受理されない。職場からも解雇されてしまう。

ここで、映画の基本的なところ、ルールみたいなものがわからなくなってしまった。テッドが普通の熊のぬいぐるみではないというのは、みんなが知ってることなんだっけ? それを、世間の人はどうとらえてるんだっけ? 普通だったら喋って動くぬいぐるみがいたら、オカルト的に怖がる人もいるだろうし、町を歩いていたらみんな見るだろうけれど、別に取り囲まれている様子もなかった。立ち位置がよくわからなくなってしまったが、あまり深く考える事柄ではないようだった。

ジョンがテッドとの出会いを聞かれ、「おもちゃ屋さんで買ってもらった」と言わされるシーンは勝ち目がないように思われた。だって、ぬいぐるみであることには変わりない。普通に考えたら所有物になってしまう。
テッドが自分で自分の胸を押さなくてはならなくなるシーンもつらかった。「I Love You.」というキュートな愛らしい声がしんとした法廷に響き渡る。まさしく、ぬいぐるみであることの証明である。

けれど、ジョンがある事故からテッドを救って身代わりになり、テッドが涙を流しているのを見て、敏腕弁護士が立ち上がる。
敏腕弁護士に任せればもう解決である。まるくおさまって、おしまい。

と、まあ、ベタな展開ではあるんですが、それよりは、ここまでの二人のドタバタや、いらないと思われる枝のシーンの悪ふざけで見せたいいコンビっぷりを見ていたら、人間同士以上に遠慮のない仲なのはよくわかった。
映画を観ている私たちの目にはぬいぐるみには見えなかった。
何より、最後の二回目のプロポーズのシーンで、ちょっとかっこいいと思ってしまったのだ。外見はぬいぐるみのテッドを。これが、ただの所有物なんかではない証である。

法廷ものということで、もしかしたら、途中でテレビを見ながら替え歌を歌っていたLaw & Orderもどこかでネタが組み込まれていたのかもしれない。けれど、ドラマを見ていないのでわかりませんでした。残念。
だから、何にしても、無駄知識をたくさん入れておいたほうが楽しめる映画だとは思う。

『アーネスト式プロポーズ』はさらっと駄作と言われていたけれど、歌うコリン・ファースが観られるというだけでも価値のある映画です。






ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの半生を描いた実話。60年代のブライアンを演じるのがポール・ダノで80年代がジョン・キューザック。
監督はビル・ポーラッド。『ブロークバック・マウンテン』や『ツリー・オブ・ライフ』など、様々な映画の製作には関わっていたものの監督作は久々。
音楽はアッティカス・ロス。本作は音響面でもある工夫があるので、家のスピーカーなどが整っていない場合はDVDよりも映画館で観たほうがいいと思った。家のテレビではキモになる部分がまったく変わってしまう。

ザ・ビーチ・ボーイズは有名曲くらいしか知らないし、特にファンというわけではない。また、ポール・ダノが年をとってジョン・キューザックになるというのも、外見や雰囲気など似ても似つかない二人だし違和感があった。
そのため、観るのを見送ろうかとも思っていたけれど、映画館で観て本当に良かった。ビーチ・ボーイズのファンでなくても楽しめます。

以下、ネタバレです。






ポール・ダノとアッティカス・ロスのために映画館で観ました。
伝記映画ということで、若者パートが少なくてすぐにジョン・キューザックになってしまったらどうしようかと思ったけれど、60年代と80年代が交互に出てくるので、全体的には半分ずつくらいでした。決して、ジョン・キューザックが嫌いというわけではないです。

意外にも、二人の俳優の親和性がものすごく高かった。どこからどう見ても別人なのに、同じ人物を演じているという説得力があった。そういえば、この二人、演技がうまかった。
天才故なのか、少しタガがはずれ、次第に道をそれて行く。60年代パートがどんどん道を外れて行くのに対し、80年代は外れた状態からスタートし、そこからの回復が描かれている。
ポール・ダノとジョン・キューザックは精神的な不安定さを演じさせたら右に出るものはいない二大巨頭と言ってもいいだろう。普段からそのような役がまわってくることも多い。

