Netflixで配信されている『ブラック・ミラー』の番外編というか、ドラマとは別のもの。
Netflixオリジナル映画という書き方だったので、日本でいうTHE ムービー的なものだと思っていたけれど、選択肢からストーリーの行く末を決められるほとんどアドベンチャーゲームのようなものだった。

以下、ネタバレです。
が、おそらく全通りのエンドは見られていないし、バッドエンドっぽいのにしかならない。けれど、『ブラック・ミラー』自体がバッドエンドなことが多いドラマなので、もしかしたらハッピーエンドなんてないのかもしれない。
また、主人公のステファンを演じるのが、『ダンケルク』のトミーを演じたフィン・ホワイトヘッドで、彼目当てで見たんですが、彼が何度もつらい目に遭う…私の選択肢の末なので私のせいでつらい目に遭うので、何度も見るのが疲れてしまった。









選択肢で物語の行く末を決められるとは言っても、途中で二、三回出てくるくらいだと思っていたし、途中で軌道修正されて結局は同じ話になるのだろうと思っていた。
けれど、最初の朝食のシリアルの種類から決めさせられて、次に通勤のバスの中で聴く音楽まで選択をすることになる。実際に撮影されたのが5時間で、一回目に終わったときに1時間半だったのでまだまだ見ていないルートがありそう。

ただ、このシリアルの種類に意味があるとは思えないし、次の音楽もBGMが変わるだけなのではないかなと思う。けれど、最初に選んだシリアルのフロスティがどのシーンだか忘れてしまったけれど、途中のCMで出てきたのは少し不気味だった。もしかしたら、ここで間違えたせいでバッドエンドルートに入ってしまっているのではないか。
その次の、会社に誘われて了承するか断るかの部分はもしかしたら根本的な部分に関わってくるのかもしれないがわからない。断ってしまった。
大まかなあらすじとしては、昔の本を原作としたアドベンチャーゲーム『バンダースナッチ』をプログラマーのステファン(フィン)がゲーム会社に持ち込む。リリースしようということになるが、原作の作者は人に操られているという妄想を抱いて死んでしまったことがわかる。ステファンも同じ妄想に取り憑かれる…というもの。
しかし、このステファンが主人公のゲームを遊んでいるのは私たち視聴者なんですね。だから、ステファンは、誰かに操られていることを不安がる…私の行動を怪しみ出す。メタ的な構造になっている。

これ、フィン・ホワイトヘッドのことが好きかそうでもないかにもよると思うんですけれど、好きな俳優がテレビの中からこちらに干渉してくるんですよ。テレビを通じて彼と繋がれる。
普通ならとても嬉しいことだけれど、このドラマの場合、私の選択のせいで好きな俳優が演じる役の子がどんどん病んでいく。つらい。特に、『父親を殺す』という選択肢を選ばなくてはいけないのがもう…。
あと、その遺体を切り刻めという指示を出したら、「マジかよ」とひかれてしまった。こんな選択肢、選びたいわけじゃなかったのよ…。

それだけじゃなく、これはNetflixのドラマですよ、Netflixっていうのは娯楽ですよみたいに出演者に教えることもできる。画面の中で戸惑っていた。

だから、私の選択がダイレクトに彼に伝わっている感じはひしひしと味わえる。けれど、別に乙女ゲームではないし、私と画面の中の彼はどうにもならない。でもせめて、幸せにはしてあげたい。

それなのに、何を選んでも逮捕されてしまう。父親を殺すが選択肢に出てくるからですけれど。
ゲームの評価は5も取れた。2ちょっとだったときもあったけれど。でも最後が獄中になってしまう。
けれど、現代のNetflixの担当者が出てくることもあった。入れ子構造です。ただ、現代の人のPCも壊れてしまって、叩くか飲み物をかけるの二択が出てきて、どちらにしてもPCが直らなさそうだけど、飲み物をかけてしまった。

ステファンの悩みというのは、ゲームを作ることもあるんですが、母親が自分のせいか父親のせいで死んでしまったのではないかとずっと悩んでいる。家族の問題もあるのだ。
過去に戻るような描写があって、過去が変えられれば現代も変わるというのは力強く夢のあるメッセージだと思うんですが、過去に戻って、元凶となるウサギのぬいぐるみは取り戻したのに、結局母親と一緒に電車で死んでしまった。現代のステファンも死ぬ。あのとき、ウサギのぬいぐるみを取り戻した上で列車に乗らないの選択肢を選んでいたらどうなっていたのだろう。やはり母親だけが死ぬのだろうか。

この、あの時こうしていたらどうなった?というのは、ゲームだけの話ではなく、自分の人生にも覚えがあることだから、なんとなくそこまで想起させるものを作ったのは素晴らしい。

過去に戻って母親を生き返らせるなんてことはできなくても、できれば父親との仲を修復したい。殺すなんて選択肢は出てこないでほしい。また、ゲームも成功して5の評価をもらいたい。その上で、逮捕エンドはやめてほしい。全部が叶うハッピーエンドはあるのだろうか。

バンダースナッチというのは、ルイス・キャロル作品に出てくる謎のバケモノらしい。実はアリスのモチーフになっていることが何回か出てくる。コリン(ウィル・ポールター)が序盤で、ゲーム作りに悩むステファンに「思考の穴に落ちたな」ということを言う。また、鏡の中に入って行く描写もある。それに一番わかりやすいのは、白いウサギのぬいぐるみですよね。
コリンは要所要所で「もう一度やり直せ」とか意味ありげなことを言うので、もっとキーマンなのだと思う。私の話の中ではあまり彼を生かせていない。
最後の方で殺す、殺さないの選択肢の時も、「いいよ、お前に選択できるなら」と言っていた。ステファンは選択できず、他の何者か(私)が選択していると知っていそうだった。
彼の関連で、彼の家に行った時に薬を受け取らない(どうせ飲み物に入れられたのでどうなのだろう)、飛び降りるのをコリンにするという選択をしたけれど、この辺どうなのだろう。
なんかビデオ渡してきたのも意味ありげだし、きっともっと出番ありそう。私の選択肢では全然出してあげられなかった。

何度もやり直したいんですが、つらい指示を何度も彼に与えることに疲弊してしまって続けられなくなった。だって、私が『父親を殺せ』と言ったばかりに彼が父親を殺すんですよ。僕の意志じゃないって言いながら…。つらすぎる。

このドラマというか映画というかゲームというか、主演俳優が好きかどうかによっても楽しみ方やつらさがまったく違ってくると思う。
何度も繰り返し同じシーンも見るのはまったく苦にならないけれど、どのルートを辿っても人を殺してしまうのは可哀想すぎる。ここまで行く前に、何か選択肢を間違えているのではないかと思う。
でも、バッドエンドしかないのかもしれない。『ブラック・ミラー』じゃなければこんなこと有り得ないんですが。

それにしても、動画配信サービスで、こんなゲームみたいなことやるのすごい。Netflixに入っているだけで楽しめるなんて。好きな俳優じゃなかったら、もっと何度もプレイ(プレイという言い方)していたと思う。
現段階ではちょっと疲れてしまったので一旦休みます。





2010年アメリカで公開。日本では大規模な公開はなかったけれど、小さい映画館でちょこちょこと上映されていたらしく、今回オープンしたアップリンク吉祥寺の見逃した映画特集で観ました。
アップリンク吉祥寺、初だったのですが、椅子も座りやすいし、スクリーンが高い位置なので頭も被らなそう。スクリーン1の三列目で観ましたが、それよりも前だと首が疲れるかもしれない。パルコの地下なので当たり前ですが、天井は低いです。あと、上映後の出入りは扉が開く音なども気になるくらい。
スクリーン1は60席くらいと中では大きい方でした。三列くらいしかないスクリーンでもいつか観てみたい。
ロビーやトイレ、物販などの雰囲気はいいです。

『イット・フォローズ』、『アンダー・ザ・シルバーレイク』のデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督作品。
キャストに有名どころがいないのと、青春ものということでなかなか配給がつかないらしい。
また、スリープオーバーというのはお泊まり会という意味なんですが、アメリカ独自の文化なのか、新学期前…アメリカなので8月末にいろいろな場所で開催されていた。
おかしなことにはならないように、男女は別になっている。本作は、女子チーム二軒と男子チーム一軒、他の場所でのパーティ、大学の体育館での雑魚寝と色々な場所で行われているお泊まり会を舞台にしたを群像劇。
夏の終わりの一晩のティーンたちの話で親は一切出てこない。大学の先生もずっと寝ていたので、意図的に出さなかったのだと思う。

男子チームはB級ホラーを見てピザを食べ、おっぱいのシーンを巻き戻したりして、本当に男子!という感じだった。ただ、その中の一人の子は昼間にスーパーマーケットで見かけた女の子に一目惚れしてしまい、夜の間、うろうろしながら探し続ける。様々な場所で探し続けてすれ違ったりもするんですが、キスするスポットになっている廃墟でようやく会える。ああ、ハッピーエンド…と思ったんですが、腕に男の人の電話番号が二件も書いてあって、夢から醒めたようになっていた。

年上の彼氏がいる子はいかにも遊んでる女の子の家のスリープオーバーに招待されるが、そこで彼女の日記を見て、彼氏とその子が関係をもっていたことを知ってしまう。仕返しのようにその子の彼氏と地下室でキスをして見つかり殴られていた。
地下室に行くときに、こっくりさん的なやつをやっていて、やっぱりティーンが集まるとこっくりさんなのは他の国でも変わらないんだ…と思った。

メインビジュアルでも使われている金髪ショートカットで口にピアスをつけた子と黒髪癖っ毛メガネの子の二人は少しさめていて、お泊まり会に参加するのは子供っぽいと思っている。自転車でふらふらと仲がいい男の子の家に行きパーティの情報を仕入れ、そこに参加することにする。金髪の子が元々好きだった仲がいい男の子は遊び人のようで、パーティでは違う女の子の肩を抱いていた。でもそこで、プールで出会った別の子と再会して、ちょっといい雰囲気になっていく。しかし、黒髪の子とはぐれてしまい、その子は遊び人の男の子とボートに乗っていて…と、まあせわしない。全員が誰と決めずにふらふらしている。ふらふらしたまま、お泊まり会会場に一旦戻ったりもする中で、やっぱりプールの子のことが好きなようだった。
二人で抜け出して夜のプールに行くのですが、ウォータースライダーで、「下りたところでキスしたい」と言われ、了承するんですが、滑っている途中で一旦止まって、振り返って「キスしたくないわけじゃないけど、今日はいや。もう胸がいっぱいで」と言う顔がとてもキュートだった。恥ずかしがるような、でも夏が終わってしまうのをさみしがるような表情。ここまでこの子は結構スカした感じというか、つまらなそうだったのに、ちゃんとティーンの表情になっていた。

シカゴの大学を退学して地元に帰りたい男の子は、高校に飾ってあった写真に写る自分と双子の女性の姿を見て、その双子に会いたくなる。一気に恋に落ちてしまったようで、彼女たちの大学に乗り込んで行くのもあっという間だった。そこで彼は二人とも好きと言うし、本当に二人と自分ということを想像していたようだけれど、当然双子ご本人たちは納得できない。男の子にとっては概念みたいなものだったらしい。
しかし、どうやら昔から双子の一人はその男の子のことが好きだったらしい。男の子は賭けに出たのか本当なのか、片方(A)に告白する。結局どちらとも付き合うことなく、男の子は双子のいた大学を後にするんですが、Aが追いかけてくる。Bの連絡先を持って。好きだったのはBのほうだったんですね。でも、男の子とAはもう共犯になってしまっている。だから、「Bには二人とも好きだって伝えておいて」と嘘をつかせる。と同時に、「君(A)も本当は俺のことが好きだろ?」みたいなことも言っちゃう。好きじゃないって言いながらも軽くキスしちゃうあたりも青春っぽかった。
その思い出を胸に、男の子はシカゴへ戻って行く。

この男の子だけでなく、みんなが同じ夜を越えて、それぞれの場所へ帰って行く。
ただ夜が明けたわけではなく、夏が終わったのだ。
メインビジュアルの二人は、最初はプールサイドで「この夏、何もしなかったねー」とつまらなそうに話していた。でも、最後には金髪の子のほうは「今日はもう胸がいっぱいだから、キスするのは今日じゃない方がいい」と言っていた。みんな一晩で一夏分の経験をした。
みんなまだ子供だからという面もあるかもしれないけれど、キスシーンはあっても誰もセックスしないのもまた良かった。子供でもお酒は飲みます。
夏が終わる。始まる日常。
もしかしたら、先延ばされたまま、もうキスはしないかもしれないと思ってしまった。魔法のような一夜の出来事、朝になってしまえば魔法はとけてしまうのだ。




『来る』



中島哲也監督作品。出演は松たか子、妻夫木聡、小松菜奈と監督お馴染みのメンバー以外にも岡田准一、黒木華など。
ホラーだとは思うけれど、いわゆるホラーという感じではない気がしました。でも、血はたくさん出るし、体は千切れる。
怖さよりは、嫌な気持ちになったり、絶望感を味わったりという面が多かった。

以下、ネタバレです。









予告編を見る限り、群像劇だと思っていた。不仲な夫婦と娘の元に何か怖い存在が現れて、でも力を合わせて乗り越えるのかなと思ってた。化け物は倒され夫婦仲も元に戻る。けれど、そんな話ではなかった。
中盤で妻夫木聡演じる秀樹があっさり殺される。
この秀樹が何から何まで苛々させる存在で、もう最初から人の話を聞かない。外面だけがいい。会社の女性社員とも関係を持ってそうだったし、結婚式に来てた派手めな女性たちともたぶん…。ブログに子育て写真を載せたり、実際は関わっていないのに良いことを書いて(これも結局外面…)イクメン会のスターになる。しかも満更でもない。イクメンたちのオフ会みたいなので、全員でIKUMEN CLUBと書いてあるトレーナーを着ていて、よくあんなむかつく小道具を思いつくなあと感心した。
子供ができて住んだ新居にはHOMEのO部分に写真をいれられるフォトフレームが置いてあって、なんだかその小道具もイライラした。
子育てを一切手伝わないのに育児書を読んで頭でっかちになってアドバイスだけしてくる、あれは悪気はないんですか? あのような性格なのだろうか。
とにかく私だけじゃないはずだけど、観客のヘイトを一身に集めまくる。

ただ、怪奇現象が起こり始めて、民俗学者でもある友人に相談して、オカルトライターの野崎を紹介してもらってからは、ほんの少しだけ印象は変わった。
野崎役に岡田准一。つるっとした美形のイメージだったけど、髭のせいもあるのか、年をとって顔に味が出てきた。
彼の友人の真琴は霊媒師兼キャバ嬢ということだったけれど、刺青が多く入っていて髪がピンク色で…ということで、キャバ嬢というよりはバンドマンに見えた。
「馬鹿なんで」が口癖なのは、周囲に散々そう言われたのだろう。でもいい子。

真琴の姉は凄腕の霊媒師で、予告で姿は見てるけど序盤だと電話だけ。それでも只者じゃなさは伝わってきた。
しかし、結局、秀樹は殺される。

それ以降は、秀樹の妻の香奈の話になる。
秀樹のことを、死んでほしかったと言っていて、観客としても、ここまでの秀樹の描写を見ていたらわかると思わざるを得なかった。
主要人物が死んでも悲しいと思わせないのは、うまく誘導されていたのだと思う。
後半で民俗学者の友人も、野崎に「あいつのことなんてどうでもいいと思ってたんでしょ?」と言うけれど、おそらく野崎も思っていたし、私たちも思っていたので、そのセリフを聞いてはっとしてしまった。
しかし、そう思っていたせいなのか、育児ノイローゼ気味だったせいなのか、香奈もわりとあっけなく殺される。
夫婦が二人とも死んでしまうとは思わなかったので驚いた。

