せっかくなので来年無くなってしまう日劇で観てきました。
本作に関して、評価が賛否割れているらしいので、もしかしたら一回目は私が舞い上がっているだけなのかもしれないと思ったけれど、やっぱりちゃんとおもしろかったです。

以下、ネタバレです。












ただ、特に前半なのですが、セリフで説明するシーンが多いかなとは思った。内容がつめつめになっているので、言葉を聞いたり字幕を読むのが大変なのと、一度観ているとただ話を追っているだけになってしまうこともあった。

あと、これは一回目でも思ったのですが、ベニチオ・デル・トロ演じるDJに関してはやっぱり中途半端かなあと。ローズの姉の形見を奪ったと思いきや、ちょっと使えって返すというのはいいエピソードで実はいい人感満載だったのに、結局裏切って終わりとは…。次作での再登場を期待しています。

カジノの星の金持ちがファースト・オーダーとレジスタンスの両方に武器を売っていて、善悪簡単に二分できないとDJが話す件について。
善=光=レイ、悪=闇=カイロ・レンとしますが、フォースの血を引いている側が悪で、何者でもない側が善なのは少し珍しいと思った。
レイの出自について、カイロ・レンが教えていたと思ったけれど、レイが自分で知っていた。だから、たぶん真実なのだと思う。
お金のために親に売られたと知ったら、普通はそちらがダークサイドに堕ちてしまいそうなものだ。ベン・ソロ(カイロ・レン)は両親がハン・ソロとレイアである。ちゃんとしてる(追記:ちゃんとしてなくてこの両親が問題だったという話もある…)。スノークに目をつけられたというのが一番の理由かもしれないが、そもそもなぜ目をつけられてしまったのだろう。ふんわりした理由は語られていたけれど、あまり納得ができなかった。普通は、フォースを使えてしかも親に捨てられた子がスノークに目をつけられそう。逆なのはおもしろいと思う。

ベンはスノークを倒したあとで、二人で新しい世界を作ろうとレイを誘っていた。これはある意味正しいのではないかと思ってしまった。レイと一緒なら、ベンもカイロ・レンにならなくても済むのではないかと思ったからだ。それに、二人が組めば、善悪がなくなる。これも、善悪が簡単に二分できない話に繋がっていくのではないかと思った。

カジノのシーンですが、長い割に何も成し遂げられないということで不評らしいのですが、劇中でフィンも言っていた通り、あの気に食わない街をめちゃくちゃにできたのだからそれだけでも良かったと思う。また、確かに失敗はしてしまったけれど、その前のシーンでヨーダがルークに「失敗は最高の師」と言うので失敗をすることに意味があったとすら思える。

また、ローズがフィンにキスするのが唐突という話もありましたが、元々憧れていたみたいだし、一緒に行動というかあのスリリングな冒険を共にしたら好きになっちゃうよなあと思う。だから、唐突ではないです。

フィンについてですが、フィンとファズマが因縁ともいえる対決をしますが、その時、フィンが格好いい。フィンは戦いに慣れていないのかもしれないけれど、斬りつけるときに声が出てしまっていて、その必死さがとても良かった。これは好きになると思うから、ローズは唐突ではない。

突進していこうとしたフィンをローズが救って「敵を憎むより、愛する人を守るのが戦い」と言っていたが、これも本作のテーマだと思う。
ルークがカイロ・レンになる前のベンを殺そうとしたのは、ダークサイドに堕ちる気配を感じ、愛する人たちのいる世界を守るためだったと言っていた。

ルークとカイロ・レンの本作終盤の戦いも、ルークはカイロ・レンを倒したかったわけではなく、あくまでも気を引いてるうちにレジスタンスを逃がしたいということのようだった。これも、レジスタンスの立て直しを期待してのことでもあると思うが、やはり守ったのだと思う。

カイロ・レンに向かっていくルークの後ろ姿が恰好いいのですが、C-3POとの再会時にウインクするのも恰好いい。あのおしゃべりなC3-POをウインク一つで黙らせる。たまらない。
また、R2-D2との再会ではオビワンの映像を見せられて、「ずるいぞ」と言う様子はまさに旧友との再会でその当時に戻っている感じで良かった。レイに対する面倒な師匠っぽさは完璧に消えていた。

ルークが「私が最後のジェダイではない!」と言ったあとに、ぱっとレイが映っていたので、おそらく次作ではレイがジェダイになるのだと思う。
でも、やっぱり最後に映った少年はほうきを引き寄せる時にフォースを使っていた。見間違えじゃなかった。
レイアが準備は整っていると言っていたけれど、この子以外にも他の場所でもフォースを使える子供達が続々出現しているのではないか。そうすると、ジェダイはレイ一人ではなかったりして。

あと、ルークは3つのレッスンとわざわざ言っていたけれど、本作では2つしか出てこなかった。次作で霊体として何かをレイに教えるのだろうか。

でも、DJのこともそうですけど、いろいろと次作でどうにかなるのかなと思っていることが引き継がれるのかは怪しいとは思う。なんせ監督が変わるので…。
なんにしても、三部作の3作目なので、ちゃんと決着がつくかと思うので楽しみです。



去年公開された『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』はスピンオフで、本作は正式な続編の8作目。
いろんな事柄が思っていたのと違う方向へ進んで行くので、新鮮な気持ちで観ました。過去作に照らし合わせながら展開を予想していると、まったくそちらへは進まない。

以下、ネタバレです。『ブレードランナー2049』のネタバレも含みます。










本作は、大きく分けてレイとフィンとポー・ダメロン、それぞれを主人公とした三つの話が同時進行で別々に動いていく。

ポー・ダメロンが主人公の話は彼の成長物語だと思う。宇宙を舞台にしていて、優秀なパイロットなのは誰もが認めるところだけれど、スタンドプレーが多く、自分の力を過信している。
レイアのことを尊敬しているようだけれど、言うことを聞かないし、自分が一番正しいと思っているのは若さゆえかもしれない。

また、レイアが倒れている間の仮の指揮官ホルドの言うことはレイア以上に聞いていなかった。私もあの人は怪しいと疑ってかかっていた。けれど、途中でちゃんとした作戦があることがわかる。周りを信用することも大切だと気づかされる。大体、レイアが任せたんだからしっかりした人に決まっている。
突撃してくだけるではなく、守ることもおぼえたと思う。石の惑星では敵を前に撤退していた(フィンはつっこんでいってたけど)。たぶんひとまわり大きくなったのではないだろうか。

カジノの星に潜入していくフィンパートは、この映画がスター・ウォーズでなくても面白いと思った。これだけで一つの映画にできそう。
スター・ウォーズでよく出てくる、バーにいろんな惑星の住民がいるシーンはわくわくしますが、カジノも人が集まる場所だし、その雰囲気があった。今までカジノが出てきたことはなかった気がするので新しい。プリクエルのことはあまりよく覚えていないのでわかりません。

ここにはファースト・オーダーの部屋に侵入するためのコードを破れる人物を探しに行くんですが、その目印が胸元にプロムのバラ。その人物は見つかるけれど協力してもらえず、代わりにベニチオ・デル・トロ演じる謎の人物(DJという名前らしい。映画の中に名前は出てきたかな)が協力する。彼もコード破りに関してはかなりの腕の持ち主だったので、実は彼が最初から探していた人物だったというオチかと思った。胸元にバラの刺青を入れていて、あとでそれがわかるとかの展開を待っていたのに、あっさりと裏切ってしまう。そこでもまだ信じられずに、裏切った奴は終盤のピンチの場面で助けに来る法則が発動するかと思ったらそれもなかった。

カジノの星は、戦争で私腹を肥やした武器商人が集まっていて、DJが盗んだ船も武器商人のものだった。その船の持ち主はファースト・オーダー側だけではなく、レジスタンスにも武器を売っていて、善と悪で単純に二分できないというか、本当に悪い奴って誰なの?ということを考えさせられた。武器商人を出すというのは今時の映画っぽい。

また、金が貰える方へあっさりと鞍替えしたDJもいわゆる善悪とは別のところで動いていそうだったので、次作での出番があったりしてと思った。

レイの話にも善悪のことが繋がってきている。
普通なら、レイとルークは善でカイロ・レンが悪、善が悪を倒すという単純な話になりそうだがそうはならない。それぞれの人物が光と闇を抱えている。

レイに関して、彼女について私たちも前作1作品でしか知らないため、本当にいい子なのかはまだわかっていない。
カイロ・レンを作ってしまったルークも完全なる善ではないのかもしれない。光か、闇かという本作のポスターでも、闇側にもルークが写っている。

一番よくわからないのはカイロ・レンだ。スノークに関しては見た目からして完全に悪ですが、カイロ・レン演じるアダム・ドライバーは悪い奴に見えない。どちらかというと優しい顔である。だから余計に心が揺らぐ。

結局、私はダースベイダーの亡霊にとらわれてるのだ。けれど、カイロ・レンはダースベイダーとはだいぶ違うキャラなのが今回よくわかった。
本作でカイロ・レンは序盤でマスクを外す。それ以降まったく顔を隠さない。その様子からも、このキャラはダースベイダーとは違いますよというメッセージが感じられる。
ちなみに前作『フォースの覚醒』では、逆に終盤までマスクをつけたままだった。しかも、ダースベイダーの真似をするかのように声を少し歪ませている。

前作で父であるハン・ソロを殺した時に完全にダークサイドに堕ちたのかと思っていた。
けれど、レイとは精神的につながっていて心と心がふれあい、孤独な魂が惹かれ合い、互いを求めている。この描写はダークサイドではない。指先と指先も触れ合わないかと思ったが触れ合っていた。

二人の間にあるのは恋愛とは違う。やっぱり兄妹なのかな?とも思ってしまったけど、それはないのは前回でわかったことだ。それじゃあ、ルークの子なのかなとも思ったけどそれでもないようだった。
カイロ・レン(というか、あのシーンでは本名のベン・ソロ)がレイの出自を明らかにした。名もない普通の両親だと。お金のためにレイは売られたと。
この、特別だと思いたかったがそうではなかったというのは『ブレードランナー2049』のKを思い出してしまった。
ベンというか、本当だったら悪とされるカイロ・レンの言うことだからもしかしたら嘘かもしれないとも少し思ったけれど、その前のシーンでルークがフォースは特別な力じゃないと言っていたので、別に血ではないのかもしれない。
それにもしかしたら、選ばれた特別な人間ではないレイが主人公なことにこの三部作の意味があるのかもしれない。

『フォースの覚醒』を見返してみると、マズがレイの両親について「待っている人はもう帰ってこない」と言っているのでやはり名もなき人たちなのも本当かも。それに、フォースは誰にでも備わっているというようなことも言っていた。

ベン・ソロ(カイロ・レンではないと思いたい)がスノークを殺し、レイと二人でスノークの部下と戦っていたとき、この二人は旧作でいうルークとレイアなのか?とも思ったけれど、レイはお姫様というガラではない。
レイアも守られているわけではなかったけど、ライトセイバーをぶんぶん振り回すタイプではなかった。
それで、この映画は、別に本作は旧作でいう誰々と当てはめなくていいのだと気付いた。前作はどちらかというと旧作ファン向けだと思ったが、本作はまったく新しい映画なのだと思う。もちろんスター・ウォーズ続編ではあるけれど、それだけではない。

カイロ・レンはダースベイダーの役割ではないし、レイはルークの娘ではない。レイとカイロ・レンは両方ともフォースを使えても、家族ではない。ポー・ダメロンは腕の立つパイロットだが、ハン・ソロではない。前作はドロイド(BB-8)に地図のデータを託す様子が、旧作のドロイド(R2-D2)にデス・スターの設計図を託す様子と同じだと思ったが、本作に関しては何も旧作になぞらえなくていいのだ。

監督は『LOOPER/ルーパー』のライアン・ジョンソン。普通のSF映画として面白かった。なんと『ブレイキング・バッド』有名なハエ回(シーズン3第10話)の監督も彼でした。

ベンとレイが共闘したあと、この調子だともしかしたらカイロ・レンが最大の敵ではなく、二人で何かもっと巨大な敵を倒すのではないか?とワクワクしたけれど、結局二人は離れていく。一度触れ合った心が離れていくのは悲しい。でも、恋愛でも家族の情でもない、見たことのない不思議な関係の二人は離れていても繋がっている。
それは運命とかそういう風にしか呼べない関係で、次作でどうなっていくのか気になって仕方がない。

ルークですが、どんどんルークになっていくのが素晴らしかった。勿論最初からルークなんですけど、顔つきが変わってくるのはマーク・ハミルの演技力なのだろうか。
かつての相棒ドロイドたちにウインクするのも素敵でした。
特に最後、カイロ・レンに向かっていく後ろ姿は髪型も一緒でルークそのものだった。

ヨーダに話しかけるルークが2017年の今、観られると思わなかった。もうそれだけでお腹いっぱいです。優しい顔をしていた。
あと、レイアと二人のシーン。結局、ホログラム的なもので実態は来ていないけれど、額にキスをするのがぐっと来た。
本作は過去作関係なくおもしろかったけど、泣いてしまったのは過去と関係のあるこのようなシーンだった。

終盤で避難した石の惑星は、塩と言っていたと思うけれど、白いが、踏んだり上から圧力をかけて潰すと赤くなる。
よく雪のシーンで人が撃たれたり、白い服の人物が刺されたりと、赤と白の組み合わせは血でよく出てくるが、それとは違う形で見せていた。
特にモノスキーと言っていたと思うけれど、乗り物から一本だけ下に下ろして進むと、乗り物の軌道が赤い筋でわかる。上空からの映像が綺麗だった。IMAXで観た甲斐があった。

ポー・ダメロンとフィンは別々に動いていても何度か合流するが、レイが合流するのは映画の本当に終盤だった。そこでポー・ダメロンとレイが初めましてという感じの挨拶をしていて、初対面なのが意外だった。前作『フォースの覚醒』を観てみると、確かに会っていなくてびっくりした。
レイとBB-8も本作ではここで初めて対面する。前作ではレイが何度かアンテナを直してあげるシーンがあったけれど、ちゃんとそれに倣ってアンテナどう?と見せているのが可愛かった。
前作からの繋がりはレイアの「髪型を変えたのよ」にも表れていた。いきなり本作から観る人もいないかとは思うけれど、前作を観た人へのサービスである。

前作でハン・ソロが殺され、本作ではルークが犠牲になった。レイアは物語の中では生きていたが、レイアを演じたキャリー・フィッシャーが亡くなってしまったので次作には出てこないと思われる。次作はまったく新しい展開になりそう。
キャリー・フィッシャーの役名の上に、“愛する私たちのお姫様”と書かれていて、そこでも号泣してしまった。

今作は軽いギャグ要素も多かった。
ネタバレを入れないようにしていたけれどグッズからキャラを知ってしまったポーグですが、ただのほんわかギャグ要員だった。もっとストーリーに関わってきてしまったら嫌だなと思っていたけれど、それほど出てこなくて良かった。ジャージャー・ビンクスの悪夢が忘れられない。

目をつぶって手を差し出しているレイの手にルークが草をさわさわやって、「フォースを感じる!」と言わせるのもおもしろかった。
ルークとレイの気が合うんだか合わないんだかわからない関係も良かった。途中まで本当に親子なのだと思っていたけれど、故郷はどこだ?と聞いていたし、親子よりは遠い存在のように思えた。でも師弟ほども近くないかな。

『フォースの覚醒』の最後ではレイが無言でライトセイバーを受け取れとルークに差し出すが、本作ではルークはそれを受け取ってポイと捨てていて笑ってしまった。あんなに重要そうに渡そうとしてたのに。なんだったんだ、あのラストは。

今回のフィンの登場シーン、BB-8が「フィンが裸で漏らしてる」と言っていたけれど、確かに裸でチューブから水をびゅーびゅー漏らしててそこも笑った。

BB-8は本作でも愛すべきキャラクターだった。
コインを悪者に向かって連続で吐き出してから、銃口に息をふっと吹きかけるような動作をしていた。かわいい。
『フォースの覚醒』の前には、あの丸いのはなんなのか、ドロイドはR2-D2とC-3POだけでいいのでは?と思っていたけれど、動きがなんともかわいくて好きになってしまった。本作も良いです。

最後に出てきたレジスタンスの指輪をしていた少年が気になった。見間違えでなければ、ほうきをフォースの力で引き寄せていたようだけれどどうだろう。

本作は『最後のジェダイ』というサブタイトルですが、ルークの言葉には「ジェダイは滅びない。最後のジェダイではない!」という意味がこめられていた。
フォースの力は誰にでも備わっていて、その力を良い方へ使うか悪い方へ使うかはその人次第なのだ。良い方向へ使えばジェダイになる。フォースの力を使えるらしい少年は、レジスタンスの指輪をしていたくらいだからレジスタンス側へつくのだと思う。そうすればジェダイにもなれるかもしれない。

あと、ハックス将軍ですが、今回死ぬのではないかと思っていたけれど、しぶとく生き残っている。序盤からポー・ダメロンにからかわれてましたが、小者感が強調されていた。このタイプは最後まで生き残るのではないかという気もする。

どちらにしても、次が三部作の3作目である。はやく次作が観たい。再来年まで待てない。
でも来年の若いハン・ソロのスピンオフも楽しみ。ハン・ソロ役は『ヘイル、シーザー!』の「だがに」のカウボーイ役だったアルデン・エーレンライク。



言わずと知れたアガサ・クリスティの小説が原作。1974年にも映画化されていて、今回はケネス・ブラナーが監督をし、ポワロ役も彼がつとめる。

以下、ネタバレです。










1974年の映画を観たのか小説を読んだのかは忘れてしまったけれど、犯人と殺害方法は知っていた中での鑑賞。
本作ではいきなり列車に乗るわけではなく、オープニングで軽く一つの事件を解決する。
そのシーンだけでも、ポワロは飄々としていてとてもやり手には見えないけれどすごい速さで解決するし、その手腕の確かさがわかる。
また、探偵ものの常套句でもあるのかもしれないし、イギリスものだからかもしれないけど、持ち物や身なりを観察してその人の職業などを当てる様子は、シャーロック・ホームズを思い出してしまった。

オリエント急行に乗り込むシーンはとてもわくわくした。ペネロペ・クルス、ジュディ・デンチ、ウィレム・デフォー、ジョニー・デップ、ミシェル・ファイファーと、こうあげていくだけでもめちゃくちゃ豪華な出演者の軽い自己紹介めいたことをしながら列車に乗っていく。
あと、オリヴィア・コールマンが出ているのを知らなかったので嬉しかったです。伯爵役のセルゲイ・ポルーニンは知らなかったけれどかっこよくて、身体能力がものすごく高そうと思ったら俳優ではなくバレエダンサーらしい。軽い格闘シーンがキレキレでした。肩にヒース・レジャーのジョーカーの刺青を入れてるあたりもそそられる。

また、ポワロが乗り込んでからは、カメラが列車の外から彼を追いかけるのも凝っていると思った。
列車が発車する時に駅にいる子供などが手を振っているのも、これから始まる感が高まって良かった。

ラチェットが殺されたことがわかるシーンも上から撮られているのがおもしろい。ポワロが自室を出て、廊下からラチェットの部屋を覗いているのを真上から撮っている。しかし、ラチェットの部屋の中には入らない。ポワロの部屋は真上からのショットがある。メッタ刺しの遺体を映さないためかなと思ったけれど、あとで映っていたので違うようだ。

中盤の聞き込みは、少し退屈に思えてしまった。列車は雪崩で脱線してしまったため動かない。雪山の中なので動きがとれない。殺人事件が起こっているので全員容疑者ということで、列車の中からは出さず一人一人聞き込みをする。
ラチェットの過去と乗客の過去が次第に明らかになっていくが、仕方がないけど画面に動きがなく、しかもなんとなく知っている事柄だったので話を聞いているだけという風になってしまったのだ。

ただ、全員が刺したという結末は知っていても、犯行を告白するシーンと犯行時の回想は泣いてしまった。あんなに悲しい殺人シーンがあるのだろうか。音楽のせいかもしれない。告白シーンはさすがに豪華俳優が揃えられているだけある。特にウィレム・デフォーとミシェル・ファイファーがうまかった。あとペネロペ・クルスはここではそこまで演技をしないが、ここ以外のシーンでうまいなーと思って観ていた。魅力的でした。

カメラワークで凝っているところはあっても、演出はクラシックだったかなと思った。豪華列車などの美術のせいかもしれない。
また、最後に次作『ナイルに死す』への橋渡しとなるシーンがあるけれど、最近の演出だったら、“エジプト”とか“ナイル川”とかの単語が出てきた時点でジャジャン!と印象的なSEが使われて、ポワロの顔がアップになりエンドロールに入るみたいな終わり方になりそうだが、本作ではそこでは終わらず、走り去るオリエント急行と車窓から乗客たちがポワロを見下ろしている様子が映り、情緒が感じられた。
最近の演出にしちゃうと本当にシャーロック・ホームズになってしまいそうだし、こっちのしっとりとした終わり方で良かった。


『否定と肯定』



原題は“Denial”なので否定のみです。たしかに否定のみかなとは思うが、それがタイトルだとちょっと強すぎてしまうため、肯定を付けたのだと思う。『肯定と否定』にならなくてよかった。

ホロコーストについて研究しているアメリカ人の教授デボラ・リップシュタットがホロコースト否定論者のデイヴィッド・アーヴィングに訴えられ、裁判を起こされた実話。リップシュタット自身の著書を原作としている。

実は、ジャック・ロウデン目当てで観たのですが、それ以上に内容がおもしろかった(彼も素敵でした)。

以下、ネタバレです。









そもそもホロコースト否定論者というのがいるのを知らなかった。ユダヤ人の大量虐殺がなかった?そんな馬鹿なと思ってしまった。当たり前の事実として受け止めていたから、それが揺らぐようなことを言う人が出てきて驚く。
ただ、このような歴史の事実/事実ではないの争いは他の事柄についてもあるだろうとも考えたので、ホロコーストについてそう言う人がいても不思議ではない。

リップシュタットの著書内で、アーヴィングは自分のことが中傷されていたとして、名誉毀損で訴える。しかも、リップシュタットはアメリカ人なのに、アメリカではなくイギリスの裁判所に提起した。
それは、イギリスの場合は、訴えられた側が間違っていないと立証しなくてはいけないかららしい。そんなことがあることも知らなかった。
一方的に因縁をつけられた上に立証責任があるとは。そして、当たり前のことを証明するのがいかに大変なのかがよくわかった。

映画のほとんどのシーンはこの裁判の模様である。念入りな作戦と裏付けをとる作業は気が遠くなるようだった。イギリスの弁護士チームがやり手で恰好良い。

リップシュタットは一方的に因縁をつけられているから当然怒っている。だから、自分がアーヴィングを打ち負かしてやりたいと考えているけれど、弁護士団にはそれを禁止される。それは、アーヴィングも口が達者だから、揚げ足をとるようなことを言って、そこから形勢が不利になることを恐れたようだ。
黙って座っていられなくて、思わず一言発してしまったりしているリップシュタットの気持ちもわかるが、それだけ血気盛んなようだったから、おそらくボロも出る。
でも、リップシュタット自身が言葉を発しなくても、彼女の著書で彼女の冷静な発言は引用できるのだ。そう考えた弁護士団が素晴らしかった。

また、実際のホロコーストの生還者も証言台に立たせなかった。ホロコースト否定論者に実際に経験した人をぶつけてやれと私も考えたが、それもやっぱり怒りに任せた行動なんですよね。被害者もリップシュタットも、最初は弁護士団を責めたけれど、以前、アーヴィングがホロコースト経験者の腕に入れられた数字を「いくら貰ってその入れ墨を入れたんだ?」などと中傷していたのだ。そんな辱めを受けさせられることはわかっていたし、今回は証言台には立たせなかったらしい。

アーヴィングに餌を与えない作戦です。冷静すぎるくらい冷静。でも全部裁判に勝つためなのだ。

弁護士団のスマートな感じも恰好良かったが、その中でリップシュタットが感情的なのもとても良かった。イギリス人の中に一人だけいるアメリカ人ということで、その批判もところどころに出てきて面白かった。
リップシュタットを演じたのがレイチェル・ワイズ。レイチェル・ワイズは『光をくれた人』の演技もとても好きだったけれど、今回も好きでした。

実際にアウシュビッツへ行った時に、ガス室の跡の前で案内係の教授と二人でユダヤの歌を歌うシーンは辛くて涙が出た。
これもまた違う方向からのナチスやヒトラーを扱った映画なのだと思った。
教授も歌う前にユダヤ教の帽子をかぶっていた。有刺鉄線から雫が落ちてそれが涙に見えた。もしかしたら弔いの歌なのかもしれない。
教授を演じたのがマーク・ゲイティスです。