最初、ポール・ダノは太り過ぎではないかと思っていたけれど、ブライアン自体が後に酒とドラッグに溺れ、136キロ(と映画では言っていたけれど、本当だろうか)まで太り、ほとんど寝て過ごすことになるらしいので、役の上で太っていたのだろう。
60年代パートはあとになればなるほどポール・ダノが太っていく。

最初はビーチ・ボーイズがテレビ出演をしている映像で、がざがざした古い効果が加えられている。ご本人ではなくこの映画の役者さんが演じていて、ミュージックビデオのようにもなっていた。バンドとしてもっとも華々しい時代である。

逆に華々しさは最初にしか描かれていない。バンドについてというより、ブライアン個人についての映画なのだ。
メンバー抜きで、スタジオミュージシャンを招いてのレコーディングは、当然メンバーがおもしろいはずはない。次第にブライアンのスタンドプレーになっていく。

頭の中で鳴っている音楽を再現するために何度も何度もやり直す様子は『セッション』を思い出した。こだわりが病的になり、気分が乗らないことを理由に予約したスタジオをキャンセルし、スタジオ代を無駄にしたり、消防士の恰好をしてバカ騒ぎしながらレコーディングしたり。

メンバーや父親との確執も深まって、彼自身はアルコールとドラッグへ逃げて、表舞台からは遠ざかる。

ここまで一気にやって80年代へ移るわけではなく、80年代パートも随所に入ってくるのがおもしろい。具体的には昔のテレビ出演時の映像のあとで、すぐに80年代へと移る。
ブライアンは車を買いにきて、その販売員のメリンダを好きになる。ブライアンは少し挙動がおかしくはあるけれど、純粋で優しかったし、メリンダも最初から興味を持っていたようだった。

ブライアンは常に精神科医と一緒に居て、監視されていた。これも、映画だからどこまでが真実なのかわからないけれど、薬の過剰投与で余計に具合が悪くなっていたようだ。
精神科医ユージン役はポール・ジアマッティ。80年代ということで少し昔風の髪型のかつらをかぶっていて、ジュリーのようにも見えた。
最初は本当にブライアンのことを思っているようだったし、136キロの肥満で寝たきりの状態から戻したと言っていて、いい医者なのだと思っていた。
けれど、無理矢理曲を作らせている様子や薬漬けにしている様子、ブライアンを軟禁して監視している様子はまるで悪役だった。メリンダの職場に乗り込んで行って罵声を飛ばす様子も怖かった。

そこから救い出したのがメリンダである。献身的で、誰よりもブライアンのことを考え、理解しようとする。ブライアンからも、ブライアンの周囲からも決して逃げずに立ち向かう、強い女性だった。彼女が手を伸ばして、ブライアンを底から引っ張り上げたのだ。その勝ち気な彼女は現在のブライアンの妻である。

メリンダに最初に会ったときにブライアンは、“Lonely,scared,frightened(孤独、怖い、怯えている)”と書かれた紙を渡す。メリンダはそれを見て、彼のことを気にした面もあるだろう。
本作についてのインタビューで「現在の精神状態を3つの言葉で表すとしたら?」という質問には、“Thank you,God,for another day(ありがとう、神様、新たな一日を)”と答えていた。平穏そのものである。本当にメリンダに会えて良かったと思う。

最後に“精神科医の薬を絶つことで劇的に回復した”と書いてあったので、ユージンのような存在は実際にはいたのだと思うけれど、実際にその医者がブライアンを肥満状態から回復させるなど彼のためになるようなことを何かしたのかとか、途中で悪い考えが芽生えたのかとか、彼の本当の狙いはわからない。

ブライアンは1960年代からずっと、声や音楽が頭の中で鳴り響いていたとのことだけれど、どんなものなのか、もちろん、彼の頭の中のそれを聞くことはできない。
けれど、映画では、左右や後方から音が少しずつ重なって、頭の中でいっぱいいっぱいになって破裂しそうになってしまう様子が体感できる。映画館ならではだと思う。音に包まれ、覆われる感覚が味わえる。

本作の音楽は、ナイン・インチ・ネイルズにも参加し、トレント・レズナーと組んでの映画音楽活動も活発なアッティカス・ロス。『ソーシャル・ネットワーク』ではアカデミー賞作曲賞を受賞。『ドラゴン・タトゥーの女』『ゴーン・ガール』でも様々な賞にノミネートされた。
どことなく不安にさせる音楽やキーンと澄み切ったきれいな音楽が得意だと思う。