そして、後半は真打ち登場というか、凄腕霊媒師の琴子の独壇場になる。
一本線ではない、少し変わった構成だなと思う。
夫へのヘイトがたまりにたまった段階でどかん、妻が病んでいく様子、そして祓いといった三部構成といった感じ。
未読ですが、原作もこうなっているらしく、一部の語り手が秀樹、二部が香奈、三部が野崎となっているらしい。ということは、かなり原作に忠実なのだろうか。

祓いのシーンは、神職大集合という感じでかなり盛り上がる。
沖縄のユタのばばあたちがタクシーでわいわいしてるシーンでは、ああ、こういうピンチに駆けつける空気の読めないばばあが最強って法則でもあるよな…と思いながら観ていたけれど、そのタクシーが襲撃されて、一瞬でばばあたち全員が滅せられてしまう。法則が逆手にとられていて、絶望感があおられた。
その後、三重から(?)新幹線で向かっていた重鎮っぽいじいさんたちが別れて乗ろう、一人でも辿り着かねばみたいに言ってるのも、相手の強大さがわかって怖かった。姿は出ません。じいさんたちが神主なのもあとでわかる。
実は私は、この一連のシーンが映画内で一番怖かった。

マンションの外に祓いの舞台が設置されている様子は、重大なことが起きようとしているのに少しわくわくしてしまった。女子高生たちがはしゃいでて、場違いだな…と思っていたのですが、巫女さんたちで、あとで舞を踊っていた。
神社にある清めの白い石が敷き詰められたり、太鼓が叩かれていたりと、全部盛りのようになっていた。これは外国でも受けそうな要素だと思った。

部屋で祓っている琴子とわたわたしてる野崎の対比は少し笑ってしまうほどだった。パンチを一発くらっていた。リセッシュのような除菌スプレーが除霊に役立つと言われていたのもへーと思ってしまった。

ただ、祓いのシーンだけではないのですが、どうしてもVFXの安っぽさが気になってしまった。体が千切れていてもあまり怖くなかったのも、偽物っぽかったからかもしれない。日本映画はお金がないので仕方ないけれど…。

また、結末が少しわかりにくかったけれど、知紗を返そうとしていたのは、取り憑かれていた琴子なのだろうか。虫を吐いていたし、野崎と真琴が必死に対抗したということなのかな。
最後はオムライスの夢を見ていたくらいだし、もう取り憑いていないと思う。

琴子の行く末は謎のままだったが、琴子と真琴の比嘉姉妹シリーズが原作にあるらしいので、ここで死んだわけではないと思う。比嘉姉妹シリーズ興味ある。

序盤で、妖怪なんていない、人は都合の悪いことを妖怪のせいにすると言っていたので、結局夫婦仲の修復に重きが置かれるのかな…と思っていたけれど、そんな結末にはならず、がっつり化け物退治だった。ただ、姿が出てくるわけではないです。ちゃんと妖怪はいたのでよかった。おもしろかったです。


『ホーム・アローン』『ハリー・ポッター』のクリス・コロンバスプロデュース。
クリスマスの夜の兄妹の冒険を描く。お兄ちゃん役に『雨の日は会えない、晴れの日は君を想う』でおませなヒョウ柄のジャケットがよく似合っていてキュートだったジュダ・ルイス。だいぶ大人になっていた。サンタクロース役はカート・ラッセル。
老若男女、観る人も観る時代も問わず、誰でもが楽しめるクリスマスムービーだった。これは定番になりうると思う。Netflixのみというのがもったいないくらいだった。

以下、ネタバレです。








ある家族のクリスマスのホームビデオが毎年分流れていく。息子は大きくなって、妹が産まれて…。でも、現代の家には飾り付けもされていないし、父もいない。母は急患なのか仕事へ出かけてしまう。中学生くらいまで大きくなったお兄ちゃんは悪い友達と付き合って車を盗んだりしている。妹だけがかろうじて純粋なままサンタを信じ続けている。
観ていくうちに父は死去していることがわかり、家族の少しギスギスした雰囲気はおそらくそれが原因ではないかと思う。
しかし、毎年録画しているホームビデオに、なんとサンタの腕が映っていることがわかる。すでにサンタを信じなくなっているお兄ちゃんも驚いて…というオープニング。

家族がばらばらになりそうではあるけど、一歩手前で踏みとどまっている。お兄ちゃんも完全に悪の道へ行ってしまったわけではない。
そこで、母がいない間に二人は外に出て、サンタと遭遇し、ソリを壊してしまう。

カート・ラッセルが演じるサンタが一風変わっていて、HO!HO!HO!もやってくれないし、でっぷりともしていない。太ったサンタのイラストは嫌みたいだった。不思議な瞬間移動みたいなのを使いながら素早く全家庭にプレゼントを配る。豪快で破天荒。ちょいワルおやじというと印象が悪いけれど、そんな感じの不良要素のあるおじいさんだった。恰好いいし、魅力的。
お兄ちゃんに車を無免許運転させて、カーブをうまく曲がってフィストパウンドしたりする。
いわゆるサンタらしくはないので、不審者として刑務所に入れられてしまうが、そこでも悲壮感はなく、囚人たちとバンドを組んで歌を歌ってしまう。
大人たちはもうサンタを信じてはいないけれど、サンタにとっては全員子供で、名前と昔サンタに欲しいと願ったものを覚えているのもぐっときた。

サンタがいない間、クリスマスを続行するために兄妹が奮闘するんですが、助けてくれるエルフがあまりにもCGっぽすぎて、少しノイズになるかなと思った。けれど、本当はモーションキャプチャーでやりたかったけど時間がなかったと言っていたので、それは製作者たちもわかっていることのようだった。
また、エルフ語は『ゲーム・オブ・スローンズ』の方に作ってもらって翻訳したとのこと。ちゃんとしている。

普通なら、一晩の出来事を通じて成長するのは兄妹両方だったりするものですが、この兄妹の場合、妹はわりと最初からしっかり者で、純粋な良い子だった。成長するのは兄だけというのがちょっと変わっていると思った。もちろんサンタの存在を信じるようになったし、ロクでもない大人になりそうだったところを修正された。
また、途中で父の死が家族以外の人を救ったことが原因だったとわかるのですが、それについて兄は他の家のことなんて!と嘆いていたけれど、最後にはちゃんとそれも受け入れられるようになった。
サンタからの粋なプレゼントには泣いた。兄は「父さんに会わせて欲しい」とサンタに手紙を書いていたけれど、それはさすがにできない。クリスマスの奇跡とか言ってそれをやられたら一気に興ざめしてしまう。
けれど、貰った古いオーナメントをツリーに飾ると、そこに父の姿が少しだけ映る。
なんというか、これくらいの再会がすごくちょうど良かった。

あと、別れ際にHO!HO!HO!をやっとやってくれたのも良かったし、HO!HO!HO!すら恰好良くなってしまっていた。

また、サンタクロースが恰好いいので(?)、ミセス・クロースという奥様も終盤に少しだけ出てくる。どうやら尻に敷かれているようだった。そして、ミセス・クロース役がカート・ラッセルの実際の奥様というのもニクい。

王道ではあると思うけれど、少し変わったサンタクロース像なのと、兄が成長するという面は新しいと思う。何より、やっぱりクリスマスにはクリスマスムービーだなあというのを再確認させられた。来年も観たい。





ブラッドリー・クーパーが監督・脚本・製作・主演、歌などもこなしていて一人何役かといった感じ。相手役にレディー・ガガ。
予告編を見ただけだと、一般の女性が一流ミュージシャンに見初められて駆け上がって行くサクセスストーリーなのかと思っていたけれど違った。
あと、知らなかったのですが、四度目のリメイクで、元々は『スタア誕生』(1937年)。邦題にもそう付いてるし、原題は丸々一緒です。なんで気づかなかったのか。

以下、ネタバレです。









予告を見た限りだと場末のパブのような店で働いていた女性が、ミュージシャンと恋に落ちて、一緒にステージに立ったりして、大スターになる…というお話を想像していた。
人がたくさんいるステージで、女性が思い切って歌い出すシーンは、『SING』にあったようなクライマックスを想像していた。歌えなかった女性がやっと自分の殻を破る。また、あの歌が感動的だったのでクライマックス向きだと思ったのだ。

しかし、かなり序盤で出てくる。
それに、実はここが主人公ジャックの人生のクライマックスでもあった。そう、主人公はアリーではなく、ジャックである。二人が主人公なわけではない。完全にジャックです。おそらく、日本だとブラッドリー・クーパーよりレディー・ガガのほうが有名だし、アリーとタイトルに付けたのだろう。
でも、ジャックがしたことはアリーを引っ張り上げただけで、序盤のステージで一緒に歌った後は、アリーは別のマネージャーの元でスターになっていく。スターにしたのはジャックではない。だから、これはシンデレラストーリーではあっても、主人公は関わっていない。主人公と関係のないところで、好きな女性がスターになっていく。
途中でジャックが『プリティー・ウーマン』を歌わせてもらえないというシーンがあって、示唆されているのだと思った。ブラッドリー・クーパーうまい。

アリーがスターになっていく一方でジャックはどんどん落ちぶれて行く。『ラ・ラ・ランド』もそうでしたが、芸術家カップルはその点でうまくいかないと思う。人気というのは水物である。その時期が重なるとは限らない。
また、アリーだけがスターになるのに嫉妬はあるだろうけれど、アリーはジャックの手を離れてから人気が出てくるから、ジャックの望んだ姿のアリーがスターになるわけではないのがまたつらい。
『ラ・ラ・ランド』は中盤までは二人の気持ちは寄り添っていた。しかし、本作は序盤に一緒にステージに立って以降は気持ちが離れて行くから『ラ・ラ・ランド』よりも厳しい内容である。デートムービーかと思って居たけれどまったく違った。

思えば、最初からジャックはアル中気味だった。ライブ会場に客をたくさん集められても満たされない毎日だったのだろう。そこでであったアリーと恋に落ちる。鼻をなぞるシーンと眉毛を取るシーンがかなり密着した撮られ方をしていて、おそらくそこで恋に落ちたのだろうとは思うけれど、その後の会話シーンやホテルの部屋でのシーンなどは少し冗長に感じる部分もあった。しかし、後半に向けてどんどんつらくなっていくので、その冗長さが懐かしくなってくる。あの、どうでも良さそうな会話がジャックには幸せだったのだろうし、きっとあのまま続いてほしかったのだろう。

しかし、うまくいかない。
アリーが望まぬ姿でスターになっていく一方、ジャックは酒とドラッグに溺れて行く。しかも途中で、父親や兄との確執が出てくる。父はアル中で、年の離れた兄は腹違いだ。
ジャックは一流ミュージシャンだし、素晴らしいものの象徴として描かれているのかと思った。それを目指して行くアリー(アリーが主人公)という構図で。
しかし、映画は完全にジャック視点である。内面についてもジャックにしか描かれないため、アリーの考えていることはよくわからないくらいだ。
ジャックのことが好きなのはわかる。でも、自分のその姿はジャックに望まれていないというのはわからなかったのだろうか。ジャックの音楽性などを考えたらわかりそうなものだけれど。
ジャックが自分の内面を話さなかったせいもあるのかもしれない。アリーはスターになってしまい、話すこともできなかったのかもしれない。けれど、映画を観ている観客のほうがアリーよりもジャックのことを知っているというのはかなり歪だと思った。アリーはジャックのことをまったくわかっていない。

特に、グラミー賞のステージの上で失禁などという大失態をおかしたあとで、アル中克服施設に入り、出てきた彼のことを、ヨーロッパツアーに帯同させて一曲目でデュエットしたいなどと…。マネージャーにも反対されていたけれど、私も大反対だった。アリーはもちろん意地悪で言っているわけではないし、ジャックのことを愛しているのはわかった。でも、ジャックがそれを望まないことはわからない。
好きだとか愛しているという気持ちだけでは、本当に相手の内面に寄り添うことはできないのだな…というのがわかって、とても厳しいシーンだった。

この提案をするシーンは映画の終盤なのですが、ちょっとグロテスクとすら思える意見で、この段階になっても恋人がジャックのことをわかってくれていないというのは吐きそうになるくらいきつかった。
だって、ジャックはアリーと出会った時にもどん底とは言えなくてもそこそこ下のほうで、そこから彼女と出会って救われるのかなと思ったはずなのだ。それなのに、心が通ったのは前半のほんの少しの間だけ、そこからは結婚をしたって好きだと言われたって、本当にはわかってもらえてなかった。このタイプの気持ちのすれ違い映画はなかなか観たことがなかった。

しかも、そのままジャックが自殺してしまい(しかも子供の頃に自殺未遂したときと同じ方法)、アリーは永遠にジャックのことはわからないままという…。あまりにも悲劇的すぎる。
もちろん、ジャックに寄り添って、アリーがジャックを救うのに徹していたら、アリーはスターにはなれなかっただろうから、A Star Is Bornではなくなるだろう。アリーは意図的でないにせよ、ジャックの気持ちがわからないことでスターになった。意図的でなくとも、ジャックを切り捨てたのだ。この意図的でないという部分がきつかった。

意図していなかったとはいえ、追悼コンサートなど無責任だなと思って、最後のアリーの歌も冷めた目で見ていた。歌詞に日本語訳が付いてましたが、「私はもう他の人は愛さない」といった内容だったけれど、途中で実はこの曲はジャックが作ったということで、ジャックが歌うシーンに切り替わる。 歌詞は、「俺はもう他の人は愛さない」と日本語訳ならではで一人称が変わる。アリーが歌う場合と、ジャックが歌う場合で重みが全く変わってぐっときました。

この二人の気持ちのどうにもならなさと、ジャックの哀愁などの描かれ方、淡々とした会話シーンなどが少しクリント・イーストウッドっぽいなと思いながら観てたんですが、元々はイーストウッドが監督をするはずだったらしくて納得。初監督作でこれができるブラッドリー・クーパーの今後も楽しみ。ただのイケメンかと思ったら演技派…と思っていたけれど、それだけではない。

またレディー・ガガも出てきてからそのまんまレディー・ガガだなと思って、彼女はもちろん大舞台も慣れたものだと思うから、そんなステージ急に上げられてどうしようという顔をされても…と序盤は思っていたけれど、話が進み、彼女がのし上がっていくたびにどんどん知っているレディー・ガガの姿に近づいていくのがすごかった。後から考えると序盤の姿は確かに何も知らない女の子だった。演技力とともに、化粧、髪型、衣装などで一回りも二回りも華やかになっていく様子は目をみはるものがあったし、彼女のことを止められないし、止めるのは勿体無いと思わせる説得力があった。
ジャックの内面が描かれているから映画を観ている側はジャックの味方になってしまうけれど、かといって、アリーのあの姿を見せられてしまうと戻ってこいとも言えなかった。これは、レディー・ガガだからできたことだと思う。ナイスキャスティングでした。


