3までがこれ以上ないというくらい綺麗にまとまっていたために、続編が、しかも9年ぶりに公開されるというのは心配でもあった。あの続きが観たいかというと微妙なところでもあった。

監督はジョシュ・クーリー。ピクサーでストーリーボードアーティストや声優などをしていた方らしい。長編は本作が初。

以下、ネタバレです。








ウッディは新しい持ち主、ボニーからあまり好かれていない。ボニーは他のおもちゃに夢中だった。
それでもウッディはボニーに対して献身的で、ボニーが手作りしたおもちゃフォーキーとボニーが仲良くやれるように手助けをする。四苦八苦しながらも関係は良好になるけれど、ボニーはその影にいるウッディのことなど見向きもしない。あまりにもつらい。観ながら、それで、あなたはどうするの?と思っていた。
中盤、ウッディの「ボニーのためだ」というセリフがある。前半のモヤモヤしていたことに対する答えが、きちんとセリフで示される。ここまでも少しごたごたがあるが、フォーキーとボニーの仲をとり持つところからここまでとんでもよかったくらいだと思った。
さらに、ボニーのためにボイスボックスも失う。
ウッディは聖人なのだろうか。おもちゃだからそんなものなの? 正しいことしかしていない。ここまでまともなことしかしないキャラだったろうか。

声も失った。しかし、持ち主に愛されていない。きっとボニーはウッディがいなくても探すことはないだろう。現に旅行の際も、ウッディは終始姿を見せていないのに探されていなかった。それくらい、どうでもいいおもちゃになってしまっている。
外の世界へ飛び出していくのもわかるし、当然、そのような結果になるだろう。

しかし、ウッディはフォーキーのためには自己犠牲も厭わない。それはフォーキーはボニーに好かれているからで、ひいてはボニーの幸せにも繋がるからだ。
しかし、その行動は独りよがりでもある。「僕たちとはいかないのか」というバズの寂しそうな顔が忘れられない。

ここにきてウッディをバズたちと引き離すとか、「俺のブーツにゃガラガラヘビ〜」のセリフが聞けなくなるとは思わなかった。
♪俺がついてるぜ〜の歌も悲しい。ついていない。ウッディは飛び出して行ってしまった。

3の続きをやるなら、ナンバリングタイトルではなくスピンオフでやってほしかった。そして、もっと軽い内容にしてほしかった。声を失うとか、みんなと離れるとか、重大なつらい決断を見たくなかったのだ。
ボニーの元へ行ったその後、どうなるか考えてみるとこうなるのは容易に予想ができる。だから、作られるならこの内容にはなるのだろうけれど、それなら作らなくてよかった。

じゃあどうなれば納得なのかと考えてしまうと、私はウッディにボニーではなくアンディの元にいてほしかったのだ。ウッディもまだアンディを恋しがっていた。できることなら、アンディがおもちゃを買い戻すか何かしてほしかった。
でも、それは私がおもちゃを買う大人だから思うことで、トイ・ストーリー自体は子供の友達としてのおもちゃが描かれているのだから趣旨が違ってしまう。大人になったらおもちゃは卒業するものとして描かれている。別に物持ちを良くしようとか、大人がおもちゃで遊んでもいいんだなんてことは描かれていない。
だから、こんなことになるなら、アンディがおもちゃを卒業した時点で、その先は別に見たくなかったと思ってしまうのだ。

何かしら決着をつけるならこの形になってしまうのだろうし、子供の幸せと自分(おもちゃである前に自分自身)(おもちゃではない自分自身という感情が存在するの?)の幸せを天秤にかけて選んだ結果として、勇気の出る決断というのもわかる。でも別にここまでやってほしくなかったという気もしてしまうのだ。
そもそもウッディやおもちゃたちは人間とまったく同じ感情を持つ存在なのかどうかも私はここまでわかっていなかった。子供のためにいろいろするおもちゃの行動は服従だったのか。では、1から3まで観てきたものはなんだったのだろう。悲しすぎる。
それとも、アンディのことは好きだから友達で、ボニーのことはそんなでもないから服従と思ってしまったということだろうか。そうすると、おもちゃの側にも人間の選択肢があるということなのだろうか。おもちゃに嫌われるという可能性もあることを考えると本当に怖い。おもちゃは人間の子供がすべて好きというわけではなく、この子は好き、この子は嫌いみたいな感情も持つということだろうか。おもちゃに嫌われたくなかったらおもちゃを大切にしましょうということだろうか。
トイ・ストーリーの基本である、おもちゃが感情を持つということについてのルールがよくわからなくなってしまった。ここまで掘り下げる必要があったのかどうか疑問。



ポール・ダノ初監督作。パートナーであるゾーイ・カザン共同脚本。4年かかっているらしい。

壊れそうな家族の話。父親役にジェイク・ジレンホール、母親役にキャリー・マリガン。14歳の息子役にエド・オクセンボールド。
ポール・ダノは出ません。

以下、ネタバレです。








いつものことながら何の話かわからないまま観ていたので、両親は仲がいいし、慎ましくも幸せに暮らしていて、一体何の問題があるのだろう?と思いながら観ていた。
しかし、景気が悪いようで、母ジャネットのパートは決まらない。また、モンタナ州は山火事がしょっちゅう起こっているらしく、学校の授業で避難の注意を受けているのも嫌な予感がした。

そして、父ジェリーはゴルフ場の仕事を解雇される。翌日に解雇は取り消されるが、プライドが高いのか戻ろうともしないし、スーパーのレジの仕事などを馬鹿にし始める。最初はいい父親だと思っていたけれど、いつもの、目が死んでいるジェイク・ジレンホールになっていた。
そして、仕事を探さずについには山火事を消す仕事に従事したいと言い出す。危険なのはもちろん、雪が降るまで帰れないらしい。出稼ぎのようだし、さぞかし高給なのだろうと思ったが、時給1ドルだった。1960年代の1ドルが今のどれくらいなのかはわからないが低賃金であることは間違いない。おそらく、人助けのような気持ちもあったのだろうが、14歳の子供を残して、しかも金を稼げるわけでもない仕事をしに行くのは自分勝手すぎる。
序盤で本当に腹が立ってしまった。

残されたジャネットも女手一つで14歳を育てることができずに途方にくれる。ジョーも写真スタジオでバイトを始めるが、仕事が見つからない。
ジャネットについて、公式サイトにも雑誌の記事でも浮気と書いてあったけれど、売春的なものなのかと思って観ていた。
華美な服装と派手な化粧で金持ちのカーディーラーの気を引いていた。キャリー・マリガンはメイクをしないと顔が幼いが、濃いメイクをすると綺麗というよりはアンバランスに見えた。痛々しく感じたのは役柄のせいもあるし、メイクも綺麗に見せる類のものではなかったのだろう。
カーディーラーはでっぷり太っていたし、頭も禿げ上がり、太い葉巻をくわえていた。葉巻をくわえる口元を唾液が映るくらいアップで撮るのは嫌悪感を煽る方法としてよかったと思う。これは14歳のジョー目線なのかもしれない。

華美な化粧とドレスを着た母が、カーディーラーの家で彼の気を引いているのはジョーには耐えられなかっただろう。ここまでずっとジョー目線なこともあり、私もはやく帰らせてくれ…という気持ちになってしまった。
また踊りたいと言われても、そんな気にはなれないし、踊っている母を見るのも嫌だ。
ここで、何してるんだろうかとジャネットは一回正気に戻ったように見えた。けれど、上着を返しに行った時に、カーディーラーとキスしてした。ここのひっそり覗く描写がうまかった。
なかなか帰ってこない母を心配してジョーは窓からそっと覗く。カメラはジョーをとらえていて、ジョーははっとした顔をしてその場を立ち去る。
何を見たのだろう、あまり良くないものなのはわかるが興味もある…と思っていたら、ジョーが去った後も、カメラだけが窓辺に残って、横に少し振ると部屋の中の様子が見えるのだ。キスしているのを見てしまったジョーと同じ目線で部屋の中を覗き、頭を抱えた。
他にもこのように、ジョーがひっそりと事の成り行きを調べる描写が出てきて、それは少しホラー映画を思わせる撮り方でおもしろかった。独特。

家にもカーディーラーを呼んで寝ているようだったけれど、それを見たジョーに、ジャネットは「他に何かいい方法があったら教えてほしい。今よりはマシだろうから」と言っていた。
その惨めさが出ている表情から、金持ちと寝て、お金をもらっているのかと思っていた。気に入られるために華美な服装をしているのかと。
それとも、金があって安定した仕事をしているところに惹かれて好きになっていたのだろうか。わからない。

初雪がなかなか降らないというニュースが流れているシーンもあったが、ジョーがベンチに座ってバスを待っている時に、雪がはらはらと降り始める。このシーンが本当に美しかった。
セリフでの説明はないけれど、映像だけで説明されることが多いが、このシーンは特に好きだった。
雪が降る=父が帰ってくるというのが観てる人にはわかる。バスが来て、ジョーの姿はなくなるんだけど、乗ってはいないよね?と思うと少し間が空いてカメラが横に動いて、家に向かって走るジョーの後ろ姿を映す。一連の流れがうまい。
ジョーはもちろん父の帰りを待っていたとは思うけど、父が帰ってくることで最悪の状態がなんとか回復しないだろうか?という希望を託してもいたと思う。一刻もはやく事態を脱したいという気持ちが、あの必死の走りに表れてるようで泣けた。

けれど、帰ってきたところで、亀裂が決定的なものになるだけだった。
父親ジェリーはジェリーで、また引越しを提案してくる。当然ついていけないし、わかってないジェリーに対して、ジャネットはついに別居を提案する。
その後に外でジェリーとジョーが食事をしているんですが、もうジェイクジレンホールの顔が怖い。威圧的に、ジャネットとカーディーラーの関係を聞き出そうとして、嘘をつけなくなったジョーが告白するとキレて家に火をつけに行くという…。本当に自分勝手だし手に負えない。

カメラが家の様子を外から映しているシーン、リビングのテーブルには夫婦がいて、ジョーは一人で部屋に戻り、電気を消して明日の学校に備えて先に寝ていた。
両親などあてになるかという拒絶が感じられた。いままで、親なのだからと期待していたのが悪い、もう一人でやっていくのだという意志が感じられたが14歳で大人にならざるをえなかったジョーのことを考えると胸が痛いし、大人たちしっかりしろよ…と思ってしまった。ジャネットはジェリーに何か飲み物を出しているようだったし、軽く仲直りはしたのかもしれない。それでも。
『荒野にて』の一歩手前に見えた。

その後は、ジェリーは嫌がっていた販売員の仕事を始め(働いている店もガラス張りで、ここも外からカメラが長回しのように映していた)、ジョーと一緒に元の家に住んでいた。ジャネットは家を出て、ポートランドに住んでいるようだった。
離婚はしていないけれど、帰ってきても週末が終わればポートランドへ帰るとのことで、復縁はなさそうだった。

ジョーはバイトする写真スタジオで、三人が並んだ写真を撮る。
このジョーがいない版がこの映画のポスターで使われている瞬間なんですね。最近観た『イングランド・イズ・マイン』もそうでしたが、ポスターにある意味重要なシーンが使われていて、映画本編を観て、あーこれかー!と発見するのに弱い。
写真スタジオの方がジョーに、「人は写真に善き瞬間をおさめたがる」と言っていた。両側で泣きそうな顔をしている両親と真ん中でいやにしっかりした顔のジョーという並びがとても良かった。
余韻がたまらない。

ポール・ダノ監督、とてもこれが初めてだとは思えない。演出がうまかった。これからも様々な作品を撮ってもらいたい。もっと観たいです。


アカデミー賞、監督賞、撮影賞、外国語映画賞の三部門ノミネート。
監督は『イーダ』のパヴェウ・パヴリコフスキ。
以下、ネタバレです。







モノクロ、スタンダードサイズ。1949年から15年間の話ということでスクリーンサイズからも雰囲気が出ていた。

説明が最低限なので、セリフなどからいろいろ考えながら観ていたのですが、映画館ロビーのレビューを読んでやっと理解できました。集中して観ていても、少しわかりにくかった。

タイトルが『COLD  WAR』なので、もっと冷戦について前面に出ているのかと思っていた。東西ドイツの壁を隔てていて、会いたくても会えない二人のメロドラマを想像していた。
そうではなくて、思ったよりも会えているのと、会えない間にも互いに恋人を作っていたりして、あまりあなただけという感じではなかった。
映画のラストに“両親へ”といった言葉が出るが、監督のご両親がまさにこの感じのくっついて離れてだったらしい。モデルにもしているとのこと。

ヴィクトルがピアノを弾いているせいだけではないと思うけれど、『ラ・ラ・ランド』を思い出した。西側に憧れるヴィクトルはチャラい音楽に身を落としたセブに見えた。バーでピアノを弾いている様子も似ていた。でも、セブは嫌々やっていたけれど、ヴィクトルはやはりそちらの音楽が好きでもあると思う。

何度か出てきた『2つの心』という曲は元々は民謡のようで、使われている言語もですが、歌の合間に入るオヨヨイと聴こえるスキャットのようなフレーズが物悲しさを感じさせてたまらなかった。しかし、フランス語に訳されたジャズバージョンではこのフレーズがない。ズーラは訳詞が気に食わないと言っていたけれど、それ以上に私は曲の良さはこのスキャットだと思ったので、それがないとなると一気に良さがなくなってしまうのではないかと思った。ズーラもレコードを投げ捨てていたし、気に食わなかったのだと思う。訳したのがヴィクトルの元恋人だからかもしれないが。

二人とも音楽をやっていて、音楽の趣味が合わなかったらうまくいかないのではないか。そこからすれ違いが始まりそうな気もするが…。
それとも、ヴィクトルは亡命先からポーランドに送還されて、強制労働をしたことで手を負傷し、音楽ができなくなったからすれ違う要因がなくなったのだろうか。

15年間という長期間の物語でその中で、愛し合って、別れて、また愛し合って…というのも好みだし、救って救われる話も好きです。
何より、ズーラ役のヨアンナクーリグがとても魅力的だった。少しレアセドゥを思わせる風貌と、歌とダンスが素敵。
最初の歌のテストのシーンから、民族衣装を着ての舞踊団のステージのシーンもどれも惹きつけられるし、酔ったバーでBill HaleyのRock Around The Clockが流れた時に、店の男性を次々変えながら踊るのが奔放で素敵だった。
でもやはり多少西の音楽に対する恨みを感じた。

ラスト付近でも商業的なメキシコの音楽を無理やりやらされていて、吐きそうだと言っていた。小さい子供もいて、明らかにヴィクトルが拘束中に生まれている。拘束期間を短くするためにズーラは何かしらをしたようで、あの副大臣と親しいと言っていた男性と結婚して子供が生まれたのかもしれないし、商業的な音楽だって、無理にやらされていたのだと思う。ズーラは才能はあるし、きっとなんでもソツなくこなすはずだ。それに、ヴィクトルのことを思えばこそだと思う。

映像は綺麗だったし、ズーラは魅力的だった。民族的な音楽や衣装などが見られたのもおもしろい。最後の結婚式のやり方も変わっていた。
けれど、肝心なところですが、ズーラがなぜヴィクトルに惹かれたのかがいまいちわからなかった…。


トム・ホランドがスパイダーマンを演じるようになってからの二作目。だけれど、『アベンジャーズ』シリーズにも出てきていたから、二作目というのが意外に感じてしまった。監督は前作『ホームカミング』に引き続き、ジョン・ワッツ。
また、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の直接的な続きになっていた。そのため、前のスパイダーマン(アンドリュー・ガーフィールド)と、前の前のスパイダーマン(トビー・マグワイア)のように、スパイダーマンだけで観ることができないのはどうかと思う。

以下、ネタバレです。










あの壮大な『エンドゲーム』のラストに続くということで、どうなるのかと思っていた。結果として、その部分がとてもうまかった。
ピーターが通っている学校の生徒が作った、今回の出来事の最中に命を落としたヒーローたちの追悼ビデオが流される。
生徒が作ったものなのでチープで、作った生徒たちもあまり事の重要性がわかっていなさそうだった。
でも、この少し笑える感じをオープニングに持ってくることによって、作品のトーンを決めていたり、湿っぽくなりすぎないような作りになっていて、よく考えられていると思った。私たちの作品に臨むスタンスも決められる。
町のそこかしこにはアイアンマンを偲んだものが残されていたようだったが、最初にアイアンマンのグラフィカルアートを見せられていたら、終始めそめそしながら観ていたと思う。
また、エンドゲームには市民が出てこないという話だったが、本作で市民の様子が描かれていた。なんとなく、私たちはヒーローたちを近くで見すぎていたのを感じた。一般の市民たちの感覚がわかりやすい。適度にヒーローとの間に距離がある。

また、指パッチンで消えていた人たちは5年間、年をとらないというルール説明があった。初耳でした。でもさして物語上は重要ではなかった。

『エンドゲーム』の直接の続編であり、青春映画であり、ヒーロー映画でもある。それぞれの要素の詰め込み方が絶妙なバランスだったのもうまかった。
でも、なぜか物足りなさが残ってしまった。よく考えてみたらその正体は、圧倒的な喪失感だった。
今までがトニー・スタークやアイアンマンでもってたというわけではなくて、彼の存在が消えたことで寂しさを感じたのだ。ここにいないのだとやっと実感した。

本作は新生アベンジャーズを作るのに模索している様子も描かれていた。
ピーターはトニーのことを尊敬してるから受け継ぎたいとは思っている。
でも、まだ16歳なのだ。彼が担うには重すぎる。アベンジャーズに声をかけられたのも最近の話ではないか。
それに、普通の生活を捨てるには早すぎる。大人は彼をせっついていたし、ピーターも葛藤していたが、そんなにはやく大人にならなくてもいいと思う。

ピーターは両親を亡くしている。このシリーズのメイおばさんは世話を焼いてくれていても、どうも親代わりとは思えない。
ニック・フューリーもだめだった。今回中身が違ったけれど、本物はどうだろう?
今回はハッピーが一番親っぽく見えた。
特に、〝レッドツェッペリン〟をバックにトニーの遺した機械をすらすら操るピーターを見て面影を感じてホロリとしているシーンは、そのハッピーを見てこちらもホロリとした。ツェッペリンとピーターは言っていたが、実際にはAC/DC。トニーだしそりゃそう。

ミステリオは、ジェイク・ジレンホールだし、最初から悪役だと思ってたのでそれほど意外さはない。
でも、バーのような場所での種明かしシーンはさすがのジェイク・ジレンホールで恐れ入りました。あんな変な格好で普通のバーにいて大丈夫なの?と思っていたらそういうことだったか。

でも、あんな風にホログラムを駆使されたら、なんでもありになっちゃうのでは…。と思ったけれど、現代の映画のVFX批判の意味もあるのではという意見も見てなるほどと思った。
原作を知らないからわからないけれど、前回のスパイダーマンもやはりトニーを逆恨みする形で敵になっていて同じタイプだった。トニーの敵の多さがうかがえるが同じパターンなのはどうかと思った。

ただ、ドローンを使った空中戦は素晴らしかった。飛ぶもの(スパイダーマン)対飛ぶもの(ドローン)なので、3Dと相性が良さそうだった。けど2Dで観てしまった。奥行きも感じられそうだった。
『スパイダーバース』のラスト付近の戦いを思い出したけど、スパイダーマンはどれもこんなものなのかもしれない。

ゼンデイヤはどのシーンでも可愛く美しく格好良かった。最後、スパイダーマンに掴まって町を移動するシーンは役ではなく本当にゼンデイヤ自身が怖がったり面白がったりしているようだった。撮影方法が気になる。

ちなみに本作はニック・フューリーと一緒にマリア・ヒルがたくさん出てきて、彼女が好きなので嬉しかった。けど、最後で思わず、あー!と言いそうになってしまった。変身されていただけだった。
ニック・フューリーの目にあからさまな猫の爪あとが付いていたけれど、『キャプテン・マーベル』後からかな。
南国っぽいところで休んでいたけれど、ついタヒチを思い出してしまいつらくなった。


一応これで過去シリーズが終わりとのことだけど、それにしては…と思ってしまった。
監督はサイモン・キンバーグ。



以下、ネタバレです。






観たいものが観られなかったことで文句を言うのもおかしいかもしれないけれど、本当ならば、原点回帰というか、人間を信じたいチャールズと過激派ミュータントのエリックの対立と、でも根本では考えが一緒だし、ミュータントとして思うことも同じだから、どこか寄り添う部分もあり…というのが観たかった。最後なのだし。

本作はジーンについての話です。チャールズとエリックは主役ではない。そもそもの部分として、これが納得できなかった。シリーズ最後でなければまだいいけれど、最後なら二人を中心にしてほしかった。
序盤はチャールズ側での話なので、エリックがなかなか出てこない。二人が映画内で揃うことがなかったらどうしようと考えてしまった。しばらく経ってから出てくる。

ジーンは謎の力を手に入れて、その力が制御できなくて、何者かにそそのかされるけれど、その何者も謎の力もなんだかわからない。なんだかわからないものと、エリックとチャールズたちは戦い続ける。これ、最後まで何と戦ってるのかわからなかったんですが、原作を知っていたらわかるのだろうか。
なんだかわからない敵は感情がないことが長所と言っていたけれど、その役にジェシカ・チャステインをあてるのはうまいと思ったし、感情が無さそうな役としてソフィー・ターナーをあてるのも良かった。二人が並んでいると同じ系統なのがよくわかる。けれどやはり、ソフィー・ターナーは、今はゲームオブスローンズのサンサの印象が強すぎた。

ジーンは力を制御できないけれど、チャールズの元も離れるし、エリックにも受け入れられない。力が制御できない中でレイヴンを殺してしまうけれど、レイヴンはチャールズにとってもエリックにとっても、またハンクにとっても大切な人なんですよね。これは対比として描いてるのかはわからなかったけれど、大切にされるレイヴンと大切にされない(どころか、目の敵にされる)ジーンの違いが浮き彫りになってしまっていて可哀想だったし、ちょっとジーンの味方になってしまった。彼女のことも受け入れてあげてよ、と思った。

謎のなんだかわからない敵も、ジーンを受け入れるほどではなかったし、とにかく目的がわからない。エネルギー云々と言っていたけれど、それで何をしたいのかもよくわからなかった。私の星が滅ぼされたとか言ってたから宇宙人で同じように地球を滅ぼすつもりだったのだろうか。

あと、個人的にはバトルにクイックシルバーが連れて行ってもらえなくて、例の周りはスローなのに彼だけがひょいひょい動くスマートなお馴染みのあれがなかったのが残念。二回やったししつこいと言われたのかもしれないけど、最後だしやってほしかった。
エリックが父親で…みたいな話もどうなったのか不明。あれは前作で終わったことなのだろうか。とにかく、エリックとチャールズ自身の話がほとんど出てこなかった。

それなのに、最後のチェスはどういうことなのだろう。二人がチェスしている空を火の鳥が飛んできれいに終わらせたつもりなのかもしれないけど、全然うまくない。ROMA気取りかと思ってしまった。
そもそも、チェスのくだりが取ってつけというか、こちらへの目配せとしか感じられなかった。こんなの付けるならもっと本編をどうにかしてほしかった。本編で二人の話が出てこないのに、打ち上げだけで仲良くされても。

本作はもうどうにもならないけど、あと一作つくって二人が中心の話が見たかった。

良かった点は、マグニートーが地下鉄を地下から引っ張り出すところと、狭い列車の中でのバトルと、列車の後ろの車両をメキメキと折り曲げるところ。


ラース・フォン・トリアー監督作。
アメリカでは修正版での公開だったけれど、日本は無修正版での公開とのこと。どのあたりが修正されているのかは不明。
体が変な形に曲げられた人のポスターも話題になっていました。あのポスターは『サスペリア』を思い出した。
連続殺人犯の告白。主人公ジャック役はマット・ディロン。ところどころ、ジム・キャリーにも見えた。

以下、ネタバレです。











連続殺人犯で誰かと話しているモノローグがついて話が過去に遡っているようだったので、刑事と犯人が話している、取り調べの場面なのかと思った。犯人が罪を告白して、それが映像になって出てきて、ラストは二人が対峙するのかなと思っていた。
しかし話はそう単純ではなかった。相手の正体は一向にわからない。もう一人の自分なのかとも考えてしまったが違った。

私たちは、ジャックが殺人犯なのを知って観ている。
だから、最初、ジャックが車を運転していて、車が壊れた女性が絡んでくるシーンはひやひやした。でも、女性の言ってることが、ジャックを馬鹿にしたり、イライラさせられることばかりだったので、これは殺されても仕方がないのではないか?と思ってしまった。

ジャックは連続殺人犯なのでこの先もどんどん人を殺しますが、最初の殺人(映画の中での最初というだけで、ジャックにとっての最初かどうかかはわからない)が共感まではいかずとも仕方ないなと思わされるもので、殺人犯が主人公でも最初から拒絶感はわかなかった。

最初はシンプルに顔を殴打するものだったけれど、絞殺の上、胸を刺すとか、銃を使って倒れたところに二、三発撃ち込んだり、逃げる親子を子供たちだけ先にスナイパーよろしく狩りのように撃って子供(死体)と母親(生きてる)と疑似家族的にピクニックをしたりと殺し方が多彩。
殺した死体は持ち帰って冷凍保存するのでばらばらにはしない。怨恨などもない。むしろ、死体にポーズをとらせたりと遊び始めていて、愛すら感じた。

ジャックは強迫性障害で潔癖症のため、人の家で殺すと綺麗にしたつもりでも、あの場所に血が残っているのではないかと気になってしまって、何度も現場に戻っていた。鍵の締め忘れとか火の付けっ放しとかを心配して何度も家に戻っちゃうあれ。この場面、笑いが起こっていて笑っていいものか悩んだけれど、結局一緒になって笑ってしまった。滑稽さもある。

別に殺人を悪いことだと思っていないから堂々としているせいか、犯行が杜撰で大胆でもばれない。警察が馬鹿なだけかもしれない。運がいいのかもしれない。

殺した死体の使い方もおしゃれだったけれど、映画の作り自体もおしゃれだった。いくつかの繰り返されるパターンがジャックを知るヒントになるのだろうか。

グレン・グールドのピアノ演奏。彼も強迫性障害だったらしい。
デヴィッド・ボウイの『Fame』が繰り返し流れるのは何かしら評価されたかったのだろうか。家も建てていたし、死体の使い方もだけれど、芸術家気質でもある。建築も、実用的とは思えなかったのでアートである。
また、紙に書かれた単語を次々と投げ捨てるのは、ボブ・ディランのPVからなのだろうか。(映画だそうです)
マット・ディロンが恰好良く、どんなシーンもはまる。
街灯の下を歩く人のアニメ映像も何度も出てくる。歩いていて、街灯の真下に立った時が影が一番短く濃いのが殺人の衝動に似ているとのこと。

