『ベイマックス』


原題“BIG HERO 6”。同名のアメコミが原作になっているとのこと。

以下、ネタバレです。





予告編では“BIG HERO 6”的な要素は伏せられているため、原題を聞いた時にベイマックスが6体出てくるのかなと思ったら違った。
予告編を見る限り、死んだ兄の残したふわふわのロボットと弟の心温まるほっこりヒューマンドラマというイメージですが、実際は、痛快!ヒーロー活劇!といった具合でした。
ほっこり要素もないわけではない。それは主に予告で使われているのですが、ベイマックスに穴があいて、奇妙な音を出しながら空気が抜けていてセロハンテープでとめるシーンとか。

もちろんそれもこの映画の肝だとも思う。兄タダシも「思わず抱きしめたくなるフォルム」としてベイマックスを作ったのだし。
激情したヒロが悪者を殺そうとしたときに、それを止めるのはベイマックスなのだ。ベイマックスには、ベイマックスを作ったタダシの心が引き継がれている。タダシはいなくても、心は残っている。この辺は予告がしめしている通りなのだと思う。

けれど、予告にはまったく出てこなかったバトルの要素もふんだんに取り入れられているのだ。
まず最初から、ロボットファイトである。自作したロボット同士を戦わせている様子は、『リアル・スティール』や『ガンダムビルドファイターズ』のようだった。
屈強な男のあやつる見た目も怖いロボットを、小さいヒロの小さいロボットが見事倒すシーンのあとで、後ろの席に座っていた子供が「すごい…」と言っていて、予告があれでもちゃんと伝わっているのが感じられてほっとした。

そして、BIG HERO 6の6、この話の主役たちはタダシの同級生の科学おたくたちだった。ヒロを加えた5人+ベイマックスで6である。ベイマックスは“=タダシ”でもあると思う。
彼らが自分たちの特技を生かして戦う。スーツも自作する。一般人がヒーローに?というのは『キック・アス』っぽい感じでもあったけれど、それぞれの特技を生かしたスーツなのでそれよりは『アイアンマン』っぽいのかもしれない。スーツを着たベイマックスの飛び方もアイアンマンっぽかった。

ヒロとベイマックスを抜かした4人のキャラクターは、魅力的なのにまったく予告やポスターなどには出てこない。GO・GOの円盤が車輪になっていて足に付いているスーツ、両手がレーザーの刀になっているワサビのスーツ、ポシェットが付いていて日本の女児向けヒロインのようなハニー・レモンのスーツ、フレッドは着ぐるみの怪獣で口から火を吐く! もうどれもこれも恰好良いので、いまからでも遅くないので新しいCMでも作って欲しい。きっと、彼らのことが気になって映画を観たい!と思う人もいるはずなので。
でも、いままで予告で流れなかったおかげで、ネタバレを回避できて、映画を観た時に初見で興奮したので、逆に良かったのかもしれない。

予告で出てきた、スーツを着たベイマックスが力こぶを作るとスーツが全部飛んでっちゃうというシーンは本編では出てこなかった気がするけどどうなんだろう。予告だと、ケアロボットだからスーツは着られなかったみたいなオチに思えるけれど、実際はかなり恰好良く着るし、スーツを脱着できるベイマックスのおもちゃもロビーで売っていた。
スーツを着れば、ベイマックスは空も飛べるし、改造されたスーツではロボットパンチも搭載されている。

スーツを着たベイマックスにスーツを着たヒロが乗って飛ぶシーンは本当にワクワクした。
東京とサンフランシスコを混ぜたというサンフランソウキョウの町並み自体も見応えがあるけれど、それが空を飛びながら見られるのだ。鯉のぼりを模したものが浮いているのもおもしろい。
サンフランソウキョウというから東京なのだろうけれど、ヒロの家の近くの坂の様子と路面電車は、少し函館にも似ていた。

最後に、人間のためにロボットが犠牲になるのは、『インセプション』のTARSを思い出した。人工知能のようなものを持ったロボット共通の切なさ。
ロボットパンチを攻撃のためではなく救うために使うというのが泣ける。また、ロボットパンチの拳の中に、実はチップを隠し持っていたという結末も粋でした。

同じメンバーが活躍する続編も見てみたい。その時には是非、予告に全員登場させてあげてほしい。

デヴィッド・クローネンバーグ監督作品。ジュリアン・ムーア、ミア・ワシコウスカ、ジョン・キューザック、ロバート・パティンソンなど、豪華俳優陣が集められている。

以下、ネタバレです。




予告では、ジュリアン・ムーアが自信過剰でプライドが高く厚顔無恥な、とにかくめちゃくちゃな人物を演じているようだったが、予告の通りだった。本編は勿論予告より長いのでそれ以上の強い印象を残す。
老いて贅肉の付いた体をゆさゆさしながらのスキップと、少し息の切れた♪ラララ〜ラ、ラララ〜ラ、ヘイヘイヘ〜イという歌声から受けるのは狂気でしかない。
トイレでふんばりながら話しかけてくるシーンも酷い。力んでいるから、ブーブーと放屁だけはしてしまう。それで、「あんた彼とヤったの?」などという下世話な質問をしてくるのだから、もう最低。
観る人に不快感を与えるあたり、やはりジュリアン・ムーアの演技がうまいのだろう。カンヌ国際映画祭の女優賞も納得である。

ジョン・キューザックも大概不気味だったが、こちらは『ペーパーボーイ』のほうが不気味さでは上だった。でも今回も胡散臭く、怖い役です。

何を考えているかわからない感じはミア・ワシコウスカも同じだった。明るい表情もあったにはあったけれど、裏に常に暗さを纏っていた。後半になるにつれて空元気も消えて、眉をひそめ、怖い顔になっていた。
彼女はなんとなく体温を感じないというか、儚いというか、人ならざる者というか、人間を食いそうな感じというか、独特な雰囲気のある女優だと思うので今回の役も合っていた。
だから、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の吸血鬼役も合っていたと思う。ただ、あの鬼っ子は陽の部分だったが、今回は陰の部分だった。あの役は実は幽霊で…と言われても納得してしまいそう。

今作の脚本家が実際にハリウッドでリムジンの運転手をしていた経験を元にしているらしいので、運転手役であるロバート・パティンソンが主役なのかと思っていたがそんなことはなかった。
彼のナレーションでストーリーが進んでいくとか、傍観者として全体をまとめる役割であったりもしない。どちらかというと、出番はそれほどなかった。
デヴィッド・クローネンバーグ監督と組んだ前作『コズモポリス』のラストでロバート・パティンソンが気になったのでもっと見たかった。

これはもしかしたら監督の特徴なのかもしれないけれど、セリフが多くて、カメラは喋っている人を撮りながら話が進んでいっていた。
うんちくのようなうんちくでないような、ストーリーに関わっているような関わっていないような、伏線のような伏線でないような。
タランティーノのように無駄話を延々とさせるということではないけれど、とにかく一度喋り始めたらずっと喋っているので、そのうち字幕を追う目が滑るというか、集中力が削がれるというか、単調に思えるシーンが多々あった。

喋るけれどそれが彼らの本心かどうかはわかりかねるし、登場人物の誰もが誰かに寄り添うこともない。アガサは運転手と寄り添いかけるが結局めちゃくちゃに壊される。ストーリー上のまとめ役もいないので、一人一人が別のことを考え、違った方向を向いているように感じた。そして、誰にも共感も感情移入も出来ない。
ラストも本当にこれで良かったのかわからない。解決したようでしていないと思うし、なんとなく不完全燃焼感が残った。

ただ、映画は必ずすっきり終わらなくてはいけないとも思わないし、この全体を流れる奇妙な不気味さはちょっと他の映画では味わえないと思う。

今年の年末で閉館になる新宿ミラノ座のさよなら興行、「新宿ミラノ座より愛をこめて〜LAST SHOW」での上映。
IMAXでなくても大きなスクリーンで観たい、という時によく利用していた劇場だったので、閉館は本当に残念です。
いつも座る席を決めていたんですが、今回はほぼ満席で座れなかった。

映画上映前に、支配人の方から作品の簡単な紹介があった。劇中に出てくる童謡は大林宣彦監督のオリジナルとのこと。てっきり尾道か広島の地元の童謡だと思ってた。
また、ロビーでラベンダーの香りを焚くという粋な演出も。それに対しての「お客様がタイムリープの能力を身につけても、責任は負いかねます」という、これもまた粋な言葉には、会場から拍手が起こっていた。

1983年公開。ビデオやテレビでは何度も観ているけれど、映画館では初だった。フィルム上映。

タイトルが出た後、尾道の街並の中を制服姿の高校生が登校していて、桜が満開で…というシーンがまず美しい。特に説明は入らないけれど、その前のシーンがスキー旅行で、帰る時に「山は冬だけど降りるともう春なんですね」みたいなセリフがあって、大体の季節がわかる。

子供の頃に観た時には、日本人形の首が伸びるシーンよりも時計屋の主人が店の奥で不気味に笑っているのが怖かった。時計の針が飛んでくるのの後だと憶えていたので、顔を伏せていたんだけれど、大人になってから観ると、それほど怖くなかった。

三角関係ものというのはもともと好きな要素なんですが、それに加えて、タイムリープでも記憶喪失でも前世の記憶でもなんでもいいんですが、知らない相手を何か知っているような気がしてしまう、気になってしまうというロマンティックさという、二つの要素が入っているところも『時をかける少女』が好きな要因です。

あと、今回久しぶりに観て気づいたのは、どうやら三角関係以上だったということです。はっきりとセリフでは出てこないけれど、委員長(とも言われてないけれど、クラスの代表っぽい女子)はごろちゃんのこと好きっぽかった。和子とごろちゃんが話してるときに、複雑な顔をしてるシーンがあった。たぶん、ごろちゃんのこと好きでありながら、ごろちゃんが和子のことが好きなのもわかってたんだろう。

今回、私は深町くんより、断然ごろちゃん派でした。飄々としているようで、和子のことをずっと守ってる。返してもらったハンカチを顔に当てるシーンは、素直になれなさを表しているようでいじらしかった。
最後に実験室で倒れている和子を発見した時には、いつもは「芳山くん」って呼んでるのに咄嗟に「和子ちゃん!」って、昔の呼び方が出ちゃってた。たぶん、高校生になったし、なんとなく恥ずかしくて、気取って「芳山くん」なんて呼び名にしてたんですよね。和子は「ごろちゃん」って呼ぶのに。なのに、幼馴染みらしい呼び方が、咄嗟の時には出てしまう隠しきれなさ。意地を張り通せない。
10年後になっても、和子を遊びに誘おうと電話をかけてくるあたりも本当に好きなんだと思う。和子はあの調子だし、おそらくほとんど断り続けてるんですよね。そのめげない姿勢も、報われて欲しいと思った。

でも、ラストで深町くんがもう一度出てきてしまう。お互い憶えていなくても、何かが気になるのか、タイミングがずれても二人で振り向く。和子がこの先、何かあるとしたら、ごろちゃんより、このニュー深町くんのほうなんですよね。
幼い頃から大人になるまで、ずっと和子のことを気にかけているのはごろちゃんなのに…。
つらいけれど、ただ、この切なさも三角関係の醍醐味でもある。

主題歌の歌詞もほぼ深町くんのことのようですし、たぶん、深町くんとのラブストーリーがメインなんですよね。それもわかってるんですけどね…。

あと、いままでメロンのくだりは普通に観てたんですけど、あれって父のゴルフのブービー賞の景品なんですね。日曜日に貰って来て、月曜日は「まだ熟してない」と言われ、火曜日に一日置いて「食べごろ」と言われる。

和子は日にちを行ったり戻ったりするけれど、日めくりカレンダーや黒板の日付やメロンなどで日にちがわかるようになっている。周囲の人物に加えてメロンも時間と一緒に正常に進んでいるけれど、和子だけがちょこちょこ移動しているのがわかりやすい。

あとは、改めて見て、30年前としてはSF表現がかなり斬新だと思った。
特に最後の時の旅人になったときの映像はおもしろい。和子が昔の姿を窺おうとすると、子供和子がその場からすっと姿を消す、同じ人が一緒に存在出来ないルールもここですでに採用されている。
ここで、深町くんは和子をお姫様抱っこするんですが、これって最初の和子が実験室で倒れているシーンでごろちゃんが和子を持ち上げられないのと対になっているのかもしれない。結局、足の方をごろちゃんが持って、頭側を深町くんが持って、二人で保健室に連れて行くんですが、深町くんは一人でも和子をお姫様抱っこできる。ここでも深町くんに軍配が上がってた。

この映画はエンドロールも最高でたぶん誰も席を立てないと思う。実験室で倒れている和子が、おもむろにむくりと起き上がって、主題歌を歌い出す。MVとNG集が一緒になった感じのもの。ここでは不気味な笑みを浮かべていた時計屋の主人ものりのりで、幼い頃に観たときにもほっとしたものです。
そして、最後の原田知世のまったく汚れの無いはにかんだ笑顔が本当に可愛い。いい映画を観たという想いがじんわりと浮かんできて、爽やかな気持ちで席を立てるのだ。




2009年公開。ピクサー・アニメーションスタジオ製作。ピート・ドクター&ボブ・ピーターソン監督。二人とも中で声の出演もしています。

映画はカールじいさんの幼少期から始まる。エリーと出会い、結婚をして、困難を乗り越えて、二人で仲良く暮らし、やがて年老いてエリーが亡くなる。ここまでのカールじいさんの半生を10分間でやる。最初の幼少期はセリフなどもあるけれど、結婚以降は音楽のみで、でも何があったかがしっかりとわかる作りになっている。たった10分とは思えない濃さだし、ずっと連れ添った(と思えてしまう。10分なのに!)エリーが亡くなったところでは、泣いてしまった。
この冒頭10分があるとないとでは全く違う。主人公カールじいさんの歩んで来た道がわかる。ふまえた上で映画本編の冒険なのだ。
もともとはエリーが冒険に積極的だったし、エリーがカールを引っ張るようにして、若い二人が冒険に出てもよかったはずだ。しかしそうすると、ありきたりな話になりがちかもしれない。

ずっと連れ添った妻が亡くなり、家も立ち退きを迫られて、もう後先なくなったところで、引っ込み思案だったじいさんが、一念発起して一人で冒険へと旅立つ。
じいさんがじいさんになっていても旅立つ理由が、冒頭10分を見るだけですべて伝わってくる。そこに説明臭さは一切無い。

そして、大量の風船で家ごと飛び立たせるという斬新さもいい。いろとりどりの風船によって浮かび上がるシーンは、映画館で観たかった。

目的地のパラダイスの滝へは、わりと序盤で辿り着いてしまう。パラダイスの滝が見える場所から歩いて目指す。家は浮いたまま、じいさんと相棒の少年が引っ張っていく。タイトルに“空飛ぶ家”とついているから、家を乗り物としての空の旅だと思っていたのに、そうくるとは思わなかった。
でも、最初の10分といい、目的地にすぐについてしまうところといい、時間配分がおもしろい。
また、見えている目的地を歩いて目指すというのもじいさんだしちょうどいいのではないかと思った。

途中、ずっと憧れていた人に会うことができて、その人が悪い人になっていたのはショックだった。意外性を持たせるためだと思うし、悪役が必要だったのもわかるけれど、じいさんの憧れがやぶれるのはとてもさみしい。じいさんになるまで憧れていたし、じいさんになっての 冒険の先で出会う現実としては厳しいと思う。しかも、亡くなった妻の想いとともに行っている冒険なのに。二人を結びつけたのもその憧れの人だったのに。
しかも、最後は上空から落下して終了というさみしさ。落下したところまでしか出ていないけれど、おそらく死んでしまったのだろうと思う。
もっと、途中で改心するとか、どうにか憧れを保てるような何かを残して欲しかった。

家も落下してしまうけれど、それがパラダイスの滝の横に降り立つのは良かった。じいさんは辿り着けないけれど、二人の想いが宿る家はちゃんと目的地にたどり着いたし、エリーが少女の頃に描いた絵の通りになった。
映像では出ないけれど、残っていた少しの風船の力を借りて、そこにふわりと降りた様子が見えるようだった。優しく静かな終わり方でした。

原題は“Up”というシンプルなもの。そのままでは公開しにくそうなので、邦題が別に付くのはわかる。ただ、本編でも、カールじいさんとは呼ばれていないんですよね。彼のことを呼ぶのはほとんどが一緒に冒険をするラッセルで、呼び方は「フリドリクセンさん」だった(吹替の場合)。じいさんの冒険というのがこの映画の珍しいところなので、じいさんという言葉は残したい。けれど、フリドリクセンじいさんではゴロも悪いし、○○じいさんならばファーストネームのほうがしっくりくる…。なので、カールじいさんでも仕方がないのかなと思う。



2014年公開。アメリカでは2013年公開。
ジェイソン・サダイキス主演。ジェニファー・アニストン共演。主人公の友達で麻薬組織の元締めの人、どこかで見たことがあると思ったら、『ハングオーバー!』シリーズのスチュ役のエド・ヘルムズだった。

バラバラの人たちが旅の道中で結束するというと、『リトル・ミス・サンシャイン』を思い出すけれど、あちらは一応本当の家族だったけれど、こちらは違う。
メキシコの国境を通るために、一人の独身男性よりも家族旅行を装った方があやしくないだろうというひらめきのもと、集められただけだ。しかも、麻薬の売人、場末のストリッパー、親が留守しがちの子供、ホームレス娘(っていわれてたけど、家出娘みたいなニュアンスなのかも)という、ハンパもの。これを考えると『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』的でもあるのかもしれない。

旅がメインのロードムービーなのかと思ったら、わりと簡単に目的地にはたどり着く。帰路で出会った家族とのすったもんだと、実は元締めから騙されてたというアクシデントはあれども、道すがらというわけではない。
大きく何が起こるというよりは、細かく起こることで笑わせていくコメディだった。

セリフも細かくて、“不幸な身の上話は嫌いなんだよ。だから『プレシャス』のDVDも観てない”とか、パーカーの帽子をかぶっている子に対して“お前は『8マイル』のエミネムか”とか、いちいちおもしろい。また、“俺がマーキー・マークで、お前らはファンキー・バンチだ。わかったか?”みたいなセリフがあったけれど、これは日本語訳では“俺がジュリーでお前らがタイガース”になっていた。確かにマーキー・マーク&ザ・ファンキー・バンチ(マーク・ウォールバーグが過去に組んでいたヒップホップグループ)はわかりにくいけれど、ジュリー&タイガースじゃないし、意味合いとしては、原語のほうがもっと“俺”の立場が上な感じがする。ちなみにこの場面、劇場では“俺がフミヤでお前らがチェッカーズ”だったらしい。私はWOWOW視聴だったんですが、DVDはどうなんだろう。
でも、他にもコメディならではの細かいセリフがあったし、字幕が大変だったと思う。近年よくある町山さん監修かと思ったけれど、これは違うようです。
ちなみに、WOWOWだと“ブラック・コック・ダウン(ブラック・ホーク・ダウン)”はそのままカタカナだったけれど、劇場だと“黒い巨塔”だったらしい。

花火を買ってくれと子供役たちが騒いで、妻役が「買ってあげたら?」と言うシーンや、子供役が好きな女の子にうまくキスできなくて、それに対して父親役がアドバイスを送るシーンは、それだけ見れば本当の親子のようだった。

車のラジオから流れるTLCの『Waterfalls』に合わせて妻役と子供役二人が歌うシーン。夫役が「この曲好きじゃない。当時からピンと来なかったし」と言っていても、三人は好きで歌い続けている。ラップの場面で息子役のどちらかといえば冴えない坊主が完璧にやってのけるんですよね。そこで、絆は深まったし、あとで夫役が一人で車に乗っているシーンでも、この曲が流れてきて切なくなっている。完全に、“家族”の思い出の曲になったのだ。

ラストシーンでは郊外の一軒家に、四人が暮らしていて、そのいかにも幸せそうな様子から、旅を通じて本当の家族になったんだな…と思ったら違った。裁判までの間の証人保護プログラムのため、集められていただけだった。おまけに庭ではマリファナが栽培されていて、まったく懲りた様子がない。
家族というより、共犯者が増えただけですね。このハズし方が最高だった。

だから、原題の“僕たちミラー家です(WE’RE THE MILLERS)”のわざとらしさも好きです。でもやっぱり、人の名前が入っている原題は変えられてしまうようで。

エンドロールの前にNG集が入っているのも楽しい。共演者同士が仲良くやっているところを観ていると、こちらまでにこにこしてしまう。
特に、『Waterfalls』が流れるべき場面で、フレンズのテーマ曲が流れるドッキリはおもしろかった。ジェニファー・アニストンのやられたーって顔が可愛かった。



ホビット三部作の三作目であり、『ロード・オブ・ザ・リング』の一作目に繋がるらしい。
サブタイトルは“行きて帰りし物語”のほうがいいのではないかと思っていたけれど、“決戦のゆくえ”で良かったと思う。
いま調べたら、原題も“There and Back Again”ではなくて“The Battle of the Five Armies”に変更されていたらしい。

以下、ネタバレです。



面白かったことは面白かったけれど、ホビットの三作目と言われるとどうなんだろうと思った。一作目でビルボが「冒険に行くんだ!」と意気揚々と駆け出したシーンの印象が強かったので、冒険で三部作観たかった。今作はほとんどが戦闘シーンだった。

前作は竜のスマウグが「村を襲ってやる」と言って、飛んで行くところで終わった。一体どうなってしまうのか、ひやひやする終わり方だった。今作は前作のあらすじも何もなく、いきなりスマウグが村の上空に来るシーンから始まる。
前作のあらすじは別になくてもいいと思う。でも、スマウグのシーンはあっさり終わってしまう。

前作で、バルドが黒い矢を放てば…みたいな話が出てたけれど、まさにそれでスマウグが倒される。今回出てくる新しい案は特にない。ピンチらしいピンチと言えば、弓が折れて息子の肩を使って矢を放つというところくらいで、わりと短時間で事態は収束する。村は焼き払われてしまうが、スマウグは討伐される。

こんな短い時間で片付くなら、『ホビット3』までひっぱる必要はあったのかなと思ってしまった。2の最後に入れられたのではないか。
前作の最高潮の盛り上がりに続けて観たかった。いきなり最高潮から始まっても、気持ちがついていかない。
そう考えるとやはり、あらすじを入れてもらって、その間でちょっと気持ちを盛り上げたほうが良かったのだろうか。

その後は、トーリンがスマウグの金貨にとりつかれてしまうことはあっても、ほぼ戦闘です。人間、エルフ、ドワーフ、オーク軍が入り乱れる。サブタイトルの“The Battle of the Five Armies”のとおりなんですが、もうホビットをはずして、“The Battle of the Five Armies”というタイトルの映画のようなだった。
Fiveのもう一つはなんだろう。魔法使いかホビットかなと思うけど、ガンダルフは魔力を失ってるからホビットかな。

わくわくするような冒険を期待してたんですが、今回は場所はほとんど動かない。ただ、はなれ山を目指していてそこに辿り着いたのだから、どうするのだろうとは前作の時に思った気がする。
行きて帰りし物語だったなら、ビルボがホビット庄に帰る冒険が観たかった。でも原作がある映画だし、勝手にそんなこともできないのだろう(原作未読)。
それか、今回の戦闘を短くして、前二作をもう少し短くして、少しずつずらせば三作目の途中ではなれ山に辿り着いたのではないか。