『暁に祈れ』



『A Prayer Before Dawn: My Nightmare in Thailand's Prisons』を原作とした実話。映画の原題も『A Prayer Before Dawn』  なので、良い邦題だと思う。
実際の刑務所で撮影していて、元囚人もキャストに多数起用されているらしい。
『ピーキー・ブラインダーズ』のシェルビー兄弟の一人、ジョン役でお馴染みジョー・コールが主人公ビリー役。
彼以外のキャストはすべてタイ人。

以下、ネタバレです。










全体的にセリフがあまりない映画ですが、オープニングも急に始まる。
刑務所の中からムエタイでのし上がるというストーリーをなんとなく聞いていたので、最初から格闘技をやっているということは未来から始まって過去に遡る形式かなと思ったら違った。主人公のビリーがボクサーだった。
映画は時系列順です。

あと、なんとなく、冤罪で凶悪刑務所に入れられてしまう…というストーリーのつもりだったけれど、ばっちり覚せい剤で捕まっていた。

最悪の刑務所の最悪の房に入れられてしまう。
タイが暑いからなのか、囚人たちは上半身裸なんですが、ほとんどの囚人が全身に入れ墨が入っている。元囚人もキャストとして出演しているということで、その人らの入れ墨は本物らしい。
その中に、入れ墨が入っていない白人が一人紛れているのは異様だった。
しかし、元ボクサー役ということで筋肉がちゃんとついているし、色気もあった。ジョー・コール目当てで観ても満足。つらいシーンは多いですが。

刑務所の酷さも描かれるとは思っていたけれど、そこからののし上がりが映画のメインになる部分だと思っていた。栄光へ向かって駆け上がる映画だと思っていたけれど、そんな感動ものではない。
刑務所の実態部分が映画の半分以上といった感じだった。いじめだったり、タバコが通貨だったり、賭け事でイカサマが行われていたり。特に、看守が薬物で言うことを聞かせているのが酷かった。何度か薬物を与えて手懐けてから、気に食わないやつを殴らせる。

中盤以降でやっと、ビリーはボクシングのトレーニング場へ行く。ここに入れてもらうのにもタバコが必要だった。
元ボクサーということで一目置かれていた。
ボクシング房は最初にいた房よりも優遇されていて、試合の時には外に出られて気分転換になるなど、良いことづくめのようだった。
そんな中でビリーに試合の誘いが舞い込む。勝てば、違ういい刑務所に移れるとの特典も付いていた。
途中、吐血したり、好きだった人に振られ荒れ気味になった時には、元に戻されたり、死にエンドだったらどうしようと思った。大丈夫でした。
ちなみにこの、好きだった人はレディボーイと呼ばれていて、察しはつくけれど変わったネーミングだと思ったけれど、タイでは性転換した方のことがこう呼ばれているらしい。レディボーイが刑務所に入ると、囚人の慰安として歌を歌ったり、売店で働くなどの仕事をすることになるとのこと。

英国人のボクサーが次第にムエタイに染まっていくのが良かった。
キックをしたりと、足を使ったファイティングスタイルを学んでいったり、背中に入れ墨を入れるのも良かった。
また、試合には、モンコンと呼ばれる神の守りであるヘッドリング(はちまきのようにも王冠のようにも見える)をつけていたり、試合前の定番であるワイクルーと呼ばれる踊りや神に祈りを捧げる行為もちゃんと行っていた。
一人だけぽっかり浮いているようだったが、ちゃんと馴染んでいたのがたまらない。

しかし、別に刑務所で友達ができたわけでもないし、コーチと仲良くなったわけでもない。試合を親や恋人が見に来るわけでもない。
セコンドが声かけて来ない、あくまでも自分のためだけのボクシングものというのは非常にストイック。ドラマチックにはならない。

勝った後に、吐血してぶっ倒れていたので、ああ、やっぱり死んでしまうんだ…と思っていたら、病院のシーンになった。生きていた。
迂闊な看護師のおかげであっさり病院を抜け出すので、もしかしてこのまま逃げてしまうのかと思ったけれど、ちゃんと戻っていた。
台詞もないし、スラム街を見ている表情からは、何を思っていたのかはわからなかった。けれど、逃げ出したところで、社会からは抜け出せないと思ったのかもしれない。

とにかく、説明がないし、セリフも少ない。
タイ語については、重要なセリフだけ字幕が付くけれど、他の部分は付かない。でも、ビリーもタイ語がわからないということなので、同じ異国感を味わえた。囚人たちは早口だし、怒っているようだし怖い。ビリーも怖かったのだろう。
ただ起こったことが淡々と描かれているドキュメンタリーのように見える部分もあった。
また、手持ちカメラが多いが、試合シーンは特に寄りだったし、激しく揺れる手持ちカメラなので、前の方の列だと酔いそうになった。臨場感はありました。

ただ、ここまで硬派というか、ピリッとした映画に仕上がっていたのですが、最後にビリーの元に面会しに来る父親役がなんと、ビリー・ムーア御本人というどっきり企画。
急に粋な演出というか、普通の映画っぽくなった。
実話もので御本人が出て来る映画というのは他にもあるけれど(『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』など)、そのタイプだと思わなかったのでびっくりしてしまった。不思議な気持ちになった。
でも、最初に『これは実話です』という文言を出さないことで、最後に御本人を出してきて、実話なのー?と驚かせるという演出なのだろうか。
でも、ベストセラーらしいから、別に実話というのもよく知られてる話なのかもしれないし…。



ホラーが苦手なんですが、最近は(とはいえ、今まで観てないからもしかしたら昔からかも…)出来のいいホラー映画が多く、特にジャンル映画好きでない人からも評価されていたので観ました。
あと、信頼している制作会社A24だったということもあります。
出演はトニ・コレット、アレックス・ウルフなど。
監督はアリ・アスター。今回が長編監督デビュー作らしい。

ちょっともう思い出すのも怖いので感想もあんまり書きたくないので短めに。

以下、ネタバレです。










祖母が亡くなる葬式から始まる。
亡くなった祖母の夫も息子も亡くなっていて、祖母含め、全員精神を患っていた。
一応、主人公的なポジションである母のアニーも、夢遊病である。そのため、途中、どれが本当でどれが夢想なのかわからないシーンもあった。主人公が信用できないタイプの物語はそれだけで不安定になる。本作は共感すべき人物がおらず、誰目線で観たらいいのかがわからない。
唯一まともだと思われた父も、後半では薬を飲んでいたし、昼間から酒を飲むなど疲弊していた。

謎の文様のペンダント、謎の文字、どこか不気味な妹チャーリー…と怖いけど、ちょっとわくわくもしてしまうような謎解き要素が出てくる。チャーリーは死んだ鳩の首をハサミでちょんぎりポケットに入れるとか、葬式で板チョコを齧っているとか、描く絵がちょっと怖いとかあやしい要素が満載なんですが、板チョコ描写は「ナッツが入ってなかった?」というセリフで、アレルギー持ちであることを示すための前ふりだった。

チャーリーが兄のピーターに着いて行ったパーティで、ピーターが女の子と遊ぶため、「そこでケーキでも貰って待ってな」と言うんですが、そのケーキ、少し前にナッツ刻んで入れてたんですよね。観てる人だけが、あーあと思う。思うけれど、ここから起こることが本当に酷い。
アレルギーが発症して、ピーターが急いで病院に連れていく。普通なら、間に合って、アニーに怒られて終わりですよ。でも、この映画では、息ができないチャーリーが車の窓から顔を出し、ピーターは動物を避けるためにハンドルを切って、チャーリーの頭が電柱に当たってもげるという…。
こうなったら嫌だなということが連続で起こった。

家に帰ると、遅く帰ってきたのを心配していたのか、「ああ、帰ってきたわね」みたいなアニーの声だけ聞こえる。カメラはピーターを追うんですが、ピーターは父母と顔を合わさずに、直接自分の部屋へ戻る。えっ!それは…と思っていると、翌朝、アニーの半狂乱の悲鳴が響く。そりゃそうだ、車の後部座席に娘の首なしの遺体があるのだから。
悲鳴は響き続け、そのまま葬式のシーンに移る。
この連続描写がうまいなと思ったんですが、他でも同じ景色を映していてぱっと朝に変わったりと時間の示し方の演出が良かった。
ちなみに、アニーの叫び声も怖かったですが、叫び顔も怖い。A24のサイトでピンバッチが売っている。
自分の代わりに夫が燃えてしまい、何かがぷっつりと切れたアニーの顔も怖かった。

変に茶色くて歪んだ景色だなと思ったら、チャーリーの葬式の会食の場に入れないピーターがステンドグラス越しに部屋の中を見ていた景色だった。
大きい音をさせるびっくり描写はほとんどないんですが、登場人物の視点(というか、登場人物のすぐ後ろをついていく視点)になってるカメラとか、閉められた扉をじっと映すカメラなどが不穏で怖く、撮り方も凝っている。チャーリーのシーンだけではなく、嫌な予感が連続で的中してしまう。人を不安な気持ちにさせるのだ。

個人的にですが、子供の頃に『オーメン』を観たせいで、首がちぎれる描写が特に怖いんですが、この映画ではこの先も何度もちぎれる。怖い。
特に上から吊るされた人がワイヤーで自分の首をちぎるのは本当に怖かった。
また、頭打ちつけも個人的に苦手ですが(追記:なんで苦手なのか考えてたんだけどたぶん『ツイン・ピークス』)、これも多かった。怖い。
考えうる限りの怖い描写が次々と出てくる。ここが一番怖かった!というシーンが何箇所もある。

チャーリーが喉を鳴らす癖も、死んだ後も何回か聞こえてきて怖かった。また、チャーリーが絵を描いている鉛筆の音が右上のほうからずっとカリカリカリカリ聞こえてくるのも怖かったので、映画館向け。
あと、関係ないのですが、TOHOシネマズ新宿はMX4Dのせいで他のスクリーンも揺れるんですが、その揺れすらも効果になってしまっていて怖かった。

また、映画自体がすっきりと終わるわけではないので、観た後も残り続ける。
ホラー映画でも後半が痛快爽快だったり、ストーリー展開がうまいと膝を打つようなタイプだと、終わった後でもすっとしますが、そうではないため、自分の中に残ってしまう。

部屋の奥にぼんやりしたものが映っていて、あ!幽霊がいる!という描写が多かったんですが、このままだと家で見てしまいそう。
同じ家族の幽霊でも『ア・ゴースト・ストーリー』とは全く違う。あのような家族を見守る優しいゴーストが珍しいのかもしれないけれど。
嫌な気持ちが残ってしまっていて、まだ怖い。

ストーリー的には、最初は家族の不和なのかなと思っていた。結局、チャーリーを亡くしても三人で頑張っていこうねという話なのかと思っていた。けれど、父までもが薬を飲み始めた時点でこれは違うぞ…と思った。
悪魔崇拝の話だった。公式サイトのネタバレ解説を読むと、なるほど、最初からほのめかされていたのね、と思う。でも、映画を観ずにネタバレだけ読んでもまったく怖くないであろうあたりが、おもしろい。Wikipediaにもストーリーが全て書いてあるが、読んでも特に怖くない。やはり、ストーリーというよりは映画自体が怖かったのだ。

王にされて崇められたピーター(というよりは悪魔が入っているのか)の表情には色気があり、アレックス・ウルフの演技もうまいと思った。
けれど、救いはこれくらいです。

人の名前のアルファベットが一文字ずつ引き継がれていく継承エンドロールが凝っていた。
けれど、それすらも怖い。ここまで怖い気持ちが残る映画もなかなかないのではないかと思う。怖かったし、いやーな気持ちが残っているけれど、観なきゃよかったとは思わない。けれど、おすすめできるかと言ったらなかなかしづらい。




ナショナル・シアター・ライブでの上映。シェイクスピア原作の有名な戯曲ですが、「ブルータス、お前もか」くらいしか知らなかった。シーザー役にデヴィッド・コールダー、ブルータス役にベン・ウィショー、マーク・アントニー役にデヴィッド・モリッシー。
キャシアスが女性(ミシェル・フェアリー。『ゲーム・オブ・スローンズ』のスターク家の母、キャトリン・スターク役)になっていたり、配役にはアジア系などの有色人種も多く、多様性に配慮されていた。
舞台演出にニコラス・ハイトナー。

以下、ネタバレです。










服装がスーツやTシャツなど現代のものだったり、戦闘のシーンで防弾チョッキを着ていたり、シーザーを討つシーンは拳銃だったりと、舞台が現代的ではあるけれど、流れは原作に忠実のようである。また、セリフの言い回しが古くさい部分があって、名言的なものが多い舞台だし、それも原作のままなのだと思う。

シーザーを討つシーンは、ブルータスの一派が次々に銃を撃つ。原作でも次々に刺していたシーン。死んだシーザーの血で、一派は手を赤く染める。そして、「千載ののちまでもわれわれのこの壮烈な場面はくり返し演じられるであろう、いまだ生まれぬ国々において、いまだ知られざる国語によって」という名言が出る。それを観ているのは、メタ的というか、不思議な気持ちになった。
このシーンで、シーザーを慕うマーク・アントニーが現れるんですが、ブルータス一派と握手をするシーンが印象的だった。敵役と握手をし、しかも、手は慕っていた人物の血で赤く染まる。しかし、ここでブルータスの着ていた白いシャツにマーク・アントニーの赤い手形がべったりと付く。これが不気味な呪いのようになっていて良かった。

また、この後のローマの群衆を前にしてのマーク・アントニーの演説も良かった。デヴィッド・モリッシー、うまかった。やはり、演説シーンがうまい俳優さんには簡単にほだされてしまう。
あと、最初のバンドのシーンで、背中に“マーク・アントニー”と書かれているジャージで出て来て、背中を指差して“俺がマーク・アントニーです!”みたいにやるのがおもしろかった。

この『ジュリアス・シーザー』、一番おもしろいのは普通の座席もあるのですが、アリーナ席には椅子がない。立ち見でステージの周りを囲んでいる。それで、全部のシーンではないけれど、ローマ人の群衆役として、舞台に参加しちゃう。

オープニングもいきなりバンド演奏から始まる。小さいステージがあってその周りに観客が立っているから、まるでライブハウスのよう。演奏されるのも、オアシスの『Rock 'n' Roll Star』や『Eye of the Tiger』など、所謂ノれる曲。それで、ジュリアス・シーザーTシャツを着ている人がいたり、プラカードを持ってる人がいたり、標語がステージセットに掲げられていて、何かと思ったら、シーザーの凱旋を祝うパーティの一環だった。

またマーク・アントニーの演説はシーザーの葬式なのですが、客席には写真が黒枠で囲まれた遺影を掲げている人もいた。「ブルータスの家を燃やせ!」など叫んでいるのは役者さんだったので、プラカードや遺影などはもしかしたら役者さんが持っていたのかもしれない。それでも、そこに集った全員の総意のように思えた。ローマ人の群衆が棺を囲むシーンも、全員悲しんでいるように見えて、ブルータス一派が窮地に立たされているのがよくわかった。
舞台効果としてよくできていたと思う。

また、棺を囲むシーンもそうなんですが、お客さんたちは結構自在に動かされていて、暗いシーンで全体的に一歩後ろに下げるとか、少し間違えたら将棋倒しになりそうだった。
上がってくるステージの形もいろいろなパターンがあり、その上に客がいても怪我をしてしまう。おそらくスタッフの連携が完璧に取れていたのだと思う。