虎と羊の映像もよく出てきた。
虎と羊はわからないが、ところどころでポツポツ出てきたものが後半になると宗教色が一気に濃くなる。ジャックは本当に地獄へ行く。
地獄への使者が、最初から声が聞こえているジャックの対話の人物ヴァージだった。ヴァージというのはダンテの『神曲』の中でダンテを導く存在のウェルギリウスのことらしい。
終盤でジャックは友人(なのかも不明)のS.P.を殺して彼の着ていた赤いフード付きの上着を奪う。ここから後半はジャックはずっとその格好だけれど、まさにダンテのそれだった。
また、ドラクロワの『ダンテの小舟』を模したシーンもある(一発撮りとのこと)。別名、『地獄のダンテとウェルギリウス』ということで映画はそのまま。『神曲』の中の一場面らしい。

大鎌を振るって草を刈る男たちも出てくる。ジャックが幼い頃に見た風景であり、そこは地獄ではなく楽園と言われていたが、大鎌=死神のイメージがあるけれどどうなのだろう。
でも、ジャックはそこへ戻りたいと思っているのか、郷愁にかられているようだった。

ジャックがああなった原因については描かれない。よく両親が原因だったりというのも出てくるが、幼い頃からアヒルの足を切っていたし、感情は普通ではないようだった。
しかし、ヴァージに何度か問われている通り、愛を求めてはいたのかなとは思う。それで冷凍庫にあれだけ人間(死んでますが)を集めていたのではないか。コレクションに囲まれている時の安心感はよくわかる。その対象がジャックは自分が殺した死体だったというだけだ。

地獄で、上に行きたいと願うジャックは危険をおかすが、結局失敗をして戻れない部分へ落ちていってしまった。落ちた絵がポジからネガに変わるのもおそらく理由があるのだと思うけどわからなかった。
すぐにエンドロールへ入るのですが、流れるのが『Hit The Road Jack』。出て行ってジャック、二度と戻ってこないで、もう二度と、二度と、二度と という歌詞が軽快なリズムにのって歌われる。ギャグなのだろうと思う。

この曲も軽快だが、本作はトリアー監督にしては、軽快でそのせいで薄口に感じた。強烈なシーンが少ない。
死体で家を作るシーンもあったけれど、どうもドラマ版『ハンニバル』を思い出してしまった。あちらのほうが強烈さでいったら上。威張れることではないとは思うけれど。





邦題は『アナ雪』からかと思ったけれど、原題がAnna and the Apocalypseなのでそのまんまだった。
青春ミュージカル+ゾンビ映画という食い合わせが悪いとしか思えない、でもおもしろそうな組み合わせで気になっていたけれど、バランスがとても良かった。また季節柄だとは思うが、宣伝ではまったく触れられてないけど、わかりやすくクリスマスムービーでもある。
本当はクリスマス時期に観たかったけど、青春ものもミュージカルも当たらないと言われている中、有名俳優が出てるでもない本作は日本で上映してくれただけでもありがたいので、シーズンの希望までは呑まれなくても仕方ない。

もともとは『Zombie Musical』というタイトルの短編でこれを作ったのが、ライアン・ゴズリングにシリアルを食べさせる動画で話題になった彼。若くして亡くなってしまい、それを本作の監督、ジョン・マクフェールが引き継いだ。

以下、ネタバレです。







まずミュージカル映画の重要なところですが、歌がどれもいい。
若者たちは鬱屈していて、ここは私の居場所じゃないと思っている。退屈な町から逃げ出したい。
『アメリカン・アニマルズ』『イングランドイズマイン』でも見られた、自分にふさわしい居場所を求める若者というのは、青春特有のものでもある。
主人公だけではなく、他のキャラや、モブのようなキャラもみんなが〝ハリウッド映画のようなエンディングは訪れない〟と歌っていた。

その中でアナの友人のリサは、現状に満足しているようだった。能天気で明るい。彼氏のクリスはゾンビ映画オタクと言われていたけれど、ゾンビ以外にも映画を観ていそう。ジャンル映画好きなのか。
二人は学内でもちゅっちゅしてるし、バカップルに見えたので、ホラー映画の法則に従うと早々にいなくなるパターンだなと思った。

アナの友人のジョンはアナのことが好き。鈍臭いながらも、きっと最後にはアナの気も変わるのかなと思ったけれど、本当に友達だった。でも、男女間であっても、別に恋人に昇格する必要はない、それでも大切な人であることには変わりないというのは今風だと思う。

アナとジョン、リサとクリス、そしてステフが主要人物になっている。

また、いじめっ子グループのニックもアナのことを狙ってるだけなのかなと思ったけれど、元彼だった。中盤にちゃんと明かされるまでわからなかったのは最初に話を聞いてなかったせいかもしれない。

キャラが様々出てくると青春学園ものっぽいけれど、ゾンビがちらちら映ったり、謎のウイルスが云々と不穏なニュースが流れていたり、びっくり描写があったりとゾンビ要素を混ぜ込もうとしてるのは感じた。
この時点では、ゾンビ要素はいらないんでは…と思ってしまった。

一晩寝たら、町にゾンビが大発生していた。でも、アナは気付かず、イヤホンをして歌って踊る。しかも、それがハッピーな曲で、映画を観ている側に聞こえるのもその音楽だから、ハッピーなBGMの後ろでゾンビが人を食って、パニックが起こっている描写が妙だった。ミュージカルにゾンビ要素を入れたらこのちぐはぐさが生まれるよな…と思う描写だった。でも、もちろんこの描写がずっと続くわけではない。

ここからゾンビが本登場。
ここまで20分くらいらしいんですが、上映時間98分のうちここまで本格的なゾンビなしとは。これ、ゾンビ出なくても良作では……と思ってたけど、出てきたら出てきたでこれがいい。

首吹っ飛ばすとかトイレの蓋とか残虐描写もあるけど腸は出てこないし、そこまでではないかと思う。今作のゾンビルールは、走らないタイプ、噛まれるとゾンビになる、頭を潰せばいい、音に反応といったところ。

ゾンビは敵ですが、序盤は笑えるシーンも多かった。ギャグは長編になる際に足された要素らしい。

クリスとジョンは、ロバートダウニーJr.はどうなったと思う?とかライアン・ゴズリングはゾンビになってもかっこいいに違いないとか、ボンクラトークを繰り広げてるんですが、その裏で女子二人が勇敢にゾンビを倒していた。男だから強い、女は守られているみたいなのはない。元彼はマチズモキャラかもしれないけれど。
アナの制服もパンツスタイルだった。ステフは男装しているだけかと思ったけれど、恋人が女性のようだった。このようなキャラの混ぜ方もとてもいい。よくある性別のくくりがないのが気分いい。

アナの元彼たちいじめっ子軍団は、スーパーで強奪をしていてろくでもないの典型みたいな感じ。彼らの歌がここで初めて出てくるけど、ちょっとR&B風でセクシーな曲だった。情け容赦なくゾンビを殺していくけど血も涙もないし、絶対にすぐに食い殺されるだろうなと思っていたけど、元彼だけは生き残るし、彼の行動に一貫性が見えてきて、頼り甲斐があって恰好良く見えてきてしまって困った。
また、彼はゾンビになった父親を嫌々殺している。父に正しいことをしろと言われてバットを渡されたらしい。父殺しというつらいイベントを乗り越えて大人になっているのだ。
この人に関しても違う面を見せられると好きになってしまう。

最初気にくわないと思っていても、違った一面を見せられるだけで多角的に知ることができるしキャラも立体的に見える。
カップルに関しても再会以降は、おばあちゃんのことを気遣ってる優しい子なのがわかるし、ステフを救おうと必死になっている様子が可愛かった。

『セックスエデュケーション』もそうでしたが、キャラの違った一面を見せられてキャラ全員を好きになってしまうのは青春群像劇ではよくあること。全員幸せになって!と思うけれど、そこはゾンビものなのだ。

噛まれたジョンや父はアナをかばって犠牲になる。カップルもステフをかばう。記憶が薄れゆく中で、すれ違いざまに手を合わせるシーンに泣かされた。こんな形でゾンビセンチメンタルを持ってくるとは。

監督のインタビューでは、「後半が生きるように最初のパートをちゃんと見せたんだ!」と言っていて、そんな残酷な…と思ったけれど、それこそがゾンビものの醍醐味ですよね。ゾンビ映画にあるのは怖さとかはらはらしたスリルだけではない。

どのキャラも好きになったけど校長だけは別。後半に行くにしたがって、悪い部分が増えていって、彼がゾンビの元凶なのでは?と思ってしまった。そんなことはなかったけど、ほとんど悪役です。
彼の曲がパンクっぽいのも合っていておもしろかった。妙に高い声も憎らしい。
また、悪いことをしたキャラは残酷に死んでもいいの法則が発動してたんですが、それ伏線だったのか!という伏線の張り方だった。1回目の時に不自然な気はしていたので、うまい!とは思わないけど、なるほどと思った。

アナは特効薬ができると言っていたので、最後に降ってきているのが雪に見せかけた薬で、みんな人間に戻ってめでたしめでたしと終わるのかと思った。
そんな甘いラストではない。普通の雪だった。

途中、アナが、「暴動や革命は別の国のことだと思ってた」と言っていたけれど、確かに、ゾンビはありえなくても、戦争や内戦によって、昨日までの世界が変わってしまうことはある。
今まで考えていた明るい未来が突然消えてしまうこともありうるのだ。
アナのこのセリフがあることにより、ゾンビ映画なのに想像できる未来になっていたのがおもしろかった。
今のところはまだ生き残ってるからこそ、希望は失わないのだという力強さを感じた。ゾンビ映画とはいえ、メッセージは青春映画が発するものと同じだった。



『X-MEN2』の脚本などのマイケル・ドハティ監督。
単体の作品だと思っていましたが、レジェンダリー・ピクチャーズのモンスターバースシリーズ3作目とのこと。

以下、ネタバレです。







モンスターバース1作目の『GODZILLA ゴジラ』に出ていた芹沢博士(渡辺謙)とグレアム博士(サリー・ホーキンス)が出てきて、繋がっているのを知った。また、2作目の『キングコング:髑髏島の巨神』もエンドロールの最後にゴジラの話がちらりと出てきたので、その繋がりとのこと。
ただ、本作は髑髏島の話は出てくるけれど、キングコングは出てきません。巨大生物がたくさん出てきて主要なもの以外はわからないものもあったので、髑髏島にいた何かは出てきていたかもしれない。

本作は巨大モンスター同士のぶつかり合いが見せ場であることは間違いないし、その面で話題になっていた。人間ドラマが薄いと言われていたけれどそんなことはなかった。
最初にマディソンという少女が別居しているのか遠くにいる父に『母さんが心配』とメールを送っていたけれど、母は見た感じ心配されるほど変なところはなかった。仕事も普通にできているようだった。
しかし、この母の目的が、地球を汚染しているのは人間だから、モンスターに浄化してもらおうという、所謂サノス的なもの。それで、巨大モンスターを次々に蘇らせていく。

蘇らせることはできても人間にできることは限られている。放射能の力で瀕死のゴジラにパワーを与えたことで彼が味方になりはしたけれど、基本的に言うことを聞くタイプではない。また、モンスターというよりは巨大なだけで動物なのだから共存しないととも言われていた。

本作の主要なモンスターはゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラである。そのどれもが登場シーン、バトルシーンどれをとってもいちいち恰好いい。
『パシフィック・リム』でも見得を切るようなポージングが凝っていて、デルトロは本当に巨大ロボが好きなんだな…と思ったりしたのですが、本作も監督の巨大モンスター愛が存分に感じられる。
キングギドラは三つの首それぞれに違うモーションアクターがついていたというのもいい話。密かに名前がついてるとのことですが、性格の違いもわかった。もっと見たかった。
ラドンはスネ夫とかロキとか、おかしなあだ名がついていて観る前から気になっていたけれど、ラストでこれかー!というシーンがあった。お前死んだはずでは…というところからの、ゴジラ様にへこへこする感じは笑ってしまった。
モスラについてはどのシーンも神々しく描かれていた。羽ばたくと光の粉が舞う。チェン博士が双子であることも示唆されて、モスラのことはぼんやりとしか知らなくても、設定から愛を感じた。また、あのテーマ曲も使われます。
ゴジラはシンゴジラのような筋肉質ではなくずんぐりむっくり体型ですが、重量感があっていい。背びれが順番に青く輝いたり、形が変わるわけではないけれど赤く輝くのも恰好良かった。キングギドラの首を丸呑みしているのも、強い!怖い!といった感じで良かった。もちろんテーマ曲は良い場面で使われる。

また、『パシフィック・リム』っぽいと思ったもう一つの要因が人間側から巨大モンスターたちの戦いを見ているようなカメラワークです。もちろん、ゴジラとキングギドラがプロレス的に戦っている様子も恰好いいけれど、人間の主要キャラが逃げてる後ろですごいでかいのがやりあってて砂埃が飛んできたりというのは臨場感や迫力があった。
あと、予告でも使われていた、マディソンが不敵に笑うシーンは、キングギドラにやられそうになっているマディソンを助けるような形でゴジラが現れたシーンでゴジラを見ての笑みだった。恐怖を感じながらも、虚勢を張りながら、よく来たわねと歓迎するように強がる笑み。いろんな感情が内包されていてうまい。マディソンを演じたのがミリー・ボビー・ブラウン。映画は今回初だけれど、『ストレンジャー・シングス』に出ています。
ここのゴジラはもちろんマディソンを助けようと思ったわけではなく(キングコングとは違う)、王気取りのキングギドラを倒そうとしただけだとは思うけれど、さながらピンチに駆けつけるヒーローでした。

単純に人間対モンスターというよりは、モンスターたちの戦いは人間など気にしてないし、人間同士の意見は対立していても、モンスターの前ではなすすべがない。
中でも何度も言われていたけれど、モンスターたちは神であり、人間たちがどうにかできるような存在ではないのだ… というモンスター至上主義は監督の意見でもあるのだろう。おもしろかったです。



マーク・ギル監督。ジャック・ロウデン主演。
モリッシーになる前の何者でもなかったスティーヴンについて描かれている。監督のティーチイン付きの先行上映に行ってきた。

以下、ネタバレです。






まず、スミスやモリッシーの映画と思って観に行くと思っていたのと違う…と思われそう。ただスミスやモリッシーの映画と宣伝もされているし、そう言うしかないからその面だけを期待して観に行く人が多いだろうなとも思う。
私はスミスやモリッシーは数曲知ってるくらいでそこまで思い入れはなく、ジャック・ロウデン目当てでした。

音楽はたくさん使われているけれど、いわゆる音楽映画ではない。心配しすぎかもしれないけれど、『ボヘミアン・ラプソディー』のヒットがあったので、あの辺りを想像すると全く違う。
まず、モリッシーの曲は使われていない。スティーヴンと音楽の繋がりというシーンもそれほどない。モリッシーなんだから音楽が好きなんだろうなという脳内補完で観ていたけれど、彼が音楽好きなのかも不明。どちらかというと、楽器や歌よりも文章を書いているシーンが多かった。それもポエム的なもので、のちのちの作詞に関わってくるのかもしれないけれど。
しかし、この辺はもともとのモリッシーの気質なのかもしれないし、実際にこの時期のスティーヴン自体が音楽をやりたいのかわかっていないのかもしれない。

ジョニー・マーが出てくるのは本当に最後のほうなので、そこでやっと物語が動き出す。音楽映画ならここをスタートにすると思うが、本作はここまでの話である。なので、モリッシーにはまだまだ遠い、普通の青年の話なのだ。

それまでのスティーヴンはあまりにも内向的。芸術少年特有の、自分は特別なんだ理解しない周りが馬鹿という思想を抱えている。だからあまりにも自分勝手。周囲を敬うことをしないから、コミュニケーションがうまくとれない。
職も見つからない。でもこれは、あまり説明はされないけれど、失業者が列を作っていたので、景気の悪さがうかがえ、当時の社会情勢批判なのかもしれない。

双方向のコミュニケーションはとれなくても、なぜか周囲に女性は絶えず、彼をサポートしようとする。全員が恋愛感情があるのかどうかわからないけど、映画の中にキスシーンなどはないのと、接し方も恋人のそれというよりは、母親のようなお節介が多い。

それもそのはずで、ジャック・ロウデン演じるスティーヴンがとんでもなく可愛い。駄目な人間だけど憎めない。ぐずぐずしていてイラッともするけど許しちゃう。
これは、女性特有のものなのか、好きな俳優だからなのかわからない。

眼鏡をかけたり外したりする落ち着かなさ。ペンをくわえて打つタイプライター。瞬きをバチバチバチっとするところ。いつも不安そうな瞳。伏せた時の睫毛。ちょっと嬉しいことがあると現金なほど浮かれてカバンをぐるぐるまわしてしまう部分など本当に可愛かった。周囲が面倒を見たくなってしまうのもわかる。
だが、一挙手一投足、表情含めてすべてかわいいが、もしも、ジャック・ロウデンではない俳優が演じていたら、ただ苛々していただけかもしれないとも思ってしまう。また、ジャック・ロウデンの演技というより(演技の面もあるとは思うけれど)、私がジャック好きであるという部分がとても大きいような気がする。冷静な判断ができていないと思うけれど、少なくともジャック・ロウデンファンには大満足の内容です。ほぼ全てのシーンに出ている上、その全てが見どころなので。

モリッシー自身がインタビューで過去のことなどをほとんど明かさないらしい。そのため、本作は自伝映画というよりは、モリッシー好きの監督のこうだったらいいなが詰め込まれているということで、どちらかというと二次創作に近いのかなと思う。
監督の言葉としては、「スミスの映画というよりは、スミスのアルバムを聴いた時の気持ちになってほしいと思って作った」とのこと。
モリッシーはベジタリアンらしいが、「彼が豆のスープを作ってる映画なんて観たくないでしょ?」とのこと。事実を描くとしたらそうなってしまうとのことだ。
モリッシーもマーク・ギル監督もマンチェスター出身ということで家も近所だったらしい。本作はそんな愛着のあるマンチェスターで撮影されている。

特別な自分には特別な出来事が起こるべきという青春時代特有のくすぶりは『アメリカン・アニマルズ』で描かれていたテーマとも似ている。
監督も「普遍的なものをテーマにした」と言っていた。特別な人の特別な話ではないのだ。まだ片鱗すら見えていない。

でも、ラストでジョニー・マーが部屋に来てレコード見ながら「趣味いいね」なんて話しているシーンでは、スティーヴンは、やっと見つけた!という顔をしていた。やはり、運命の出会いというのはきっとわかるのだ。これから新しい世界が開けるのを確かに感じているわくわくした表情がとても良かった。
そして、イギリス版のDVDのジャケットやポスターなどでも使われているメインビジュアルの一つ、何か越しにスティーヴンの姿が見えるという写真は、ラスト、ジョニー・マーの家を訪ねてきた姿で、扉のガラス越しだった。ここだったのか!という驚きがあった。やっとスティーヴンが自分で動いて世界を変えようとするシーンだ。ラストシーンをメインビジュアルに使うとは…。

モリッシーの音楽は使われていなくても、音楽自体はたくさん使われている。70年代から80年代の音楽が多かった印象で、描かれている時代に合わせていたと思う。スティーヴンが影響を受けた曲というよりは、単に監督の好みの曲なのかもしれない。正確な年齢はわからないんですが、監督、幼少期にテレビでスパンダー・バレエやデュラン・デュランが流れていたということは、40代だろうか。
100曲くらいピックアップした中から曲を選んだとのこと。中でも重要な曲は母とスティーヴンが語るシーンで流れる曲。母の「この曲であなたはテーブルの上で踊っていたわね」というセリフがあったけれど、母が初めてスティーヴンに買ってあげたレコードとのこと。
あと、ジョニーがスティーヴンの部屋で選ぶアルバムも重要とのこと。両方とも、実際にあったエピソードというよりは創作なのかなとは思う。
他には、定石の逆を行くような音楽の使い方をしたとのこと。
クスリを初めて飲むときには普通なら悲しい曲が流れそうだけど、アッパーな曲にしたとのこと。ちなみにこのレコードは母のコレクションらしい。
クリスティーンの家のドアを閉める時に、モット・ザ・フープルの『シー・ダイバー』をかけるのもこだわりとのこと。
ちなみに、「サントラはSpotifyにありますよ」とのことでした。

監督の過去作でジョイ・ディヴィジョンについてあつかった映画があるとのことだけど、また音楽映画撮りたいですか?という質問には「never!」と答えていた。

次作は日本の写真家の話らしい。リサーチに3年かけていて、愛と芸術はどのように生まれ滅びるかというラブストーリーらしい。それで、今回の監督の滞在も長くなっているのだろうか。

監督はInstagramに東京の、主に渋谷の風景を写真や動画であげてくれていたけれど、そのすべてが、当たり前だけどプロの映画監督ってすごいなと思ううまさ。見慣れた風景が映画や写真集のよう。
監督はそれをジャック・ロウデンに送っていたらしく、そのお返しのように今回、来日は叶わなかった彼からのビデオメッセージが届いていた。2分ほどの長さの中に、彼のなんとかおもしろくしてやろうみたいのおちゃらけと、茶目っ気を感じるスペシャルな動画だった。何より彼が日本にファンがいることを認識し、日本のファン向けにこんな風なメッセージをくれたことが嬉しい。
監督が日本びいきでよかったし、監督とジャック・ロウデンが友達で良かった。嬉しいサプライズをありがとうございました。



図書館から稀少本を盗み出そうとする若者たちの話。実話。普通、実話を元に…というクレジットが出ますが、本作は元にではなく実話というクレジットになっている(This is Not Based On a True Story.のNot Based Onの部分の文字が消される)。

本を四人で盗み出すのかと思っていたし、実際そうではあるけれど、メインは二人である。ウォーレン役にエヴァン・ピーターズ、スペンサー役にバリー・コーガン。

監督のバート・レイトンは本作が初の長編ドラマ作品とのこと。

以下、ネタバレです。









実話で実際の犯人たちが出てくるという話は聞いていた。ただ、どんな出演の仕方なのかはわからなかったのだが、少し変わった作りになっていた。
役者さんが演じる普通のドラマのようにして始まるのだけれど、急に、その部分を回想するリアルなご本人と俳優が入れ替わる。いわば、当時の話の振り返りと、再現VTRの中では本物の役者さんが演じていて…という形式である。
バート・レイトン監督はドキュメンタリー作品を多く作っている方らしいので納得だ。
最初にご両親がこんなはずでは…という感じに泣いたり、絶望したりしていたから、計画は失敗するのだろうということはわかっていた。

きっかけはもちろん金というところもあるけれど、それよりは退屈な日常が変わるのではないかという期待をこめてのことだったようだ。全員犯罪初心者だし、計画を聞いていても首を傾げてしまう部分が多かった。
でも計画を立てている様子は楽しそうだった。ウォーレンが出してくる計画はほぼ夢物語で、でもウォーレンはそれが叶うと思っているようだった。まるで、将来の夢について熱く語る若者のようだった。
またスペンサーは芸術家だからイラスト(地図)を書いたり図書館の見取り図の模型を作っていた。ウォーレンが模型に触ると、「触らないで」と怒るなど、自分の作品だと思っている節もありそうだった。

『アイ,トーニャ』も、過去の出来事を現在から振り返る形式だった。もちろん、両方とも役者さんが演じているのだが、記憶が曖昧な部分で思い出す人によって回想の映像が変わるというシーンがあって、本作でもその手法が使われていて、楽しかった。記憶は曖昧になるものである。

計画を立てているときに、オーシャンズシリーズのように、スマートに華麗に本を盗み出す妄想が流れた。本の管理をしている司書の女性に「よろしくお願いします」と握手がてらスタンガンをびりびり。もう、本当に流れるようだった。女性はばったりと倒れ、そのうちに本を盗み出す。
私はオーシャンズシリーズは『オーシャンズ8』が初で、観たときに、こんなにうまくいくわけないのに!と腹を立てたんですが、うまくいく様子を観るシリーズだと言われてしまった。細かいことはいいんだよ方式である。しかし、あれは映画、本作は実話なのだ。当然、オーシャンズシリーズのようにはいかない。

お互いをMr,ピンクなどと呼ぼうという提案をウォーレンが出していたが、これは『レザボア・ドッグス』である。大真面目に映画のように、盗み出せると思っている。でも、映画ではなく実話なのだ。

決行日、四人がそれぞれ老人の変装をするシーンは、普通のケイパーもののようにも見えた。かなり本格的で、成功のヴィジョンが見えた。しかし、普段は一人だけという司書が4人いたということで、計画は延期になる。

実在の4人、特にリアルウォーレンは、最初はにやにやしたり、犯罪を犯したとは思えないほど軽い調子だった。しかし、次第にみんなの表情が曇って、言葉少なになっていく。
特にウォーレンとエリックが思い出していたのは司書の方の悲鳴だろう。スタンガンを当てても気絶をしないから、暴れるところを無理やり縛る。空想と現実との違いについていけなくて、おそらくこの時点で二人とも心が折れていたのではないかと思うが、もう後戻りもできない。地下まで降りても出られないから一階を駆け抜けるとか、階段で本を落とし滑らせるとか、ウォーレンを乗せずに車が出発するとか、場あたり的。当然うまくいくわけがなく、つかまる。

特にウォーレンとエリックは、計画が失敗したことよりも、人を傷つけてしまったことを悔やんでいるようだった。根は優しい子なのだ。犯罪をおかしても、別に悪人ではない。普通の大学生四人である。
映画序盤ではあんなに調子の良かったウォーレン(リアルな方)が自分の行動を振り返って涙を流している様子が印象的だった。
実在の人を交えていくという手法は後半になってより効果的に働いていたと思う。あの時に何を考えてた?を実在の人に聞けるのはなかなかないパターン。序盤は楽しいが、後半は刑務所に入っていることだし、思い出すのもつらいだろう。

この映画で描かれているのは青春の終わりだと思う。けれど、最後に7年の刑期を終えた彼ら(実在のほう)の今何してる?というのを流すことで、青春が終わっても人生は続いていくのだというのがわかりやすい。これも、実在の人を出した効果の一つだと思う。
『天国で、また会おう』では戦争が終わってもそれは人生の一部であり、戦争は通過点でしかないというのがわかった。それと同じように、本作では青春は人生の通過点でしかないのがよくわかった。戦争が終わったらめでたしめでたしと終わる映画とは違う。本作も俳優さんたちしか出てこなくて、捕まった時点で終わったら、ただのボンクラたちの青春映画になってしまう。しかし、彼らはまだ生きている。