今回、ビルボはほとんど活躍しない。あまり戦闘に向かなそうだし、戦闘が主の本作では仕方が無いのかもしれないけれど、補助的な役割だった。
どちらかというと、トーリンが主人公のようだった。ただ、金貨に惑わされたトーリンが、自分自身の声で正気に戻るのはもったいないと思う。自分の中の“祖父とは違う”という言葉を反芻してのものだった。あんなに仲間がたくさんいるのに、仲間の言葉には聞く耳持たずだったのは残念。

映画のほとんどを占めるのは戦闘というか戦争で、それぞれの軍の人数の多さにまず圧倒される。楯をがっと並べてその隙間から槍を出した守りの部隊と、それを乗り越えて戦闘部隊が飛び出してくるシーンも恰好良かった。

人間は馬に乗っているのは、まあよくある風景である。その中でもバルドが白馬に乗っているのは、周囲にも村の代表と認められたようでかっこいい。他の種族が他の乗り物に乗っているのが面白い。
エルフの王スランドゥイルはムースのような大きな角をつけた動物に乗っている。左右の角で三匹ずつオークをとらえて首を刎ねるのが恰好良かった。また、動物の大きな角とスランドゥイルの太い眉毛がなんとなく合っていたのもおもしろい。
ドワーフ軍の代表、トーリンのいとこのダインはイノシシのような大きな豚のような動物に乗っていた。ドワーフは体が小さくごつっとしているが、動物も同じようなイメージだった。
それぞれの種族がそれぞれの体に合った動物に乗っていた。また、その動物たちが装飾品や鎧を身につけているのも見ていて楽しかった。ちょうど『300』の象のように。
動物の装飾だけではなく、武器などの造型のこだわりや一つの画面の中での情報量の多い戦闘、大人数が入り乱れているあたりなど、ところどころで『300』を思い出すシーンはあった。

トロールが出てきた時のその大きさにも驚いた。ここも引いて撮っているので、人間大に比べての巨大さがわかる。その攻撃方法もおもしろく、背中に二、三人オークを背負っていて、トロールが屈んで後ろのオークたちがパチンコの容量で石を飛ばし、壁を破壊していた。
このような、ストーリーとはまったく関係のない細かいところに凝っている様子も『300』っぽい。逆に言えば、今作はそのほとんどが戦闘シーンで占められているので、凝ってはいるけれど、内容はほぼないです。

前二作を観ているときもゲームっぽいなと思っていたのですが、それはファンタジーRPGっぽかった。今回は、ゲームはゲームでもジャンルは違う。大人数の戦闘は戦国BASARAのようだったし、後半のトーリンやキーリがアゾク達と戦う一対一の戦闘は格闘ゲームのようだった。どちらにしてもアクションです。

倒れた塔を橋代わりにして、壊れるところをひょいひょいジャンプして渡るレゴラスは、エルフの軽やかさがよくわかった。華麗でした。ゲームだったらあんなにタイミングよくジャンプするのは難しそうと思ってしまった。

その次のアゾクとトーリンの戦闘は更に難しいステージといった感じだった。まず、足場が氷になっているため立っているのもやっとで戦いづらい。そして、鉄球のようなものを打ちつけてくるので、避けても足場が壊れる。これは難易度が高い。

戦闘は戦闘で、これ単体で見れば非常に見応えはあって面白い。ただ、140分のほとんどが一つの戦闘で、しかも、これがホビットの最終章というのはどうなのだろうと思う。別の映画だったら最高でした。

戦闘が終わったあとには、きっとこれは『ロード・オブ・ザ・リング』に繋がるのだろうなと思うエピソードも出てきた。
レゴラスの向かう先のことも出てくるのだろうし、ガンダルフがビルボの家を訪ねてくるシーンで終わったけれどそこから始まるくらいなのではないかと思う。また、序盤だけれど、森の奥方が追い払ったネクロマンサーたちのことも出て来るのだろう。

毎度お馴染みのHFRで観ましたが、相変わらず明るいシーンでは色がはっきりしすぎてコントのようになっていた。
ただ、今回は村が焦土にされるのも夜だし、戦闘シーンも雪が積もっていて空も曇りのため、あまり日中のシーンはなかった。
また、瞳の色がいつも綺麗な色になるのが目をひいていたけれど、アゾクの小さな瞳まで綺麗な澄んだ色になってしまっていた。

前二作と雰囲気は違っても、画面につめこまれた情報量という面では同じなので、高画質のほうが細かいところまでよく観られたとは思う。

あと、HFRは関係ないかもしれないですが、今回もカメラが後ろにぐわーっとひくことで全体の広さを示す撮り方をしていて、これが毎回酔う。

あとこれも、別にHFRとは関係がないかもしれないけれど、スマウグが上空後方から来るシーンで、本当に映画館の後ろのほうから飛んできたように錯覚した。

原作は600万部売り上げた小説であり、作者のギリアン・フリンは脚本として携わっている。デヴィッド・フィンチャー監督作品。音楽はすでに常連になったトレント・レズナーとアッティカス・ロスで、この辺も楽しみにしていました。

以下、ネタバレです。






何度か映画館で予告を観ていたんですが、その印象とはまったく違うものとなった。
妻エイミーが失踪したポスターの横で偽っぽい笑顔を浮かべる夫ニック。水に沈んで行くエイミーの映像から、誰かに殺されたか自殺したか、とにかくもう死体は上がったのだと思っていた。
そして、次第に周りから疑われるニック。「殺していない」というセリフから、何か陰謀に巻き込まれようとしているのか、或いは本当に殺したけれど偽っているのかと思っていた。
妻が殺され、夫が疑われながらも犯人を捜し出すという話だと思っていたのだ。要は『Prey』と同じ感じですね。

また、最初に見た特報では『SHE』が使われていたのもずるい。いかにも恋愛映画でござい、といった風だった。

現に序盤の回想シーン、出会いのシーンやプロポーズのシーンは、ロマンティックムービーのようだった。ベーカリーの裏で、雪のように舞う粉砂糖が口唇に付いていたのを指で払ってキスをするシーンも素敵だった。
ここで使われている曲が、ふわっとしていて幻想的なものなんですが、どこか不安感をあおるもので、このさじ加減がやはりあの二人の仕事なのだと感じさせた。手放しで幸福感に浸れない。

序盤ではニックの浮気がバレたり、実は二人とも失業して、金の切れ目が縁の切れ目かと思うようなギスギス具合だったりと夫婦間がうまくいっていなかったことがわかる。これはもしかして本当にニックが殺しちゃったのかもしれないと思いながら観ていたら、どうやら罠にはめられたようで、しかも罠をしかけたのがエイミーではないか、という疑いが出てくる。

ニックと彼の味方でいたいと思う妹、彼を疑う警察官の視点で進んでいき、失踪しているエイミーは失踪しているので当然ですが、回想シーン以外には出てこない。エイミーに関しては予測しか出来ない。ここまではなんとなく普通のミステリーのようだった。

しかしその後、話がエイミー視点になるのだ。事件を探る側が真実に辿り着くわけではなく、“犯人”自らの視点で、手口をばらすのがおもしろい。
しかも、ラストではなく映画の中盤過ぎくらいで出てくるのは珍しい。

それは思っていたよりもずっとおぞましい真実で、しかもそれがなんてことのないことのように、駆け足で説明される。
自分の血を抜きながら本を読んでいる姿も、妊婦の尿をこっそりと採取する姿も、なんとも思ってなさそうに見えた。
用意周到、長い間かけて練られた計画で、慌てること無くてきぱきと犯罪現場を作り上げる様子はコミカルで痛快にも見えた。
ここでは、少しNINを思わせる曲が使われていた。

ここまでの回想シーンででてきたエミリーとはえらく違っていた。おそらく、警察や夫のニックでさえも見たことの無い姿だと思う。
前半とここ以降、エミリーを演じるロザムンド・パイクがまったく違う人に見えるのがすごい。豹変している。前半だと聡明で明るくて美人で…という感じだったけれど、ここからは聡明なのは聡明なのだろうが、違った方向にその才能を生かしている。表情も強かで冷たい。
逃亡しているからノーメイクだったり、パートナーに暴力を振るわれたように見せるために自分で自分をかなづちで殴ったりと、なんでもする感じだった。

ニックは友達はいなかったんじゃないか、妊娠しているはずは無いと言っていた。浮気をしていて、気持ちは離れていても、ある程度正しいところを見ていたことになる。
また、妹がエイミーのことを好きなれないと言っていたのも、女の勘というか、正しかったことになる。

しかも、話が進んでいくと、エイミーの昔の彼もレイプ犯に仕立て上げられたという話が出てくる。今回が初犯ではなかった。前からのことだと考えると、結婚記念日の宝探しについても同じなのかもしれない。緻密な計画を立てて、人を引っ張り回す。
このように歪んでしまったのは、おそらく母親の書いた絵本が原因なのだろうと思う。『完璧なエイミー』という同じ名前のキャラクターで、明らかにモデルにされているのに、現実のほうが劣っている。人間なのだから当たり前だ。でも、母親はおそらく、理想を押し付けたのだろう。だから、エイミーも相手に完璧な理想を求めた。

逃亡中に金を盗まれたエイミーが縋ったのは、昔ストーカーじみたことをされたデジーだった。ニール・パトリック・ハリスが演じてます。ここでなんでデジーに連絡したのだろう。本当に頼れる友人なんていないのだというのもわかる。気が動転していて忘れてしまっていたのかもしれない。少し考えればわかりそうだけれど、エイミーはデジーの別荘で軟禁状態にされてしまう。

ニック側ではエイミーの死体は出ないし、マスコミや世間の声が次第にニックを犯人にしようとしていて、警察もそのように動き出していた。絶体絶命の中、テレビで良い夫を演じることで一旦は収まるけれど、それを見たエイミーは帰りたいと思う。
理想の夫は演じられていたものでも、それを見て惚れ直す。結構、惚れっぽい面もあるのだと思う。
ただ、軟禁状態でどうするかといったら、また計画を立てて、偽装して、逃げてくる。いままでと一緒のことだ。

血だらけで帰って来たエイミーをニックは抱きしめるが、あくまでもテレビ向けのこと。頬にキスなども、見えない角度で口唇をパッとやるだけ。

マスコミや世間は勝手で、その様子を見て理想の夫婦などとまつりあげるが、ニックはたまったものではない。でもエイミーは繋ぎ止めておきたい。
そこでどうするかといったら、また計画を立てて実行する。
不妊治療中だったため、ニックの精子が病院にあったので、それを使って勝手に子供を作ってしまう。

子供のことを出されたら、もうニックも別れられないんですよね。エイミーの望みが全部叶えられたところでおしまい。
エンドロールに使われているのは、後味の悪さを示すような曲でした。なんともいえないもやもやした気持ちが胸の奥にずんと残っているのに、重さを更に追加するような曲だった。不安感が増す。
そんなところで終わって、その先を私たちに委ねられても。
刑事と妹がどうにかしてくれるのに期待するしかない。

本当だったら、エイミーが逮捕されたり、エイミーがこうなってしまった原因と思われる母親とのなんらかの和解などがあると、見終えてすっきりするんですが、そんな甘い終わり方ではなかった。

最初と最後に使われているのが同じ感じのショットなんですが、セリフは一緒だけれど、エイミーも同じ顔だったのだろうか。明らかに、最後のエイミーのほうが怖いことを考えているように見えた。映画が始まる前と最後とでこれほど印象が変わるとは。

ベン・アフレックの良い夫に見えるけれど、実は流されやすく弱い部分があるという演技も良かった。カメラを向けられて笑ってしまう部分はつられすぎだろうと思う。そういえば、顎を指で隠して話すシーンがあったけれど、これは原作だとどうなっているのだろう。ベン・アフレックだから顎なのだろうか。

それでも、やはりこの映画はロザムンド・パイクなのだと思う。『ワールズ・エンド』で観た時には、さばさばしていて好感は持てるけれどちょっと田舎っぽい印象だった。今作では、ちゃんとしているときには気丈で洗練された美人に見えるし、裏の顔は血の気がないというか硬い表情で、本当に怖い。
ただ、憎らしいけれど、なぜかもっと観ていたいような、不思議な魅力があった。

“4人の俳優が12年間家族を演じた”という宣伝文句の“家族”の部分を読みもらしていたので、主人公の男の子の12年間を4人の俳優が演じているのかなと思っていたのですが違った。
撮影期間が12年間で、演じているのは同じ俳優さんたちだった。

以下、ネタバレです。




『いとしきエブリデイ』も実際の4人兄妹を5年間かけて撮影しているため、よく引き合いに出されるのですが、『いとしきエブリデイ』のほうが歯磨きや朝起きて学校へ行くなどというルーチンワークを描いていて、よりドキュメンタリーっぽかった。
この映画も淡々とはしているけれど、ドラマティックな時々が入っているし、より演技している感じはする。
5年と12年という歳月の違いもあるけれど、6才から18才という時期は髭も生えれば声変わりもする。わかりやすく変わってくる時期なのかもしれない。
姉の12年でもあるんですが、この子は小さい頃からそれほど変わらない。髪を赤く染めたり、化粧をしたりはもちろんします。この子はリチャード・リンクレイター監督の娘さんらしい。

子供だけでなく、当たり前だけれど、親たちも12年間経っている。時の流れは誰にとっても等しいものだ。なんとなく、子供の成長だけを描いた映画だと思っていた。

母親は見た目にも少し太ってくるし、胸も垂れてくる。体つきから加齢が感じられた。
父親に関しては、見た目は髭が生えたくらいでそれほど変わらない。中年太りもしていない。これは、演じているのがイーサン・ホークだからというのもあるのかもしれない。

ただ、内面は随分と変わった。若くして親になったときには逃げ出したけれど、息子が15才の誕生日には、新しい奥さんとの間に赤ちゃんが生まれていた。昔から大事に乗っていた趣味の車(GTO)を売り、ファミリータイプに買い替え、ミュージシャンになることもあきらめて、会社勤めを始めていた。やっと親になる決心がついたのだろう。

母親も最初は子供を大事にしながらもフラフラしている様子だったが、大学で学び、そのうちに教授になって教鞭をとるようになるとまるで別人のようだった。恰幅が良くなっているせいもあるかもしれないけれど、頼りがいがある。

『6才のボクが、大人になるまで。』というタイトルですが、大学に入り家を出ただけで大人なったわけではないので、原題の『BOYHOOD』か直訳の“少年時代”でいいのではないかと思う。少年時代は、確かに終わる。大人にはなっておらず、大人への階段をのぼり始めたところだと思う。
大人になったのは6才のボクではなく、むしろ、両親のほうだ。

いちいち、何年という表示は出ないけれど、車の中や店内で流れている音楽や映画の話、使っているゲーム機などで大体の年代がわかるのがおもしろかった。

最初の方でドラゴンボールを見ているシーンがあるんですが、これはアメリカでの放送がどれくらいずれているのかわからないのでなんとも言えない。魔神ブウのあたりでした。寝ている布団のカバーもドラゴンボールだったので相当好きなようだった。

父親の家に遊びに行った時に「妖精はいるの?」という話をしているのですが、次の日に送ってもらう車の中で流れていたのがThe Flaming Lipsの『Do You Realize??』(2002年)。
アル中の継父に車で連れ回され、酒屋で換金させられてるときに流れていたのがGnarls Barkleyの『Crazy』(2006年)。
二番目の夫のところから逃げて来た後だったか、母親が学校まで送って来たときに車の中で流れていたのがPhoenixの『1901』(2009年)。

あと、父親と二人でキャンプをしたシーンで、「あの子(好きな女の子)は『ダークナイト』や『トロピック・サンダー』の魅力が全然わかってないんだ」と話すシーンがあって、両方とも公開は2008年なのでそのあたりのようです。
それより、『ダークナイト』は名作として名高いのでいいんですが、それと『トロピック・サンダー』を並べてくるこの子のセンスがとてもいい。将来が有望だと思った。

それもそうなんですが、高校卒業あたりで「人間がさらわれてロボットにされる」と陰謀説を彼女に話したり、アート写真を撮って現像していて授業にでなかったりと、幼い頃に離婚をしていても、少なからず実父の影響があると思った。

主人公の高校卒業の日に、父親の友達だかバンド仲間のライブに行くシーンがある。その人は「あの時小さかった子がこんなに大きくなって」みたいなことを言っていたけれど、その人が変わらずにバンドというか音楽活動を続けていたのも驚いた。
その時に、お祝い代わりに歌を捧げてくれるんですが、ここ、歌詞が出てきたら絶対に泣いていたシーンだと思うんですが、イントロでシーンが変わってしまう。
なんとなく、泣かす要素を排除しているようにも思えた。

感動というよりは、感慨深い映画だった。監督にしても、キャストにしても、スタッフにしても、よく撮ったなと思う。
物語というよりは、生活や人生そのもの。母親は二回離婚をしているけれど、決して特別変わった家族ではない。12年間をこっそり覗き見させてもらったような感じだ。

日本で2001年に公開された映画『リトル・ダンサー』をミュージカル化したもの。ロンドンでは2005年から上演されている。監督は映画と同じスティーブン・ダルドリー、音楽はエルトン・ジョン。
今回の映像は、9/28にロンドンのヴィクトリア・パレスで行われたもので、ライブ配信された国もある。
最初に監督が客席に挨拶をするのですが、そこでちゃんと「日本でも少し遅れて公開されます」と言っていて、最初から日本公開も想定されていたのが嬉しい。そのせいか、NTLよりも日本語字幕がしっかりしていた感じがした。
どちらにしても、現地で見のがしたのでNTLに続き、こうして日本でも映画館で観られるのはありがたい企画です。

NTLと同じく、最初にメイキングや楽屋紹介などの短い映像がついていた。楽屋紹介は今回主役を演じるエリオット・ハンナくんによるもの。今期でもビリー役が4人いるらしいけれど、そのうちの一人。大体、北東部の子が選ばれることが多いらしいけれど、彼はリバプール出身とのこと。夢はミュージカル俳優になることらしい。

「11時間も練習してるんだ!」と言っていたけれど、スタッフの方が実際は7時間と訂正していた。それでも大変だ。でも、実際に内容を見ると、常に出ているし、ダンスシーンも多いので納得。

舞台上の椅子は同じ大きさに見えるけれど、少しずつ大きさが違っていて、ステージの奥行きを感じさせ広く見えるようにしている、という裏話も公開されていた。本編を見ても、まったくわからなかった。

観られて良かったことには変わりないけれど、歌やダンスはやはり生で観たいと思わせた。NTLの『フランケンシュタイン』を観た時よりもそれは強く感じた。

映画と大筋では同じだけれど、映画がストで負けて以降、だいぶ話が重く暗くなってくるのに対して、ミュージカル版はもちろん重くはなるけれど、どこかコミカルな部分が残した作りになっている。
特にオーディションを受けにロンドンに出てくるシーンの父子ともどものおのぼりさん具合はおもしろかった。その前の、町をあげてビリーを送り出すシーンが泣けただけに余計に。
ステージの幕を下ろして、父子だけが幕の前に出て「ここがロンドンかー」などと話すシーンは、キャストがこちら側に来たようでおもしろかった。

家のシーンでは螺旋階段が下から来て、上がるとビリーの部屋が二階のようになっていた。セットも凝っていたけれど、インターミッション後のクリスマスパーティは、労働者階級の人たちが不満はあれども楽しそうだった。最初、全員がサッチャーのマスクをかぶっているのもおもしろい。現在の状況をしめす人形劇をやりながら、上からすごく大きなサッチャー人形が出てきて、それも当時の状況をしめしているのだと思った。
ここでの父親のカラオケが泣ける。無骨ながらも、亡くなった妻に対する想いが歌われていた。
気持ちがそのまま歌われるシーンはどれも泣いてしまうけれど、18才になったら読んでと母から託された手紙や、最後の母親との別れの歌が特に泣きました。

エルトン・ジョンの曲もどれも良くて、2005年から変わっていないのかどうかはわかりませんが、長く愛される魅力はここにもあると思った。
ミュージカルにおいて、曲が混じるシーンが好きなのですが、今回もあった。お前らのおかげで給料が上がったと炭坑夫たちを挑発する警察官とあくまでも戦う姿勢を崩さない炭坑夫たち。この言い合いのような勇ましく攻撃的な曲と、バレエを習っている子供たちの自由に踊ろうという華やかで力強い曲が混じる。
大人たちの争いと子供たちは無関係であってほしいと思う。それでも否応無く取り込まれてしまう様子がこの二つの曲が混じるシーンでうまく表されていた。

自由にやりたいことをやろうよというのは、バレエだけでなく、ビリーの友達のマイケルにも言えることだ。マイケルがお姉さんのワンピースを着ていて、ビリーにも女物の服を着るように促してコーディネイトしてあげる。色とりどりの洋服を二人の少年が着ながら、踊るシーンは楽しかった。途中で大きなドレスが出てきて一緒に踊るんですが、おじさんのズボンみたいな服だけ、男物はいらない、とマイケルに追い返されていた。

マイケルは女物の服が好きなことを隠そうとはせずに、いいじゃないか好きなんだから、と開き直るような姿勢も見せていた。途中でゲイであることも告白。もちろん悩んでいないわけはないだろうが、それよりもあっけらかんとした様子が印象的だった。最後にビリーがマイケルの頬にキスをするのも泣ける。

マイケルのことだけではなく、途中途中でゲイネタが織り交ぜられていた。客いじりもそうだったし、男がバレエをやるなんて!というのも何度も出てきた。
また、ロンドンのバレエ学校からの手紙にBilly Elliot,Esquireと書いてあるのを、Billy Elliot,Queerと読み間違えるシーンも。

ビリーはうっかり習うことになってしまったバレエに興味を持つけれど、中で踊るダンスはバレエだけではなかった。
タップダンスも多かったし、縄跳びをしながらのタップダンスは曲芸のようだった。
ほぼ親の事情と意見によりバレエ学校の試験を受けられなくなってしまった時の怒りのダンスは、バレエを基調としてるのかもしれないけれど、より激しいものだった。
オーディション後に「踊っている時にどんなことを考えますか?」という質問を受けて、自由になるんだと歌いながらのダンスもバレエでありながらより全身を使っていて、体操の床種目のようなものも取り入れられていた。ここの曲もとても良くて泣けるのですが、ダンスからも生命力のようなものを感じた。歌いながら必死に踊るので、少し息切れもしているのがまたいい。

大人になったビリーと現在のビリーが一緒に踊るシーンがあるけれど、今回はその大人ビリー役として初代ビリーのリアム・ムーアが特別に演じている。現在はバレエダンサーとして活躍しているらしい。
白鳥の湖に合わせて、二人並んで椅子を使って同じように踊っているけれど、途中からペアを組んで踊る。大人と子供が組んで踊るのを初めて見ました。また、同じ役の二人というのがいい。

また、今回のみの特別な企画として、歴代のビリーを演じた27名が揃って踊るカーテンコールも楽しい。現在のビリー以外はBILLYと書かれたTシャツを着ていた。当たり前ですが、全員青年になっていた。

カーテンコールは出演者がチュチュを付けて出て来て、笑いながらもいい舞台を観たとしみじみ思って涙が出てきた。特に、おばあさん役の方はチュチュ姿で椅子に座って足を開くなど、サービス精神旺盛でした。