ちなみに、ホロコーストというと『サウルの息子』のことを思い出してしまう。あの映画で本当にアウシュビッツの中に入ったような気持ちになったので。

アウシュビッツに一緒に行った弁護士のランプトンは飄々としていたり、他の弁護士団と同じくクールなのかと思っていたけれど、実は内に秘めた熱さがあって、法廷でアーヴィングをバンバン言い負かすのがこれもまた恰好良かった。演じているのはトム・ウィルキンソン。

弁護士団のリーダーであるジュリウスを演じたのがアンドリュー・スコット。「ジュリウスにとりこまれないようにね」みたいなことを言われていたので、もしかしたら、リップシュタットと軽く恋愛関係っぽくなったりするのかとも思ったけれども実話だしそんなことはなかった。
それどころか、リップシュタットのアメリカでの彼氏とか、そんなものも出てこない。
女性が主人公の映画だと恋愛要素が無理やり割り込まされるものだと思っていたけれど、そう考える私のほうがもう古いのがよくわかった。
それに、この映画で恋愛要素など必要ないし、ノイズになってしまう。

新人弁護士の女性は、一緒に住んでいる彼氏か夫に、弁護士なんてやめろとかホロコーストなんて昔のことだろなどと文句を言われていたが、仕事を続け、裁判で勝ったあとには仕事にやりがいを感じていた。
男に何を言われても別に従わない。映画を通して、女性が強く描かれているのも気持ちが良かった。

このアーヴィングという人は、リップシュタットの他にも訴えていたようだが、それも女性だったらしい。
劇中では黒人差別や反ユダヤの面が見られたけれど、女性差別主義者でもあるようだ。やはり打ち負かさなくてはならない人物である。
アーヴィングを演じているのはティモシー・スポール。全編で憎たらしい演技がこれまた素晴らしい。

恋愛要素が無いのはいいんですが、ジュリウスは素敵だったのでどんな私生活を送っているのか少し気になった。本当にほとんどが裁判シーンなので。
裁判に負けたにも関わらず、アーヴィングが相変わらずの様子でテレビのトーク番組に出ていて、電話をかけてきて呆れたようなことを言うジュリウスが恰好良かった。ほんの少しのシーンですが、私服だし、冗談っぽいことを言うのがいい。あと、あらためてですが、アンドリュー・スコットの声が好きだと思った。

以下、本編と関係のないジャック・ロウデンの感想。
ジャック・ロウデンは弁護士団の一員で、思ったよりも出番が多く、セリフもまあまあありました。裁判中はリップシュタットの隣に座っているのでちょこちょこ映る。映るだけではなく、落ち着きなく座っているので動きを見てしまう。

髪を黒く染めているけれど、元が金だからなのか、陽が当たるとだいぶ茶色っぽく見える。アンドリュー・スコットの黒髪とはやはり違う。

ペンをくわえるシーンがあるとは聞いていたのですが、鉛筆のお尻を噛むみたいなくわえかたかと思ったら、忍者が巻き物をくわえて術を唱えるときみたいなくわえかただった。同じように小さな紙もくわえていた。
モリッシーの伝記映画『England is Mine』の予告編でも同じようにペンをくわえていたし、『The Tunnel』でもイヤホンのコードをくわえていた。
そのような演技指導をされているのか、自由に演技したらくわえちゃうのかわからないけれど、どちらにしても最高です。かわいい。

あと、常に落ち着きがない。メガネは頻繁に触っているし、きょろきょろとしている。目だけを動かすわけではなく、話している人の方向にじっと向きなおるのもいい。
喋ってなくてもいろいろな表情をしていて、字幕で重要なことを言われているのに画面に映っているとつい見てしまい支障が出るほど。

乾杯をするシーンで椅子がなくてテーブルの後ろに立っていて、グラスも誰とも合わせられずにでも乾杯の仕草だけするのも可愛かった。下っ端なのだろうか。

ジュリウスの部下なのだと思いますが、これももう少しアンドリュー・スコットとの触れ合いが欲しかった気もする。リブソン(ジャック・ロウデン)がわーっと話し始め、それにかぶせるようにジュリウスがわかりやすく説明するみたいなシーンはあったが、二人が話すシーンはなかったかもしれない。



モーツァルト生誕260年記念作品で、イギリスとチェコの合作(イギリスでは2016年公開)。
監督・脚本は特殊効果出身のジョン・スティーブンソン。全編プラハロケらしいし、特殊効果とは無縁の本作の監督なのが少し意外。でも、エンドロールにはVFXに関する記載もありました。どこに使われていたのかは不明。
主演はアナイリン・バーナード。

以下、ネタバレです。










他の作品などではモーツァルトは奔放だったり、下品だったり、変態的な描かれ方をしていることが多く思えるけれど、本作ではいたってまとも。
美形のアナイリン・バーナードがモーツァルト役なのと、“誘惑のマスカレード”というサブタイトルから、彼が色気でもって周囲を狂わせていく話なのかと勝手に思っていたが、そうではなかった。妻帯者ではあるものの、一人の女性に対する純愛がメイン。
ただ、モーツァルト側から手は出さないけど、周囲は勝手に彼のことをどんどん好きにはなります。

オペラ『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』がメインになっている。
『フィガロの結婚』の上演のためにウィーンからプラハに呼ばれたモーツァルトが、プラハで『ドン・ジョヴァンニ』をつくり初上演したという実話から、その滞在時のストーリーが創作されたらしく、フィクションはフィクションのようです。ただ、はっきりしたことは多分わかっていないのかなとも思う。

この創作されたストーリーが『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』になぞらえてあるのがおもしろい。それは観ているとわかることだけれど、元のオペラ自体を知っているとより楽しめそう。

『フィガロの結婚』でケルビーノ役の女性が恋について歌うのを、彼女と恋仲になりかけのモーツァルトが指揮をしながら聴くシーンはドキドキしました。

『ドン・ジョヴァンニ』に関してはもっと直接的で、猟色家の伯爵をドン・ジョヴァンニになぞらえていた。
墓場には石像があり、石像にドン・ジョヴァンニが穴に引きずり込まれるシーンと絞首刑になった伯爵の落下がオーバーラップしていた。

彼女は死ぬ必要があったのか?という意見もあるようですが、元々、伯爵をドン・ジョヴァンニになぞらえていたし、彼女が死んだことで埋葬の時にモーツァルトは墓場で騎士の石像を見て『ドン・ジョヴァンニ』のラストの着想を得た(という想像)のだし、伯爵が彼女を殺したことで絞首刑になり、その落ちるイメージが騎士が穴に引きずりこむイメージと重なったのだろうし、あくまでも本作の中ではだけど、彼女の死無くしては『ドン・ジョヴァンニ』という作品が生まれなかったということになっているから仕方ないと思う。

ストーリーも練られているし、プラハロケも衣装も豪華で見ごたえはあるのだけれど、一番の注目点はアナイリン・バーナードの美しさです。彼目当てで観たのですが、全編で美しい。オペラをほんの少し歌うシーンもあって、その歌唱力も堪能できる。

『シタデル』のキスシーンで高すぎる鼻がかなり潰れているのは確認したんですが、本作の仮面舞踏会のシーンでマスクの目の穴に大きすぎる目が入りきっていないのに驚いた。他の人はちゃんと人間がマスクをつけているように見えるが、アナイリンはマスクから目の周りの皮膚が見えないので、マスク込みのそうゆう生き物のように見える。

モーツァルトの時代、1787年が舞台なので衣装もゴテゴテしているが、顔が派手なので負けていない。また、その時代なので顔はうっすらおしろいが塗られ、唇も赤い。化粧が映える。顔にかかるウェーブがかった前髪もセクシーです。

『戦争と平和』で黒いコートがとても似合っていたけれど、本作では葬式のシーンで真っ黒い服を着ていて、ここでもやはり悪魔っぽかった。表情がやつれているのも良い。

吸血鬼役とか悪魔役が似合いそうな気がする。ファンタジーかホラーに出て人外役をやってほしい。それくらい人間離れした美しさだった。

アナイリンは『ダンケルク』でもずっと悩んでいるような顔をしていたけれど、本作も笑顔は見せるものの切なく悩むシーンは多いし、ぽろぽろと涙も流していた。
モーツァルトというには繊細すぎるとは思うが、アナイリンが演じるならこのモーツァルトでいいです。似合ってました。



『17歳の肖像』『ワン・デイ 23年のラブストーリー』のロネ・シェルフィグ監督。
プロパガンダ映画の脚本をまかされた女性が、1940年のダンケルクの戦いを題材に映画を作る。
イギリスでは今年4月に公開されていてこれはクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』の前になるが、日本ではダンケルクの戦い自体があまり知られていないためか、『ダンケルク』の二ヶ月後の公開になった。これは(私のように)『ダンケルク』でダンケルクの戦いに興味を持った人も見るし、いいタイミングだと思う。
主演はジェマ・アータートン。共演はサム・クラフリン(ニコラス・ホルトかと思った)、ビル・ナイ。

以下、ネタバレです。












舞台は1940年、実際にダンケルクの戦いが起こった年である。民間船がフランスに取り残された兵士33万人を救ったというのは、“奇跡の撤退劇”として厳しい戦況ながらも明るいニュースではあったようだ。
『ダンケルク』は兵士たちがフランスから逃げる話だったが、本作はその頃ロンドンでは…といったことが描かれている。違う方向から見ることができておもしろかった。

民間船の召集はラジオで行われたらしい。きっとそれを聞いて、『ダンケルク』のドーソンさんとピーターも家の船を出すことにしたのだろうなと考えた。

ロンドンが激しい空襲に遭っていて、市民は地下鉄に避難していましたが、これが、1940年9月から翌年5月まで続いたロンドン大空襲ですね。
一方その頃、空軍はバトルオブブリテンに駆り出されていたというのが流れでわかっておもしろい。

戦争中でも兵士は軍服のままパブに来ているし、映画も観に来ている。市民も家に閉じこもって震えていたわけではないようだ。ただ、急に空襲が始まったりはしていて、やはり大変ではあったようだ。
映画は娯楽の中心だったようだ。なので、それを市民の戦意向上にあてようと、プロパガンダ映画が作られたらしい。

双子の姉妹がダンケルクの兵士の救助に漁船を出したというのは変わってるし、確かに題材にしやすそう。ところが、実際に話を聞きに行ってみたら途中でエンストしてしまい、大型船に牽引されて兵士を乗せただけだったということがわかる。

でも、兵士が持っていた鞄から犬が出てきたとかフランス人兵士にキスされたとか細かいエピソードを中心にして、脚本を膨らませていくのがおもしろい。

しかし、『ダンケルク』を観ていたら、武器はフランスに置いていっていたようだったが、犬は連れて帰ったんですね。可愛かったのだろうし、撤退できるかわからない間の癒しでもあったのだろう。
あと、フランス人は助けてくれたイギリスの姉妹にキスするなんてロクなことしないと思った。そりゃあ、カエル野郎とも呼ばれますよ。

脚本家たちが話し合いながら、三人でプロットを組み立てていく様子はスリリングでおもしろかった。意見を交わしながら、少しずつ物語が出来上がっていく。

しかし、プロパガンダ映画である。そこに、軍や政府が関わってくるからすべて自分たちの好きには作れない。
お偉いさん役にジェレミー・アイアンズ。彼が出ているのを知らなかったので嬉しかった。
アメリカ人も出したいということで、俳優ではない空軍に属している軍人さんを連れてくる。歯は白く恰好は良くても演技ができない。「あの歯は本物?」というセリフにも笑った。なんとなく、『ヘイル、シーザー!』のカウボーイを思い出しました。

ビル・ナイ演じるピークを過ぎた老俳優もクセモノ。わがままだけど恰好良くてチャーミングだった。歌も披露しています。
彼のエージェント役にエディ・マーサン。彼も出ているとは知らなかったので驚いた。
しかし、空襲に遭って結構序盤で死んでしまうのが残念。本当に死と隣り合わせなのだ。

ダンケルクに見立てたロケ地の海辺の町は、ロンドンの市街地よりは穏やかなようだった。
透明なプラ板に多数の兵士と駆逐艦などが描かれているのを海に透かして撮影していた。『ダンケルク』でもノーラン監督は兵士を書き割りで作ったらしいのでほぼ同じである。工夫が感じられる。

ロンドンの空襲はどんどん激しくなっていっているようで、ロケが終わり、他の部分をスタジオで撮影している最中にも襲われる。

主人公のカトリンと一緒に脚本を書いていたバックリーはいい雰囲気になるが、バックリーのいた場所が空襲を受けてしまう。でも、生きていて、良かった…と思ったのもつかの間、スタジオの中のものが倒れ、下敷きになり死んでしまう。
一度ほっとしたので、このまま終わるのかと思ったのにショックだった。

部屋にこもりきりだったカトリンは、老俳優のヒリアードに促され、完成した映画を観に行く。
テクニカラーで本当におもしろそうな出来になっていたので、完全版を観てみたい。DVDなどには特典映像として入らないだろうか。

カトリンの横のご婦人は映画内のセリフを同時に発して、観るのは5回目よと言っていた。
映画内で船のスクリューにロープが絡まるトラブルを解決する役割を双子の姉妹にまかせたことで、現実の双子の姉妹も整備士を目指すことにしたと言っていた。
カトリンが作った物語が人を動かしている。

また、この劇中劇の映画のラスト、なくなってしまった映像の代わりに、現代の映像を加わっていた。海辺の町でのロケ中、バックリーが食べかけていたポテトをカトリンが奪ってポイと捨てるシーンが入っていたのだ。
ここ、最初に出てきたときに、そんなー!と思って爆笑してしまったシーンだったのだ。もうバックリーは死んでしまった今となったらちょっと違う意味合いになってしまうけれど、それでも微笑ましい。
その人自体はいなくなってしまっても、思い出や物語の中では生き続けるというのに涙が出た。これ、実は『KUBO』と同じテーマではないかと思った。
これもまた、人はどうして物語を必要とするのかを考えさせられる映画だった。

『戦争と平和』



BBCウェールズ製作(2016年)。NHKでも2016年に放映されました。全八回。
ジャック・ロウデンとアナイリン・バーナードが出ているということで見直してみました。

前回見たときには、トルストイの『戦争と平和』だとは知らなくて、イギリス人(と一部アメリカ人)がロシア人を演じているのに違和感があったのと、歴史ものなのでどこか重苦しい雰囲気に馴染まずにだいぶ適当に見てしまった。

しかし、今回、目当ての俳優がいるとなるとだいぶ違った感じで、最後までおもしろく見ることができた。
前回も一応ポール・ダノ目当てではあったのですが…(地上波の連続ドラマでポール・ダノ主演!と大喜びしていた)。

『戦争と平和』ですが、読んだことがなかったんですが、あらすじを読んでみる限りでは結構原作通りだったみたい。だけど、すごく長いことと、もっと膨大な量の人物が登場するみたいなのであらすじをなぞった感じなのかもしれない。

ポール・ダノ演じるピエールとリリー・ジェームズ演じるナターシャ、それに、ジェームズ・ノートン演じるアンドレイの三人が中心。
それにいとこや兄弟などが絡み合って複雑に恋愛をしていく。男たちは戦争に行く。
ですが、この感想は、ジャック・ロウデンとアナイリン・バーナードについて書いています。


ジャック・ロウデンが演じるニコライはナターシャの兄、アナイリン・バーナードが演じるボリスはナターシャの幼馴染で結婚の約束もしている。
二人とも最序盤から出てきて驚いたんですが、出てきて早々、ニコライはナターシャたちのいとこのソーニャとキスするし、それが見えるくらいの場所でボリスもナターシャとキスをしているのでこれにも驚いた。
恋愛の要素もあるし、二人のキスシーンなんかもあるのかなと思ったら、おそらく開始10分も経ってないうちに、二人まとめて見ることができた。

ボリスの母親は上に取り入るのがうまくて、近衛兵になるし、女性も金持ちを取っ替え引っ替え味見していた。ナターシャのことはそんなに好きではない風で、ピエールの金を目当てに結婚したエレンと愛人関係にもなっていた。
エレンに会いに行くときの黒いコートが恰好良かった。目がぎょろっとしていて整った顔をしている人が黒い服を着ると、悪魔的な美しさになる。
また、終盤、ロシア皇帝からナポレオンに伝令を伝える役目を担い、ナポレオンに耳を触られて気にする様子が可愛かった。

満遍なく、ちょこちょこと出てくる感じでした。ただ、ちょっと太っていて、顎の肉が気になった。もう少し痩せていていい。
吹き替えが川田紳司さんでした。それを演じているのがアナイリンだとは知らなかった。前回も川田さん目当てではあったのだけど…。

ニコライに至っては五話以外には全部出ているし、三人の次の準主役級に出番が多かった。『ベルファスト71』とは比べものにならないくらい多い。
今から考えると、なんで前回ジャック・ロウデンを見て全然引っかからなかったんだろう?と思うくらい、すべてのシーンで恰好良かったです。

最初に戦地に赴くときにナターシャが「お兄様の軍服姿、素敵」と言っていたけれど、本当にナターシャの気持ちがよくわかりました。素敵でした。
しかし、最初の戦地では、馬が撃たれ、単身、剣をかざして敵の只中に勇敢に立ち向かっていこうとするも、正気になって逃げ戻る。情けないけれど、それが彼の命を救ったし、ジャック・ロウデンに合う。
『The Tunnel』のときにも思ったけれど、結構ダメ男を演じさせて輝くタイプではないかと思った。

三話では愛するソーニャにちょっかいをかけてきたドーロホフにカードの勝負を挑み、ムキになって一晩続けた結果、莫大な金額の借金を背負う。
取り返しのつかないことをした朝、自宅に戻るとソーニャのピアノでナターシャが歌っている。それに合わせてニコライも歌うシーンがある。
ジャック・ロウデンのロシア語の歌が聴けるのも貴重ですが、このときに、涙ぐんでいるのが本当に良い。この娘たちはこんなに純真で美しいのに、自分ときたらどうだとでも思っていそうだった。大変なことをしてしまったという後悔しかなさそうだった。
結果、家を破産させてしまう。キング・オブ・ドラ息子。やっぱりダメ男である。

四話ではナターシャとソーニャと一緒に親戚の家へ行くのですが、そのときの服装がもこもこと着膨れしていて、帽子も毛のもふっとしたもので本当に可愛い。

幼い頃からずっとニコライのことが好きだったソーニャに感情移入して見ていたんですが、ニコライは途中でアンドレイの妹マリヤに心変わりしてしまう。マリヤもいい子だったし、マリヤと結婚すれば家の借金もどうにかなるし、家を潰したニコライはそうするしかないけれど、ソーニャが可哀想だった。ニコライが二人いたらよかったのにと思ってしまった。

ラストではその後の様子が描かれている。ここにもニコライは出ているので、本当に最初から最後までちゃんと出ている。軍服姿もよかったけれど、ここで着ているテロッとした記事の真っ赤なシャツも似合っていた。
ここまでちゃんと出ていてこんなに恰好いいのに、本当になんで見逃していたのかまったくわからない。しかもこれがNHKで放映されていたというのは今から考えたらまったく想像がつかない。地上波でこんなにジャック・ロウデンの姿が見られたとは…。



マーベルのヒーロー集合ものがアベンジャーズですが、こちらはDCのヒーロー集合もの。
様々な企業とのコラボの方向性が少しおかしかったのでどうなることかと思ってましたが、前作の『ワンダーウーマン』がおもしろかったし予告編も恰好良い仕上がりだったので期待をしていました。

まだMCUほど作品が出ていないし、いきなり本作から観ても大丈夫といえば大丈夫ですが、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』は観ておいたほうがいいかもしれない。サブタイトルからも本作の直接的な前日譚だと思う。

以下、ネタバレです。











相変わらずアメコミの原作を読んでいないため、細かいこだわりなどはあとから調べて知ったので、たぶん知っていたらもっと楽しめたと思う。

おおまかなストーリーは、海底とワンダーウーマンの故郷セミッシラと地球に分散されてい保管されていた三つのマザーボックスを、今回のヴィラン、ステッペンウルフが入手するのを阻止する。
セミッシラはワンダーウーマンですが、海底を守るのはアクアマン、地球で保管されている場所はサイボーグであるビクターの父が働くラボである。

ワンダーウーマンとバットマンは、『ワンダーウーマン』の最後でメールを送っていたこともあって、最初から顔見知りの状態で、すでにチームに参加することになっている。なっているが、ブルース・ウェインがいまいち積極的ではないというか、アルフレッドがいないと何もできないというか、ダイアナが積極的なしっかり者で良かったねという感じだった。

フラッシュをスカウトに行くときにもバリー・アレンにいきなりコウモリ型のカミソリ(何か名前があるのかも…)を投げつける始末。バリーはブルースがバットマンだとわかり、ノリノリで仲間になるけれど、ブルースには他に方法がなかったのだろうか。でも、このシリーズのブルースらしいといえばらしいのかもしれない。

バトルでもバットマンだけあまり活躍してなかった。バリーに「あなたの能力は?」と聞かれて「I’m RICH.」と答えていたけれど、本当にそれだけの可能性があるし、映画を観た後だと“この映画内ではあまり活躍しないけれどそうゆうことですよ”という前振りにも思える。

一回目のバトルの時に出してきたカニのような乗り物(追記:クモらしい)のナイトクローラーは恰好良かったけれど、その操縦もサイボーグが機械と一体化することで行っていた。バットマンは一体化できませんものね…。

序盤、人々の希望であるスーパーマンの死を市民が悼んでいていて、そこで流れる歌とスーパーマンの胸のマークが黒くなっている大きな喪章が掲げられている画が陰鬱でとても良かった。

でも、どこかで復活するんだろうなとは思いながら観ていた。復活させようと言い出したのはブルースなんですが、原作を知っている人たちからすると、それがかなり意外だったらしい。私はなんとなくこのメンバーのリーダーだし、特に意外には感じなかった。
ただ、蘇らせるためにバリーとビクターが墓を掘り返していて、これは常識的じゃない方法なのだなと実感した。なんであの二人が墓をあばく係になってしまったのだろう。若手だからでしょうか。

バリーがここで『ペット・セメタリー』のタイトルを出して怯えていて可愛い。とにかく友達が欲しいバリーは、一緒に墓あばきをしたからビクターともイエーイと拳を付き合わせようとしていたけれど、相手にされていなかった。かわいそうではあったけれど距離のつめ方がおかしいのかもしれないとも思った。

結局、復活したクラークは大暴れをしていて、バリーが「やっぱり『ペット・セメタリー』だった!」と言っているのも可愛かった。暴れているクラークを止めようとしてメンバー総出で押さえ込もうとするシーンでは、速いバリーの姿をギロリとクラークが目を動かしてとらえている様子がぞくっとしたし恰好良かった。

ザック・スナイダーの手法として見せ場でスローになるというのがあるけれど、フラッシュは速いから相対的に周囲がスローになる描写が使われていて、この手法によく合っていると思った。けれど、ザック・スナイダーは途中で降板しているので、ザックの手によるものなのかわからない。

復活したクラークが大暴れしているときにブルースだけ遅れてくるので、何かしらブルースがクラークを鎮める役目を担うのかと思ったら、アルフレッドに「“切り札”を」と言ってロイスを連れてこさせていた。最初に切り札と言ったときからロイスのことだろうなとは思っていたけれどそのまんまで少しがっかりした。

大規模なチーム戦は映画内で二回あるんですが、一回目は地下、二回目はロシアの住民が少ないところと、市街地を避ける傾向が見られた。おそらく、『マン・オブ・スティール』や『ジャスティスの誕生』でも、市民がだいぶ巻き込まれていると言われたから意識的に避けたのではないかと思う。
二回目のバトル時も、フラッシュが少ない住民(というか一家族だけですが)を精一杯遠いところへ移動させていた。

一回目のバトルではメンバーの協力プレイが見られた。二回目も途中までは協力プレイでしたが、スーパーマンが遅れてくると彼の独壇場になる。ものすごく強い。たぶん、一人でも倒せそうだった。
でも三つのキューブを離すのはサイボーグとスーパーマン二人でやっていたから一応協力プレイかな…。

最後にはフラッシュもサイボーグと拳を突き合わせてもらって、ちゃんと友情が芽生えていたのを見てホッとした。

ビクターは父親に勝手に体を改造されて生き返ったことを怒っていたけれど、最後はラボで父親の手伝いをしていたので和解も見られた。

今回の新メンバーとしてもう一人アクアマンがいますが、全身刺青上半身裸のビジュアルがものすごく恰好良いのと、強がっていてもワンダーウーマンの真実の投げ縄で本当は怖いことを告白しちゃうあたりが可愛い。マッチョでコワモテなのに。

フラッシュ、サイボーグ、アクアマンについてはおそらくこれから単独の映画が控えているのだと思いますが、それも楽しみになった(『アクアマン』は北米で2018年公開予定とのこと)。

今回の映画の中でのバトル関連だと、序盤、セミッシラでのマザーボックスを守る様子も良かった。アマゾンたちが、まるでラグビーかアメフトのようにボックスを次々にパスしながらなんとかステッペンウルフから遠ざけようとする。結局奪われてはしまうけれど、恰好良いアクションで見ごたえがあった。