そして、実在の司書の方も出てくる。当たり前だが、彼女はウォーレンとエリック以上に怖い思いをしたのだ。彼女の人生の一部分をずたずたにした。傷つけられた人が出てしまった以上、本を盗むという行為はしてはいけなかった。

彼らはそれがわかったようだった。だから、4人別々に、真っ当な人生を送れるように努力している。青春の終わりが人生の終わりではないのだ。
4人はそれがわかっている。4人の今後が明るいものだといいと思う。

リアルスペンサーがガレージのようなものから外に出ると、劇中の4人が乗った車が一瞬見える。それは劇中でも、スペンサーが車窓からリアルスペンサーを見ていて、その時はカメオ的なお遊びかと思っていたが、ラストにちゃんと繋がっていた。うまい。
そして、ガレージを開いたときに受けた光は、結構1日目の決行日に何も盗まずに外に出てきたときと同じだったのではないかと思う。悪いことは何もしなかったという清々しさと、何かを変えたいここから逃げたいと思っていたが、ここも別に悪い場所ではないのではないかと気づき始めた光と同じだと思うのだ。
現に、スペンサーはまだケンタッキー州にいて、そこで鳥の絵を描いているとのこと。彼は、逃げずに同じ場所で、自分の力で何かをつかみ取ろうとしていた。



ジョン・キャラハンという実在の風刺漫画家の自伝を基にした実話。レッドブルのCMっぽい絵柄なんですが、検索をしても出ないのでおそらく別人。
原題は『Don't Worry, He Won't Get Far on Foot』。自伝のタイトルもこれ。追っ手のカウボーイたちが人の乗っていない車椅子を見つけ、「大丈夫だ、彼は遠くには行けない」と言っているという自虐ギャグ。
本作は自伝を読んだロビン・ウィリアムズが映画化を熱望したらしく、20年前には話が出ていたらしい。ジョン・キャラハンと同じく、ロビン・ウィリアムズも同じくアルコール依存症だったそうなので、その面で共感をしたのかもしれない。
しかし、2014年にロビン・ウィリアムズが亡くなってしまい、ガス・ヴァン・サントはそのまま監督をひきついで、2016年に新たにホアキン・フェニックスを主役として作る製作発表が行われたとのこと。

他の出演者はジョナ・ヒル、ルーニー・マーラ、ジャック・ブラック、あとキム・ゴードンも出てきて驚いた。

Netflixで配信中のリッキー・ジャーヴェイス主演の『After Life/アフターライフ』と似ていると思った。

以下、ネタバレです。『After Life/アフターライフ』のネタバレも含みます。







まったく前情報を入れずに観たので、実話なことも知らなかった。
車椅子なのも先天的な病気なのかと思っていた。車椅子の方がくじけそうになりながらも周囲の人の優しさに触れる映画なのかと思っていた。周囲の人たちは無条件で優しいと思っていた。

けれど本作はジョンは交通事故により体が麻痺してしまう。しかも、交通事故の原因が飲酒運転だ。車椅子生活になってからもアルコール摂取がやめられない。アルコール依存症なのだ。酒を飲んでいたことを思い出す描写があるけれど、本当においしそうにお酒を飲んでいた。観ていても飲みたくなってしまうほどだ。車椅子での生活はもちろん描かれているけれど、それよりもアルコール依存症との戦いが主になっているようだった。

車椅子が必要になっても性格は変わらない。むしろ、さらにひねくれる。しかし卑下というよりは、もともとの皮肉っぽい性格が増幅しているようだった。
しかし、ジョンの目から見たら幸福そうに見える周囲の人たちも、様々な悩み……悩みというには生ぬるいものを抱えていた。彼らと交流したり優しくされるうちに、自分の今までのひどい態度を反省して、過去に関わりのあった人に謝罪し、許していく。

ジョンに関しては自動車事故が一つの転機なったけれど、『After Life/アフター・ライフ』のトニーは妻の死をきっかけにする。トニーは意地悪でひねくれている。最愛の妻が亡くなったものだから、止める人もいないし、別にいつ死んでもいいと自暴自棄になっている。
ジョンは自殺願望はないようだった。自暴自棄とも違う。けれど、ジョンにしても、トニー にしても、周囲に優しい人たちがいて、寄り添っている。本人たちは気づくのが遅れるが、後からちゃんとそれに気づき、自らの行動を振り返ろうと、優しい人々の元に訪ねていくあたりが似ていた。ジョンにしても、トニー にしても、嫌な奴でもあるとは思うが、根はいい人なのだ。

本作では周囲の人物の中でもキーマンになっているのがジョナ・ヒル演じるドニー だった。アルコール依存症を克服する団体を作っている。自らもアルコール依存症で、HIVを患っている。祖父母の代から金持ちで、団体の中で何人かに小さなグループを作らせて、特別なプログラムで依存症から立ち直らせようと援助金を出しているようだった。

老子を読んでいる影響なのか、ジョンにも教えを説いていて、師匠のようだった。華美な家に住んでいて、髪も長いので人間離れして見えたが、後半で個人的な出来事も語っていて、普通の人間なのだとわかる。個人的なエピソードを語るシーンはジョナ・ヒルが付け加えたアドリブらしいのが素晴らしい。

もう一人のキーマンがジャック・ブラック演じるデクスターで、自動車事故は彼とジョンが泥酔して起こしたものだった。しかも、彼自身はかすり傷だという。
運転していたのはデクスター だし、元々、遊びに行こうと声をかけたのも デクスターだった。しかも、軽傷ということで、それは恨んでしまうだろうし、妬みも感じると思う。しかし、ジョンだって、その前から酒を飲みながら車を運転していた。女性二人を乗せていたが、あの場で事故に遭ってもおかしくなかったのだ。それを思ったのか、ジョンは デクスターを許す。見舞いに来はしなかったが、自ら会いに行く。
当たり前だけれど、怪我を負わせた側もずっとそのことを考えていたのだ。人生は最悪だったと言っていた。体に障害は残らずとも、ずっと負い目を感じて生きていたのだ。ジョンのほうが開き直ってすっきりしていたようだった。
ジャック・ブラックは事故までの泥酔シーンも悪友としてうまかったが、この再会シーンも本当にうまかった。

自分を捨てた母など周囲の人々を許し、それから、自分も許してやることが大切だとドニーは言った。周囲を許しても、結局すべては自分のせい、となってしまっては元も子もない。起こったことは起こったことで、誰のせいでもないのだ。

ジョンは街を電動車椅子で爆走していて、その様子は清々しいほどだった。ガス・ヴァン・サントは実際にジョンが爆走しているのを見かけたという。本当にあの調子で駆け抜けていたらしい。

映画内で電動車椅子を最初にあてがわれるシーンも良かった。ジョンの表情は未来を手に入れたといった感じにきらきらと輝いていた。
麻痺をしていても、家に閉じこもるわけではなく、フットワークが軽いのだ。

爆走しているから横に倒れてしまうが、スケボー少年たちに起こしてもらっていた。ちょっと悪そうな子たちだからいじめられたりしたらどうしようとも思ったが優しい。何度転んでも周囲に助けてもらえるのだから、周囲に感謝の気持ちは忘れずに、でも好きにやろうという彼の人生が集約されているようだった。


ピカチュウの声がライアン・レイノルズで実写の動きが予告など観てもとても可愛かった。
監督は『モンスターVSエイリアン』、『シャーク・テイル』のロブ・レターマン。
ビル・ナイ、渡辺謙も出ています。

以下、ネタバレです。













私はポケモンシリーズをまったく触っておらず、唯一やったのがポケモンGOなので、ポケモン知識がそれのみです。またポケモンGOについても、レイドが始まる前にやめてしまったため、バトルはほとんどしたことがなく、収集のみでした。アニメも見てません。なので、ほぼポケモンのことを知らないのと、原作といわれている『名探偵ピカチュウ』についてもまったく知りません。なので、まず、探偵要素がない…と思ってしまった。元のゲームで探偵要素があるのかないのかわからない。

あと、ポケモンをやっている人はポケモンと一緒の生活に憧れて、映像化されていることに感動をしたり、ライムシティに住みたいと思うみたいだけどその感情もわかなかったのは、ポケモンに特に愛着を持っていない私が悪いのだと思う。

ピカチュウの愛らしさは予告などの通りで、動きはどれも可愛く、でもライアン・レイノルズなので喋りまくり、字幕を読んでると動きが見られないのでもどかしい思いをした。特に顔にシワが寄りがちなところが可愛かった。ポケモンの歌(こるも実際にある歌なのかは私にはわからず)を歌って、無理やり自分を鼓舞するシーンが可愛かった。元気の出る歌詞なのに顔は苦しそうという。ガッツポーズも出ていたけれど、鼓舞しきれていない様子が可愛かった。
水に濡れると質感が濡れた毛布みたいになるのも可愛い。
でも、これ、テッド的なこの黒ピカチュウと少年がバディになるまでの話ではないんですね。
この若干口の悪いピカチュウの中身はお父さんだったという…。
思っていたのと違うから納得ができないというのは、作り手と意見が合わなかったということで、私が悪い。でも、この、ピカチュウの中身がおっさんだったら面白くない?というところが、本当におっさんである=ライアン・レイノルズがピカチュウの中の人だったというのは本末転倒というか、どうなんだろうと思ってしまった。それとは別に、ライアン・レイノルズご本人の姿が見られたのは嬉しかったです。

あと、エンドロールでポケモンアニメ絵(原作絵?)の渡辺謙とビル・ナイが見られたのは嬉しかった。


ジェラルド・バトラーの潜水艦映画。ゲイリー・オールドマンにはエンドロールを見るまで気づきませんでした。
ノーマークだったけれど、流行っているので観に行ったところ、『バトルシップ』枠だった。

以下、ネタバレです。








潜水艦映画とだけ聞いていた時には時代が第二次世界大戦あたりかと思っていたのですが、はっきりはしないけれど、どうやら現代らしかった。
アメリカが敵をロシアに設定していて、冷戦時代っぽくもあるが、ソ連ではなかった。現代で敵を大丈夫なのかなと思いながら観ていた。
ロシアから攻撃を受けて撃沈された潜水艦についての調査をしに、別の潜水艦が出かけていく。また、特殊部隊4人もヘリでロシアに忍び込むので、二面作戦になっている。

ロシアの大統領命令ではなく、国防相のクーデターだということがわかる。ロシアが敵ではなく、一部が暴走しているだけだったのでほっとした。それでも、アメリカとロシアは敵対はしているし、ロシアの大統領を救うのは気にくわないとは言っていた。

ただ、ロシアの潜水艦に残されていた艦長を救って、最初は捕虜にしていたけれど、そのうちに信頼関係が芽生えてくるのは良かった。呉越同舟が好きなので、こいつは本当に信用できるのか、騙されてはいないかといったあたりから、最初は嫌々協力していたものの、関係が対等になって、絆が芽生える様子が良かった。
狭い潜水艦だし緊張感も増す。誰か一人でも裏切ったら大変なことになるという状況である。その中で、アメリカの艦長はロシアの艦長を信用し、部下たちは艦長を信用する。
ロシアという国全体ではなく、悪い人が絶対的な悪として置いてあり、そいつの暴走を止める(殺す)という目標に向かって、その他がいかに信頼関係を築きつつ、一丸となれるかというのが主題になっているのかなと思った。
ただ、あまり裏切るかも?とは思わなかった。機雷原をロシアの艦長の言葉を頼りに行くシーンは、機雷原や音を出してはいけないゾーン(潜水艦の中の会話も音として漏れるらしく、全員が息をひそめる。レンチを落として拾うシーンなどもある。『クワイエット・プレイス』っぽい)などにひやひやはしたが、ロシアの艦長が嘘をついているというひやひやはなかった。

ちょっと万能すぎるとも思ったけれど、艦長にしても大統領にしても、国ではなく個々人を見ればいい人もいるのだから対話をしていきましょうということなのかもしれない。

特殊部隊も四人きりなのに万能だった。もちろんロシアに潜入するくらいだしやり手の人らが選ばれたということだとは思いますが、それにしても万能。
殺されかけたロシアの要人を案内役にしたり、負傷した若造が遠くからスナイパーよろしく確実に狙ってピンチを救ったり、最後にはその若造をリーダーが助けに行ったりと、彼らの間でも信頼関係が肝になっているようだった。

潜水艦映画というと狭い空間だけのことかと思うけれど、特殊部隊の活躍もあるから外でのドンパチもあるし、駆逐艦が上から潜水艦を狙ったりと、派手なシーンも多いので映画館向け。



原題『Stan & Ollie』。BAFTAにていくつかノミネートをされていましたが、日本公開はないと思っていたら、気づきにくいタイトルで公開されていた。実在のコメディアンコンビ、ローレル&ハーディの話。スタン・ローレル役にスティーヴ・クーガン、オリヴァー・ハーディ役にジョン・C・ライリー。
このコメディアンコンビについてはまったく知らなかったのですが、楽しめました。
監督は『フィルス』のジョン・S・ベアード。

以下、ネタバレです。








1937年、彼らがまだまだ好調だったあたりから映画が始まる。ぺらぺらととりとめのない話をしながら撮影所の中を歩いていく二人にカメラがついていく。長回しなのか、その時点で二人の息が合っている名コンビっぷりがよくわかる。そして、16年後の1953年に時代が移る。

二人も年を取っているし、新しいコメディアンは出てくるし、テレビができたのでみんな劇場に足を運ばなくなり、人気が下火になっている。そんな時代の話だった。

二人が舞台に立つシーンは本当に二人の舞台を見ているようで、スティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリーであることを忘れてしまった。しかもこの二人は日常からコントをやっているようで、映画自体がコメディータッチになっている。
ホテルにチェックインするシーンと電車に乗り遅れそうになるシーンは、二人が意図してコントをやってるのか(奥さん方を迎え入れるところは意図したコントだったけど)、日常生活を映画内でコメディータッチにしてるのかわからなかった。

どちらにしても、ステージのシーンも日常のシーンも、このスティーヴ・クーガンとジョン・C・ライリーの二人が本物のコンビ、しかも長く活動している息の合ったコンビにしか見えない。演技の上手さに舌を巻いた。演技が上手いだけではなく芸達者である。

また、この二人の奥さんコンビ、シャーリー・ヘンダーソンとニナ・アリアンダのやりとりもコントっぽくなっていた。軽妙さが楽しい。

スタンの脚本がプロデューサーに受け入れてもらえず、映画をやりたいのにできないとか、二人が言い合いの喧嘩をしても、何もわかってない市長他の人々がコントをやっているのかと思って「ブラボー!」などと囃し立てるシーンは、コメディアンの悲哀を感じた。二人は変わらなくても世間とのズレが生じてくるセンチメンタルのようなものを感じた。この物悲しさは、少し『フィルス』にも似ている。

オリヴァーは心臓発作で倒れてしまう。そこからスタンは違う人とコンビを組もうとするがうまくできなかったり、結局、病床に寄り添ってあげていて、友情を感じた。
言い合いをしていたので、このまま別れ別れになって死んでしまったらどうしようかと思ったけれど、そんなコンビではないのだ。あっという間に仲直りをする。
スタンにしても、ここまで何十年も一緒にやってきて、ここにきて相方が倒れて違う人と組むなどできないのだろう。今更である。

最後のステージの時は、スタンの気遣いの表情と、つらそうでも楽しくて仕方ないというオリヴァーの表情、二人のやりきった達成感などすべてが感じられた。
時代の終わりは寂しいものだけれど、必ず終わる時がくる。彼らには後悔がなさそうだった。

57年にオリヴァーが亡くなって、スタンは65年に亡くなったらしく、そこまで長くは生きなかったようだ。それにオリヴァーが亡くなった後も、他にコンビも組まなかったという。

描かれているのは晩年の巡業についてなのだが、この二人の間にしか芽生えていない絆、歩んできた道などが全部見える演技が良かった。
また、ステージのシーンも多いので、古き良きコメディーの舞台を観たような気持ちにもなる。爆笑といった感じではないが、可笑しいし、笑ってしまう。古典的ではあっても、それは心が温かくなるような笑いだった。

原題が『ローレル&ハーディ』というコンビ名ではなく名前のほうの『スタン&オリー』になっているのがとても良いなと思います。


MCU22作目。今回で最後とのこと。
もちろん『インフィニティー・ウォー』の直接的な続編ですが、『アイアンマン』から続く一連のMCUすべての作品の集大成になっていた。

以下、ネタバレです。








MCU作品は増え続け、それに伴いアベンジャーズも増えて、キャラの交通整理力が試されるところですが、今回はサノスの指パッチンで消された人たちを救うための戦いなので、残っているヒーローたちの活躍が主である。人数が減っているので、多少、交通整理も楽なのかな…と考えると、もしかしてルッソ兄弟がサノスなのでは…とも考えてしまう。

『インフィニティー・ウォー』の時にはそこまで意識していなかったと思うんですが、残ったのはアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ブラック・ウィドウ、ソー、ハルクということできれいに初期メンバーは残っていた。前回は場所がいくつかに別れていたので、わからなかったのかもしれない。本作で集合して初めて気がついた。宇宙組がアイアンマンとネビュラ、キャップのほうにはウォーマシーンとロケットとポッツがいる。また、キャプテン・マーベルとアントマン、ホークアイも加わる。

サノスは人類を半分にした後、自分は農業をやりながら自給自足で暮らしていた。少しのどかにも見えた。ガントレットを奪い、もう一回指パッチンをして消された人たちを戻そうと、ヒーローたちはサノスの元に乗り込むんですが、サノスはもうインフィニティストーンを消してしまっていた。
サノスの元に乗り込むのも序盤すぎてびっくりしたが、そこで、ソーが怒りのあまりサノスの首を切って殺してしまうのもびっくりした。え? じゃあこれ、なんの映画なの?と思っていたら、5年後に飛ぶ。まさか、人類の半分が消えてから5年も経過するとは思わなかったからここもびっくりした。

そして、量子世界に閉じ込められていたスコット・ラングが現れて、タイムマシン作戦を敢行することになる。過去に戻ってインフィニティストーンをそもそも奪われないようにする作戦だ。
しかし5年である。スタークはポッツが生きていたから結婚して子供もいる。今は今でそれなりに幸せだから、今の生活を脅かすような危険をおかしてまで過去に戻りたくない。また、ハルクは怒りをコントロールできるようになって、見た目的にもハルクとバナー博士のハイブリッドというか、マーク・ラファロ気味の顔のハルクになる。ソーはすっかり荒れた生活で、アルコールが大好きで(元々好きだったが…)、腹がでっぷりとしている。ソーは途中で格好いいソーに戻るのかと思っていたが、最後までこのままだった。髪も精悍だった短髪ではなく、長髪、しかも洗ってなさそうな長髪…。ポスターやパンフ、グッズ、イベントなどではかっこいいソー、かっこいいクリス・ヘムズワーズなので、ネタバレ対策がされているのが少しおもしろい。
しかし今回、ムジョルニアもキャップが持ててしまうし、いいところをすべてとられている。ハルクとソーは映画の中での面白要員になっていて、これは、『マイティ・ソー バトルロイヤル』で決定づけられた流れなので、タイカ・ワイティティのせいである。私は『バトルロイヤル』も好きだったkらいいのだけれど、
また、新入りのくせにすごく強いせいだと思うが、キャプテン・マーベルは他の星を救いに出かけてしまう。バランスをとるためだろう。

キャップとアイアンマンが出かけて行ったのは一作目の『アベンジャーズ』のラストあたりの世界で、知っているシーンの裏側で実はこんなことが起こっていました!というのが見せてもらえるのがおもしろかった。キャップの尻について言及されているのがおもしろい。ロキも出てくる。
ソーとロケットはソーの母が生きていたあたりのアスガルドへ行く。こちらもロキが出てくるし、ジェーンも出てくる。
ファンサービスが過剰なのだが、元々この作品はファンサービスの多い映画だった。しかし、本作はここまでありがとう!と言われているようにも思えた。こちらこそありがとう…。
ウォーマシーンとネビュラは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のみんな大好き・最高のオープニングのあたりへ。クイルが音楽に合わせて踊っているのがすごくいいシーンだけれど、確かに端から見たらヘッドフォンだし音楽は聞こえないから鼻歌を歌いながら踊っている人にしか見えない。ローディが「アホなのか?」と言っていた。
また、スティーブとトニーは『アベンジャーズ』で失敗をしたのでさらに過去に飛ぶ。1970年代はドラマ『エージェント・カーター』の世界だった。マーベルのドラマで見ていないのもあるけれど、『エージェント・カーター』は好きで見ていたので、出てきて嬉しかった。ハワードの役者はドラマと違ったけれど、ペギー・カーター役はもちろんヘイリー・アトウェルだし、ジャーヴィス役のジェームズ・ダーシーも出てきた。好きなドラマがこんなところでこんな風に出てくるとは思わず、感無量でした。

全部の石を入手できるんですが、石入手の際に多少アクションはあるものの、作戦を立てる時にも全員生身のままだしヒーロー同士がごちゃごちゃ口喧嘩するのが好きなので、そのシーンが多くて良かった。一作目の『アベンジャーズ』もそうでしたが、人数が多いせいか個性が強いのか、顔を合わせりゃ口喧嘩ということが多かったし、本作でもそうだった。

なんとかガントレットを作り直して指パッチンをして人類の消えてしまった半分を戻すが、次の瞬間、サノスが攻め入ってくる。絶体絶命かと思いきや、消えてしまったメンバーが軍隊を引き連れて現れる。もうすごい人数で、助けに来てくれたことも嬉しいし、ああ、あの人もいる…この人もいる…と知った顔がたくさん見て取れるのに感動。
ここでのキャップの「アベンジャーズ…アッセンブル」も元気がいいというよりは、重みを持った言い方だった。11年のすべてがそこに集約されている感じがした。
ここから先は目が忙しく、画面の中で誰を見ていいかわからないくらいになるんですが、喋りまくるピーター・パーカーが可愛かった。「こんにちは! 初めまして!」と自己紹介していた。背中から足(アームらしい)がびゅんびゅん出る即死モードも恰好良かった。『ファー・フロム・ホーム』でも見られるんでしょうか。
女性ヒーローばかりが集められたシーンも恰好良かった。勢揃いすると圧巻だし、11年前には考えられなかったこと。時代が確実に変わっている。そして、時代を変えるのにMCUが一役買っていたのだ。

結局、決着をつけるのはアイアンマンであの、一作目『アイアンマン』のラストの名セリフ「I am Ironman.」で締め。ここでこのセリフが出てくるとは思わなかったので泣いてしまった。サノスたちを消せたものの、指パッチンの力に耐えられずに死んでしまう。
相変わらずピーターは早口だけれど、「スタークさん!」と言っていたのに最後は「トニー…」と言っていて、悲しみがにじみ出ていた。

タイムトラベルをして石を元に戻しに行く役割を担ったキャップは、帰ってくると、老いたスティーブになっていた。「普通の人生を生きてみたくなった」と言っていた。それは、キャプテン・アメリカとして生きなくてはいけないスティーヴ・ロジャースの気持ちだけれど、クリス・エヴァンスの気持ちでもある。
ロバート・ダウニー・Jr.の俳優としての復活がトニー・スタークの人生と似ていることもよく言われるが、クリス・エヴァンスも同じなのだ。彼は本作でキャップを演じるのが最後とはだいぶ前から言っていた。キャプテン・アメリカのイメージが付き過ぎて他の役ができないのと、いつでも正しいことをするのが求められるということだった。
スティーブは薬指に指輪をしていた。過去で結婚したのが示唆され、ペギーと踊っているシーンで映画が終了する。とても美しいシーンだった。
もちろん『アベンジャーズ』シリーズのラストでもあるけれど、個人的には『エージェント・カーター』のラストでもあると思った。ドラマはS2で終了。中途半端なところだったけれど、これでやっとあきらめがついた。とはいえ、いつでも続きをやってくれるのを待っています…。

風呂敷はちゃんと畳まれた。ここまで楽しませてくれてありがとうございました。最高のラストだった。
とはいえ、まだ続く部分もある。
帰って来た老いたスティーブの近くにいたバッキーとサムでドラマをやるのも楽しみ。ソーはラストでGotGメンバーの乗る宇宙船に乗り込んでいたが、このままいくとGotG3に出て来てしまいそうだけどどうするのだろう。
そして、『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』にはトニー・スタークが出てこないのがとても寂しい。





原題『Boy Erased』。タイトル通り、オープニングでタイトルを構成している文字が消えていっていた。
監督は『ザ・ギフト』も良かったジョエル・エガートン。もう俳優だけに留めておくのは勿体ないくらい今回も良かった。ちょっとトリッキーなカメラワークも所々に見られました。本作でも俳優としても出演している。
今回が初主演というのが少し意外だったルーカス・ヘッジズ。父母役にラッセル・クロウとニコール・キッドマン。グザヴィエ・ドラン、ジョー・アルウィンも出ています。
『ビューティフル・ボーイ』でも驚いたが、本作も同じく実話だった。実在の父がラッセル・クロウと似ていてびっくりした。

以下、ネタバレです。











予告編を見る限り、同性愛者を矯正する施設に入れられた青年と両親の親子の話ということで、少し『ビューティフル・ボーイ』にも似ているのかとも思っていた。けれど、本作は予告編にない要素としてキリスト教の信仰の話も関わってきていた。
つまり、『ビューティフル・ボーイ』が離婚はしていても、息子を大切に想う両親の話だったのに対して、本作は信仰と性的嗜好と息子への愛が合わさって、より複雑になっている。
しかし、私は無宗教だし、信仰に関しては感覚的にはわからないので100パーセント理解できたわけではないと思う。

実話で本作の主人公であるジャレッドはニューヨークタイムズ紙に矯正施設の内部暴露を寄稿したとのことだけれど、アメリカには未だに矯正施設があり、70万人がそこに入れられているという。
映画を見る限り、キリスト教関連の施設のようだったが、そこにいるサイクスはキリスト教徒なのかもわからないし、カウンセラーの資格も持っていないようだった。
人のセクシャリティが矯正できるものではないのは、普通に考えればわかることだが、私の普通と、映画内(というか、実話なので実在でもある)の人々の普通が違うようだ。一応、聖書を使ってだけど叩いていたし、「悪魔よ、去れ」などと言っていたけれど、要は暴力によって抑圧されていた。
収容されている若者たちも実態がわかっているから、その施設から出るために自分に嘘をつく。異性愛者になったと見せかける。
しかし、ジャレッドは自分に嘘がつけない。母親の理解を得て迎えにきてもらい、施設を抜けて暴露本を出すことになるのだ。
でも、そううまくはいかない若者は、結局、嘘をついて施設を出たところで、隠れて生きて悩むことになる。施設の中で偽ることも逃げ出すことも両親の理解を得ることもできなかった若者は、自殺をすることになってしまう。自殺率も高いのだそうだ。当たり前だ。隔離された場所で自分を否定されるのだから。