試写会にて。
タイトルから『おくりびと』を想像するかもしれない。死者を送り出す仕事という点では同じですが、内容は全く違います。
身寄りの無い死者の家族を捜したり、葬式を執り行う民政係の話。地味だけど律儀な主人公、ジョン・メイ役にエディ・マーサン。今作が初主演。

以下、ネタバレです。





椅子を引いて座る、左右を見て横断歩道を渡る、ご飯はパンと缶詰とリンゴ。主人公のジョン・メイは、ルーチンの中で生きているようなきっちりきっちりした毎日を送っていた。
映画を観る前は、孤独死した方の家へ赴いて、生きていた痕跡から人柄を探り、遺族を捜し、連絡するが葬式への出席を断られ…という仕事について、ジョン・メイ自身はどう思っているのだろうと思っていたけれど、決して嫌いではなかったようだ。
まったく知らない亡くなった方の家へ行き、ハンドクリームに残る指の跡や、寝ていたことを示す枕のへこみなど、彼女がここにいた証をじっと見つめる。そこから、生前どんな方だったかを推測し、葬式で読み上げる文章を作る。
本当は生前関わりがあった人がやれれば一番いいのだ。でも、いないのだから仕方が無い。死んでから知り合いになる…いや、一方的に知り、一人きりで葬式をあげていたジョン・メイは、優しい男だと思う。

でも、やはりというか、上司は仕事の効率化を優先して、ジョン・メイのそんな作業を簡略化するために、彼を解雇し、別の人を雇おうとする。
死んだ人に想いを馳せてどうなる、その場にいないのだからどんな宗派だったかなんてどうでもいいだろう、そんな風に言ってしまうことは簡単だ。けれど、それではあまりにもさみしいだろう。

解雇されたジョン・メイが最後の仕事をするために、実際に死者に縁のあった人に会いに行くべく会社を飛び出すシーンは、少し『LIFE!』を思い出した。
自宅と会社の往復だった毎日が変わる。ルーチンからはずれる。一気に世界が広がる。
中盤の人探しミステリ展開は、イギリス各地の風景や電車の中の様子が見られて、その面でもワクワクした。

亡くなったビリーはだいぶ破天荒な人生を歩んでいたらしく、周囲の人物も破天荒な人が多い。おそらく、ジョン・メイといままで関わりのなかったタイプの人たちだ。

通常の業務でも、死者のことを調べるうちに、なんとなく友達になったような、近しい人物になったような気持ちになっていたのだと思う。調査が終わった後も、アルバムに亡くなった方の写真を貼付けていた。
しかし、今回のように自分で足を使って、まるで探偵のように死者の近辺をさぐるのは初めてだったはずなので、より親近感が沸いたのだと思う。
貰った魚を焼いて食べていたが、他人から魚を貰うという経験も初めてだったと思う。いつも缶詰ばかりだったので、少し焦がしていたのも細かい。
人との出会いや経験によって、ほぼ無表情だったジョン・メイの顔に光がさしてくる様子が、さすがエディ・マーサンの演技はうまいと思わされた。
特に、ケリーと話してからは、ケリーと話してから頬に朱がさしたようになって、表情がキラキラ輝き始めた。誰が見ても恋している表情を作り出していた。

これからだと思っていた。このまま、ケリーとお付き合いして…が本当のハッピーエンドなのかもしれない。
横断歩道を左右見て渡るという伏線をこんなところで回収しなくてもいいのに。

映画の途中でも思っていた。他の身寄りの無い人が死んだ時にはジョン・メイがいる。けれど、身寄りのないジョン・メイが亡くなったときにはどうなってしまうのか。

同時期にビリーの埋葬が行われていて、そこにはジョン・メイが引きあわせた人々が集っている。最後の仕事で役目をまっとうしたのだから、それでいいというラストなのかと思っていた。少しさみしいけれど、彼としては本望だろう、と。

それでもいいんですが、ケリーがちらちらとジョン・メイの姿をさがしていて、でもお墓から去ってしまったので、気づいてあげないのかと落胆していたら。

違った。彼は孤独なんかではない。一人じゃなかった。

わざわざ目に見える形で、直接的な描写するとファンタジーになってしまうし、もしかしたらこのラストには賛否両論あるのかもしれない。けれど、このわざわざ感が監督の優しさなのだと思う。暗に示すというわけではなく、しっかりとわかりやすく描くことで、誰の心にも伝わる。

この映画に限ったことではなくて、地味だけれど影で一生懸命にやっている人が報われる話が大好きなので納得のラストだったし、最後の最後でそうくると思わなかったので不意打ちもあってボロボロ泣いてしまった。報われないように見えても大丈夫なのだ。
心から良かったと思ったし、後味もとても心地よい。静かだけれど、いい作品を観たというあたたかい気持ちがじわじわと胸に広がる。

ケリーを演じたのがジョアンヌ・フロガット。『ダウントン・アビー』のメイド長アンナ役で有名。『フィルス』にも出ていたのでここでもエディ・マーサンと共演している。
まるまる明るい役というよりは、どこか影を背負った、けれど芯の強い女性役が多いのかもしれない。

嫌な上司役のアンドリュー・バカンはどこかで見たことがあると思ったら、『ブロードチャーチ』の被害者の少年の父親役でした。

エディ・マーサンがとにかくはまり役。『フィルス』や『ワールズ・エンド』でも演じていたような、地味で真面目でいい人だけどわりを食う役。でも今回、わりを食っているようでも特に気にしている様子はなかった。解雇されたあと、机を整えて、窓の柵にベルトを結びつけていたのでまさか自殺をするのかとも思ったんですが、ビリーの真似をして歯でぶらさがることができるのか試してみようとしているだけのようだった。この頃になると、おかしなことに好奇心まで持ち始めているのもおもしろい。とにかく、悲観をしている様子はなかった。
きっちりきっちり生活をしている男とその最期。まさに、原題である『STILL LIFE』というタイトル通りだった。


丸の内ピカデリーで行われている35mmフィルム上映を観てきました。
フィルムの感想と今回観ての感想。
以下、ネタバレです。






映画館の設備のせいもあるのかもしれないけれど、最初のマーフが部屋にくるシーンなど、屋内のシーンがかなり暗かった。
屋外のシーンでは、色が太陽光にかなり左右されているように見えた。特に、マシュー・マコノヒーの肌の色が赤黒かった。
やはり、フィルム特有というか、昔の映画っぽくなっていたのは雰囲気が良かったです。がさがさした感じというか。どこまでも畑が広がっていて、その上を小さい無人機が飛んでいて、それを車で追いかけて…というシーンはよりノスタルジックに見えた。
地球が朽ち果てようとしている物悲しさもよく伝わって来た。

ではSFシーン、宇宙に行ってからはどうかというと、こちらはこちらで昔の映画っぽくなっていた。
もちろん、撮影裏話みたいなものを読んだせいもあるけれど、最初に観た時には宇宙船はCGかと思っていたが、今回は良い意味で模型っぽさが際立って見えた。

2014年のSF映画がフィルム撮影されて、それをフィルム上映で観るという機会は中々ないのではないかと思う。

今回、気づいたことですが、無人機を追いかけるシーン、太陽電池を抜こうとするクーパーにマーフが「壊さなきゃ駄目なの?悪いことはしてないのに」と言いますが、機械を擬人化してるんですよね。これで子供の頃からマーフには素質があるのがわかるという説明と、そのあとのクーパーのセリフ、「適応して生き延びるんだ、俺たちのように」。これを言わせたかったためのシーンなのかもしれない。

マン博士が出てくるともう映画の終盤な気がしていたんですが、ここから45分あるらしい。まだ三分の一残ってた。
ここからの展開が怒濤なせいもあると思うんですが、突き落とされたあたりからドッキングまで曲がずっと同じせいもあると思う。
ここから地球側と宇宙側とが交互に出て来るんですが、その時にも音楽がずっと続いている。普通、地球と宇宙が出てきたら、一方その頃…?的な感じでガラッと雰囲気を変えるために音楽も変えると思う。でも、この映画では、変わらない。宇宙から地球にシーンが移っても雰囲気までは変わらないので、より繋がっている感じがする。そして、後半の本当に宇宙と地球が繋がっているシーン、マーフの部屋の本棚の裏にクーパーがいるシーンが出てきてなるほどと思う。

突き落とされたところからドッキングまで同じ曲なんですが、最初はオルガンのみで不安感をあおる音になっているけれど、徐々に音数が増えていき、ドッキングのシーンでは勇気や力強さを感じるものになっている。この変貌の仕方がドラマティックでいい。サントラ買わなくては。




『フューリー』



戦車アクションと聞いて、ドンパチのある爽快感溢れる作品かと思っていたら、そんな雰囲気ではなかった。犯罪多発地域ロスの警察官の日常をファウンド・フッテージ方式でリアリティのある映像で仕上げた『エンド・オブ・ウォッチ』のデヴィッド・エアー監督と聞いて納得した。
以下、ネタバレです。







戦争ものではあるけれど、開戦や終戦は描かれていない。大抵の戦争ものはそれらを描くことでドラマティックに、時には過剰に感動的になっていたりもするが、今作はその要素は一切ない。
戦時中の、よりによって一番過酷な時期が描かれている。それも、大河的に描くわけではなく、24時間だけである。しかし、過酷な時期の24時間のため、より過酷さが凝縮されている。
上映時間は二時間を超えていても、描かれているのは主に四つの戦いと、制圧した町での家の出来事だけだ。一つ一つが入念に細かい。

戦車対戦車はこの四つの戦いのうちの一つだけでした。戦車同士の戦いがメインかと思っていたので、もっと見たかった。
ただ、この戦いについてもかなり濃厚。正面からではまったくダメージが与えられないあたりも、ドイツ軍のティーガーのすごさが窺えた。
この戦車、イギリスの戦車博物館から唯一動くものを借りてきた本物を使っているらしい。アメリカ軍側の戦車も本物だとか。

戦車同士の戦いについては、手に汗握るものだし、弾が当たればやった!と思いながら観ていたりしたんですが、戦車からドイツ兵たちが逃げ出して、その人たちは当然撃たれる。そこでは、やった!とは思えないんですよね。
もちろん人間が中にいるから戦車は動いているのはわかっていたはずだ。それでも、そこまで描かれると、少なくともエンターテイメントとしては楽しめない。

だから、戦車どっかんどっかんとか、5人のアメリカ兵が300人のドイツ兵相手に戦うとかで、『300<スリーハンドレッド>』と同じと思われるかもしれないけれど、まったく違う。あちらは、一応史実を元にしているけれど、ファンタジーめいているからエンターテイメントで済まされるのだと思った。

この映画はもっと殺伐としている。最後の戦いにおいても、少数で戦に臨んでも、結局は敗れてしまう。これが現実で、助けてくれるスパルタ兵はいないのだ。
なんであのシーンで逃げなかったのだろうとも思うけれど、いままで一緒だったフューリーを残して行くわけにはいかなかったのだろう。観ているだけでも、途中からはただの戦車ではなく、仲間のように見えた。
だから、最後、動かなくなった満身創痍のフューリーの周りで多数のドイツ兵の死体が転がる様子を上からのショットはさみしいし、やはり何も残るものはないのだと思う。

主演はブラッド・ピット。感情が適度に死んでいる、歴戦の兵士の顔をしていた。戦車の中の仲間たちを引っぱる、頼りがいのある軍曹役だったけれど、序盤に一度だけ、人に見られないように影に隠れて弱さを見せるシーンがあったのも印象的。それ以降、最後まで決して弱さは見せなかった。

新人役にローガン・ラーマン。『ウォールフラワー』にも出ていたがぼっちゃんっぽい風貌だし、兵士という感じはしない。配属されたときには、一人だけ色が白いし小綺麗だったので、とても戦場では通用せず、序盤で死ぬのではないかと思った。だけど、最初は頼りないながらも、段々顔つきが変わっていくのが良かった。

『ニンフォマニアック』が良かったシャイア・ラブーフも出ていた。信仰心が厚く、通り名はバイブル。冷静で、何を考えているかわからない感じだったが、腕は確か。首を傾けて、潜望鏡から外を窺う様子がセクシーだった。あと、睫毛の長さも気になった。
シャイア・ラブーフ、『ニンフォマニアック』の前まではどちらかというと好きではない俳優だったけれど、今回も良かった。たぶん、肝がすわった役が合うのだと思う。前まではふわふわした、子供っぽい役しかやっていなかったような感じがする。この先も期待してます。


1997年公開。ウォン・カーウァイ監督。

ろくでなしのパートナーに振り回されるということで、まるで少女漫画のようだった。
「やり直そう」という言葉で結局もう一度付き合って別れて…を繰り返す恋人たちの話。

どうしようもなくなったときに頼られるというのが、一体どんなポジションなのか、たぶん、ファイ自身もよくわかってなかったのではないかと思う。ウィンからしたら、いつでもファイの元に帰ることができるという安心感の中で好き勝手やっていたのだろう。
たぶん、ウィンにとってもファイが一番大切だった。ファイの気持ちは映画の中で独白があるので大体わかるけれど、もういい加減にしたいと思いながらも、やはりウィンのことが好きなので、「やり直そう」と言われたらやり直してしまっていたのだろう。

両手を怪我したウィンはわがまま放題で、でも、食事を作ってあげたり、寒い中一緒に散歩に出かけたりと、振り回されて文句を言いながらもファイは幸せだったのだろう。だから、両手が治っても繋ぎ止めておくために、パスポートを隠した。
そうやって束縛するしか、一緒にいることができないのだ。

ウィンもファイのことが好きでも、やはり外で遊んだりする性癖は直らないと思う。きっとそれはファイもわかっていた。それを含めてのウィンなのもわかっていたのだと思う。

それで、どうするかと言ったら、束縛するか別れるかしかないんですよね。でも、パスポートを隠しても虚しくなって、結局、別れを決めたのだろう。

もともとは、二人でアルゼンチンに旅行に来て、滝を見に行く途中で道に迷って喧嘩別れしたところから映画は始まる。
映画の中盤でも、いつか一緒に行こうと思ってるんだとファイが他の人に話すシーンがあった。

映画の終盤で、結局その滝を、ファイは一人で見に行く。
できることなら、最後に二人で滝を見に行って、ハッピーエンドにして欲しかった。そうすれば、完全に関係が修復されるのではないかと思った。
でも、これは私が思うハッピーエンドで、たぶん、ファイにとってはハッピーエンドではないのだ。
どうせこの状態でも「やり直そう」と言われたらやり直すことになるのだろうし、そしてまた嫌な思いをして別れることになるのはわかっている。もう、ウィンに振り回されたくなかったのだろう。
ずるずる続く腐れ縁のような縁を断ち切るには、とっておきの場所に一人で行くのが一番いい。
これは、私が思っていたハッピーエンドよりも、ずっと健全だし、正しい。正しいとは思う。

けれど、その時に、ウィンは引き払ったファイの部屋で、滝のライトを見て、布団を抱きしめて泣いてるんですよ。ウィンはウィンであんな感じでも、ファイのことが好きだったのに。

好きあっていても、お互いがお互いのことを想っていても、想いの度合いのバランスや気持ちの種類が合わなかったのだ。片方が大好き大好きってなっているときに、相手は拒絶したり、片方がそばにいてほしいと思っているときに、相手は外へ出て行ってしまったり。
映画内で、二人の気持ちのバランスがとれているのが、アルゼンチンタンゴを踊るシーンだと思う。あの時だけは、二人ともがちょうど同じ気持ちだったのだった感じがする。ただ、映画内で唯一あのシーンだけだったかもしれない。だからあんなにも美しく、切ない。

最初モノクロなのですが、途中でカラーになると、ウォン・カーウァイ色調というか、黄色っぽく、赤が強烈な真っ赤だった。ファイの部屋は質素ではあったが、生地の柄や小物などがレトロでおしゃれ。

舞台が異国というのも良かった。たぶん、香港にいてもはぐれ者だっただろう二人が、異国にいる様子は更に他者と断絶されていながらも、他の人からの関心が無い分、紛れられている気もした。
香港はちょうど地球の裏側、というセリフのあとで、逆さまになった香港を映すのも粋な演出。

『青い春』でも出てきましたが、お互いのくわえ煙草の先端をくっつけて火を渡す描写が好きなんですが、この映画ではファイが拒絶しているシーンだったので、口からはずして煙草だけ渡していた。ウィンはファイの手をとって自分のくわえ煙草の先端につける。これだけで、ファイはつれない態度をとってもウィンはめげないという性格がわかるし、良いシーンだった。
煙草に関しては一本の煙草を二人で吸うというシチュエーションも好きなんですが、ウィンが両手を怪我していたときに、煙草を吸っているファイを物欲しげに見つめて一口二口吸わせてもらっていた。これも、性格がわかるし、良かった。

こう映画内のシーンを思い出すと、やはりこの二人が付き合うのが一番いいんじゃないかと思ってしまう。ファイはウィンをアルゼンチンに迎えに行って、もう浮気はしないと約束させてパスポートを返せば、いつまでも幸せに暮らしていける…はずはない気もしてきた。ウィンは直らないとは思う。ファイはそんなウィンについて、仕方ない、いつかは戻ってくると考えていればいいんだろうけれど、映画に出てこないだけでいままでそれを繰り返して来たんだろうし、それで何度もつらい想いをしたのだろうから、もう縁を切るしかないのだろう。




2013年公開。フランスでは2010年に公開され、アカデミー賞長編アニメ映画賞にもノミネートされた。
もともと、『パリ猫の生き方』というタイトルで、2011年のフランス映画祭で公開されたらしい。原題“Une vie de chat”は猫の生き方みたいな意味なので、そのままの翻訳のようですが、『パリ猫ディノの夜』という邦題は素敵なのでこちらのほうが好きです。

絵柄は外国の絵本のような独特なもの。色鉛筆で塗ったような色彩も独特。人間の体の動きもぐにゃんとなったりなめらかです。

ノートルダム大聖堂、エッフェル塔などの建物のデフォルメの仕方もいい。屋根の上から見たパリの街並も美しく、少し『レミーのおいしいレストラン』を思い出した。
ジャズ風の音楽もおしゃれで、大人が観ても充分に楽しめる。

絵柄や雰囲気だけではなく、70分と短い時間ながら、ストーリーも濃い。
タイトルから猫が主役ではないかと思っていたが、人間の描き方がうまい。また、登場人物がわりと多めで、しかもちゃんと絡まり合ってる。
夜の動物園に逃げ込むのもファンタジックでドキドキするし、酷い香水の伏線が回収されるのもよくできている。
アニメでの暗闇描写の仕方も、黒い画面に白い線で描かれた人物が動くという独特のもので面白かった。
最後に、夜の冒険について、失語症の治ったゾエが矢継ぎ早に母親に話すシーンは泣けた。

ディノの猫動きも可愛らしいし、ライバルというか相手に勝手にライバル視されている隣りの犬のオチも笑った。

日本のアニメ絵とはまったく違う。でも、ただのおフランスおしゃれアニメでもない。絵にもストーリーにも独特のこだわりが感じられた。




2013年シッチェス映画祭ファンタスティック・セレクションにて公開。イギリスでは2012年公開。
シッチェス映画祭はホラー映画よりのものを多く扱っているので、最初にこの情報を知っていたらなんとなく作品の進む方向もわかったと思うんですが、トビー・ジョーンズ主演ということしか知らなかったため、ジャンルすらわからないまま観ました。
特にトビー・ジョーンズということで、もしかしたらコメディーなのではないかと思ってしまった。

タイトルからもわかる通り、音効さんの話。トビー・ジョーンズはやり手の音効さんで、イタリアのスタジオに助っ人として呼ばれる。映画はこのスタジオ内のみで展開するので、舞台っぽくもある。
髪の毛を抜くシーンはエシャロットのような野菜の茎を抜き、スイカを床に叩き付け、キャベツにナイフを突き立て…。そのスイカをスタッフさんたちが食べていたりして、作っている映画の内容と裏腹に、妙なおかしさがあった。

やはりコメディーなのかなとも思っていたんですが、途中で何度も挿入される腐った野菜、蜘蛛、録音中なのでお静かにという看板の点滅が不気味。
その内、映画の展開も少しずつおかしくなっていく。

ナイフを突き立てているのがキャベツだとは言え、その後に女性の悲鳴が聞こえたらなんとなく嫌なものだし、繰り返していたら気分も悪くなってくる。
そのくせ、やめさせてくれ帰らせてくれと言っても、仕事をまっとうしろと言われる。
スタジオ内の出来事なので、余計に閉じ込められている感じがした。

そのうち、現実なのか、悪夢なのか、わからない展開が続いて来て、終わりのほうは映画内で作っている映画と現実が混ざってくる。

結局、実際にどうなったというのははっきりはされない。映像もアートっぽくもあるし、もしかしたら推測するのは野暮なのかもしれないけれど、主人公の精神が病んでしまったのか、部屋に来た女優に殺されたのかもしれない。

映画の説明みたいなものを見ると、“主人公が自らの残虐性に気づいていく”と書いてあるけれど、そうとはとらえられなかった。
作っている映画や、監督やスタッフ、女優など、周りの人物が最初は奇妙なだけだったけれど、少しずつ不気味に変容していくのがおもしろかったです。

トビー・ジョーンズの何を考えているかわからない部分や、悪人にも善人にも見える風貌がうまく生きていたと思う。



原題『PREY』。イギリスのITVで今年4月末より放送されたドラマ。全三話。ジョン・シム主演なので英語では観たんですが、半分くらいしか理解できなかったので、今回WOWOWにて放送があるということで観ました。吹替えのみだったのは残念。好きな俳優なので声も聞きたかった。

全三話なので、展開はかなり早い。ジョン・シムは妻と子殺しの罪を着せられて、逃げながら捜査をする刑事の役なんですが、一話の最後でもう身近な人物が裏切っていたことがわかってしまう。
二話の最後では更にあやしい人も出てくる。更にあやしい人もマーカスの身近な人物で、周辺の人二人に裏切られていたのは驚きというより哀しさが際立って、ここで流れ出すレディオヘッドの『カーマ・ポリス』がとてもよく合う。

英語版で観た時は重要機密と思われたフロッピーディスクの一枚はあやしい人一人に割られ、もう一枚はもう一人に油で揚げられて、結局なんだったのか、闇に葬られて終わりだったのかと思ったけれど違った。
最初に殺され埋められていた人物の犯罪歴で、フロッピーそのものは存在しなくなってしまったけれど、内容については登場人物が話していたので判明していた。

三話の中にぎゅうぎゅうつめこまれて展開は早いものの、重要人物と思われる人がまったく出てこなかったり、主人公が最終話の半分を過ぎても「あんたは何もわかってないな」と言われるのは不安になる。主人公の気持ちで観ているし、ドラマの残り時間を考えるとこの時点で何もわかっていないとなると、最後まで何もわからないのではないかと思ってしまう。
結局判明するのが、残り15分のあたりで、ここでそれを明かすのかとびっくりする。