アリーナで観るのも楽しそうだったが、背が低いので一番後ろだと見えなさそう。通常の座席で見た後でアリーナで観てみたかった。



シネマートの未公開映画を上映する映画祭、“のむコレ2018”にて。
今年の“東京国際レズビアン&ゲイ映画祭”でも上映されていましたが、その時は見逃していて、でも、かなり好評だったため気になっていました。
今回も、配給がついているわけではなく個人の方が買ってくれたため、のむコレで合計5回のみの上映とのこと。

以下、ネタバレです。









ヨークシャーの牧場が舞台。田舎でもあるし、生き物相手の家族経営のため、病気だが厳格な父と祖母と暮らすジョニーは行き場も逃げ場もない。おそらく毎晩、町へ出かけて行っては酒を飲むことだけが楽しみ。いや、楽しみではなくて、それしかやることがない。
毎朝二日酔いだし、ベロベロに酔ったところを客だか店の人だかに送ってもらい、車から放り出されて外で寝たりしていた。あんな飲み方をしていたら、近いうちに必ずアルコール中毒になってしまう。でも、おそらくそれならそれでいいとも思っていそうだった。生きる楽しみはなく、すべてをあきらめている。
休暇で帰ってきた都会の大学へ行った友達に会っても、八つ当たりのような態度をとっていた。でも、家族に囚われているとも考えていそうだし、あの態度も仕方ないのだろう。彼は都会に出ることはできない。

ちなみに、ジョニーの恋愛やセックスの対象は男性だし、ゲイなのですが、別にそこでの閉塞感は描かれていないと感じた。セックス相手も割とすぐに見つかるし、ゲイだからといって迫害されるわけでもない。後半で祖母が泣くシーンもあるけれど、だから反対されるということもない。これは今の時代特有のものなのかもしれない。

ジョニーの不甲斐なさに呆れ、羊の出産シーズンに人が雇われる。そこに来るのがルーマニアからの移民、ゲオルゲ。ジプシーと呼ばれることに心底憤っていたけれど、ルーマニアでジプシーということはロマなのかもしれない。ゲオルゲ側の事情についてはまったく描かれないけれど、もしかしたら家族を殺されたり、酷い差別を受けたのかもしれない。それこそ、ゲイであること以上に。

映画は終始ジョニー視点であり、ゲイムービーとは言っても、ラブストーリーというよりは、ジョニーの成長物語になっている。ラブストーリーだったら、二人それぞれの背景…逃げ場がなくすべてをあきらめるような生活をしていたジョニーとともに、ゲオルゲのことを描かれただろう。ゲオルゲの背景も知りたかったけれど、重きを置かれているのがそこではないため、ゲオルゲのことも描いていたらとっ散らかった印象になりそう。

ジョニーはゲオルゲを住まわすトレイラーハウスについても、酷いことを言っていたし、羊の出産を一緒に手伝っていても、産まれてきて動かない子羊について「あきらめろ」と言っていた。けれど、ゲオルゲは必死にさすり、羊は動き出す。まるで、生き返ったかのようで、これは死と再生でキリスト教のイメージでもあると思った。子羊なこともある。
でも、そこまででなくても、死んだように生きていたジョニーがまた人生をやり直すという暗示なのかもしれない。

ジョニーは最初は何もかもやる気がなさそうだったし、やめてくれと言われているのに「ジプシー」と呼んで怒らせたりもしていた。けれど、子羊を生き返らせたのを見たシーンや、本気で怒られたあたりから、一目置くようになっているようだった。たぶん、ここまでジョニーは人のことを馬鹿にして、ちゃんと向き合ってはいなかったと思う。それが、人に対して少しだけ尊敬するような気持ちが芽生えてくる。ジョニーは、子羊の件はともかくとして、家族でもない人間から真剣に怒られたことなどなかったのではないだろうか。そこまでは、他人は馬鹿にしてもいいと思っていたけれど、駄目なのだと気付かされたのだと思う。

走り出したゲオルゲを、ジョニーが「どこに行くんだよ!」と叫んで、走って追いかけるシーンが感動的だった。もうすべてをあきらめて、死んだように生きていたジョニーではなく、自分から人を追いかけるまでになった。完全に変わったことがわかった。
ジョニーを演じたジョシュ・オコナーの表情が素晴らしかった。最初はずっと拗ねた顔か、酔ってどうにもならないような表情ばかりだった。けれど、ゲオルゲと接するうちに、かすかに笑顔を浮かべるようになり、そのうち、完全に恋をする表情になっていた。
しかし、ここでハッピーエンドにはならず、ここからジョニーの家族の問題になる。父が倒れ、介護問題が浮上する。ここまで、ジョニーは自分の人生が駄目なのは田舎から抜け出せないからであり、それは家族のせいだと思っていた面があると思う。それでも、ゲオルゲと接して変わったジョニーは、家族に対しての接し方も変わる。もう人のせいにはしない。

ラストで、ごたごたがあって別の農場へ移ってしまったゲオルゲを迎えに行くジョニーも良かった。前半では丘の上へ走って追いかけるだけだったが、家を離れ、住所のみで北部の農場までバスで出かけていき、ちゃんと「戻って欲しい」と言う。最初からは想像ができないし、途中からジョニーの成長が嬉しかったし、どうしようもなさを含めて愛しくなっていた。だから、迎えに行っても、ごにょごにょとうまく話せないあたりは、がんばれ!と心の中で応援してしまった。

ゲオルゲと一緒に戻るときに、肩にもたれかかっていたのも心から良かった…と思った。そして、トレイラーを引き払って、家の中にゲオルゲを迎え入れて、扉が閉まるというラストがまたいい。
これもまた“扉が閉まるエンド”である。
余韻がたまらない。扉の向こうで物語は続くけれど、映画としてはここでおしまいというのがよくわかるし、ああ、いいものを見た!という気持ちで終われる。最高のエンディングです。

最初の部分からそうだったのですが、確かに男性同士のは恋愛をするけれど、所謂ゲイムービーとも違うと思う。
ゲイを理由に二人が別れて終わるわけではない。家族にも反対をされない。カミングアウトシーンがあるわけではない。ゲイを理由に悩むというシーンもそこまでない。ジョニーに関してはまったくないと言ってもいい。ゲオルゲのここまでがどうだったかはわからないが、描かれていないのでわからない。
型通りではないし、だとすると、ゲイにする必要はあったのかという部分もあるけれど、別にかまえることなく…というのが、時代の変化なのかもしれない。
ベストゲイムービーと言われていても、それよりは一人の青年の成長物語として、とてもいい映画でした。あの土地や家族と、あきらめではなく、ちゃんと折り合いをつけてこの先を生きていくという決断が見えた。
また、イギリスらしく天気はずっと悪く、広大な牧場は厳しそうながらも、美しかった。牛の世話や羊の出産シーンも多く、生命力にもあふれていた。
だから、最初はいびつといえばいびつなんですよね。生命力にあふれた場にいる青年が、人生をあきらめていて、ただただ死ぬのを待つような生活をしている。ただ、その対比がおもしろくもある。

成長物語というのは普遍的なものだし、別にゲイムービーとか気にせずに観られるから、普通に配給会社が買って、全国ロードショーとかDVD出したりしたらいいのに…と思ったけれど、男性同士の性行為シーンはあるし、今回の上映のために権利を買った個人の方のインタビューを読むと、「配給会社なら、ゲイ映画として同時期の『君の名前で僕を呼んで』を買う」とおっしゃっていて、確かにそうだとは思った。
いい映画だとは思っていても、有名俳優が出ていないとか、地味目と言われてしまえばそうだし、話題とはいってもごく一部なのかもしれない。
配給の厳しさがよくわかったし、他にも好きないろいろな映画が日本で公開するのは難しそうだということもよくわかってしまった。

ただ、観に行った回は楽しみにしていた方々ばかりだったようで、音も立てる人もおらず、最高の環境で観ることができた。上映終了後には拍手も起こっていました。




原題Sicario: Day of the Soldado。Soldadoはスペイン語のソルジャー。
前作も今作も国境付近の話ではあるので『ボーダーライン』でもいいんですが、今作は特に原題の『シカリオ』にしてほしかった。
監督は前作のドゥニ・ヴィルヌーヴに代わり、ステファノ・ソリマ。監督が代わっても、脚本がテイラー・シェリダンのままだったので、それほど心配をしていませんでした。
また、前作直後にはエミリー・ブラントも続投の予定だったようなのですが、結局、ベニチオ・デル・トロとジョシュ・ブローリンのみ続投。全く違う案件を扱っていることもあり、エミリー・ブラント演じるケイトは名前も出てこない。けれど、それでいいと思う。

前作の感想『ボーダーライン』

以下、ネタバレです。









前作を観た時には、もしかしたらケイトが殺し屋アレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)の心の支えになるのではないかなとも思っていたのですが、そんなウェットな再会は一切なかった。しかし、前作に比べると十分にウェットだったのではないかと思う。
前作はケイト視点だったので、アレハンドロの得体の知れなさが際立った。家族を皆殺しにされたことしかわからない。それもちらっと話してくれるだけだ。ただ、寡黙な男がちらっと身の上を話すのは、少し心を開いてくれたようでそれはそれでたまらなかった。

本作はアレハンドロ視点の部分が多い。また、前作はメキシコ麻薬戦争メインであったが、今回麻薬カルテルが扱うのは麻薬ではなく人間である。現在は密入国ビジネスの方が金になるのだそうだ。時代に合っている。

CIAのマット(ジョシュ・ブローリン)は相変わらずサンダル履きで飄々としている。ただ、序盤の海賊に対する拷問からして、かなり非道な手を使うのも厭わないというのが明らかにされる。直接肉体を痛みつけるわけではなく、家族が住む家を上空から映し出すカメラを見せて、おそらく無人機にて空爆する様子を見せる。これも今風である。『アイ・イン・ザ・スカイ』を思い出した。

マットとアレハンドロは麻薬カルテルを撹乱するためにハッタリにハッタリを重ねて、もう何が本当かわからなくなる。麻薬カルテルのボスの娘を誘拐して目隠しをし、DEAの服に着替えて、「助けに来たぞ」と言う。しかもこれが国の指示というのがすごい。

マットとアレハンドロはボスの娘イサベルを移送する。この途中で、攻撃されるんですが、このシーンがかなり迫力があった。カメラは車の中にいるので、イサベル(一応一般人)と同じ視点だ。しかも、長回しなので、容赦ない銃撃戦のど真ん中に置かれる。臨場感があり、怖かった。
ここではメキシコ警察もろとも皆殺しにしますが、本作は人が死ぬ数が多い。最初の自爆テロのシーンでも、犯人に向かって、母子がやめてほしいと懇願するが、母子もろとも吹き飛ぶ。普通情けを見せるシーンになりそうなものだけれど、ここも容赦なかった。

銃撃戦のごたごたでイサベルが逃げ出してしまう。マットたちはを先に帰らせて、アレハンドロだけが残り、イサベルを探すことになる。
ここでなんですが、イサベルが走って来た車に助けを求めるんですが、ここから出て来るのがあからさまに悪い奴なんですね。見た目から悪い。で、イサベルも逃げようとするんですが、連れ去られそうになったところで、アレハンドロが悪い奴を撃ち殺して救うという……。しかも、殺し屋とはいえ、見た目だけとっても、明らかにアレハンドロの方が良い。
銃撃戦に巻き込まれたあたりからイサベルに共感しながら観ていたので、ここで救ってくれたアレハンドロのことが王子様に思えた。

ここから二人で行動することになるのですが、ここからの展開はヴァイオレンス描写はあってもハッタリがなくなって、人間と向き合うヒューマンドラマになっているのがおもしろかった。
親子ではない女児と中年男性、決してベタベタしない関係、行かなくてはならない場所があるのに絶望的な逃避行…といった点から、『ローガン』の二人の関係性に似ていると思った。
そのためか、西部劇テイストを感じたのですが、本作のステファノ・ソリーマ監督の父親が『狼の挽歌』などで知られるマカロニウエスタンの監督、セルジオ・ソリーマだと聞いて、大いに納得してしまった。

アレハンドロの心境の変化というか、どんどん優しい部分が現れて来るのがたまらなかった。前作ではちらっと見えただけだったが、本作では内面が現れて来る。
寡黙なのは変わらないけれど、ぽつんとある一軒家の聾唖者の男性に、手話で語りかけるシーンがとても良かった。普通に喋るよりも手話の方が雄弁だった。娘が聾者だったので手話が使えるのだと言っていたが、手話で会話している時には、娘に話しかけていたことも思い出していたにちがいない。
そして、一緒に行動する中で、イサベルのことも娘のように思えた部分もあると思うのだ。
しかし、その少し後に、イサベルの父がアレハンドロの家族を皆殺しにしたことが明らかになる。それでも、アレハンドロはイサベルのことを守ろうとしているのだと思うと余計に痺れる関係性である。
ちなみに、聾唖者の男性の家で休ませてもらった時に、『ローガン』のように、追っ手が現れて関係のない人物が殺される展開があったらどうしようかと思った。この映画のヴァイオレンス具合も酷いのでやりかねないと思ったけれど、それは無くて良かった。『ローガン』のあれは本当に酷くて、今でも思い出してしまう。

この映画は、もう一つの物語が並行するように描かれていた。国境沿いのアメリカ側、テキサス州に住むミゲルは、最初は学校の普通の子供とも会話をしていたけれど、従兄の誘いで徐々に麻薬カルテルの世界へ入っていく。14歳なのでまだ子供なんですが、大金を貰いながら仕事をするシーンが合間合間に入る。アレハンドロたちとどうつながって来るのかと思ったら、ミゲルはアレハンドロの顔をおぼえていて、密入国をする人々に紛れていたところを告げ口するのだ。そこで、アレハンドロとイサベルはばらばらになってしまう。また、アレハンドロを撃って殺すのもミゲルだった。

ここまでもどうなるかわからない展開が続いていたけれど、それでもアレハンドロとイサベルはなんとかうまくすり抜けてアメリカに戻れると思っていた。まさかアレハンドロが殺されてしまうとは……と思っていたら、肉片のようなものを落としながらもアレハンドロは生きていた。しかも瀕死状態なのに車を運転していた。一度、道路をはずれたところで車が止まった時には動かしたはいいけれど、死んでしまったか…と思ったけれど、車は再び動き出した。不死身である。

イサベルはというと、マットに救助されていた。マットもここまで非道だったし、イサベルのこともメキシコ警察を殺しているところを見られたし本当ならば口を塞がなくてはいけなかったけれど、救ったのだ。これは、アレハンドロが命がけで守ったことを思ってだと思う。
中盤以降は直接的なやりとりもなかった二人だけれど、ちゃんと考えているというのがわかって良かった。

ミゲルは14歳ながら人を殺したことで度胸が認められ、カルテルに正式に入ることになる。もう序盤のおどおどしていた様子はない。アレハンドロたちの話の裏で、もう一つ、少年の成長(?)物語も描かれていた。