ジャレッドが同性愛者であることが両親に知られた時に、母親は何も言わずに、面倒は起こさないでという顔をしてジャレッドを見つめていた。母親もまた、キリスト教の家父長制の中で抑圧されていたのだ。
日中は施設に入っている息子を抱きしめるシーンがあるが、後ろ向きの母の表情が見えずに、鏡に映し出されているのがおもしろかった。母の迷いがうかがえるカメラワークだった。
息子が施設から助けを求める電話をかけてきて迎えに来た時、施設の人間を「恥を知りなさい!」と罵倒するが、その後、「私もね…」とぽつりと言って、自分が間違えていたと即座に認めるシーンに泣いた。ニコール・キッドマンがうまい。
彼女は信仰を捨てたわけではないと言っていた。十字架のネックレスも着けたままだった。でも、教会に行く回数は減ったと言っていたし、父親の考え方ともズレが生じていたようだった。

途中で、神はどこかにいて崇拝するものではなく、自分の心の中にいるという話が出てきていた。もしかしたら、母はこの考え方になったのかもしれない。それに、女性として抑圧されているのは、同性愛者として抑圧されている息子と同じだと思ったのかもしれない。弱い立場であることは変わらない。
キリスト教の中でも宗派はあるのだと思うけれど、それを変えることなく、考え方だけを変えることができるのかは不明。
神への愛よりも息子への愛をとったという単純な話でもないのではないかと思うけれど、そこもわからない。

父親が牧師であり、地域で説教をする立場でもあるようなので、「複雑」だと言われていた。ジャレッドは「僕は変えることができないんだから、父さんが変わらなきゃいけない。そうしないと親子関係が破綻する」というようなことを言っていたけれど、変えることができることなのかもわからない。でも、もしかしたら父親の中には信仰だけではなく、世間体や上下関係も気にしているのかもしれないとも思った。その辺りは変えられるのではないかと思う。

両親役のニコール・キッドマンとラッセル・クロウはとてもうまいんですが、施設にいる抑圧する立場のサイクス役のジョエル・エガートンもうまかった。監督でもあるけれど、この嫌な奴役を自らやるのだなと思った。この人も実在人物らしいのだが、現在は夫と暮らしているのだという。ホモフォビアがホモセクシュアルであるというのはよく聞く話ではあるがここでも出てきた。それならなんで…とも思うけれど、本人もよくわかってないんだろう。

施設にいるジョンは握手の代わりに敬礼をしていて、ジャレッドが理由を聞くと、接触を避けるためだと言っていた。彼は、自分を偽るのがとてもうまくジャレッドとは逆方向に強い人間だった。自分の置かれた状況を把握して、楽に生きるために自分で自分を抑圧しているかのようだった。でも、その人生の虚しさに気づいているのだろうか。今は偽ることに慣れて、気づいていないのではないかと思ってしまう。そのうち、何のために生きているのかわからなくなって、他の若者と同様に自殺してしまいそう。ジャレッドの行動を見て、彼自身の中に何か変化があればいいと思った。
演じているのはグザヴィエ・ドラン。この人物も実在するのかは不明だが、彼自身同性愛者だし怒りを持って演じていたのだと思う。そのせいでとても濃いキャラになっていた。彼のスピンオフのようなものも見てみたい。

また、そこが主題ではないから少ないのだけれど、ジャレッドのラブ描写がとても素敵だった。
途中までのヘンリーは視線の絡み方と自然に肩を組んでくるあたりとか、二段ベッドの上で寝ているけれど眠れていない様子が下まで伝わってくるなどドキドキした。でもレイプは駄目です。きっと、もっと丁寧に育めばお付き合いできたのではないか。
演じているのはジョー・アルウィン。『女王陛下のお気に入り』、『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』と最近よく出てくるがどうにも女性の影に隠れていたり情けなかったりと脇役な雰囲気が否めない。もっと誰も文句が言えないような超絶イケメン役が見たい。

また、キリスト教徒でありながら、新時代のというか、神について新しい独自の解釈(この辺も詳しいことはよくわからない。キリスト教徒でもないのかもしれない)をしている芸術家のゼイヴィアとのエピソードも好きでした。やはり何も言わずに視線が絡む。ベッドの上で向かい合って手を繋いで寝るという、もう夢の中のような出来事に見えた。暴力的に踏みにじられたあとだし、より優しさが際立つ。
こちらは演じているのはセオドア・ペレリン。『たかが世界の終わり』に出ていたらしい。少し、リズ・アーメッドにも似ている。

ジョンとの間にもほのかに愛が生まれそうだった。ジョンはやはり自分を抑圧していたけれど。ジョエル・エガートン監督には今度はラブストーリーも撮ってもらいたい。

『シャザム!』



監督はデヴィッド・F・サンドバーグ。
中身が子供のまま大人の姿のヒーローになっちゃって?ということで、大人役がザッカリー・リーヴァイ 、子供役がアッシャー・エンジェル(『ゲーム・オブ・スローンズ』のアリア・スタークに似ている)。
日本の宣伝の仕方が問題になってるし、私も問題だと思うけど、このネタバレのない予告を採用してくれた時点でいい仕事をしてくれたと思う。

以下、ネタバレです。







そもそも、ネタバレがあるタイプの映画だとは思わなかった。もっと軽く、さらっと見られるタイプかと思っていた。かといって、別に重いというわけではないです。ヒーロー物というより、家族物だった。しかも、疑似家族物であり、この要素については、予告にまったく出てこなかったので驚いた。

ピュアな心を持つ子供が魔術師の元に呼ばれてシャザムの力を引き継ぐのですが、本作のシャザムになるビリーの前にも何人も呼ばれていて、選ばれなかったことに嫉妬したサデウス(マーク・ストロング)が本作のヴィランとなる。
呼ばれた人たちは、「ハリーポッターのような魔術師が…」と言っていて、ハリーポッターは存在する世界なんだと思ったし、異世界らしき場所にいろんな人が連れて行かれることはそれほど変なことでもないようだった。世界観がいまいちよくわからない。

サデウスは子供の頃から父と兄に馬鹿にされているようだった。母も出てこないので存在しているのかはわからないが、家族に恵まれていない。
対するビリーも幼い頃に母とはぐれて以来、いろんな家に養子に出されては家出を繰り返して母を探していた。新しく行った家は子供がすでに五人いてその全員が個性的。お喋りな末っ子ダーラ、ゲーム好きのユージーン、太っていて無口なペドロ、ヒーロー好きで足が悪いフレディ、大学進学を目指す姉のメアリー。
彼らは人種もそれぞれで(夫婦も違う)、彼らが助け合いながら暮らしているのは、多様性なども示していたのかもしれない。その他にもちょっとした役でいろんな人種の俳優が使われていたと思う。

ヒーロー好きのフレディは同じ年くらいでビリーと同室なのだが、スーパーマンとかバットマンの話をしていて、さすがにマーベルヒーローの話は出てこないけど、ある意味メタなのかなと思いながら観ていた。
ビリーは異世界に連れて行かれ、若干ひきつつ、半笑いのまま契約をしてしまう。

元の世界に戻ると、コスプレか!と馬鹿にされて、別にヒーローが一般的ではない世界だということがわかる。戻り方もわからないし、肩身の狭い思いをしながら町を歩いて、でも家には戻れない。あたふたしながらフレディにだけ連絡をとり、姿を見せる。
このシーンがほとんどアドリブだったらしいのがおもしろい。演じているのはザッカリー・リヴァイなのに、子供が二人いるようにしか見えない。無邪気さが可愛いかった。中身が子供のままなのがよくわかるのはやはり演技がうまいのだと思う。
姿が大人だからビールもID無しで買えてしまうんですが、味覚も子供のままらしく、まずくてフレディと同じ動きでビールを吐き出す。代わりにスナックを買い込む。
フレディはサイドキックのような役割。ヒーローオタクなので、シャザムにどんなパワーがあるかを大喜びで解明しながら動画をインターネットに投稿する。
路上で歌いながらスーパーパワーを使って小銭を稼いでいて、その不意に手に入れたパワーを気軽に使っちゃう様子が好きでした。アニメの『時をかける少女』の真琴のようだった。
しかし、そのせいで重大事故を起こしてしまう。しかも、助けるほど使いこなせてないから、橋から落ちそうなバスの乗客に向かって、下にマットを引いて、「ここに飛び降りて!」と言っていた。でも格好はいっぱしのヒーローだから、乗客が呆れるという。このあたり、従来のヒーロー映画の展開をひっくり返すようで新しいと思った(ラスト付近の、遠くにいるヴィランの最後の長セリフを聞き取れないシーンも同様)。

しかし、ヴィランは構わずに襲ってきて、一般の人を巻き込まないためにビリーにも少しずつヒーローとしての自覚が芽生える。また、あれだけ探していた母にも実は捨てられたことがわかって、新しい家族との絆にも気づく。血の繋がりがなくてもちゃんと家族なのだ。
仲間…というか、家族の大切さに気づいたビリーと、家族についていい思い出のないサデウスと戦いである。

兄弟たちもシャザムの正体を知り、ヴィランと戦おうとする。シャザム自体も結局ビリーなので、子供たちが力を合わせて悪と戦っているようにしか見えなくなって、従来のヒーローものというよりは、『グーニーズ』のようにも見えてきた。
しかし、兄弟たちにはパワーはないし、フレディは足が悪い。助けたいという気持ちはあっても人質になってしまう。
しかし、ビリーは契約した時に、シャザムのポジションが何人分か空いていることを言われたのを思い出す。そこで、兄弟たちも一緒にシャザム化するのだ!(この時にビリーが「みんな、僕の名前を呼んで!」と言った時に兄弟たちが「ビリー!」って呼ぶのに笑ったが、兄弟たちにはあの姿でもビリーに見えているという証で、ギャグなだけのシーンではないと思う)
兄弟たちにもスーパーパワーが宿るのも予告に出てこなかったのでとても驚いたし、この『パワーレンジャー』のような見た目がアツい。しかも、中身はやっぱり子供のまま。特に末っ子のダーラがサンタさんに「いい子にしてるから来てね!」ってアピールするのが可愛かった。ダーラはスーパーヒーロー姿でも子供でも、どっちも可愛い。
またフレディは自分が飛べると元々信じているからびゅんびゅん飛び回る。

ラストは学校の食堂で孤立してしまっているフレディの元に兄弟たちが来て、シャザムも来る。学校のみんなは口あんぐりなんですが、「友達も呼んだよ」と言って、顔は出ないけど、スーパーマンもやってくる!これにはフレディも口あんぐり。
いまいちスーパーマンやバットマンがどの捉え方をされてる世界なのかわからなかったんですが、UMA的な、いるかいないかわからない伝説の存在みたいな感じなのだろうか。フレディはヒーローのロゴTシャツを着ていたし、スーパーマンに当たったつぶれた銃弾(証明書つき)を持っていた。
エンドロールのおまけでも、シャザムを金魚と話させようとして、アクアマンの能力があるか試そうとしていた。

シャザムがいろいろなDCヒーローと絡む漫画のエンディングも良かった。おちょくりながらも、DC愛とリスペクトを感じた。リスペクトは映画の本編でも感じられました。

原作でどうなのかわからないが、シャザムは、バットマンやスーパーマンに比べるとランク(というのがあるのかもわからないけれど)はだいぶ下だと思う。でも親しみやすさで言ったらピカイチだし、“ヒーローは孤独”という印象を吹っ飛ばしていた。
もしかしたら、兄弟がいても、一人だけスーパーパワーを持っていたら孤立してしまうかもしれない。でも、全員が等しくパワーを持ったことでそれも回避している。

そこまで出番があるわけではなかったが、兄弟全員が好きになってしまった。是非とも、他の兄弟の話も見たいので、続編をお願いしたい。エンドロール後にサデウスに新たな動きがありそうだったので、続編あるかな。本国でもヒットしてるし、高評価のようです。期待してます。

『荒野にて』



アンドリュー・ヘイ監督作品。
主演のチャーリー・プラマーがヴェネチア国際映画祭マルチェロ・マストロヤンニ賞(新人男優賞のようなものらしい)受賞。
2010年の同名小説が原作とのこと。
以下、ネタバレです。









少年と馬が触れ合っているキービジュアルとタイトルから牧場か競馬を題材としているのかと思ったら、少年はトレイラーハウスに女にだらしない父親と二人暮らしで、母親はいないようで…ということで、ホワイトトラッシュが題材だった。そして、ロードムービーでした。

主人公のチャーリーはティーンではありそうだった。しかし、どうやら学校には行かせてもらってないらしい。
そこで、家の近くの厩舎のオーナー、デルの元で働かせてもらう。
明らかにはされないが、借金なのか人間関係なのか(仕事の関係とは言われてたけど本当かなと思ってしまった)わからないが、チャーリーと父親は各所を転々としていて、友達もいないようだった。だから、馬と触れ合い、友達ができたような気持ちになったのかもしれない。馬と触れ合うのも楽しそうだし、お金も貰えるし、働くという行為自体に満足しているようだった。
しかし、ある夜、父親が手を出していた女の夫が家に乗り込んでくる。父親は瀕死の状態で病院へ。やはり父親のせいで、生活が軌道に乗りそうだったところを滅茶苦茶にされる。

父親が入院をして一安心。また競馬関連で働くのを再開し、騎手の女性ボニーとも友達のようになる。デルにしてもボニーにしても、どこかはぐれ者のようなところがあるようだったが、それ故に、孤独な魂同士が寄り添い合うというか、決して仲良しというわけではなくても、どこかでわかり合っているようないい関係を築いていた。
しかし、これも上向きそうなところで父親が死んでしまう。あんな父親でもチャーリーにとっては唯一の肉親だし、あんな父親と思っているのは観賞している私たちで、チャーリー自身は子供の頃から接しているからなのか、そこまで酷い奴だとは思っていなさそうだった。

これでチャーリーは天涯孤独になってしまう。しかも、心を通わせた(とチャーリーは思っている)馬のピートは高齢のため、レースに負けて売られてしまう危機。
ボニーにも競走馬はペットじゃないと言われていたけれど、それもよくわかる。商売道具である。愛してしまえば別れづらくなるだけだ。
でも、チャーリーにとってはやっとできた友達だから、そう簡単に手放し別れることはできないのだ。

チャーリーは父親が死んだことで、悲しくはあるけれど、やっと自由にもなったのだ。それで、馬主の車を盗み、ピートを連れ出す。
途中で車は壊れてしまい、何もない広大な大地を馬を引きながら歩く様子はポエティックにも見えた。
荒野の中にあるトレイラーハウスで、いいようにこき使われる女性に「君はなんで逃げないの?」とチャーリーは聞いていた。かつての自分の姿にも見えたのかもしれない。でも多分、チャーリーは若くて体力のある男性だからいいけれど、女性はそうもいかないと思う。女性では一人で荒野を歩くわけにもいかない。

途中、車に怯えたピートが逃げ出して車に轢かれてしまう。チャーリーはにとってピートは話し相手だった。もちろん馬なので返答はなく一方的にピートに話しかけていただけだけれど、吐き出すだけでも楽になれるだろうし、おそらく心の拠り所になっていたのだと思う。そのピートすらいなくなってしまった。
ここで警察が来て保護されそうになるし、タイトルが『荒野にて』なので、ここで映画が終わってしまうのかとも思った。けれど、チャーリーはここからも逃げ出す。

更に歩いたチャーリーは、ワイオミング州の町に着く。都市だから炊き出しもやっていて、金を持っていないチャーリーはそこでご飯をもらって食べたりもしていた。「言いたくないがホームレスだ」とホームレスに言われて反発していたが、確かにホームレスなのだ。街にいると、荒野を歩いてきたとか馬と一緒だったとか叔母さんを探しているとかはすべて紛れてしまう。家のない人々は他にもいて、チャーリーもその一部である。

ここまでも万引きやら食い逃げやら犯罪を重ねてきた。しかし、空き巣に入った際は水をもらって洗濯をさせてもらうだけで金品は奪っていなかった。服を盗めば手軽なのにわざわざ洗濯をするのである。悪いことはしない。よくあの父親の元でこんな良い子に育ったものだ。別に身体的な虐待をしていたわけではないからだろうか。
しかし、自分の働いたお金をとられるのには激怒し、バールのようなもので殴っていた。

この後、もしかしたら、ドラッグに手を染めたりと堕ちるところまで堕ちてしまうのではないかと思ったが、『ビューティフル・ボーイ』を最近観たこともあり、そうはならなくてほっとした。
とにかくチャーリーは叔母さんに会いたいという一心なのだ。もう彼には叔母さんしかいない。

叔母さんには無事に再会し、しかも叔母さんは良い人だった。ここでつっぱねられたらどうしようかと思った。でも、もしかしたらチャーリーの周囲にいる大人がロクでもなかっただけで、叔母さんは普通なのかもしれない。
この良い人と喧嘩をしたのだから、父親がいかにひどかったかがわかる。父親は父親である以上、チャーリーを所有する権利を持っていて、叔母さんもどうすることもできなかったのだろう。

「叔母さんと旦那さんさえよければ一週間くらいいさせてくれないか」と言うのも、健気というか、無理やり大人にさせられてしまったというか、10代半ばの天涯孤独の少年が吐くセリフではない。それに対して叔母さんは「いつまでもいてくれていいのよ」と返していた。おそらくこれが普通の大人の反応なのだ。
「学校にも行ける?」と聞いていたので、学校に行けないことは気にしていたようだ。そうすると、父親のことも多少恨んだりもしていたのだろうか。叔母さんとの写真を見て、叔母さんと一緒だったら…と思っていそうだったから、特に父親のことが好きでもなかったのかもしれない。それとも、単に血の繋がりによる愛着だろうか。

最後、チャーリーはピートのことを話して泣いてしまう。叔母さんと再会した時にも、抱きしめられた時にも涙を流していなかった。ここで泣くのか!と思うと、ピートを失ったのは本当にショックだったのだろうと思う。それでも、ショックだったと誰にも言うことはできなかった。聞いてくれる人がいなかったから。今はいる。おそらく、ずっと話したかったのだ。その想いを抱えながら一人で歩いていたのだと思うと苦しくなる。

ラストシーンはオープニングと同じくチャーリーがランニングしているシーンなのだが、最初とはまるで顔つきが違う。オープニングは単純に、やることがないのか体力づくりなのかわからないけど、少し無邪気さすら感じるランニングだった。ラストは、自分のいる状況がまだ信じられない、自分は幸せになってもいいのだろうかと少し迷うような顔をしていた。
この旅がチャーリーに与えたものはあまりにも大きかったのだなと感じた。

チャーリーを演じたのはチャーリー・プラマー。まだ数本しか映画に出ていないようだが、透明感のある瑞々しい演技で、ほぼずっと一人で出ずっぱりだったがもっと演技しているところが見たいと思った。




主演がティモシー・シャラメなので、最初にタイトルを聞いた時にはティモシー・シャラメが美しいという話かと思ったら、薬物中毒の息子を立ち直らせようとする父親と周囲の人物たちの話であり、タイトルはジョン・レノンの曲名だった。
そして、主演ティモシー・シャラメというよりは、父親役のスティーヴ・カレルとのダブル主演となっている。
監督はベルギーのフェリックス・ヴァン・フルーニンゲン。初の英語作品とのこと。

以下、ネタバレです。








情報を入れずに見たので、実話だということも最後まで知らなかった。父親のデヴィッドの書いた回顧録と息子のニックの書いた回顧録、それぞれが元になっていてほとんどリアルな内容とのこと。
序盤からすでにニックは薬物中毒で行方不明になっていて、施設に入れられる。過去の回想が入るので、この更生施設に入るまでの話なのかと思ったが違った。一度施設に入ったらそれでめでたし終了ではないのだ。施設に入ったところで、一時的に断つだけ。大学に行きたいとの言葉を尊重して行かせれば、結局そこでまた摂取してしまう。
この大学の話も過去回想なのかと思って観ていたが違ったのだ。更生施設はあまり意味がない。

デヴィッドはニックを愛してるし、頭もいいと思っているから本人が勉強したいならそれを押さえつけることはしたくない。悩んだ末だったと思うのだ。それでも結局、駄目だった。裏切られる。

少し『君が生きた証』を思い出した。親だから当たり前に子供のことを生まれた時から知っている。でも子供は大人になるほどに自分の意志を持ち、勝手に行動し始める。別々の人間だからコントロールすることなんてできない。
なるべく力になりたいし、正しい方向へ導いてあげたいと思っていても、干渉しすぎると反発もされるし、親から見たら子供でも子供自身は自分で自分をちゃんとコントロールできていると思っている。

ニックが薬物にはまった原因は何とははっきり示されないし、そんなものなのだろうと思う。
両親の離婚の影響はあるのだろうか。子供の頃に離婚したみたいだし、多少はあるのではないかと思ってしまう。性格形成の一端を担っていそうだった。
好きなものがニルヴァーナやデヴィッド・ボウイなどというのも関係あるのだろうか。ニルヴァーナは『Territorial Pissings 』が使われていて、車の中で絶叫して歌っていた。彼の思想を作るものだったのかもしれない。また、エンドロールで彼の好きな詩が朗読されるが、それもまた孤独感が滲み出ているものだった。

最初は大麻から始まって、そのうちに強いドラッグに移行し、最後はクリスタル・メスを使っていると言っていた。
クリスタル・メスを使うと脳の神経が死ぬとか、その副作用についても説明される。かなり詳しく説明されていて、薬物乱用『ダメ。ゼッタイ。』映画でもあるのだろうと思った。子供をオーバードーズで亡くした親たちの会の様子もだ。
このあたり、プランBらしいというか、いい意味での説教くささを感じた。
しかし、ドラッグを使った時の描写も多く、ハイになっているニック、というかティモシー・シャラメがかなり魅力的で、興味もわいてしまうのはどうなのかと思う。
ティモシー・シャラメは体重をかなり落としたらしく、裸だと肋骨が浮き出ていた。
スティーヴ・カレルは先日観た『バイス』とまったく違っていて驚く。『バイス』『フォックスキャッチャー』『バトル・オブ・セクシーズ』あたりは破天荒な役で演技も大袈裟だったりするのだが、今回のような人格者というか、抑えめの演技もできるのが本当に素晴らしい。
もともとはマーク・ウォールバーグとウィル・ポールターだったらしく、そのパターンも観てみたかった。ティモシー・シャラメは美少年すぎて、この人が人生うまくいかないの?と疑問にも思ってしまった。でも、繊細さと弱さはティモシー・シャラメのほうが合っているかもしれない。

ニックはドラッグを断ち切ろうという気持ちもあったようだった。特に、デヴィッドの家で幼い妹と弟と遊んでいる様子は明るくて、このままなら立ち直れそうだと思った。しかし、そう簡単にはいかないようだった。
家から去った後で、デヴィッドが『少し落ち込んでるようでしたね。いつでも相談してください』とメールを送っていた。楽しいことが起これば起こるほど、それが終わった後に一人になった時に耐えられない。それがデヴィッドにはわかっていたようだった。
ニックはあのままデヴィッドの家にいることはできなかったのだろうか。もう自分だけがよそ者という気持ちになってしまったのだろうか。大人なのだし、いつまでも親に甘えてはいけないと思ったのかもしれない。

結局、その帰りに昔、通っていた遊び場に行く。そこに昔の彼女がいるんですね。ここも脚色無しなのだろうか。落ち込んでる時に昔好きだった女の子がいて、ドラッグを進めてきたらやってしまうのは仕方がないと思う。孤独感を紛らわすにはそれしかない。
でも、そこから再び転落していくニックは見ていられなかった。勝手にしろと思ってしまったし、デヴィッドも愛想をつかしていた。
ニックが扉を壊して家に忍び込んだ後には、デヴィッドの新しい妻のカレンが泣きながら追いかけていた。
カレンにとってもニックは息子だし、助けてあげたいという気持ちももちろんあったとは思う。けれど、それよりも、あんたがそんなだと夫はあんたにばっかり構うのよ!という怒りを感じた。個人的にはデヴィッドの親ならではの大きな愛よりも、カレンの怒り混じりの愛のほうに涙が出た。

結局、ニックは過剰摂取でERに搬送され一命を取り留める。その後、現在に至るまで、8年間クリーンなのだそうだ。
映画内でも文才があると言われていたが、Netflix『13の理由』の脚本も2エピソード書いているらしい。

アメリカでは50歳以下の死亡理由の1位がオーバードーズとのこと。日本では違法だし、薬物がそこまで蔓延していないから違うだろう。大麻くらい合法にしてもいいのではないかと思っていたこともあったけれど、ニックの様子を見ていると転げ落ちる原因にはなるのかもしれない。

タイトルの『Beautiful Boy』はデヴィッドが幼いニックに歌う子守唄として使われていた。本作は音楽にも注目していて、ニルヴァーナの『Territorial Pissings 』は納得したけれど、マッシヴ・アタックの『Protection』は私があなたを守るという歌詞なので、歌詞付きでどこかデヴィッドの心情と重ねて使われるのかと思っていたが、違った。そんなセンチメンタルな使われ方ができるほど甘い話ではなく、もっと重く、つらい話だった。『Protection』はニックの部屋で流れていた。ニックはマッシヴ・アタックも好きなんですね。趣味が合う。

好きな音楽と薬物乱用の関係なんぞわかりませんが、日本でももっと薬物が出回っていたら、ここがアメリカだったら、などと考えるともしかしたら私もニックのようになっていたかもしれないとも考えてしまった。


“『ジュラシック・ワールド/炎の王国』『永遠のこどもたち』のスタッフが…”と書いてあったので、J・A・バヨナ周りなのだなとは思っていたけれど、『永遠のこどもたち』の脚本のセルヒオ・G・サンチェスが監督。初監督作とのこと。お屋敷ホラーというか、家を舞台にしたあれこれなので、前述2作の雰囲気が色濃く出ているし、特に『永遠のこどもたち』とは共通点も多々あると思います。
J・A・バヨナはエクゼクティブプロデューサー、他スタッフもスペイン人が多いとのこと。
主演はジョージ・マッケイ。妹役にミア・ゴス。弟がチャーリー・ヒートン。友達役にアニャ・テイラー=ジョイ。