マーカスを追いかける女刑事スーザンが完璧じゃないのがいい。ずんぐりむっくりで粗暴。別れた夫にはストーカー気味につきまとう。
クロワッサンを差し入れようとして、元夫に断られ、そのクロワッサンを職場に持ち込んでむしゃむしゃ食べて同僚に「こぼすなよー」と文句を言われていた。
しかも、食べながら元夫のFBを見ていた。見ているのを同僚に見つかって、そうゆうのはやめたほうがいいと注意されていた。
吹替えの人も乱暴で良かったです。合ってた。
一話目の序盤で自販機に対して喧嘩を売っていてマーカスが1ポンド貸すんですが、最後のほうに「1ポンド返せ」という粋なセリフがキーワードというか合い言葉というか暗号っぽくなっているのも良かった。
孤独感を抱えていて、だからこそ、チーフに抜擢されたこの事件にはムキになっていた。担当が変えられそうになっている場面はつらかった。

不法移民がオマール・ハッサンの身分と名前を買って…というあたりは、英語ではまったくわからなかった。

序盤のマーカスが子供に絵本を読んであげるシーンの「Kissy Kissy Kissy」の裏声ジョン・シムがすごく可愛かったんですが、ここは吹替では「チューして、チューして、チューして」になってた。裏声。
「サプラーイズ、サプラーイズ」は吹替では「どうだ、驚いたか」であの少しふざけたニュアンスがなくなってしまったのは残念。

このドラマのジョン・シムは出だしから体にペンが刺さってるし、車にはねられるし、歩道橋や電車から飛び降りるし、逃げているから仕方ないけれど、満身創痍で痛々しい。
これも逃げているからそりゃそうなんですが、人との触れ合いもあまりない。
そんな中で、序盤の鎮痛剤を貰った家の人と、不法移民のオマール・ハッサンは、名前をちゃんと呼んで、感謝の気持ちを表していた。

また親友のショーンとの仲の良いシーンがそれほどなかったのも残念。これも、早々に裏切られていたことがわかるので仕方がない。
この、友達との友情シーンの少なさは『ステート・オブ・プレイ』を思い出した。

前回英語で見た時には大きい謎は解けていないのではないかと思ったけれど、日本語で見てみると、おそらくすべて解決したのではないかと思われた。
二期があるような話を見たけれど、どうするんだろう。
オマール・ハッサンは相当な悪党だったようなので、そのあたりで新たな敵が出てくるのだろうか。
二期ではたぶん逃げない、という印象は変わらなかったし、原題のPREYは別に逃げるという意味ではないから、邦題の『逃亡者』というのをどうするんだろう。
まだ撮影にも入ってないだろうし、本当に二期があるかどうかわからないし、あったとしても日本でやるとは限らないけれど。

IMAX上映をユナイテッド・シネマとしまえんで、通常上映を新宿ミラノ座で観てきました。
あと、気づいたことと、前回書いたことで間違っていたこと。
以下、ネタバレです。






だいぶIMAXに慣れて来ているせいか、それとも劇場のせいなのかわからないですが、それほどIMAX最高!といった風でもなかった。それでも、IMAXカメラで撮影したシーンは多かったし、大波のシーンは迫力があった。ミラノ座もかなりスクリーンが大きいですが、映画館で、しかも大きいスクリーンで観た方が楽しいとは思う。
あと、新宿ミラノ座と比べると、IMAXはやはり圧倒的に明るくクリアで、マン博士の宇宙服の肩の部分にLAZARUSと書いてあるのはミラノ座では確認出来なかった。ラザロ計画の宇宙服なのがわかる。クーパーとか今回の人たちは肩にエンデュランス号のシルエットが付いている。

あと、これは両方ともなのですが、当たり前のことですが、試写会に比べると圧倒的に映画の世界に没頭できる。音の良さも際立ち、ハンス・ジマーの曲にもいちいち感動してしまった。
特に、最初のインドの太陽電池で動く無人機を追いかけるシーンの曲と、後半の回転しながら落ちて行くエンデュランスにドッキングするシーンの曲がいい。ドッキングシーンは何度観ても興奮しますが、映画館で観て、更に手に汗握った。曲もうまく作用していると思う。

新宿ミラノ座は今年末でなくなりますが、来月は特別上映などもあるし、今作がおそらく最後になるらしく、表紙に映画館名の入った特別パンフレットを売っていた。内容は同じです。最後のページにはミラノ座で上映された全作品のリストも付いている。通常のパンフレットも買ったけれど、この特別パンフレットも買ってしまった。

パンフレットに宇宙船について少し書いてあった。前回書いたことで間違っていたんですが、エンデュランスにランダーとレインジャーがそれぞれ二機ずつ付いていた。「ランダー、ワン」「レインジャー、ツー」と言ってるのはわかっていたんですが、ランダーを1号、レインジャーを2号とするだけかと思っていたのが違った。なので、後半の切り離しのシーンではランダー1号にTARS、2号にアメリア、レインジャー1号はマン博士と一緒に爆破、2号にクーパーが乗ってるんですね。最後のエドモンズの星のシーンで、アメリアの後ろにランダーが映っていた。

TARSは形もロボットとして新しいんですが、動きがややぎこちないのも気になっていた。どうやらあれは、装置を使って本当に動かしているらしい。クリストファー・ノーランといえば、極力CGを使わない監督として有名ですが、今回もそうだったらしい。SFなのに。しかも、装置を使って動かしていたのは、声を担当した俳優さんだったというからまたすごい。

水の惑星のシーンもカメラや機材を抱えて浅瀬に立って撮影したらしい。

どうでもいいけど気づいたこと。
序盤でワームホールの説明を図解で説明するシーンがあるんですが(これも『インセプション』にも似たシーンがあった)、そのメモ帳がNASAのメモ帳なのがちょっとおもしろかった。上部にNASAと書いてあった。通常の会社や団体だとよくメモ帳を作ったりするけれど、NASAがメモ帳なんて作るんだろうか。でも、宇宙船内に置いてあるメモ帳にNASAの名前を入れちゃうセンスが愛おしい。

あと、食べ物をおいしそうに撮らないノーラン監督ですが、今回、食糧難なので仕方が無いのかもしれないけれど、サラダと思われる大皿に乱暴にぶった切ったトウモロコシがごろっと入っていた。「スフレのおかわりは?」のシーンです。スフレは…トウモロコシ粉で作ったのかな…。

序盤の太陽電池で飛び続けるインドの無人機とかアポロ計画の捏造とかの話は、現在の地球の状況説明だけなのだろうか。空軍が無くなって10年とか、あの頃は物が溢れて争っていたとか、成層圏からの攻撃を断ったという話が出てきたけれど、もしかしたら、かなり大きい戦争があったのかもしれない。アポロ計画関連の話からすると、対ロシア? その結果として、地球が荒廃したのだろうか。

後半、地球パートと宇宙パートが交互に出てくるんですが、地球のマーフ側はほぼ部屋で悩んでいるだけで、時間は全然進んでいない。ご飯を食べて、兄の態度が許せなくて家を出て、やっぱり戻って畑に火を放って、自分の部屋で手がかりを探す。これだけです。
その間、クーパー側はマン博士を起こすあたりからかなり動きがある。なんとなく、地球と宇宙での時間の差が出ているようでおもしろい。





試写会にて。わかったことと、わからないこと。
以下、ネタバレです。





クーパーがどうやって助けられたのかがよくわからなかったんですが、あの時のアメリアの顔は幻じゃなかった。映画の序盤でワームホールを通る時に、アメリアが“彼ら”の姿を見てハンドシェイクをする。結局“彼ら”はクーパーだったというのが五次元空間でわかるので、アメリアが見たのは、クーパー。クーパーは五次元空間からワームホールを通って排出された。別の銀河へ行くアメリアと出るクーパーがハンドシェイクしたのだ。映画の序盤と輪になるようにして繋がっている。
ワームホールは土星の軌道上にあるということだったので、クーパーが太陽系に戻って来た時に遠くに見える明かりはおそらくクーパーステーションなのでしょう。時間のずれによって、方程式が解かれ、すでにステーションの打ち上げも済んだあとだったのだと思う。クーパーステーションの近くに排出されたから、たぶん発見も早かったのではないかなと思う。

宇宙船ですが、エンデュランスがなんで回っているのかわからなかったんですが、あれは遠心力によって重力を発生させているらしい。確かに序盤でゆっくり回転をかけながら「今、1Gになった」と話すシーンがあった。ドーナツ型の宇宙船は珍しいのかと思っていたけれど、ワープを実現できる形でもあるらしい。
それで、地球から打ち上げたレインジャーはドーナツ型の母船エンデュランスにドッキング出来るんですが、もう一つの四角を組み合わせたようなランダーは最初からドッキングされていたのだろうか。それとも、マン博士が乗ってきたのがランダーなのだろうか。「浄水設備を持ってくる」と言ってたので、持ってくるのは母船エンデュランスからだろうし、もともと母船についてたのかもしれない。

最後の方でガルガンチュアに行くときの分割の仕方も最初はいまいちわからなかったのですが、ランダーとレインジャーとエンデュランス、三機にそれぞれTARS、クーパー、アメリアとCASEが乗っている。それで、たぶんランダーかレインジャー…アメリアとCASEが乗った機体だけが重力ターンでエドモンズの星へと向かった。

序盤の、インドの無人機を追いかけるシーンがとてもいいんですが、これがのちの内容にまったく関わって来ないのが残念。荒涼とした大地に突如低空飛行の物体が現れて、父と子供二人で車で必死で追いかける。ハンス・ジマーのノスタルジックな曲もいいし、コーン畑の中を突っ切って行く映像が美しい。

TARS、CASE関連のシーンは全部好きなんですけれど、四角いだけなのに愛嬌があるように撮られているのがおもしろい。
ミラーの水の星で、大波から逃げるときに、CASEがアメリアをお姫様抱っこしているのが可愛らしい。

不本意ながらマン博士の星に行くことになって、生きているマン博士を見たアン・ハサウェイの表情が少しの時間しか映らないんですが、セリフが無くてもすべてを語っていて素晴らしい。
本当は恋人の星に行きたかったけれど、ほとんど生きている保証はなくて、だから行くの反対されたのは腹が立ったけれど、実際に生きているマン博士の姿を見たら、やっぱりこっちに来て良かったと思うと同時に、恋人に会うことは完全に諦めた顔。正解の選択をしたにも関わらず、やはり寂しい。それが全部表情に出ている。

大人になったマーフの泣きかたがいい。演じているのはジェシカ・チャステイン。ビデオレターで話しながら途中で泣いてしまうんですが、両手で顔を覆って豪快に拭う様子が子供がそのまま大人になったようで、彼女の性格がよくわかる。
マーフィーの法則=“起こるべきことが起こるべくして起こる”というセリフも二回出てきたし、もっと重要っぽいのだけど、よくわからない。

マン博士のシーンについては考えれば考えるほどわからなくなってしまうんですが、助けにきてもらうために嘘をついたのなら、助けに来た時点で「あれは嘘だった。実はこの星には何も無い」と告白してしまえば良かったのではないか。
わざわざクーパーを呼び出して嘘なのを告白した上で、クーパーを殺そうとしたのはどうしてなのだろう。
一人でレインジャーに乗って母船を乗っ取ろうとしていたけれど、最初に嘘だとみんなに知らせて、全員でエンデュランスへ戻るわけにはいかなかったのか。

マン博士は「人類を救うため役目をまっとうする」と言っていた。プランAが実現不可能なことを知っていたようだったし、プランBの実行とすると、母船でエドモンズの星へ向かうつもりだったのだろうか。ただ、行ったところで、受精卵から人類を生み出すには代理出産が必要だし、マン博士一人ではどうにもならないのではないだろうか。そもそも、プランBの場合、アメリアが代理出産をするつもりだったのだろうか。

マン博士も、教授が出発の時に読んだ詩を読んでいた。イギリスのディラン・トマスという方の詩らしい。“絶望をせずに怒りを原動力にして行動しろ”といった意味だと思うのですが、マン博士をあの行動へ走らせたのは正義感なのだろうか。手柄を横取りするつもりだった?

それぞれの星が階層のようだし、五次元というかガルガンチュアはLIMBOのようだし、やはり『インセプション』に似ていると思う。地球と宇宙との二元中継のようになるのも似ているし、互いに作用し合う点も似ている。
ただ、『インセプション』よりはわかりにくいと思うし、力技で乗り切るシーンも多いと思う。
それでも、事象事象の繋ぎ方や話の運び方の突拍子も無さはクリストファー・ノーランにしかできないと思うし、それを思いついたとしても、映像にするのはやはりすごいことだと思う。とんでもない頭の中を見せてくれてありがとうございます。





1993年にアメリカで実際に起きた殺人事件の映画化。
以下、ネタバレです。





実話となるともしかして…と思ったけれど、やはり、犯人は捕まっていないようです。そのため、映画で勝手にでっちあげるわけにもいかず、もやもやした感じが残る。

映画の進み方は淡々としていた。裁判シーンと警察の取り調べが大半である。
主役の調査員(探偵?)を演じているのがコリン・ファースなのだが、なぜコリン・ファースがこの事件に肩入れするのかがよくわからなかった。
死刑に反対する気持ちはわかる。けれど、被害者の少年三人とも、容疑者の少年三人とも関わりはないようだった。
最初、離婚協議書を持っていたので、リース・ウィザースプーン演じる容疑者の母親が元妻なのかと思った。妻と別れてはいても、被害者の父親なのかと思ったのだ。それにしては冷静だと思ったら違った。

いまいち立ち位置がわからないし、わりと冷静な人物のようだったので、彼の怒りはあまり伝わって来なかった。
裁判でも警察とのやりとりでも、これはどうしたって違うだろうという少年たちが犯人に仕立てあげられていって、観ているこちらが憤ってしまうけれど、主人公はそこまで怒ってもいないようだったし、映画内でも指摘されているけれど、弁護士でもないから弁護もできないし、結局、杜撰な捜査に対してどうすることもできないし、真犯人らしき人が捕まることもない。
観ているこちらの怒りを昇華させてくれる人がいないので、もやもやだけが溜まる。

これは実話なのだし、もやもやする事件だったというのも、みんなあらかじめわかっていることなのだろう。
嫌な事件だったので適当な人物を犯人にでっちあげて、この事件については終わらせたい。そんな警察や住民たちの集団心理は理解出来た。それに対して、親だけがもやもやした気持ちを引きずっているのもわかった。
母親はまだ犯人をさがそうとしているとのこと。
どう考えても継父があやしそうだったけれど、逮捕はされていない。
犯人にでっちあげられた少年たちは、裁判を続けないことを条件に釈放されたが18年間は刑務所の中にいた。
実際の現在の様子がこうでは、映画自体もすっきり終わるはずもない。

この冤罪事件については、研究されたドキュメンタリービデオもあるそうなので、事件自体が気になったらそちらを観た方がいいのかもしれない。『パラダイス・ロスト』というタイトルで3まで出ている。

この『パラダイス・ロスト』にも出てこない人物として、嘘発見器でクロが出たアイスクリーム売りがいるらしいんですが、それを今回演じたのがデイン・デハーン。
最初、3人の少年が冤罪で、デイン・デハーンが出るならば、キャストの知名度的にも絶対に彼が犯人なのだろうと思っていたのですが、これも実話ということで特定はされずに謎だけが残った。

出番はそう多くはなかったけれど、映画の雰囲気をガラッと変えるほどの力はあった。暗いけれど挑戦的な目。アイスクリーム売りの時のタンクトップ姿。後ろ向きにかぶったキャップ。監視カメラへの視線の投げ方と、ティッシュでカメラを隠すしぐさ。すべてが、ただならぬ空気と色気を纏っていた。
ただ、デイン・デハーンの色気は今回に限ったことではないし、彼目当てなら別の作品でもいいのではないかと思う。

コリン・ファースもデイン・デハーンも好きなので、この映画は共演を楽しみにしていたんですが、二人一緒のシーンは無かったのではないか。コリン・ファースが監視カメラの映像を見ていたくらいだったのが残念。

試写会にて。
何も情報を入れないまま観ました。
以下、ネタバレです。




本当に何もわからないまま観たので、もしかしたら地球は荒廃してもう住むところがない、地球を汚した私たちが悪い、みたいな説教まじりの環境映画なのかなとも思っていたんですが全く違った。地球は荒廃していたけれど、私たちが悪いという要素は全く出てこなかった。荒廃している原因については言及されていなかった。

トンデモ映画といえばトンデモ映画な気もする。でも、規模の大きいトンデモ映画です。

宇宙に出て行くんですが、私が宇宙のことを知らなすぎてなんとも言えないんですが、たぶん、本当の宇宙とはだいぶ違うところがあるのではないかと思う。
それを考えるとSFでもないような気もする。

だいたい、SF映画ならば、ロボットの形状にももっとこだわると思うんですよね。すごく簡素な、真四角のロボットが出てくる。もっとヒトガタとかにすればいいのに、四角い。でも、粋なことを喋るし、SF映画によく出てくるタイプの愛すべきAI。そのため、あの形状が謎。
最初に出て来た時は、エヴァンゲリオンのSound onlyのような、どこかで声を出している人が別にいるタイプの物体なのかと思った。あれで独立しているとは。
ちなみに、『アイアンマン』だとジャーヴィスがポール・ベタニーだったり、『月に囚われた男』だとガーティがケヴィン・スペイシーだったりしましたが、今回は特に有名な人というわけではなさそう。(ジョン・シム主演の『Life on Mars』のアメリカリメイク版に1エピソード出ているらしい)

あと、普通のSFだと考えられないのは、宇宙服同士での取っ組み合い。宇宙飛行士同士ってそういえば、あんまり喧嘩をすることってなかったような。それが、頭突きをかまして、相手のヘルメットの部分を割ったりする。「お前のほうが割れるかもしれないぞ!」「五分五分だ!」みたいな言い合いがありましたけど、そもそも、頭突きで割れちゃうものなのか。それほど、相手のヘルメットも強固ということなのか。

マン博士が手動でドッキングさせようとするときの映像も、あまり他のSFでは考えられないアナログなひやひや感。

何にしても、SFにあんまり慣れていない人が撮ってるなというのがわかっておもしろい。

あと、ブラックホールとか、ワームホール、次元なんかの説明も、この映画独自のものなのか、本当のところどうなのかがわからない。
私は詳しくないので、この映画のルールで考えて観ていたけれど、詳しい人は噛み付いたりするかもしれない。

この星での一時間が地球での○年間というルールは、少し『インセプション』を思い出した。また、宇宙と地球でそれぞれ持ち場は離れていても一つの目的に向かって活動している様子も『インセプション』と似ている。
また、サイトーとコブもそうでしたが、なんらかの事情によって、同じ時を歩んで来たもの同士の時がずれてしまうのが好きなので、ラストのシーンや、地球ではあっという間に23年間経ってしまった時のビデオレターの溜まり具合などは切なかった。ドクター・フーでもそんなエピソードがありました。

ただ、時の進み方にしても、星に降り立った瞬間から変わってくるのかどうかがよくわからなかった。あと、宇宙船も一体何分割できるのかとか、ドッキングしていたのは宇宙ステーションなのか、それにしては動いていたけれど…など謎が残った。もう一度観た時にちゃんと注意していようと思う。

最後、クーパーがどうやって助けられたのかがいまいちわからなかった。アメリアの顔が見えたけれど、アメリアは恋人の星へ行ったあとだったし、幻だったのだろう。
酸素が残り○分と言われていたけれど、どうやって、どこで、誰に助けられたのか。

アメリアの恋人が発見した星は空気があるようだったけれど、最終的には地球の人々はそこへ移住することになるのだろうか。

いくつか疑問も残っているので、もう一度しっかり観てみようと思う。

マット・デイモンが出てくるのはカメオ扱いなのかノンクレジットだったこともあり、まったく知らなかった。
ノンクレジットのわりに出演シーンが多く、しかも、すべてが嘘というちょっと悪役めいた役。すべて嘘だったので、はっきり言って彼にあんなに時間をさく必要があったのかなと思う。マット・デイモンは嫌いではないけれど、だったらもっと、ちゃんと意味のある役で観たかった。

クーパーの息子の成長した姿をケイシー・アフレックが演じているのですが、兄のベン・アフレックとマット・デイモンって大親友ですよね。まさかその繋がりで…とも思ってしまった。マット・デイモン、次回のノーラン映画にはもっとちゃんとした役で出て欲しい。

全体的には『インセプション』と似てるといえば似ているんですが、『インセプション』が前半にルール説明をして後半に実戦(実践)をしていたのに対して、この映画では合間合間にその都度ルール説明が入るので、まったく気が抜けない。一生懸命観ていると、知らぬ間に169分経っている。
『インセプション』では結局一人も欠けることはなかったけれど、今回は仲間がどんどん死んでいくのはつらい。でも『インセプション』は会社の跡取りの考え方を変えさせるのが目的だったのに対して、今回は地球の危機と話が大きくなっているので仕方がないのかもしれない。
それと、ルール説明にしても、『インセプション』は夢の話だし100%の創作として説明をそのまま聞いているけれど、『インターステラー』に関しては宇宙がまず実際にあるから、ルール説明を聞いても、でも本当のところはどうなんだろうと考えてしまう。
すべてノーランの創作、エンターテイメントと割り切ってしまえば楽しめる。




『美女と野獣』


クリストフ・ガンズ監督版、実写映画。
『美女と野獣』の原作は読んだことはないのですが、あらすじを見る限り、原作そのまんまでもないようだし、もちろんディズニーアニメ版とも違う。
ただ、『マレフィセント』のように『眠れる森の美女』がまったく変えられてしまったわけではないので良かった。
また、原作はフランス文学なのを知らなかったのですが、こうしてフランスの監督さんにフランス語で撮られるのは正しいと思う。

以下、ネタバレです。






ディズニーアニメ版と似ているところは、父の代わりにベルが野獣の城にとらわれるところと、野獣の城から一時帰宅したのが原因で村の人が野獣の城を襲撃するのと、ベルの愛で野獣が人間に戻るところくらい。登場人物の名前や職業もディズニーアニメ版とは違った。

また、ラブロマンス面を期待して観ると拍子抜けだと思う。最後にはベルは野獣に「愛してる」と言うが、いつそのように気持ちが動いたのかわかりにくかった。

そもそも、それほど野獣とベルが一緒にいるシーンがない。
野獣の内面というか生い立ちも、ベルはおそらく森の精が見せた夢で知るけれど、身を以て優しさを感じたようなシーンは無かったのではないかと思う。
本当に、そもそも触れ合い自体が無かった。

ダンスのシーンもあるけれど、ディズニーアニメ版のようなロマンティックなものではなく、緊迫感のあるものだった。ベルの顔が強張っていた。ただ、野獣は傷つけないようになのか、手袋をはめ、爪を隠していた。
そもそも、家に一時帰らせてもらうための、取引としてのダンスなのだ。ベルとしては身売りに近い。けれど、このひんやりしたダンスシーンが最高だった。
ドレスもベルがヴィヴィッドなブルーで、野獣がレッドなので、色合いも綺麗。

ベルが最後に「愛してる」と言うのも、本心からとは思えなかった。野獣を救いたいというよりは、家族を救うためにわざと言ったように思えた。

ベルは姉二人兄三人の六人兄弟という設定で、そこに父親も加えた家族の描写が前半に多かった。そのため、野獣よりも家族を大切にしているように思えたのだ。
これは原作でもディズニーアニメ版でもそうだけれど、もともと野獣の城へ行ったのも、父親の代わりだったし。