この映画は更にここからが痺れた。舞台は一年後に飛ぶ。
ミゲルは一年でかなり成長(?)したようで、タトゥーが入り、見た目や服装もマフィアのようになっていた。調子に乗っているようだった。そんなミゲルが、控え室のような場所にいたところ、現実を見せつけるようにアレハンドロが現れる。死んだと思っていた、殺したと思っていたアレハンドロが。
ミゲルはアレハンドロを殺したことで今の地位や今の自分になれたわけで、彼が生きているとなるとアイデンティティが揺らいでしまう。それに、ああ、殺されると恐怖もするだろう。
そこで、アレハンドロは「シカリオ(暗殺者)になりたいか?」と問うのだ。これは、タイトルを『シカリオ』にすべきだったと思った。『ボーダーライン』ではセリフが効いてこない。まあそもそも、この映画を観に行くくらいなら、原題を知っているかもしれませんが。
そして、控え室の扉が閉まり、扉の外にいる私たちは中でどんな会話が交わされるのかわからない。そもそも、単なるスカウトなのか、それとも殺す前のセリフなのかもわからない。けれど、アレハンドロの最強具合がわかって、めちゃくちゃぐっとくるラストでした。

『シカリオ』は一応三部作らしい。次作があるのか、またイサベルとミゲルは出てくるのか、出てこずに一作目と本作のようにまったく違うものになるのか。いずれにしても、アレハンドロの王子様っぷりは変わらないと思うので、絶対に制作してほしい。



イアン・マキューアン『未成年』が原作。日本ではまだ公開が決まっていないけれど、イアン・マキューアンなのと、主演がエマ・トンプソンなのと、A24なので公開もしくはソフト化はされるのではないかと思う。
監督は1967年から様々な劇場のディレクターをしているリチャード・エアー。

裁判官のフィオナ(エマ・トンプソン)は仕事は順調だったが夫との仲がうまくいっていない。そんな中で白血病で輸血しないと死んでしまうが宗教上の理由により輸血ができない少年、アダムと知り合う。
このアダム役が『ダンケルク』のフィン・ホワイトヘッドだったので観ました。

以下、ネタバレです。








日本でもエホバの証人の信者が輸血を拒否する事件がありましたが、本作ではアダムの両親が敬虔な信者であり、アダムの意思を確かめるために、フィオナはアダムが入院している病院へ向かう。

明日までに輸血をしないと死んでしまうということで、アダムは色が真っ白で体に管がたくさん繋がっている。両親だけでなく彼自身も敬虔な信者なので、ここまで自分の意思で輸血を拒んでいた。
白血病になるまでのアダムのことはわかりませんが、両親の教育のせいか、自分の性格なのか、純粋で悪く言えば世間知らず。世間知らずというか、世界を知らない。浮世離れしている。肌の色だけでなく、心の中も真っ白のようで、17歳という年齢よりも子供っぽく見える。人工中絶はもちろん、マスターベーションすら禁止ということで、性的な経験も一切ないのだろうし、興味があるのかどうかもあやしい。17歳の思春期の男の子とは思えない。
ティモシー・シャラメが演じるような完璧美少年ではなく、危うい部分のある美少年だった。少女漫画作画ではあるけれど、ぶわっと興奮気味に一気に話して鼻の穴を膨らませたり、怒ったり泣いたり馬鹿にしたり笑ったりと、表情がくるくる変わる。特に帰り際の寂しがる表情。あんな子を置いて病室を出られますか…。
また、顔のアップも多く、ヘーゼル色の瞳が綺麗でまつ毛も長い。

子供っぽいけれど、感受性は豊かで、病室で詩を書いたり、ギターを弾いたりする。原作ではヴァイオリンでしたけれど、ギターに変更されたのは、弾ける、もしくは弾く演技のできるほうに変えたのだろうか。おじいさんのギターだというのがまたよかった。
弾いた曲に合わせてフィオナが歌うんですが、ここでアダムはフィオナを認める。一緒に歌った経験が彼の中で光り輝くのがわかる。恋に落ちた瞬間にも見える。

結局、生命維持を優先して輸血をすることになるのですが、この時の、チューブを流れて来る他人の血を見る怯えた表情も素晴らしかった。どうしても受け入れられないといった表情。入ってきたからも、絶望の表情をしていた。映画にはなかったけれど、「他人の唾を飲むよりひどい」のだそうだ。

退院後のアダムは見違えるように元気になって、年相応に見えた。生きるって素晴らしいという生命力に溢れているように見えた。もともとの宗教を捨てたように見えたが、今まで縋るものがあったからなのか、新たにフィオナを神格視してしまう。もしかしたら、両親がまだ敬虔な信者のようだったから、他人の血の入ったアダムともめたのかもしれない。親子仲はあまり良くなさそうだったから、フィオナを親代わりとして見てしまったのかもしれない。
原作ではフィオナから返事がこなくてもひたすら手紙を出していたけれど、映画ではボイスメールを入れていた。また、原作だと、住所の書いていない宛名だけの手紙が置いてあり、裁判所まで来ていたというのが示唆されるけれど、映画では実際について来ているシーンがあった。そこで自作の詩を渡していた。
原作にある7通目の手紙の「ケーキは食べてしまえばなくなるけれど、このケーキは食べても手の中にあった。彼らの息子はケーキだったのです!」みたいなくだりが好きだったので、映画にはなくて残念。アダムはもともと詩を書く子だから、手紙も少し詩っぽいんですよね。それが、ボイスメールであったり、直接会って話すということだとちょっと意味合いが違ってしまうとも思う。でも、アダム(フィン)の出番が増えているのは単純に嬉しかった。

ニューカッスルまでついてきちゃったシーンは原作にもあったけれど、遠くまでついてきてしまったこと、雨に濡れて髪がびしょびしょなことなど、映像で見るとより普通じゃない感が出ていてよかった。
ここで、一緒に住みたいという願いを断り、アダムは傷ついてしまう。
また、問題のキスシーンですが、原作だと、フィオナから頰にキスをしようとして、タイミングがずれてアダムがフィオナの首に手をまわすんですが、まわさなかった。フィオナからはせずに、アダムからでした。手は体には一切触れずに、顔だけ近づけてのキスでした。
原作だとこの後、フィオナがこのキスのことを結構しつこくずっと考えているんですが、映画だとまったく考えていなかった。原作はフィオナ視点でフィオナの心の中がつぶさに描写されてるんですが、映画だと特に心の声のようなものはないから、もしかしたら、考えてはいたのかもしれない。でも、察することもできなかった。
また、原作だと、このニューカッスル事件の後に、フィオナの元にアダムから詩が届く。アダム・ヘンリーのバラードというタイトルで、フィオナに裏切られた悲しみが書かれていて、最後の行が塗りつぶされている。これもあるとないとでは違ってきてしまうと思うのでカットしてほしくなかった。ただ、この映画のポルトガルでのタイトルが、『A Balada de Adam Henry』だったので、もしかしたらどこかに要素があったのだろうか…。
映画だとニューカッスル後の展開がとても駆け足になる。

駆け足になるけれど、原作にはない、アダムが自室で両親と喧嘩をするシーン、アダムが一人で裁判所に来て物憂げな表情をするシーン(ここがアダム・ヘンリーのバラードなのかも)やアダムが病室でいままさに死にそうになっているシーン、アダムの葬式シーンが挿入されていた。これも、アダムの出番が増えるのは嬉しいのですが、病室では土気色でもう本当に死にそうな状態で、近くに両親がいないのは何か理由があることなのかどうかわからなかった。理由がないなら不自然。
また、原作だとフィオナが福祉を頼ればよかったと後悔するシーンがあり、それもカットしないほうがよかったと思う。
アダムは再度病気になった際に輸血を拒み、死んだ。それは、フィオナに裏切られたことで元の宗教に戻ったのか、そのていを取りながら、絶望のあまり自殺をするために拒んだのかわからない。原作でも明らかにされないし、映画でもわからない。
けれど、それに対してフィオナがキスをしたからいけなかったのではないかとか、自分の家に住ませることはできないけれど何かできることがあったのではないかと考えるシーンは欲しかった。

アダムが出て来てから一気に話が加速するのは私がフィン・ホワイトヘッドが好きだからかもしれないけれど、前半30分くらいのミッドライフクライシスや法廷劇はちょっと地味かなとは思う。それでも、なんとか日本でも公開してほしいがどうなるか。






IMAXレーザーというと109シネマズ大阪エキスポシティのものが有名ですが、このたび109シネマズ川崎と名古屋にも導入された。そのプレオープンで『ダンケルク』の上映があったので行ってきました。
ただし、大阪のレーザーはGTテクノロジー(旧次世代レーザー)という名称で、スクリーンの大きさがここだけ。川崎と名古屋はスクリーンサイズについては同じである。
なので、普通のIMAXと見比べてみないとなんとも言えない。特に音については感覚でしかないのでわかりにくいけれど、最初の兵隊たちが後ろから撃たれるシーンの銃声から迫力があった。桟橋に爆弾が落とされるシーンも内臓に響きました。ただ、普通のIMAXも内臓に響いた気はする。
一番気になったのは、民間船が遠くから来るのを双眼鏡で見るシーン、ボルトンが「Home.」と言う前に不穏な音が流れていますが、あの音の低音部分はびりびりと響きました。

色については、特に太陽光が当たっている部分について、鮮やかに見えました。肌の質感も繊細に見えた。ただ、このあたりも普通のIMAXと比べてみないとすべてわかりません。家でのBlu-rayとは比べてみました。
トミーが最初に浜に出るシーンで初めて日光が当たる。イギリス兵を埋めているギブソンの顔色がよく見えた。もしかしたら、顔の赤みを強く拾って血色がよく見えたのかもしれない。Blu-rayでは特に顔色がいいとは感じなかった。

上映前に『IMAXレーザーのここがすごい』というような映像が流れますが、その時に使われているのが夕焼けの映像だったので、暖色が特にビビッドに出るのかなと思った。

コリンズは飛行機に乗っていることもあって、日に当たることが多い。海水に沈むシーンは特に明るく日光が当たっていて、髪の毛のオレンジ色が目立った。ただ、これはBlu-rayでもだいぶオレンジ色が強く出ていた。そのほかにも、瞳の青さが気になった。

青色だと、トミーたちが魚雷に攻撃される駆逐艦に縄ばしごで乗り込むちょっと前のシーン、小舟に乗ったトミーの後ろの海が異常に青かった。これもBlu-rayだと特に気にならないシーンだったので驚いた。

また、魚雷に攻撃されたあとで小舟に乗って浜に帰って来るシーン、夜明け前の色はBlu-rayでも綺麗なんですが、IMAXレーザーでははっとするほどの色になっていた。青と灰色が混ざったような色で、地獄のような天国のような、この世ではない場所のようになっていた。

普通のスクリーンやBlu-rayだと暗くなってしまう部分についてもよく見えたけれど、これももしかしたらIMAXなら見えるのかもしれない。
船室内にいるピーターの、特に目元は真っ暗で見づらいんですが、暗くてもちゃんと表情がわかった。もしかしたら、スクリーンの大きさのせいもあるのかもしれない。
ドーソンさんの着てる紺のセーターも日が当たると結構毛羽立っているのが見えた(ジョージに「彼はShell-Shockだ」と説明するシーン)が、これもスクリーンの大きさだと思う。

前目で観るのが好きなんですが(目が悪いので後方だと毛羽立ちがわからなかったかもしれない)、段差がそれほどついていないので、前すぎるとスクリーンの下部が前の座席にかぶってしまっていた。私が背が低いせいもあります。
前が通路になっているF列は少し前過ぎた印象。J列とK列がエグゼクティブシートなので、その前のI列もしくは後ろのL列が見やすいのかもしれない。
また、前方3列はロッキングシートという座席で、寄りかかると背もたれが少し後ろに動く。シート自体は快適だけれど、やはり前方なのでスクリーン下部が少し見えない。





白いシーツを被ったゴーストのポスターが印象的。死んだ夫がゴーストとなって妻を見守る…というあらすじからラブストーリーだと思っていたけれど、それよりはタイトル通り、ゴーストの話だった。
監督は、デヴィッド・ロウリー。
スクリーンがスタンダードサイズで四隅が丸いという特殊なものなので、テレビだと小さくなってしまうかもしれない。プロジェクターをイメージしてるとのこと。
また、サウンドと、逆に音のない静寂部分も素晴らしいので、映画館向け。
長回しシーンも多くあるので、映画館の方が集中できると思う。

以下、ネタバレです。












まず、ゴーストのデザインがとてもいい。
白いシーツに黒い目が点々と付いてるだけだけれど、目があるから顔がどっちを向いているかわかりやすい。振り返ってる!とか、見てる!とか。喋らないし(字幕でゴースト同士のやりとりはあり)、表情はないのに気持ちがわかる。
あと、一応幽霊だけれど、怖くない。

音楽もいいんですが、それが止んだ時の、夜の虫の声と朝になって鳴く鳥の声、鼓動、風の音、テーブルで書き物をする生活音などが丁寧に切り取られている。できるだけ静かな環境で、耳をすませながら観たい。

ケイシー・アフレック演じるCとルーニー・マーラ演じるMが夫婦で、ポスターなどにもこの二人の名前が書いてあるから二人を中心に進んでいくのかと思ったらそうでもなかった。Cは序盤で交通事故で亡くなり、Mが残される。Cはシーツを被された状態でむっくり起き上がり、歩き出すが、誰にも姿が見えていない様子。声も出せないし、触れても気づかれない。

リンダという女性がMのいない間に家に入ってくる。説明台詞というか、台詞がほとんどないので、この人が誰だかわからないんですが、鍵を持っているということは姉か妹かなと思いながら観ていた。ただ、元気を出してというような手紙を置いていくけれど、壁の塗り直しのことなど業務連絡も書いてあって、本当の要件はこっちだろうと思うし、何かホールの食べ物(チョコレートパイらしい)を、一人になった人のところに持ってくるって相当無神経である。特に説明や喋ることはなくても、こんなちょっとしたことで性格がわかる。後からわかったんですが、姉妹ではなく不動産屋でした。すごく納得した。家族はこんなに冷たくない。

家に帰ってきたMはパイを床に座って、切り分けもせずにやけ食いのようにガツガツ食べる。ゴーストとなったCはそばに佇んでそれをじっと見つめている。
私たちはスクリーンのこちら側からさらにその様子を何もできずに観ているわけで、私たちもゴーストと同じだと思った。スクリーンの中の生あるものに声をかけることも触れることも干渉することもできない。
ガツガツいく様子をカメラは動かずにじっととらえる。おそらく4分くらいの長回しです。しかし、Mは途中で急に立ち上がり、トイレに吐きにいく。一切台詞はなくても、これだけで悲しみが伝わってくる。客席の私たち、そして向こうのゴーストには何もできない。

Mはこのまま家に残るのかなとも思ったけれど、引越しは決まっていたようだし、出て行ってしまった。おもしろいのは、CはMに着いていくのかなと思っていたのに、どうやら家に憑いているらしかった。序盤で夫婦がポルターガイストに悩まされていたので、他の霊もいるしここが住みやすい家なのかなと思った。

引越し前の片付いた部屋というのはとてもさみしくなるものだけれど、もしかしたらこのCのように、知らぬ間に何か親しい存在と一緒に暮らしていたのかなとも思ってしまった。

家にはラティーノの母一人子二人の母子家庭の一家が入居してくる。スペイン語の字幕はついていないけれど、表情などで大体どんな内容かはわかる。けれど、細かいセリフなどはきっとそれほど重要ではないのだろうなと思った。
この家族も見守るのかと思ったら、大暴れしてポルターガイストを起こし追い出していた。

その次は誰が所有していたのかはわからないけれど、若者がパーティーをしていた。うち、一人がなんとなく知ったようなことを長く話していたけれど、いまいち納得のできない内容だったし、聞いてた仲間たちもハテナって顔をしていて私も同じ顔になってしまった。