以下、ネタバレです。













怖い家に家族が引っ越してくるところから始まるので、家に取り憑いたゴーストに悩まされるものかと思った。『永遠のこどもたち』もこんなスタートでした。
しかし、母親と四兄妹ということで、父親がいない。話を聞いているとどうやら父親から逃れて来ているようだった。DVかな…と思いながら観ていた。でもそれと別に、怪現象も起こっていた。

序盤はDV(?)から逃れ、母親は病床に伏してはいるものの、兄妹は自由に生活を謳歌していた。近所に住む友達もできた。この友達アリー役にアニャ・テイラー=ジョイ。彼女が演じることで、敵か味方かわからなくなるのもおもしろい。服装なども含めてすごく可愛かった。アームストロングの月面着陸のニュースが流れていたので時代はその辺のようだけれど、服装は特にその辺ということもなく、時代背景もそれほど関わらない。携帯がないから行方をくらませやすいというあたりだろうか。

お屋敷の中で鏡を怖がるとか、異音がして何かがいる気配がするというのはお屋敷ホラーの定番であり、『永遠のこどもたち』でも『ジュラシック・ワールド』でも出てきたもの。カラーをよく受け継いでいた。特に、夜に屋根に登るシーンの空が月明かりでぼんやりとなっている様子はバヨナで観た!と思った。
ゴーストが現れた時に兄妹で砦(と彼らが呼んでいる隠れる場所)の中に入るのは、一番小さい弟を楽しませるための遊びなのかなとも思ってしまった。それは秘密基地のようでもあり、兄妹が身を寄せ合って音楽をかけるのは楽しそうにも見えた。怖がっていたけれど。

母が遺したいわくつきの大金など謎がいろいろあるのですが、途中で、追いかけてきた父親を屋根裏に閉じ込めて殺したという事実が明かされる。それで異音が…とも思ったんですが、どうやら生きているらしいと…。死者よりも生者のほうがよっぽど怖いというのも、バヨナ作品ではよく出てくるテーマ。
兄妹が次々と生きている父と遭遇するのですが、ここで、更に父は、過去に強盗殺人で13人殺しているということが明らかになる。
また、序盤で何者かが銃で窓を割り、急に6ヶ月飛ぶんですが、最初は家を奪いにきた弁護士にしては乱暴だったなくらいに思っていて、途中で、父が来てその時に屋根裏に閉じ込めたと明かされる。しかし、もう一つ隠されている真実がある。6ヶ月前のその日、何が起こったのかが明かされる。

長男のジャックは母親からの教えを守り、兄妹を守ろうとする。しかし、相手は大人で父親といえども容赦ない。崖から落とされてしまう。ジャックの頭に傷があるなとはずっと思っていたけれど、これはその時にできたものだった。
そして、気を失ってる間に兄妹たちは父親に殺されていたという。
考えていたよりも数倍つらい真実だった。怖いことがあっても四人で力を合わせて乗り越えてるんだと思っていたが、ジャックは一人だったのだ。兄妹を守ることができなかったことを悔いたのか、ショックでなのか、一人がつらすぎたのか、ジャックは他の兄妹の人格を自分の中に作り出していた。頻繁に気を失っていたのも、頭痛がするというのもすべて説明がついた。また、鏡を隠していたのも、鏡には一人しか映らないという悲しい理由からだった。

鏡は真実しか映さない。それがいいことなのかどうかというのはラストで結論づけられる。
アリーは、怪我をしていたこともあってジャックを病院へ連れて行くのですが、他の人格を消すための薬はジャックには渡していなかった。だって、渡すと三人が消えてしまう。三人との別れは彼にとって決していいことではない。
世間や医者は他の人格を消せと言うだろうし、惨劇のあった家を出ろと言うだろう。でも、ジャックにとっては思い出の家であり、大切な家族なのだ。そこを理解しているアリーは優しい。

それにこれは、この映画の結論でもある。今回はゴーストというより多重人格として出てきたけれど、ゴーストは決して怖いものではない。ゴーストだとしても、一緒にいられるならそれでいいのではないか。生と死が曖昧になるような結末はある種のファンタジーでもあると思う。『永遠のこどもたち』も同じような結論だった。
生きている人に向かって、あの人は死んだのだから忘れなさい、忘れて前を向いて一人で生きていきなさいと言うのが正しいことなのか。死者と仲良くしたっていいではないか。

アニャ・テイラー=ジョイは多重人格者に優しく接する役ということで『スプリット』で演じた役と似ていた。よくここでキャスティングしたなとは思う。ただ、“普通”とちょっとずれてしまった人に優しく接する役が合っているのかもしれないと思った。

ジョージ・マッケイ、私は『サンシャイン 歌声が響く街』で好きになったんですが、今回は日本で観られる映画の中では主演らしい主演だったと思う。多重人格部分ももちろん含めてですが、とてもうまかった。アリーに恋をしていて自転車でいそいそと出かけていくさまは可愛かったけれど、後から考えると泣けてしまう。ジャックに兄妹以外にも繋がりがある人物がいて良かった。
彼は気弱だけれど優しいという役が多いと思う。今回も、兄妹を守ろうとして守れなくて自分が壊れてしまうという役だった。でも、死んでしまってもなお守るという様子はやはり優しいと思う。
時々、すごく色っぽく見える瞬間があるのも気になる。
どうやらワンカットらしいということが明かされたサム・メンデス監督の第一次世界大戦映画『1917』もたぶん主演なので楽しみ。



『バイス』



アカデミー賞で8部門ノミネート。うち、メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞。主演のクリスチャン・ベイルはどこまでが生身なのかわからない。去年のアカデミー賞主演男優賞をとったゲイリー・オールドマン対して、「本当に太らなくてもいいのか!」と言ったとか言わなかったとかいう冗談もあるくらいで、実際に太ったり痩せたり筋肉をつけたりしている。
スチルで出ている老チェイニーだけかと思ったら、若いチェイニーに関してもクリスチャン・ベイルが演じていた。その姿は太ってはいても、クリスチャン・ベイルだとわかるくらいだった。
老いてからのチェイニーの喋り方はがさがさした小声のようなもので、『ダークナイト』のバットマンの喋り方に似ていた。実際のチェイニーもしわがれ声だったらしい。
また、チェイニーの妻役のエイミー・アダムスも彼女とわかりづらいくらいだったし、サム・ロックウェルの息子ブッシュやスティーヴ・カレルのラムズフェルドも似ていた。
監督は『マネー・ショート 華麗なる大逆転』のアダム・マッケイ。ブラット・ピットのプランB製作。

以下、ネタバレです。







同時多発テロの後の会議の様子からスタート。その時点から暗躍している副大統領の様子がわかる。まさに、“暗躍”なのだ。副大統領なのに、実権を握っていたのがわかる。それは、大統領がブッシュだったから、いいように操っていたのかもしれないけど。
しかし、チェイニーに関しては秘密主義の部分も多いらしく、実話でない部分もあるとのこと。
ご存命の方の映画なのに。本人に許可はとってないのだろう。ご本人が観た感想も知りたいところだ。

そして、過去に戻り、チェイニーの学生時代からスタートする。
『マネー・ショート』の監督ということで、同じようなテンポの良さだったと思う。ぽんぽんとさまざまな事態が進んでいき、セリフも多い。少しぼんやりしているとついていけなくなる。チェイニーのことを少し調べておいても良かったかなと思った。『マネー・ショート』もサブプライムローンに関して、もう少し把握しておいても良かった。

途中、「第一線を退いたチェイニーは、政治と同性愛者でもある娘との間で板挟みになるが娘をとりました。釣りをしながら過ごしています」というような文言と、家族が幸せに暮らしている映像が流れる。いい音楽が流れ、エンドロールが…。めでたしめでたしの風合いである。あそこで終わっていたら、本当に穏やかな余生を送っていたのだろうと思う。

しかし、息子ブッシュに呼び出され、チェイニーは副大統領になる。話している時にも心の声が流れ、どこか馬鹿にしているようだった。こいつなら操れると思ったのだろう。
その先は、大体の流れを知っている、同時多発テロ、よくわからないイラク戦争、その結果、ISISの元になるものが誕生してしまうなど、完全に現代に繋がっている話だし、すべての元凶はここだったのではないかとすら思えてくる。
どうしてよくわからないイラク戦争が始められたのかは、法律を変えるなど大統領に最大の権限を持たせたからで、それも何か聞いたことがある話だし、もうアメリカだけの話でもなくなってくる。地続きで、日本にいても他人事ではない。
ラストには、過去を振り返るトーク番組に出るチェイニーが出てくる。しかし、司会者ではなく、こちらに向かって話しかけてくる。少しでもテロリストの可能性があったら攻撃する、私は悪くない、国民から好かれたければ映画スターにでもなる、と。

エンドロールではフライフィッシングのフライと釣り針が流れる。チェイニーがフライフィッシングが趣味というのもあるけれど、娘の「なんだか魚を騙しているみたい」というセリフがある。国民を騙しているのともかかっているのだと思う。チェイニーがブッシュをのらせるシーンでも、釣りの映像が使われていた。
それだけではなく、フライフィッシングのフライは凝ったものが多いけれど、形が心臓だったりとお遊び要素が感じられた。

お遊び要素といえば、ナレーションの男性が序盤からちょこちょこと出てくるのだが、演じているのはジェシー・プレモンス。普通の生活を送っている普通の市民である。チェイニーのせいで、イラクにも行かされた。「なんでイラクに来ることになったのかわからない」と言っていて、他の兵士たちもきっと同じ気持ちだったのだと思う。市民代表として話しているだけで、チェイニーとの関係は特にないのかなと思いながら見ていたら、終盤、こちらに向かって話している男性が車に轢かれて死んでしまう。そして、心臓の悪いチェイニーに彼の心臓が移植される。
チェイニーが誰かから心臓移植を受けたのかは実話なのかどうかわからない。けれど、ナレーションの男性の正体が終盤で明らかになるのが映画的でおもしろかった。
ただ、これは、市民が犠牲になってチェイニーが生き延びたということの暗喩でもあると思うし、開き直るチェイニーの態度を見ていると、影で誰が死んでいっているかなど、あまり気に留めていなかったのだろうと思う。
兵士はわけがわからないまま戦争に行き、わけがわからないままイラクの民間人が大量に犠牲になった。退役軍人の自殺者も多いと言う。

円になって市民たちに自由に討論させる(と見せかけて世論を誘導する)シーンが出てきますが、エンドロールでもその討論シーンが出てくる。一人が「この映画(『バイス』のこと。メタ)、リベラル臭がする」と意見する。リベラル寄りの人が反論すると「お前の支持したヒラリーは負けたくせに!」と殴りかかり、トランプ支持派とヒラリー支持派がわーわーとやりあう。それに興味なさそうな若い女性が「次の『ワイルド・スピード』楽しみ」と言う。結局は、そのノンポリが一番怖いのだと思う。どちらでも、支持して殴り合うくらいに白熱していたほうがまだいい。ノンポリは流されやすいし、斜に構えていると、気づいたらとんでもないことになってしまう。

もちろん、そんなメッセージではなく、本当に、こんな政治映画もあれば、『ワイルド・スピード』のような娯楽映画もあっていいし、みんな違ってみんないいみたいな意味も含まれているのかもしれないが。


度肝を抜かれた前作から5年、まさかの続編登場。あの内容で続けられる?と思ったけれど、ちゃんと続くし、前作必須の内容だった。
監督はロード&ミラーから『シュレック・フォーエバー』のマイク・ミッチェルに変更されたが脚本に携わってもいるし、テイストは変わらず。

以下、ネタバレです。前作のネタバレも含みます。













前作は兄(実写)が作ったレゴの王国に、妹(実写)のデュプロが攻め込んでくる描写で終わったが、本作はその続きである。
妹のデュプロは主人公の王国をめちゃくちゃにする。映画内でエメットたちは戦争を仕掛けられてあたふたしているが、実写側では妹はただただお兄さんに「一緒に遊んでー」と言っているだけなのだ。

前作は後半で急に実写が出てきて、そういう話だったか!と大層驚いたけれど、今回はそういう話なのがあらかじめわかっている。
つまり、エメットたちに起こっていることは、実写の世界で起こっていることだと認識しながら観られるのがおもしろい。
今回はネタばらしではなく、みんなわかってますよね?という視点で進んでいくから、途中途中に実写が混じる。また、実写が混じらなくても、エメットたちに起こっていることを見れば、実写の兄妹がどんな関係なのかわかるという、めちゃくちゃ凝った構成。前作の内容を知っているということを逆手にとっている。ストーリー的に前作の続きだから前作を観た方がいいとは思うけれど、前作を踏まえていない場合はただ単に戦争しているだけに見えるかもしれない。

エメットたちの世界で時が5年後に進むが、これは実写でも5年進んだことを意味する。また、映画自体も前作から5年です。細かい。
エメットのプリントはハゲかけていて、5年の月日が感じられる。5年前の時点でボロボロだったベニーはさらにボロボロに。でもまだ捨てずに持っていた!
エメットたちの世界は自由の女神が崩され、一面砂に覆われ、猫好きのおばさんの飼ってる猫もトゲトゲした武器を付けられていて…という世紀末的な世界になっている。
要は『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の世界観なんですが、たぶん、実写のお兄ちゃんがこれを観て影響されている。ゴツゴツした車も出てきた。
その世界にもたびたびファンシーな敵が襲いかかる。要は、作り上げた世界を妹に破壊され続けてるんですね。ミニフィグ(人形)も奪われ続けていたようで、それは、シスター星雲にさらわれたという言い方をされていた。

兄妹は音楽の趣味も違うようで、シスター星雲では“頭にこびりつく”(という歌詞)ポップスが流れている。この音楽に汚染されるとその国に染まってしまう。ベニーは星型のサングラスをかけられ、バットマンは白いコスチュームに変えられる。先にさらわれたスーパーマンやグリーンランタンはキラキラのコーティングになっていた。
星型のサングラスも白いコスチュームも、妹がもっと可愛くしたいと思ったのだろうし、キラキラもマニキュアか何かでコーティングされていた。
ルーシーも黒髪にメッシュだったが、洗うとマジックが落ちて水色とピンクのポップな髪色だった。兄は自分の趣味でゴスっぽくしたんですね。
特に兄妹だと男の子と女の子だし、一緒に遊べないだろうなと思う。

エメットがさらわれたルーシーたちを救いに行くという行為は、兄が人形たちを取り戻す行為である。
エメットにはレックスという味方ができる。彼の宇宙船の乗務員はすべてヴェロキラプトル。レゴのジュラシック・ワールドシリーズについてくるようですが、もちろんエメットのCVがクリス・プラットなので中の人ネタ。レックスもTレックスだったのかな。

エメットは優しすぎるのが難点で、序盤から世紀末的な世界でも前作のオープニングと同じようにコーヒーを買って、♪Everything Is Awesome!と歌っている。デュプロ軍団にもレゴでハート型を作って渡していた。
けれど、ルーシーはそれが気に入らない。もっとタフになってほしいと思っている。
レックスはエメットがタフに育った将来の姿だった。確かにタフでも、乱暴者で、シスター星雲を破壊する。ハートを渡すようなことはしない。
エメットはタフ側に成長しそうになっていて、マジックで無精髭を描いたり、髪型を変えたり、服を変えたりしていた(ミニフィグの上半身がつけ変えられるのを知らなかった…)。しかし、それは実写の兄の成長の方向を意味する。決して妹の世界を受け入れず、人形は取り返し、妹の作ったレゴの世界を壊す。

これは、もしかしたらだけど、自国第一主義とか不寛容社会みたいなものの暗喩でもあるのかもしれないとも思った。自分と意見の合わない世界は受け入れないという風潮に対する抗議でもあるのかもしれない。

でもレゴムービーの世界は根本が兄妹ゲンカのため、すべてを終わらせるのは母である。二人がケンカしている部屋に入ってきて怒り、お約束としてレゴを踏むという…。

兄は一緒に遊びたい妹を受け入れる。二つの世界は融合する。見た目はいびつでも、レゴはみんなで遊べば楽しいね!というメッセージまで含まれている。前作も思ったけれど、ちゃんとレゴブロックというおもちゃに対するリスペクトが一番大きくなっているのが素晴らしい。

『スパイダー・バース』でも思ったが、ロード&ミラーの脚本の巧みさは職人芸になってきてる。テンポが良くて、くすっと笑わせつつも、いくつもの要素を混ぜ込んで、細かいところをついてきながら結局普遍的なテーマに持ち込んで、最後には泣かせるいい話になる。本当に感心してしまう。

エンドロールでは兄妹や兄弟、夫婦など、趣味の合わない二人が作ったいびつなレゴが流れるのも楽しい。キメラみたいになっちゃってるのもあったけど、完璧な世界観を作り上げるだけがレゴではないのだ。なんでもあり。なんでも作れる。

また、エンドロールの歌が、エンドロール待ってました!みたいな曲になっているお遊びもおもしろかった。曲の歌詞の字幕を見るのと、エメットたちミニフィグがレゴで作られているのを見るので忙しかった。そこで、このエンドロール長くない?という歌詞もあったけれど、この後も本当に長くて、さっきのは伏線だったか…と思った。エンドロールで頭にこびりつく曲を流すのもずるい。






2015年アメリカ公開。日本では2017年公開。『フロリダ・プロジェクト』のショーン・ベイカー監督。
iPhoneのみで撮影したことでも話題になった。5sとのこと。それでも立派な映画になっていた。

刑務所帰りのトランスジェンター、シンディは友達のアレクサンドラに彼氏のチェスターが女と浮気をしていたと聞かされる。激昂したシンディは各地でチェスターの居場所とチェスターの浮気相手の居場所を聞きまくる。
シンディは怒ってるからずっとイライラしている。歩き方も早足で、カメラ(iPhone)がその後ろをどんどんついていく。そしてどこに行ってもカリカリ、ギャーギャー。でも、刑務所帰りの彼女のことを歓迎している知り合いも多く、顔が広そうだった。

シンディと別れたアレクサンドラはバーのような場所で歌うことを宣伝するチラシをいろいろな場所で配っている。クリスマス・イブの群像劇です。

タクシードライバーのラズミックの様子も合間合間に出て来るので、最初はこの人がチェスターなのかと思っていた。ラズミックはアルメニアからの移民らしい。トランスジェンダーかと思って声をかけた娼婦が女性だったので怒っていた。どうやら、シンディやアレクサンドラとも知り合いとのことだったけれど、客だったらしい。でも、客というよりは親しそうにも見えた。
ラズミックは個人タクシーのようで、夜になったら家に帰ったけれど、そこには妻と子供、それに妻の母と母の友達なのか、高齢の女性がたくさんいて、ラズミックは耐えきれずに外へと出ていく。

シンディは浮気相手のダイナの居所を見つけて、娼館……のような使われ方をしているモーテルに乗り込んでいく。お店なわけでもないし、多分働いている女性たちも大事にはされていそうにないし、客も金があるわけでもなさそうだった。シンディに邪魔をされて割引券をくれなどと言っていた。
ダイナは細くて小さいが、シンディと髪をつかんだりの取っ組み合いの喧嘩をしていた。ダイナはチェスターなんか知らないなどと言っていたけれど、あとでそれも嘘だとわかる。強かである。

シンディはダイナより体格もよく力もあるせいか、引きずるようにしてチェスターの元へ連れて行こうとする。しかし、途中でアレクサンドラがバーで歌うことを思い出して、バーに先に向かうことにする。ダイナを引きずりながら。

アレクサンドラはあれだけチラシを配ったのに、別にお客さんもほぼ来ていない。歌はうまかった。でもそれだけでは駄目なのだ。でも、シンディは来ていて、無駄に拍手がでかく、盛り上げていた。この店の楽屋のような場所で、ダイナとシンディは一緒に何かのドラッグをやったり、化粧をしてあげたりしていた。この先のシーンを見れば決してそんなことはなかったと思うんですが、この時点だと少し仲良くなったのかと思った。結局は社会のはみ出し者同士なんですよね。似ている二人。

この後、まだ引きずるようにして、逃げられないように手をつないで、チェスターのいるというドーナツショップへ向かう。アレクサンドラも一緒。チェスターがまあロクでもない男で、ドラッグの売人をやってるようなんですが、言葉巧みにシンディにお前だけだよというようなこと言っていた。でも刑務所に入っている間にはやはりダイナとも繋がりを持っていたらしい。
そこにシンディに会いたかったラズミックも登場。彼は恋とかでは多分ないのですが、自分の家のまともな生活にうんざりしていそうだった。そこにラズミックの義母も登場する。義母はラズミックがシンディやアレクサンドラのようなトランスジェンダーと一緒にいること自体にも驚いていたけれど、ラズミックが名前を口にすると、「名前を知ってる仲なの!」と更に驚いていた。短い中で関係性が説明されるいいシーン。ついに妻と子供もドーナツショップに迎えに来る。

もうドーナツショップに全員が集まってギャーギャーやっていて大騒ぎ。ここが群像劇でみんなが集まる場所だった。オーナーの女性(アジア系。ママサンと呼ばれていたから日系という設定だったのかも)は出て行けと怒り、警察を呼ぶ。

店の外でも言い合いは続く。その中でアレクサンドラも一回チェスターと寝たことがわかってしまう。
一人で娼館というかモーテルに帰ったダイナは代わりの娼婦をもう雇われてしまっていて帰る場所もない。
ラズミックは家に帰ったものの、一人きり。後ろには派手に輝くクリスマスツリー。
アレクサンドラとシンディは険悪なムード。
はぐれ者たちは結局バラバラな場所に帰って、それぞれ孤独になる。クリスマスなのがまた寂しい。

けれど、アレクサンドラは必死に謝る。多分、会話を聞いていてもこの件でもチェスターが圧倒的に悪そうだった。ここまで観てきてアレクサンドラの性格もなんとなくわかってきているから、アレクサンドラを庇いたくなる。

少し離れた場所で、シンディは客を取ろうとして、車の中から尿を引っ掛けられてしまう。アレクサンドラは彼女をつれてコインランドリーへ。着ていた服とウィッグも洗う。
トランスジェンダーにとってのウィッグの位置付けがまだいまいちわかっていないのですが、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観る限りだと、洋服か、洋服よりも大事なものであり、お金がないといいものも買えない。しかし、そんなに頻繁には変えられない。でも、見た目にも大きく関わる。アイデンティティまではいかないと思うけれど、とても大切なものなのだと思う。
二人でコインランドリーに並んで座って、アレクサンドラは自分のウィッグをシンディにかぶせてあげていた。ここでも『ヘドウィグ〜』を思い出した。たぶん、ごめんなさいという言葉よりも大きい気持ちがこもっている。
二人で並んで座っている様は、孤独な魂が寄り添っているようで、とても好きでした。
『ヘドウィグ〜』のことを思い出していたせいかもしれないけれど、なんとなく、『セックス・エデュケーション』のオーティスとエリックにも似ていると思ってしまった。喧嘩をしても、結局、はみ出し者同士なのだし、気が合う。恋愛は抜きにして、あんたにはあたしだけ。友情は続く。





スパイク・リー監督。アカデミー賞で脚色賞を受賞。
作品賞が『グリーンブック』になったことで、スパイク・リーや『ブラックパンサー』のキャストが怒ったという話がありましたが、今までは映画を観ていなかったので理由がわからなかった。やっと日本でも公開されたので、やっと理解ができました。
コロラドスプリングスの警察署の初の黒人刑事である、ロン・ストールワースが書いた書籍を原作とした実話。
主演はジョン・デヴィッド・ワシントン。デンゼル・ワシントンの息子であり、クリストファー・ノーランの新作への出演も決まっている。ロンの代わりにKKKに潜入するフリップ役にアダム・ドライバー。アカデミー賞助演男優賞にもノミネートされていました。

以下、ネタバレです。










予告編はとてもコミカルな作りでてっきりコメディなのかと思っていたが違った。もちろんくすっとしてしまう部分もあったけれど、コメディ要素は思ったよりも少ないので、予告編の編集の力だと思う。けれど、予告編を作った方はアダム・ドライバーの魅力(というか、いつものアダム・ドライバー)をよく知っていると思った。やられっぱなしの少し情けない男性という印象。でも、映画内ではもっとしっかりした人物だった。
ロンの代わりにKKKの内部に潜入するフリップという刑事の役なのですが、彼はユダヤ人なのだ。KKKは白人至上主義で、白人のアーリア人以外は排斥する団体である。そのため、ユダヤ人も差別される。フリップは始めは自分がユダヤ人であることを隠すようにしていたけれど、途中からは誇りを持つようになっていたようだったし、潜入したことで、ロンの気持ちもわかったのではないかと思う。

ロンはアフロヘアだし、服装もおしゃれだったので、警察署の人気者なのかと思っていた。しかし、ただ単に70年代後半から80年代という時代の流行のヘアスタイル、流行の服装だったようである。
彼はコロラドスプリングス初の黒人刑事だったせいもあるのか、最年少だったせいもあるのか、警察署内でも白人たちに差別を受けていた。トード(蛙)と呼ばれていたり、わざとぶつかられたり、これは新米だからかもしれないけれど資料室の担当だったり。
警察が黒人を目の敵にしていて、不当な逮捕や暴力を繰り返すものだから(『デトロイト』で観たのも記憶に新しい…)、当然ロンの友達や恋人は、ロンが刑事なことが気に食わなかったりもして、大変な立場だと思う。それでも警察になりたいと思っていたから辞めることはできないと言うのも良かった。

後半に私服のロンがKKKの爆弾を持った女性を追いかけて捕まえようとしたけれど、逃げられそうになり、そこにパトカーが来るシーンがある。ああ、良かった、助けに来たと思ったら、パトカーから出てきた白人警官たちは、ロンを攻撃する。味方などではないのだ。黒人差別が普通であり、先入観が植えつけられている。白人女性が叫んでいたら、真偽など確かめず、黒人男性に手錠をかける。

彼自身は黒人だから大々的には潜入できないのですが、ついていくような形で潜入したKKK内部の様相は胸が痛かった。射撃訓練なのだろうか、KKKの人らが的に向かって銃を撃っているのだが、的は見えない。あとからロンがその場を訪れた際に的が映る。黒人が逃げている姿なのだ。また、KKKの会合でみんなで昔の映画を観ているシーンでは、黒人が酷い目に遭うシーンで歓声が起こっていた。人を人とも思わぬ対応を見て、ロンは何を思ったのだろう。