私はラブロマンス目当てではなかったので別にこれで良かった。ただ、童話を子供に話す形で映画が進んでいき、ラストで話していたのがベルで、子供と父親と人間に戻った野獣と一緒に暮らしているのがわかるんですが、その時の、野獣を演じたヴァンサン・カッセルの抱擁の仕方が素敵だったので、もっとラブロマンス面に力を入れてくれても良かったと思った。

何を目当てで観に行ったかというと、役者さんと衣装・美術などです。
ヴァンサン・カッセルも前述通り良かったです。過去に王女を後ろから抱きしめるのも良かった。横を向いた時の鼻のラインが人間の姿でも野獣に似ている。

エドゥアルド・ノリエガも出ていた。スペイン俳優ですが、フランス語も話せるとは。ただ、だいぶ歳をとった感じ。前作は『ラストスタンド』で、観ていないんですが、ここでも悪役だったようです。

ベルを演じたのがレア・セドゥ。所謂、女優顔というか美形というよりはモデル顔といった感じなんですが、だからこそなのか、どんな衣装も似合っていた。
家族と暮らしているときの質素な服装も似合っていたけれど、野獣の城へ行ってからの日替わりのドレスもどれも綺麗でした。
あれは野獣セレクションなんでしょうか。アクセサリーや髪飾りもそれぞれドレスに合わせてあった。ヘアスタイルも素敵でした。
どれもわりとバキバキした色合いだったため、その衣装のまま、もともとの家に行くと随分場違いに見えた。

それくらい、野獣の城自体もバラの蔦が絡まっていたり、食卓が豪華だったりと華美なものだった。

ベルの夢の中で出てくる過去の映像の、王女のヘアスタイルがだいぶ昔のものだと察せられて、王子が野獣に変えられてから時が経っているのが説明はなくともわかった。

また、野獣の城の屋外には、水中に半分沈みかけた巨像などがあるんですが、それが、村人の襲撃の際に動き出すのが恰好良かった。あれなんだろう、不気味だなと思っていたのが、まさか、襲撃に備えていると思わなかった。苔の生えた巨像の方の部分に野獣がいて、絡まった蔦を引っ張って操っているのもかっこ良かった。

あの巨像たちは、過去に一緒に狩りに行ってた人たちなのかな。その辺も説明がなかったけれど、狩りで連れていた大量のビーグルも、謎の生き物に変えられていた。
謎の生き物、可愛かったけれど、臆病なせいで、影に隠れてて結局最後までちゃんと出てこなかったの残念。ちなみに、ディズニーアニメのように、動くティーポットや燭台などは出てきません。

2012年アメリカで公開。日本ではDVDスルーでした。
原題がRise of the Guardiansで、もともと『不思議の国のガーディアン』という邦題まで決まっていたのに公開が見送られてしまった。

原因ですが、アメリカでの成績がふるわなかったせいもあるかもしれないのですが、出てくる人物があまり日本に馴染みがなかったからだと思う。

このストーリーはおとぎ話の主人公版アベンジャーズみたいな感じで、普段なら別々に活躍しているキャラクターが集められている。
サンタクロースは馴染みがあるだろう。イースターバニーも、時期に不二家でペコちゃんがウサギの着ぐるみを着ていたし、日本においても売り出されているイメージがある。
ただ、子供が抜けた歯を枕の下に置いておくとコインに変えてくれるトゥース・フェアリーや、睡魔ザントマン(英語読みでサンドマン)については馴染みがないだろう。

このストーリーは子供たちがサンタクロースや他のキャラクターや妖精を信じられなくなったら?というのが主題なので、日本の子供は信じる信じない以前に知らないので、どうしようもない。そう考えると、メルヘンチックな作品だけれども、かなりターゲットが絞られていると思う。

ただ、大人でも存分に楽しめる作品でもある。ジャックフロストは、子供に雪をぶつけて擬似的に一緒に雪合戦を楽しんでも、サンタクロースやイースターバニーほど有名ではないため、子供たちには認識されない。信じていなければ、いないことになってしまう。

子供たちの夢を守るのがガーディアンズの役割であるが、ガーディアンズは子供たちに信じてもらうことで存在できるので、逆に守られてもいる。
この関係の描き方が素晴らしかった。
どこか飄々とした悪餓鬼だった彼がガーディアンズの仲間になって、子供たちの夢を守ろうと思った時に、子供に認識されるんですね。やっと、姿が見える。一緒に遊んでいたのは僕だよと伝える。抱きしめる。
一人きりだったジャックフロストがちゃんとみんなの前で存在できた。単なる夢物語だけではなく、孤独感からの解放も描かれていて涙が出た。

ただ、悪役であるブギーマンも同じように信じてもらえないから見えないと言っていたんですね。結局彼は、最後にまた認識されなくなってしまう。いくら怪物とはいっても、ジャックフロストとも似ているところがあると思ったので、彼一人だけがかわいそうだった。

初見は飛行機内で、今回は映像配信をパソコンで観たため、両方とも小さい画面になってしまったが、細かいところも作り込まれているので大きいスクリーンで観たかった。
最初のジャックフロストの雪祭りのシーン、そりでみんなで歯を集めにいくシーンなど、空を飛ぶシーンも多く、迫力がありそう。
また、サンタクロースのおもちゃを作っているシーンや、イースターバニーのたまごを塗っているシーンも大画面で観たい。
ジャックフロストがガラスなどを凍らせるのは、『アナと雪の女王』と同じくらい氷表現として美しい。

キャラクター造型も独特なんですが、この作品のように戦うサンタクロースは初めて観た。二刀流です。太ってはいるけれど、ちゃんと動けてかっこいい。
子供に信じてもらえなくなったために、途中でもふもふの普通のウサギの姿に変わってしまうイースターバニーは、普段は2メートルで、ブーメランを二つ持っていて、これまたかっこいい。

そして、ジャックフロストの容貌は、私がこの映画を観るきっかけになった。氷の妖精だからですが、銀髪で肌が白い。でもパーカーを着ているなど、ほぼ普通の少年の姿です。旅行中にこの少年の姿を観て、美少年っぷりに驚いて、帰りの飛行機の中で映画を観ることにしました。それで、飛行機の中なのにも関わらず号泣。

声の出演は、ジャックフロストがクリス・パイン、サンタクロースがアレック・ボールドウィン、イースターバニーがヒュー・ジャックマン、トゥース・フェアリーがアイラ・フィッシャー、ブギーマンがジュード・ロウと、主要キャラクターがかなり豪華な面々になっています。



イギリスの舞台を映画館で上映する企画の日本上陸版。イギリスの舞台など、観たいものがあっても簡単には観に行けるものでもないし、とても嬉しい企画。
ロイヤル・ナショナル・シアターで上映されたものだけなのかと思っていたが、他の舞台も取り上げられているらしいのと、ロイヤル・ナショナル・シアター自体が映画館上映のためにカメラワークなどにもこだわって作ったものらしい。

何作品か上映されているのですが、今回、『フランケンシュタイン』のアンコール上映を見ました。
ダニー・ボイル監督、音楽はアンダーワールドといつものコンビ。
ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー・ミラーのダブルキャストというかダブル主演というか、博士役と怪物役を交互に演じている。
見た目を重視してしまってカンバーバッチが博士役をやったバージョンを観たんですが、これは両方観て初めて完成するのかもしれない。

舞台は怪物が生まれるシーンから始まる。原作だと、その前にフランケンシュタイン博士の生い立ちや、人間を作り出すことにとらわれていく狂気や苦悩が描かれるのですが、その辺はすべてカットされていた。そのため、怪物視点からのシーンが多い。
あと、フランケンシュタインと結婚することになるエリザベスについても、急に出てきてしまった感じ。

フランケンシュタインというと、『怪物くん』に出てくるあの姿が想像されるのですが、あれは1931年の映画『フランケンシュタイン』のイメージであり、「フンガー!」しか言わないのもたぶん同じところからの引用なのですが、もともとのフランケンシュタインはどんどん頭がよくなっていく。

上部に無数の豆電球がつり下げられていて、それが雷のように光る。舞台上には丸い、もしかしたら子宮のようなものがあり、そこから文字通り、怪物が生まれ出てくる。このシーンから舞台版は始まっていた。
原作だと、怪物を作り出したフランケンシュタインが、自分のしたことの重大さに気づいたのか、怪物の容姿を恐れたのか、とにかく怖くなって逃げ出したあとである。
生まれ出てきた怪物は最初立ち上がることすら出来ないのですが、着実に成長していく。這うように舞台上を動いていたのに、少しずつ立ち上がっていく。意味のない叫び声を上げる。
この、着実に、でもすごいスピードで成長していく様が見事だった。舞台上にはジョニー・リー・ミラー一人だけで、内容を知らなかったら前衛劇のように見えるかもしれない。鬼気迫る演技が迫力のあるシーンだった。

醜い容姿のため、人間からは叫び声を上げられ、石を投げられる。そこで傷ついている怪物には、明らかに人間としての感情が芽生えていた。
盲目のおじいさんだけが優しくしてくれて、本を貸してくれたり言葉を教えてくれたり。
このシーンは原作だと遠くで見守っている時間が長かったと思う。そして、本も怪物の独白によって書かれていたが、舞台なので、おじいさんと怪物の心の触れ合いが多く描かれていた。
ここで、醜い容姿のために蔑まれているが、怪物は実は優しい心を持っているとわかる。博士に作り出されたのに心を持っているのだ。
ここの二人のやりとりは、ほのぼのとするものが多くコミカルで、劇場からも笑いが漏れていた。

しかし、怪物が懸念していた通り、一緒に住んでいた息子夫婦は外見の醜さを忌み嫌い、怪物を棒で叩いて追い出そうとする。
畑の石を退けてあげたり、影で手助けをしていてこの仕打ちは、少し『ごんぎつね』を思い出す。

皮肉なことに、怪物は読んでいた本から復讐という感情も学んでいて、一家が住んでいる家に火をつけて逃げる。そして、自分をこんな姿で作ったフランケンシュタイン博士にも会おうとする。

原作だと博士の気をひくために、怪物はもっと何人も殺しているんですが、舞台版だと弟のみだった。
自分が作り上げた怪物と対面して、その知能の高さに感動しているさまは、やはりどこか狂っているように見える。

また、怪物に脅されたからといって、花嫁を作ろうとするのもやはり、一体作り上げた自負があるのだろうし、まともとは思えない。
結局、弟の亡霊に、花嫁が子供を産んで怪物が増えたらどうするのかと問われ、完成間近で拒否することになる。

怪物の気持ちをわかる。父母ともいえるかもしれない創造主に拒否され、他の人間にも拒否されて一人きり。愛やさびしいという気持ちを知らなければわからなかったろうが、すべての気持ちを知ってしまった今となっては、感じるのは孤独感なのだ。

見た目的には怪物のほうが醜くても、本当の悪魔は博士のほうに見えた。舞台版だと、特に序盤の苦悩が描かれていないため、怪物のほうの気持ちがわかってしまう作りとなっていた。

博士が倒れたときに、怪物が「本当に一人きりになってしまう! お前は俺なのに!」と言うシーンもあるが、それを考えると、やはり逆キャストバージョンを観て、この舞台は完成するのかもしれないと思った。ダニー・ボイルもそこまで意図して作ったのだろうし。

原作を読んでいたときにも、実は怪物など存在しなくて、博士の妄想上の生き物で、殺人も博士が行っているのかと思った。実際、疑いもかけられたりする。しかし、後半で、(怪物の独白ではなく)第三者も怪物と対面するシーンが出てくるので、存在はしていたらしい。
でも、二人で一つという面はあったのではないかと思う。

このナショナル・シアター・ライブ、40カ国以上で公開されているらしいけれど、日本に来たのが今年初めて、ということもあるのかもしれないけれど、字幕が少しいい加減だった気がする。セリフに対してやけに短かったり。
あと、最初にロイヤル・ナショナル・シアターの歴史やナショナル・シアター・ライブについてのCMみたいなのが流れるのですが、そこには字幕がついていなかった。外国で観ているようでわくわくはしたけれど、宣伝効果はないと思う。
それでも、本編が字幕付きで観られただけでも、有り難い話ではある。
ソフト化の予定はないそうです。

『高慢と偏見』


ジェーン・オースティンによる1813年の小説は、何度か映像化されていますが、今回観たのは1995年のコリン・ファースがダーシーをやったドラマです。全六話。

20年くらい前のドラマだし、ドラマの舞台になっているのは更に前なので、かなり時代を感じる作りになっている。髪型や服装も昔っぽい。コリン・ファースもお姿は麗しいながら、変なもみあげです。
イギリスの時代物といえば、最近だと『ダウントン・アビー』が人気ですが、あれは1912年。この話の100年も後ということで、まったく違った。

最初はあまり世界観がわかっていなかったんですが、あまり裕福ではない家の五人姉妹のお婿さん探しのてんやわんやだった。中でも二女のエリザベスとダーシーのロマンスが中心になっている。

五人姉妹なので、母親が特にお嫁に出そうと躍起になっていて、もちろん娘のことを思ってのことでもあるのだろうけれど、自己中心的にも見える。
二話目の最後のほうで出てきた従兄弟で牧師のコリンズが、いい人そうに見えるけれど上にへこへこしすぎるというか、恰好もそれほど良くなくて、このキャラはどうなのかと思っていたら、エリザベスに結婚を申し込んでいた。エリザベスは断るんですが、そのことについても、お母さんがまあうるさかった。何についても口を出してくる。娘が大事なのか、世間体が大事なのか、自分の家が大事なのかよくわからない。

後半の末っ子リディアの駆け落ち関連についても、褒められた話ではないのに娘が一人片付いたことに大喜びし、リディア本人も幼さから状況がわからず誇らしげになっているあたりが、観ながらもあまりいい気分にはならなかった。
リディア以外の四姉妹も長女のジェーンは大人なので作り笑いでにこやかにしているけれど、四女は明らかに渋い顔をしていて、長女から下にいくにつれて、順に顔が険しくなっていくのがおもしろかった。

現在のドラマだと、主人公サイドや視聴者に対して不快な態度をとる人物は最後のほうで天罰的に悪い目に遭ったりしますが、このドラマでは他の登場人物をより幸せにするという方法がとられていたのが良かった。

他の姉妹の恋愛模様も一話から同時進行していくのが面白かった。
長女のジェーンも、あっさりうまくいくのかと思いきや、外野からの邪魔や勘違いが入り、結局最終話までもめていた。でも、誰もが認める良い人物だったし、幸せになってよかった。

主人公エリザベスとダーシーについてですが、最初の印象は最悪なんですね。ダーシーは最初からエリザベスのことが気になっていたようだったけど、とにかくプライドが高くてつんけんしている。
告白するときも真顔な様子から、なんとなく『ブリジット・ジョーンズの日記』でコリン・ファースが演じていた役に似ているなと思っていたら、この作者自体が、『高慢と偏見』に影響を受けていたらしい。
この話があったあとで、映画版でもコリン・ファースが演じているとは、かなり粋だと思う。すべて知った上で、原作から映画化する際に、コリン・ファースが演じることになったという流れを聞きたかった。相当驚いたと思う。

最初はエリザベスと同じで、ダーシーのことをいけすかない奴と思っていたんですが、屋敷の見学に行くあたりからだんだん好きになってくる。

この屋敷がとても立派なのですが、チェシャーのライム・パークというところらしい。マンチェスターの南東あたりみたい。なかなか行きづらそうだけど、行ってみたい。ロケ地として有名らしいので、ツアーか何か組まれているかもしれない。

ダーシーが泳ぐ池も実際にあるらしい。服を着たまま池で泳いでそのまま上がるんですが、水に濡れた姿でエリザベスと対面するんですね。まさか、いるとは思っていないので、とんでもない姿で、でもプライドが高いからそれほど大慌てもせずに。でも確実に動揺がわかる姿が良かった。その後、必要以上にびしっとした恰好で出て来るのも可愛い。

最後はジェーンとビングリーの結婚式と、エリザベスとダーシーの結婚式が一緒に行われる。その時はダーシーも真顔ではなく、ちゃんとにこやかでした。

ヒロイン、エリザベスを演じたのはジェニファー・イーリー。調べてみたら、『コンテイジョン』で薬を発明して得意げに鼻を膨らませてた方ですね。あの役、好きでした。このドラマの頃には実際にコリン・ファースと交際をしていたらしい。



1も2もおもしろかったけれど、今回もおもしろかった。このタイプの映画で毎回おもしろいのは稀だと思うけれど、そもそも、“このタイプ”の定義が間違っていたのだと、映画を観ながら気づいた。
過去のアクションスターたちが大暴れして、スカッとして何も残らない系の映画だと思われがちだし、私も観る前までそう思っていたけれど、観たら、そういえばこの映画はそれだけではなかったのだと思い出した。

以下、ネタバレです。







このシリーズはアクションよりも、出てくるキャラクターたちがわいわいやっているのが楽しいのだった。
前作からの引き続きのキャラクターも出てきます。バーニー(シルベスター・スタローン)はもちろん、飛行機で隣りの席にはクリスマス(ジェイソン・ステイサム)、後ろにはガンナー(ドルフ・ラングレン)、トール・ロード(ランディ・クートゥア)、シーザー(テリー・クルーズ)が座っている。
彼らがかつての仲間であるドク(ウェズリー・スナイプス)を助けにいくところから始まる。この新キャラがまた良くて、映画内では新キャラだけれど、バーニーとは昔なじみだから、偉そうだし、いつものメンバーは気に食わない。
そのごたごたと、バーニーに言われてしぶしぶ、けれど素直に「助けてくれてありがとう」というシーンににやにやした。
これは本当に序盤も序盤で、この先もにやにやするシーンは多々出てくる。ちょっとしたセリフまわしや何気ない一言がすべて可愛い。

このあとで、シーザーを怪我させたバーニーは、いままでのメンバーを解雇する。俺たちはもう歳だし未来がない、というのはメタ発言でもあると思った。
タイトルやコンセプトからして、もう旬の過ぎたアクションスターたちが消耗品として暴れまくるということでメタ的ではある。
今回は、ブルース・ウィリスの降板によりハリソン・フォードが代わりに出ているんですが、「奴の出番はない」というセリフのときに、全部は聞き取れなかったんですが、Pictureという単語が使われていたのが気になった。
また、最後にバーニーがドラマー(ハリソン・フォード)に「たまにはこうゆうのも若返るだろ?」というのもメタ的。

解雇後に新たなメンバー探しをするんですが、バーニーと一緒に斡旋業のボナパルト(ケイシー・グラマー)がさながら旅行のように各地をまわるのが楽しい。新人たちに合った曲が流れるのもおしゃれだし、二人の旅の間のおしゃべりも楽しい。灰に影が見つかった話もにやにやした。
もうこの二人の新人発掘の旅だけで、映画を一本作ってもらいたいくらい楽しかった。実際には10分ちょっとだったらしい。

ここでは少ししか出てこないんですが、アントニオ・バンデラス演じるガルゴが84年生まれと履歴書に嘘を書いていた話も笑った。スカウトしに行って、なんだおっさんかみたいな空気になるのがおもしろかった。

バーニーが若者たちを引き連れて仕事をするときに、「ドアを蹴破るのは80年代まででしょ」と言われるのもメタでした。
若者たちはコンピューターを駆使して侵入扉をロックしたりと、単純に力勝負ではない方法を使っていた。これはこれでいいけれど、これでは近頃のアクション映画と同じになってしまうのでは。そもそも、消耗品軍団には変わらないけれど、若者にそれをやらせるのはどうなのか。コンセプト自体が変わってしまうのでは。
そんなことも考えてしまったんですが、心配は無用でした。

解雇されたあと、クリスマスは切れ味の良いナイフの通販番組を見ていたり、ガンナーは実弾射撃場で的がぼろぼろになるまで撃ち続けたり。日常に満足できない男たちが映されているBGMには切ない曲が流れていて、撮影方法も他のシーンとは違ってゆったりとしたカメラワーク。完全に恋人に捨てられた男たちになっていた。悲しいシーンだけれど、ここもにやにやしました。

結局若者たちは軒並み捕まってしまい、消耗品と言いながらもバーニーは助けに向かうんですが、ここで出て来るのが、つかず離れずのような状態になっていたアーノルド・シュワルツェネッガー演じるトレンチ。やはりこうゆう場面では助けてくれるというところに、盟友の証を感じて嬉しい。

そして、年齢詐称のガルゴ(アントニオ・バンデラス)もここで出てくる。
めちゃくちゃ喋りまくる。相手にされていなくても一人で喋りまくる。でも、過去の話で実は仲間をすべて亡くしていて自分だけが生き残ったと明かしたときに、バーニーがその退院の名前を出して、実は話をちゃんと聞いていたことがわかるシーンは泣けた。これはバーニー、モテるに決まってると思った。
また、アントニオ・バンデラスは出演者の中で、断トツで演技がうまいのもよくわかった。他の出演者たちは、やりとりはおもしろくても、どちらかというと朴訥というか、長いセリフはそんなにないし、演技らしい演技はない。けれど、ガルゴについては、実は哀しい過去があったり、愉快なだけじゃない面を見せて泣かせたりと、いままでにないキャラクターだし、話に幅も出たと思う。

そのあと、ガルゴとバーニーだけで出発しようとしたときに、飛行機の前で通せんぼするように立つかつての面々がかっこいい。戦闘態勢に入った恰好で立ちふさがる。いくら解雇されても、彼らの覚悟は変わらない。絆の深さにここも泣けた。
そして、バーニーも隣りに座っていたガルゴに「そこにはクリスマスが座るからどけ」と言うのも良かった。憎まれ口ばかりだけど、やはり大事な仲間だったのだ。
そして、後ろでは、ガルゴの喋りにうんざりした様子の他の面々…。
ハリソン・フォード演じるドラマーから援軍の連絡が入るんですが、そのときに、ジェイソン・ステイサムがイギリス訛りで喋るのを「何?聞こえない」みたいに煽られるのもおもしろかった。こういった余計なぽつぽつしたところが全部好きなのです。

ガンナーが腕に何かの端末を付けているんですが、「あの若造の影響か?」と聞かれて否定していたけれど、明らかに若造の影響です。俺も何か新しいものを取り入れねば、と考えたんだろうと思うと可愛すぎる。
しかも、若者たちを助けたあとで、若者がその端末を使おうとすると、充電が切れそうになっている。「天気予報くらいしか見ないから」って言い訳も可愛い。腕に付けてはみたものの、まったく使いこなせてなかった。これ、ドルフ・ラングレンってところが一層可愛いんですよね。

そして、ここからは最終決戦、アクションシーンが続く。若者メンバーと大人メンバーが揃ったことで、さきほどのありきたりなアクション映画になってしまうのでは…という懸念は払拭された。単純にアクションの幅が広がって見応えがあった。
銃や手投げ弾はもちろん、バイクも使う、敵の戦車にも乗り込む。空からはヘリをドラマーが運転し、後部座席ではトレンチとかつてのメンバー、イン・ヤン(ジェット・リー)がマシンガンのようなものをぶっ放している。
廃ビルが舞台なので、おそらく最後には壊れるんだろうなと思いながら見てましたが、各階や屋外、空といろんな場所でいろんな攻撃が繰り広げられているのが、贅沢だった。
そして、最後はやはりお約束というか、バーニーとストーンバンクスの殴り合い。肉弾戦です。