本作のブライアンの頭の中の音のリミックスも彼が作ったのではないかと思われる。無音のヘッドフォンをつけると音が鳴り出すシーンがあったんですが、エンドロールに“Headphone”というタイトルでBy.Atticus Rossと書いてあったと思う。見間違えかもしれませんが。

最後のほうで、60年代のブライアンが80年代のブライアンを見ているシーンがある。何か言いたそうな、さみしそうな顔が印象的で泣きそうになった。おそらく、過去の彼もちゃんと救われた。
ちなみに、ここのポール・ダノは痩せていました。

ポール・ダノ関連だと、途中でピアノを弾きながら歌うシーンがありますが、実際に彼が歌っているとのこと。さすが、バンド活動もしているだけに、いい声でした。

『サプライズ』



2013年公開。監督は『ザ・ゲスト』のアダム・ウィンガード。
アニマルマスクの三人組が殺しにくる。家に何者かが侵入してくるホーム・インベージョンというジャンルになるらしい。

父と母の35周年の結婚記念日を祝うために、子供たち四人がその妻や恋人をつれて別荘へ集まる。隣りに家(それも別荘?)はあるものの、人里離れた森の中のようだった。
そこへ、トラ、ヒツジ、キツネという奇妙な動物のマスクをかぶった人物が侵入し、家族を次々に殺していく。

あまりホラー映画を好んでは観ないのですが、なんとなくのおしゃれさと、どんでん返しがありそうな雰囲気だったので観ました。

タイトルが『サプライズ』だったし、結婚記念の祝いのドッキリみたいな意味でのサプライズかと思った。両親以外の人たちはみんな知っていて、殺されたフリをしているだけで、全部嘘かと。
某映画(タイトルを書くとネタバレになるので書きません)のように、ホラー映画を模した違うジャンルになるのかと思った。
しかし、最初の被害者こそ、窓の外を見てたら、ボウガンで襲撃され額を射抜かれるという、細工しようと思えばできそうな殺され方だったのに対して、他の被害者は喉をかっ切られるなど、どう見ても殺されていた。かなり無惨な殺され方をした人もいた。
原題は『YOU'RE NEXT』、“次はお前だ”ということで、ホラー映画でした。

そうなると、奇妙なマスクの中身が気になる。
わざわざマスクをしているということは、家族の誰かなのだろうと思った。四人兄弟とパートナー+両親で10人と全体の人数が多すぎるのも気になった。この中で一人消えていてもわからないのではないかと考えた。
けれど、どう考えても全員揃っている場面でマスクが出てきたりして、凝ったトリックでもやらないと、マスクの中身が家族ということはなさそうだった。

結果的に家族ではなかった。マスクをとって、はっとするようなシーンは無かった。では、なぜマスクをしていたのだろうか。
殺人犯というものは、顔を見られたら困るのでマスクをしているものなのかもしれない。でも、皆殺しにするべく来たみたいだったし必要だったのだろうか。

ただ、映像的には効果があったと思う。中身が誰だかわからないというのは不気味である。それに、トラ、ヒツジ、キツネのマスクの殺人者など見たことがない。しかも、動物であってもコミカルな造型ではないからスタイリッシュなのだ。
このマスクが、私がこの映画をなんとなくおしゃれな雰囲気だと思った原因だろう。

途中から、中の一人が反撃に出る。殺すか殺されるかという場面だから仕方ないとは思うけど、一人でどんどん殺していく。犯人とさほど変わらない残酷な方法もとっていた。
最初は、恋人といちゃいちゃしてたし、ただの若いお姉ちゃんかと思ったら思わぬ才能でした。

隣りの家の人たちは、結果的になんで殺されたのかよくわからなかったのですが、殺される前にCDの一曲をリピート再生していた。Dwight Twilley Bandの『 Looking For The Magic‬』‪(1977年) ‬という、踊りたくなるような楽しい曲。それが、死体のある部屋で、もう生きている人間はいないのに、ずっと流れ続けているのは不気味。

その曲はエンドロールでも流れる。登場人物の名前が出て、それぞれの死に様のポラロイド写真(おそらく、到着した警察が撮った証拠写真という設定?)が横に付いていたのは笑って良かったのかもしれない。