また、KKKの最高幹部のデュークは「アメリカ・ファースト」とか「アメリカを再び偉大に」と言っていて、なるほど、トランプはKKKではないし、映画の時代は違うけれど、その辺りで繋げてトランプ批判も映画内に織り混ぜるのだなと思いながら観ていた。しかし、80年代のトーク番組で、デュークが実際に「アメリカ・ファースト」、「アメリカを再び偉大に」と言っているらしい。トランプがKKK最高幹部の言葉を使っていたのだ。創作ではないと思わなかった。ぞっとした。

最後にシャーロッツビルでの極右集会とそれに抗議するデモの実際の映像が流れる。2017年である(アメリカで本作が公開されたのが2018年8月10日らしく、ちょうど一年後だったとのこと)。現代であっても何も変わっていない。この抗議活動で亡くなったヘザー・レイヤーさんのためと、他、不当な差別でなくなった人々のために、アメリカ国旗の反旗が掲げられる。
アメリカ・ファーストなどとお気楽なことは言っているのがどうかしている。これは反旗で終わる映画なのだ。

『グリーンブック』は確かに入門編というか初心者向けだと思う。そこまで踏み込まないけれど、人種差別についてなんとなくわかるし、鑑賞後に爽やかな気持ちになる。また、くすっとさせられる部分もあり、いい話を観たなあという印象が残る。でも、残ってすぐに消えてしまうかもしれない。所詮おとぎ話である。
特に、アメリカ人なら初心者向けなどとは言ってられないと思う。目をそらさずに、もっとしっかりと向き合わなきゃ駄目だと思った。受けた印象の重さがまったく違う。
だから、アカデミー賞作品賞が『グリーンブック』だったというのは、選ぶ人たちに勇気がなかったんじゃないかと思う。この事態に向き合うのは相当怖いものだと思うので。でもこのままではきっと何も変わらなさそう。両方観てみてやっと、『ブラック・クランズマン』や『ブラックパンサー』ではなく『グリーンブック』が受賞したことでの呆れや絶望感、無力感がよくわかった。

『バンブルビー』



『トランスフォーマー』シリーズのバンブルビーをメインとしたスピンオフ…という位置付けなのかもしれないけど、マイケル・ベイ監督とは別物に感じた。どちらが良い悪いではなく、作風がまったく違うので両方好きです。
監督は『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』のトラヴィス・ナイト(NIKE創業者のご子息)。

以下、ネタバレです。





まず驚いたのが、最初のオプティマスたちオートボットとディセプティコンの戦い。マイケル・ベイ版だと滑らかなCGというイメージだったが、本作ではおもちゃっぽいのだ。トランスフォームも滑らかというよりは本物のおもちゃっぽい。無理のない変形というか。トランスフォーマーは元々おもちゃなのだし、おもちゃっぽくていい。なんとなく、子供同士がトランスフォーマーで対戦させて遊んでいる様子を想像してしまった。あれがどうしてそう見えたのかはよくわからない。少し安っぽい(それが悪いという意味ではなく)映像だったからだろうか。妙にくっきりしているというか、日本の特撮っぽいというか。最初から違いが出ていておもしろかった。

予告を見る限り、優しい少女がバンブルビーと出会って友情を育み…というストーリーなのかと思っていた。優しくはあるけれど、少女チャーリーは最愛の父を亡くしたことで傷つき、家族の中で孤立していた。また、学校は出てこないからスクールカーストというのもおかしいかもしれないけど、上のほうにいる集団に馬鹿にされ、友達もいない。
傷ついてはいても、彼女にはロックがあるというのも良かった。『キャプテン・マーベル』もキャロルがNIN Tシャツを着ていたけれど、チャーリーもモーターヘッドやザ・スミスのTシャツを着ている。メイクもゴス調。それが彼女を守る戦闘服だ。ラストの本当のバトルの際も、ロックTシャツに革ジャンで気合を入れていた。
音楽も80年代のものが多く使われていた。特に、チャーリーが好きなスミスは何曲も使われていた。

孤独なチャーリーとバンブルビーが出会って心を通わせる。バンブルビーは大きいが、小動物のようだった。どの動作も可愛かった。瞳の青い光もチャーリーを見つめる時だけ大きく、黒目がちになる。
チャーリーを傷つけたときに怒って赤い光になったときは多少つり目で光も小さかった。少しアニメ的でもあると思う。

少女とオートボットの触れ合いと別れという、所謂『E.T.』のような話かと思っていたが、軍隊も絡んでくる。87年が舞台ということで、冷戦の話も少し出てくる。明言はされないが、ディセプティコンの機能で居場所を突き止める云々の話もそのことだろうと思っていたけれど、米軍ではなく架空の政府機関らしいので違うかも。
また、オートボット対ディセプティコンという、本来のトランスフォーマーの要素も当たり前だが入っている。
バンブルビーが可愛いし、チャーリーも魅力的だったので、ロボットと少女の触れ合いだけで観たいとも思ったけれど、それではトランスフォーマーでなくなってしまう。
中盤あたりまでは、それぞれの要素が独立してるし、詰め込みすぎでは…と思いながら見ていたけれど、ちゃんとすべてが絡み合って綺麗に収束するのがお見事。

チャーリーは飛び込みの選手で、でも父が亡くなってからは飛び込めなくなっているというエピソードが出てくる。カースト上位のイケメンが煽るように、飛び込み対決をしろと誘うシーンがあって、チャーリーがそれに応じて根性を認められて仲良くなるのかと思った。しかし、チャーリーは飛び込めず、イケメンの出番もそこで終了。飛び込みのことをすっかり忘れていた。
しかし最後、ディセプティコンにバンブルビーが海に落とされた時に姿勢を正してしまった。来る!と思った。ここで、チャーリーが飛び込むのだ。このための伏線だった(このシーンは『パディントン2』や『シェイプ・オブ・ウォーター』を思い出した)。
飛び込むことでチャーリーは父の死を乗り越えた。バンブルビーとは別れることになるが、ちゃんと成長していた。

ラストのバトルもおもちゃっぽかった。まったくないわけではないけれど、変に飛び道具を多用しない。殴り合いメインです。
ディセプティコンで、ロボット、車、ヘリコプターと変形するものが出てくるんですが、ヘリコプターになった時にバンブルビーが鎖を投げてプロペラに巻きつける。その状態でロボットに戻ると体に変な感じに鎖が絡まっていて、それを引っ張るとばらばらになる。これって、本物のおもちゃも多分同じなんですよね。ヘリコプターの時に糸を絡めて、そのままロボットに戻したらぐちゃぐちゃに絡まってどうしようもなくなる。糸が強固なものなら、おもちゃはばらばらに壊れてしまうと思う。
ちゃんと変形の法則が考えられているところにトランスフォーマー愛を感じたし、『KUBO』での折り紙が折られる様子を思い出してしまった。

かといって、マイケル・ベイ版が駄目というわけではなく、マイケル・ベイはマイケル・ベイで、あのドッカンドッカンの派手な映像は観ていて気持ちがいい。あれはあれで好きです。派手さでは断然マイケル・ベイが勝っていた。


2017年の小説『ささやかな頼み』を原作にしているとのこと。
監督はポール・フェイグ。アナ・ケンドリックとブレイク・ライブリー主演。
おしゃれとしか感想を聞いていなかったので、肝心のストーリーについてはあまり気にしていなかったのですが、おもしろかった。

以下、ネタバレです。









主人公のステファニーはママ友(といっても本当の意味でのママ友ではなく、これを見ていてくれるあなた方はみんな友達みたいな意味でのママ友)向けの動画ブログをやっていて、そこで事件の発端が紹介される。
途中途中、また顛末まで動画ブログで紹介されるので、あたかも私までブログの読者になったような気持ちになる。

ステファニーはちょっと服装が少しズレてはいるんですが、明るくて人懐っこい。ブログを見ていると彼女の味方になりたくなってしまう。
どの辺がズレているかというと、猫ちゃん柄の10足1000円の靴下を履いていたりする。夫を亡くし、シングルマザーのためお金がないのだ。それでも子供に惜しみない愛情を注いでいるし、猫ちゃん柄の靴下も似合っている。登場時のどピンクの服もぎょっとはしたけど似合っていた。

そんな彼女は自分とは正反対のママ、エミリーと会う。子供が同じ学校だけれど、エミリーはNYで働いていて、忙しい。夫は元売れっ子作家で二人の住む家はハイソで豪華。服装もびしっときまっていて、背も高くて素敵。夫との仲も良好で、ステファニーはエミリーと昼からマティーニを飲みながら語らい、憧れを強めていく。
しかし、エミリーが子供を預けたまま失踪していまい、湖の底から遺体で発見される。ステファニーは犯人探しを決意する。

ステファニーには少しズレているピュアな天然さんみたいなイメージがあった。だから、本当に親友の事件を解こうと頑張ってるのだと思っていたが、ストーリーが進むうちに、腹違いの兄と関係を持ったことや、夫と兄を一緒に亡くしたことなど仄暗い過去が明らかになる。
また、エミリーの夫とも関係を持ってしまう。この夫役のヘンリー・ゴールディングの所作がとても恰好良かった。女癖が悪いんですが、それも仕方ないと思わせる恰好良さだった。『クレイジー・リッチ』に出ているとのこと。
ステファニーはエミリーの家に住むことになって、エミリーの服などを処分しようとしていた。憧れの人に成り代わるために殺したのではないかと思ってしまった。
また、夫は夫で、エミリーに多額の保険金をかけていたり、職場の助手とも関係を持っていて怪しい。
しかし、途中でエミリーが実は生きている?という疑惑が持ち上がる。死体は見たし…と思っていたら双子でした。

ミステリーでの双子設定は禁じ手だと思っていて、出てくるとがっかりしてしまうんですが、本作はその奥に悲しい設定が隠れていて、ただの双子設定とは違ったので良かった。

双子は二人で厳格な父から逃れるために家に放火をし殺したという過去を持っていた。エミリーとフェイスは家を離れ、途中で別れるが、仕事などで成功したエミリーとは違い、フェイスは薬物中毒になっていた。そのため、金をよこせとフェイスはエミリーを脅す。

双子なのでエミリーもフェイスもブレイク・ライブリーが演じている。もちろんメイクやヘアスタイルのせいもあるだろうが、まるで別人のようになっていて演技力に唸った。
また、ここではメイクやヘアスタイルで印象は変わるよということを教えてくれているようにも思えた。
そうじゃなきゃ、こんなにファッションにこだわった映画にならないだろうし、そこはポール・フェイグ監督の良さだと思う。監督自身がものすごくおしゃれ。

ステファニーは最初こそ猫ちゃんソックスだし襟に猫の顔のついた服だったが(それも可愛い)、リップの色が濃くなり、服装が垢抜けていく。
序盤に、エミリーの会社(服飾デザイン?)に行く時に精一杯の大人っぽい服装としてスカーフを巻くのが可愛かった。しかし、なんか変だなと思ったら、スカーフの結び方が変なのと、「GAPにヴィンテージエルメス」(会社の人に指摘される)だったそう。ヴィンテージって言いかたですが、要は古い、時代遅れということ。しかし、その似合ってなさ、決まらなさも、それはそれで可愛い。

最後はさながら服装交換という感じだった。エミリーがふんわりしたワンピースを着て、髪型もふんわりとフェミニンな印象になっていた。夫も「ステファニー?」と間違えていた。
ステファニーはここまで着ていなかった黒、そしてパンツスタイル。ステファニーはどちらかというと派手な色で、モノクロな服を着ていたのはエミリーのほうだった。更に囲み目メイクで銃を構える。

ミステリー自体もおもしろかった。特に、最後にご近所が助けに来るのはステファニーの今までが報われたようでほろりとした。
ステファニーは周囲にバカにされていたのを自分で気づいていたのかいなかったのかわからない。でも、知り合いがブログをやってたらみんな見ますよね。
最初は馬鹿にしていたご近所さんは、家族向けの豆知識と料理について、本当に便利だと思ったのかもしれない。また、ステファニーの人柄も滲み出ていた。すっかりブログの読者になっていて、ステファニーのファンにもなったのだと思う。

ファッションだけでなく、フランス・ギャルやセルジュ・ゲンズブールやブリジット・バルドーなどフレンチポップが使われているのもおしゃれ。踊るアナ・ケンドリックも可愛かったが、歌うシーンも本当に可愛かった。自分がイエー!!となってるときに、ギャングスタラップを歌ってるのも可愛かった。

ファッション、特にアナ・ケンドリックがとても可愛くて、それも加味した評価にはなってしまってると思う。でもいい映画でした。

読みやすさ度外視のエンドロールもおしゃれだった。

観終わってからわかったのですが、カタカナ表記のロゴ、“バー”の点々がマティーニグラスになっていた。当たり前ですが日本語独自のタイトルロゴ。ここまでこだわってくれるのがとても嬉しい。



アベンジャーズ界隈としては『インフィニティ・ウォー』で大変なことになっている最中ですが、本作は95年ということで過去の話。
あらゆる映画において日本の公開は遅いですが、本作は『エンドゲーム』の公開日が決まっていて、しかもそれが世界同時とのことで、一週間遅れで済みました。
監督はアンナ・ボーデンとライアン・フレック。他の作品でもコンビを組んでるとのこと。
主演はブリー・ラーソン。

以下、ネタバレです。










まず、オープニングのマーベルロゴがスタン・リー追悼バージョンになっていたのが不意打ちで泣かされた。そういうものは最後に持ってきてください。『スパイダーマン:スパイダーバース』では最後だったので油断していた。

相変わらず、原作を読んでいないので、『フューチャー・アベンジャーズ』での情報しか知らなかった。そのため、遠くから来た強いお姉さんという印象しかなかった。地球の人なのか宇宙の人なのかもわからず。

ヴァース(ブリー・ラーソン)は任務に失敗して地球に落ちてくる。95年であり、CD屋にはスマッシング・パンプキンズの『メロンコリーそして終わりのない悲しみ』(95年)やPJ ハーヴェイの『Rid of Me』(93年)のポスターがべたべたと貼られている。懐かしさに震えていると、エラスティカの『Connection』(95年)が流れ出す。バトルのシーンではノー・ダウトの『Just A Girl』(95年)が使われていた。
ニルヴァーナの『Come as You Are』(91年)も流れるけれど、ほぼ女性ボーカル曲であり、流れたシーンで多少キャロル(ヴァース)が煽りのようなものを受けていることを思うと、意図的だったように思う。
また、90年代で女性ボーカルといえば…のホールの『Celebrity Skin』(98年)がエンドロールで満を持してかかるので、涙が流れた。待ってました!インパクトのあるギターのジャジャ!ジャジャ!ジャジャ!のイントロに続いての♪Oh,make me over〜は一緒に歌いたくなった。

ナイン・インチ・ネイルズが本作とのコラボTシャツをオフィシャルストアで売っていたのが謎だった。音楽がトレント&アッティカスというわけでもなかったため、ひょっとしたら95年が舞台だし、94年に『The Downward Spiral』が出たので、曲が流れるのかなと思っていた。
しかし、曲は流れない。代わりに、中盤でずっと、ヴァースがNINのおなじみのロゴのTシャツを着ていました。コラボTシャツはキャプテン・マーベルのマークも入っているのでブリー・ラーソンが劇中で着ていたデザインとは違う。同じデザインのものも売っています。『アイアンマン』を観たAC/DCファンもこんな気持ちだったのだろうか。

ヴァースはフューリーと一緒に地球に侵入しているスクラル人を倒しながら、自分の過去と向き合っていく。そして、スクラル人が実は悪者ではないこと(子供や女性のスクラル人を出すことで彼らにも家族がいるよ、だから悪者じゃないよと示すのは少しずるい気がした。前半でミスリードを誘いすぎというか…)がわかる。
もう少しコールソンも活躍してほしかったけれど、フューリーのサポートとしてちょっと出てくるだけ。でも出てきただけでも嬉しい。『エンドゲーム』にも出てきてほしいが、無理そうかな…。『エージェント・オブ・シールド』を観ているので、彼の今後について思いを馳せた。

ヴァースもヴァースという名前ではなく、キャロルという名前のアメリカ空軍所属の地球の人であることがわかる。スーパーパワーを手に入れたのは事故によるものだった。しかし、それを覚醒させたのは彼女が元々持っていた強さなのが感動した。
何度倒れても、男に馬鹿にされても、決して泣き寝入りはせずに立ち上がる。両足でしっかりと立っているポスターからも滲み出ている力強さが全編に貫かれている。

覚醒してからの強さのインフレ具合は笑ってしまうほどだった。生身で宇宙まで飛んでいける。アイアンマンにもできないこと。でも、『エンドゲーム』でアベンジャーズに加わるのだから並の強さではいけない。

とんでもない強さになってるのはわかるはずなのに、ヴァースの上官であるヨン・ロッグは最後まで教えてやろうみたいな偉そうな態度なんですよね。男というだけで立場が上だと思っているのか、見苦しく見えたけれど、それをキャロル(ヴァース)が一発で沈めるのがスカッとしました。

ポスターにも出てきていたグースという猫ちゃんはとても可愛いんですが、大変凶暴でした。猫ちゃんの時にはフューリーは「よちよち」みたいな文字通りの猫撫で声だったんですが、本来の姿を見てからは怯えた口調になっていた。フューリーの目を今のような眼帯にしたのもグースだったんですが、原作通りなのかは不明。

ラストではフューリーがアベンジャーズ計画の書類を作っていて、ああ、この計画でアイアンマンの元へ…と思った。『アイアンマン』のラストですね。もう全部観直したいくらいですが、『エンドゲーム』までには時間がない。

『インフィニティ・ウォー』の最後、消える直前のフューリーはキャロル(キャプテン・マーベル)宛に通信を飛ばした。この映画の時のこと…95年のことを消える直前に思い出していたのだなと考えると感慨深い。
そして、エンドクレジットの後では、キャプテン・マーベルがスティーブやナターシャたちに合流していた。絶望しかなかったラストに少しの希望が加わった。あとスコット・ラングですかね…。

エンドロールの最後、グースがキューブを吐き出していて、あれ、今、キューブってどうなってるんだっけ?と思った。これは復習しておきたい。(『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』から『マイティ・ソー』の間なのではとのこと)




スコットランドの女王メアリーとイングランドの女王エリザベスの対立を描いた話だと思われそうなタイトルですが、原題が『Mary Queen of Scots』ということで、メアリー側の話中心。
メアリー役にシアーシャ・ローナン。エリザベス役にマーゴット・ロビー。メアリーの2番目の夫、ダーンリー卿役がジャック・ロウデンで、彼目当てで観ました。

以下、ネタバレです。








メアリーがフランスからスコットランドへ戻ってきて、処刑されるまでが描かれている。
メアリーとエリザベスの往復書簡でのやり取りを描いたドキュメンタリーを事前に見ていて、大体の流れや出来事を知っていたせいもあるのかもしれないけれど、基本的にそれをなぞっているだけに思えて、少し淡々として見えてしまった。衣装やヘアスタイルの豪華さには目を奪われたけれど、話自体はいまいち盛り上がりに欠ける気がした。
ラスト付近のメアリーとエリザベスの会談の部分は夢のような美しさとドラマティックさでした。ただ、二人は書簡のみのやりとりで実際には顔を合わせていなかったと思うので、あの部分は創作だと思う。それでも、その部分が一番映画的であり、見せ場でもあると思った。
小さな小屋の中で二人きり。薄い布のようなものが張り巡らされていて、互いの姿が見えそうで中々見えない。この焦らされ方も良かったし、やっとのことで対面するのもロマンティックだった。長年恋い焦がれた人物にやっと会えたという積年の想いが遂げられたのを感じた。
このシーンはマーゴット・ロビーは最終日、シアーシャ・ローナンは初日で、実際に初めて顔を合わせたというのもぐっとくるエピソード。

日本では同時期公開だったので同じイギリス宮廷ものとしてどうしても比べてしまうんですが、『女王陛下のお気に入り』くらいあけすけな女同士の愛憎入り混じった戦いが見たかった。
だから、本当は本作に対しても、エリザベス側の出番をもっと増やして、二人の書簡でのひりひりするやりとり中心で見たかった気がする。
エリザベスはあまり出てこないのですが、ラストの処刑付近で衣装がどんどん派手になっていくのは見所だと思った。ただ、一瞬しか映らないのが残念。
原作があるものだし、原題を考えたらメアリーについての話というのは明らかではあるんですが。
ただ、今、EU離脱の件でも荒れているし、今とは比べ物にならないほどの男社会の中で戦う二人の女王ということで、Me Too的な面をテーマにしても良かったのではないかと思うが、そのような社会的なものではなく、どちらかというとメロドラマになっていた。

ただ、宮廷ものはメロドラマにしやすいとも思う。戦いのシーンは一回だけです。
エリザベスにとってのロバートは夫になりうる人物として描かれていたけれど、バージンクイーンとして有名だし、どうなんだろうか。ロバート役にジョー・アルウィン。なんとなく『女王陛下のお気に入り』とも似た役だと思った。あそこまで情けなくないけれど。

メロドラマ的な要素が強く、メアリー側の話が多いということで、ダーンリー卿の出番が思っていたよりもだいぶ多くて嬉しかった。
ダーンリー卿、イングランド人でカトリックでバイセクシャルで大酒飲みということで国民からだいぶ嫌われていたという情報は得ていた。また、メアリーが懐妊した際にも自分の子ではなく仲の良かった秘書の子ではないかと嫉妬して殺し、その結果、建物ごと爆破させられて殺され、爆破現場から離れた場所で見つかった遺体には首を絞められた痕があったなどもう散々な話しか聞いていなかった。ただ、どの資料でもハンサムとは書かれていたらしい。顔の良さだけが取り柄の男…。

ほとんどその通りだったんですが、想像していたよりは鬼畜ではなく、駄目男とかカスといった印象で、これはジャック・ロウデンの演技や優しい顔つきによるものなのか、私がジャック・ロウデンが好きだからなのかわからない。

まずダーンリー卿の父親役が『ダウントン・アビー』のベイツ役でお馴染み、ブレンダン・コイルだったのがちょっとおもしろかった。
彼は父と一緒にスコットランドへ赴く。侍女とメアリーは同じような服装をしていて、詩を詠みながらその中から見事メアリーを当てて求婚する。
メアリーも恋やセックスに憧れがあったし、ダーンリー卿も言葉巧みだし優しいのですぐに恋に落ちる。
しかし、ダーンリー卿は結婚式で泥酔。メアリーの秘書の男性に絡んで、結局一夜を共にする。メアリーは結婚式の最中から後悔した顔をしてましたが、この浮気もすぐに見つかる。
そこからは夫婦仲は冷めていくばかりで、一応懐妊はするものの、その時のセックスも愛なんてないもので、ここはちょっと鬼畜めでした。
でも、秘書を殺すのも、ドキュメンタリーだとダーンリー卿の独断っぽかったが、本作では周囲にそそのかされてしぶしぶといった感じだった。人の良さが滲み出ていた。秘書の子ではないかと疑うシーンもなし。
別居の住まいにも男性を連れ込んでいた。ドキュメンタリーだとバイセクシャルとのことだったけれど、本作では男色家と呼ばれていた。

ダーンリー卿のせいで狂わされたメアリーの人生が中心のようになっていた。失脚の原因も、メアリーが不倫を隠すためにダーンリー卿を暗殺させた、メアリーは淫売!みたいな噂を立てられたからだった。その前からダーンリー卿とのあれやこれやも国民に吹き込まれていたが、その吹き込む役が最初から女王の存在をよく思わないジョン・ノックス。演じたのがデヴィッド・テナント。宮廷ものだから仕方ないけれど長髪に髭ということで、あまりデヴィッド・テナントらしさはない。ただ、ぎょろっとした目はそのまま。また、声に特徴があるので、人を煽動するような演説に向いているので役に合っていた。

まるで、ダーンリー卿がまともだったら彼女が国を統治してしたのではないかとでも言いたそうな作りだった。もちろんその部分もあったのかもしれないが、その部分に特にスポットが当てられているのですごい悪役具合でした。出番が多くて満足。

『運び屋』



クリント・イーストウッド監督・主演。
ニューヨーク・タイムズ別冊『90歳の運び屋』に着想を得たと書かれていたが、どのくらい実話なのか不明(追記:今回の映画パンフレットに全文が載っているらしいです)。でも、映画と同じ園芸屋ではあったらしい。
メキシコ麻薬カルテルものに白人の爺さんが紛れ込んでいるというちょっと見たことがないストーリーだった。

以下、ネタバレです。










年老いた男が家族のためを思って一度だけ悪の道に入るが抜けられなくなって地獄…というような話を想像していた。
しかし、この主人公のアールは思ったよりも善人ではない。一応家族のためを思って悪事に手を染めるけれど、それまで家族を省みていない。ランの栽培をしていて、それで大賞をとってちやほやされているけれど、娘の結婚式にもでない。ランの農園に一人で暮らしている。
しかし、時が経って、ネット通販のせいでインターネットの使えない老人であるアールの商売は成り立たなくなっていき、家も立ち退く事になってしまう。
行く場所がなくなってふらふらと家族の元へ戻るが、娘や妻は当然受け入れない。孫娘のパーティー中で彼女にはぎりぎり嫌われていないので資金の援助をしたい。が、先立つものがない…という時に、パーティーに来ていた謎の男に声をかけられて運び屋稼業を始める。

最初はもちろん一回きりでやめようとしていたみたいでしたが、お金があるとみんながちやほやしてくれるんですよね。もうランの関係ではちやほやされないし、家族にも疎まれている。このアールという爺さんは90歳でありながらちやほやされるのが好き。若い女性にも群がってもらいたい。もう年齢は関係なく、性格なのだなと思う。

それで二度三度と運び屋稼業を繰り返すんですが、これも性格なのか年齢なのかわからないですが、あまりびくびくせずに、罪悪感も感じていない。戦争帰りというせいもあるのか、滅多なことでは動じない。

歌を歌いながら車を運転していて、ただのドライブのように見える。ランの農場でメキシコ人三人を使っていたせいもあるのか、メキシコ人を自分(白人)より下に見ているので、マフィアもそれほど怖くなさそう。年代のせいもあるのか、黒人のことをニグロと呼ぶ。ただ、道路でパンクして困っている家族を助けてあげている時に呼ぶので悪意はないんですよね。そう呼ぶのが染みついている。
人種差別が普通。現代用にアップデートはされていない。今の映画では絶対に見かけない描写ですが、主人公が90歳だからできること。その点でも変わった映画だと思う。
人種差別の他にも90歳だから、ある一定の年齢より下の人は一括りで若者なんですよね。だから、マフィアが脅したところで、若者が意気がっている程度にしか捉えない。
他の登場人物は90歳よりは圧倒的に年下だから、マフィアにもDEAにも説教をして人生観を説いたりもしていた。家族を大切にしてこなかった自分の今までの人生を悔やんだり、でも一方では好きなことをやりなさいと言ったり。
まるでDEAとメキシコ麻薬カルテルとは90歳の爺さんは別の場所にいるように錯覚してしまった。あらゆる面で達観していた。