ジャスティス・リーグのメンバーたちは、なんとなくまだ全員が意気投合している感じではない。かといってギスギスしているわけではない。ある程度仲が深まらないとギスギスもしない。まだその前の段階という気がする。
アベンジャーズの場合、寄せ集められてもすぐに意気投合していたように見えたけれど、ジャスティス・リーグのほうがリアリティがある。急に寄せ集められたら実際はこんなものだと思う。

この人たちがどんどん仲を深めていくのだと思うとわくわくするので、早く続編を公開してほしい。

おまけ映像では、フラッシュとスーパーマンがブランチを賭けて競争していた。バリーはクラークとも仲良くなれたんだね、友達できたね、良かったねとほっこりした。

バリー・アレンを演じているのはエズラ・ミラー。イケメンだけれど、早口だったりとオタク気質なのが合っていた。全体的に本当に可愛かったので、単独作も早く観たい。けれど、ジャスティス・リーグメンバーとの絡みももっと観たい。
あと、できるならば、アルフレッドにおやつを用意してもらっているバリーが見たかった。

今回も、ジェレミー・アイアンズのアルフレッドはとても良かった。小粋なことを言いつつ上品。アルフレッドはノーラン版のマイケル・ケインもドラマ『ゴッサム』のシーン・パートウィーも好きです。

もう一つのおまけ映像ではレックスも出てきていた。この辺も原作を知らないのでわからなかったのですが、次作へのつながりに期待。

エンドロールでは予告編でも使われていた『Come Together』のカヴァーが流れた。言わずと知れた“Come together right now over me”の歌詞がよく合っている。彼らのテーマ曲にしてほしい。



監督はスティーブン・ソダーバーグ。
チャニング・テイタムとアダム・ドライバーが冴えない兄弟役で、強盗を計画するクライムムービー。

以下、ネタバレです。








中盤以降は強盗シーンであり、強盗シーンになるとそれほど気にならないが、前半のテンポが悪く感じた。
説明不足な面も多く、ローガン兄弟がそもそもなぜ強盗をすることになったのかがいまいちわかりづらかった。仕事を解雇されたからだろうか? ジミー(チャニング・テイタム)が離婚した妻が親権を持つ娘が引っ越してしまうからだろうか。
しかも、弟のクライド(アダム・ドライバー)を誘っての強盗は二回目らしく、一回目の時には失敗して弟は刑務所に入ったらしい。

ただ、金庫破りのプロで現在は刑務所に入っているジョー・バング(ダニエル・クレイグ)とも友達のようだった。友達というか知り合いかな。
予告編を見る限りだと冴えない兄弟が急に刑務所の面会に行ったのかなと思われたけれど、まったくの初対面ではない様子だった。
小さな田舎町が舞台なので、全員知り合いみたいなところがあるのだろうか。

ただ、舞台となる場所についても、どこどこ州のどこと場所が日本語テロップで出る。英語での字幕は出ていなかったので、日本語でのみ丁寧に付けられたのだと思う。やはり説明不足な面がありそう。
でも、もしかしたらアメリカ人には理解のできることなのかもしれない。

いわゆるニューヨークなどの都市が舞台ではない。
そこまでちゃんとは理解できなかったのだけれど、想像以上に背景の厳しさがあるのかもしれない。
仕事がない、離婚率も高い、犯罪も多発している地域で、だから兄弟も手軽に強盗を計画してしまったのではないだろうか。
ましてや、ジミーはNFL花形選手だったのに足を怪我して挫折している。そのことも周囲には知れ渡っているだろう。弟のクライドはイラクに戦争に行って片腕を失った。
だから、ローガン家は呪われているなどとクライドは言っていたけれど、周囲にも噂をされていたのかもしれない。


ジミーの娘が、発表会でリアーナの『アンブレラ』を歌うべきところを、急遽、パパの好きな曲ですと言って、ジョン・デンバーの『カントリーロード(TAKE ME HOME,COUNTRY ROADS)』を歌うシーンがある。
まさにウエストバージニア州の、地元の歌で、会場は合唱に包まれる。歌の内容は故郷の美しさと、生活のつらさが歌われている。
この土地柄のことは日本人にはなかなか理解しづらい。
脚本のレベッカ・ブラントが実際にウエストバージニア州ローガンの炭鉱の家庭で育ったらしく、その辺のテイストが組み込まれているのではないかとも思う。
(ただ、このレベッカ・ブラントという方の素性は不明らしくソダーバーグの妻ではみたいな話も出ているらしい。謎)

あと、日本人というか、私は知らなかったのですが、NASCAR(National Association for Stock Car Auto Racing、全米自動車競争協会)の方々が多数カメオ出演されていたらしい。強盗の場面がレーシング場なので、全面協力してもらったのだろうか。

強盗シーンは地上でレーシングが行なわれていて、その地下でわたわたやっているという作りが面白かった。また、強盗を行うにあたっての前段作戦として、ジョー・バングの脱走作戦もある。それにあたって弟のクライドがわざと捕まって刑務所に入ったりと凝っていた。

ただ、ジョーの弟さんたちはあまりにも雑で強盗向きではないし、ローガン兄弟もあまり向いているようには見えなかった。ローガン妹は運転とサポートで活躍していたと思うが、地下にいなかったのでいまいち登場シーンが少なかった。
ジョーだけが玄人で、一人大活躍をしていた。グミベアは娯楽で買ったのかと思っていたら、それで爆発物を作るというアイディアがおもしろかった。
爆発物を仕掛けた後、ジョーがひょいひょい逃げて、顔を見合わせたローガン兄弟が慌てて逃げ出して建物が爆発というシーンが予告編で使われていたけれど、これは騙しで、本編では違うシーンで爆発する建物だった。

ここで、不発だった手作り爆発物がクライドの手に戻ってきちゃうのが面白かったので騙し予告にしてくれてよかった。一瞬何が起こったのかわからない感じになりつつも、完全に固まってしまうクライドが可愛い。

ただ、タイトルで言われているからそうなんだろうとは思うけれどまさにラッキーの連続でトントン拍子で進んでいき、わりとスムーズにことが済んでいた。

成功をして、でも結局お金は返して…ということでなぜかなと思ったら、自分たちの必要な分や、計画に巻き込んでしまった人の分はちゃんと別の場所に取ってあった。
ジョーの弟たちを信用してなかったのかもしれないけれど、強盗は実は二重作戦で、本当の計画はローガン家の三人で行われていたというネタバラシも面白かった。

ただ、この後にFBIがしつこく追いかけてくるのはちょっと蛇足気味かなと思ってしまった。
しかも、最後にはクライドの店に現れていて、不気味でした。
クライドは簡単に騙されてしまいそうだから、FBIの女性に心を開いた末に犯罪を告白する未来が見える…。

内容やテンポなどを考えると完全に好みという感じではなかったけれど、キャラクターや演じた俳優さんは好きでした。
特に、クライドを演じたアダム・ドライバーが本当に可愛い。
結局演技でしたけれど、腕を吸い込まれた時の取り乱しかたは笑ってしまった。
ジミーが最初に強盗計画を話す時も「朝食を作ってくれたし、ベーコンの焼き加減が僕好みだったから話を聞く」と言っていて、可愛すぎてびっくりした。図体の大きい大人の男の言うことではない。

兄のジミーを演じたチャニング・テイタムも体が大きいから、二人ともぬぼーっとしていて朴訥兄弟具合が愛らしかった。
結局ネタバラシの時には二人が素早く動いていたけれど、その前にはとても強盗向きではないと思った。素人臭すぎる。動きも鈍そう。

だから、ダニエル・クレイグ演じるジョー・バングの凄腕具合が目立った。007で見せたスマートさがまったく無くて、刺青が入っているし、ランニングも似合う。田舎のヤンキーくささも出てたし、演技がうまいのだなと思った。

あと、ちょい役だけれど、いい役だったのが上でレースをしているドライバー役でセバスチャン・スタン。
立て看板が作られるくらいだから人気なのだろうし、やり手なのだけれど、「自分の中のOSを…」とか言うことがいちいち胡散くさくて笑ってしまう。嫌な感じだけど憎めない役が彼に合っていた。



『コララインとボタンの魔女』、『パラノーマン ブライス・ホローの謎』のスタジオライカ作品。ストップモーション自体もものすごいけれどストーリー展開の確かさにおいて、スタジオライカの右に出る制作会社はいまのところないと思う。

今回もまったく心配をしないで観て、やはり安定しておもしろかったのですが、それより日本の公開が一年と三ヶ月も遅れているのが納得いかない。
日本が舞台で主人公が三味線を持って戦うのもそうなんですが、日本の文化にまで言及されているから、はっきり言って、外国の人よりも生まれながらにその文化に触れてきている日本人の心に沁みる作品だと思うし、これが日本でヒットしなかったらスタジオライカに失礼です。

本当はお盆の時期に合う作品だと思うけれど、夏休み映画として弱いのはわかるので、夏休み前、7月上旬くらいには公開して欲しかった。それか、アカデミー賞やゴールデングローブ賞を始め、アニメのアカデミー賞といわれるアニー賞にも多数ノミネート、受賞もしているので、アカデミー賞直後くらい、今年の春くらいには公開できなかったのか。それか、これだけ遅れるならもっと大々的に宣伝をしてほしかった。宣伝次第では人が入る映画だと思う。

今回、吹き替えで観ましたが、ピエール瀧や小林幸子も合っていてうまかったし、クボを狙うおば役の方も声が歪ませてあるからそれほど気にならなかった。

また、エンディングが吹き替え版では吉田兄弟なのですが、これはスタジオライカ側からのオファーだったらしい。吉田兄弟が弾くビートルスの『While My Guitar Gently Weeps』、三味線が主人公の武器のようになっている映画だし、当然合っていた。オリジナル版を観ていないのでわかりませんが、こちらの主題歌の方が合っているのではないかと思ってしまった。

(追記:字幕も観ました。シャーリーズ・セロンのサルの凛々しさとマシュー・マコノヒーのクワガタの飄々としていて剽軽ながらも強さを見せる様はよかったけれど、今回は吹き替えも負けていないと思う。字幕を読まずに画面に集中するためにも吹き替え推奨。また、エンディングテーマは吹き替え版よりも歌が多かった印象。三味線も入っていたけれど、こちらも日本版だとちゃんと吉田兄弟という名のある方々が手がけているからいいと思う)

以下、内容についてのネタバレを含みます。








ストップモーションアニメということで一週間で平均3秒しか制作できないとか、主人公のクボの顔だけで4800万通りあるとか、途方もない労力が費やされている。メイキングを見るのも楽しいです。

クボは赤ん坊のころ、闇の力を持つ祖父に父を殺され、クボも片目を奪われて母と一緒に暮らしていた。
昼間には村に出て行き、三味線の音色で紙を折り、その折り紙を動かして物語を紡ぐという不思議な力を使って大道芸を行っていた。
このシーンからして本当にわくわくする。
クボの周囲に人の輪ができて、みんな目を輝かせていたが、私も同じ顔で見守っていた。
三種の神器を使って侍が悪者を倒すという昔話のようなストーリーもよかった。

ある日、クボは夜になっても外にいたために、母の姉妹で祖父と同じく闇の力を持つものたちにもう片方の目も奪われそうになる。そこへ母が来てクボを助けたが、命を落としてしまい、クボの三種の神器を手に入れて、祖父を倒す旅が始まる。

一緒に旅に出ることになるサルは珍しく女性の声で、クボにやたらと世話を焼いている様子がお母さんっぽいなと思ったらお母さんだった。
クボとこのサルと折り紙で作ったハンゾウ(父?)とクワガタとの冒険である。仲間がだんだん増えていく様子や、三種の神器を探して敵を倒すという目的がゲームっぽいと思った。

そして、クワガタも父だったんですが、それは観ているとなんとなく予想はつく。
途中でサルが母、クワガタが父だとわかっても、意外性はそれほどない。でも、そこが主題ではないのだ。
だって、この先、クボはサルとクワガタとクボは末長く仲良く暮らしていきましたとさ、おしまい。という話ではない。母上、父上と会えてよかったねという話ではないのだ。
もちろん会えてよかったとは思う。それに、物心ついた時から父の姿のなかったクボが「いつも母上と二人だったから、食卓を囲んだのは初めてだ」と言ってたのも、良かったね…とは思った。
しかし、この時間が長くは続かないだろうというのはなんとなくわかる。
実際の母も父も死んでいて、魂だけがクボに一時寄り添っているのがわかる。なんというか、濃厚な死の予感が漂っている。

そして、実際にサルもクワガタも消えてしまう。それでも、クボの中には、母と父と一緒に冒険をした思い出は残る。

クラマックスでは村民が川に流した灯篭のぼんやりとした美しい灯りが亡くなった人の形になる。明確なワードは出てこないが、もちろん、時期はお盆でこれは灯籠流しである。

お盆の時期だけ亡くなった家族の魂は戻ってきて、時期が過ぎればまた帰って行ってしまう。でも、心の中に生前の人々の思い出はずっと残っている。
死者の魂を弔う気持ち、すでに亡くなった人に想いを馳せるこの感じは、もうどこから学ぶでもなく、生まれた時から備わっているものというか、日本人ならば根本的な部分でわかるものだ。
海外の映画でも感動できる映画は山ほどあるが、文化的な面では初めて見るものや理解できないものもある。それは映画で学べばいいことだ。
この映画は海外の映画なのに、日本人の心の奥を突いてくる。
海外ではかなりヒットした映画だけれど、外国の人よりも、日本人のほうが自然に受け入れらる部分が多い内容だと思う。だからこそ、日本でヒットしてほしい。
感動というか、自分で体験したことなどを思い出して、自然と涙が出てくる。

最後、月の帝だった記憶をなくしたクボの祖父に対して村民たちが優しく接しているのも良かった。村をぐちゃぐちゃにされるなど、酷い目に遭わされたのに。それでも、優しかったエピソード(おそらく嘘)を話して、記憶を上書きしてあげる。

サルとクワガタのことはそれほどびっくりするネタばらしではないが、それでも、最初から知った上で観るとまた違った伏線などにも気づけそう。
できれば、もう一度観たい。今度は字幕で。


2013年公開。ライブDVDかと思ったらライブツアードキュメンタリーだった。
曲も一曲まるまるは入っておらず、音も悪い。曲を聴くための映画ではない。

しかも最新のものではなく、1998年に行われた113本という長期のツアーを振り返るという内容。なぜこんなに間が空いているかというと、ツアー長すぎるが故に、裏でかなり大変なことが起きていたからだ。時間が経たないと明かせない真実。
ANNIEが腰がおかしくなって、インタビュー中は座れなかったけどライブ中は座らざるをえなくてきつかったみたいな話は序の口。吉井の妻が精神的におかしくなって、途中からツアーに帯同してたという話は壮絶。途中で事故でスタッフが亡くなったりもしている。

最初のほうで『SUCK OF LIFE』でおなじみギターフェラもおさめられている。ひざまずいた吉井がエマのギターを歯で弾くんですが、股の間から手を突っ込んでエマの尻を鷲掴みしてて変な声出た。ギターだけじゃなくて腹とか胸あたりにも頬を寄せたりキスをしたりしていた。ものすごく綺麗に撮られていたけれど、これはこの映画のサービスシーンで、他のシーンは結構ずっと厳しい。

ホール公演の最終日のMCで、吉井が「このツアーは失敗だった。ほかのメンバーはどうかわからないけど個人的には失敗だった」とMCで言っていて、いつもの冗談だと思ってる客席が笑ったり、「えー」と言ったりしてるけど、このドキュメンタリーを観た後だと、冗談でもなんでもなく、吉井が本心で言っていたのがわかってぞっとする。


スタッフの「フラッシュバックが起こる人はもう一回その場所に行って何もないんだって確かめないと克服できない」という話をしていてそれもつらかった。もう一度その場所を訪れる前にバンド自体が解散してしまったとのこと。


監督は高橋栄樹。『SPARK』以降のPVを多く手がけているけれど、最近だとAKB48のドキュメンタリーでも話題になってた。AKB48はまったく知らないから観てないけど、かなり厳しい内容だという話は聞いたことがある。本作の厳しさ見るとそれも納得出来る。
厳しいというのは駄作という意味ではなくて、観ていて、心が削られる。観ていてつらいから、二度は観られない。


『PUNCH DRUNKARD』というアルバムはそこまで好きじゃないからこのツアーは行ってないだろうと思ったけど、この前年がフジロックで、フジロックの時はイエモンが大好きだったのでこのツアーも多分行ったのだと思う。

『真珠色の革命時代』をステージにオーケストラを配して演奏したものは、観に行った気もするけれど、このことを雑誌で読んだか行った人の話を聞いたのか、情報として仕入れただけなのかわからない。

終盤の『ROCK STAR』は普通のライブDVDのように音もちゃんとしてるし、一曲丸々入ってる。横浜アリーナでのツアーファイナルの様子なので、私が行ったとしたらここかもしれない。113箇所のツアーをやると、こんなことになるんだって知らなかった私は、たぶん無邪気に観てたのだろうし、でもその楽しみ方で正解なのだとも思う。

この時に、「内容の濃い充実した旅でした。みなさんにもこの先、内容の濃い旅が絶対に待っています。頑張って乗り越えてください」というMCをしていて、“濃い”の部分を卑猥に強調して言っていてここでも客席からは笑いが起こっているけど、“頑張って乗り越えてください”と言ってしまっているということは、濃い=つらいorしんどいだったのだと思う。君らも乗り越えて大人になってねということ。

ただ、これを観て、またイエモンが好きになるかといったら、それはまた別の話だ。あの頃の、イエモンが好きだった頃の私と対話をするだけです。

最後に入っていた『SO YOUNG』もフルバージョンだった。今あらためて聴くと“いつか忘れて/記憶の中で死んでしまっても/あの日僕らが/信じたもの/それはまぼろしじゃない/ない/ない”のあたりがまさに現在の私とイエモンの関係みたいでちょっとだけ泣いた。

ブラーのドキュメンタリー映画、『ニュー・ワールド・タワーズ』を観た時にも思ったけれど、バンドのドキュメンタリー映画だと思ってひとごとのように観ていると、急にその奥に自分が透けて見えてきて、映画の内容と自分が繋がってしまいハッとする。




トム・フォード監督作品。
前作『シングルマン』がとても好きだったので楽しみにしてました。7年ぶりの新作(しかも日本では約一年遅れでの上映)。

エイミー・アダムス主演、ジェイク・ギレンホール、マイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソン、アーミー・ハマー出演。

以下、ネタバレです。











太った女の人が裸で踊っているというちょっとギョッとしてしまうようなオープニング。これがエイミー・アダムス演じるスーザンの作品だとわかる。
ちょっとこのセンスは理解できなかったけど、どうやら芸術家として成功しているらしく、展覧会会場も会社も家も高級そうだしとてもハイソだった。
この辺の美術が素晴らしくて、さすがトム・フォードだなと思った。
色はモノクロと赤が中心。形もぱっきりしていて無機質。いる人間にも血が通っているように見えない。

スーザンも目の周りを黒く縁取っていて、濃い赤の口紅の攻撃的なメイク。不眠症とのことだったが、人間味が感じられないのでそれも納得の風貌。
また、会社にいる人(デザイナー?)も通常では着ない服、ファッションショーで披露されるような服を着ていた。
仕事相手の女性が、ベビーシッターが信用ならないと言って子守アプリを見せてきたのにはどんな理由があったのだろう。赤ちゃんが映っていて、その信用ならないベビーシッターが出てくるびっくり描写は個人的には最近観た『IT』よりビクッとしてしまった。
『IT』は怖いという話だったけれど、青春描写や出てくる子役たちが可愛いとかピエロの中のビルスカルスガルドがイケメンであるとかの癒しがあった。本作はただただひんやりしている。

スーザンのパートは全体的にさめた印象で、悪夢のようだった。ハットン(アーミー・ハマー)と結婚していても、浮気されていることもわかっているし、お金や名声があってもとても幸せには見えなかったし、自分でも不幸だと言っていた。

そんなスーザンの元に、別れた夫エドワードから小説が届く。
スーザンは小説を読み進めていくのだが、それが映像として出てくる。
スーザンパートではそれほど登場人物が多くなさそうだったし、出演者はみんなどこで出てくるのだろうと思ったら小説の中の登場人物だった。

小説の舞台はテキサス州。砂ぼこりと気だるく張り付くような空気感とテンガロンハット。こちらのほうが映像的に人間味にあふれている。これが、スーザンパートの合間に挟み込まれる。映画が進むうちに、逆に小説パートの合間にスーザンパートが入るようになってくる。また、スーザンがエドワードとの再会から結婚、別れを思い出すスーザン過去パートも少し入ってくる。

小説の最初のページにはFor Susanの文字。“君との別れからインスパイアされた”と同封の手紙に書かれていた。

小説パートはスーザンの頭の中で展開されていることだ。エドワードが自分を題材にして書くことを知っているからなのか、小説の主人公トニーにはエドワード(ジェイク・ギレンホール)が配役されている。
トニーと妻と娘で旅行に行くために車を運転しているが、夜中に人気のない道でチンピラたちの乗った車にイチャモンをつけられる。
ここで気になったのが、トニーの妻役はスーザンではないんですよね。トニーがエドワードなのに。スーザン自身はスーザンの頭の中には出てこない。あくまでも物語なのだ。

チンピラの一人がアーロン・テイラー=ジョンソン演じるレイ。こいつが嫌な部分しかない悪党キャラクターなのだけど、アーロン・テイラー=ジョンソンがとてもうまい。何も言わずに挑発するような表情をするのが最高だった。

イチャモンをつけられた上、妻と娘はさらわれてレイプされ殺される。ここでスーザンは苦しそうな顔をしていたけれど、自分と重ねていたわけではなく、ただ内容に衝撃を受けただけだと思う。自分と重ねるなら頭の中でも自分で配役すると思うから。
トニーは地元の刑事(マイケル・シャノン)と一緒にチンピラを追いつめていく。

結局、肺がんで死ぬのがわかっている刑事が違法な手段でチンピラを監禁、一人を撃ち、銃を渡されたトニーがレイを撃つ。相討ちのようになっていたが、トニーはよろよろになりながらも生きていた。結局、自分の銃の暴発(?)で死んでしまう。

スーザン過去パートでは、エドワードと別れた理由やエドワードとの間にできた子供を堕胎したことなどが明らかになる。
過去パートのスーザンは過去なこともあるけれど、メイクもナチュラルで、現在のスーザンパートのような悪夢っぽさはない。
スーザンが不幸な理由はおそらく過去への郷愁なのではないかと思う。あの時こうしなければ今の不幸はなかったのにという後悔。

でも、エドワードとは根本的な考え方が違っていたようだから、どちらにしてもうまくいかなかったのではないかと思う。

スーザンが現在、アーティストとして成功(自らの幸せではなく名声や金銭面での成功)したのはエドワードと別れたからだと思うし、育ちのせいもあったと思う。
エドワードとスーザンは育ちも違っていたみたいだし、スーザンの母親(超保守)も反対していた。

スーザンは過去パートで、エドワードのことを「あなたは弱い」と罵っていて、その喧嘩が別れた直接の原因ではないのかもしれないが、かなり印象的に使われてる。

そして、小説内でレイがトニーを「お前は弱い」と罵ったのでぞっとしてしまった。
そうか、スーザンは小説には出ていないと思ったけど登場していた。。悪を固めたような存在として描かれていたレイがスーザンだったのだ。

トニーが小説内で妻子を守れなかったと慟哭していた。妻はスーザンなのかもしれないし、家族というぼんやりしたものなのかもしれない。娘はあの時スーザンがおろした子供だろう。生んでいたらあれくらいの年齢だ。別れて19年と言っていたから。
小説内ですべてをめちゃくちゃにしたのはレイで、現実世界ではエドワードのすべてをめちゃくちゃにしたのはスーザンだ。

スーザンの会社に芸術作品としてREVENGEと書かれたポスターだかタペストリーだかが飾られていた。

それが関係あるのだとしたら、小説はエドワードからの復讐だったのではないか。
でも、スーザンは頭の中でレイに自分を配役していなかったから、たぶん気づいていなかったのかもしれない。

気づいてたら、怖くて、申し訳なくて、とても食事になんて誘えないだろう。
スーザンはエドワードとの食事に行く前に、ワクワクしているようだったしおめかしもしていた、指輪まではずして何を期待していたのか。
現実が不幸だから過去にすがりたいという気持ちもわかるけれど、エドワードのことをまったく考えていない。
読解力がなさすぎる。読解力というよりは物語を読む能力かな。

案の定、待ち合わせのレストランにエドワードは現れないまま映画は終わる。
あの後来た派の人もいるみたいだけど来るとは思えない。

ただ、レイがスーザンだとかも、すべては私の解釈なのでどうかわからない。特にREVENGEのくだりはどうかなとは思う。トム・フォードにしては俗っぽすぎる気もする。

もう少し俗っぽい方向の解釈をすると、小説の中に出てきたマイケル・シャノン演じる刑事は現実世界のスーザンの兄なのではないかと考えた。
スーザン過去パートで、スーザンの兄はエドワードのことが好きだったと明かされていた。そして、スーザンは「喜ぶと思うから兄にも連絡してみて」と言っていた。