このまま、この家に住む人々のいろんな面を見続ける話なのかな…、それはどうだろう…と思いながら見ていたら、どれくらい時間が経ったのかはわからないが、家が廃墟になっていた。
ゴーストだから年は取らないし、時の流れも感じているのかいないのかよくわからなかった。でも、家はぼろぼろになっても、自分は変わらずそこにいる、この時の流れのズレは孤独感を生じさせるものだと思う。それに、この時の流れがズレてしまうのは私の大好きなパターンです…。

序盤、Mが、「子どもの頃、引越しが多かった。紙に詩などを書いて小さく折りたたんで部屋へ隠しておく。また戻ってきた時にそれを見るとその時に戻れる」というようなことを話すシーンがあった。
Mが出ていったこの家にもメッセージが隠してあり、Cはそれがどこにあるのか知っていた。
しかし、メモを取り出そうとしたタイミングで家が取り壊されてしまう。

私は、壊された時でもぼろぼろになった時でも、何かのタイミングでMが家に戻ってくると思った。あのメモの内容を確認しに。そして、ゴーストの存在をなんとなく知って…みたいなことが起こるのかと思ったけれど、そんないやらしい泣かせのシーンは一切無かった。
Mはもう帰ってこない。

こんな酷なことがあるのか。家が無くなっても、ゴーストはそこに居続ける。
家の跡地にはビルが建ち、ビジネスマンが闊歩するその中を歩くゴーストという、シュールながらも物悲しいシーンもある。ゴーストは全てに絶望したのか、ビルから飛び降りる。
前の家で若者たちがパーティーを始めたあたりから話の流れに納得できない感じになっていたし、ここで終わったら嫌だな…と思っていた。

けれど、終わらずに、ゴーストのCは原っぱにいる。
男が原っぱにペグのようなものを打っている。
ゴーストがいるということは、ここは家があった場所なのかなとも思うけれど…と思いながら見ていたら、馬車がやってきて、時代がわかる。

ここに家の建つ前に時代が戻った。これで、ああ、ゴーストだから時をこえてしまった…と思った。本当に私の好きなタイプの話だった。何十年どころではない。何世紀も、過去も未来もこえて、CはMのことを待っている。
ペグのようなものを打っていた男は、家族に「ここに家を建てるぞ」と話していたが、次のシーンで先住民の声がして、あれ?と思ったら、次のシーンでは、家族全員が弓矢で殺されている。
ここも説明は全くないし、直接の描写はないけれど、開拓者が先住民族に襲われたのだ。
さらに次のシーンでは死体がミイラに、次のシーンでは白骨化している。時があっという間に流れていく。
とてつもない時を超えていく。ゴーストの真っ白だったシーツも汚れていて、それを見るだけで、孤独に過ごした時の長さがわかるようで、涙が出てくる。

そして、次のシーンでは、あの、無神経なリンダが、CとMの夫婦に家を紹介していた。ここで、ああ、家族かと思ったら不動産屋だったか…道理で…と思った。
でも、やっと、ゴーストは再びMに会えた。

けれど、会えたからといって、引っ越さないように仕向けるとか、Cの事故を未然に防ぐとかってことはできない。未来を変えることはできないから、ゴーストが増えちゃう。Mを見ているCのゴースト、を見ているCのゴースト(シーツが汚れているほう)といった具合に。
でも、Cが引っ越したくないと言っていた理由はわからないけれど、もしかしたら何か介入してたのかもしれない。
ゴーストはせいぜいポルターガイストを起こすくらいしかできない。それは映画の序盤で起こっていた怪奇現象ですね。ループしていた。

ゴーストが増えた時点で、シーツの汚れているほうのゴーストは、Mが隠した小さく折りたたんだ紙を見る。そして、内容を読んだところで、ぱっと消滅する。汚れたシーツだけがふわっと残される。
紙に書いてある内容については明らかにされない。けれど、少し前に、正面の家にいたゴーストが、誰かを待っていたけれど来ないことがはっきりしたという時にぱっと消える。おそらく、未練がなくなったところで消える(成仏?)というルール説明です。
なので、Cについても、メモの内容は明らかにされなくても、何かしら、納得すること、未練が消えることが書かれていたのだと思う。

紙に書かれていた内容が明らかにされるのはちょっとウェットすぎると思うし、ここまで見てきたこの作品には似合わない。極力説明台詞はない。死んだ夫が妻を見守るなんていくらでもおいおい泣かせることができそうだけど、そんなベタなことはやらない。このあっけなさがとても良かった。それでもボロボロに泣きました。

こんな終わり方だったら嫌だな…が全部回避されて、ものすごく納得したラストだった。だから、私はこの映画がとても好きになりました。

あと、またA24です。ますますすごいなといった感じ。




BBCにて2016年放送の全5話のミニシリーズドラマ。
アナイリン・バーナードが出ているということで観ました。
13歳で誘拐された少女アイビーが、13年ぶりに誘拐犯の元を逃げ出して帰ってくるところからスタートする。
アイビーとアイビーの家族や周囲の人物の離れていた期間の時間の埋め方に焦点が当てられていた。単に犯人探しをする話ではなく、誘拐事件という一つの出来事を通して、周囲の人物の心情の変化がつぶさに描かれていて、群像劇的な側面もあった。

アイビーが帰ってきた時点では、家族はばらばらである。父は不倫をしていて別居中、母も父以外の男性と会っているときにアイビーがさらわれたということで罪の意識を抱えている。妹もあれが本当に姉だとは思えない。
それでも、娘が13年ぶりに帰ってきたのだから、元どおりの状態で迎えてあげたいと努力をする。父は不倫相手と別れる、母は過保護すぎるくらい過保護になる、妹は婚約者そっちのけで姉を大切にする。しかし、良かれと思ってやったこれらのことが、アイビーの孤独感を高めることになってしまう。妹も婚約者と不仲になってしまうなど、いろいろな齟齬が生じる。

かつて、といっても誘拐される前の話なので13歳の頃に好きだったティム(これがアナイリン・バーナード)と友人エルとのエピソードも切なかった。ティムはアイビーに寄り添おうとするし、理解者であろうとする。けれど、すでに結婚している。それなのに、アイビーの前では指輪をはずすし、結婚していることを言わないんですね。優しいけれど、ずるい。
しかも、1話では戸惑うように作り笑いをしていたのに、2話では戸惑いも消えてすっかり恋をしている表情になっていた。口調も優しいし、13年間のヒットソングを入れたiPodを渡すあたりが憎らしい。片耳ずつイヤホンで聴くシーンも出てきた。
草原を二人で走るシーンは美しかったけれど、アイビーだけが13歳で時が止まっているけれど、ティムは進んでるんだよな…と思い、切なくなった。二人の時がずれるパターンです。
ティムは結局アイビーに結婚していることを言えないままで、しかも妻であるヤズには「結婚したことを言った」と言っていて、もうこれは優しさではなく気弱でずるいだけだなと思った。当然バレます。それで、アイビーの孤独感はまた強くなる。
けれど、4話になると、「僕はアイビーのことを愛しているかもしれない」などと言い出して、本当にずるいなと思っていたら、友人のエルが思いを代弁してくれた。なんでも、ティムの初恋の人がアイビーらしいが、「あなたはノスタルジーと罪悪感を感じているだけ」と。本当にそうだと思う。アイビーといると、自分も13歳の頃の気持ちになっていたのだろう。純粋で、何も難しいことを考えなくてよかった頃。好きだという気持ちだけあれば十分だった頃。2話の最後、二人で踊るシーンなどは本当にピュアだった。そして、好きだったにもかかわらず、彼女が帰ってくるのを待たずに結婚してしまったことの申し訳なさも当然あるだろう。しかし、それは錯覚だと思うし、何よりヤズはどうするつもりだったのだろう。別れることなんてできなさそうだ。
結局、ティムはアイビーに夢を見すぎていると思うし、妻と別に面倒ごとのない中で好きというのは不倫のような都合のいい関係にも思える。
エルは面倒だから結婚しないと言っていた。性別問わず、関係を持っていて、自由奔放に生きているようだった。けれど、もしかしたらアイビーと一番近くにいるのは彼女かもしれないと思った。エルに関するエピソードは消化不良気味でした。
ティムはアイビーに、「ヤズと会った時に僕は最悪の状態で…」と言い訳をしていた。どう最悪だったのか知りたかったけど、その辺のエピソードは無い。また、ベンチに座って話している時に、手をアイビーの方に出して、自分からは握らずに握らせるのも本当にずるいと思った。
きっと、彼のような優しいけれど気弱な男性は、ヤズのような女性に引っ張ってもらったらいいと思う。アイビーとでは合わなさそう。

アイビーは皆には相手がいるのに自分はひとりきりなことで孤独を実感していく。ただでさえ、13年という長い期間、周囲の人と離れて過ごしていたのだ。そのために、話を聞いてくれた男性刑事にも依存しそうになっていた。
この事件は男性と女性の刑事が二人で担当していて、二人は恋人ではないけれどまあまあ良い関係のように思えた。けれど、捜査方法をめぐって対立していく。
この二人の刑事が捜査大詰めという段階で、犯人を追跡中に事故にあって、一人はICU、一人も大怪我で追うことはできなくなってしまう。終盤で二人が捜査の最前線から離脱する意外な展開に驚いたんですが、そこでも、どうやらこれは犯人探しが主題ではないのだなと察することができた。

犯人の名前は1話ですでに明らかになるし、顔も判明する。
最終話でアイビーはもう一度犯人に監禁されるんですが、そこで、彼女がどんな目に遭っていたかの一端がしめされて、もう本当に気持ちが悪かった。犯人逮捕が主題ではなく人間関係の話だというなら、犯人をここまで気持ち悪くする必要があったのか…。
小さな女の子をさらってきて、16歳になるのを待って、子供を作って、家族になりたいという。彼のこれも孤独なのかもしれないけれど、見ていられなかった。
自分好みのワンピースを着せたり、髪を洗わせたりと、もう描写をするのも嫌なくらい気持ちが悪かった。

アイビーを必死に探すうちに家族は団結、アイビーも逃げ出して大団円といったところではあるんですが、もう1話くらい欲しかった。短いシリーズにありがちなんですが、後日譚が欲しい。
個人的には、エルとアイビーがもっと仲良くなるところが見たかった。


クイーンとフレディ・マーキュリーの自伝的な映画。監督はブライアン・シンガー。
クイーンの曲が素晴らしいので、それだけでも失敗はないだろうと思っていたけれど、メンバーを演じる俳優が似ているのと、クイーンに対する敬意のようなものが存分に感じられた。

以下、ネタバレです。







ネタバレとはいっても、クイーンでライブエイドに出ることは知っていたし、ジム・ハットンがパートナーであることも知っていたし、エイズで亡くなることも知っていた。だから、クライマックスはわかっていたのだ。私は普段はネタバレを絶対に入れないようにして映画を観ますが、逆に、ネタバレを入れて、展開がわかった上で安心して映画を見る方もいるようで、今回はその気持ちがわかりました。でも、基本的にストーリーで驚きたいのでネタバレは入れません。

ただ、結成までの話や、フレディ・マーキュリーの生い立ちなどは知らなかった。根本的なところというか、フレディ・マーキュリーがザンジバル出身なことも知らなかった。本人は隠したがっていたとのことだったので、曲は好きというくらいの好き具合では入ってこない情報だったのだろうか。
どの程度実話なのかはわかりませんが、「パキ(スタン)野郎」と罵られながら空港で働いていたことも知らなかったし、その時に出会った女性と一度は恋愛関係になったものの、別れ、それでも友情は続いたということも知らなかった。

もちろん音楽映画なのですが、セクシャリティが揺らぎ、それは公表できずに、男性や多数の人間と関係を持ち、エイズになってしまうという、80年代を舞台にした同性愛映画の側面もあると思った。現代なら、あの時代ほど同性愛に厳しくないだろうし、公表をしていたかもしれない。また、エイズも不治の病ではなくなっている。
今年はNTLですが『エンジェルス・イン・アメリカ』や『BPM』など、80年代同性愛映画をよく観ているんですが、この映画もその一端だと思った。しかし、これはフィクションではなく、フレディ・マーキュリーの人生だというのもすごい。

バンド自体というか、この映画本編として、ファンとして観に行っていたバンドからボーカルが抜けて雇ってもらう→売れる→ボーカルのワンマンになっていき、バンドが不仲になる→一人になったボーカルが荒れた生活をする→ボーカルが反省をしてバンドに戻る→ライブで大成功というのは、よくあるといえばよくある展開だと思うし、他のバンドとさほど変わらない。『ジャージー・ボーイズ』も再結成はしないけれど似たような展開である。

それでも、曲のワンフレーズをぽろんと弾いただけでどの曲がわかるのもバンドとしてすごいし、タイトルにもなっている有名曲、『ボヘミアン・ラプソディ』のレコーディング風景は曲が良い上に、バントとしても楽しそうで、観ていて笑いながら泣いてしまった。

フレディ・マーキュリー役のラミ・マレックが好きなので、抜擢された時には全然似てないけど大丈夫なのかなと心配になった。でもそれを吹き飛ばすような演技だった。特に、ライブシーンのパフォーマンスが本人しか見えなかった。
また、それとは別に、ブライアン・メイ役のグウィリム・リーはブライアン・メイに瓜二つだった。特にこちらもライブシーンが本当にブライアン・メイにしか見えなかった。
また、ジム・ハットン役の方も似ていた。

エイズなのがわかるタイミングは実際にはどうだったのかわからないけれど、この映画ではライブエイド前にわかっていた。曲を作った時とは『ボヘミアン・ラプソディ』を歌う心境は明らかに違っていたのでは無いかと思うけれどどうなのだろうか。歌詞に意味なんてないと言っていたから別に変わらないのかな。
また、ジム・ハットンとの出会いと再会はフィクションのようです。

メンバー役の俳優さんたちについて、本当によくぞここまでという感じだったのですが、脇役のアレン・リーチ、トム・ホランダー、エイダン・ギレンの三人もかなり良かった。三人とも出てくるのを知らなかったのですが、三者三様それぞれうまい。特に、トム・ホランダーは重みに少しの愛嬌もあってうまかった。

もちろんクイーンのいろいろな曲が使われていますが、個人的には『Under Pressure』の使われ方が特に好きでした。荒れた生活を送った後で、考え直し、家で一人反省している場面で流れる。きっと、フレディにもプレッシャーで押しつぶされそうな時があったのだ。

ライブエイドのシーンはライブエイドの音源が使われているが、これはサントラに入っているらしい。また、序盤のライブシーンの音源も入っているようなので、サントラが欲しくなる。最初の20世紀フォックスのブライアン・メイが弾いたファンファーレも入っています。




いわゆるロードショー公開はされない注目作を上映するのむコレ2018にて上映。
今年公開された映画らしい。

あまり内容を調べずに観たので、タイトルと、主演が『ゲーム・オブ・スローンズ』のラムジー役でお馴染み、ウェールズ出身のイワン・リオンだったため、RAFのイギリス部隊の話かと思っていた。
しかし、原題がまず『HURRICANE』。戦闘機の名前だった。そして、イワン・リオン演じるヤンは、最初、イギリス人のつもりで見ていたので、ドイツ軍に対して「スイス人で時計を売りに来た」と言っていて混乱した。それは中立国のふりをする嘘だったのですが、それで本当は何人なのかが途中までわからなかった。