あまりにも飄々としていて、世俗から離れている印象だったので、もしかしたらDEAはメキシコ人たちは捕まえるけれど、アールだけはするっと抜けだしてしまうのではないかとも思ってしまった。

だって、妻が病気になってしまい、余命いくばくもないとわかった時に、運んでいる途中なのに家に帰って妻に付き添うのだ。こんな麻薬カルテルものなかった。『ブレイキング・バッド』も大学教授が悪の道へ入って行くということで似た感じでもあると思うけれど、ウォルターはどんどん悪に染まり、家族も顧みない。でも、本作は90歳なので、もう人生に後悔したくない。ここで妻の死に目に会えなかったら自分も後悔するし、娘だけではなく孫娘にも縁を切られる。それは避けたい。

結局、姿を消したことが原因でカルテルに痛めつけられる。その後、DEAに捕まるのですが、捕まるときには顔を怪我していて、ちゃんと犯罪者の貫禄が出ているのがすごい。怪我をしていなかったら、気の良いお爺さんのままで、なんとなく捕まえた方が悪い、お爺さんかわいそうみたいな印象になってしまったかもしれない。このあたり、クリント・イーストウッドの表情もあるのですが、うまいと思った。

裁判で弁護士が「高齢者を利用して……」と弁護しようとしてたところに自分で「有罪だ」と言っていたのが印象的だった。Guiltyだと自分自身でわかっている。高齢者という立場には甘えたくない。金のためにやったのだし、元々は家族を省みない自分が悪いのだとわかっているのだ。

DEA役にブラッドリー・クーパーとマイケル・ペーニャ、それにローレンス・フィッシュバーンと豪華勢が並んでいたので、最終的には捕まるのだろうと思っていたので着地点は思った通りだったけれど、中盤までの90歳の爺さんとメキシコ麻薬カルテルというミスマッチ加減がおもしろかった。そして、この90歳の爺さんがとても魅力的なキャラクターだった。イーストウッドがとても恰好良かったです。


アカデミー賞、ゴールデングローブ賞はもちろん、他の様々な映画賞の長編アニメーション部門を総ナメした本作だが、観て納得した。
『ヴェノム』のおまけ映像として流れた時にはこんな作品だとは思わなかった。
ただのCGアニメではなく、かといってぬるぬる動く作画アニメとも違う。まったく新しい表現で、アニメ映画で今になってこんなに新しいものが出てくるのかと驚いた。
脚本にフィル・ロードの名前があり、製作総指揮にもフィル&ミラーの名前があるからか、ストーリーも安心安定の仕上がり。

以下、ネタバレです。









アニメなんですが、元がアメコミである。そのために、オノマトペが文字で記されていて、コミックが動いているようになっているシーンが多くあった。
スパイダーセンスは、トム・ホランドのピーター・パーカーは腕の毛がヒュンと立ち上がっていましたが、本作では顔の周りにひょろひょろした線で示される。彼らが何かを感じていると、一目で直感的にわかる。
また、キャラが登場時に静止画になって集中線がババンと付いていたこともあった。それは静止画になったので余計に漫画の一コマのようになっていたが、他にも一時停止をしたら漫画のコマのように見えるであろうシーンが多数あった。

また本作は異次元のスパイダーマンが集まってくるので、その次元の違いによって作画が違う。その違いによって動かし方も違うと聞いていたけれど、観るまではぴんと来なかった。しかし、スパイダーハムとピーター・パーカーの並びを見てなるほどと思った。まるで、アニメの世界に迷い込んだ実写の人間のように見えた。スパイダーハムはカートゥーン調なのでよりアニメっぽい動きに、ピーター・パーカーはより実写っぽい動きになった結果だと思う。

異次元のスパイダーマンが多数出てくるということで、『アルティメット・スパイダーマン ウェブ・ウォーリアーズ』の61話から64話(62話から65話)の“異次元のスパイダーマン”のようになるのかなと思っていた。しかし、『アルティメット・スパイダーマン』ではスパイダーマンが異次元を移動して、スパイダーマン自身がCGやら白黒やらカートゥーンに変わる。本作は向こうから来るから逆に来た側が世界に馴染まず動きが一人一人で変わる。

ラストバトルのカラフルさはアニメでしか表せない世界だった。列車が縦横無尽に飛び回り、黄色ピンクの色彩に目を奪われる。
最近、人間ドラマ的な映画を観ることが多かったので、久々にIMAXで観るべき、3Dで観るべき映画だったと思う。
映画館でしか体験できない。まさに体験だったのだ。

ストーリーとして、フィル・ロードっぽいなと思ったのは、自分を信じられずビルの屋上から跳べなくて、おとなしく階段を降りて行って低いビルに移動という単なるコメディリリーフかと思ったものがあとで効いてくるあたりだ。
また、おじさんの女の子口説き落としテクの肩ポンの伏線回収もフィル・ロードっぽかった。おじさんの声がいやにセクシーだなと思ったらマハーシャラ・アリだった…。

「自分を信じて跳べ」というのは『インセプション』でも出てきたんですが、これはLeap of Faith.というもので繋がりがありそう。
マイルスがスパイダーマンに蜘蛛の糸で縛り付けられますが、それを破った瞬間がこの映画の主人公が殻を破る瞬間だと思う。脚本のお手本のようでわかりやすいのも特徴だろう。
また、行きたくない進学校で一人ぼっちだったマイルスに友達ができて、親とも和解する。ストーリー開始時より、ちゃんと一歩前進する。
マイルスだけではなく、スパイダーマン・ノワール(ニコラス・ケイジだったとは)が白黒の世界にルービックキューブを持ち帰るというエピソードだけでも一歩踏み出したのがわかる。自堕落な生活をしていたピーター・パーカーがMJの元へ行くのも良かった。みんな身近な人を亡くしているという点で共通していた。けれど、悲しみを乗り越えて一歩踏み出すのだ。

やはりロード&ミラーの関わっているストーリーは安心して見られるほど完璧なものだなと思っていたら、最後に、『困ってる人がいたら助けるのがヒーローだ』というスタン・リーの言葉が出て、その次に、『一人じゃないと教えてくれてありがとう』というスタン・リーとスティーヴ・ディッコ宛の言葉が出るという…。
最後にこんなメッセージを出すのはずるい。不意打ちで泣かされた。

ただ、ちょっとしんみりしかけたところでエンドロール最後におまけ映像。
スパイダーマン2099という未来のスパイダーマンがアース67へ送られる。アース67というのは1967年のスパイダーマンらしく、昔風のアニメで、2099もカクカクした動きのアニメーションになってしまう。
エンドロールでオスカー・アイザックの名前を見て驚いたけれど、2099役でした。


セザール賞5部門受賞。『BPM ビート・パー・ミニッツ』のナウエル・ペレーズ・ベスカヤートが出演してますが助演。主演はアルベール・デュポンデル。彼が監督、脚本をつとめている。

公式サイトの雰囲気や、『パルナサスの鏡』が引き合いに出されているあたりで勘違いをしていたのですが、そんな楽しげで華やかな話ではないです。
『その女、アレックス』のピエール・ルメートル著の小説を原作にしている(という情報を知ってから観たらまた違ったかも)。

以下、ネタバレです。












主人公の男アルベールが警察に話を聞かれているシーンから映画は始まる。彼の過去回想で進んでいく。

塹壕で時間稼ぎをして休戦を待っているフランス軍が映し出される。ドイツ側も攻撃を仕掛けてこない。なんとなく意外な気がしてしまったけれど、前線の兵士たちは誰も戦いたくないのだ。当たり前だ、死にたくないもの。
ところが中尉のプラデルは、戦争したがりで、二人の兵士に様子を見て来いと命令する。こういう男がいるから無駄な死が増えるし、戦争は終わらないのだな…と思った。全員泥だらけなのにこの中尉だけはきれいなのも嫌な感じだった。
様子を見に行った兵士たちは案の定撃たれ、それを合図にしたように交戦が始まる。しかし、撃たれたのも後ろから=ドイツ軍ではなくフランス軍から撃たれているとアルベールは発見する。プラデルの仕業だろうとすぐわかるが、気づかれたのを知ったプラデルにアルベールは生き埋めにされそうになる。それを助けたのがエドゥアールで、彼はそれが原因で顔に消えない傷を負ってしまう。

この、プラデルとアルベール、エドゥアールの関係が戦後も因縁のように続いていく。

この先、アルベールによるプラデルへの復讐と、エドゥアールと父との関係が描かれていくが、人間関係が複雑に絡み合っていて、まったく別々の話のようで同時に進行していくのがおもしろかった。

エドゥアールは父との間に遺恨が残っているので、いっそ死んだことにしてほしいと言う。アルベールはそのアリバイづくりに奔走するが、墓の業者がプラデルで、しかも彼はエドゥアールの姉の夫になっていて、エドゥアールの家に住んでいた。プラデルは運転も乱暴だし、汚職を繰り返していて、戦時中に嫌な奴だった人間は戦争が終わっても嫌な奴のままだった。戦争は一人の人間に起こった一つの出来事に過ぎない。思えば、戦場で無理な指示をしてくる上官の戦後の生活の様子などは、映画ではほとんど描かれない。
アルベールにしても、戦争から戻っても働き口がなく、復職もできず、妻にも逃げられて孤独になっていた。

エドゥアールは絵が上手く、芸術的な才能があるようで、自分の怪我をした顔を隠すための仮面を作っていた。この仮面の数々がどれも個性的で、セザール賞衣装デザイン賞受賞も納得。ただの仮面ではなく、ちゃんと感情が示されているのがおもしろかった。口がへの字の仮面の口の部分を逆にしてにっこりさせるのもいいアイディアだと思った。特に詐欺のカタログが出来上がったときの悪い顔の仮面は笑ってしまった。
ナウエルはほとんど顔が出ない。上部だけ出ている時もある。しかし、パントマイム的な手の動きと仮面の表情だけで感情が伝わってくるのだから、演技力があるし、難しかったと思う。また、『BPM』の次が本作なのだから振り幅がすごい。

アルベールは死んだことになっているエドゥアールの墓の案内などをして、エドゥアールの家族とも会い、仕事まで紹介してもらう。そこで父親はエドゥアールのことを決して嫌っていないことも知るが、エドゥアールは聞く耳を持たなかった。
エドゥアールは自分の絵の才能と戦没者慰霊碑が求められていることを知り、慰霊碑のデザイン詐欺で儲けようとする。金だけせしめて慰霊碑は作らないという詐欺です。
しかし、回り回って、地元の有力者である父の元へデザイン画がたどり着き、息子が生きているのではないかと気づく。
父と息子は対面するが、この時のエドゥアールの仮面も良かった。かなり派手でリアルな孔雀の頭。しかし、目の部分はエドゥアールの目なので、父を見つめる目は見えるし、父もきっと本人だと確信したと思う。そこで仲直りをしたようにも見えたが、エドゥアールはそのまま屋上から飛び降りてしまう。普通の鳥ではなく、孔雀なのも意味があった。綺麗だが飛べないのだ。

プラデルは自分の悪行で自爆した面も強いんですが、部下の妻と知らずに不倫して部下に逃げられる、汚職がエドゥアールの父にバレる、エドゥアールの姉にも愛想をつかされる。そして、アルベールの前で半ば事故のような形で生き埋めになって死ぬ。因果応報です。

さらに、ずっとアルベールを尋問していた警察(国境警備隊みたいな人かも)は、休戦間近の時にプラデルが様子見をさせに行った兵士の親だった。彼の復讐も一緒に遂げていたのだ。そのため、無事に国境を越えさせてもらう。

情報は入れないようにしていた面もあるんですが、雰囲気的にミステリアスな仮面の男(エドゥアール)とそれに巻き込まれる普通の男(アルベール)が、フランス各地で興行を繰り広げる友情珍道中ものかと思ったら違った。
興行的なシーンは、エドゥアールが催すパーティ一回だけです。

このパーティでも、各国の指導者たちを模した仮面を被った人物たちをシャンパンで撃っていくというシーンがあったが、本作は思っていた以上に戦争映画だった。戦時中の話が序盤に少し、あとは戦後ではあるんですが、戦争自体が終わっても人々の心の中に残った傷は癒えない、人との関係も終わらない。簡単には戦争は終わらないというのがよくわかった。
普通は、終戦を迎えた時点で映画も終わってそこでめでたしめでたしとなる作品が多いと思うが、本作はその先と過去も少し描かれていて、戦争は人生の中での出来事の一つに過ぎないのだと気づいた。そんなことすらわかっていなかったのだ。





本年度アカデミー賞作品賞受賞。でありながら、異論が噴出している作品。
できることならこんな先入観は無しに観たかった。
監督は『メリーに首ったけ』のピーター・ファレリー。
主演はヴィゴ・モーテンセンとマハーシャラ・アリ。マハーシャラ・アリは各映画賞の助演男優賞を受賞しています。ただ、映画を観ると、助演というよりは主演級に思えた。

以下、ネタバレです。










ヴィゴ・モーテンセン演じるトニーはクラブで用心棒として働いていた。チップを騙し取ったりなどしていて、あまり品はない。家に来ていた業者が黒人だったときに、彼らが使ったコップを捨てるなどする人種差別主義者。
そんな彼が、上品で金持ち、カーネギーホールの上に住むピアニストのドクター・ドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)の運転手として働くことになる。

衣装などからはそれほどよくわからなかったけれど、舞台は1962年。特にアメリカ南部では人種差別が行われているが、ドクは自ら進んでツアーに出かけて行く。

グリーンブックというのは、黒人が泊まることのできる宿を記載した本。南部の奥に行けば行くほど、汚いモーテルになっていっていた。
年代がわからず観ていた序盤、トニーが、泊まる場所は同じ場合もあるし違うこともあると言われていた時に、運転手だからトニーの泊まる場所のランクが下がるのかなと思っていたが違った。

また、演奏をする場所でもトイレは別だし、バーに行けば黒人というだけでいちゃもんをつけられる。レストランにも入れない。それは南部に行けば行くほど酷くなっていく。

序盤、面接の時のドクは本当に王族のような服装だったし、後部座席に座っている時も姿勢良くきりりとしていた。言葉遣いや身のこなしが上品。
対するトニーはあらゆる面で粗野。やめろと言っても車内でタバコを吸うし、吸い殻やゴミも外へ捨てる。文字もうまくかけない。
フライドチキンも車内でぼろぼろこぼしながら手づかみで食べていた。ドクはそれを見て顔をしかめていたが、怖々食べてみて、トニーに心を開き始める。
(しかしその後、セレブの食事会でフライドチキンが出されるのは強烈な皮肉。良かれと思ってやったことが差別になる)

ツアーをしながら正反対の二人が仲良くなるロードムービーなのだが、やはりどちらかというと、トニーの心は変化するが、ドクの心はそこまで変化しない。というのも、ドクは最初から、なんか粗野で嫌だなとは思っていたと思うが、その程度である。黒人が使ったコップを捨てていたところからスタートするトニーとはわけが違う。

ただ、トニーも要は単純なんですよね。保守的な家庭で育って周りがそうだったからというだけで差別していたけれど、ちゃんと付き合ってみれば、別にすぐに考えは変わる。

それよりはドクの心中が気になった。序盤は人種差別主義者なのがわかっていながらトニーを雇った。おそらく、腕っぷしを買ったのだろう。それは、南部へ行って、自分が暴力にさらされるのがわかっていたからだ。
兄とは疎遠だと言っていた。一体何があったのかは明らかにされないし、トニーは単純だから、こっちから手紙書けよなどと言っていたが、おそらく修復不可能なのだと思う。それは、同性愛者であることも関係しているのかもしれない。
白人の前で演奏することの葛藤をしめすシーンにも泣いた。感情を吐露する演技が本当にうまく、マハーシャラ・アリ、さすがの助演男優賞だなと思った。この先もたくさん賞をとりそう。演奏後ににこっと笑うのも、上品な振る舞いも、知性も、感じを良くして馬鹿にされないように、もっと言うと、暴力を振るわれないように必死に身につけたものなのだろう。
6年前に黒人のミュージシャンが袋叩きにあった場所にツアーに出る。彼の勇気だと言われていたけれど、たった6年である。いつ暴力を振るわれてもおかしくない。実際、ステージ以外の場所では殴られることもあった。それでも、事態を変えていくためには、出かけて行かなくてはならない。そのために身につけたピアノの技術であり、身のこなしなのだ。

後半、黒人ばかりのバーでくだけた感じで演奏をした時にも、演奏後に営業スマイルを見せていて、あ、癖になっちゃってるんだな?と思った。また、そのバーで現金を出していたのは、気が緩んだのだろう。白人ばかりの場所では決して見せないだろうし、気を張っていると思う。ほぼずっと、気を張って生活しているのだと思う。

それに比べると、イタリア人とはいえ、白人のトニーはあらゆる面で気楽に見えたし、自分は気楽だったなと気づいたと思う。
でも、アカデミー賞関連で反感をおぼえられたシーンは、銃で脅してドクを救うシーンなのかなとも思った。

あと、実話だから本当のことなのかもしれないけれど、最後もトニーがドクの“お城”に向かってほしかった。クリスマスに大家族がわいわい集まっているトニーの家。逆にお手伝いさんも帰してしまい、一人きりのドクの家。トニーは家で難しい顔をしていたのだから、彼が動くべきだった。シャンパンを持ってトニーの家を訪れるドクも、それも勇気なのかもしれないが…。でも、最後まで彼に勇気を振り絞らせてどうする。あのあと、保守的なトニーの家族はちゃんとドクを受け入れたのだろうか。トニーが受け入れたように、しっかり話せばわかるのだろうか。ドクが嫌な思いをしていないといいなと思う。

終わり方はふんわりとしていて、何も解決していないといえばしていないが、人種問題が解決してない時代の話なので仕方ないのかなとも思う。
でも、レストランに入れてもらえなかったり、黒人というだけで夜間外出して収監されたりと、劇中で感じた怒りがふわっとしたもので誤魔化されて、なんとなくいい話としてまとめられていることも事実。
この二人だけの話として考えれば、とも思うけど、それも視野が狭すぎる。

マハーシャラ・アリは多くの白人に観てほしくて、敢えて白人監督の映画に出たそうだ。確かに観やすさはある。鑑賞後に爽やかな気持ちになるのも悪くない。でも、だからこそ一方で反感を持たれるのはわかる。

正反対な二人のコミカルなやりとりはおもしろかった。でも、アカデミー賞というには…?という疑問が呈されるのもよくわかる。でも、『ブラック・クランズマン』については依然公開されていないのでどちらがどうとは言えないのも…。

内容は関係ないですが、おいしそうな食べ物が次々に出てくる映画でもあった。フライドチキン、食べたくなりました。




前作『ムーンライト』がアカデミー賞を受賞したバリー・ジェンキンス監督。
1974年の『ビール・ストリートに口あらば』が原作。
レジーナ・キングがほとんどの映画賞の助演女優賞を受賞していて、アカデミー賞の助演女優賞も確実では?と言われていたけれど、その通り受賞した。

以下、ネタバレです。







ティシュは幼馴染のファニーと恋人同士になり、幸せな日々を過ごしていたが、突如、無実の罪でファニーが刑務所に収監されてしまう。その状態で妊娠していることが発覚する。
ストーリーは刑務所へ面会をしに行くティシュと、彼女が思い出す過去が中心になって描かれていく。

過去のシーンは黄色のあたたかなライティングが印象的。『ムーンライト』は青で、冴え渡るような美しさでしたが、今回の美しさはふんわりと優しい。音楽も同じ印象だった。
それは、ティシュがファニーと一緒にいた過去の柔らかくてあたたかくて優しい思い出のカラーなのだと思う。
過去の思い出が優しいほど、その日常が突如奪われたという事実が重くのしかかってくる。

最近刑務所から出てきたファニーの友達が、いかに刑務所が酷いところだったかというのを話すシーンでは、なんとも言えず、音楽が歪む。とても不気味で怖かった。映画は全体的にあたたかな印象なのに、そこだけがひんやりしている。
このシーンに限らず、映画全体がティシュの心中を表しているのだそうだ。そう考えると、あのシーンも不安感が表れているのだろう。

ファニーは白人警官によって誤認逮捕され、収監される。レイプされた側も証言をしている。
『デトロイト』もそうでしたが、『フルートベール駅で』にしても、誤認逮捕というよりははめられたのだろう。
この映画は70年代が舞台であり、悪徳白人警官なんていうものはさすがに現代には…と思っていたが、『デトロイト』にしても『フルートベール駅で』にしても、わりと最近の話だし、黒人に対する白人警官の暴力はニュースでもちょくちょく取り上げられる。現在でもまったくなくなっていない。珍しい事件ではないのだ。

ただ、特に『デトロイト』が怒りをおぼえ、憤る作品だったのに対し、本作はもちろん許せないのは許せないが、アプローチの仕方がまったく違うせいか、そこまで怒りの感情は湧き上がってこない。
悲惨である。許せない事件である。けれど、映画のタッチはひたすら優しい。
これは、怒りをぶつけるのではなく、僕らは僕らで正しいことをしようよというメッセージに思えた。まさにDo the right thingなのだ。アカデミー賞でのスパイク・リー監督もスピーチの最後にこの言葉を残していた(『Do the right thing』自体も未見なので近いうちに観たい)。
そう考えると、白人警官に啖呵を切った売店のおばちゃんは正しいことをしたと思う。
また、ティシュの視線で描かれるので、刑務所の中で実際に何が起こっているのか、そんなえぐい描写もない。だから、強烈に憤るということもなかった。ただ、明らかに殴られた痕がある顔で登場するシーンはあった。

母役がレジーナ・キングで彼女はレイプ被害者に会いにプエルトリコへ出かけて行く。レジーナ・キングが助演女優賞に選ばれたのは、このプエルトリコ・パートだと思う。そこまで長くはない。
そこで被害者の夫(ギャングのボス?)と会食をするが、その前に鏡に向かって精一杯のおしゃれをする姿は相手になめられないようにと外見をしっかり作ったのだろう。鏡に向かっている姿が不安そうではあっても勇ましくも見えた。
ここまでも薄氷の上を歩くように大変だったのだろう。夫も情に流されたのか、会わせる手はずを整える。
しかし、ここで母は言ってはいけないことを言ってしまい、本当はファニーにレイプされたわけではないという証言を引き出すことはできなかった。
「しくじった…!」と言って、頭を抱え込む。決定的に間違った選択をすることでもう元には戻れないことがわかる。場所をつきとめ、プエルトリコまで来て、会う算段を立ててもらったのに台無しにしてしまった。偽証でしたと証言してもらわなければ、ファニーは釈放されない。自分のせいだ。
ここまで、ティシュの前では優しく頼れるお母さん然としていたのに、一気に崩れてしまう。
失敗を悔やむこの演技が助演女優賞だったのだと明確にわかった。

邦題は原作『If Beale Street Could Talk』の直訳の邦題『ビール・ストリートに口あらば』のほうがよかったと思うけれど、映画向けに少しキャッチーに変えたのだろう。でも、観終わってから、口あらば…と思う。口あらば、偽証と認めてもらわなくても釈放されるのに。ビール・ストリートは見ていたはずだ。

レジーナ・キングの演技はずば抜けていましたが、主役の二人も良かったです。ティシュの純粋さとファニーの優しさがよくわかった。
また、脇役が、え?この人も?と思うような豪華さだった。それぞれ、そんなに出番はありません。
ディエゴ・ルナは二人がよく行くレストランの店員さん。ファニーによくしてくれていて、いつもニコニコしていて感じがいい。とてもかわいい。
悪徳警官役にエド・スクレイン。70年代なので厚手のヒゲ。帽子のひさしの奥から、少しでも綻びを見つけて逮捕してやるぞとじっと見てくる爬虫類のような瞳が怖い。
バリー・ジェンキンス作品の特徴として、登場人物が映画の中の人物ではなく、スクリーンのこちら側、私たちを見てくるというカメラワークが使われるのだけれど、主人公の二人の他にもこの悪徳警官が執拗にこちらへ目線を向けてくるショットがあり、こんな目で見られたらびくついてしまい、挙動がおかしくなりそうだし、やっていないこともやったと証言してしまいそうだと思った。これについて、監督は、「登場人物が登場人物を見ているシーンは彼らの中での気持ちの受け渡しだけれど、カメラに向かっているということは映画を観ている人との気持ちの受け渡し」だと言っていた。撮影は『アメリカン・スリープ・オーバー』のジェームズ・ラクストン。
プエルトリコのボス役にペドロ・パスカル。ガラが悪そうながらも、情に厚く、ちゃんとした人のようだった。
デイヴ・フランコ演じる不動産屋は、何の説明もないが、キッパーをかぶっていたので、おそらくユダヤ人なのだと思う。白人だけれど、ティシュとファニーに優しく、なんで優しくしてくれるんですか?と聞いたら、幸せな人を見るのが好きだからと答えていた。白人が黒人に優しいのが不思議なことであるという状況がまずおかしいが、周囲には優しい人たちもちゃんといた。
若手弁護士役にフィン・ウィットロック。実は彼目当てでこの映画を観た部分もあります。心からファニーを救ってやりたいとは思っていたようだが、コネも何もなく、情熱だけでは力不足という役だった。やり手一歩手前という感じです。あと眼鏡をかけていた。久しぶりにフィン・ウィットロックを見たなあと思ったが、製作会社がプランBでなるほどと思った。彼はまだブラッド・ピットに気に入られているようだ。

衣装がまさに70年代で、シャツの柄などが可愛かったのですが、『ペーパーボーイ真夏の引力』、『アンダー・ザ・シルバーレイク』のキャロライン・エスリン=シェイファーが担当というのがすごく腑に落ちた。どちらも可愛かった。





デンマークの国立映画学校の卒業生たちが20日足らずで作り上げたとのこと。ノミネートまではいかなかったが、アカデミー賞外国語映画賞のデンマーク代表になった。
緊急通報ダイヤルで働く男が、かかってきた電話を頼りに誘拐事件を解決しようとする。
出演者はほぼ一人。他は電話の音声のみなのに景色が見えてくる。