映画の公式サイトでもこの曲が流れるのですが、DISC REPEATと書いてあって、映画を観た人だけがニヤリとさせられる。けれど、夜に聞くとちょっと怖いのも映画を観た人だけです。






2008年公開。『ふがいない僕は空を見た』『四十九日のレシピ』のタナダユキ監督。蒼井優主演。

そもそも、女友達とその彼氏とルームシェアをすることになったが、女友達は彼氏と別れ、友達の元彼と主人公が二人で住むことになってしまい…となったら、ありがちなラブコメみたいなものを想像してしまうだろう。最初は反発し合っていても、一緒に生活するうちに打ち解けて…というような、少女漫画によくあるような展開になるのかと思った。

しかし、ラブはまったく関係なく、その男に半ば騙されたような形で主人公の鈴子は前科持ちになってしまう。2008年頃だとおそらく蒼井優はもっとも旬の女優だったと思うので、こうくるとは思わなかった。
中学受験を控えた弟からめちゃくちゃに非難され、鈴子は百万円を貯めて、家を出ることを決意する。

百万円を貯めて家を出て行くまでの話なのかと思っていた。それか、終盤で弟と仲直りし、百万円は貯まったけれども出て行かないという話かとも思っていた。
けれど、あっさり百万円は貯まり、弟とも序盤で仲直りして、鈴子は家を出て行く。

映画は、家を出た鈴子がその先々で暮らしながら、百万円を貯め、場所を移っていく話だった。元々住んでいた場所、海の家、山間の村、地方都市とそれぞれの場所でその土地の人と出会い、触れ合い、傷つく。四部構成のようになっていた。

海の蒼井優はタンクトップでのびをする姿が瑞々しかった。次の山パートでは桃農家の収穫を手伝うため、まったく違う恰好が見られ、両方とも可愛らしい。
元々が可愛らしいのもあるけれど、ここではないどこか外から一人で来た若い女性ということで、嫌でも周囲の目をひく。

海では、地元のちゃらちゃらした若者に声をかけられる。結局、鈴子はまったく相手にしていなかったけれど、あの若者は海の家の常連で、海の家の家主(?)とも仲がいいようだった。子供もよく懐いていた。悪い奴だったら海の家に出入りさせないだろうし、ちゃらちゃらして見えるだけど、ただの海が好きな男の子だったのではないかと思う。特に、鈴子が何も言わずに出て行ったあとの落胆具合を見ると、少し可哀想にも思えた。

山では、住み込みで桃の収穫を手伝っていただけなのに、村の桃をPRするキャンペーンガールにされそうになる。村長や村民は、鈴子の気持ちなどは考えずに、自分の村のために若い女性が立ち上がってくれると思っているし、若い女性はテレビなどに出たがっていると思っている。価値観の押しつけである。鈴子が断ろうとすると、これだから都会の人間は…と、自分たちの意見が通らないことが許せない。村民を(おそらく、集落に一つはある○○(村の名前)会館などという集会所に)集めて、鈴子を囲んで非難めいたことをしていたたまれない。
そもそも、自分のことを誰も知らない場所に行って一人になりたかったのに、村民はどんどん距離をつめてくる。結局、その場にいられなくなった鈴子は、自分が前科持ちであることを告げて、集会所から走り去る。

村の桃農家の息子春夫役にピエール瀧。その佇まいだけで、もういい年だけれど嫁が見つからないのだろうとか、たぶん村唯一の若者でいろいろな面倒ごとを押し付けられているのだろうとか、でも村を出ることはできないのだろうとか、様々なことが想像できるあたり、うまいと思う。優しげな表情だけれど、どこか顔つきが暗い。内向きの思考を持っていそう。鈴子が入っているときに、扉越しに湯加減を聞くのは、覗く気などはないのだろうが、人との距離感がわかっていない。

鈴子が集会所から去った後、春夫が村民に反論するが、その時にもその場で声を発するわけではなく、わざわざマイクのある場所まで行って、マイクを使って話すところに性格の律義さと村ルールにのっとっているあたりやっぱり彼も村の人なのだというのがわかって面白い。
ただ、他の村民が鈴子のことをまったくわかっていなかったのに対して、春夫だけがかろうじて理解してくれていたのがわかって、泣きそうになってしまった。