ストーンバンクスを演じたのがメル・ギブソン。あんまりいい印象がなかったんですが、彼の悪役が本当に憎々しいキャラクターでこの配役も豪華だし、よく合っていた。

たぶん、ジャンル的にはアクション映画なのだろうし、アクションだけを楽しみにくる人もいると思う。もちろんアクションも素晴らしかった。アクションシーンとのギャップもあって、日常パートがより楽しめるのかもしれない。

そして、今回も打ち上げシーンがあった! 飲み屋だし同じところかなと思ったけれど、前回までのメンバーだったタトゥー屋のツールがいないので、今回は違う場所になっているらしい。
ドクとクリスマスがダーツ盤を使ってナイフ投げ勝負をしていたけれど、ナイフの使い手としてどちらが上かという勝負ももちろんあるでしょうが、バーニーの取り合いにも見えた。

若者たちが全員でKARAOKEでニール・ヤングの『OLD MAN』を歌っているのも良かった。“爺さん、俺の人生を見てくれ/まだ24歳、なんでもできる” 生意気ながらも、しっかりしてる。でも、完全な世代交代がなくて良かった。
ただ、若者メンバーを今回出すならば、前回出てきたリアム・ヘムズワーズも仲間に入れて欲しかったとも思う。今回は一人も欠けることがなくて、それも良かった。

最後にバーニーがクリスマスの肩を抱いてあげていたのも感動した。
解雇したのだって、もちろん、大切なメンバーのことを考えてのことである。でも、現場から退かせることが、必ずしも最良ではないのだ。たぶん、この先はずっと一緒に戦っていくのだろう。

そういえば、トレンチとイン・ヤン、まさかの交際発覚。身長差、体格差の面でもお似合いでした。
ところで、脚本にシルベスター・スタローンも参加してるんですけど、数々の萌えシチュエーション&セリフももしや全部わかってやっているのでは…。
『エクスペンダブルズ4』も楽しみにしています。

この映画、パンフレットも満足できる作りでした。ストーリーやキャラ・出演者・スタッフの紹介、インタビュー、プロダクションノートはもちろん、使われた武器の説明、今回行った場所、作戦の図解など盛りだくさんすぎる。怒髪天の増子直純兄ィと杉作J太郎の対談もあり。
細かい字だけどたぶん、エンドロールで流れた文字を全部載せてる。あと、出演者の全作品リスト。これもかなり細かい文字。
一番気に入ったのは、欄外のはみキン情報!(はみ出しキンニク情報!)で、なんてことないトリビアが載ってるんだけど、この愛の込め方がたまらない。パンフレットの作り手も本当にこの作品が好きなのが伝わってくる。『ハングオーバー3』のパンフレットで受けた以来の感動です。
最近、映画の公式サイトがプロダクションノートをPDFで公開していたりして、決して安くはないし、もうわざわざパンフレットを買うことはないかもと思っていたけれど、これはとても嬉しかった。

主演のルーク・エヴァンスと衣装などはかっこよかったです。

以下、ネタバレです。






トランシルヴァニアのドラキュラのモデルとなった実在の人物ヴラドが主人公となっている。でも、伝記というわけではありません。
息子を守るために、洞窟の中の魔物と契約をして力を手にするんですが、その契約というのが、三日間は人間の血を欲すると思うけれどそれを我慢すれば人間に戻れる、血を飲めば魔物が洞窟の束縛から解かれるというものだった。
普通であれば、困難を乗り越えて、血を飲まずに我慢をし、魔物の誘惑にも負けずに、敵も倒してめでたしだと思う。

しかし、この映画では、あっさり誘惑に負けてしまう。
ルールがわかりにくかったんですが、妻が死にそうなときに「私の血を吸って」と言うんですね。たぶん、魔物に操られているんですが、ヴラドは吸ってしまう。
おそらく、これで完璧な吸血鬼になったのだと思う。でも、ここで、魔物が洞窟から解き放たれて、代わりにヴラドが閉じ込められるわけじゃなかったのか。そして、完璧な吸血鬼になることで、力が倍増するのはわかるんですが、少し前に「血を飲んでいないから十字架を怖がらない」と牧師が言っていたけれど、飲んだ後も別に怖がっていなかった。
ただのいいことづくめである。

その力というのも、自らを吸血鬼の姿にして瞬間移動とか、超能力のように無数の吸血鬼を遠隔操作して敵を蹴散らすといったもので、そもそも吸血鬼である必要があったのかどうかわからない。
吸血鬼といえば、人間の首もとを噛んで血を吸うイメージなんですけれど、この映画では獣が噛んで獲物を仕留めるイメージ。噛んでもたぶん血を吸っていなかった。殺す手段でしかない。吸血鬼の牙の使い方を間違っている。
吸血鬼映画は血を吸われている側の快楽まみれの顔が見所だと思う。もうすぐ死ぬのに気持ち良くなってしまう背徳感。そんなのはまったくないアクション映画だった。

噛んで血を吸ってるわけじゃないから、噛まれた側が吸血鬼になるわけではない。どうやって吸血鬼になるかというと、血を飲ませるんですね。
この辺のルールもよくわからなかったんですが、ヴラドは洞窟の中の魔物の血を飲んで力を手にし、血を飲んで完全な吸血鬼となった。
ここでヴラドが洞窟に閉じ込められなかったからもうここでルールは崩壊してるんですが、ヴラドが他の人に血を飲ませても、ただ吸血鬼を量産するだけだった。そもそもの洞窟ルールはどこかへ行ってしまった。

それで、とても許せなかったのは、吸血鬼にしたのは自分のところの民衆なんですよね。死にかけの人間に、生きたいかと聞いたら生きたいと言うに決まっている。それで、吸血鬼に変えて、敵軍と戦っていた。
民衆はまさに魔物のようになっていて、ヴラドだけなぜ人間の心を持ったまま吸血鬼になったのかわからない。吸血鬼になった民衆たちは、助け出したヴラドの息子を襲おうとして、挙げ句、退治されてしまった。日光を浴びて灰になってしまったのだ。まるで、息子はもう助けたから用済みとばかりに。
これで民衆を守ったと言えるのだろうか。自分の子供を守っただけではないのだろうか。

残忍な殺し方で串刺しヴラドなどと呼ばれていた人物が、近年は故国を救った英雄としての見方もあるらしいんですが、そこでぴんとくるものがあったのかもしれないけれど、いくらなんでも他の設定がいい加減すぎる。

吸血鬼だから死ぬことはなくて、現代にもヴラドが出てきて奥さんの生まれ変わりに話しかけたりするんですが、生まれ変わりなのかずっと生きてたのかわからないけど、魔物も出てきていた。スーツを着て、普通のおじさんっぽくしていた。
これは続編があると考えていいのかどうかわからないけれど、この現代の話は興味があるので、こっちをメインにしてほしかった。誕生の話は冒頭10分くらいにまとめてくれて良かった。
続編にもおそらくドミニク・クーパーが宿敵みたいに出てくると思うし、因縁を抱えたまま輪廻転生していたら楽しい。
現代版魔物が「さあ、ゲームをはじめよう」と言っていたので、もしかしたら何か見のがしているルールがまだあったのかもしれない。

これだけ文句をつけつつも、続編があるならば、たぶん観ると思う。

ほぼ半月あけて後編が公開。(前編の感想はこちら

以下、ネタバレです。







流れ自体は前編と同じ。ジョーがこれまであったことを話し、それに対して、セリグマン(今回はちゃんと名前が出てきた。ステラン・スカルガルドが演じている男性)が素っ頓狂なあいづちをうつ、というのは一緒です。

序盤で、なんでセリグマンがジョーの話で欲情しないのかと問いつめられるシーンがあって、前編を観た時に疑問に思ったことは解決した。経験がないから、とのことだった。

できることなら、ジェロームと幸せに暮らしていって欲しかったけれど、そうはならなかった。ジョーの満たされない心をジェロームが埋めることができず、涙を流しながら、他の人とも関係を持ってこいというシーンは切なかった。虎にエサをあげるのを他の人にも手伝ってもらいたいという言い方もなかなかポエティックではあるけれど、どうしようもなさに苦しむジェロームを見て、この二人はうまくいかないのがわかった。

この二人に限った話ではない。ジョーは誰といても満たされないだろうし、相手も満たせないことで苦しむのだろう。ニンフォマニアが治らない限り、孤独感はどうしたって解消されない。

そういえば、ジェロームと子供と別れるシーンで、出かけている間に子供がベランダへ一人で出て、外は雪が降っていて…というのは、『アンチクライスト』の序盤に同じシーンが出てきた。あれは、出かけていたわけではなくセックス中だったけれど。子供は転落してしまうので、嫌な連想をしてしまった。この映画ではジェロームが帰ってきて、子供は救われたので、ラース・フォン・トリアーはこの作品はその方面へは持っていかないつもりなのだなと思った。

今回もやはり過激とかハードコアポルノというのとは少し違っている。映画の宣伝で使われているスチルでは、裸のジョーが裸の黒人男性二人に囲まれていたけれど、このシーンもほぼコントのようだった。言葉のわからない黒人男性が目の前で言い合いをしていてまったく行為が進まず、ジョーがそそくさと服を持ってホテルの部屋を出て行っちゃう。

SMの章は過激というか、尻を叩かれているので痛々しい。かなり執拗だし、他の技(?)も出てくる。セリグマン曰く、「多才で愉快な男」。
この尻を叩く男、Kを演じたのがジェイミー・ベル。体が小さく色白でどちらかというとひょろっとしているけれど、冷淡な表情で鞭をふるう姿がよく似合っていた。顔も整っているし、女性たちが彼に付き従うのもなんとなくわかってしまう。

ジェローム役のシャイア・ラブーフもそうなんですが、父親役のクリスチャン・スレーターや、聞き手のステラン・スカルスガルド、ミセスH役が最高におもしろかったユマ・サーマンと、豪華な俳優だからというのもあるかもしれないけれど、配役が完璧だと思う。全員よく似合っていた。もちろん、シャルロット・ゲンズブールと若いジョーを演じたステイシー・マーティンも良かった。
あと、最後に出てくるP役のミア・ゴスも、若さ故の生意気さと綺麗すぎない容姿が合っていたと思う。

前編の最後が一番盛り上がり、後編は盛り上がり最高潮から下がっていくので、出来れば続けてみた方がいいのかもしれない。おもしろくなくなっていくというわけではなくて、感情や性欲のピークが前編の最後で、そこからはどんどん静かになっていくような感じがした。

あと、前編のほうが何も考えずにセックス三昧だったけれど、後編はジェロームとのこともあるし、最後は体調面というか傷を負っていて、行為ができなくなっている。

なので、もしかしたら、後半はニンフォマニアではなくなっているのかもしれないとも思った。特に、一人で山に登って、山頂に立っている木を見るシーン。過酷な環境に負けそうになりながら、風で形は歪められているけれど、一本だけで立っている木を見て、自分のようだと思っただろうし、何かに開眼したのではないかとも思う。

セリグマンに話しているときに、セリグマンが襲って来なかったのもそうだけれど、話しているジョー自体も欲情はしていなかったと思う。静かな口調だった。話終えたあとも、一人で寝てしまう。
そして、最後でセリグマンが襲ってきたときにも、驚いたのもあるんでしょうが、受け入れなかった。

その少し前にセリグマンが、ジェロームを撃たなかったのは心のどこかで撃ってはいけないと思っていたからだと言っていたけれど、最後のシーンではジョーは心の底から撃ちたいと思ってるから撃ったんですね。
画面が暗転して、安全装置を解除するカチャッという音が聞こえるのも粋。

ただ、このオチは、ちょっと残念だなとも思った。
その前にしていた、壁に映る太陽光の話や、ジョーが初めての友人と呼んだことなど、すべてが消えてしまう。ジョーの孤独感は解消されないし、結局、誰にも理解してもらえないままだ。
前編後編とここまで一緒に話を聞いてきたのに。
脈絡無く車が燃えるシーンが急に出てきて、え?え?と思っていたら、セリグマンが「え? いまの車なに?」って聞いてくれるなど、観客の代弁者的なポジションでもあったと思う(「先を急ぎ過ぎて次の章の話が紛れた」とのこと。笑った)。
結局、セリグマンも他の男と同じだった。性欲が絡むと男女の友情は成り立たないというのを示したかったのかもしれないし、このオチがあるからこそ、ラース・フォン・トリアーなのかもしれない。

エンディング曲は、シャルロット・ゲンズブールとBECKのデュエット。そうだった。シャルロット・ゲンズブール、お父さんともよくデュエットしてましたよね。可愛らしい声でした。




試写会にて。『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネ監督ということで、フランス語で舞台もフランスなのかと思い込んでいたけれど、英語でアメリカを横断していた。
『T・S・スピヴェット君 傑作集』という小説が原作になっていて、作家さんは1980年生まれと随分若い。

以下、ネタバレです。








小説が原作のせいか、スピヴェットの語りでストーリーが進んで行く。視覚的な要素も絵本のように可愛らしく、効果的に取り入れられていると思ったので、あんまり説明せずとも映像だけで見せてくれてもいいのにとも思った。
ちなみに、試写会だったので2D上映だったのですが、
前半部分、スピヴェットが旅立つ前までは、時系列もばらばらだし、エピソードエピソードが短く、破片を語りで繋げて行くようなパッチワークっぽい印象で、わりとちゃかちゃかしていたので、内容があまり頭に入って来ないまま話が進んでいってしまった。

けれど、スピヴェットが家を出てからは、慣れたせいもあるのかもしれないけれど、一気に観やすくなった。登場人物が減ったせいかもしれない。
基本的に旅の道中はスピヴェット一人で、奇妙ではあるけれど優しい大人に助けられながら話が進んでいく。
合間で会う大人たちは誰も彼も魅力的。セーラー人形の船長によく似たおじさん(ホームレス?)、ホットドッグ屋台の肝っ玉おばさん、コントのような警官(たぶん演じているのはコメディアンじゃないのかな…)、ヒッチハイカーの写真を撮るトラック運転手(痩せていてヴィジュアルが特徴的)。
前半にしても、中盤にしても、話が進んでいくといった感覚は変わらない。特に中盤は電車自体がアメリカを横断しているので、ラストへ向かっていく印象を残す。

映画は大きく分けて三部構成になっていて、スピヴェットがスミソニアン博物館に到着してからが三部といえると思う。
こうゆう子供が一人で冒険する話はだいたい道中が大切で、もう到着しようがしまいがどっちでもという撮られ方や、到着したとしてもしたところで終わることが多い。でも、この映画に関しては、着いてからも長い。
頭に電流を流されているところは何か嫌な予感がしたし、スミソニアン博物館次長の女性はスピヴェットのことを持ち上げてステージママのようになっていたし、ここにきて話がそんな流れになると思わなかった。到着してめでたしめでたしで終わらせてくれたほうが良かったのではないかと思った。

でも、チラシにもなっている、スピヴェットの受賞スピーチシーンは良かった。おめかしした姿は美少年っぷりが際立っていた。
また、いままではわりとどんな大人に会っても、困難に直面しても動じなかったのに、スピーチシーンではたどたどしくなっていて、演技もうまいと思った。
このシーンは、エキストラ130人の前で10ページ分のセリフを話したそうなので、本当に緊張気味だったのだろうか。

博物館次長のステージママの売り方もあり、テレビにも出演してちやほやされて、博物館に到着して以降がこんなに長くなくていいのにとも思ったんですが、そのテレビ番組のゲストに本物の母親が来たあたりから、嘘みたいに話が丸くおさまっていく。

結局、家族ものとして帰結していくんですが、普通の家族ものと違うところは、子供であるスピヴェットはとっくに大人だったというところだ。
遊んでいる最中に双子の弟を亡くした傷を一人でずっと抱えながら生きてきた。途中、弟の幻のようなものと会話するシーンもあったが、おそらくまったく正常な状態なわけではなく、病んでいたのだと思う。

無骨な父親、変わり者で博士の母親ともに、スピヴェットとちゃんと話すということがなかったのだろう。姉にしたって、弟とちゃんと話すなんてことはしない。年頃の女の子なら当たり前だ。

それを初めて、テレビ番組収録という場ではあったけれど、面と向かって話す。あれは事故だった。あなたは悪くない。

いつまでも鉛のように心の奥底に居座っていた出来事について、初めて、許されたと感じたと思う。言葉で聞かなきゃわからない。

この映画は、子供が道中で成長するわけではなく、子供に出て行かれた家族たちが成長する話だったのだ。

スピヴェットたちの住まいは西部だし、アメリカを横断しているし、スミソニアン博物館はワシントンにある。でも、監督の反ハリウッド精神がアメリカでの撮影をよしとしなかったらしく、カナダのアルバータ州とケベック州で行ったらしい。電車のシーンはどう撮っていたのだろう。

2Dで観たのですが、3Dだと発明品やスピヴェットが頭で考えている図式などがぼんやりと手前に浮かんでくるのかもしれない。迫力面とは違う使われ方をしてそう。監督自身、3Dにかなりこだわりをもって作ったらしいので、3Dのほうがいいのかもしれないけれど、見比べていないので不明。

DVDスルーだったようで、日本で発売されたのは2011年。アメリカでの公開は2010年。
スター・ウォーズのファンたちのインタビューを中心にして、ジョージ・ルーカスの過去のテレビ出演時の映像を交えたドキュメンタリー。フランシス・フォード・コッポラやサイモン・ペグなども出てくる。

ファンたちはエピソード4、5、6が好きで、コスプレをしたり、おもちゃを作ったり、パロディ映像を作ったりして一様に賞賛している。
ところが、1997年に“特別篇”と銘打たれた4、5、6が上映される。

私は、4、5、6は好きではあっても、何度も繰り返し観ているわけではないからわからなかったけれど、一部がCGで差し替えられていたり、ハン・ソロが先に撃った/撃たなかったみたいなシーンがあったらしい。
わからなくても、彼らの怒りはよくわかる。熱狂的に何度も観た映画、例えば『ダークナイト』や『インセプション』が手直しされて特別篇としてリリースされたらやっぱりすごく怒ると思うからひとごとじゃない。
しかも、スター・ウォーズに関しては過去の映像をDVDなどでソフト化する予定は一切ないそうだ。
過去のレーザーディスクがインターネット上にアップロードされているからそれを観たらいいという意見も飛び出していた。違法なのはわかっているけれど、文化を保護しているのだという言い分もあった。

まるで聖書を書き直されたようだとか、他人の記憶を押し付けられたようだとか、絵画だって手直しできないじゃないかとか、ファンの意見にいちいち頷いてしまった。

もちろん作品を作ったルーカスがその世界の神様なのはわかる。だから、神様が直したいというのなら、仕方が無いのかもしれない。でも、一度手を離れたらもう、それは作った人だけのものではないのもわかってほしい。

一度作品に触れたらもう、触れる前には戻れない。それを今更特別篇などと言われても、記憶は消せない。
一番最初に触れた時の驚きがファン一人一人の中で育っているのだ。

そして、次にファンを怒らせたのがエピソード1の存在である。
映画公開まで散々盛り上がって盛り上がって、肝心の内容が…。公開に向けて上がっていったボルテージが一気に下がっていく様子。これは、私もリアルタイムで体感した。
初日にオールナイト上映で観たので、ライトセーバーを持っている人もいた。拍手も起こっていたと思う。あの文字が流れる様子とテーマ曲は本当にわくわくした。でも、途中で寝てしまった。

映画の中でも、何かの間違いだと思って何回も観に行くファンがいたけれど、私もオールナイトだったからかなと思ってもう一度観たけれどまた寝てしまったし、テレビで観た時にも寝てしまった。

あと、映画に出てくるファンの人たちはジャー・ジャー・ビンクスのこと大嫌いすぎて逆におもしろかった。エピソード5の最後の方でハン・ソロが氷漬けにされますが、あれのジャー・ジャー版のが作られていた。ジャー・ジャーのマスクをかぶった人に物が投げつけられたりしていた。

エピソード2だったかな。ジャー・ジャーがカメラ目線になってこちらに向かって笑うシーンがあるらしい。「“不人気だけどまだ出ますよ(笑)”ってあおられてるようだった」って言ってて、そのシーンが観たくなった。

これも知らないんですが、クリスマスのホリデースペシャルみたいなのがあったみたいで、チューバッカが里帰りするらしいんですが、そこで20分くらいチューバッカが家族とうめき声だけで会話するシーンがあるらしい。字幕はなし。観たいですが、お蔵入りだそうです。

特別篇とエピソード1、2、3で打ちのめされて、嘆きながら自分たちで編集し直したり、新しいスター・ウォーズを作ったりしていた。
なんでもそうだと思うんですが、好きなんですよ。憎いわけじゃなくて、好きだから怒るし、文句をつけたい。
『レベルE』で、最初は乗る気のしなかったゲームに対して、もっと○○だったらいいのにみたいな意見が出始めて、それはハマっている証拠だと言われるシーンがあるんですが、それと同じ。
スター・ウォーズに関しては、自分で何かを作りたいクリエイティブなファンが多そうなので、余計に俺なら私ならこうする、と考えてしまうのかもしれない。

作品は誰の物なのか。作り手とファンとの間に齟齬が生じた時、どちらが譲歩するのか。いっそ離れるという選択肢は無さそうだった。
殴られるのがわかっているのに夫のところへ行く妻と同じですよ、なんて笑えない話も出てきた。

最後の人形遊びはルーカスとファンの関係でしょう。ぶちゅうっとキスをした後、お互いにうえー、うえーとなって、何事もなかったように、まあまあコーヒーでも飲みに行きましょうかとなる。
根本的に嫌いなわけではない。端から見たら面倒くさい人たちだと思われそうだけど、作品にたいして人一倍執着心とこだわりがある。

VSとは言え、完全にファン目線だし、私もファン側だから偏った意見かもしれないけれど、作る側の人たちは、ファンを決してないがしろにしちゃいけないと思う。

ところで、エピソード7はディズニーがルーカスフィルム買収して監督がJ・J・エイブラムスに決まってますが、ファンたちはこの件についてはどう思っているんだろうか。


『赤ずきん』


2011年公開。アマンダ・サイフリッド主演。ゲイリー・オールドマンが出ているということで観てみました。

全体的には所謂『赤ずきん』の話はほぼ関係がない。アマンダ演じるヴァレリーが赤いずきんをかぶるのと、狼が出てくるくらい。一応、おばあさんとの会話、「おばあさんの耳はなぜそんなに大きいの?」「お前の声をよく聞くためさ」なども出てくるけれど、夢の中の話であり、ストーリーには関わらない。また、『赤ずきん』モチーフなのは、誰が狼か?という謎の騙しとしても有効だったかもしれない。おばあさんがあからさまにあやしい感じがしてしまう。あと、ラスト付近で、人狼の腹を割いて石をつめて湖に沈めるシーンはあり。人間の姿なので、多少グロテスクである。

村に狼が出て、この中の誰が人狼なのか?と疑心暗鬼になる、閉鎖された空間ではよくあるといえばよくある話。そこに、ヴァレリーと幼馴染みと婚約者という三角関係が絡む。

禁断の恋愛みたいな謳い文句だったため、出演者の中で二番目に名前の出たゲイリー・オールドマンが実は狼で、彼とアマンダ・サイフリッドが恋に落ちるのかと思っていた。もしかしたら、『ドラキュラ』を思い出していたせいかもしれない。