結局ポーランド人だったんですが、映画自体もドイツ軍に故郷を追われたポーランド人がイギリス空軍でさながら傭兵のように活躍する姿を描くものだった。RAFはRAFでも、イギリス人ではなくポーランド人の話。ハリケーンも彼らが乗っていた機種だった。

バトル・オブ・ブリテンに外国人部隊が参加していたことは『空軍大戦略』(1969年)でも取り上げられていましたが、まさかそこが描かれた作品なのだとは思わなかった。
個人個人はもちろん実在しないけれど、このポーランド人の部隊、第303戦闘機中隊が最高の撃墜記録をあげたことは実話らしい。

以下、ネタバレです。









ポーランドの飛行機乗りたちは、イギリスに亡命して来て、最初は野蛮人などと呼ばれているし、英語の勉強をしなくてはいけないし、余所者ということで差別のようなものを受ける。しかし、腕は確かなので、一目置かれるようになり、プロパガンダ広告に使われたりと、パーティーに呼ばれるようになる。
全編を通して、イギリス人とイギリスという国の身勝手さが目立つ内容で、イギリス人中心の話だと思っていたのに真逆で驚いた。

特にラスト、ポーランド人のヤンと、RAFにいた女性とのメロドラマ的な展開があり、これは必要だったろうか…と思いながら観てたんですが、「結局君は俺についてくることなんてできない。ロロ(RAFのイギリス人)のことが忘れられないからだ」というセリフがあって、この女性もイギリスを表す符号でしかなかったと痛感した。

あれだけ活躍した303中隊のポーランド人たちは、戦争が終わったらイギリス国外に追放されたらしい。世論も、56パーセントが出ていってほしいとの考えだったようだ。追放された後に国に戻れば処刑されるか、強制労働をさせられたらしい。
現代の移民排斥や不寛容社会にも似ていて、もしかしたら、2018年の今、この映画を作った意味はこの辺なのかもしれないと思った。
ちなみに、303中隊を描いた『壮絶303戦斗機隊』(1960年)というポーランド映画もあるらしい。これも、ポーランド部隊の武勲について描かれているのか、その後の酷い仕打ちについても描かれているのか気になる。

全体的にイギリス人はひどいという映画だったが、製作国がイギリスとポーランドなことに驚いた。ポーランドが一方的にイギリスを糾弾する映画ではないのだ。ちゃんとイギリスも反省しているようです。

ポーランド人たちは、国に侵攻され、家族や仲間を殺されたのだから、ドイツ軍への恨みは人一倍なのだ。だから、士気が高く、撃墜数が多かったというのも納得である。もちろん腕もあるのだろうが、なんとしても倒したかったのだろう。
けれど同時に、国で酷い目に遭い、祖国もなくなってしまっているため、トラウマも抱えている。この映画では兵士たちの持つ心の傷についても、描かれていた。

また、兵士たちの死に方については、燃料不足でホワイトクリフにぶつかって機体が大破というのが一番辛かった。撃墜されたわけではないのだ。生き残って、帰って来て、祖国を目の前にしての無念の死。
また、ハリケーンに乗った兵士がトラウマのフラッシュバックでぼんやりしているときに、パラシュートで脱出した兵士に近づきすぎてしまい、プロペラがパラシュートを切り裂き、パラシュートの兵士が落下というのも辛かった。

主演はイワン(イヴァン)・リオンは『ゲーム・オブ・スローンズ』のラムジー役で有名ですが、あれは嫌な部分しかない役で、『インヒューマンズ』もまあ悪役だったので、なんとなく嫌な奴のイメージでしたが、今回は主役だしそんなところはなかった。
特別良い奴といった感じではないけれど、世捨て人っぽく、欲望も何も消えて、ただ目の前の敵を倒すのみといった役柄が良かったです。

『ヴェノム』



マーベルキャラクターですが、MCUとは別です。ソニー・ピクチャーズが手掛けるユニバース "Sony's Universe of Marvel Characters" の最初の作品とのこと。新しいユニバースが始まってたの知らなかった。
もともと2008年くらいから会社関連でごたごたがあって、ようやくの映画化という感じらしい。

監督は『ゾンビランド』、『ピザボーイ 史上最凶のご注文』のルーベン・フライシャー。

以下、ネタバレです。









本国公開時の評価が微妙だったのと、どうやら予告編のようなダーク路線ではなくファミリームービーだというのを聞いていたので、覚悟をして観ました。
何も知らないまま観たら、おそらく私も思っていたのと違うと言って文句をつけていたかもしれない。
アバンは確かにダークでした。宇宙から持ち帰った謎の生き物が人間に寄生して…ということで、ホラー的でもあった。

主人公、エディ・ブロック役にトム・ハーディ。エディは結婚間近の恋人と住んでるんですが、寝ているところを起こされてキスをねだるシーンが序盤からあって、このタイプの普通のトムハは久々だと思った。
冗談も言うし、すべて許してしまいたくなる笑顔も見せるキュート系。こんなトムハを最後に観たのは2012年の『Black & White』ではないかなと思うので久しぶりです。
私は特に、『ロックンローラ』のハンサム・ボブ、『インセプション』のイームスが好きで、あんな役をまたやってほしいと思っていたので嬉しかった。けれど、まさかそれが『ヴェノム』になるとは思わなかった。

エディは正義感の強い記者で、その正義感のせいで大きな団体を敵に回してしまい、自分の仕事を奪われ、恋人も奪われる。
失意の中で謎の生命体に寄生されるんですが、そいつが決して悪い奴ではないんですよね。
予告編を見る限りでは、エディは体を乗っ取られて、自らの意思に反して犯罪を犯し、思い悩むのかなと思っていた。

しかし、最初からヴェノムはエディを助ける。悪者から救う。逃走の手助けをする。お前の体は乗り物だとか悪いことを言ってたけど、協力的である。
隣の住民のギターの音がうるさく、エディは扉の前に立ってイライラするだけだったが、寄生されてからは一瞬だけヴェノムが怖い顔を出して脅す。優しい。

だいたい言うことを聞いて引っ込んでるし、ピンチの時には出てきて助けてくれる。元恋人には「謝ったほうがいいぜ」みたいなアドバイスもしてあげる。それに従ってエディが謝ると、少し仲が修復したりして。予告編だと敵同士なのかと思っていたので、まさか恋愛相談に乗ってあげるタイプだとは思わなかった。普通の親友である。

元恋人の体にも寄生していたが、こうなると、エディの体に戻る時にキスしていたのは元恋人なのかヴェノムなのかわからない。

ビルに忍び込めないときにも、エディはヴェノムに入れ替わって壁をつたっていく。最上階でエディに戻ってしまい、外壁を滑り落ちてピンチ!みたいなのもなんだかほっこりエピソードに感じられた。一人でヴェノムに変身するというより、エディとヴェノムが話し合って入れ替わっていくあたりが、新しいバディものにも感じられた。

ライフ財団のリーダー、ドレイク役にリズ・アーメッド。とても綺麗で驚いた。彼も自分の体に寄生させるんですが、見た目はヴェノムっぽいけれどライオットだった。シンビオートという寄生生物で、ヴェノムとかライオットはそれぞれの名前だった。
最終決戦は、形が自在に変わって混じり合うので見難いといえば見難かったけど、この時点でこの映画はバトルメインではなく、二人の可愛さを観る映画なのだな…と思っていたのでその辺は気にならず。

最後もエディとヴェノムは二人で元恋人について話していたり、「犬食いたいな…」「やめとけよ」みたいな会話があったりと友達のようだった。ヴェノムのほうが多少野生的だから、ペットと飼い主といった感じ。でも、基本的に仲が良いです。映画中、もうずっと仲良し。だから、一人称がWeになるところもとても良かった。

予告編で見た、ヴェノムの顔半分だけエディの生身の顔が出て「We are Venom.」と言うシーンも、エディが完全にヴェノムに飲み込まれてしまい、言わされているのかと思った。デビルマンのジンメンのようなイメージです。
でも、実は、普段お世話になってるコンビニのようなお店に来た強盗をやっつける時のセリフだったんですね。エディは店員を助けたい、ヴェノムは人間を食べたいということで意気投合してる。

最後に悪党を食うというのは、結局、ドレイクが社会的弱者は甚大実験に使ってもいいというのと似ていると思う。ただ、エディのやんちゃ度が高まったようにも見えてしまう。“最悪”のポスターは恰好良かったが、あのイメージとはほど遠く、ただの可愛い二人組だった。
ヴィランと聞いていたけど、悪役っぽい部分はなく、ヒーローまでは強くない。けど、二人がごちゃごちゃ言い合ってるところが可愛いし、ラスト付近ではエディがちゃんと、飼い慣らしていたので続編も観たい。

エンドロールにはウディ・ハレルソンが出てきて、『ゾンビランド』の監督だからかと思った。今回も髪型が違うタイプのウディ・ハレルソンです。カーネイジというヴェノムの敵らしい。続編が企画されているということらしい。

また、エンドロールの最後にスパイダーマンのCGアニメがあった。クオリティがそれほど高くないというか、『シュガー・ラッシュ』の映像特典に入っていたようなラフなCGにも思えた。スパイダーマンとの絡みがあるのでは?という噂があったけれど出せないけどこれでお茶を濁したのかなと思ったけど、年末にアメリカ公開予定の『スパイダーマン:スパイダーバース』の予告のようなものだったらしい。日本では2019年公開予定とのこと。





17世紀のオランダでチューリップの球根が高値で売買されていたことを背景にしたメロドラマ。
監督は『ブーリン家の姉妹』のジャスティン・チャドウィック。
主演はアリシア・ヴィキャンデルとデイン・デハーン。単なる富豪の若い妻と貧乏画家の不倫の話なのかと思ったら、そうではなかった。この二人が中心でもない気もする。

以下、ネタバレです。











まず、アリシア・ヴィキャンデル演じるソフィアは元は孤児院にいて、そこから富豪に買われる形で嫁入りした。「子供が産まれたら安泰よ」と言われているのと、修道院の衣装から『侍女の物語』を思い出してしまった。
富豪役がクリストフ・ヴァルツで、出ているのを知らなかったので驚いた。どんな人物なのかわかりづらくはあるけれど、なんとなくヴァルツの印象で、悪い奴のイメージで見ていたんですが、途中から違うことに気づかされた。

この家の女中、マリアが語り手なんですが、この作品自体が彼女が主人公でもあると思った。画家と富豪の妻の不倫が中心とも言えない作りなのだ。
話の流れ自体は複雑ではないんですが、登場人物それぞれに対するエピソードがいくつか出てきて、それが絡み合い、その背後には高騰するチューリップの球根が関わってくる。
じっと見ていないとわからなくなるということはないけれど、全編にエピソードが詰め詰めになっている。

ソフィアは富豪との間に子供ができずに悩んでいたが、そんな折、肖像画を描かせるために雇った画家、ヤン(デイン・デハーン)と恋に落ちる。
人が恋に落ちる瞬間が描かれた映画が好きなんですが、これほど唐突に、両者が一気に燃え上がるのはなかなかない。
ただ、ヤンが思い出していたソフィアの姿は確かに、これは恋に落ちる…と思えるほど綺麗だった。青いドレスと手にはチューリップ。窓辺に立って、かすかな憂いを浮かべた表情は、その前のシーンでも尋常ではない美しさで、うっとりと見ていたところ、ヤンもその姿を思い出して、「I'm in love.」と言って、ソフィアのもとへ駆け出す。やはり、特別美しく撮ろうと意識されたシーンだったのだと思い、納得した。それと同時に、これは好きになっても仕方ないという説得力もあった。

女中のマリアは魚売りの男ウィレムと逢瀬を重ねるが、金のないウィレムは一攫千金を狙ってチューリップの球根の投機に手を出す。
金を得たものの、二人は些細なことですれ違い、ウィレムは金を失って海軍に一年入隊させられてしまう。マリアはそれを知らず、お腹にはウィレムの子供を宿す。

そこでソフィアが、マリアの子供は私が産んだことにすると言い出す。富豪の男は跡継ぎができて嬉しい、マリアは子供のそばで働き続けることができる、ソフィアは出産で死んだことにして屋敷を離れヤンの元へ行ける…win-winではないかという案だ。

そんなことうまくいくとは思えなかったし、ソフィアにだけ都合のいい案に思えた。
ここで私は『光をくれた人』を思い出してしまった。あのアリシア・ヴィキャンデルも自分さえ良ければいいといった感じだったし、彼女はまたこんな役なのか…と思ってしまったのだ。

ソフィアとマリアが共謀する様子は奥様と女中の秘密の共有という濃厚な関係で、それは良かったんですが、騙されて自分の子供ができたと思い込んでご機嫌な富豪の男が不憫になってしまった。クリストフ・ヴァルツが演じていても、子供二人と奥さんも亡くしている悲しい過去があるし、どうも嫌な奴ではなさそうだった。

その裏では、金のないヤンが新生活に向けての金稼ぎとして、チューリップの球根の投機にはまっていく。順調に稼いでいたけれど、前半で魚売りのウィレムが酷い目に遭うのを見たから、きっとこのままではいかないだろうと思う。
バブルは弾けるのだ。

出産替え玉計画もうまくいって、ソフィアは棺桶で屋敷から運び出される。このまま、ソフィアとヤンの二人は楽しく暮らしていきましたとさ…というエンディングだったら、そんなうまい話があるかと怒っていたと思う。

けれど、ヤンの元へは向かうことができない。罪悪感からだろうか。それに、情熱的な愛は消えてしまった。これはチューリップの球根の高騰にもかかっている。愛のバブルも弾けた。だから、恋に落ちる時もあんなにあっという間だったのだ。ぱっと燃え上がった炎は消えるのもはやい。

マリアの元には海軍での兵役を終えたウィレムが帰ってくる。誤解は解けて、「私たちの赤ちゃんよ」と話している時に、富豪の男はそれを聞いてしまう。
ここでもまだヴァルツの印象で、この男はここで暴れ出して、赤子もろとも皆殺しにしてソフィアとヤンを探し出して殺すのではないか…と思ってしまっていた。しかし、この男はヴァルツらしからぬ物分かりの良さで、自分がソフィアを金で買ったことを反省し、屋敷と家柄をマリアにゆずり、自分は一人インドへ旅立って行った。いい人すぎる。疑ってごめんなさい。

ヤンは結局は修道院からの罰で一文無しになる。しかし、画家の腕を認められて、教会の絵を描く仕事が与えられる。
ソフィアも逃げ出したあとでどこに行くのかと思っていたら、生まれ育った修道院に戻っていた。
二人がどうなるのかは明らかにはされないけれど、アイコンタクトをとって、幸せそうに笑い合っていた。再び会うことができて、近くにいられるのだから、それだけでも幸せなのだと思う。もう燃え上がるような愛ではなく、穏やかさを感じた。

ソフィアがトンデモ計画を出してきて、それが成功した時にはちょっと強引すぎるな…とも思ったけれど、いつの間にか、最後には全員幸せになっていて驚いた。ここまで丸くおさまる話だとは思わなかった。
思っていたよりもちょっと変わった話で面白かった。

ヤン役にデインデハーン。彼目当てで観ました。
最初、なかなか出てこなかったのでやきもきしたし、出てきてもソフィアとヤン中心の話ではなかったから、そこまで出番が多いわけではなかった。
でも、暗いところもある役ということで、久しぶりにデハーンのあの暗い目が生かせる、らしい役だったかなとは思う。二人が関係を持ったあとで、すれ違いざまに手を軽く絡ませる動作も色っぽかった。