板尾創路やリリー・フランキーも役者としていいと思うけれど、彼らは出てきても彼らにしか見えなくなってしまったし、特にリリー・フランキーなどはリリー・フランキーっぽい役しかやっていないように思える。その点、ピエール瀧は様々な役を演じ分けていると思う。

次の鈴子の移動先は東京から特急で一時間という地方都市。バイトも海の家や農家ではなく、ホームセンターという普通の場所。そこで、鈴子は価値観が似通っているバイトの中島を好きになる。
中島も鈴子のことが好きになるんですが、この告白シーンがとても良かった。中島を演じたのが森山未來。前髪が長いんですが、告げたあとで、ちらっちらっと窺うような目で鈴子を見るのがたまらない。
鈴子もいままでしかめっつらだったけれど、中島の部屋で中島が育てているハーブ類を見て初めて笑顔を見せていたのが可愛かった。

ところが、中島と同じ大学の後輩の女の子が新入りバイトとして来たあたりから雰囲気がおかしくなる。中島が鈴子にことあるごとに金を貸してくれと言い出す。
そうなると、微笑ましかった部屋のハーブ類も、貧乏くさく思えてくる。最悪である。
鈴子は百万円を貯める前に、バイトを辞めて次の場所を目指すことにする。

ここで終わりで良かったと思う。鈴子がバイトを辞めてしょんぼりしている中島に、新入りのバイトちゃんが急に「誤解されたままでいいんですか?」などと言い出す。なんでも、百万円貯まったら鈴子が出て行ってしまうことをおそれた中島は、お金を借り続けることで百万円に届かないようにしたようだ。それをバイトちゃんが全部口で説明する。バイトちゃんはいかにもライバルのように出てきて、でも別に中島とはなんでもなく、最後に真実を口頭で説明するという役割だった。なんて都合の良いキャラクターなんだろう。

そんなこと、中島が鈴子に面と向かって言わせれば良かっただろう。そこを見せ場にしてほしかった。
でも、最後に中島が鈴子を追いかけ、鈴子がなんとなく中島が引きとめに来るのを待っている様子なシーンで終わるので、そのぼんやりした会えるの?会えないの?たぶん会える!みたいなラストが撮りたかったのだろう。

それでも、あの説明セリフは急にリアリティがなくなるというか、中島というより観ている私たちに向かって話しているような感じがしてしまうというか、雑な印象を受けた。時間が無かったのだろうか。もういっそ、本当にヒモだったほうが清々しいと思う。

鈴子が場所を転々とする合間合間に、弟の様子も描かれる。弟は学校でいじめられている。場所を変える鈴子とそこから逃げられない弟の様子は対照的だった。子供だから百万円稼ぐこともできないし、有名中学の受験をひかえているため、やり返すこともできない。その点、鈴子は嫌な目にもたくさん遭っていたけれど、その場を離れれば終了である。

弟から、この前いじめられっこに立ち向かってしまい、中学受験ができなくなったという手紙が届き、鈴子はそこで自分と弟との違いに気づいて涙を流す。
私はいままで嫌なことから逃げていた、私も立ち向かわなくては。と、ここも、弟に向けての手紙の返事で全部説明する。
そんなことはここまで観ていれば、ここでいちいち改めて言われなくてもわかっている。手紙を読んで、涙を流せば、観ている側は、やっと鈴子も弟の立場と気持ちに気づいたかと思うだろう。

景色の撮り方などは綺麗だったので、もう少し情緒のある感じに仕上げられそうなのに残念。観ていてわからないと思ってセリフで説明させたのかもしれないけれど、過剰に親切である。そのくせ、ラストはぱっきりとは終わらせない。どちらでもとれるラストにするなら、説明セリフの数々もいらなかっただろう。



『ペントハウス』



2012年公開。アメリカでは2011年公開。
お金持ちの元で働く者たちの反乱という情報しか知らなかったため、なんとなく、反乱を起こすのはお手伝いさんたちなのかと思っていたら、ベン・スティラーがきっちりした恰好で出てきたので驚いた。お金持ちが住んでいるのはマンションの最上階(ペントハウス)で、ベン・スティラー演じるジョシュはそのマンションの従業員だった。高級マンションの、更に役職がマネージャーのため、ちゃんとした恰好だったのだ。