でも、ゲイリー・オールドマンは村を救いにきた神父役だった。ソロモン神父はかつて、人狼になってしまった妻を自らの手で殺したという暗い過去にとらわれていて、この村の人狼もなんとしても殺そうとする。まるで恐怖政治のように力で村を弾圧する。
演説調の喋り方がノリノリで、紫のビロードで大きく十字が書いてある衣装や銀の爪もハマっていて、カリスマ性を感じたが、ゲイリーだけが頑張っていた印象を受けた。彼だけ演技がうまくて逆に浮いてしまっていたというか。
でも、ヴァレリーをめぐる二人の若者があまり魅力的ではなかったので、なおさら、ソロモン神父との恋愛が見たかった。
後半であっさり死にます。悪役めいていたからかな。

そして、何が禁断かというと、結局父親が人狼で、助けにきた幼馴染みを噛んだから幼馴染みも人狼になってしまって…、でもあなたが好き!みたいな展開がラストにあったからなんですけども。確かに禁断なのかもしれないけれど、ティーン向けな感じがしてしまった。
観ていないけれど『トワイライト』っぽいのかなと思っていたら、『トワイライト』と同じ、キャサリン・ハードウィック監督だったらしい。じゃあ多分、『トワイライト』っぽいのだろう。

村の雰囲気や衣装、美術が素晴らしかった。
ソロモン神父が持ってくる巨大な象は乗り物なのかと思っていたら、乗る部分の布が上に開いて人を閉じ込める拷問器具だった。

村の宴のシーンは長めですが、まさに村の宴といった感じで良かった。狼を倒したと思い込んで浮かれているんですが、羊のマスクを被ってメエメエ言っている人がいたり、三人が豚のマスクを被って『三匹の子豚』を再現していたり。

全体的に色調が暗いんですが、アマンダ・サイフリッドが着る赤いずきんというかマントだけが鮮やかな赤なのが印象的。後ろが長いんですが、それで雪の上を歩くシーンなどとても美しかった。
また、アマンダの白い肌と金色の髪と赤ずきんがよく似合っていた。なおさら、村の若者たちが冴えなく見えてしまった。
後半、赤ずきんのお馴染みの恰好で、手に持ったかごの中にゲイリーの銀の爪付きの手が入っているのも少しホラー要素があって良かったです。

美術はトム・サンダース。『ドラキュラ』でアカデミー賞にノミネートされている。だから『ドラキュラ』っぽいと思ったのかもしれない。



2011年公開。タイトルのおかしさというかB級感からは考えられないくらい、主演ダニエル・クレイグ、共演ハリソン・フォード、ポール・ダノ、サム・ロックウェルと豪華。監督も『アイアンマン』のジョン・ファヴロー。
同名のグラフィックノベルが原作らしい。

主人公が記憶喪失というところから始まるんですが、こんなタイトルで、説明を求めたいのはこっちなくらいなのに、主人公まで何もわからないなんてどうなってしまうのかと思う。そして、西部劇っぽいのに、似つかわしくない謎の最新機器のようなものを腕にはめられていて、しかもとれないらしい。
でも、おそらくタイトルからして、エイリアンに付けられたのではないかと推測できる。

このような、西部劇とSFのミックスの仕方が妙でおもしろかった。
ドラ息子(もちろんポール・ダノ)が村のバーでお金を払わず暴れている場面などは普通の西部劇のようだった。村の雰囲気も埃っぽくて、西部劇によく出てくるのと同じだった。
なのに、急にUFOが攻めてきて、人が光に吸い込まれるようにして連れ去られてしまう。
他のシーンでも、普通の西部劇と思って楽しんでると、突然エイリアンが割り込んできて、圧倒的な力で台無しになることが何度かあった。

通常であれば、宇宙人が攻めてくるような映画は、現代だったり、近未来が舞台になっていることが多いが、この映画は1873年という設定である。だから、エイリアンとかUFOという認識がないのか、悪魔と呼ばれている。教会はあったので、キリスト教上の災いをもたらすものという意味でそう読んでいたのかもしれない。

普通に考えて、カウボーイとエイリアンではエイリアンのほうが強そう。文明の差もありそう。大体、空飛ぶマシーンと馬では、馬のほうが分が悪い。だけど、カウボーイの銃や弓で、ある程度の攻撃ができているようだった。

砂漠の真ん中のような乾燥している地帯で、炎天下にエイリアンが出てくるというのも、なかなか珍しいのではないかと思う。町中や、近未来的な建物の中で出てくるのが多そう。そして、圧倒的に夜のシーンが多いはず。この映画では白昼堂々なのが、勇気があると思った。エイリアンはもちろんCGなんですが、その光のあて方なども他の映画と違うだろうし、大変だったのではないかと思う。

荒くれは村を荒らし、住民との間で争いがあったみたいだし、村の住民とアパッチ族も対立していそうだった。ここまでは普通の西部劇と同じである。しかし、宇宙人と認識はされていなくても、何か人類の敵ととらえられる圧倒的な勢力に攻めて来られては、三つ巴になって争っている場合ではない。力を合わせて立ち向かって行く、呉越同舟ものだった。とても好きなジャンルだった。

また、極限状態においての人間ドラマも多くあった。
ウッドロー(ハリソン・フォード)のお手伝いさんのような役割のアパッチ族の青年の想いがちゃんと通じたのも良かった。たぶん、ウッドローはアパッチというだけで気に食わないと思っていたようだったが、最後には理解してもらえていた。
妻を助けるために、銃を持ったことのないバーの主人、ドク(サム・ロックウェル)が銃を教わったけれどうまくいかず、しかし、ここ一番という場面で狙いが定まり、仕留められたのも良かった。銃の扱いを教えてくれた村民に感謝する気持ちと何としても妻を助けなくてはいけないという強い気持ちが伝わって来た。
子供が終盤でナイフを使うシーンがあるのも、しっかりとした伏線回収だった。かなり人間ドラマ側の小さいエピソードはちゃんと作られている感じがして、感動的だった。

ダニエル・クレイグ演じるジェイク・ロネガンに関しても、記憶を取り戻したら、元はロクでもない人物だとわかって、思い出さないほうが良かったのではないかと思った。でも、一度記憶を失うことで、そしてエイリアンと戦うことで、生まれ直しではないけれど、後悔から、もう一度、人生をやり直そうとする意志が感じられた。
ダニエル・クレイグだからかもしれないけれど、ボンドばりの無駄なセクシーシーンがあった。また、シャツの腕をまくって銃を構えている姿も、それだけでセクシーでした。

タイトルから想像するよりも、もっと真面目で大作っぽい内容でしたが、人間ドラマがしっかりしているわりに設定に無理があるから奇妙な印象が残った映画だった。パニック映画、だけど舞台は西部だからみんな武器持ってるよ…という感じだろうか。それもちょっと違う気もする。


グザヴィエ・ドラン監督/主演。ミシェル・マルク・ブシャールの戯曲が原作になっている。登場人物が少なく、その一人一人がとても濃いのに納得。話もとっ散らからずコンパクトにまとめられている。舞台は広大な農場だけれど。
また、ドラン、ブシャールともにカナダのケベック州出身で、物語の舞台もケベック州となっている。

以下、ネタバレです。









最初にボールペンの先を水に浸して、青いインクがじわっと広がる映像が出るんですが、それがとても綺麗で泣きそうになる。紙ナプキンに詩のようなものを書いていて、それはあとで死んだ恋人にあてた弔辞だと判明する。グザヴィエ・ドラン自身も、作品のアイディアや思ったことを紙ナプキンにメモする癖があるらしい。

登場人物はトムと死んだ恋人ギョームの母と兄のほぼ三人。誰の本心もわからないし、三人は上手く噛み合ない。ただ、三人とも、ギョームが死んだことでの喪失感は同じだと思う。

ただごとじゃない気配を感じてトムは序盤で逃げようとするんですが、結局引き返すことになる。普通だったら、Uターンする車を外部から映しそうなものですが、このシーン、車内のトムの表情だけをずっと映し続けてる。日光の当たり方が変わるので明らかにUターンしているのがわかる。この時の本当は帰りたいし帰った方がいいこともわかっている、面倒なことに首をつっこみたくはないけれど、中途半端なまま帰るわけにはいかないという覚悟を決めたドランの表情が素晴らしく、監督主演だけど顔がいいだけではないか…と疑っていたけれど、この人は演技もうまいのだと驚かされた。

両側が農場で真ん中に真っ直ぐな一本道が通っていて、そこを車で戻って行くシーンは、絶望的な気分になる。
走って逃げようとするシーンもあるんですが、もう到底無理なんですよね。トウモロコシの葉は体を傷つけるし、兄の方が農場を周知しているからすぐに捕まってしまう。

トムが償うために戻ってきたと言うんですが、償いとはなんだったのだろう。息子さんと同性愛関係だったことに対しての、そしてそれについて嘘をついていたことに対しての償いだろうか。

牛の出産を手伝って血だらけになった手を見て泣き崩れていたので、もしかしたらトムがギョームを殺してしまったのかとも思ったのですが、そんな話は最後まで無かった。事故死らしいので、そのときにトムも一緒にいたのかもしれないし、そこで血を見たのかもしれない。もしくは、事故死とはいえ、間接的に殺してしまったのかもしれない。作中での言及はありません。本当に牛の出産にびっくりしただけかもしれない。

兄に対しても、素性が少しずつわかっていくので、映画自体にミステリー要素も加えられていると思った。
家に来たトムを殴り、母には恋人だったとは言うなと脅す様子は、過剰なホモフォビアなのかもしれないが、同時にホモセクシュアルでもあるのではないかと思った。
そもそも、弟のことを同性愛者だと言われたからと言って、相手の口を裂くまでの暴力はやりすぎだ。弟に対して、どんな感情を抱いていたのかも結局わからない。

また、トムに対しても、暴力をふるって農場に縛り付けても、縛り付ける原因はなんだったのだろう。
田舎で広大な農場に母と二人というのは、もう何の希望もなかったのだろう。そこへ来たトムに手伝わせて、彼のことが好きになっていったのではないか。出て行った弟の代わりと思っていたのではないか。

兄が弟に対しての愛情をすり替えるようにしてトムに押し付けていたのかもしれないが、トムもギョームへの気持ちを兄にすり替えることをまったくしていなかったとは思えない。
香水に対してもそうだけれど、二人でタンゴを踊るシーンと、兄がトムの首を絞めるシーンは、そんなつもりがないのかもしれないけれど、トムがとても色っぽくなっていた。

もちろんお互いに憎しみがあったとは思うけれど、それだけではない、何か愛情に似たものも芽生えていたのではないかと思う。

あの人には俺が必要なんだとか、レーザー式の搾乳機を買ってあげなくちゃとか話していたトムは、目つきがおかしくて見た目にもおかしくなっているのがわかった。この辺の演技もグザヴィエ・ドランのうまかった。ストックホルム症候群なのか、同情なのか。でも、恋愛感情はまったくなかったのだろうか。

最後、兄は「俺にはお前が必要だ!」と叫んで、半狂乱でトムを探していた。それは本心だとは思う。でも、トムを捕まえたら殴るだろうし、きっともう二度と逃げないように繋いでおくだろう。
だから、同情する気持ちや恋愛感情があったにしても、トムが意を決してあの家を出たのは正解だったと思う。ドラッグもやっていたし、兄がまともでないことは確かだった。おそらく、トムの力で救うことはできない。

母親も母親で、たぶんトムを息子代わりに思っていたのだろう。また、家に来ない息子の恋人に対して、怒りをあらわにしていた。母親なら当然だと思う。目の前にいる僕が恋人ですよと伝えられないトムはつらく、悲しかったと思う。
実際のところ、母に直接話したらどうなっただろう。案外、普通に受け入れてくれるのではないかと思ったけれど、兄のあの猛反対具合を見ていると、ホモフォビアというのはもっと根深いものなのかもしれない。
カトリックとか保守的な土地柄というのもあって、同性愛なんて考えられないのかもしれない。ましてや、高齢の、実の母親である。私自身、LGBTへの嫌悪感というのが本当にわからないのでなんとも言えないけれど。

ギョームの遺品を、母、兄、偽の恋人サラ、トムが囲むシーンは、ここも序盤のUターンシーンと似てるんですが、四人の表情のみを映していく。母以外は事実を知ってるんですよね。そこで、各々が微妙な、何か言いたそうな、気まずそうな表情をしている。とても舞台っぽいアプローチでもあった。そして、その何かがおかしい、嘘をつかれているのではないか、と気づいた母親が叫び出す。
母親役の方は、舞台版でも母親役をやっていたらしい。

遺品のシーンで、母が「恋人なら遺品を手に取るでしょ!」と怒る。サラはもちろん恋人じゃないからそんな演技はできないし、トムは手にとりたいけれど恋人なのがばれるからとらないし、兄はその遺品のノートに何が書いてあるかわからないのでとらない。でも、最後に逃げる時に、トムはちゃんと遺品をカバンに入れていた。
トムのギョームに対する気持ちも本物なのがわかるし、家からトムと遺品が消えていたら、おそらく母親も気づくだろう。
カバンに遺品を入れるシーンを作るだけで、直接的な説明は何もなくても、いろいろなことがわかる。

また、途中でキャリーバッグが邪魔になったトムが遺品だけをジャンパーの中に入れて、手にスコップを持って歩き出す。そこでも、何はなくとも遺品が大切だというギョームへの気持ちがわかるし、スコップが兄が追いかけてきたときの応戦用で何が何でも逃げなくてはという気持ちをもって家を出たのがわかった。

トムはおそらく、もう少しで兄と母親と農場にとらわれるところだったのだろう。最初はそれぞれ別のことを考えていて、到底わかり合えるはずもなかったのに、暴力と一緒に居ることで情がわいて、トム側が二人に気持ちを寄せたのだと思う。
そんなときに、過去の事件を知るバーのマスターの話を聞いて、正気に戻ったのだろう。それは、知った事実のせいもあるのかもしれないし、二人以外の外部の人間とちゃんと話したせいもあるのだろう。よくぞ、正気に戻ったと思う。

逃げながら寄ったガソリンスタンドで、口を裂かれた男の人を後ろから映すシーンは蛇足かもしれないけれど、あえて会わないというのが粋な感じもする。そのあと、一瞬だけ兄が脱力したように椅子に座っている姿が映ったのはなんだったのだろう。トムが少し思い出したということだろうか。
兄はトムを追いかけてきて、もしかしたら、この店にたどり着くかもしれない。そして、口を裂いた男と再会するのかもしれない。
こんな風にいろいろ考えられるので、やっぱりあって良かったシーンなのかもしれない。

グザヴィエ・ドラン出演作、初めて観たんですが、表情やたたずまいが素敵でフォトジェニック。今回、特にブロンドでゆるいパーマのかかった長い髪が顔を少し隠すアンニュイな雰囲気も良かった。ちょっとヒース・レジャーに似てた。

カンヌ映画祭審査員特別賞受賞作の『Mommy』はすでに2015年4月に日本公開が決まっている。かなり早い対応だし、メディアもこぞってとりあげているし、今回、『トム・アット・ザ・ファーム』の前の予告で日本独占のインタビューまで流れていた。主演作『エレファント・ソング』もすでに公開が決まっているらしい。ちょっと推され方が並ではない。
次々回作はジェシカ・チャステインが主演で英語作品というのも気になる。

『裏切りのサーカス』のジョン・ル・カレ原作のスパイ映画。ル・カレも撮影現場に足を運んで、ちょっとした通行人役で出演したりもしていたらしい。
主演は今年2月に急逝したフィリップ・シーモア・ホフマン。
映画の撮影が行われたのは2012年の秋だったようなので、だいぶ前です。

以下、ネタバレです。









実は、ジョン・ル・カレという作家さんは昔の方なのだと思い込んでいたので、今回は9.11以降の話だったので驚いた。2008年刊行らしい。
更に、2010年刊行の『われらが背きし者(Our Kind Of Traitor)』の映画化も控えているらしい。主演はユアン・マクレガー。
まだ訳されてはいないようだが、2013年にも新刊を出していて、現在も精力的に作品を書き続けている。

映画化された『裏切りのサーカス』の原作『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』しか読んだことがないのでわからないのですが、今作もトーンは似ていて、撃ち合いのような派手さはなく、息づまる心理戦が繰り広げられる。
あまり感情的にはならない主人公のギュンターはスマイリーを連想させ、そういえばスマイリーって太っている設定だったし、ゲイリー・オールドマンよりフィリップ・シーモア・ホフマンのほうが似合うのでは、と思ったら、やはり、ル・カレは希望を出していたらしい。

心理戦だし、9.11の関連とのことでイスラムのテロ組織との戦いなので、HOMELANDを思い出した。
あれもCIAとか海兵隊員とか大統領陣営とかアルカイダが何重にも絡まっているが、今作も登場人物が多く、ドイツのスパイ、CIA、テロ組織、銀行、人権弁護士とグループが分かれていて、対立しているようにも仲間のようにも見える。その関係性は話が進んで行くうちに変わって行ったりもする。

テロを未然に防ぐためにスパイが奔走するのだが、今回描かれているのは、おそらくギュンターたちが潰してきた事件のほんの一部に過ぎないのだろう。
あやしんでいた人物が、終盤で銀行からある団体へ資金を送る書類にサインをする。そこにこぎつけるために、二重にも三重にも慎重に罠を仕掛け、その人物を影から誘導したのだ。
それは気の遠くなるような作業であり、そのために巻き込まなくていい人を巻き込んだり、傷つけたりしたが、ギュンターは義理だけは通そうとしていた。孤高に見えたが、多方面に気を遣い、できるだけ多くの人を助けようとしていた。

細心の注意を払って作戦を完遂させようとしていた。それでも、なんとなく不穏な空気というか、嫌な予感は感じていた。
このまま終わるとは思っていなかったけれど、ここまでめちゃくちゃになるとは思わなかった。ここまで丁寧に丁寧に、慎重に慎重にやってきたことが、台無しにされる。映画を観てきた2時間くらいの静謐ながらもエレガントな時間がぶち壊される。

砂の城が大波で一気に崩されたような感じ。それか、夏休み中にこつこつ作ってきた工作をガキ大将に壊された感じ。
とにかく逮捕、疑わしきは罰するという態度は大雑把で、いかにもアメリカ様という感じがした。9.11で実際に被害に遭った国なのでわからなくもないんですが、なんのための話し合いだったのか。
ここまで感情をおさえてきたギュンターが、一気に怒りを爆発させる。車から降りて、震え声で「FFFFFFFFFFFFUCK!」と叫ぶ様子にすべてが凝縮されていた。ここまで感情がおさえられていただけに、ここでのフィリップ・シーモア・ホフマンの演技には圧倒される。

ロビン・ライト演じるCIAの女性職員とは旧知の仲だったようだし、もしかしたら好意を抱いていたのかもしれない。ギュンターにとって、また一人信用できる人物がいなくなった。

このアメリカ様描写は、ヨーロッパの作家、監督だからできることである。HOMELANDではできない。もしかしたら、ル・カレにはスパイ時代に実際にアメリカに似たような横暴な振る舞いをされて、「FFFFFFFFFFFFUCK!」と叫ぶような過去があったのかもしれない。

なんとなく海外ドラマっぽく感じたのですが、それはHOMELANDを連想していたせいもあるんですが、いきなり本題に入るからかもしれない。
登場人物が多いけれど、それぞれのキャラクターの説明は一切ないのだ。しかし、そのキャラのことをよく知っていたような気になるのは、それだけしっかりと人物が描かれているのだと思う。そして、役者さんたちの演技のうまさもあると思う。

フィリップ・シーモア・ホフマン演じるギュンターは酒も煙草もやるし、スパイだからということもあるが、影を背負っている。でも、不思議と温厚そうに見える。もしかしたら、太っているせいもあるのかもしれない。ジャマールを抱きしめるシーンは、この人は信用してもいいのだと安心感を与えられる。

部下のイルナは、ギュンターにアナベルのことが好みなのではないかと茶化し、「好みじゃない」と言われると、「じゃあ、あなたの好みは?」と聞く。ああ、この人はギュンターのことが好きなのかなと思っていたら、ギュンターは張り込んでいるのがバレないようにキスをする。その後、ギュンターはすまんなというような仕草をするんですが、それで、この人は気づいていないのだというのがわかった。
直接は語られなくても、登場人物たちの気持ちや、どんな人なのかというのが伝わってきた。

イルナを演じているのはニーナ・ホス。『素粒子』の奔放な母親役が印象的。あの時にはつーんとしていて、いかにも女優という感じでしたが、だいぶ年をとった感じ。でも、いまでも綺麗です。

ギュンターのもう一人の部下役にダニエル・ブリュール。それほど大した役ではないんですが、だからこそ、説明がないまま始まるので無名な俳優では顔がおぼえられない。ましてやスパイものなので、バーなどで紛れて対象人物の調査をするシーンもあるんですが、顔がおぼえられない俳優では、いるのも気づかない。

また、顔のおぼえられない俳優についてはしっかり名前を呼ぶなどの工夫がされている。登場人物が多く一人一人について人物の説明がなく、純粋に起こっている一つの事象のみが描かれているだけだが、わかりやすい。

ギュンターたちのチームが全員良かったし、CIAとの確執も解消されていなかったので、また別の事件について描いた続編が観たい。イルナとのロマンスもあってもいいかもしれないし、今回あんまり目立たなかったマキシミリアン(ダニエル・ブリュール)が活躍する回もあってほしい。でも、ル・カレが続編を書くことがあったとしても、もうフィリップ・シーモア・ホフマンはいないから、永遠に実現することは無い。

アントン・コービン監督の次回作は『Life』。デイン・デハーンとロバート・パティンソン共演の、ジェームズ・ディーンと彼を撮ったカメラマンの話。
作品のせいかもしれないけれど、今作はじっとり、じっくりとした人物の描き方と対照的な乾いた風景の雰囲気が良かったので、次回作も楽しみ。

四時間超えのポルノだと騒がれていましたが、二部構成にて無事に公開されて良かった。
ラース・フォン・トリアー監督だけれど、語り口はユーモラスだし、舞台作品のような面もあるし、なによりポルノと言われているけれどそれほどどぎつくなく、どちらかというと淡々としていた。そのため、一部と二部を続けて観るのは少し飽きてしまうような気がする。

以下、ネタバレです。







路上で倒れていた女性を初老の男性が助けるところから話が始まる。
ストーリーは初老の男性(ステラン・スカルスガルド)が女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)の半生の話を聞くことで進んで行くのだが、この二人のやりとりがすごく淡々としていて味がある。
また、男性の部屋の中での出来事なので、ワンシチュエーションということで舞台っぽく思えた。

自分のことを色情狂だと言うジョーは、自分に起こった出来事を幼少期から話して行く。色情狂の人の話なので、それなりに過激ではあるんですが、それに対する男性の相づちのうちかたが滑稽。
初体験の時に突かれた数をジョーが「前で3、後ろで5」と言うと、「3+5? フィボナッチ数列だ!」などと返す。
他にも、釣りとか音楽とか文学とか、ジョーの話に対しての例え話がいちいちずれている。博識なのも魅力的だし、そのずれ方が可愛い。でも、どうしてずれてしまうのか。