その時点で連絡したかどうかはわからないけれど、エドワードはスーザンが好きだったのだし、スーザンに言われたらいずれかの時点で連絡はとったのではないかと思う。スーザンと別れた後、スーザンがエドワードの人生をめちゃくちゃにした後、連絡をとったのかもしれない。
小説ではトニーが刑事に助けを求めるし、刑事と一緒にレイを追い詰める。現実世界でも、あの後にエドワードに誰か協力者がいたのだと思う。

現実世界ではスーザンの兄は、ゲイだと超保守の親にバレたときに勘当されている。
エドワードも結局上流社会に負けたという部分もあると思うし、エドワードとスーザンの兄が協力して上流社会(=スーザン)にREVENGEしたということもあるのではないか。

実際のところどうなのかと知りたいので、原作小説があるようだし読んでみようかなとも思うが、映画はだいぶ変えられているようなので読んでもわからないかもしれない。

おもしろい作りだと思うし、特にアーミー・ハマーや過去のジェイク・ギレンホールはとても綺麗に撮られている。美術もさすがに素晴らしかった。
でも、好きかどうかというと、特に好きではなかったのが残念。つまらなくはないので好みの問題です。



1990年の映画のリメイク。原作はスティーブン・キングの小説(1986年)。
一言で言ってしまえばピエロが怖いホラー映画だけれど、本作はその実、青春映画である(旧作は未見)。
特に、今年公開された映画『パワーレンジャー』のような、それぞれに悩みを抱えたスクールカーストでも下のほうになりそうなはぐれ者たち(この映画では“Losers(負け犬たち)”と言われている)が好きな人にはたまらないと思う。また、彼らがまだまだ少年なのもたまらない。

ただ、ピエロが怖いことには変わりないので、ペニーワイズ役のビルスカルスガルドの素顔(イケメン)を思い出して乗り切りました。

以下、ネタバレです。











『パワーレンジャー』はヒーロー物でありながら、彼らがなかなか変身しないことで賛否両論だったようだが、私はもういっそのこと、返信しないで彼らの日常だけ見せて欲しいというくらいに思っていたので賛成側でした。今作もホラー要素はもっと少なくしてくれても良かった。

いじめっ子から逃げたり、いじめられているところから助けたりして、はぐれ者たちが次第に集まっていく展開も良かった。全員揃ったところで、川に飛び込むシーンの甘酸っぱさには泣いてしまった。『パワーレンジャー』でも水に飛び込んでましたね。水に飛び込む青春映画は良作という法則ができつつある。『スイス・アーミー・マン』然り。

ただ、こうゆうきゅんとしてしまうような日常シーンの合間合間にホラーというか、非日常のピエロが混ぜ込まれているので余計に怖い。

ベバリーの家の洗面台の排水溝から声がして覗き込んでいたら髪の毛が中から出てきて引っ張られるシーンは本当に怖かった。その後、大量の血が排水溝から噴出して、バスルームが血まみれになる。個人的にはここが一番怖かったかもしれない。

でも、その風呂も友達みんなで掃除をする。そして、そこで流れるのがThe Cureの『Six Different Ways』という…。これが青春映画じゃなくてなんなんですか。

そのあと、みんなで不良グループに石を投げるシーンがあるんですが、その時の曲がANTHRAXという。XTCも使われてました。80年代が舞台ということでこのような選曲になっているのかもしれないけれど、良かったです。

怖かったシーンは他に、止まらなくなったスライドのシーンでしょうか。これは予告にも出ていて、風で女の人の髪の毛が舞い上がって顔が隠されているのですが、次第にピエロの顔が見えてくる。予告の時点で怖いと思っていたのですが、この後、スクリーンから巨大なピエロが出てきてさらに怖い。
あと、個人的に動きが速くなるのが怖いんですが、結構何度か出てきて怖かった。

屋敷探索のシーンでも、ところどころに出てくるのが怖い。あんなに怖くなければ子供たちの肝試し感覚でほっこりシーンとして見られるのに。
ただ、びっくり表現(急に大きい音とともにバン!と出てくるやつ)はあっても、基本的に出てくるものと思って構えているから、椅子に座りながらビクッとすることはなかった。もっとタチが悪い驚かせ方をしてくる映画はたくさんある。

結局、大筋は主人公のビルが行方不明になってしまった弟のジョージーを探すことが目的なので、他の友人たちは巻き込まれた感はある(ちょっと『インセプション』で結局コブが入国するためにみんなが付き合わされただけでは…みたいなのを思い出した)ので、ラストの「僕を置いて逃げて!」という場面ではどうするのかと思った。でも、リッチーが熱い言葉を吐いて、みんなで協力して恐怖に打ち勝つ。私はリッチーが一番好きでした。ドラマ『ストレンジャー・シングス』にも出演しているとのこと。

ただ、ビルがジョージーを探すためにピエロを倒すという単純な話ではなく、その裏に、子供達による恐怖の克服という面もある。
一人一人の日常はそれはつらいのだ。悩みもたくさんある。怖い絵や病気、両親を火事で亡くしたこと、親からの虐待、いなくなってしまった弟…それぞれが抱えている暗い出来事や心の闇。
それは友達と一緒なら忘れられるし、克服もできる。

それでも最後にそれぞれが散り散りになってしまう切なさは少年期の終わりを意味しているのかもしれない。
最高のジュブナイルムービーなのに、これがR15というのはもったいない。怖くない版を出して欲しい。でも克服する恐怖の象徴としてのピエロだから、ホラー要素を除くわけにはいかない。

黒人のマイクやラビの息子スタンリーについてはもう少し掘り下げて欲しかった。
軽口をたたいて乗り切るリッチーについても掘り下げももう少し欲しかった。のらくらかわしながらも、最後でぐっとくるセリフを吐くというキャラクターの時点でいいんですが。

そして、最後に第1章という文字が出る。
少し前に二部作だとは聞いていたんですが、一応終わるし、最後にやっと第1章と出ることから考えても、二部作というのは事前には知りたくなかった。最後にタイトルと一緒に第1章と出た時点で絶望感に包まれたかった。最後にピエロの笑い声も聞こえる。まだ死んでないよー終わってないよーというお知らせでもある。

でも、大人になってはいても、またLosers clubのあいつらに会えるというのは嬉しい。はやく観たい。
(『パワーレンジャー』の続編も待ってます)

俳優関連では、すごく怖いいじめっこのヘンリーを演じていたニコラス・ハミルトンは『はじまりへの旅』の一人だけ妙にさめてる弟さん役だった彼でした。確かに同じ顔。少し意地悪っぽい顔だと思っていたけれど、こんな本格的ないじめっこの役をやるとは…。
(自分が書いた『はじまりへの旅』の感想を読んだらニコラス・ハミルトンについて、“小さい頃のリヴァー・フェニックスにも似ている。テオ・トレブス系の顔”と書いているけれど、もうちょっと意地悪顔方面に育っちゃったかなーという印象…)






MCU17作目、『マイティ・ソー』としては3作目。
とはいえ、『マイティ・ソー』の前2作とは作風もだいぶ違うし、復習の必要はなさそう。でもそれよりはMCUを観てないとわからない部分がいくつかあるが、そっちの復習のほうがソー・シリーズを振り返るより数倍大変。
でも、中でも『アベンジャーズ』シリーズだけでも観ておいたほうが楽しめると思う。笑いどころが過去作関連だったりするので…。
でも『アベンジャーズ』シリーズを観るためにはどちらにしてもMCUを振り返っていかないとわからなかったりするのでどうにもならない。『アベンジャーズ』の一作目だけでもという感じはする。

監督は『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』のタイカ・ワイティティ。
『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』は未見なのですが、本作はおそらく監督の色が濃く出てるのではないかと思う。系統としては『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』です。あれも、ジェームズ・ガン色なので。

以下、ネタバレです。











『マイティ・ソー』の前2作は、アスガルドから地球に来た王子が女性を好きになって…という感じで、ラブストーリー風味が強かったように思う。
それでも2作目は王子様のイギリス観光メイン(という印象)なのと、ジェーンの家の入り口のフックにムジョルニア(ソーのハンマー)を引っ掛けるなどコミカルな面もあった。

ただ、ソー自身の馬鹿真面目さが作品のトーンになってしまっていた。それは王子として必要ではある真面目さなのだと思うけれど、ちょっとかたい印象だった。もしかしたら、ジェーン役のナタリー・ポートマンのせいかなともちょっと思う。

本作では前作でジェーンと別れたのでナタリー・ポートマンは出てきません。地球もほとんど出てこない。これも良かったと思う。
オープニングからソーが網の中に捕まっていて、しかもこれはワザとだというようなことをカメラに向かって話しかけてくる。さながらデッドプールである。

そして、鎖に吊るされたまま悪いやつの口上を聞いていたのだが、その鎖が回転しちゃって、ごめんちゃんと聞いてなかったみたいなことになって…。
そのシーンいる?という無駄感とくすっと笑っちゃう感。最初のこの雰囲気が作品全体のトーンになっている。

そのあとに入るアスガルドで上演されているロキを讃える芝居もめちゃくちゃ。趣味の悪い、ロキのでかい銅像の下でロキの死を美談として受け継ぐ芝居が屋外劇場で演じられている。ここでのソー役がクリス・ヘムズワースの実際の兄のルーク・ヘムズワース、ロキ役がマット・デイモンというこのふざけ方。最高です。
演じさせていたのがオーディンに化けたロキだったんですが、今回、ロキがとにかく可愛い。

今まで、悪役なんだけどなんかかわいそうだった…という印象だったけれど、今作ではロキの愛されキャラっぽさが作品の中でとても目立っている。たぶん、監督がロキを好きなんだと思う。

悪いやつなんだけど、結局イタズラの範囲なんですね。しかも、兄の気を引こうとしてやってるフシがある。
あと、弟ならではのちゃっかりさと狡猾さを持ち合わせている。

本作はアスガルドで姉のヘラが大暴れしてるんですが、兄弟は辺境の地サカールへと飛ばされる。
そこでロキはちゃっかりしてるからグランドマスターの懐にすっと入ってしまう。ソーは闘技場で戦わされてるというのに。
でも、ああ、ロキならそうするだろうなーというのがよくわかる。
ハルクが出てきて怯えるのは『アベンジャーズ』一作目でのことを思い出してるのだと思いましたが、ハルクがソーの足をもって左右の床にバンバン叩きつける様子で「イエー!」となっていたのも一作目の自分が受けた仕打ちを思い出していたのだと思う。

ソーが話す「8歳のとき、蛇が好きな俺のもとに蛇に化けたロキが来て、近くで元の姿に戻って刺した」というほっこりエピソードも、映像はなく語られるだけだけどその様子が容易に想像できる。子供の頃から、今まで何回もそんな目に遭ってたんだろうし、はたから見ていると、結局じゃれているようにしか見えない。
そして、この語られるエピソードはクリス・ヘムズワースのアドリブだという…。

最近だと『お!バカんす家族』や『ゴーストバスターズ』でコメディっぽい役もやていて、意外さとギャップで笑ったんですが、もしかしたらすごく愉快な人なのかもしれない。

ホログラムのロキにぽいぽい石を投げつけているのもおもしろかったけど、本人がそこにいるか確かめるために別のシーンでも物を投げつけるのもおもしろかった。がつんと当たってた。
そのシーンでは笑うんですが、最後に「ここにいたらハグするのに」と言って投げた物をキャッチして「いるよ」というシーンはグッと来た。物を投げつけるのが三回出てくるのもおもしろいんですが(天丼…)、ここではいなかったりがつんと当たったりはせずにキャッチするのもいい。この後、ちゃんとハグしてもらったんでしょうか。

結局、ソーとロキは仲がいいですよね。兄弟だもんね。
助けて作戦もすごく笑った。ロキがぐったりしてて、ソーが「怪我人なんです!助けて!」と言って相手が油断したところにロキを投げつけるという。
これ、兄弟が協力しないとできない技だし、話しっぷりからして今までも何回もやってきてるようなんですね。今までの作品以上に二人の一緒に過ごしてきた時間の長さと絆の深さが感じられた。
しかもこれが壮大な話ではなく、ちょっとしたエピソードやくだらない話を通して感じられるのがうまい。

今までのアベンジャーズシリーズやソーシリーズを観ていて、ロキについては様々なおかしな想像をしていたけれど、想像の上をいく可愛さだった。

ソーはきっとここまでもロキに相当苦労させられていたんだろうなというのも想像に難くないんですが、今回はハルク/バナーもかなり面倒。
ハルクとバナーはどうもお互いを嫌い合ってるみたいで、ソーはハルクの機嫌をとるために「バナーより君の友達だよ」と言い、バナーの機嫌をとるために「ハルクより君のほうが」と言う。どっちも大事だろうし、協力してもらいたい気持ちが本心でも、どっちも大事では彼(ら)は納得しない。だから「君のほうが好きだ」と嘘をつく。
ハルクもバナーも、「どうせ僕なんて…あっちのほうが好きなんでしょ?」みたいな感じでまるで面倒くさい彼女である。「そんなことないよ!」と必死で取り繕うソーの苦労が見えておもしろかった。ただでさえ、ロキ(と今回はヘラ)に苦労させられているのに大変。

ハルクについては予告にもバンバン出ていたから知っていたのですが、本当なら知りたくなかった。本編では、闘技場でのソーの相手、グランドマスターの隠し玉についてはだいぶもったいつけられるので。
ただ、バナー姿のシーンがあんなに多いと思わなかったからそれは嬉しかった。今回もハルクのモーションキャプチャーもマーク・ラファロなんだと思いますが、緑の粉末みたいなのをかけられたバナーは本当にハルクに見えてなるほどと思った。

バナーが出てきたときにすごく怯えていて、それが違う星にいるからだとわかったときには納得した。地球の普通の研究者が目覚めたら違う星にいるんだからそりゃそうですよね。なんとなく、『スター・ウォーズ』とか違う星で人間と宇宙人が普通に暮らしていてもおかしくないファンタジーSFのつもりで見ていた。
スタークの服を着てるバナーも可愛かった。デュラン・デュランの『RIO』のアルバムジャケットTシャツだった。とてもスタークっぽい。

本作はどちらかというとキャラ萌え映画だと思うんですが、サカールを抜け出すとき、宇宙船での撃ち合いではなく、追っ手の宇宙船の上に乗って生身の人間が戦うというアクションも楽しかった。

また、序盤でムジョルニアを壊されているから、ソーには武器がない。だから、自身が最終兵器というか、力を解き放って雷を操りながら戦うのもかっこよかった。短い髪も似合ってる。

ただ、それでも全員束になってかかってもヘラには敵いそうにない。それで、最初に倒した敵をアスガルドに復活させ、星もろとも滅ぼすという…。乱暴だけれど仕方ないのか。宇宙船で逃げ出した民たちは故郷を失い、難民になってしまった。

予告でレッド・ツェッペリンの『移民の歌』が使われていて、本編中でも戦いの盛り上がるシーンで使われていて恰好良かった。最近は予告で使われていても本編で使われないことも多いからうれしかった。
和訳を見ると、本編の内容とも合っていて、まさに主題歌である。

ソーは『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』で帰ってくる、とのことでMCUはまだまだ続く。一応、2018年4月27日公開予定とのこと。
そういえば、今回、ドクター・ストレンジもちょっと出てきた。『ドクター・ストレンジ』の本編のおまけ映像で、ストレンジがソーに魔法の力でビールを注いであげるシーンがあったけれど、本作ではあれが本編に入ってました。おまけシーンがそのまま本編に入るのも珍しい気がする。
それ以外にもストレンジの魔術に翻弄されるソーがおもしろかった。ソーはビールこぼしまくるし、ストレンジのアジトの物を壊しまくる。雑。性格が合わなそう。

MCUとしては次は2018年3月1日(日本公開日。アメリカは2月16日)の『ブラックパンサー』かな。最近公開になったポスターも恰好良いし楽しみです。



BBC Oneにて放映中のトム・グリン=カーニーが出演しているドラマ。アデン危機の話。全六話の最終話感想。

一話、二話感想
三話感想
四話感想
五話感想

以下、ネタバレです。











前回の最後で逮捕されたジョーの裁判が中心の回。
逮捕されたのはフィルムを隠していた件かと思っていたけれど、ゲリラ(NLF?イエメン国民解放戦線)のリーダーを解放した件だった。エドはハリーの息子を助けるためだったと証言していた。
クリスマスの日にジャーナリストの女と会ってた理由も聞かれていて、関係ないだろうに…と思ったけれど、前回オナーが単独でジャーナリストに会っていたから、余計なジェラシーもなく。しかもオナーの人懐っこい性格のせいか、意気投合とはまではいかないけれど、ちゃんと信用してもらっていたのがよかった。フィルムを返したせいかも。結局、彼女の助けでジョーも無罪に。このジャーナリストは本当に厄介だと思っていたけれど、最後には男らしい(女性だけど)面を見せた。利害が一致すれば強い。
これで、大団円かと思いきや。

今回、最序盤でトニー(トム・グリン=カーニー)がユースラを探しに基地を出ていってしまう。
ユースラの家が燃やされているのを見て取り乱すが、前回出てきた情報屋のような男性がユースラはここにはいないと言う。
ターバンを巻いて(ターバン姿も恰好良い)探しに出て、一話で逃げてすっ転んでたあたりかな。簡易的な家を作っているユースラを見つける。
見つけた瞬間にいきなり「I love you」と言っていた。英語ではなくアラビア語です。
ここにいちゃいけないとか、あなたには危険な場所だとかいろいろ言われてもそばにいるのが男らしい。

そして、最後のほうにはキスシーンも! トニーどうなるかと思ったけれど良かった…。
というか、このキスシーンがちょっと稀に見る綺麗さで驚いた。後ろから夕日が当たっているというシチュエーションも神々しいまでなんですが、トム・グリン=カーニーが贔屓目で200パーセントくらいアップしてるにしてもめちゃくちゃ美しい。
傾けた顎のラインに惚れ惚れしてしまって、一時停止して30分くらい眺めていました。素晴らしい。こだわりがないとあの角度では撮れない。

このキスシーンにしてもそうなんですが、一話の転んでの大股開きとか前回のやさぐれとか、トム・グリン=カーニーに関してはもう全体的にちょっとフェチシズムすら感じられる撮られ方をしていた。
贔屓目だけではないと思うけどどうだろうか。

しかし、そのキスの後、油断もあったのかもしれないがユースラは丘の上で何者かに撃たれる。たぶんNLFだと思うけれど、正体は明かされない。同じ場所にトニーも出て、「僕のことも撃てよ!」と叫ぶが弾は飛んでこない…。ユースラが殺されたこともつらいが、自分は死ぬことすら許されないつらさ。

ジョーたちの隊はイエメンを離脱する。旗をおろしていたし、交代ではなくイギリス軍自体が撤退するのかもしれない。
けれど、トニーは戻ってこず、ジョーが「カモン、アームストロング」と呟くシーンで終わるという…。
全六話といっていたし、次回予告がなかったからこれで最終話ですね。

トニーだけ残されてしまうのだろうか。
それとも、あの後、一話のようにふらふらと帰ってくるのだろうか。それで、一話のジョーに「遅いぞ。アームストロング」と言われるのだろうか。

このあとはあなたたちの想像におまかせしますということなのか、二期に続くなのか不明。
アリソンの子供もどうなるのだろう。今回、ほとんど裁判だったからアリソンが酒飲んでタバコぷかぷかやるシーンがないのが物足りなかった。
ここまでアリソンのことを好きになるとは思わなかった。トラブルメーカーかと思ってた。

トム・グリン=カーニーに関しては上で書いた通り、申し分なし。
女性陣濃すぎる…と思っていたけれど、彼女たちも全員好きになってしまったし、60年代の服装がおしゃれで可愛かった。
軍服も半袖半ズボンで良かったです。というか、軍服とかイギリス軍とか書いてますが、ロイヤルミリタリーポリスが軍なのかいまいち不明。ミリタリーだから軍でいいのかな…。
英語でしか見る手段はなかったのでわかりにくい部分がありつつもおもしろかった。つらい部分は多いですがそれも含めて良いドラマだった。

二期、あるとして残されたトニーがイエメンでゲリラ側についたりしたらおもしろいな…。元々はハリーがユースラを守ってくれなかったのがいけないんだし。
でも一応実話ベースだしないだろうけども。
というか、全員イギリスに戻るみたいだったし二期が作りようないか。




監督はスペイン出身のナチョ・ビガロンド。
スペインとカナダの共同製作。
アン・ハサウェイ演じるアル中寸前のダメ女が巨大モンスターとシンクロしてソウルの町を壊しまくる…というあらすじだけ聞いていて、荒唐無稽でおもしろそうと思ってたけど、それとは少し違うタイプの映画だった。でも、想像していたよりもおもしろかった。

以下、ネタバレです。










アン・ハサウェイ演じるグロリアは、酔っ払って朝帰りし、同棲している彼氏に怒られて捨てられる。既視感というか、あるあるな気持ちになったのがちょっと厳しい。
この彼氏役がダン・スティーブンスなんですが、圧倒的に言ってることは正しいし怒る気持ちもわかるけれど、まともで真面目すぎる感じ。結局、彼女のことは考えずに自分のことを中心に考えているのかなと考えてしまうような男性でダン・スティーブンスに合っている。

グロリアは同棲していたニューヨークのハイソなマンションから、昔住んでいた田舎町へ戻る。そこで小学校時代の同級生オスカー(ジェイソン・サダイキス)に再会し、テレビをもらったり、自分のバーでの仕事を紹介してもらったりする。
このまま、田舎での暮らしが順調に行くのかなと思ってたところに、急遽ソウルに出現したモンスターが彼女の動きとシンクロしていることに気づく。

最初は驚いていたけれど、酔った勢いでオスカーとオスカーの友人にシンクロしている姿をダンスしたり変なポーズをとって見せていた。
突然手に入れた不思議な能力を無邪気に使う様子はアニメ版の『時をかける少女』の真琴を思い出してしまった。他人や他の事象に影響を与えない、些細に遊ぶ感じが可愛い。悪い人が能力を手に入れると悪いことに使うけれど、グロリアも真琴も根がいい子だからこんなことをして遊んでしまう。主人公にさらに愛着がわく。

ところが、グロリアは酔っていたので、転んでしまう。ソウルではモンスターが転んでいるのだ。被害を与えてしまったことを反省して、グロリアはもうしませんと韓国語で教えてもらってモンスターを操ってソウル市民に謝る。

これでめでたしめでたしの映画なのかと思っていたのだが、ここからがストーリーが動く部分だった。

なんと、オスカーも巨大なロボットとシンクロしてソウルの町に現れる。それだけではなく、そこから徐々にオスカーが豹変して行く。
オスカーの友人とグロリアが寝たのがきっかけだったのかもしれないけど、オスカーの中のタガがはずれる。

酔った勢いでロボットとしてソウルの町へ。グロリアはもうしませんしたのにこれはまずい。でも、追い出せるのは彼女しかいないから、モンスターになってロボットをソウルから追い払う。
ネットで配信もされてるから、良いモンスターが悪いロボットを追い払ったみたいな図が出来上がっておもしろかった。
公園でグロリアがオスカーにビンタすると、近所のネット配信でソウルの様子を見ているだろう家々から歓声が上がる。わざわざソウルの町を映さなくても、ソウル側の動きが想像できるのがうまい。

けれど、それと同時にオスカーは悪いロボット=悪い人間ということが露呈していく。バーではグロリアに無理な仕事を押し付ける、グロリアの家に勝手に入っているなどかなり怖い。

オスカーは小さい頃からずっと同じ田舎町にいて、その中では大将なんですよね。ただ、くすぶってる部分もあって、ニューヨークで成功したグロリアが許せないし、グロリアのことも支配したい。
言及はされないけど、グロリアと寝た友人もグロリアが何言われても黙ってたし、酔ったオスカーの助手席に座ったりしていた。無言で従っているのだ。たぶん、ここまでの間に従わないと殴られたりしていたのだろうと思うとつらい。殴られるだけならまだしも、あの様子だと殺されかけたのかもしれない。逆らえない。

だから、グロリアも言っていたけれど、最初はオスカーはグロリアのことが好きで、優しく面倒見てやったのに友人のほうと寝やがってこの恩知らずが!みたいな気持ちかと思ったけれど、そうではなくて、グロリアだけでなく、友人と寝たことも許せない。自分に黙って勝手なことをされるのが許せないのだ。

小学生の頃にグロリアの作った町のジオラマを踏み潰したのも、俺より上手いのは許せないみたいな気持ちなのだろうか。子供の頃からそんな感じで、大人になるに従ってその支配欲や権力志向は強くなっていったのだろう。
狭い世界の中なら、他人を従わせるのも簡単だったはずだ。