雇い主が従業員の年金まで横領していたため、その金を取り戻そうとする。ジョシュ一人では…ということで、マネージャーの人脈を生かし、人を集めて行くのだが、その仲間たちが豪華。ジョシュの妹の夫であり、マンションのコンシェルジュのチャーリー役にケイシー・アフレック。アホの役の演技が秀逸。新入り従業員エンリケ役にマイケル・ペーニャ。『アントマン』と『火星の人』の映画版『オデッセイ』の出演も控えていて楽しみ。マンションの住人で、株に失敗し退去を命じられたフィッツヒュー役に『プロデューサーズ』のマシュー・ブロデリック。

ベン・スティラーが主演だから、製作や監督など、彼も何かしらに関わっているのかと思い込んでいた。ベン・スティラー、ケイシー・アフレック、マイケル・ペーニャ、マシュー・ブロデリックを並べてみてもわかるように、ひょろひょろしていて緊迫感がない。多分、このメンバーでわちゃわちゃと会話をしながら、最上階を目指して行くコメディなのだろうと思っていた。キャラクター同士のやりとりを中心に楽しむ、スモールバジェット映画。

ところが、ジョシュの隣りの家に住んでいて、幼馴染みのスライドがメンバーに加わって雰囲気がガラッと変わる。スライドを演じたのはエディ・マーフィ。彼が加わることで、お金を取り戻しに行くのが、盗みに行くような装いに逆転し、一気にまるで集団クライムムービーのように変化するのが面白い。

もちろんやりとりも楽しいのだ。特にエディ・マーフィは早口で汚い言葉をまくしたて、他のキャラクターを圧倒していた。そして、原案も彼らしい。ベン・スティラーは関わっていなかった。

中盤の、ビルから車を下ろすアクションも本格的だった。犯罪集団ではないので、手際が悪いのも特徴的。特に、フィッツヒューのアクション面での役立たず感は愛しい。
ビルの下の通りではサンクスギビングのパレードをやっているとか、エレベーターの上にいるけれど子犬も抱えていて…というような、ハラハラ具合もよく考えられている。途中で裏切った奴が間一髪のところで助けに来るのもいい。

監督はブレット・ラトナー。『ラッシュアワー』『X-MEN:ファイナル ディシジョン』『ヘラクレス』などを監督していて、なるほど、アクション要素がしっかりとしていたのも頷ける。

ラストは、救ってもらったみんながジョシュの釈放に向かって奮起するような、もう一騒動が欲しかった気もする。それでも、ジョシュ自身が満足げな表情を見せていたしいいのかな…。それとも、あれ以降は各々で考えてくださいということだろうか。
もう一アクション、スカッとしたものが見たかったとも思う。





“ナイトクローラー”と呼ばれる職種が実際にあるのかどうかわかりませんが、事件や事故があったときに、警察の無線を傍受して現場に駆け付け、映像を撮ってテレビ局に売るという違法すれすれ(場合によっては違法)の職業に就いた男の話。日本のサイトだとパパラッチなどと書かれていますが、その語感から受ける軽い印象とは違うものです。
監督はダン・ギルロイ。『落下の王国』や『リアル・スティール』の脚本を手がけているが、監督は今回が初とのこと。主演はジェイク・ギレンホール。
アカデミー賞脚本賞にノミネートされていた。

以下、ネタバレです。







ジェイク・ギレンホールが役にぴったりはまっていたし、彼がいなかったら成り立たなかったであろう映画。
12キロ体重を落としたということで、頰がこけ、目だけがぎょろぎょろと更に大きく見える。
彼の目は感情がまったく現れない。その黒々とした瞳は何も語らないので、口で何を言っていても、顔が笑っていても、奥では怖いことを考えているように思える。『プリズナーズ』や『複製された男』でも、主役級であってもジェイク・ギレンホールが演じた人物を信じていいのかわからなくなった。今作では目が目立つので、その信用してはいけない雰囲気がより顕著である。
(ちなみに、最近だとオスカー・アイザックが同じような濁った目をしている。少し前にも書いたけれど、『スター・ウォーズ』の新作への出演が決まっているけれど、からっと明るいヒーロー役はできないと思うけど、どんな役なのだろうか)