なんとなく、ジョーの話している内容に対して、現在の部屋の中の二人は淡々としすぎている気がしたのだ。
話の通りだと、手当り次第に男をひっかけてきたジョーは、部屋の中の男性についてはどうでもいいのだろうか。年齢差のせいだろうか?とも思ったし、最初に初老の男性と書いてしまったんですが、ステラン・スカルスガルド、まだ63歳だった。役の上ではいくつなのかわからないけれど、ジョーは50歳という設定みたいなので、それほど年の差も開いてなかった。

また、男性も男性で、そんな話を聞いていてもまったく欲情している感じではなかった。電車の中で何人ひっかけられるかみたいな話をジョーがしている時も、フライフィッシングと一緒だなどと言っていた。

学校に通っているジョーを想像するときも、エロではあったけどコミカルな姿だった。実際その後、自分で笑っちゃってた。エロい子だと思ってないわけではない風なのに、部屋に二人きりでもまったくそんな雰囲気にはなっていなかった。

怪我をしているからか、単純に彼女の話が気になるのか、それとも単に映画の進行上の都合なのか。わからないが、セラピストと患者のようなこの二人の関係が後編でどうなるかも気になる。

ジョーが話すのは自分のセックス遍歴みたいな感じなので、過激ではあるけれど、一回言われていたようなハードコアポルノといった感じとは違う。

先程のフィボナッチ数列のシーンも画面に大きく“3+5”と出たり、オルガンの低音中音高温に例えて三人の男性との関係を語るシーンでは画面が三分割されたり、車の駐車シーンでは図式が出たりと、映像にふんだんに遊びが盛り込まれていた。楽しいし、おしゃれでもある。

四章では病床の父親との別れが描かれるのですが、四章だけがモノクロであり、ジョーの感情を表しているようだった。

三章のミセスHは、話される内容もワンシチュエーションで、より舞台っぽかった。ジョーの部屋に、不倫中の男性と、その妻が三人の子供を連れて乗り込んで来る。ジョーは修羅場を修羅場と思わない感じだったので、ほとんどミセスHの独壇場で、わーわーと喋り倒し、ひっかきまわすだけひっかきまわす様がおもしろかった。子供を使ったコントはずるい。
ミセスH役はユマ・サーマン。本当に年をとっているせいもあるかもしれないけれど、あまりメイクをしてないからか、地味だったからか、最初は気づかなかった。

章ごとにカラーが違っているけれど、シャイア・ラブーフが演じるジェロームは、何度が出て来る。ジョーの初体験の相手であり、おそらく、唯一好きになった相手。
叔父がもっている会社に叔父の代わりで働いているんですが、そのボンボンっぽさがシャイア・ラブーフによく合っていた。
なんとなく二世俳優とか親の七光りっぽいイメージがあったんですが、そうではなくてただ単にスピルバーグの秘蔵っ子というだけだった。Wikipediaによるとご両親は元ヒッピーだそう。
でも、本人はあんまり頭が良くないけれど、育ちの良さとか優雅さが身に付いてしまっている感じが、はまり役だと思った。下品だけれど根本的には上品というか。
撮り方のせいもあるんですけれど、指先の動きとか、細かいところがとてもセクシーだった。

ちなみに、悪い方にはまったのが『欲望のバージニア』。あれも、ボンボンっぽい三男だったけれど、世間知らずや考え方の甘さのせいで、酷い方向へ事態が動いてしまった。

手を引き上げた時に、エレベーターの中で引き上げてもらったことを思い出すのもロマンティックだった。
電車の中のシーンも切なかった。もう会えない彼のことを思って、彼に似てるパーツをいろいろな乗客からさがして、パズルのように頭の中で組み合わせる。
そうやって彼のことを思い出しながら電車の中で…という描写がなければ、普通の恋愛映画でも見かけないくらいセンチメンタルなシーンだった。

ロマンティックといえば、最初のほうで「私に罪があるとすれば、夕日に多くを求め過ぎたこと」というポエティックなセリフも良かった。 過激な面よりも、このようなロマンティックな面と、ステラン・スカルスガルドとのぼけぼけした掛け合いのコメディ面がこの映画のおもしろさだと思うし、好きでした。

シャイア・ラブーフはきっと後編にも出てくると思うので楽しみ。できれば重要な役割で出てきてほしい。ジェロームはジョーにとっても、重要な位置をしめているといい。

でも、そもそもこの話のスタートがすべて終わったあとだったようだし、その時のジョーは路上に倒れていて怪我もしているようだった。表情はすっきりとはしていても、幸せとは言えない状況だと思う。

ジョーの身に何が起こったのかも気になるし、ジェロームとどうなってしまうのかも気になる。それに、ステラン・スカルスガルドとの関係も。このままずっと、観客の代弁者のような位置で、ジョーの話を引き出すだけの役割なのだろうか。




2005年公開。アメリカでは2004年公開。公開時に映画館でも観たんですが、今回はテレビで。

両親が火事で亡くなって孤児になってしまうし、意地悪な伯爵に遺産は狙われるし、確かに不幸ではあると思う。
でも観ていて憂鬱になるタイプの映画ではない。子供たちは力を合わせて、勇気を出して問題を解決していく。

美術や衣装が過剰なまでにごてごてと凝っている。まるで少し不気味な童話のよう。
監督は違うのですが、ティム・バートンの映画に雰囲気が似ていて、彼の映画のスタッフが多く関わっている。音楽もトーマス・ニューマンだし、衣装もコリーン・アトウッド。

コリーン・アトウッドの衣装がすべて素晴らしい。サニーは二歳か三歳くらいではないかと思うんですが、ふんわりしたスカートのドレスっぽい服が可愛い。ヴァイオレットのコートのような服も良いし、最後のウェディングドレスもピンチのシーンだったけれど、衣装はとても可愛かった。ほっぺを紅く塗る化粧も可愛い。

オラフ伯爵は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』のジャックのような細身の黒に白いラインの入ったスーツだった。

そのオラフ伯爵を演じているのがジム・キャリー。近年のジム・キャリーはわりと好きなんですが、この頃のなのか、この作品のなのか、苦手なタイプのジム・キャリーだった。声、顔、動きのすべてでやりすぎというか。嫌な人の役なので、より嫌に思えた。

他にも、メリル・ストリープやダスティン・ホフマンなど有名どころが出演している。

主役のボードレール三姉弟妹は姉のヴァイオレット役がエミリー・ブラウニング。ぷっくりした口唇が可愛い。『エンジェルウォーズ』にベイビードール役で出てました。
弟のクラウス役はリアム・エイケン。少しJGLにも似ていた。
末っ子のサニーは出演者の名前がカラ&シェルビー・ホフマンになっているので双子だったらしい。
衣装のせいもあるかもしれないのですが、この三人の雰囲気がいい。頼りになるしっかり者の姉は妹を抱っこしていて、弟は腕っ節は強くないけれど頭脳明晰。

映画の世界観そのままのエンドロールが可愛い。絵本や影絵のようだった。テレビなのにしっかりそこまで流してくれて良かった。

ただ、明らかに続きそうな終わり方なのがすごく気になった。
オラフ伯爵は一度逮捕されたけれど釈放されているようなので、まだまだボードレール三姉弟妹を追うことができる。
目玉のマークは放火の告発だけの意味だったのだろうか。
また、どうして親戚でもない人々に預けられることになったのか、そして全員が持っていた望遠鏡の秘密。語り手であるレモニー・スニケットも持っていた。そもそもレモニー・スニケットって誰なのか、と調べたら、声の出演がジュード・ロウで、この先も続くようだったら出て来るはずではなかったのか。

更に、最後には“一章終わり”の文字。もともと、全13巻の小説が原作らしいのですが、この映画で描かれたのは1〜3巻までだったらしい。確実に続きはある。

多分、9年前に観た時には続編が楽しみと思っていたのかもしれないけれど、もうこれだけ年数が経ってしまっては難しいと思う。それに、子供たちは育ってしまっているから同じキャストというわけにはいかない。残念。


フランク・サイドボトムのかぶり物を絶対にはずさない男が主人公というちょっと変わった映画。しかも、かぶり物の中身がマイケル・ファスベンダーというのでも話題。ただ、ポスターや宣伝などから受けるキャッチーな印象とは少し違った映画でした。

以下、ネタバレです。






もう、かぶり物の中身がマイケル・ファスベンダーということだけでおもしろそうだった。
初めてステージに現れたときのマリンスーツ姿のフランクを見た時には爆笑したし、煙草を吸おうとしたときにかぶり物に火がついてしまったり、シャワーのときにもかぶり物にビニールをかぶせていたりと、コミカルなシーンも多々あった。この辺はイメージしていた通りなのですが、思っていたよりも現実的というか、少し違った方向へ話が進んで行って、着地点も意外だった。

音楽を作って演奏することに憧れる平凡な青年ジョンが、ひょんなことからちょっと変わったバンドと知り合って、そのメンバーになることからストーリーが始まる。
かぶり物をしているバンドの中心人物フランクは謎めいているし、作る曲も素晴らしい。アイルランドの小屋に篭ってのレコーディングは他のバンドメンバーから疎まれたりしてつらいけれど、フランクの信頼は着実に得てきているし、様子を実況しているTwitterのフォロワーも増えてきている。なんとネットを見た関係者から、インディーズバンドの大会に出ませんか?と声もかかった!

こうなったら、大会に出て、たとえ結果は思わしくなかったとしても、バンドが団結、ジョンも晴れてバンドメンバーになって、ハッピーエンド…となりそうなものである。今回はだめでも、これからも楽しい仲間たちの冒険は続く!『フランク2』お楽しみに!といった感じに。

なんとなく『リトル・ミス・サンシャイン』を思い出した。そこまでの家族はバラバラで、でもオリーヴのミスコンに向かってみんなが動いていて。でも、ミスコンに行くと、ちょっと比べ物にならないほど本気の人たちがいて、とてもうちの子が勝てるとは思えない。案の定、失敗はしてしまうけれど、家族全員のフォローもあって団結力は強まった。

本来の目的とは違うけれど、もっと大切なことがわかる、というのはハッピーエンドの形としてよくあるものだと思う。この映画もそうだと思っていた。

この映画では、大会が近づくにつれ、バンドメンバーが一人一人抜けて行き、肝心の大会ではフランクすらも昏倒してしまう。
ジョンはバンドの仲間入りをするどころか、めちゃくちゃに壊して、フランク自身のことも壊しただけだった。形だけ繕って、一人去って行く…という寂しい終わり方だった。
映画内でいい曲を作ることもなかった。結局、どれだけ憧れても、凡人は天才たちの仲間には入れないのだということをまざまざと見せつけられたようだった。

ただ、ジョンがナレーションをやっていたり、Twitterにあげる文章もジョン視点だから、映画自体をジョン視点で見てしまっていたが、逆に、もともとのバンドのメンバー側として考えると、また違った見方もできる。

そもそもフランクがかぶり物が取れないというのは、見た目はコミカルでも深刻な問題である。バンドのメンバーは、フランクを守るように音楽活動をしていた。ジョン視点で、他のメンバーの気持ちはあまり語られないからわからないけれど、彼らはおそらく人気者になりたくてバンドをやっていたわけではない。
それなのに、ジョンはTwitterで実況をし、勝手に撮影をしてYouTubeにアップされてた。ジョンとしては、善かれと思ってやったことでも、メンバーの一人、クララは盗撮だと怒っていた。
結果、インターネットで興味本位の人々をひきつけることになる。大事に守ってきたフランクが晒されてしまう。

フランクには音楽の才能があるし、カリスマ性もある。でも、日常生活でもかぶり物がとれないというのは、ひどくデリケートな問題なのだ。序盤はいついかなる時もかぶり物をとらない様子がコミカルに描かれていても、これは漫画ではなく、もっと現実的な話なのだ。後半は精神病の一つとして描かれる。

ジョン視点だと、クララに意地悪されてバンドから追い出されそうになって…というのは、かわいそうだなと思うんですが、おそらくクララは最初から嫌な予感を感じ取っていたのだろう。事情のわからない外部の人間を入れたら、大事にしてきたものが壊されてしまうのがわかっていたから、早めに追い出したかったのだ。そして、追い出せずに予感は当たってしまう。

ジョンが、フランクのことをずっとかぶり物をしているなんてクール!としか思えなかったことは、浅はかとしか言いようが無い。天才とか凡人とかではなく、事情を察することができていない。
少し変わっているからこそ天才なのだなと、そもそもフランクのことを理解しようとしなかったのかもしれない。どちらにしても、思いやりの欠如である。

ただ、ラストでフランクはかぶり物を脱いだ状態で歌うことができる。もしかしたら、荒治療が成功したのかもしれないと思うと、どちらが良かったのかわからない。
かぶり物をずっと着けたままの生活は幸せでも、クララたちだって、いつまでもこのままではいけないとは思っていたはずだ。
かぶり物の無い状態で、涙を流しながら、“I love you,all”と歌うマイケル・ファスベンダーの姿は感動的でもあった。

映画のほとんどでかぶり物をしているので、マイケル・ファスベンダーの姿が見たいなあと思っていたけれど、かぶり物をとったフランクはずっと不安定だったし、見たいなあと思ってしまって申し訳なかった…と思うくらいに演技がうまかった。

また、かぶり物をしている時の手などの動きはかなり大袈裟で、顔の表情はなくてもすべての感情が伝わってきた。特に、ジョンの気持ちを買ってなのか、売れよう、人気者になろうと考えてからは、フランクがいっぱいいっぱいになって次第に追いつめられていくのがよくわかった。
売れようと考えて作った曲は奇妙なものだったし、大会のステージに上がる前には白いドレスでかぶり物に化粧を施していて、笑いを誘う姿ながらも、中の人が相当追いつめられているな…というのがわかった。そもそも、化粧と言うのは素顔を隠すためのものなのに、素顔を隠すためのかぶり物に更に化粧をしているというのは、もう自己を内の内にまで隠してしまっているということだ。

ただ、ジョンの気持ちにも応えたいと考えるあたり、フランクは優しくもあるんですよね。謎がありながらも、性格が伝わってきた。

クララ役にマギー・ギレンホール。出ていると思わなかったので驚いた。ジョンから見たら少しイカれていて怖い人な演技がうまかった。フランクに対する態度は優しかった。
フランクが去った後、場末のバーでしっとりと歌う様も綺麗だったけれど、フランクとバンドを組んでいるときの、肩を細かく震わせながらキーボードを弾くパフォーマンスが鬼気迫っていた。

ジョン役はドーナル・グリーソン。監督やこの映画の舞台と同じくアイルランドの俳優さんで、未見ですが、いま公開されている『アバウト・タイム』にも出演中。『スター・ウォーズ』の最新作にも出るらしい。

最近、観た映画の出演者を調べると、結構『スター・ウォーズ』の最新作に出る方がたくさんいるので、一旦まとめると、『それでも夜は明ける』でアカデミー賞助演女優賞を受賞したルピタ・ニョンゴ、『アタック・ザ・ブロック』のジョン・ボイエガ、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』のオスカー・アイザックとアダム・ドライバー。

『悪童日記』


アゴタ・クリストフの1986年の小説の映画化。
読んだのは20年以上前で、内容を忘れていたので原作との比較はできません。近いうちに読み直したい。

以下、ネタバレです。







舞台は戦時下のハンガリー。
戦時下とはいっても、戦争をしている当事者ではなく、子供たちの目を通して描かれているので、ドンパチはそれほどない。どちらかというと静かなくらいなので、数回ある爆発シーンはどれも音がかなり大きく感じた。
それぞれが、人を殺すシーン、母親に爆弾が落ちるシーン、父親が地雷を踏むシーンと衝撃的でもあるので、余計に爆弾の威力を感じて大きく聞こえたのかもしれない。

兵士が戦ったり、爆弾で吹き飛ばされるのも、もともとの小説の作風通りというか、双子が日記に書いた絵で表現されている部分もあった。
それも、淡々としているので、少し不気味で怖いパラパラアニメのようになっていた。

淡々としているのは、主人公の双子の感情そのままなのだろう。戦争につかず離れずのようでいて、結局両親や隣りの家の女の子を戦争でなくすのだから、自分たちが兵士として戦うわけではなくても、直中にいたのだ。

ポスターなどを見ればわかるが、主役の双子役の子たちの表情が素晴らしい。監督が見つけてきたハンガリーの貧しい村の子たちらしく、映画出演も初めてだそう。かなり顔の整った双子なのですが、この先も映画に出て行くのだろうか。
感情を殺しているような役なので、演技面ではよくわからないけれど、たたずまいははまっていた。
大体のシーンで、周りすべては敵という顔をしてるんですが、一人が下から睨み、もう一人が顎をあげてこちらを見ている様子などは、並んでいるだけで絵になる。
コートなどのもこもこした服も可愛かった。体を洗ってもらうときの痩せ細った裸も印象的。

優しくて綺麗で若い女性に、体を洗ってもらい、食事を与えてもらうシーンは映画の中で色合いもあたたかく、ほっとするシーンだった。でも、なんとなく嫌な予感も感じるシーンで、それは双子と同じく私も疑心暗鬼になっているだけかなと思ったら、やっぱりいい人ではなかった。

他のシーンはだいたい、少しくすんだような色で撮影されている。祖母の家が古いせいかもしれない。
あたたかい色合いはほっとしたけれど、作り物めいていてなぜか居心地が悪かったのだ。くすんだ色のほうがしっくりくる映画だった。
また、双子役の少年たちが美しいせいもあるかもしれないけれど、背景を含めて、綺麗で絵になる映像が多かった。

二人は育つというより、どんどん精神的に強くなっていた。二人が離ればなれになったとき以外は取り乱すこともない。子供らしさが封印されていた。成長とは少し違うと思った。
最後、あれだけ嫌がっていたことを自分たちで選択をする。大人の手によって、ではなく、自分たちで離れて行く。もうそうなると、これで本当に怖いものがなくなる。

この二人はどんな大人になるんだろう…と思っていたら、『悪童日記』のあとに二作続編が出ているらしい。未読ですが、再会もするとか。
今回のヤーノシュ・サース監督が権利を持っているそうなので、ぜひ映画化してもらいたい。もちろん、主演の二人はそのままでお願いします。

ヤーノシュ・サース監督はアゴタ・クリストフと同じハンガリー生まれとのこと。
ハンガリーでもホロコーストがあったらしく、それは映画内にも出て来るのですが、監督のご両親がホロコーストからの生還者とのこと。
かなり戦争に近い位置にいたと思うのだが、戦争に対する感情的な怒りは描かれていない。小説のトーンを尊重しているのだろう。秘めた怒りは存分に感じる。

監督インタビューなどは新聞や雑誌の記事になっているみたいですが、双子に関しては何も無い。もちろん、役者ではないからかもしれないけれど、映画以外でのグラビアも見たかった。

映画は一部ドイツ語でほぼハンガリー語なのですが、あまり馴染みのない言語でした。双子がおばあさんを呼ぶ時の語尾がニャで可愛かった(nagyanya)。

『MUD-マッド-』


2012年公開。
少年たちが森の中に住む謎の男と会うが、彼が殺人事件の逃走犯だと知る。謎の男役にマシュー・マコノヒー。

マシュー・マコノヒー演じるマッドはアウトローっぽく、危険な香りを漂わせていて、14歳の好奇心旺盛な少年たちが夢中になるのも仕方ないと思う。
しかも、十字の靴底、体を守るシャツ、魔除けのたき火と話す内容も魅力的。嘘だか本当だかわからない、おとぎ話のようなことを言っていて、周りにそんな大人はいないだろうし、ましてや両親の離婚に直面しているエリスや両親のいないネックボーンは、マッドに魅了されて当然だと思う。

そこには、おそらく現実逃避的な意味も含まれているのだろう。暗い日常では、危険で刺激的なものにひかれてしまう。

エリスに関しては、マッドから愛とは何かも学ぶ。自分の両親の不仲のせいもあって、マッドのジュニパーに対する一途な愛に憧れる。自分もちょうど好きな子が出来て、少しいい感じになったりする。14歳だし、初めてのデートなのかもしれない。
ただ、彼女もジュニパーも、結局は別の男と一緒になるところを見てしまう。

愛ってなんだ?と苦しむんですが、もうこれは本当に14歳だからたぶん、最初の苦悩だと思う。恋愛に酔っているときにはロマンチストだけれど、裏切られると、一気に地獄へ真っ逆さま。子供には酷な話だと思う。

恋愛と、勇敢さと、盗みや嘘などの悪いことをおぼえて、少年は大人になる。
それだけで良かったと思う。少年たち、というか、エリス一人を主人公として描いてほしかった。
マッドはサンタクロースとかと同じ架空の人物で、少年の成長(しかも、両親の離婚のタイミングだ)のために現れたけれど、本当にいたのかどうかわからないというくらいで良かった。ある日、ふっと消えてしまって、少年(と映画を観ている人)が夢のような出来事と男に想いを馳せるような終わり方で良かったのではないか。

おそらく、監督が真面目な人で、マッド側の殺人事件についてもちゃんと決着をつけようとしたために、丁寧に描いていたのだろう。息子を殺されたギャングのような集団が中盤に出てきたときに、そちらのことについても描かれることに少し違和感を覚えたんですが、終盤でも銃撃戦のシーンが出て来る。また、トムが狙撃の名手という伏線がここで回収されたりもするけれど、別に回収する必要の無い伏線だったと思う。

マッドについても描こうとするから、撃ち合いのシーンを入れなきゃいけなくなった。更に、川に飛び込んだマッドがどうなったか、ということまで最後に描いている。
その辺も、川に飛び込んだ、死体は上がっていない、それだけで良かったのだ。生きているのかもしれない、もしかしたら死んでいるのかもしれない、生きていたらいいなくらいの余地が欲しかった。

少年たちは映画の中ではマッドの行く末を知らない。観ている側にもそれで良かった。
マッドが実在したかはわからないけど、子供は現実の世界で確実に成長してる。それだけが残れば良かったのではないか。

後半のいくつかを削れば、120分以内におさまった。134分は少しだけ長い。

結局、トムがマッドを助けてボートで逃げていたけれど、彼女のジュニパーは『一生逃げて暮らすのは無理」と言っていたが、トムはそれを選んだのだろうか。結局父親代わりということか。

もう根本的なところで、マッドの話すジュニパーという幼馴染みであり恋人も、話の中だけの人物で良かった。
ただ、終盤、マッドがジュニパーに別れをつげるために、こっそり遠くからジュニパーを見るシーンは素晴らしかった。そのマシュー・マコノヒーの表情がとても穏やかで、様々な裏切りを受けたことをまったく恨んでなさそうだったのだ。それでも愛しているという、表情だった。あの顔こそ、エリスに見せてあげたい。

この映画では川が多く出て来るのと、マシュー・マコノヒーということで、『ペーパー・ボーイ 真夏の引力』に舞台が少し似ていた。あちらは沼ですが、今作の川も決して綺麗ではなかった。

ちゃんとは描かれないのですが、エリスの家は川のへりというか桟橋というか、母親の言葉だとボートと言っていたので浮かんでいるのかもしれないですが、そこで川の魚をとって、町へ売りに行っているようだった。
当然貧困層であり、『ペーパーボーイ』のヒラリーの沼の家を思い出した。