そんな人が簡単に町を破壊できる能力を手に入れたらどうなるかは簡単に想像できる。その力を使って、グロリアを脅してニューヨークに戻さないようにする。こうしてやるぞ、と言いながら、実際に町を破壊していた。

グロリアがモンスターになってロボットを止めようとしても、結局は生身の男女の取っ組み合いだから力では勝てない。
それでもソウルのことは放っておいてグロリアはニューヨークに帰ってしまうのかなと思った。勝ち目がないし。
けれど彼女が向かったのはソウル。ソウルとあの田舎町がシンクロしているなら彼女がソウルに行けば、田舎町にモンスターが現れるのだ(多少強引だけどまあ)。

逃げ惑うソウル市民の中、一人巨大ロボットに向かって行くグロリアはヒーローのようだった。そうだ、いい奴が悪い奴を倒す、この映画はヒーローものだったのだ。
オスカーを手で掴み、食べそうなくらいに口に寄せて脅したあとでぽいと遠くに放り投げていた。もうオスカーの姿もロボットの姿も見ることはないと思う。
悪者がやっつけられた時の爽快感もヒーローもののそれとまったく同じである。

ダメ女グロリアがモンスターの力を使って自分の道を切り開き立ち直る話かと思ったけれど、モンスターの力は戯れにしか使わず、中盤でまともになるのが良かった。
そして、そのあたりからのオスカーの豹変っぷりはさすがのジェイソン・サダイキス。なぜ彼がキャスティングされたかわかった。ただの親切な男なわけがなかった。

ラスト、悪者を倒したグロリアは、ソウルの店に入る。多少興奮気味に「すごい話を聞かせてあげるわ」と言う。店員さんに「お酒は?」と聞かれて、飲めるものなら飲みたいけど飲めないんだったわという顔をするのがめちゃくちゃキュート。

あんな時、ぜっっっったいにお酒飲みたいもの。ヒーローもので最後に打ち上げがない状態ですね。耐えられない。
でも、彼女と酒の関係は通常とは違う。あそこでお酒もらったら台無しである。ふりだしに戻ってしまう。
だから、酒を飲まなかったあたりで彼女がちゃんと一歩先に進んだことがわかるようになっているのだ。うまい。




フランスCanal+、イギリスSkyの共同制作のドラマ。トンネルってタイトルはドーバー海峡のトンネルのことだった。もともとはデンマークとスウェーデンの共同制作で『The Bridge』というドラマだったらしい。
見たのは2013年のシリーズ1(全10話)。来年シーズン3が放映されるとのこと。
ジャック・ロウデンが出ているので見ました。

以下、ネタバレありです。









ジャック・ロウデンはシーズン1にしか出ないみたいなのに主人公の息子役ということは、犯人か死ぬかどちらかだな…と思いながらの鑑賞だった。あんまり調べなければ良かった。
一話は1分ないくらいですが、出番は最終話に行くにしたがって少しずつ増える。

ドーバー海峡のトンネル内で死体が見つかる。退かそうとすると、上半身下半身が分かれていて、しかも別人ということがわかる。片方は議員、片方は売春婦。イギリスの刑事とフランスの刑事の共同捜査が始まる…という導入部分。

すごく猟奇的だし、一話で3人以上は死ぬという感じで連続して見ると自分の精神状態がまずくなってしまうような感じだった。社会問題を正すようなメッセージがありつつの殺人で、しかもイギリスとフランス両方を巻き込んでいっているのでどうなるのだろうと思っていたが、途中から話が小さくなっていき、結局個人的な恨みだというのがわかるので結末はどうかなと思った。残念ながら6話くらいからわくわく感が薄れていく。

主人公の妻役どこかで見たことがあると思ったら『魔術師マーリン』でグウェン(グィネヴィア)を演じたAngel Coulbyだった。あと、ジョン・シム出演のドラマ『Prey』に出ていたAnastasia Hilleが出てきた(この方はフィン・ホワイトヘッド出演の『HIM』にも出ているらしい。観たい)。あと、同じくジョン・シム出演の『Intruders』に出てきたJames Frainが出てきた。
この方は、調べると『ゴッサム』やら『エージェント・カーター』やらにも出ていて、意外といろんなものに出ているのに主演ではなく途中からあやしい感じで出てきた…と思っていたら本作の犯人だった。やはりあまり調べないほうがいい。

ジャック・ロウデンはイギリス側の刑事役の息子のアダム役。アダムは働きもせず家の手伝いもせず親とも不仲、音楽のポスターなどが貼ってある部屋でパソコンをいじっている。ニートかなと思ったんですが、途中で明らかになる(というか最初から隠されているわけではない)んですが18歳だった。年の割に幼いという役柄かと思ったら、本当に子供だった。今よりちょっと体がぷよぷよしてそうだけどそこまで風貌は変わっていないので18歳には見えない。今27歳のようなので、実際には23歳のようです。それくらいに見える。

家にいるからパジャマとは言わないけどゆったりした服を着ている。首元がわりとだらしない。『ダンケルク』だと軍服をきっちり着ているから新鮮です。
首元もそうなんですが、顎の下にもわりと肉がついていて、色も白いのでもちもちしてそうな感じ。一回、フランス側の刑事の家に泊まっちゃったりするんですが、その時は上半身裸なんですよね…。筋肉がほぼついていない。おなかとか二の腕とか触りたい裸だった。仕草も家の中で家族相手に会話をしているのでゆるゆるというか、リラックスしていて可愛い。

8話の終わりでアダムがずっとチャットをしていた元恋人のベッキーが実は犯人だったと判明して、見ながら「やだー!」と言ってしまった。ここまで、そのチャットを生きがいしにしていたみたいだし、心の拠り所が奪われてしまったらアダムはどうなるんだ。でも父との不仲も解消してきたみたいなので良かったね…と思っていたら、9話の終わりではうきうきで待ち合わせ場所に出かけていってしまう。またここでつらい気持ちに。
もちろん10話ではさらわれてしまう。そして、モルヒネを打たれて殺されてしまう。「数カ月眠ってもらう」と言ってたから大丈夫かと思ったのに…。
なんか結局可哀想なだけの役だった。これなら犯人だったほうが良かったかな…。途中からイギリス側の刑事(アダムの父)への恨みなのでは?というのが明らかになってきたときに、嫌な予感が増してきて、8話終わりからはひたすらつらかった。

ジャック・ロウデン自体の風貌はとても可愛いけれど、最後は可哀想なことになってしまうからおすすめもしづらい。
事件も序盤の雰囲気から尻つぼみになってしまうのが残念。
つまらなくはないし、フランスの女刑事エリーズ役のClémence Poésy
(クレマンス・ポエジー)の冷めていて人付き合いが苦手でみだしなみに気をつけてなくて、でも仕事はできるというキャラクターが魅力的です。でも、イギリスの刑事側に話が移るので、その面でも終盤は脇役のようになってしまう。

シーズン2もドーバー海峡のトンネル関係の話なのだろうか? エリーズ側の話なら見たい。



現在丸の内ピカデリーにて行われている爆音映画祭での上映に行ってきた。
その他、スクリプトの感想も少し。

映画の内容にも触れますので、以下にネタバレがあります。









まず最初の、兵士たちが町を探っていて急にバンバンバンバン!と銃声が鳴る部分の音はかなりびっくりするような音。知らなかったらビクッとしていたと思う。

呼吸音が聞こえやすいとのことだったので気をつけていたのですが、最初のほうのトミーとギブソンが担架を運ぶところでだいぶ目立っていた。ただ、意識して聞いたのが初めてだったので別にいつも聞こえてたのかも。
また、商船の中でのシーンは陸の人たちが唯一会話があるシーンなのですが、ここでも呼吸音が気になった。

ファリアが一人残って、残燃料と相談するシーンは誰と会話するでもないけど表情は迷っていて、音も静かだ。
そして結局高度を上げていくときのエンジン音が力強かった。まるでファリアの気持ちが示されているようだった。

コリンズが「カモン、ファリア」と言ってる終盤あたりで陸海空の時間が重なるんですが、そこは画面が変わってもずっと同じ音楽が流れていて一番緊迫感がある。陸海空それぞれが大変な目に遭っているシーンです。
『インセプション』の各階層で各々がやるべきことをして戦ってるシーン思い出す。第三階層でフィッシャーがモルに撃たれて失敗するまでの盛り上がりの部分です。

ハイランダーズがホスピタルシップから乗り換えた船が魚雷で攻撃されるシーン、ギブソンが扉を開けて沈む時に、ブオンブオンと反響するみたいな音がなっていて、その低音がすごく強調されていた。

また商船(トロール船)が沈むときにもおなじような音が鳴っていて、これも反響してるみたいな音だけど、魚雷で攻撃された船が沈む時よりも速い音でびりびりいっていた。音とともに絶体絶命感も強調されている。
そして、ここから画面が変わって桟橋に行き、桟橋でも絶体絶命。不協和音のような音がしていて、もうこれどうにもならないのでは…と思ったところで、市民たちの民間船がかけつけてくるのをボルトンが発見する。
ボルトンが「Home.」と言った後で音楽も一気に優しいものに変わって、見ている方も安堵の息を漏らす。

ここも爆音上映『インセプション』のときも思ったけれど、より落差が付いていて観ている側の感情の振り幅も大きくなった。

『インセプション』同様、銃声がかなりクリアで鋭角な音にされている印象だったのですが、爆音職人が一番盛り上がってるなと感じたのが、桟橋に多数の兵士がいて、スツーカが来たのに徐々に気づいて、ホスピタル船が爆撃されるシーンです。ここの音が一番迫力があった。

爆音以外の感想ですが、もう気付いたことはそれほどないんですが、ファリアが機体を三回揺らすのが言われてわかった。
コリンズが水面に不時着するときに、ファリアがグッドラックというように右手を三回動かすんですが、その時に機体も動かしていたのかな。別の時かもしれない。
スクリプトも読んだのですが、この時にコリンズは迫ってくる水から逃げようともがいているのですが、機体を三回揺らすのは見ていたらしい。

あと、魚雷に攻撃されたとき、ギブソンは律儀に一回戻ってトミーたちのために扉を開けてあげるんですが、商船に水が入ってきたときもアレックスはギブソンを救うために一回戻っていた。あれだけギブソンのこと責めてたのに。
銃を突きつけはしたけれど、アレックスが直接殺したわけではなく、ギブソンは逃げ遅れたんですよね…。
また、スクリプトだと、この時、アレックスはギブソンの肩を掴んでるようなのですが、直接触れてる感じはなかったと思う。もう一度観たい。

スクリプト関連だと、ギブソンとトミーが桟橋の下に隠れる時にトミーが音を出してしまって、ギブソンが人差し指を口に当ててしーっってやってるんですが、それは絶対にない。やってたらさすがに覚えてる。

また、ドーソンとピーターは仲が悪かったのではないかという話も出ていて、そうではないと思っていたけれど、ピーターが最後にジョージの記事の載った新聞をドーソンに見せたときに、顔を見合わせて頷くんですが、そのあとピーターだけもう一度ドーソンを見ていた。
あの二度見は、ジョージが怪我した時にすぐに戻っていてくれたらジョージは救えたかもしれないのにという怒りが入っていたらどうしようと思った。

でも、字幕だとあの時のセリフが「手遅れだ」になっていたけれど、これもスクリプトを読むとイギリス側とフランス側を見て、結構イギリスからは離れちゃったのでもう戻るには時間がかかってしまうよということだったらしい。
ただ単に「手遅れだ」だと、ピーターはそんなの医者でもないのにわかるのか?と怒りそうだけど、場所のことを出しているならそれもそうだと納得したかもしれない。
だから仲が悪かったとかドーソンに怒っているとかは思いたくない。

また、トミー、ギブソン、アレックスが魚雷で攻撃された船から浜へ戻ってきた時の寝姿が三人三様でおもしろかった。
トミーは大の字で、ギブソンは横向きで丸まった胎児の姿勢。アレックスはうつ伏せでもしかしたらスフィンクス型と呼ばれるような膝が曲がった形だったかもしれない。いつでも起き上がれるようにという警戒の意味もあったのかなと考えてしまった。ハイランダーだし。少なくともあの場で大の字で寝るのはトミーくらいのものだろう。

このシーンのあとで、トミーが何かの缶詰に穴をあけて汁を飲もうとして、ギブソンがちょうだいと両手を伸ばすシーンがありますが、あれは野菜の缶詰だったらしい。スクリプトを読むと直接内容に関係のないけれど詳しい部分がわかっておもしろかった。
ジョージとアレックスがだいぶ動くしよく喋ると思った。




低予算ながら全米週間興収で1位をとったり、批評サイトでもでも高評価だったとのこと。
ジャンルとしては、ホラーとかスリラーになると思うけれど、監督はコメディアンのジョーダン・ピール。キー&ピールって何か聞き覚えがあると思ったら、『キアヌ』の主演二人組のうちの一人だった。本作が監督デビュー作とのこと。
確かに、ホラーなのに、不謹慎すれすれだったり、笑える要素もあった。

ネタバレ厳禁ものなのでなるべく早めに観た方がいいと思う

以下、ネタバレです。













ネタバレが怖かったので、何も情報を入れないまま鑑賞。
最初、夜道を歩いていた黒人男性が車で誘拐されるのだが、その時に車で流れているのが、なんとも愉快な音楽なのが怖い。普通なら緊迫感があったりおどろおどろしい音楽が流れるシーンである。

しかも、なんだかわからないまま舞台が変わる。
瀟洒なマンションで音楽もおしゃれ。黒人の男性クリスと白人の彼女ローズは幸せそうで、彼女の両親に紹介するために実家に行くところらしい。
最初に誘拐されていたのは薄暗かったしクリスなのかなとも思うが少し違いそうな感じもする。

車で向かう途中に鹿と衝突する事故を起こし、車に血はべったり付くし、不吉な予感。警察も来るが、警察(白人)は運転していないクリスにも免許証を見せろと言う。
無いなら身分証でと言っていたが、私は別にこれは普通のことだと思ったけれど、ローズはクリスが黒人だからね?と言って異常に警戒する。
守ろうとしたと言っていたが、クリスが黒人だということを過剰に意識することで逆に差別している気がして、ローズはあやしいなと思いながら観ていた。

というか、ホラーとかサスペンスだとどうしても何のかはわからなくても犯人さがしをしながら観てしまう。

ローズの家に着いたら、黒人差別をしないという両親の家には黒人の召使いが二人いる。これって現代の設定ですよね?と思ってしまった。今でも金持ちの白人の家では黒人を使役することがあるのだろうか?
わからないけれど、これで「オバマの3期目があったら投票する」と言われても、嘘だろうと思ってしまったし、これで差別してないと言われても…と思った。

けれど、そんな観ている側の気持ちを察するように、父親自ら、二人を雇っている理由を説明していた。それほど納得できるものではなかったが。

母親も催眠療法を使うということで相当あやしい。二人の黒人はどこか不気味な雰囲気だったし、きっと催眠術にかけられて雇われているんだ…と思っていたら、それも見すかすように、クリスの友人ロッドが催眠術にかけられて性奴隷にされているんだ!と言っていた。
こう考えていることを先回りされてしまうと違うのかと思ったが、結果的には性奴隷ではなかったけれど、彼の言っていることは正しかった。

ローズの家に滞在中に両親の知り合いを呼んだパーティーが開かれる。この客人たちも白人ばかりでいよいよあやしい。
ローズの弟もそうだったけれど、気軽に体にぺたぺた触ってくる。確かにクリスは綺麗な筋肉をしているが、何か、「(黒人だから)身体能力が高いんでしょう?」とでも言いたそうだった。また、「時代はめぐっている!今は黒の時代だ!」とも言われていた。
歓迎ムードだし、けなされているわけでもない。けれど、ここでも特別扱いというか、白人の中に一人だけ黒人が混じっているのを腫れ物を触るがごとく対応されていた。

何かわからないけれどとても注目されている感じとか、場違いとか居心地の悪さを感じる。嫌でも他の人と違うことがわかってしまう。「黒の時代」とか言わなくてもいい。

しかも、やっと仲間がいたと思って話しかけた黒人は様子がおかしい。
自分の感じている居心地の悪さをまったく感じていない。白人のだいぶ年上のご婦人と親しげにしているからだけではない。あの不気味さは、白人だらけの状況で穏やかで幸せいっぱいの表情の黒人はいないという強烈な皮肉だったのかもしれない。

今まで、黒人差別はいけない!というメッセージのこめられた映画はいくつか観てきた。けれど、当事者の気持ちがわかったのは初めてだった気がする。
それは、なんとなく自分にも身に覚えがあることだったからだ。飲み会でもなんでもいい。行った先で、よくわからない場違い感をおぼえ、はやく帰りたいと思ったことはないか。やっと知っている人を見つけて話しかけたら他人みたいな顔をされたことはないか。

クリスは結局ローズの家に捕られてしまうのだが、そこで調査に乗り出すのが友人のロッドだ。黒人である。ロッドのノリを見ていると、白人のご婦人といた黒人男性の異常さがよくわかる。

ロッドは最初から「白人女の実家になって行くな」と言っていて、それが正しかったのだ。
連絡がとれなくなったので警察(黒人)に届け出るが、「白人女にからかわれてるのよ」と笑って相手にされない。ここでも、そんなことよくあることという皮肉がきいている。

黒人男性が行方不明で白人女性が関わっているとこんな対応ととられるのか。もどかしい。

よく、子供が警察に行って状況を伝えても、「はいはい(笑)」みたいな蔑ろな態度をとられて、映画を観ている側は本当のことだと知ってるから、本当のことなのにー!ともどかしい思いをすることがあるけれど、黒人も同じような態度をとられるのか。しかも聞いている警察の方々も黒人である。あの状況に慣れてしまっている。

ホラーとかサスペンスの形をとりながら黒人差別の実態をリアルな形で見せる手法がおもしろい。直接的ではないあたりがうますぎる。

ただ、黒人差別の話だけではなく、ホラー部分も伏線が回収されていくのがおもしろかった。
単純なところだと車で逃げようとしたら、あの最初に出てきた愉快な曲が流れ出して、この車だった!とわかったり。もうあの曲自体が怖い。あんな愉快な曲を流すなんて、誘拐自体をなんとも思っていないか慣れているのだろう(曲のタイトルが『Run Rabbit Run』。余計に怖い)。

クリスを落札したのは盲目の画商で、クリスの写真を褒めていたけれど、あとで君の目を通して世界が見たいと言っていて、才能は本当に買っていたのかと思った。

また、最初にあやしいと思っていたローズがやっぱりただのクリスの彼女ではなかったが、身分証の件は、来る途中のあんな人通りのなさそうな場所でクリスの身元が警察に割れたら行方不明になったときにすぐにバレてしまうからかとあとで気がついた。

もっとたくさん気づいていない細かい伏線がありそう。最初に轢いた鹿と捕らえられていた部屋の鹿の首は何か関係があるのだろうか(轢いた鹿とクリスの母親が轢き逃げされた件がかかっているのではないか…との話もあるみたい)。

家に雇われていた黒人二人はいずれも頭の傷が痛々しい。男性のほうはフラッシュで正気を取り戻してから、ローズを撃ち、自分に銃口を向けた。あまりにもつらい。

そしてラスト、撃たれてもなお起き上がろうとしたローズの首を絞めるクリス。そこへパトカーが…。
周囲には他にも死体が転がっていて、血まみれの黒人男性が白人女性の首を絞めている状況。せっかく逃げてきたのに終わったと思った。
前のシーンで、警察に黒人男性の人権が軽んじられているような発言をされていたのを聞いたせいだけではない。黒人の不当な逮捕はニュースでもたびたび報じられている。

しかし、パトカーは空港の警備にあたる車であり、乗っていたのは空港警備員の友人ロッド! 良かった! ほっとした。もう本当に、最初からこの友人の言うことを信じていればよかった。きっとクリスがローズと付き合っている最中にも、ロッドはローズのことをボロクソに言っていたと思う。

これが、元々は逮捕されるラストだったらしい。現実でたくさんこのような事件が起きてしまったために敢えて変えたとか。DVDにはアナザーエンディングとして収録されるらしい。

多少、びっくり表現(大きい音が鳴って怖いものが映る)があったり、グロテスク描写もあるけれど、そこまでホラー色は強くないと思う。
それが主体ではなく、黒人差別問題が、説教くさくなく、でも私にもリアリティを持てるように作られているのがおもしろかった。
悲痛さというよりは、淡々と、そうゆうものだと描かれているからリアリティがあったのかもしれない。
あと、コメディ要素(特にロッド関連)もあったのに、笑いは全然起きてなかった。私もにやにやするのに止めておきました。もっと笑って大丈夫です。監督コメディアンだし。



BBC Oneにて放映中のトム・グリン=カーニーが出演しているドラマ。アデン危機の話。全六話の五話感想。

一話、二話感想
三話感想
四話感想

以下、ネタバレです。









ハリー少佐の息子ジョージ救出回。
一話、二話くらいは登場人物がわりと好き勝手に動いていたけれど、今回はみんながそれぞれジョージの救出に向けて動いていた。

前回撃たれたエドは回復していた。良かった。
その中でそばにいた妻アリソンとも仲が回復していたが、妊娠している子供がエドの子供ではないということは言えていないようだった。どうなるのか。

最初は女性陣がアクが強くて困っていたけれど、今回、アリソンと、ジョージの帰還をひたすら待つマリー(ジョージの母)の二人は演技が素晴らしかった。
マリーは前回も「私のせいだ」と言うオナーを聖母のような微笑みで許していて、ここもうまいなーと思ったが、今回の、人前では背筋を伸ばして表情を変えず、気丈に振る舞いながら、一人になったときに自分で自分の口に布を押し込んで声が漏れないようにして泣き叫ぶシーンは本当につらい。

このドラマが他の戦争ものと違うのは兵士中心ではなくその家族の描写もきっちりあるところだと思う。普通なら、息子の救出のための交渉で一悶着あるくらいだろう。兵士とその妻たちまで描かれることで、戦争ものというよりはヒューマンドラマの印象が強くなっている。
赴任先での生活を経験したピーター・モファットが手がけているということで、リアリティもあるのだと思う。

それぞれのキャラクターに愛着がわいてきたところで多分次回最終回。さみしい。
ラストではジョーが逮捕されていた。たぶんフィルムを隠蔽したからかな。

ジョージは結局、逮捕していたテロリスト(ゲリラ?)のリーダーの解放と交換になった。
ユースラはジョージに喘息?の薬を与えてあげたいと言っていたので、やはりやらされているだけだった。ユースラも被害者です。

交渉の場に行ったのはジョーとトニー(トム・グリン=カーニー)。中でも直接交渉したのはトニーで、ジョージだけでなくユースラの解放も条件に加えたのは彼の機転だったのだろうか。最初、2対1なんてだめだと言われたけれど、女子供とリーダーの交換だと食い下がって条件を飲ませていた。

しかし、そのあと、ユースラとトニーはどうにかなったりするかなと思いきや、特に進展もなく。
ジョージが帰ってきたので、花火は上がり、パーティーも盛り上がっていたけれど、そんな中でトニーは酒をあおって、ふらつきながら、外へ出て、煙草をふかして、柵を蹴っ飛ばしていた。
やさぐれたトム・グリン=カーニー、なかなか新鮮でいいです。
それでも、外に出るときにちゃんと上着を羽織るあたりが律儀で良い。

ただつらすぎるシーンではあった。
トニーがハリー少佐に、NLF(ゲリラ)に身元が知られている彼女を守ってくれと言っても、彼女の家族ごと連れてくるわけにはいかんだろと断られていた。
「それじゃあ、家族ごと殺されますよ?」と言っても聞く耳持たず。ハリー少佐は自分のことでいっぱいいっぱいなこともあるのかもしれない。ジョージが解放されても手が震えていたし。
パーティーは盛り上がり、年が明けてもトニーだけは外にいた。全然めでたくないから祝うことなんてできない。そこでのやさぐれである。

次回予告では、やっぱりユースラがどうにかなりそうだった。アジトを秘密裏に教えたのは彼女だし、そりゃそうだろう。「彼女はどこだ!」と叫ぶトニーが出てたから、トニーはそれを止めようとしていたんだと思うけれど、このへんもどうなってしまうの。もう少し恋人っぽいことになるのかと思いましたが、もっと厳しい。プラトニックなまま終わりそう…。

というか、プラトニックどころか、ユースラは自分の父親がイギリス軍に殺されたことも知らないかもしれないし、これから知ったらもうトニーとは会わないかもしれない。会ったとしても、母と兄だか弟が一回イギリス軍に逮捕されたりもしているわけで、もう周囲も許さないだろう。ちょっとしたロミオとジュリエットって言うからもっと軽いのかと思っていたけれど、それどころではない。絶対に許されない。つらい。

(余談ですが、トム・グリン=カーニーが、トニー・アームストロングがジョーを救った旨をツイッターに書いていて、それに対してジョー役の男の子が「助けてくれてありがとう!!」ってリプを返していたのがとても可愛かった。可愛かったけど、私は本編を見る前にこのやりとりを見てしまったよ…)