映画の最初で、ジェイク・ギレンホール演じるルイスはフェンスや部品を盗んで回収業者に売って金銭を得ていた。
そこから、事故現場を撮影し、テレビ局へ映像を売って金銭を得るようになる。どこで事故が起こったかというのは警察無線を傍受しているから、結局は盗んでいるのと同じで、最初とやっていること自体はそれほど変わらないように思える。
ただ、やり方がどんどん派手になっていくにつれて、撮る映像も過激なものになり、得られる金銭も多くなっていく。するとさらに、やり方が派手になり…と、どんどんのぼりつめて行く。

ルーが犯罪現場を撮影するときに、被害者の家に不法侵入したり、被害者の遺体を動かすときに、崇高ともいえる綺麗な音楽が鳴っていた。普通だったら、それは人に見られたら困る部分だし、バレるのバレないのというようなサスペンス調の音楽が流れそうな場面だ。でも、それは外部の意見なのだ。ここではルーの内面に寄り添っているのだと思う。
彼にとっては正しい行為なのだ。だって、家の中に入らないと、緊迫した映像が撮れないじゃない。だって、遺体がそこにあったら、壊れた車とワンフレームにおさまらないじゃない。

ルーは交渉術に長けている。交渉術というより、まくしたてて隙を作らない。これも目の力もあると思うけれど、自信に満ちあふれていて、例え犯罪すれすれであっても、自分のやっていることに迷いが無い。話していると圧倒されて、イニシアティブをとられてしまうのもわかる。
人を好きになっても、恥じらいのようなものは一切見せずに仕事と同じく、交渉によって触れ合いや快楽を入手していく。相手の感情などは関係ない。俺はこれを提供するのだから、お前からも提供しろ。しないなら、俺も提供しない。その提供する、強いカードを得るために、ルーはなんでもする。

どうして彼がこうなってしまったのかというと、もちろん、過激な映像が視聴者に望まれているからというのがあるだろう。
犯罪現場の遺体の映像をニュースで流すのはさすがにやりすぎだと思うし、フィクションだと思うけれど、アメリカのローカル局とのことだったのでどうなのだろう。本当にあるのかもしれない。
さすがに遺体の映像を見たいとは思わないけれど、後半の逃走車を追いかけてロサンゼルスを疾走するカーチェイスのシーンではわくわくしてしまったので、結局過激な映像を求めているのは同じである。

また、イニシアティブをとり続けないと怖いというのもあるのかもしれない。ルーはどん底を知っている。だから、なんとしても這い上がらなくてはいけないという貪欲さを持っているのだ。

エサは金であり、主導権、発言権などの権力だ。それを食べて、ルーはどんどん大きくなっていく。もっと成り上がっていくだろうし、更に怪物になっていくだろうという予感が感じられた。

ルーのことがダークヒーローと書かれていたり、この映画がサクセスストーリーなどと書いてあるのは違和感がある。ルーは悪党にしか見えなかった。
だから、後半で刑事に捕まったときにはやった!と思ったし、野放しにしてはいけないと思ったけれど、充分な証拠がなかったせいか、釈放されてしまう。
そして、ラストが新入社員を向かえるシーンなのだ。

もっともらしい社名のロゴを冠したワゴン車二台と、ロゴ入りポロシャツを着て、新入社員を四人迎え入れていた。四人ともお揃いのポロシャツだ。
最初に雇われた部下は、研修扱いでろくに給料を払われていない。そのせいで、部下はルーから学んだ交渉術を駆使し、金を得ようとしていた。その結果、ルーは自分の手を汚さずに、部下を殺していた。

新入社員と書いているけれど、彼らもおそらく研修扱いなのだろう。それでも彼らの輝かしい未来を信じて疑わないまぶしいくらいの表情と、仕事のできる上司のようなことを言って鼓舞しつつ、でも目は死んでいるというルーの対比にひんやりした。前任者の行く末を知っているから、多分彼らも同じ扱いを受けるのだろうと思うとぞっとする。

でも、こんな風に、観終わった後で不安な気持ちになるような演技をするジェイク・ギレンホールは本当に素晴らしいと思う。
撮影する際の音楽のように、ルーの内面に寄り添えば、この映画は大ハッピーエンドである。困ったものだ。