以下、ネタバレです。









ワンシチュエーションでリアルタイムに進んでいき、主人公以外が電話での出演ということで、『オン・ザ・ハイウェイ その夜86分』に似ていた。あれは主人公は車を運転しながら動くことはなく、いろんな箇所に電話をかけまくって周囲を動かすという映画だった。それでも、やはり本作と同じく電話口の向こうの景色も生き生きとしていた。向こうも別撮りではなく、出演者が控えていて一斉に演技していたという手法も面白かった。本作の撮影方法も気になる。トム・ホランドやオリヴィア・コールマンが出てました。感想はこちら

本作の主人公アスガーは、自分から積極的に動いていた。場所は部屋移動くらいですが、もっと自分の意志が感じられた。なんとしても、自分で事件を解決したい。
しかも、アスガー自身、何か失態をやらかして電話番にまわされているだけで、本当は現場で働く刑事のようだった。刑事としてのプライドと、おそらく本件が最後の緊急通報ダイヤルを受けての事件なのもあっただろうが、もっと何か問題を抱えているようだった。
話が進むうちに少しずつ明らかになるが、その失態の裁判が明日で、多少ナーバスにもなっている。

誘拐事件側も刻々と事態が変わっていくけれど、それにつれて、アスガーの自分自身の出来事に対しての心も変化していくのが面白かった。

緊急通報ダイヤルの奥で男の声が聞こえていて、女性ははっきりとは喋れない。
この先もアスガーと共に、いろんな電話の向こう側に想いを馳せることになる。
情報が追加されるにつれ、自分の想像の中も変わっていくという経験が面白かった。車種が明らかにされるまでは、想像していた誘拐されてる様子は車内の中だけだった。白いワゴンと言われると、高速道路を走る白いワゴンも見えてくる。

自宅には子供が二人残されている。6歳のマチルダは頭が良く、しっかり者のようだった。これも伏線でもあったかもしれない。
でもこの娘によると、離婚した父が母を誘拐したらしい。そこで、アスガーも私たちもDVの可能性を疑う。アスガーは母を無事に返すと約束して使命に燃える。

一方、明日行われるアスガーの何らかの裁判の証言を友人なのか同僚なのか、頼んでいたラシッドは、最初はごまかすが周囲が騒がしいことが電話でわかり、酒を飲んでいると白状する。そんなことで証言は大丈夫なのか?供述書通りにやってくれとアスガーは怒っていた。この時点でははっきりとはわからないが、何かしらの失態に対して、真実ではないことを証言させようとしているようだった。そのプレッシャーで酒を飲んでいたのではないか。また、その失態が原因なのかは不明だが、妻は家を出たらしい。

アスガー側と誘拐事件とが少しずつ明らかになっていく。アスガーは、おそらく願掛けのような気持ちで誘拐事件解決に臨んでいたのではないだろうか。この事件が解決したら、自分の裁判もうまくいくし、妻も帰ってくる。単なる正義感とも思えなかった。

残された子供達のいる家へ向かった警察からの電話では、マチルダが血だらけであることがわかる。情報が追加され、想像の中の子供が血だらけになる。そして、赤ちゃんは死んでいる。その報告を受けて、アスガーが「息があるか確認しろ!」と言っていたが、私もそう思った。その時点では眠るように横たわる赤子を想像していたから。しかし、腹をズタズタに切り裂かれているという情報が追加されて、確かにそれは確かめるまでもない…と思った。

一気に猟奇殺人事件になってくる。アスガーもそんな男といる女性が危険だと思う。だから、ワゴン車の後ろに閉じこめられている女性は危険だと思ったし、レンガで男を攻撃しろと命令するのもわかる。わかったのだが、この時の会話で、怯えている時は怯えている声なんですが、楽しい会話をしている時にも落ち着いた声色には聞こえなかった。何か変だ…と声だけでなんとなく嫌な予感がしていたら、「赤ちゃんの腹からヘビを出してあげたら泣き止んだ」と…。
そうすると、最初から全てが逆転してしまう。アスガーも同じ気持ちで頭を抱えていて、しかもレンガで殴れなどと言ってしまった。女性は言われた通りにレンガで殴って逃げ出す。

誘拐事件ではなく、夫は妻を精神病院に連れて行こうとしてたんですね。北部はどうやら雨が降っているらしく、電話越しにずっとしとしとと雨音が聞こえていて、寒々しさと物悲しさが伝わってきた。電話のかかってきた場所が、ピンポイントでないまでも広範囲で示されるので地図で大体の場所がわかるのも想像の手助けになった。

逃げ出した女性はアスガーに電話をかけてくる。どうやら陸橋の上らしい。自殺をする気なのだ。
女性も自分が赤ちゃんを殺したことに気づく。今見たら手が血まみれだったと言っていた。情報追加。
ここで誘拐事件とアスガー自身の話が絡み合うのがおもしろい。
アスガーは自分の事件について告白する。若者を撃ち殺したと。確かに悪党だったが殺さなくてもいいのに殺した。明日はその裁判で、同僚にはその偽証を頼もうとしていたんですね。でも、もう緊急通報ダイヤルのほかの電話番の人たちがいる前で堂々と真実を告げていた。そうしないと伝わらないからだ。
自分は故意で殺したけど、あなたは故意じゃなかったのだ。仕方ないではないか。

電話の向こうでは、女性を保護するパトカーのサイレンの音が近づいてきている。女性は「あなた、いい人ね」と言い残して、飛び降りてしまった。
と思ったら、無事に保護されていました。陸橋から飛び降りるだの自殺だのはアスガーが言ってただけで、完全に騙されてしまった。飛び降りたにしては電話が留守電に繋がるんだなとは少し思っていたのに。

ミスリードを誘う作りになっているとはいえ、耳から伝わる情報で想像をすることのいい加減さがよくわかった。でも、想像するのが楽しかったし、映像が頭の中で書き換わっていく感覚が新鮮だった。

アスガーは最後、部屋を出て、誰かに電話をしていた。それは誰かは明らかにされないし、音声もつかない。その状態で私は妻にかけているのかなと想像したが、偽証を頼んだ同僚にかけていると読む人もいるらしい。誰とでもとれるように、わざと音声をつけなかったのだと思う。ラストまでにくい演出。観終わってズシンとくるタイトル含め、おもしろかったです。


渡辺謙とケリー・オハラ主演の『The King and I 王様と私』の映画館上映。
2015年4月にブロードウェイにて19年ぶりにリバイバル上演され、第69回トニー賞では4部門に輝いた(ミュージカル部門リバイバル作品賞、主演女優賞ケリー・オハラ、助演女優賞ルーシー・アン・マイルズ、衣装デザイン賞)。渡辺謙も主演男優賞にノミネートされた。
今年夏には来日公演も控えている。
映画館上映は2018年8月のロンドン公演版。

以下、ネタバレです。






『王様と私』自体は原作が1944年、海外でのミュージカルの初演が1951年、日本でも1965年に日本人キャストにより初演、その後何度も上演されており、映画版もある。
しかし、今までまったく触れてきておらず、『Shall we dance?』くらいしかわからないため、ストーリーも何も把握しないまま観ました。他のバージョンを観ていないため、違いなどもわかりません。今回も渡辺謙目当てです。

舞台は1860年代。タイの王様にイギリス人の女性アンナが子供達の教育係として雇われる。王様に見初められる一般女性の話なのかと思っていたらとんでもない。二人の間にロマンスらしいロマンスはなく、どちらかというと戦友のようだった。

ロマンス成分はタプティムとルン・タという二人が担っているのですが、タプティムが王に気に入られたために、もともと恋人なのに許されぬ二人になってしまう。
タプティム役のナヨン・チョンが歌がとてもうまかった。個人的にはケリー・オハラよりナヨン・チョンが好きでした。夏の公演にも彼女がくるのだろうか。

1860年代のタイは専制君主制がとられていて、誰も王には逆らえない。特に女性の身分は低い。王には多数の妻がいて、子供も70何人と言っていた。
そんな中でもアンナは別の国から来ていることもあり、不平不満をどんどん王へぶつけていく。
傲慢でプライドが高いし、嫌な王だな…と思っていたけれど、観ているうちに彼のことがどんどん好きになってしまう。

70何人かの子供のうちの数人の紹介をするんですが、子供が一人一人わーっと出て来て、最後にアンナに向かって手のひらを上に向けるのですが、アンナが王を見ると、「あなたの両手をその上に乗せて挨拶してあげなさい」とジェスチャーで教えてあげる。あれ?もしや優しい?と思っていたら、子供のうち数人が王に絡んでいき、それへの王の対応がいちいち素敵だった。足にしがみついた子ははがしてあげてたし、反対向きにおじぎをした子は両手で持って向きを変えてあげていた。仁王立ちをする王の足の間を通る子もいた。
子供に好かれているし、王も子供たちのことが好きなのだ。もしかして、いい王様なのでは…。

また、国を一人で治める上での孤独感や苦労、恐怖心などを苦悩しながら歌うシーンもあった。渡辺謙は歌が上手いというわけではないんですが、半分くらい語りのような歌だったし、それより何より、表情が豊かだった。舞台だと大袈裟なくらいに表情を作った方が映えるのだなと思った。また、渡辺謙は日本人の中でも目鼻立ちがくっきりしているのがあらためてわかった。
比べてしまうと、大沢たかおは元の顔のせいもあるが、表情に乏しかったし、演技も大仰なものではなかった。もちろん、そういう役だったからかもしれない。でもでっぷりとした重量感のある体つきは見事でした。

王はプライドの高さゆえなんですが、アンナに聞きたいことがあっても「教えてください」とは死んでも言えないんですね。でも、異文化に興味があって、本当は取り入れたい。勉強熱心で先生(アンナ)がそこにいるのに、プライドの高さが邪魔をする。それで、遠回しになんとかアンナ自身が、聞きたいことを喋るように仕向ける。けれど、その仕向け方が下手すぎて、アンナもこの人、プライド高いから聞きたいのに聞けないんだな…というのがわかる。わかった上で意地悪をせずに教えてあげる。畏れてはいないけれど、王として敬意は払っているから意地悪はしない。王はめちゃくちゃ言っているようで、アンナに甘えてしまっている。なんていい関係なんだろう。

自分よりも頭を高くするなと言っていて、アンナも仕方なく従っていたけれど、そこは意地悪をするように、変に頭を低い位置にしたり、面白いポーズをとったりしていた。アンナはいちいちポーズまで同じようにする。本当に微笑ましい二人だった。
夏の日本公演用のポスターが寝転んでニコニコしている二人なんですが、これも、王様が不意に寝転んだことで、同じポーズをとって図を低くするアンナなんですね。ここで一幕が終わりです。好きにならずにいられない二人だった。

特にやはり、私が渡辺謙目当てで行っていたせいもあるかもしれないけど、彼が出てくると完全に舞台を支配してしまい、観客の心を掴んで離さない。困った王様なんですけど、チャーミングで人間くさい。

二幕はイギリスからの客人を迎え入れるために芝居をするんですが、これがタイの古典舞踊風でメイクや衣装、動き、声の出し方など、かなり見ごたえがあった。要は劇中劇なんですが、違う芝居を二つ観たような気持ちになった。内容自体はとても悲しいものだった。

この後にお待ちかねの『Shall we dance?』があるんですが、これもロマンティックに優雅に踊るのかと思っていたけれど、結構ドタドタしていた。ポルカなので、ステップが弾んでいてダイナミック。でも、ここまで観て来た二人、アンナと王に合っている。
王は異文化だけでなく愛も知るんですが、アンナを愛するというよりは、愛そのものを知った感じだった。もちろん、アンナのことも好きにはなっているけれど、それは妻にしたいという気持ちではない。最初は異国の、しかも女性という訳のわからない存在だった彼女を受け入れたのだ。
この辺りから、多様性や女性の地位向上など、今風のテーマだと思うけれど、これはさすがに原作の通りなのだろうし、そうなると、1944年にこの原作が誕生していたことに驚く。
文化の違いについて、恐れずに受け入れてみると世界を見つめる視野が広くなる。いろんな見方ができると、楽しいことがもっと増える。

また、二幕最初のタイ古典舞踊はさすがに今回特別に加えられたのだろうなと思ったけれど、作品そのものの解説にも、“シャム・バレエ風のダンスによる上演”と書いてあるので、もしかしたら他の上演でもやっていたのかもしれない。でも、さすがに日本人版ではやっていないと思うのだけれど…。
これだけたくさんのバージョンがあるので、何か他にも見て比べてみたい。




『ダンケルク』でピーターを演じたトム・グリン=カーニーのブロードウェイ公演の出演が17日終わった(キャストが変わるが上演は続く)。トミーを演じたフィン・ホワイトヘッドのドラマ出演の情報も出たことで、整理できなくなってきたので、このタイミングで出演者、トム・グリン=カーニー、ジャック・ロウデン、アナイリン・バーナード、フィン・ホワイトヘッド、バリー・コーガンの五人の今後の予定をまとめておく(自分用)。



【トム・グリン=カーニー】

『Tolkien』
『指輪物語』の原作者J・R・R・トールキンの伝記映画。のちに妻となるエディスとの出会いと学生時代、陸軍時代のことが中心に描かれていそう。トム・グリン=カーニーはオックスフォード大学のご学友のクリストファー・ワイズマン役。
イギリスで5/3、アメリカ5/10、ポルトガル6/20、リトアニア6/21で公開が決まっている。
日本のFOXサーチライトのTwitterアカウントもこの映画の宣伝をしていたが、現在公開は決まっていない。(追記:2019年夏公開とのこと)
しかし、有名な人物の映画だし、『指輪物語』を意識したポスターだし、主演がニコラス・ホルトなので公開されるのではないかと思う。


『The King』
Netflix映画。『奪還者』『アニマル・キングダム』のデヴィッド・ミショッド監督。撮影は去年八月にすでに終了してます。
ティモシー・シャラメがヘンリー五世、ベン・メンデルスゾーンがヘンリー四世。シェイクスピアの戯曲を元にしているとのこと。他にも、ジョエル・エガートン、ロバート・パティンソン、ショーン・ハリスなどが出ている。トムはヘンリー“ホットスパー”パーシー役。
秋配信との噂があるけれど不明。年内には配信される予定。Netflixなので、日本も同時に配信されるのではないかと思われます。

『Rialto』
あらすじを見る限りだといざこざが描かれる家族ものっぽい。これも年内には公開される模様。去年の夏くらいに撮影していたようなのでおそらく終わっている。
主人公コルム役にトム・ヴォーン=ローラー。10代の息子を持つ父親で、自分の父の死をきっかけに人生を見つめ直す。トムはジェイという役名がついていて、息子役かと思ったらそうではなく、コルムと関係を持つ男娼役とのこと。


【ジャック・ロウデン】

『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』(原題『Mary Queen of Scots』)
去年の11月のいくつかの映画祭で公開され、アメリカでは去年12/21、イギリス1/18、日本でも3/15に公開されます。
スコットランド女王メアリーとエリザベス一世の書簡を通じた争いが描かれている。ジャックはメアリーの夫、ダーンリー卿役。

『Fighting with My Family』
スティーヴン・マーチャント監督。2012年のドキュメンタリーを基にしたコメディ。WWEに入りたい兄妹が元プロレスラーの父と母と一緒に興行をしながら夢を叶えるべく頑張る…という話だと思われます。
ジャックは兄のザック(Zak)役。
アメリカ2/14、イギリス2/27公開。ドウェイン・ジョンソンがご本人役で出ているし、なかなか好評のようなので、日本でも公開されるといいなと思います。


『Fonzo』
ジョシュ・トランク監督。懲役10年の刑期を終えた47歳のアル・カポネは、痴呆を患って過去の暴力的な日々に取り憑かれている…というあらすじ。ヘヴィーそう。
アル・カポネ役にトム・ハーディ。再び共演。他に、マット・ディロンやカイル・マクラクランも出ます。ジャックはFBIのクロフォード捜査官役。
まだ公開日は決まってませんが、撮影は終わっている。ビッグバジェットっぽいし、キャストからも日本公開もあると思う。

『Corvidae』
4月からスコットランドで撮影されるサイコスリラー。ジャックは制作も兼ねるらしい。スコットランドに拠点を置く新しいプロダクションを作ったとのこと。
詳しいことはわからないけれど、トーマス役。ポスターに名前が出ている三人のうちの一人なので、主要人物だと思われる。タイトルはカラス科の意味。

他、エロティックスリラーみたいな作品が控えていると思ったけれど、タイトルが消えているのでなくなってしまったかもしれない。


【アナイリン・バーナード】

『Dead in a Week:Or Your Money Back』
自殺したいけどなかなか死ねない男が自分の殺害を殺し屋に依頼する。多分コメディ。
殺し屋役にトム・ウィルキンソン。どんな役か不明ですが、ハーヴィーという役でクリストファー・エクルストン。アナイリンは死ねない男、ウィリアム役です。
去年11/16にイギリスで公開、アメリカは11/30。日本でも今年夏の公開が決まっている。ヒューマントラストシネマ有楽町他とのこと(配給ショウゲート)。


 『SHERWOOD』
YouTube制作のアニメーション。ロビンフッドからのインスパイアとのことで、ハッカー女の子、ロビンが主人公。見た目は忍者っぽい。
その悪役と思われる人物のCVがアナイリン。少し見た目も似ています。
3/6にYouTubeプレミアムで公開とのこと。月額1180円(無料トライアル三ヶ月)とのことですが、日本でも観られるのかは不明。
(追記:日本語字幕付きで観られるようです。3/16現在、1話のみ無料公開中)


『Bigger』
ボディビルの創始者、ジョー・ウイダーの伝記映画。サプリメントやトレーニング器具の販売でも有名…とのことだけど聞いたことがないと思ったけれど、あのウイダーinゼリーのウイダー氏だった。
アナイリンはその弟のベン・ウイダー役。
去年の秋にアメリカで公開されているようですが、今年の1月にiTunesやAmazonプライムでネット配信が始まっている。日本での配信があるかは不明。

『The Goldfinch』
『ブルックリン』のジョン・クローリー監督。ワーナーとAmazonスタジオ製作。
主人公テオにアンセル・エルゴート、友人ボリス役にアナイリン・バーナード(子供時代のボリス役がフィン・ヴォルフハルト)。
オランダ、ポルトガル、ロシアで10/10、アメリカ、イギリスで10/11、イタリアで10/17の公開が決まっている。
二コール・キッドマン、サラ・ポールソンなど有名どころが出るし、原作も有名なので、日本でも公開されるのではないかと思うが、製作費を出す代わりにAmazonプライムでのストリーミングの放送権を得るらしいので配信スルーの可能性もある。(追記:2020年公開予定とのこと)

『Radioactive』
『チキンとプラム』のマルジャン・サトラピ監督。
キュリー夫人と夫のピエールの話。マリ・キュリー役にロザムンド・パイク、ピエール役にサム・ライリー。娘イレーヌ役にアニャ・テイラー=ジョイ。
アナイリンが演じるはポール・ランジュバンは、ピエールの教え子であり、ピエールの死後、マリと恋人同士になるが、ポールにも妻がいて…という人物。その他にも秘書との間に子をもうけたりと女癖は悪そうですが、研究者としては優秀で、ソナーを開発したのもこの方。フランス人(!)。
こちらはキノフィルムズがすでに購入済みということで、劇場公開があるかどうかは不明だし、本国公開の日付もまだ決まっていないようですが、いつか日本語字幕付きで観られる。

『The Personal History of David Copperfield』
『スターリンの葬送狂騒曲』のアーマンド・イアヌッチ監督。監督というよりは、元々はオックスフォードで放送メディアの教授をやっていて、スタンダップコメディや風刺作家でもあるらしい。
チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』(カッパーフィールド表記のところも)の映画化。
デヴィッド・コパフィールド役にデヴ・パテル、大叔母役にティルダ・スィントン、貧乏でひょうきんなミコーバー役にピーター・カパルディ、大悪人ユライア・ヒープ役にベン・ウィショー。
アナイリンはデイヴィッドの旧友であり理想像、ジェームズ・スティアフォース役。しかし、傲慢で誇り高い性格、上層思考が強い、下層の人々を蔑視、純朴な人々の生活を破壊など、散々な言われよう。撮影の写真を見ると、特殊メイクなのか本物なのかわからないが、だいぶふくよか。まん丸です。
こちらもギャガが購入済み。本国では年内公開予定。ポルトガルは12/5とのこと。来年のアカデミー賞レース狙い?(追記:2020年早春公開予定)


【フィン・ホワイトヘッド】

『The Children Act』
原作はイアン・マキューアン『未成年』。
信仰により輸血を拒む少年アダムと裁判官フィオナの交流。フィオナ役にエマ・トンプソン。アダム役にフィン。輸入DVDで視聴済み。感想はこちら。原作を読んだ感じだとアダムはもっと幼い感じがしたけれど、何も疑わない純粋さがよく合っていた。人生を変えてくれそうなフィオナに執着する様子は、雛が生まれて初めて見たものを親と思ってついて行くのに似ている。
フランスやイギリスで2018/8月、アメリカで9月に公開された。
キノフィルムズが購入済みなので、日本の情報ももうそろそろ出るのではないかと思う。公開されるのか、DVDスルーになるのか。


『Roads』
監督は140分ワンカットという変わった映画『ヴィクトリア』のセバスチャン・シッパー。
『ルートヴィヒ』や『ラン・ローラ・ラン』に俳優として出演。
フィンは、兄弟を探すコンゴからの青年ウィリアムと出会うギレン役。ギレンは継父に嫌気がさして、モロッコでの休暇中にキャンピングカーを盗んで逃げ出すということで、普通の若者っぽい。二人はヨーロッパ国境付近で会って一緒に旅をする。予告を観ると楽しくもほろ苦い青春ロードムービーかなとも思うけれど、想像よりも辛い目に遭いそう。
ドイツ・フランス共同製作とのことで、ドイツで2/21公開(追記:5/30に延期になったようです。4月のトライベッカ映画祭にも出される予定)。
予告もドイツ語吹き替え。

『Don't Tell A Soul』
ジャンルとしては、ドラマティックスリラーとのこと。ガンを患った母と泥棒によって生計をたてる兄弟の話らしい。兄弟の弟ジョーイ役にジャック・ディラン・グレイザー(『IT』のエディ、『シャザム!』の主人公の友人)、兄マット役がフィン。兄弟が貯水池から出られない警備員と知恵比べ(たぶんもっと悪いこと)をする。
年内アメリカ公開予定。
他にもそこそこ有名なキャストが出ているので公開してほしいけれどどうなるか。

『Port Authority』
20歳のポールは路上でダンスをしていたワイを好きになって恋に落ちるが、ワイがトランスジェンダーだということがわかり戸惑うというラブストーリー。ポール役にフィン。
kiki Ballroomというダンスシーンを題材にした話。

kiki Ballroomはヴォーギング(マドンナの『Vogue』のPVで踊られているあれ)と呼ばれるダンスで対決するイベント。セクシャルマイノリティのコミュニティ形成の場でもあるらしい。1920年代のドラァグカルチャーに端を発するとのこと。ニューヨークの文化でもあるが、日本でも行われたことがあるようだ。
2017年のレインボー・リール東京にて、kikiを扱ったドキュメンタリー『キキ -夜明けはまだ遠く-』(2016年)が上映された。
ワイを演じるレイナ・ブルームはトランスジェンダーのモデルでkikiにも参加していたということで自伝的な作品なのかなとも思うけれど、主人公はあくまでもポールらしい。ポールの目から見たムーブメントということだろうか。

まったくのインディーズ作品で、日本公開は望めないと思っていたけれど、エグゼクティブ・プロデューサーにマーティン・スコセッシの名前もあるらしいのでちょっと期待。
ロドリゴ・テイクセラ(『ウィッチ』の製作)のRT Featuresと、マーティン・スコセッシのSikelia Prods.が新しい才能を発掘するべく2014年に合併したらしい。
ただ、本国でも公開の予定が出ていない。撮影は終了している。

『Inside No.9』Series5
ドラマシリーズのシーズン5にゲスト出演とのこと。他にもジェナ・コールマン、マキシン・ピーク、ジル・ハーフペニー、デヴィッド・モリッシーもゲスト出演するらしいので、一話完結ドラマで一話だけに出ると思われます。
BBC Twoにて放送。海外のNetflixでは配信があるようですが日本ではありません。
コメディとのことだけれど、コメディするのはレギュラー組だけでゲストはシリアスをやらされるのではないかとも思う。でも本当にコメディだったらとても観たい。
S1から全て6エピソードずつ。S1が2014年2月、S2が2015年3月、S3が2016年12月、S4が2018年1月と放映時期が一定ではないのでいつなのか不明。


【バリー・コーガン】

『アメリカン・アニマルズ』
大学生たちが図書館からヴィンテージの画集を盗んだ実話。バリーは犯人グループの一人スペンサーを演じる。他、メンバー役としてエヴァン・ピーターズ。実際の犯人たちも出ているらしい。
日本でも5/17に公開が決まっている。
去年の6月7月くらいからシンガポール、タイなどで上映が始まり、アメリカは8月、イギリスは9月に上映された。

『Black'47』
1945年〜1849年にアイルランドで起こったジャガイモ飢饉の話。タイトルから1847年の話だと思われる。イングランドの政策が要因だったらしい。
バリーは理想主義の若い英国兵のホブソン役。
去年9月にアイルランド、イギリス、アメリカで公開。
日本では公開されなさそう…と思っていたけれど、ジム・ブロードベントやフレディ・フォックスが出ている。

『Chernobyl』
タイトル通り、1986年のチェルノブイリ原発の事故の話。テレビドラマで全5回。バリーはそのうち一話に出演。
アメリカで今年5月に放送されるとのこと。

『Calm with Horses』
こちらもアイルランドが舞台。製作国はイギリス。
元ボクサーが麻薬ディーラーのディバーズ家の用心棒になるが…という話らしい。バリーはボクシングをやっているのでボクサー役なのかと思ったけれど、それは違う方。写真を見る限り、髪を金色に染めてガラが悪そうなので、ディバーズ家の一員ではないかと思われます。

『Y』
2020年アメリカで放送予定の全8話のドラマ。バリーはそのうちのどれか1話に出るようですが、名前など不明。パイロット役とのこと。
ブライアン・K・ヴォーンの『Y:The Last Man』というアメコミが原作。ヨリックという主人公とアンパサンドという猿以外、世界中からオス(y染色体。それがタイトルらしい)がいなくなってしまう…という話。
けれど、出演者を見ると男性が何人かいる。消える事件が起きる前のことだろうか。だとすると、出るのは最初の1話もしくは最後の1話だろうか。