2015年公開。イギリスでは2014年公開。
『シタデル』と同じく『ダンケルク』関連でジャック・ロウデンとバリー・コーガン目当て。
しかし、そんな軽い気持ちで観る映画ではなかった。

舞台は1971年の北アイルランド。あまり詳しいことがわかっていなかったので、どの陣営とどの陣営の争いなのかよくわからなくなってしまい、上官の説明部分をもう一度見返しました。
イギリスの新兵たちが暴動の起きている北アイルランド(ベルファスト)に派遣される。そこでは、イギリス軍を敵視しているカトリック系(IRA?)とイギリス寄りのプロテスタント系が対立していた。IRAの中でも、非武装の穏健派と武器を持った暫定派で分かれているとのことだった。新兵たちは警察の家宅捜索(武器はあるか?と聞いていたので、たぶんIRA暫定派の家?)に同行する。

主役はジャック・オコンネル演じるゲイリー。映画を観る前は軍隊のドンパチものだと思っていたから、いろんな兵士たちに出番があるのかと思っていたが、ほぼゲイリー一人の話だった。警察の家宅捜索の同行という簡単な任務だと思われたが暴動に巻き込まれてしまい、ゲイリーだけが敵地に残され、そこからの帰還を目指す。
予告を見ているとデイリー・テレグラフの評として“完成度の高いサバイバル・スリラー”というのが出てきたり、「必ず生きて帰る」というセリフが出てきたりとほぼ『ダンケルク』です。手持ちカメラでゲイリーを追っていくあたりのリアリティも似ている。ただ、こちらは残されたのは一人きりである。

あと、私の知識不足なんですが、イギリス兵は軍服を着ているからわかるのですが、他の私服の人たちがどの陣営かわからなくて混乱した。髭の感じも似ている。最初の方に工作員と説明されていたのはIRAと対立している陣営だったのだろうか…。

ジャック・ロウデンなのですが、あまり詳しくは説明されないけれど、ゲイリーと親しそうなトンプソンという兵士で、カメラは主人公のゲイリーを捉えているから、結構いつも近くにいるトンプソンも見切れて映ることが多かった。
また、兵士で並んでいるときもニコニコしていたり、ゲイリーをバシバシ叩いたりと無邪気。IRA側(たぶん)の子供達に小便の入った袋を投げつけられたときも舌をぺろっと出していた。
軍隊らしからぬちょっとふわふわしていそうな体も可愛い。太っているまでは言わないけど。色が白くて、背が高いのも目立つ。
しかし、序盤の暴動に巻き込まれた挙句、顔を撃たれて死んでしまう。よりによって顔である。
映画自体、ゲイリーのサバイバルが中心だから、中心に行く前にいなくなってしまうのは残念だった。二人で逃げる展開なら良かったがそう甘くもなかった。
いい役ではあったけど、出番は思ったよりも少なかった。辛い内容です。

バリー・コーガンはIRA暫定派(たぶん)の青年、ショーン役。序盤の揉み合いのシーンではバリー・コーガンとジャック・ロウデンが同じ画面に映る。
『ダンケルク』では無垢で勇敢なジョージ役だったけれど、本作ではほぼ無表情で何を考えているかわかりにくい役。でも人の多いシーンでも一人だけ異質というか、目立っていた。無表情になると一気に冷たい印象になるのがとてもいい。怒りをおさえつつ何をしでかすかわからない爆弾を抱えてそう。でも、いざとなると撃てない少年っぽさも残っている。
今、北米で公開されているヨルゴス・ランティモス監督の『The Killing of a Sacred Deer』は、おそらくこれ系に悪魔成分をプラスした感じだと思う。ニコール・キッドマンとコリン・ファレルだし、日本でも公開されるのではないかと思うけどどうだろう。





前作が公開されたのが1982年ということで、実に35年ぶりの続編。
だいぶ時間が経っているのでそれほど関係ないかと思いきや、がっつり続きなので、前作は観ておいたほうがいいと思います。

あと、10分程度の前日譚が3作品公開されていますが、観なくても文字での説明があるので話はわかるけれどこちらも観ておいたほうが映画の世界観に入り込みやすいです。
前作が2019年、本作はタイトル通り2049年。短編はその間の2022年、2036年、2048年に起こったことが描かれている。特に、2、3作はキャラの掘り下げにもなっているので観ておいたほうが本編で愛着がわくかもしれない。
2作目にはベネディクト・ウォンが出ているが、本編には出ません。

監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ。美術の面で特に彼らしさが出ていたかなと思う。ところどころで『複製された男』を思い出しました。

以下、ネタバレです。














まず最序盤に、主人公のK(ライアン・ゴズリング)がレプリカントであるということが知らされて、それすら知らなかったので驚いてしまった。

そして、骨が出てきてそれがレイチェルのものだとわかったときに、劇場内の人たちが、あ!と息をのむのがわかっておもしろかった。しかも、どうやら妊娠、出産した跡がある。ということは、この時点では説明はされないけれど、父親はデッカードである可能性が高い。
Kは生まれた子供を捜す役目を担うが、そのうち、どうやら、K自身がその子供なのではないか?という流れになっていく。
しかし、これは私がK目線で観ているからそう思っただけだった。前作でもレイチェルはタイレルの姪の記憶を植え付けられていただけだったのは知っている。でも、Kについてはそれが他の誰かの記憶だと言われても、信じたくなかった。主人公だし…とも思っていた。きっと彼がデッカードとレイチェルから生まれた特別なレプリンカントなのだろうと。
でも、決定的に違うということが知らされて、Kだけでなく、私も絶望してしまった。

Kの恋人と思われたジョイも、結局ウォレス社の量産型であることが途中でわかる。どこまで精密なのかはわからないけれど、量産型とはいえ、長く一緒に暮らすうちにそれぞれ個々で違った気持ちも芽生えるのだろうか。別のレプリカントと同期してのラブシーンはすごく妖艶だった。観たことない映像。素晴らしい。

それでも、結局まやかしだったのだろうか。
彼女のデータが壊されて、K自身も瀕死になったあとで、広告の巨大なジョイが裸で誘ってくるのは胸が痛んだ。一緒にいたジョイではなく、他のところのジョイだ。孤独感が際立っていた。

最後、Kはデッカードになんでこんなに親切にしてくれるんだというようなことを問われていた。Kは何も言わなかったけれど、父親と思っていたし、一度そう思ってしまったから、違うのはわかっていても気持ちは変えられなかったのだろう。違うと言われても、記憶は自分の中にある。拠り所にしてしまっていたのだと思う。
自分が特別な存在では無く、普通のレプリカントだったというのがわかっても認められない気持ちも、K目線で観ていたからよくわかって本当につらかった。
デッカードはジョーと名乗った青年が、自分にそんな思いを抱いているなんてまったく気づいていなかったと思う。完全なる片想いです。

ステリンがKの記憶を見たときに涙を流していた理由も、後からわかってなるほどと思った。それ、私の記憶だもんと、彼女だけがあの時点でわかっていたのだ。あの時点で、あなたの記憶じゃないですよと泣きながら、ちゃんと真実を告げていた。彼女もつらかっただろう。

研究所まで送って行って、外の階段で一人死ぬというのはあまりにもつらいラストだ。でも、SF的な切なさはあるし、実は父親でした!親子愛!みたいな感じにされるよりは良かった。それではベタすぎる。

よくある映画なら、ジョイは体を手に入れて量産型ではなくなり、Kとこの先も幸せに暮らし、デッカードとKは感動の再会、これからは親子としてよろしくみたいになると思う。それか、親子と認識して、デッカードがKを守って死ぬとか。
そんなよくあるパターンはことごとく裏切られたが、この物悲しさがとても良い。ひんやりした肌触り。ディストピアの世界観とも合ってる。
よくあるパターンのハッピーエンドでは空が晴れていそう。ディストピアな未来はそのままなのだ。

結局、人間対レプリカントの対決は終わってない(Kはデッカードの殺害をたのまれていたが無視していた)し、レプリカントが繁殖ができるできないもわからない。ステリンがどうやって生まれたのかも謎のままだ。
デッカードが人間だから、レイチェルとの間にハーフのようなものとして生まれたのかもしれないし、レプリカント同士でも愛があれば繁殖が可能とかロマンティックな理由かもしれない。

そして、レプリカント同士での繁殖を夢見ていたウォレス(ジャレット・レト)も野放しのままである。野望を抱えたまま、この先も研究を続けるだろう。それどころか、本作ではウォレスの出番はそんなに無かったかなと思う。前日譚のほうが出番が多かったくらいではないかと感じた。

上映時間が163分と長い割にいろいろと解決してない。でも、考えてみれば、前作も別に解決していない。侵入者を倒しただけだ。

大枠として世界があって、その世界自体は変わらないけれど、その中で起こった一つの事件が解決したという感じなのかなと思う。
たぶん、本作でウォレスを倒す的な結末を迎えたところで、違う人が現れてレプリカントの研究開発をしそうだし。もう、そういう世界なのだと思う。
レプリカント殲滅しましたね、人間だけになってめでたしめでたしという話ではない。
それよりは、あの世界の中でのKの個人的な話でよかったと思う。

それとも続編を作る余地を残したのかもしれない。

ディストピアな世界観がどれも美しかった。
私は、汚染されたラスベガスが特にぐっときました。砂煙なのかスモッグなのか、視界が悪く、変に赤い。有毒っぽさが伝わってくる。

裸の女性の巨大な像だけは残っていたが、朽ち果てた猥雑さがとてもいい。
デッカードが住処にしていた遊興施設もよかった。地下の劇場のようなところで、ホログラムのエルビス・プレスリーがショウを繰り広げているが、壊れていて映像も音楽も途切れ途切れになっていた。ジュークボックスもホログラム式だった。

美術はどれも美しくて、それを観るだけでも大満足。私は通常2Dで観てしまったけれど、できればIMAXのほうがいいのではないかと思う。
ウォレスのレプリカント工場の無機質さと不気味さも素晴らしく、少ししか出てこなかったけどもっと見たかった。特に予告編でも流れていた、ビニールの中から新しいレプリカントがずるっと落ちてくるのは、そうやって生まれるのかとレプリカントの製造の一端が見られて興味深い。ジョイとのラブシーンもそうだけど、このように、存在しないものを一から作り出している映像を見ていると、頭の中を覗いてみたいと思ってしまう。新しい映像の宝庫だった。


『シタデル』



2012年公開。アナイリン・バーナード主演でたぶん唯一日本で観られる映画。
ジャケットからはホラーかと思われたし、たぶんジャンルとしてはホラーなのかなとも思うがあまり怖くはない。

トミー(アナイリン・バーナード)は、住んでいたマンションから、臨月の妻との引越し作業中、妻が何者かに襲われる。赤ちゃんは助かるものの、妻は死亡。
以降、何者かの影に付きまとわれ、怯えて暮らす日々を過ごすが…という内容。

最初のほうで、事件の被害者同士が集まるセラピーのようなものに出ていて、被害者が再び被害に遭う可能性が高いのは被害者オーラが出ているせいだという話をされる。
だから、トミーは妻が殺される不幸な事故の後遺症のような感じで、強迫観念にかられているのかと思った。襲ってくる何者かも妄想。

しかし、病院で優しくしてくれた看護師さんが「大丈夫よ、怖くないところを見せてあげるわ」と言って何者かの集団の中に入って行って、結局本当に殺されてしまった。看護師さんはもちろん強迫観念にとらわれていないから、何者かは本当に存在するということになってしまったのだ。

また終盤、看護師さんが「病気なのよ」と言っていた神父の言うことが正しいとも証明されてしまった。彼女が唯一まともっぽかったので彼女の言うことを信じたのに。

トミーの住んでいたマンションが悪の巣窟みたいな感じになっていて、最後には爆破して事なきを得ていたけれど、トミーは長らくここに住んでたんですよね? 今までおかしいことは起こらなかったのだろうか。他の住民はいなかったのだろうか…。
序盤で妻にキスするトミーは幸せ真っ只中といった具合だった。何も心配事などなさそうだった。さすがにあれだけの悪の巣窟なら気づきそうだけど。

怯えや強迫観念、恐怖心を抱くことで異形の者たちに見つかるようだったから、今まではそのような感情がなかったから気づかなかったということだろうか。

ラスト付近では心を強く持つことで、異形の者たちの中を見つからずに歩いていた。これは、妻が殺されてしまったことで生まれた恐怖心などを克服して強くなったという捉え方でいいのだろうか。異形の者たちは何かのメタファーなのかもしれない。
でも、もしそうならば、看護師や神父を殺すのはやめてほしかった。特に看護師までも殺されるのは理不尽すぎるし、話の中でも必要性を感じない。トミーのサポート役兼ほのかなラブ要員として活躍させてほしかった。
神父はそのマンションに因縁があったようだから殺される必要もあったのかもしれないけど、そこまでの怨念マンションなら、トミーが幸せに暮らしていたのも疑問。

強迫観念とか恐怖心の克服をテーマにするか、本当に異形の者が存在して邪悪にどんどん殺していくホラーにするか、どちらかに振り切ってほしかった。中途半端です。

ゾンビものにしても、ゾンビが走る走らないとか、頭を撃ち抜けば死ぬとか、噛まれるとゾンビになるとかルールを徹底してくれないとおもしろくない。ホラー自体をそれほど観ているわけではないからわからないけれど、ルールが徹底されていないと世界観に入り込めない。この映画は異形関係でのルールも徹底されていなかったと思う。この点でも中途半端。

ただ、アナイリン・バーナードはとても良かったです。終盤以外は赤ちゃんを抱きしめて怯えている。守ってあげたい感じ。
たぶん看護師も同じ気持ちだったのだろうけど、目をつぶって怯えているトミーに口づけるシーンがあって、すごく共感しました。

アナイリン・バーナードは2009年にローレンス・オリヴィエ賞主演男優賞を受賞してるのに、もっとそれが活かせる映画を…と思ってしまいました。
中盤までは、赤ちゃんを抱いてはいるけれどほとんど一人芝居なので、演技は堪能できる。けれど、ストーリーがこれではもったいない。


監督は『ジョン・ウィック』の のデヴィッド・リーチ。『デッドプール2』の監督も決まっている。

ベルリンの壁崩壊の裏で起こっていた各国スパイの暗躍が描かれている。グラフィックノベル『The Coldest City』が元になっているらしい。

シャーリーズ・セロンが女スパイを演じる。ジェームズ・マカヴォイとビル・スカルスガルドが出ているが、マカヴォイはイケメン枠ではないと思う。
他、ジョン・グッドマン、トビー・ジョーンズ、エディ・マーサンというアクの強い俳優が揃っている。

以下、ネタバレです。









シャーリーズ・セロン演じるMI6のロレーンが任務について報告しているのを上司とCIAが聞きとりをしているという作りなので、本編中にロレーンがピンチになっても、でも過去の出来事だから死にはしないんだなと思いながら観ていた。

東西冷戦のスパイ物というとちょっと重めだったり暗くなったり地味になったりしそうだが、この映画は色合いが青みがかっていたりと独特でおしゃれ。
また、曲がいいと聞いていたので、わざとサントラの曲目は見ずに臨んだら(ライブ前に他のライブハウスのセットリストを確認しないのと一緒)、一曲目からニューオーダーの『ブルーマンデー』で盛り上がった。他、デヴィッド・ボウイやジョージ・マイケルなども使われている。
色合いや曲から、所謂冷戦物ではないなと思ったが、最初にベルリンの壁が崩壊した時のレーガン大統領の演説を流して、これとは関係ないですと言われていたので別物なのかもしれない。

シャーリーズ・セロンのアクションも恰好よかった。
仲間らしい仲間は出てこず、常に単独で複数を相手にするバトル。でも、女一人で複数の男を倒さなくてはならないので、単純に銃や腕力というよりも、相手が持ってる武器を奪ったり、避けた拍子に流れで攻撃したり、鍵で顔を刺したりと、知恵を絞っていた。
中盤のスパイグラス(エディ・マーサン)が撃たれてからの長回しは迫力があった。7分半らしいがもっと長く感じた。ロレーンもかっこいいだけでなくさすがに疲弊してきていて、なんとなく『フリー・ファイヤー』を思い出した。這いつくばって銃を撃つあの感じ。顔や服も汚れてくるし、殴る時には声も漏れる。体裁など気にしてられない。ズタボロになりながらもなんとか攻撃する。

ジェームズ・マカヴォイは少し前まで可愛い系のイケメン俳優のイメージだったけれど、『フィルス』っぽい役が増えてきていて、今回もそっちです。サイコっぽい。髪型はシニード・オコナー(と映画内で言われてた)。スキンヘッドですね。最初にベルリン支部にこんな男がいるよって紹介ではイケメンマカヴォイだったんですが。

代わりといってはなんですが、ビル・スカルスガルドが恰好よかった。そこまで出番のないサポート役ですが、仕事が確実そうで信頼できる男役。
ビル・スカルスガルドは『IT イット“それ”が見えたら、終わり。』もそろそろ公開される。ほぼピエロメイクだと思いますが…。

ソフィア・ブテラはフランスのエージェント役として出演。ソフィア・ブテラは『キングスマン』のガゼル、『スター・トレック BEYOND』のジェイラ、『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』のアマネットと、素顔を見せかったり、少し変わった役が多かったけれど、今回は諜報員になりたての女の子ということで、私が見た彼女の中では一番キュートな役だった。
一応、ロレーンと関わりのある男性としてはマカヴォイとスカルスガルドなんですが、シャーリーズ・セロンとこの二人よりも断然ソフィア・ブテラとのベッドシーンが見たいよな…と思っていたら、ちゃんと入っていて大満足でした。

ロレーンが主人公でシリーズ化もできそうだなと思ったけれど、彼女はMI6ではなくCIAだったという一応のオチがついてしまったのでここでおしまいっぽい。でも、真実を知らされたところで、そうですよねという感じもする。というのも、シャーリーズ・セロンはどう考えてもイギリス人ではないし、イギリス人っぽくもないから、トビー・ジョーンズの部下としてMI6で働いているという設定からして違和感をおぼえたからだ。
そして、KGBとMI6との二重スパイでもあったということで、壁崩壊にも一役買っていたという…。序盤で関係ないよと言われていたが、やっぱり関係あった! 結局冷戦物だったが、映像・音楽のスタイリッシュさからか、またグラフィックノベルが元になっているからなのか、重厚さはなく、軽いかなと思う。冷戦スパイ物だと思ってしまうと物足りないが、ストーリーよりはシャーリーズ・セロンの美しさなど、映像や音楽で堪能できる部分が多かった。




BBC Oneにて放映中のトム・グリン=カーニーが出演しているドラマ。アデン危機の話。全六話の四話感想。

一話、二話感想
三話感想


以下、ネタバレです。





前回の最後でさらわれたハリー少佐の息子ジョージ捜索回。
ハリー少佐はつかまえられているゲリラに息子の居場所を聞くが、それなら国から出て行けと言われているようだった。テロリストと交渉するか否かは次回の焦点になるのかも。

エドはジョージに関しての危険な取引をしていて、情報を得て行動する。ジョージを一旦発見するが、結局撃たれてしまう。重症。

ジョーはジャーナリストから情報を得ようとするが失敗していた。それどころか、ジャーナリストが泊まっているホテルに入っていくところをBPクラブにいた人(?)に目撃されてしまう。

オナーはアリソンと同じく、仕事重視の夫に不満を持ち始める。イギリス兵士の死体が写っているフィルムについての話は聞くが、破棄したという言葉が信じられずに探して見つけてしまう。これは絶対に後のいざこざの元になりそう。

アリソンが双子を妊娠していることが明らかになったが、死んだ大尉の子らしい。自分で棒か何かをつっこんで流産させようとしていたができなかった。マーティン大尉の妻オナーと一緒に病院に行っていた。初回の時点ではこの二人が友達になることで、何か悪いことが起こるのではないかと思っていたが、いい方向へ進んで行っているかもしれない。

トニー(トム・グリン=カーニー)はもう今回は笑顔はないです。
前半は砂嵐の中、マスクをしてユースラの住む家を捜索。悩みながらも母と兄(弟?)を逮捕。その影で父親を撃ち殺しているので、二人からイギリス側への信頼はない。たぶん、ユースラもこの事実を知ったらトニーのことを信じられなくなると思う。
ジョー・マーティン大尉にユースラと手紙のやりとりをしていたことを知らせていた。それと同時に、彼女のことが好きだったことや、彼女は悪くないようなことも言っていたようだった。しかも、命を賭ける、と。簡単にそんなこと言っちゃいけないよ。青臭い…(かわいい)。
大尉にも言われていたけれど、恋心由来であまりにも幼いと思う。若手らしいし、純粋で可愛いけれど、信じすぎるのは命取りなのかもしれない。
今回も一人でユースラの家に行っていた(母と兄(か弟)には追い返されていた)が、次回予告を見ると、銃を向けられながら敵の只中に一人で入っていくシーンがあった。文字通り命を賭けるのか…。
エドは撃たれただけで死んでしまったかどうかは今回の時点ではわからないけれど、主要キャラがわりとどんどん死んでいくスタイルのドラマなので、次回のトニーは大丈夫なのだろうか。心配。
今回はひたすらつらい回だったけれど、タバコシーンはありました。

というか、ジョージの誘拐をこのドラマの中心に置くならば、愛の力で交渉を試みるトニー・アームストロング(トム・グリン=カーニー)が実質主役でもいいんじゃないですかね…。



現在丸の内ピカデリーにて行われている爆音映画祭に行ってきました。
『インセプション』自体は好きなので家でも何度も観てるんですが、映画館で観るのは久しぶり。たぶん、『ダンケルク』絡みだとは思うけれど、とりあげてもらって嬉しかった。
映画の内容にも触れますので一応、以下ネタバレありです。









まず、最初の制作会社のロゴが出て、次第に音が大きくなっていくところからして迫力。普通に聞いていてもちょっと割れ気味だけれど、さらに強調されていた。
サイトーの屋敷から一階層上がった場所での暴動と爆発も迫力があった。

テーマ曲が最初のキックに向かって盛り上がっていくのも堪能できた。このテーマ曲は後半の第一階層でユスフが橋から飛び、第三階層でフィッシャーがモルに撃たれてインセプションが失敗するまでの間、ずっと流れているんですが、それも曲がより強調されているようで、階層同士がばらばらではなく全て繋がっているのがよりわかってよかった。
『インセプション』、好きなんですが、ハンス・ジマーのスコアもとても好きなのだというのをあらためて思った。

アリアドネと一緒に夢の中へ行った時に、動揺して周囲が爆発しますが、そこのポスン、ポスンという音も意外と軽い音でおもしろかった。爆発するけど轟音じゃないのが夢の中っぽい。

モンバサもおもしろかった。最初の音楽が一旦静まって、コブがカフェのような場所でコーヒーをくれと店員に言うがうまく言葉が通じないのか逆に騒がれてしまい、追っ手に見つかってしまうシーンがある。そのあと、モンバサのテーマ曲がひときわ大きくなるのが興味深かった。また、ここは銃撃戦(というか一方的に撃たれるだけですが)があるが、銃声がクリアになっていてこだわりを感じた。多分、これは『ダンケルク』の爆音上映もいいに違いないと思いました。

あとは、フィッシャーを救いにコブとアリアドネが虚無(Limbo)に落ちるシーンですね。ブォーン、ブォーンという音がばりばり言っていて、さあここが最終地点ですよ!感でかなりの盛り上がりを演出していた。

ラスト、飛行機から降りて入国スタンプを押してもらった後のスコアも次第に盛り上がってくる系のものですが、ここでもその盛り上がりの幅が強調されているようで良かった。ジェームズとフィリッパが振り返る前までのところです。最後のコマのシーンに向かって音楽が小さくなっていくが、その前のシーンが過剰にドラマティックになることによって、違いが出て、ラストが強調されていると思った。

エンドロールのエディット・ピアフもクリアに聞こえて、満足感が高かったです。

エンドロール中もコマの回る音は続いていて、エディット・ピアフで目を覚ますというようなことがよく言われてますが、その辺はよくわからなかった。

あらためて観て、やっぱり最高におもしろいと思った。アイディアの宝庫で、本当によくこんなこと考えつくな…というのの連続で、なんども観ているのに驚いてしまう。後半なんて10時間寝てるだけなのに、全部夢の中であんなに豊かな世界が作り上げられている。

第一階層でユスフがシャンパンを飲みすぎたせいで大雨が降っているのも面白いんですが、第二階層の瀟洒なホテルはどうですか。キャラクターもスーツを着て、髪をまとめているのも良い。第三階層は雪山ですよ。お揃いの白いスキーウェアと白い毛糸の帽子もお似合いですね。虚無の無機質感あふれる建物も素敵。
どこを見てもいいものしか映っていない。うっとりしてしまう。

前半の仲間探しもおもしろい。アーサーは想像力がないと言われていたけれど、本当に想像力がない。作戦をストーリー仕立てで考えることができないんですね。人の気持ちを考えられないというか。だから、無重力でのキックは一人でよく思いついたと思う。
アーサーと正反対なのがイームスで、フィッシャーはこうこうこうしたらこうなるはずだって全部考えられるんですね。第三階層でもフィッシャーが撃たれ、サイトーが死にそうで、コブとアリアドネが虚無に落ちても一人で立ち回っていた。メンバー内で一番よく働いている。

それより何より、イームス時代のトム・ハーディがすごくチャーミング。最近『ダンケルク』ばかり観ているせいで、ついファリアと比べてしまいますが、ファリアの無骨さも好きだけれど、イームスはいたずら心もあって、飄々としていて、でも仕事はしっかりきめるあたりがいいキャラ。あと、トム・ハーディ自体が細く、笑顔が可愛かったり、全体的に美形として通用する。

また、キリアン・マーフィーにしても、『ダンケルク』の不安定でかわいそうな役もいいんですけれど、市場を独占しようかという巨大企業の社長の一人(たぶん)息子ということでおぼっちゃんでとてもいい。夢の中から抜け出そうと、銃で頭を撃とうとするけれどぷるぷる震えていたり、第三階層の雪山で「どうせならビーチの夢にしてくれ!」ってサイトー突き飛ばしたり。

キャラクターもいい、話もおもしろい、美術も良ければ音楽もいい。本当に好きな映画です。



BBC Oneにて放映中のトム・グリン=カーニーが出演しているドラマ。アデン危機の話。全六話の三話感想。

(一話、二話感想)

以下、ネタバレです。







一話二話もつらかったけど、今回もさらにつらい。
クリスマスイブとクリスマスの話で、前回のような潜入作戦とかはないからちょっとした休憩回かなと思ったら裏で暗躍しているものがちらちら映ってつらい。

マーティン大尉の妻はクリスマスなので七面鳥?チキン?を調理するために取り寄せるが、マーティンは仕事に出かけてしまう。
このままではアリソンと同じ道を辿りそうだし、実際二人の仲も深まっていた。アリソンの夫はそれを歓迎しているようだったけれど、マーティンはやっぱり気に食わなそうだった。

前回出てきた女性レポーターは、やっぱりクセモノっぽい。悪人というよりは野心家かもしれない。前回、ゲリラに処刑されたイギリス兵の首を写真におさめていたけれど、それをめぐってのいざこざがあった。マーティンはフィルムを取り返したものの捨てなかったのでまだ問題になりそう。

トニー(トム・グリン=カーニー)の想い人ユースラはハリー少佐の家で息子のジョージの子守をしていて、だからなのか、ゲリラ(たぶん)に目をつけられたようだった。三話の最後ではマーティンがジョージをユースラに預け、その結果、さらわれてしまう。

今回のトニーの見所は最初に七面鳥だがチキンをマーティンの家に届けに来るのが彼で、帰りにユースラに偶然会う。前回、ちょっと避けられたので、しどろもどろに「届け物をした帰りで…。でも君に会えて嬉しい」と言っていた。ユースラは英語があまりできないので教えてあげたり。
ユースラがお皿を持っててそれは何?って聞かれて「Christmas deer.」って答えて、「reindeer!(トナカイ!)」って返してたけど、 ユースラは本当はディナーって言いたかったんたんじゃないのかな…。それで、トニーはサンタの連れてるトナカイの名前を教えてあげてて(「ルドルフ、ダッシャー、ダンサー…」)、キューピッドがクーピッドになっちゃてたユースラに「ノー、ノー、キュー」って教えてあげてて、この人(トニーというよりトム・グリン=カーニー)が先生の英語教室に通いたいと余計なことを考えてしまった。
ちょっとでも話せて嬉しそうだった。恋するトム・グリン=カーニーくん、良い。ちょっと唇をなめるところとか本当に良かったです。
あと、病院にハリー少佐の妻と生まれた赤ちゃんを迎えに行く時に車に乗っていた。ちょっと赤ちゃんを覗き見たりして可愛い。
あと、クリスマスにテントで簡易教会を作って歌を歌ったり説教を聞いたりしていたが、そこにユースラが現れて、もう会えないと言う。そして、手紙を渡して明日以降に読んでと言っていた。
そのあと、プールの遊興場みたいなところにハリー少佐を乗せてきたときに偶然ユースラを見かけ、車でどこかへ出かけるマーティン大尉を見かける。マーティンがジョージをユースラに預ける前とあとの話で、これとユースラからの手紙でトニーは全貌を察することができると思う。

トニーに関しては、戦場の中でも癒し枠というか、戦い以外の面で、もっと切なくて可愛い感じのラブストーリーになるのかと思っていたが、案外えぐい感じになってきてしまった。ユースラ関連のことで何かしらゲリラ側に巻き込まれそう。かばって死ぬとか…。



1997年のオフ・ブロードウェイにて上演。その後、2001年(日本では2002年)に映画化もされた。
日本では2004年、2005年に三上博史主演版、2007年、2008年、2009年に山本耕史主演版、2012年に森山未來主演版が上演されたが、今回は本家、ジョン・キャメロン・ミッチェルご本人版が上演。東急シアターオーブにて。

以下、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のストーリーと今回の演出についてネタバレです。








森山未來版については触れたくないので置いておきます。森山未來が悪いわけではなくて大根仁のせいですが。

三上博史主演版と山本耕史主演版は演出がほとんど同じだった。水を口に含んでから噴水みたいに吹き出して、「パンクロックの精神は自己犠牲!」というセリフがあるんですが、これは三上博史版のアドリブみたいなものかと思っていて、でも山本耕史版でもやっていたので、こんな細かい部分まで一緒にしなくてもいいのにね、と思っていたけれど、今回の本家版でもそのセリフがあったので元々あったものらしい。

ライブ形式だと聞いていたから、本当にジョン・キャメロン・ミッチェルが歌だけ歌うもかと思っていたけれど、よく考えれば三上博史版、山本耕史版もライブ形式といえばライブ形式なのだ。
ヘドウィグがライブをしていて、観客(私たち)はそれを観に来ているという設定。ヘドウィグのMCで過去が語られるという流れ。場所は小さいライブハウス。隣りの巨大な会場ではトミー・ノーシスがライブをしている。

ただ、三上博史版、山本耕史版はもちろん、MCの部分もヘドウィグで演じていたが、今回はMC部分はヘドウィグの夫でありしもべでありバンドメンバーでもあるイツアク役の中村中が担当をしていた。この部分で賛否両論あるらしい。
ヘドウィグ部分はすべてジョン・キャメロン・ミッチェルにやってほしかったし、私もやってくれると思っていたから気持ちはわかる。

でも、最初のあたりは、「あなたはヘドウィグの操り人形ね」と言ってきたないウィッグを雑にかぶせて、ヘドウィグ自身は後ろのソファにゆったりと座っていたから、前までのヘドウィグよりも態度が横柄で自分の役割までイツアクに任せたと思えばキャラクター的にも納得がいった。
ちなみに、後ろのソファに座っていて、それがシルエットになってもものすごい存在感で、私は正面で話しているイツアクよりもシルエットのヘドウィグを見てしまっていた。親に暴力を振るわれることを語っているシーンで頬を叩かれた動きをしていて、それだけでもドキドキした。

また、イツアクの語りのシーンでヘドウィグがステージからいなくなることも多かったが、その分、お色直しも多く見られたと思う。
あとは、語りの部分はテンポが大事だから、いちいち字幕を読んでいたら楽しみにくいとも思うし、ジョン・キャメロン・ミッチェルは体力的に厳しいという話も聞いていたから仕方がなかったのかなとも思う。いくらでもこのような演出になった要因はわかるし、私はこれでも別に良かったです。

それより、ご本人が最初に“HELLO TOKYO”と書かれたマントで出てきたときにこんな日がくるとは夢にも思っていなくて感動してしまったし、あのメイクも動きも本物だった。『SUGER DADDY』のときにフリンジが付いた衣装で出てきて、その時からわくわくしていたけれど、生カーウォッシュ(ステージから降りてきて観客にまたがって腰を振る)が見られたのも感動。

『WIG IN A BOX』のみんなで歌おうのコーナーは一回しかなかったけどもう少し長くてもよかったかなと思う。でもそれも体力の問題かもしれないしなんとも言えない。

ベビーシッターの仕事でトミーの家に行くシーンとそのあとのシアトルコーヒーのカフェでライブをするシーンは、トミーがヘドウィグを女性と思っているくらいなので化粧もごてごてせずにウィッグも抑えめのボブ。ここは映画でもヘドウィグがとても綺麗なんですが、ステージでもご本人がとても綺麗だった。また、『WICKED LITTLE TOWN』がいい曲なんですよね…。もちろん顔拓タオルもあり。後ろのトミーに投げていた。

『THE LONG GRIFT』も好きなんですが、これはイツアクが歌っていて少し残念でした。が、三上博史版でも(山本耕史版もかも)バンドのギターの人が歌っていたと思う。ヘドウィグ(三上博史)がこの曲を歌おうとして、ジャジャジャジャ…というカッティングギターの不協和音のイントロのあとワンフレーズだけ歌って、“だめ、歌えない”というように歌うのをやめて、ステージの端にあるソファに座って丸くなってしまうんですね。で、代わりにギターの人が歌うという。この時はイツアクにも愛想を尽かされているのでステージにはいない。
最初に見に行った時に、ヘドウィグというか三上博史が本当に歌えなくなっちゃったのかと思って驚いた記憶があるのでよく覚えている。もちろんそんなことはないんですが、ヘドウィグが小さく見えて悲しいシーン。
ただ、あの不協和音イントロが好きだったので、それが変わってしまっていたのは残念だった。

『EXQUISITE CORPSE』の最後で三上博史版は(山本耕史版もかも)胸につめていたトマトを投げて前方の席のお客さんがトマトまみれになったものですが、それはなかった。これに関しては別にやってほしかったとか残念とかの話ではないです。

トミー・ノーシス姿のジョンキャメロンミッチェルは上半身裸ではなかった。これも別に裸がよかったとかの話ではないです。見えないけど54歳ということなので、まあ普通に考えて裸じゃないでしょう。
トミー関連だと、ヘドウィグの語りで何度か隣の大きい会場の様子をうかがうんですが、三上博史版は(山本耕史版もかも。山本耕史版はほぼ一緒だったという記憶しかない)重そうな扉をよいしょと開けると眩しいくらいの光源が差し込む演出だったんですが、本当は今回もそれがよかった。球場のライトくらい眩しい。
今回はトミーの『WICKED LITTLE TOWN』か『MIDNIGHT RADIO』の最後にヘドウィグ(トミー)が帰って行く時に同じような光が使われていたので、そこを強調するためかもしれない。

『MIDNIGHT RADIO』の最初で、ヘドウィグがイツアクから奪ったウィッグを戻してあげるシーンでいつも泣いてしまう。ヘドウィグは歌いながらなんですが、ウィッグを渡し、イツアクがいつものようにヘドウィグにかぶせようとすると、“いいえ、あなたのよ”というように戻すんですよね。それは、しもべとしていたイツアクを解放してあげているような仕草で、ここまで横柄だったヘドウィグが慈愛に満ちて見える。

このあと、イツアクはそのウィッグを持ってステージから降りるんですが、かつてのドラァグクイーン、クリスタルナハトの姿で戻って来る。本当はイツアクとクリスタルナハトの違いが大きければ大きいほどいいから、本当はイツアクがむさければむさいほどいいんですよね。RENTのTシャツにバンダナ、ヒゲのコスプレの人もいましたが、あの姿が一番いい。森山未來版のイツアクはただの女の子だったので本当に論外なんですが、今回はヘドウィグの操り人形役を兼ねていたので仕方がない。でも、女性の服装でも華美にはならない真っ黒な衣装だったし、ヘドウィグをやるときのウィッグも適当なものだったのは好感が持てた。

そして、クリスタルナハト姿で戻ってきたイツアクの頰にヘドウィグが優しくキスしてあげていたのが本当にぐっときました。反則。これが見たかったんだと思った。思いながら、♪Lift up your hands で両手をあげました。

ちょっと中村中に頼りすぎな部分もあるかなとも思うけれど、仕方ない面もあると思うし、私は納得できました。それよりなにより、本家のヘドウィグがこんなタイミングで見られると思っていたかったので、それだけで十分嬉しいです。あの声であの姿だった。動きも愛らしいし、綺麗で、なによりキュートで可愛いかった。観られて良かったです。

また、東京楽日のみのお楽しみとして、『THE ORIGIN OF LOVE』の対になる新曲『THE END OF LOVE』がカーテンコールで披露された。歌詞が知りたい。またどこかで聴けるといいな。




BBC Oneにて放映中のトム・グリン=カーニーが出演しているドラマ。主演なのかと思ったが違った。けれど、群像劇のため、明確な主役がいないのかもしれない(二話現在)。一応、一話の最初で基地に駐留してきた大尉が主役かも。
1965年のイエメンのアデンが舞台(撮影は南アフリカ)。アデン危機の話。
脚本はジョン・シムが出ていた『The Village』のピーター・モファット。彼も軍人の家族として基地に駐留していたことがあるらしい。自伝のような部分があるのだろうか。

まとめて書くとすごく長くなりそうなのでとりあえず二話まで。

以下、ネタバレです。












ネタバレといっても英語字幕で観ているので完全には理解できていないと思う。
出て行く大尉の代わりの大尉が来るところから始まる。運転手として迎えに行くトニー・アームストロング下級士官(これがトム・グリン=カーニー)が迎えに行くのが遅くなってしまって怒られていた。トニーはドライバーとしての仕事を任されることが多いようだ。下級士官だからか。

駐留している兵士の妻たちも独特。アリソンはアルコールに溺れているがたぶん夫が仕事で忙しくて相手にされていないことが理由みたい。別の兵士と浮気をしている(入れ替わりでアデンを離れる大尉)。一人は新しく来た大尉の妻で天真爛漫。たぶん新婚かな。二話ではアリソンと友達になっていたが夫には反対されていた。私もアリソンのせいで彼女が傷つく出来事が起こりそうな気がする。もう一人は小さい息子を育てていてお腹が大きい。二話では出産していて、出血多量で死んでしまうのかと思ったけれど命を取り留めていた。妻たちはこの三人が中心(二話現在)。兵士の戦いと同じくらい彼女たちの生活も描かれている。基地の兵士ではない家族の生活が描かれるのはおもしろい。
女性陣はだいぶクセ者揃いかなんですが、二話で出てきた女性レポーターもいちいち兵士にちょっかいをかけていて、今後何かやらかしそう。三話の予告で新米兵士に手を出している風だった。

一話では兵士たちと妻たちの日常と新任大尉の迎い入れがありつつ、最後に反イギリスゲリラ部隊(たぶん)によって戻る大尉が殺されてしまう。二話はそのゲリラ部隊の掃討作戦だったが、結局、一部隊が滅ぼされ、首のみを持ち帰るという屈辱の結末になっていた。その裏でアリソンと新任大尉の妻がプールで楽しく遊んで仲良くなったり、危険な出産があったりする。

群像劇なのでトニーも飛び飛びに出てくる。最初、アラビア語(?)を復唱していて、現地の女性ユースラに手紙を渡していた。そして、一話の後半のゲリラ部隊に襲われるシーンにも彼はいる。車を運転していたが、スコッチをズボンにこぼしてしまい、脱いで車の上で乾かそうとすると、同乗していた大尉がいたずら心で車を発進させてしまう。「止まってください!」と言いながらパンツ一丁で追いかける様はコミカルでもあるけれど、銃を持ったゲリラ部隊に待ち伏せされているのを発見。本気で「止まってください!」と言っても、冗談だと思われてしまう。
トニーは命からがら逃げ出して、ユースラに手当をしてもらい、駐屯地へ帰る。
一話はここまで。

二話は一話であれだけ大怪我をしてしまったのでもう出番がないかと思ったけれど、ちゃんと出てきた。ただ、足を怪我しているので掃討作戦には置いて行かれる。相変わらずユースラには手紙を渡すが、会わないほうがいいと言われてしまう。上官にも手当をしてもらったことを言えない。悲恋の予感がする。

もちろんトム・グリン=カーニー目当てで見てるんですが、『ダンケルク』よりだいぶ普通の青年っぽい感じ。『ダンケルク』のピーターは理知的すぎるというか冷静すぎたけれど、こちらは年相応というか。どちらも好きです。

それはいいんですが、もう少し歪んだ見方をすると、車の上で目玉焼きが作れるくらい暑いため、最初のシーンでは兵士たちが上半身裸でトランプに興じている。もちろんトムもです。
あと、パンツ一丁で逃げるシーンはトランクスなので、そのまま転んだり崖を転げ落ちたりしていて、あわや中が見えそうな感じでつい身を乗り出してしまう。下尻くらいは映ります。
二話だと怪我した足を冷やすために素足を氷水に突っ込んでいたり。また、兵士たち全員なのですが、暑い地域のせいか軍服が半ズボンで、そのまま車の荷台に座り込んだりすると太ももがいい感じに見えます。

戦争ものだから人がばんばん死にそう(二話時点でもだいぶ死んでる)だし、つらいことはこの先も起こりそうだけれど、話の内容自体もおもしろいし、トムのいろいろを見るのにも良いと思うので最終話まで見たいし、DVDが出たら買いです(二話現在)。
できれば日本語字幕版が欲しいけど、アデン危機の知名度などを考えると内容的に厳しそう。



そろそろIMAXでの公開が終わってしまうようなので最後のつもりで行ってきました。感想というより『ダンケルク』と私というまとめ。

以下、ネタバレです。





エキスポシティの次世代IMAXレーザー後の鑑賞なのでやはり比べてしまうと断然次世代IMAXレーザーのほうがいいです。
わざわざ行ったという思い出補正が入っているかもしれないけれど、没頭感とVR感がまるで違った。あと色合いもレーザーのほうがくっきりしていたと思う。
中でも一番違うと感じたのが、コリンズが水面に不時着するシーンのコリンズ目線のところ。普通のIMAXでは迫力不足に感じてしまった。



あと、IMAX関係なく気づいたところとして、前回気づいたドーソンさんの家にいる女性は、料理をしているというより洗濯物をたたむか、何か作業をしているようだった。

最初に降ってくるチラシの音と最後の紙の音が同じという話を聞いて、耳を澄ましてみればなるほどと思った。最後の紙の音は新聞紙をたたんでいるのかと思ったが違ったらしい。最後にトミーが視線を上げるのはアドリブということだったが、私はこれもアレックスを見ているだけかと思っていたけれど、チラシと同じ音だとするならなにか別の意味があったのかもしれない。

結局ここまで試写会含めて7回観ました。通常スクリーン(試写会)、IMAX(としまえん・試写会)、フィルム、IMAX(品川)、次世代IMAXレーザー(エキスポシティ)×2、IMAX(新宿)という内訳でした。エキスポシティと品川はいつか行ってみたいと思っていたのでこの機会に行けて良かった。フィルム上映はもう少しどうにかなったのかなと思う。

もちろん、CGほとんど使ってないのすごい!とかスピットファイアから作ったとかIMAXカメラの無理な使い方とか陸海空に分けての群像劇とか、見所はたくさんあるしそれありきだと思うけれど、それだけではここまで何度も観に行かなかったと思う。
私は出演俳優陣の魅力にやられました。
7回目の時にはトム・グリン=カーニーが出てきただけでにやっとしてしまったから(まったくにやけるシーンではない)、“Afternoon.”でどんな顔してたかはもうわからない。

元々はトム・ハーディとキリアン・マーフィのノーラン組とジェームズ・ダーシー(好き)が出ることしかわからずに、若手は(日本では?)ほぼ無名の役者さんばかりだったのでわからなかった。ワン・ダイレクションも知らなかったので、ハリー・スタイルズもわからなかった。
それより何より、一回目は俳優を追っている余裕などなかった。常に追い詰められててすごく疲れるという印象の映画だった。こんなに何度も観ることになるとは思わなかった。

ところが、何度が観ていくうちに登場人物を判別し、細かいシーンを見て彼らのキャラクターの奥深さにはまってしまい、ついには出演者のことまで調べ始めたから今は大変なことになっている。
ほぼ知らない出演者ばかりだったので、調べ甲斐があるし、今後出演予定の映画もたくさん控えている。原作本を読むなどもしている。
こんなはまり方をしてしまったから、映画はどのシーンにも好きな人が出ているという状態で幸せ極まりない。以前は、どのシーンもピンチで心が休まらなくて大変…と思っていたのに。

『インセプション』を今観ると、なんていい俳優が揃えられてるんだ、出ている人全員好きという気持ちになるけれど、そもそもが『インセプション』がきっかけだったと思うのだ。だから、後々『ダンケルク』を観たときに同じようにいい俳優が揃えられてていい映画みたいなことを思いそう。
この二作品、両方とも同じ監督というのが驚く。クリストファー・ノーランおそるべし。

出演者の中でも、ピーターを演じたトム・グリン=カーニーが一番好きになってしまったんですが、彼の出演しているドラマ『The Last Post』を見ていると、もうだいぶ大人になってしまってるんですよね。もちろん髪型とか演技のせいもあると思うけれど。『ダンケルク』のプロモ中に南アフリカで撮影をしていたみたいなので、今年の春先くらいだと思う。
『ダンケルク』の撮影が2016年5月とのことなので、ちょうどその1年前くらい。少年の面影が残るぎりぎりの季節を撮影したのかもしれないと思うと、もう本当にノーランおそるべし。

『ドリーム』



原題は『Hidden Figures』。直訳すると“隠された数字”という意味。1961年、NASAの有人宇宙船計画に関わるある計算手の実話だから“数字”なのかもしれない。けれど、この計画に黒人でしかも女性が関わっていたというのは今まで知らなかった事実で、彼女たちにスポットが当てられているのでタイトルにはこの辺の意味も含まれていそう。

監督は『ジーサンズ はじめての強盗』のセオドア・メルフィ。

以下、ネタバレです。












NASAで働く三人の女性が主人公。その中でも計算手のキャサリンが中心になっている。
女性であるというだけでも差別されるのに、おまけに黒人であることでも差別される。おまけに1960年代のアメリカ南部である。コーヒーのポットも別、トイレも別だ。
才能があるから仕事は任される。その辺でしっかりと評価されていたのはほっとしたが、キャサリン以外の二人は才能を発揮する場を与えてもらうのにも一苦労だった。

黒人の男性陣は怒りを爆発させ、デモなどへも参加していたが、彼女たちはそちらへは進まない。もちろん怒りが原動力になっているのかもしれないけれど、ひたすら前進していくのが気持ちいい。捻くれることはない。

徐々に肌の色、性別関係なく、認めてもらえるのが観ていても嬉しい。特に、冷淡かとも思われる上司のハリソンを演じたケビン・コスナーが良かった。仕事一番だから仕事ができる人間は外見を問わずに認めるのだ。有色人種用というトイレの看板を壊すシーンは涙が出た。

また、同じように差別なくキャサリンを認めていたのが宇宙飛行士のジョン・ハーシェル・グレン。最初からキャサリンたちに一目置いているようだったが、会議の場で計算を展開したキャサリンに完全な信頼を置いていた。君に任せれば間違いないねという顔をしていたのが印象的。最後の飛行の時もキャサリンに検算を頼んでいた。いくら火の玉になっても、着地だけは安心していたのだと思う。

もちろんそんな人だけでなく、心無い人もたくさん出てくる。冷たく当たる女上司や同僚は、仕事ができるできない以前にとにかく気に食わなかったのだと思う。
でも映画の中ではそこまで陰湿ないじめは出てこず、冷たい人々も必ずギャフンと言わされる展開があるのでスカッとする。

会社でのことだけでなく、家族内や黒人コミュニティの話も出てくる。でもそこでも迫害されて悲観にくれるというわけではなく、さりげなく背中を押してくれたり愛を与えてくれたりと、ほっとするエピソードが多かった。
夫がデモに参加して警察沙汰なんていうギスギスしたエピソードはない。

頑張る人がしっかりと報われたり、痛快さや爽快さはなるほど、監督が『ジーサンズ』の脚本の方だなと思ってしまった。泣いてしまうシーンがないわけではないけれど、感動を押し付けられたり説教くさくなることがない。

メイクやファッションについても色合いが明るいのも良かった。キャサリンを演じるタラジ・P・ヘンソンと中心となる二人、ジャネール・モネイ、オクタヴィア・スペンサーの三人が並んでいるポスターや画像を見ていると元気が出てくる。
また、作品のポップさにファレル・ウィリアムスの音楽がよく合っているのも良かった。



映画の感想ではないのでネタバレはないと思います。
本作ではキリアン・マーフィー、トム・ハーディといったクリストファー・ノーラン監督のお気に入り俳優に加え、ケネス・ブラナー、マーク・ライランス、ジェームズ・ダーシーといった実力派も揃えられている。
それに加え、本作が映画初出演になる俳優や舞台に多く出ていた俳優など若手がかなりフレッシュでとても良い。ノーラン監督はどこから見つけてくるんでしょうか。趣味が合う。
よく出ている海外俳優ムックのニューカマー欄を完全に過去のものにする面々の今後の活動について調べた。どちらかというと自分用のメモ。


トミー役:フィン・ホワイトヘッド(Fionn Whitehead)
なぜか“フィオン”表記のところもあるけれど、呼び方はフィンなのでフィンでいいと思う。
イアン・マキューアン原作の『The Children Act』が今年9月にトロント国際映画祭でお披露目された。原作小説の邦題は『未成年』。
夫婦関係がうまくいっていない裁判官フィオナと、彼女が担当することになった信仰を理由に輸血を拒む少年アダムの交流が描かれている。
原作はまだ途中までしか読んでいなくてアダムが出てきていません(追記:読みました。アダムはいろんな意味でまっすぐで信じるものを決めたら考えを変えないイノセントの塊みたいな男の子。これをフィンが演じるのはとても合っているし、一刻も早く観たい。キャスティングしてくれた方に感謝)。フィオナ役はエマ・トンプソン。日本で公開してほしいがどうなるか。


ギブソン役:アナイリン・バーナード(Aneurin Barnard)
今年12月2日に『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』が日本公開されます。モーツァルト役なのでタイトルからすると主演かもしれない。
彼とコリンズ役のジャック・ロウデンはBBCドラマ『戦争と平和』でも共演している。
トミーとギブソンは同い年くらいに見えたが、フィンが1997年生まれなので19歳か20歳(誕生日は秘密らしい)、アナイリンは30歳です。


アレックス役:ハリー・スタイルズ(Harry Styles)
ワン・ダイレクションのメンバー。だけど、私は1Dを知らなかったので、今回俳優として初めて観ました。ミュージシャンには見えなかった。逆に、え?歌えるんだ?と思ってしまった(いい声)。今年12月にソロでの来日公演があり、来年5月にも神戸と東京で来日公演があるみたい。


ジョージ役:バリー・コーガン(Barry Keoghan)
今年の11月3日に『The Killing of a Sacred Deer(原題)』がイギリスで公開される。監督は『ロブスター』『籠の中の乙女』のヨルゴス・ランティモス。たぶんカリスマ医師役のコリン・ファレルが主役でその妻役にニコール・キッドマン。三番目の主役がバリー・コーガンかな。よくわからないけど予告編を見る限りは不気味そうな少年役。
コリン・ファレルとニコール・キッドマンなら日本公開もありそうだけど、夜ゴス・ランティモス作品、シュールでわかりにくいのだけど今回はどうなんだろう。


コリンズ役:ジャック・ロウデン(Jack Lowden)
アメリカで去年6月、イギリスでは今年1月に公開された『Danial(原題)』が『否定と肯定』というタイトルで今年の12月8日に日本公開。
主役はたぶんレイチェル・ワイズ。マーク・ゲイティスやアンドリュー・スコットも出ます。ホロコーストまわりの実話。映画を観る予定なので内容は詳しくは調べない。
ジャック・ロウデンは黒髪です。予告編を見る限りだとちょっとした役の様子。

日本公開が決まっていないものとして、『Tommy's Honour(原題)』というジェイソン・コネリー監督(ショーン・コネリーの息子)の作品がある。2016年のBAFTAスコットランド・アワードで作品賞を受賞している。全英オープンで四回優勝したトム・モリスとその息子という親子の物語。息子のトム・モリス・ジュニアも全英オープンで優勝している。ジャック・ロウデンはこの息子役。実在する人物なので実話だと思うが、なかなか馴染みの無い選手(ゴルフを知っている人にどれくらい有名なのかはわからない)なので日本公開はあるか。ただ、アメリカでも今年4月公開だったようなので、まだ希望は捨てない。金髪。

 また、モリッシーの伝記映画『England Is Mine』が今年8月にイギリスで公開された。ジャック・ロウデンはモリッシー役なので主役です。これも黒髪。これも実話。モリッシー役なので歌うシーンもある。
『ダウントン・アビー』のシビル役のジェシカ・ブラウン・フィンドレイも出ている。
モリッシーは日本でも人気があるし公開されると信じているがどうなるか。
(この予告のサムネイルはSuedeのブレット・アンダーソンにも似てる)

(追記:『ダンケルク』にも出ていたジェームズ・ダーシーが監督・脚本をつとめる『Made In Itary』に出演するらしい。あらすじは“自由奔放なロンドンのアーティスト、ロバート(ビルナイ)は疎遠になっている息子ジャック(ジャックロウデン)と亡くなった妻から引き継いだ家を売るためにイタリアに戻る”とのこと。奥さんがイタリア人ということかな。コメディで、来年トスカーナとロンドンで撮影予定とのこと。詳しくはこちらの記事参照(http://deadline.com/2017/10/billy-nighy-jack-lowden-made-in-italy-1202190489/)『ダンケルク』の俳優さんたちが今後もノーランの映画に続けて出たらいいなあと思っていたんですが、俳優さん同士のつながりでも嬉しい。楽しみです)


ピーター役:トム・グリン=カーニー(Tom Glynn-Carney)

BBC Oneにて『The Last Post』というドラマが10月1日より始まった。脚本はジョン・シムの『The Village』のピーター・モファット。
南アフリカロケで1965年のイエメンが舞台。イギリスの兵士が現地の女の子と恋に落ちる話。このイギリス兵士役がトム・グリン=カーニーなので、主役かなと思っていたけれど、いろんな兵士がいろんな女性と恋に落ちるのかもしれない。また、恋に落ちないイギリス兵なのかもしれない。「ちょっとした『ロミオとジュリエット』だよ」とインタビューで話していた。
(追記:一話だけ見ました。アデン危機の話。トム・グリン=カーニーは若手兵士の役。で、現地の女性と恋に落ちるのは多分彼だけ。序盤から手紙を渡し、終盤はその女性に怪我を治してもらっていた。でもラブストーリー要員なら怪我をしていてもいいのかも)(感想を別の記事にしました

また、『アメリカン・ビューティー』『007 スペクター』のサム・メンデスが手がける舞台、『THE FERRYMAN』にも出演中。主役はパディ・コンシダイン。1981年のアイルランドが舞台。IRA後のある家族の話らしい。かなり評判が良さそう。
サム・メンデス監督がトム・グリン=カーニーのオーディション映像を気に入ったが、彼は南アフリカで『The Last Post』のロケ中だった。しかしちょうど、『ダンケルク』の宣伝のために一時ロンドンに戻ってきたときに会ったらしい。
アイルランドには縁もゆかりもないので言葉が難しかったし完璧にはできていないとインタビューで言っていた。
エモーショナルで野性的な役らしく、ピーターとはだいぶ違うので気になる。革ジャンを着ていてピアスをしていて(追記:ピアスはこの舞台に限らずプライベートでもしている模様。片耳だけ開けているみたい。おしゃれ)髪色も赤い。

両方とも観たいけれど、日本からでは難しそうなのが残念。

(追記:『ロード・オブ・ザ・リング』の著者、J・R・R・トールキンの伝記映画に、トールキンの友人クリストファー・ワイズマン役で出演するようです。トールキン役はニコラス・ホルト。10/24にリバプールにいるらしきツイートをしていましたが、10/18に撮影クルーがリバプールの博物館のあたりにいるのが目撃されているので、彼もこの撮影のためだったみたい。詳しくはこちらの記事参照http://variety.com/2017/film/news/tom-glynn-carney-tolkien-movie-1202598670/




『ダンケルク』はほとんどのシーンが70ミリ15パーフォレーションフィルムを使っている。鮮やかさなどもそうなのですが、一番ぱっとわかる違いとしては、普通のIMAXスクリーンとは画角が違い、上下が大幅に切られてしまう。(109シネマズの記事参照:http://109cinemas.net/news/2983.html
IMAX次世代レーザーは大阪のエキスポシティの109シネマズにしかないし、切られたサイズで観ていたのですが、せっかくなので遠征してきた。

劇場に入った瞬間から明らかに違っていて、ほとんど真四角に見えたけど、高さ18メートル幅26メートルらしい(ちなみに大きさの比較としてガンダムが18メートル)。ただ、IMAXの中でも大きい成田HUMAXシネマズが高さ14メートル幅24.5メートルなので、他のスクリーンと比べると真四角気味です。

予告編は普通のスクリーン向けで撮られているせいか上下が黒くなっていた。上映時に真四角に変換されるのかどうかはわからないけれどどうだろう。

そして、実際に『ダンケルク』の上映が始まったとき、最初のドイツ軍からチラシがばらまかれるシーンからもう違っていて感動しました。
視界がぱっと開けたようになるし、空が高く、チラシも大量だった。

以下、ネタバレです。









圧倒的に明るいし、空もダンケルクのビーチも広大だった。
ドイツの戦闘機の目線だろうか、上空から桟橋にいる兵士を見下ろすシーンでは、浜で逃げようとする大量の兵士が米粒のように見えて、適当に爆弾を落としても簡単に着弾しそうで、もう逃げることはできないという危機感を感じた。

真ん中に兵士が待機する桟橋をとらえたショットでは、より奥行きが感じられて、兵士の数も多く見えた。

編隊を組む飛行機が広い空を飛ぶ様子や、ファリアのスピットファイアがビーチへゆっくり降下していく様子はより綺麗に見えた。スクリーンが広いため、ドッグファイトや追いかけっこも縦横無尽に動いていてより迫力があった。また、各戦闘機の動きも把握しやすかったと思う。

攻撃するファリアの目線になるシーンがあるが、IMAXの“スクリーンが視界いっぱいに広がっています”が上にも広がっているから本当に視界いっぱいで、それはスクリーンというよりももはや自分の視点のようになっていて、これぞメガネなしのVRだった。私もトム・ハーディと一緒にコックピットにいる気持ちになった。
コリンズとも一緒に水面への不時着した。この映画に関しては4DXはいらないと思った。

撃墜された戦闘機が煙をあげて堕ちていくときの煙も長く引いていた。
人物に関しても足まで映っているのが新鮮なシーンがあった。

何度か観ていても、今回は違った印象を受けた。わざわざ遠征して観る価値はあった。せっかくなので二日連続で観ました。

一応、2019年度には池袋に開業する109シネマに次世代レーザーが入るらしいので、その際にはリバイバル上映があるといいなと思っています。

ちなみにIMAXシーンがくっきりしてるし上下に広がるし明るいしで、普通に撮ったシーンとの区別がよくわかった。
ドーソンの船の上でのシーンと、桟橋のシーンと、商船の中のシーンと、最後の電車のシーンがIMAXではなかった。電車はすべて違ったが、他は一部IMAXもあったと思う。

特に桟橋のシーンは、狙ったわけでは無いのだろうが、ニッチもサッチもいかなくなってウィナント大佐がボルトン中佐に文句っぽいことを言っているシーンはスクリーン上下が黒くて圧迫感があるが、そこへイギリスからの民間船がたくさん来るシーンでぱっと上下に広がって明るくなる。音楽も不穏なものからガラッと安心感があるものに変わる。印象の変わり方がより明確になった。

以下、次世代レーザー以外で気づいたことと思ったこと。


ギブソンについてですが、特にトミーは彼に何回も助けられている。出会ったシーンでは水を分けてくれる、一緒にけが人の担架を運ぶ、桟橋の下に隠れるよう導いてくれる、戻るボートからロープを投げてあげる。
どれも眉間に皺を寄せながらのちょっとしたサポートなんだけど、魚雷が来たときには逃げようとして、船室にトミー(とアレックス)がいるから律儀に戻る。しかも船が傾いているから船室の扉のところへ行くのも大変。このような必死な様子をトミーとアレックスにも見てもらいたかった。
ギブソンはフランス兵だから喋らないからわからないけれど、あのシーンではすでに友情を感じてたんだな…。

商船の中でゴタゴタするシーンのアレックスには何も通じていなかったのだろうかと思う。ギブソンのことを「フロッグ!」と呼びますが、これはイギリス人が使うフランス人を示す蔑称で、カエルを食べることに由来するらしい。カエルらしく(イギリス人の)列を飛び越えてきたのか?みたいなことを言っていた。
ひどいなと思うけれど、逃げるときには、ちゃんと「ギブソン!」と名前で呼んでいた。もうギブソンって名前じゃ無いこともわかっているのに。さっきまではフロッグと馬鹿にしていたのに。
本当に憎かったらそもそも呼びかけもしないだろう。アレックスがギブソンにひどいことを言ったのは追いつめられていたからだけだろうとは思うけれど、さっきまで一緒に行動してたのに銃をつきつけるのはどうなのかと思う。本当にドイツのスパイだと思っていたのだろうけれど。
もちろん本当にギブソンがドイツ軍の人間だとしたら追い出していたか、その場で撃っていたとも思う。

ハイランダーの乗った船が沈められて、桟橋に隠れていた二人がアレックスを救ったのが出会いである。ボルトン中佐は「ハイランダーは別の船へ移れ」と言うのを聞いて、トミーとギブソンも一回海に潜って体を濡らしてハイランダーに混じって脱出しようとする。ずぶ濡れになった二人を見て、アレックスはお前らよくやるなという顔でにやりとしていた。助けられた直後だからかもしれないけれど、このときはハイランダーに二人が混じっていても隊が違うくせに云々と文句は言わない。

その次に乗った船でギブソンが船室に入らなかったのを見たときに最初におかしいなと思ったのだろうか。
それで、船室でトミーに「友達はどうした?」と聞いたのも探りを入れていたのかもしれない。トミーもギブソンが見つけられなくて、「逃げ道をさがしてるんだよ」と答えたあとで、二人ではっとした顔をして、扉付近へ移動する。呑気にジャムパンを食っている場合ではないのかもしれないと思い出したのだろう。この判断がなければ二人はここで魚雷の攻撃を受け、死んでいたかもしれない。

トミーとアレックスは同じ商船から逃げ、おそらくアレックスのほうが抜け出したのは遅かったのでは無いかと思う(ギブソンに声をかけていたから)けれど、ドーソンの船に着いたのはアレックスがだいぶ早かった。
ハイランダーの身体能力の高さなのかもしれないと思ったけれど、商船の中でリーダー格だった男はオイルに火がついたときに燃えてしまったし、判断力もあるのかもしれない。

空が一時間、海が一日だからということもあるかもしれないけれど、時間軸的にも空がだいぶはやい。
一番最初に登場したときに、3機で編隊を組んで飛んでいる下にドーソンの船が見える。これが、ドーソンがロールスロイス製エンジンの音が心地いいと言っているシーンである。その前にドーソンが見てないのに「わが軍だ」と言うシーンがありますが、この時に飛んでいるのは1機なので、他の隊員は撃ち落とされて、生き残った一機が帰るところだったのかもしれない。帰還した1機と交代で、ファリアたち3機が出て行ったのではないだろうか。

陸よりも時間軸がだいぶはやくて、沈みゆく商船から人が海へ逃げ出しているのもファリアは空から見ていた。その近くには船(ヴァンキッシャー?)が倒れ、オイルが流れ出ている。ドーソンの船も近くにいる。
陸のほうでは商船すら出てきてないうちに空のほうではすでに沈むことがわかっていたのだ。このあと「射撃訓練だ」とか「穴を塞げ」とか「オランダ人です」とか「フロッグ!」とか狭い中でだいぶゴタゴタするがわかっていたのだ。

あともう一つなんですが、ドーソンとピーター、そしてハリケーンで出撃して3周目に亡くなった兄の話は出てくるけれど、妻(母)の話は出てこないし、なんとなく父と息子二人暮しなのかなと思っていた。
けれど、最後、ジョージの記事が載った新聞が届いたときに、一瞬だけ台所が映り、そこで、誰だかはわからないけれど女性が洗い物をしていた。
妻(母)かもしれないし、娘(姉)かもしれないし、お手伝いさんかもしれない。ピーターよりは年上のようだった。ソフト化されたら一時停止して確認したい。後ろ姿だったし説明もないからどちらにしてもわからなさそうだけど。

あと、改めてですが、ピーター役のトム・グリン=カーニーの見る演技が素晴らしい。セリフ無くじっと見つめるシーンが多く思えたけれど、その力強い視線から感情が溢れ出してる。
キリアンのいる船室に迷ったすえ鍵をかける判断を決めた顔、ジョージを突き飛ばしたキリアン(仮名)に向けられた怒り、墜落した空軍兵を救うため船を飛ばすドーソンを見る心配そうな顔、ジョージが死んだあとにキリアンに大丈夫だと嘘をついてその後ドーソンにこれで良かったよね?と問うような顔、イギリスに帰ってきた後、船から運び出されるジョージの遺体を見て振り返ってキリアン(仮名)を探す顔。
あの時、キリアンは一瞬前にジョージの姿を見ていたから、大丈夫ではなかったのがわかっただろうし、大丈夫ではないのに大丈夫だと言ったピーターのことも何か思ったはずだ。でも何もせずに行ってしまった。今回のキリアンはここを含め、すべてにおいて仕方が無いにつきる。
ピーターは振り返ってもたぶんキリアンの背中すら見つけることはできなかったと思う。







ポール・ダノ演じる青年が遭難、無人島に流れ着いた死体のダニエル・ラドクリフと友達になるというキワモノっぽい内容を聞いた時から期待していました。

以下、ネタバレです。








無人島に一人きりで残されて助けも来ない。主人公のハンクが絶望し、首を吊ろうとしているシーンから始まる。
悲壮感に溢れていて、人を発見したと思ったらそれは死体で…という普通なら踏んだり蹴ったりの状況である。

けれどハンクは、死体の中に溜まった腐敗ガスがオナラとなって外に出ていて、それを動力として海へ進んで行くのを見て、死体の上に乗ってジェットスキーのようにして海へ出る。
ポスターなどでも使われていたからこれがクライマックスなのかと思っていたらオープニングだった。
ついさっきまで死のうとしていたとは思えない。笑顔で拳を突き上げる様子は生命力に満ち溢れている。音楽も力強く、希望と勇気が湧いてくる。タイトルが遠くからバシーンと出る様子を見て、まだ序盤だというのに泣いてしまった。

それで、序盤なのでここから抜け出してはい終わりというわけでは当然無い。
無人島内の話だと思っていたが、ゴミなどから人の気配のある場所へたどり着いていた。ただ、携帯電話は圏外で連絡は取れない。声を張り上げても反応はない。遭難状態は変わらずだ。

遭難して、一人きりのときに自分と向き合って内面が成長していくというのはよくある話だと思うのだ。一回り成長したところで救助されて、家族や恋人とも和解、幸せに暮らしていきましたとさ…というような。

本作は一人きりではあるけれど、自分の内面ではなく死体とコミュニケーションをとっていく。奇抜なアイディアである。どうしたらこんなこと思いつくのか。

死体はおもむろに口をききだすのだが、本当に喋り出したわけではなく、ハンクの内面と考えるのが妥当だと思う。
でもメニーという名前がつけられると(というか名乗られると)、もうそれはハンクの内面ではなく死体が自己を持ち始める。

序盤のジェットスキーからしてもそうだけど、死体の歯でヒゲを剃ったり、体を押して中にたまった水を出したり、死後硬直の始まった腕を使って丸太を折ったり、メニーがいればサバイバルもなんのそのといった感じである。
タイトルの『スイス・アーミー・マン』は“スイス・アーミー・ナイフ”から来ていると知ってなるほどと思った。確かに十徳ナイフくらい便利。
こんなことも本物の死体を使ってはできないと思うのでファンタジーである。

それらを使う様子は面白おかしく描かれるので劇場では笑いが漏れていた。死体なので不謹慎というむきもあるかもしれないけれど、やはりこの辺もファンタジーということで許してほしい。不謹慎と思う人はそもそもこの映画を観に来てはいないと思うけれど。

メニーとの対話を通じてハンクの日常生活がわかってくる。父親とはうまくいっていない、バスで偶然見かけた美しい女性サラを好きになったけれど話しかけることもできない、彼女には夫もいる…。どうして遭難したのかは明らかにはされないが、楽しかったとは言い難い日常はあらわになる。

ハンクが女装をしてサラになるシーンがある。ハンクも好きな人が好きすぎてその人になってしまいたいと考える人間だった。このタイプの人間はいろいろな物語に出てくるが、叶わない恋であることが多い。相手のことを思い焦がれるあまり、自分が対象になってしまいたいと思うようになる。
現実では背中を追うだけで話しかけられない。おそらく彼女のことをこっそり調べ、インスタグラムのアカウントも探して、彼女の私生活を覗き見し、夫がいることも知った。それでも好きだった。たぶん、夫から奪いたいとかそんな気持ちはなかったとは思う。この引っ込み思案な人物がポール・ダノにとてもよく合っていた。

バスまで作って、その時の様子を再現していた。ハンクがサラになり、メニーがハンクになっていた。メニーにだったらいくらでも恋のアドバイスができる。でも実際に行動には移せない。もしかしたら後悔もあったのかもしれない。

メニーがサラを好きでサラもメニーのことが好き、という寸劇。ハンクがサラとしてメニーを好きになるのは、ハンクが現実世界ではサラと結ばれなかったから、こうだったらいいなという願望だったのだと思う。
ねじ曲がっている。それでも、このバスでのやりとりや、落ちていたトウモロコシからポップコーンを作って一緒に観た映画、即席パーティーでのダンス…すごく楽しかったのだろう。それは遭難する前にも味わったことがないような高揚感だったと思う。
ハンクはサラとしてマニーを愛したし、マニーはサラを愛していた…というのもハンクの脳内のことかもしれないけれど、確かに愛し愛された。

映画はところどころギャグがちりばめられていたから、この一人二役というか、冷静に見てしまえば死体と女装の絡みはいくらでも茶化すことができたと思う。それでも、パーティーやバスのシーンはきらきらしていたし、水中でのキスは過剰にロマンティックに撮られていた。
映像が綺麗だと思って観ていたら、監督のダニエルズ(何ダニエルズなの?と思ったら、ダニエル・シャイナートさんとダニエル・クワンさんのダニエル二人でダニエルズだった)はミュージックビデオを手がけているらしく納得した。
こんなに美しく撮るということは茶化すシーンではないのだ。

ハンクは無事に民家のある地域(しかもサラの家の前。ここは個人的には別の人の家のほうがよかったのでは…と思ってしまった)へ戻る。戻ることを目的にしていたはずなのに、そこには少し前までのシーンにあった高揚感はない。
警察が来る。サラとサラの夫と娘もいる。父親が来る。なんだかメニーとハンク、二人の世界を邪魔する不純物のように見えてしまった。
さっきまでの濃い二人だけの空間は夢のようだった。現実はまるで魔法がとけてしまったかのよう。撮り方も明らかに違っていた。戻ってきてからは一歩引いたような、さめたような撮影方法だったと思う。何が原因でそのような印象を受けたかはわからない。色合いかもしれない。

映画を観ながら、うーんでも死体なんだよなあとは時々思い出していたが、途中からはとても一人には見えなかった。でも、現実に戻ってしまえば、作ったバスなども異常者が作った夢の残骸にしか見えない。パーティーにたくさんいた人物(手作り)も不気味な人形にしか見えない。サラや警察はギョッとしていた。それも正しい反応だと思う。
でも、最初からそっち目線で撮っていないのがこの映画のいいところだと思う。ハンクのことを決して笑い者にしない。ハンクの側に立って撮られていた。引っ込み思案だしどこかさえない部分もありそうだったけれど、そんな人物に優しい映画はいい映画である。

ハンクは最後の抵抗として、メニーを死体袋から出してやる。メニーはまたオナラの力で海上を走っていく…。この時、父親は力強く頷いていて、なんとか父親とは和解できたのだなと思った。
ハンクはまたメニーのジェットスキーでどこか遠くへ行ってしまうのかなとも思った。無人島からやっと戻れたことは変わりないし、いつまでもメニーと戯れてもいられないことも自分でもわかっていたのだろう。

メニーが海上をオナラを動力として飛ぶように遠ざかっていく様子はまるで魚雷のようで、コミカルにも見えた。劇場内では笑っている人もいた。
でも私は本当の決別とか、それでも手元に残った強さを思わずにはいられなくて少し切ない気持ちになっていた。
メニーと一緒のサバイバル生活で心から楽しいと思う気持ちなど、得たものもたくさんあったと思うのだ。そして、サラへの想いも完全に断ち切って、新たにスタートするのだろう。
夢の終わりと青春の終わり。恋も終わった。でもこれで、ハンクは一からやり直せる。
じめじめはしない。別れを惜しむ暇もなかった。爽快な別れから感じるのは、たぶんハンクは大丈夫だという予感である。
だから、きっと笑うのが正しいシーンだった。

死体と友達になるということでもっとキワモノコメディーなのかと思った。もちろんその面もあって、他では見られない不謹慎ギャグも多い。でも描かれているのはとても真っ当なことであり、勇気がわいてきたり切なくなったり、登場人物の成長が見られたりと青春映画そのものだった。いや、そのものは言い過ぎかも。