また、時代ものなのでコスチュームプレイ的な見所もありました。似合う。とはいえ、貧乏画家なので、そこまでばきばきの装飾の付いた衣装ではなかったのは少し残念。ばきばきも似合うと思います。




『イット・フォローズ』がスマッシュヒットしたデヴィッド・ロバート・ミッチェル監督作品。
失踪した美女を追いかける青年の話。ですが、散りばめられたヒントは膨大ですべて拾いきれていないし、主人公の青年自体が何者なのかもいまいちわからず、少なくとも清廉潔白という人物ではなく、妄想と現実の境も曖昧。
なのでストーリーがきっちり理解できたわけではないし、謎がすべて明かされたわけではない(私が理解できていないのでそう思うのかも)けれど、全体を貫く不気味な雰囲気と次々出てくる謎のセンスが好みで、謎が解けるとか解けないとかはどうでもよくなる。

万人におすすめできるタイプの映画ではないと思うけれど、デヴィッド・リンチというか、『ツイン・ピークス』好きの方は好きなのではないかと思う。

以下、ネタバレというより、私の考察です。
(あとで公式サイトの解説やパンフレットを読みます)















まず、主人公のサムですが、最初は何者だかまったくわからないんですが、LAに住んでいる、映画・ゲーム・音楽・アメコミ(スパイダーマンのコミックを放り投げるシーンは笑った)などのポップカルチャーが好き、現彼女が売れない女優、元彼女は売れた女優などから映画関係者なのかなと思った。
でも、家賃を滞納していたり、働いていると言っていたけれど無職っぽかったので、成功したけれど転落した映画関係者なのかと途中で思った。
しかし、彼が住んでいる場所、タイトルにもなっているシルバーレイクは映画業界を目指す若者が住む場所らしく、転落ではなく売れようとしているところだったようだ。
ただ、車が高級車だったり、派手な友人(ジミ・シンプソンが演じていた)がいたりと、一度は成功しかけたのではないかと思う。
この辺、映画内ではまったく明らかにされません。

サムは隣人のサラのことが好きになる。家でいい雰囲気になっていたところにルームメイトが帰ってきて、解散。明日また来てということになる。
このルームメイトが怪しい男とサラを含めて二人の女性。この先もこの映画に出てくる女性は大体三人組で出てきて、いよいよ何か意味がありそうだなと思った時に、その謎はラスト付近で明らかにされる。
翌日、彼女の家に行ってみるともぬけの殻。不動産屋に聞いてみたところ、引っ越したとのこと。この不動産屋はサムの家も担当していて、延滞している家賃を催促する。この不動産屋は何回か出てきますが、全体的に悪夢っぽく夢か現かわからない映画の中でこの人が出ているシーンだけは現実なのだなと思えた。家賃の催促という行為が現実としか思えないからだろうか。

サムは彼女の行方を探し始めるが、その途中途中で出てくるモチーフがどれもぐっときた。怪しいゴスバンドは〝イエスとドラキュラの花嫁〟という名前も大概ですが、イエスという男性とゴスウェディングドレスの女性が三人という四人組。ここも女性が三人。曲も好みでした。
何度か出てくる芸能関係者(たぶん)が集う怪しいパーティもおもしろい。風船を体に沢山つけた女性が踊り、終わったところで観客が入り口で渡された針で風船を割っていく。この女性はこの先も風船を手にくくりつけていた。
シークレットライブのチケットがクッキーで、当日ライブ会場の入り口で齧れと言われていた。しかも、ドラッグ入りのクッキーで、ハイになりながらライブを楽しめるという仕組み。
このライブ会場の地下のクラブはテーブルが墓石になっていた。

バンドの曲の歌詞から暗号を読み解いたり、腕輪の暗号から地図に隠された謎を探り当てたりと、どれもこれも見ていて面白かったが、一つ謎を解いても何も解決しないどころかむしろ謎は深まっていくのも不気味だった。深みにはまっていくばかりで、謎が解けてもすっきりはしない。

ただ、ストーリーがわかりにくい中で、金持ちのみの特権としてのカルト宗教めいたものが彼女の失踪の原因だったということで、ぼんやりと金持ちに対する憎悪が見えた。サムは序盤から家賃を滞納していることが示される。ホームレスに対する行き過ぎた嫌悪からも、絶対にホームレスにはなりたくないという思いが感じられるが、それは彼が限りなく近い場所にいるからだ。仕事も金もなく、成功もしていない。金持ちに対する気持ちは憎悪であり、憧れなのだ。

また、もう一つのテーマとして、ポップカルチャーは偽モノというのもあると思う。謎の老人がいろんな時代のヒット曲をピアノで弾いて、これは私が作った売れるために作ったというシーンがある。演奏されるのは実際の楽曲である。
特に、ニルヴァーナの『Smells like teen spirits』をピアノで弾きながら、「ギターの歪みなんてない、ピアノで片手間に作った、これでティーンが反抗心を掻き立てられるとか馬鹿」みたいなことを言うシーンは、サムもショックと怒りをおぼえていたが、私も同じ気持ちだった。
ポップカルチャー好きのサムは私だった。ニルヴァーナで衝撃を受けて、影響された過去を持つ。それが全部嘘だったら? 観た映画、読んだ漫画、すべてがメッセージを隠すためだけの偽モノだったら? そんなのは悲しすぎるし、好きなもの、影響されたものを否定されたら、私を形づくるものすべてが無くなってしまう。私自体が無くなる。まるで私という存在を否定されたようだ。
ただ、この老人も金持ちだったから、結局金持ち憎悪の話とも繋がってくるのかも。

サムはもちろんサラを探していたのだけれど、曲に隠された暗号や昔のゲーム雑誌に隠された地図を探っている時には楽しそうだった。謎解きを楽しんでいた。これは、本作に散りばめられた謎を探して考察する私と同じ姿である。ちょっとしたことから意味をさがすのはなんで楽しいのだろう。
US版のポスターには様々なモチーフが隠されていて、それはWEBではわからなかったけれど映画館に実物か貼ってあって、なるほどこれか…と思いながら写真を撮ってた私もサムと同じなのだ。

ホラーの皮をかぶった青春映画『イット・フォローズ』の監督だけあって、青春映画の一面もある。一作目、『アメリカン・スリープオーバー』も未見ですが青春映画らしい(上映か配信して欲しい)。
ラスト付近、どこかの地下室にいるサラとサムはテレビ電話で会話をする。
サラからの「ここに来なければ良かったと思う?」という質問にアンドリューが同意をすると、「そっか」と少し残念そうにしていた。もう自力で逃げようとかそんなことは考えない。あきらめてるから。でも、もっとはやくに二人が会ってたら、事態は違ったのかもしれないとも思ってしまう。

この電話の時に、サラは「犬を飼ったら?あなたには無償の愛が必要」というようなことを言っていた。
サラの失踪事件と並行して、連続犬殺し事件が町で起こっていることが示される。この事件については犯人はわからないし、解決もされない(私が見落としているだけかもしれない…)。けれど、もしかしたら、犬=無償の愛の象徴なのかもしれないと思った。それはささくれ立ったサムの心の中を示しているのではないだろうか。

サムがこの先どうなるのかわからない。隣人の老婆の家でセックスをしていた(この時、カーテンを閉めた時に映るベランダの鳥かごと鳥がきれいだった)のもなんのためかわからない。これはただ単にセックスがしたかっただけかもしれないし、不動産屋と警察からの退去命令を避けるために家から出たかったのかもしれないし、オウムが何を話しているのか知りたかったのかもしれない。理由はわからないけれど、最後の何かを睨むような、決心するようなサムの顔が不気味でもあり、恰好良くもあった。この映画内で、ここまで見せていなかった表情である。
今年はNTライブ『エンジェルス・イン・アメリカ』でアンドリュー・ガーフィールドのことを好きになったんですが、本作でますます好きになってしまった。

母親が好きな女優やサムのTシャツ、部屋のポスターなどにも意味があったのかもしれないけど、拾いきれていません。

パンフや公式サイトの解説を読んでみます。











2007年公開。J・A・バヨナ監督初長編作。製作総指揮にギレルモ・デル・トロ。
原題は『El Orfanato』で、スペイン語でそのまま“孤児院”の意味らしいので、良い邦題だと思う。

まず海辺の元孤児院というのが、ロケーション的にぐっとくる。窓からはかつて動いていたけれど、今は使われていない灯台が見える。
これは、2016年の『怪物はささやく』で子供の部屋から古い大木が見えるのにも似ていると思った。
また、孤児院といってもお屋敷のようで、これは今年公開された『ジュラシック・ワールド/炎の王国』に出て来たお屋敷にもよく似ていて、監督の趣味はまったくぶれていないのがよくわかる。何かが潜む不気味な館という構図も同じですね。
『インポッシブル』もですが、バヨナ監督作はどれも子供がキーになっているようだ。

前半は、実は館にはおぞましい秘密があった!ということで、思ったよりもホラー映画のようだった。
特に、息子は見えないお友達と海辺の洞窟で会い家に連れて来てしまうとか、そのお友達に息子が連れ去られたのか神隠しに遭うなどのエピソードはよくある感じだと思ってしまった。
また、謎の老婆が車に轢かれてしまい、そのぐちゃぐちゃになった顔を映すなど、怖がらせようという意図も見えた。

しかし、話が進んで行き、主人公ラウラがいた孤児院でラウラが出たあとにあった事故など、事実が明らかになっていく。
霊媒師などが家の様子を見にきて、霊と対話をするが、ラウラは事情がわかっているし、実際に被害に遭ったから霊を信じるけれど、夫はまったく信じていない。でもこのままここにいたら、妻がおかしくなってしまうと思い、家を出ることにする。
ここでラウラは、家を出るのは反対をして、2日間だけお別れの期間をくれと申し出るんですね。ここまでは、怪奇現象が起こっても、夫がいるしまあ大丈夫だろうと思っていたけれど、ここでラウラ一人になってしまったら、おそらくすごく怖い目に遭うだろうというのは想像できた。でも彼女も同じ孤児院だったということで関わっている以上、彼女が子供の霊たちと戦うしかないのだ。戦って、自分の息子を取り戻すしかないのだ…と思った。

だが、ここから話が変わっていく。屋敷内を掃除して、全員分の食事を作り、孤児院の服を着たラウラは、人形を置いてみんなでテーブルを囲む。
「1回2回3回、壁を叩け」という、だるまさんがころんだのようなことをする。これはラウラが小さいころ、死んでしまった孤児院の子供達と遊んだ遊びだ。
ここのカメラワークも面白い。壁側に顔を伏せているラウラを映して、ラウラが振り返るのと一緒にカメラもラウラの後ろを映す。まるで、映画を観ている側が、ラウラのすぐ横に立たされたようだった。何度めかのだるまさんがころんだで後ろに子供達が現れる。次第に近づいて来る様子には多少の不気味さはあるけれど、もうホラーという感じではない。
それよりは、殺されてまさに“永遠のこどもたち”になってしまった彼らとの心の交流が哀しい。姿も普通の子供だし、先ほどまでの怖がらせようとする意図が消える。

普通のホラー映画なら、ラウラが一人屋敷の中に残されての霊との戦いをクライマックスにして、ここからどんどん怖くしようとするはずだけれど、まったくそうはならない。
結局、地下室の階段の柵が壊れて転落したであろう息子の遺体が見つかる。それも、誰のせいというよりは事故であり、ただ哀しい。

ラウラが「息子を生き返らせて」と願うと、灯台が光るのも美しい。生き返るというよりは、ラウラが彼ら側へ行ったのだ。かつての友達らがラウラの元に集まってきて、その中には醜い顔と言われていた子もいたけれど、前半でその顔を怖く映していたのに、ラストでは全く怖くない。むしろ優しい。
向こう側に行ってしまったというのに、音楽も感動的なもので、ああ、これホラー映画じゃなかったんだな…と確信した。ホラー映画なら、向こう側へ行ったラウラはあんなに優しげな顔をしないし、恐怖の中で震え、夫が助けに来る展開である。

ラスト、夫が妻や子供たちが一緒に埋葬された墓に花を手向けていた。その表情も、怒りや悲しみや恐怖ではなく、穏やかだった。屋敷内で妻のロケットを見つけた彼は、おそらくもう、霊が存在するなんてとバカにしてなさそうだったし、ちゃんと信じていそうだった。

幽霊怖い!というところから、彼らだって生きていたのだし、どんな形でも時を超えて会えるのは素晴らしいでしょ、怖くないよというロマンティックですらある結論が出る。

生きている者と死んでいる者の境界が曖昧になる。想いはそんなものを超えていくという感じは、デル・トロっぽくもあるし、バヨナっぽくもあるなと思った。暗黒童話感が似ている。

前半はこんなに怖いなんて聞いていない…と思ったけれど、結局、ホラーではなく、映像美に彩られているゴシックファンタジーでした。バヨナ監督の原点であり、まだまだ今も失われていない監督色の出所が見えておもしろかった。


音を立てると即死、というキャッチコピーから、スマッシュヒットした『ドント・ブリーズ』と何が違うのかと思っていて、本編自体にはさほど期待せず、ノア・ジュプ目当てで観に行ったんですが、内容も全く違うし、おもしろかった。

『ドント・ブリーズ』はじめ、『イット・フォローズ』『ゲット・アウト』『ヴィジット』など、最近のアイディア系ホラーにまた新たな一作という感じでした。
ただ、ホラー色は弱いので、怖さを求めていくと物足りないかもしれない。

作品の性質上、シーンとしてるところから大きな音とともに怖いものが出てくるビックリ演出が多数あるのでは…と思っていたけれどほとんどなかった。

以下、ネタバレです。













予告などだと音を立てたら死ぬことしか明らかになってなかったので、何が襲ってくるのかも、一体どうやって生活をするのかもわからなかったけれど、序盤にルール説明がある。

最初から兄弟の一番下の小さい子が危なっかしいんですけど、予告やスチルやプレミアの画像などで事前に見ていた限り、四人家族だと思っていたので、この子は早々に離脱するんだろうな…というのはなんとなく察しがついていた。ただ、長女のリーガンが渡したおもちゃのせいで死んでしまうとは思わなかったので切なかった。最序盤だけれど、これがこの先、リーガンの心に大きな影を落とす。

一番下の子が襲われた時には、相手が何者なのかはまったくわからない。けれど俊敏な生き物だった。決して人間ではない。
やはり『ドント・ブリーズ』のように相手が人間のほうが怖いのではないかと思う。これで、怖さはあまりなくなった。

父はこの生き物について調べている。壁に貼ってある新聞などから、メキシコに落ちた隕石がキーワードになりそうだったので、どうやら宇宙から来たのではないかということがなんとなくわかる。本当に何者なのかというのは最後までわかりません。ただ、音を察知して襲ってくるということだけが、はっきりしている。

前半は静寂の中での家族の生活が描かれる。リーガンは聾者らしく、耳に補聴器をつけている。それでおそらくこの謎の生き物が襲来する前から家族で手話を日常的に使っていたのか、セリフはほとんど手話である。アメリカ手話らしい。手話部分は英語字幕と日本語字幕が同時に出るので勉強になる。

セリフや音楽がない中で、微かな生活音を立てながら、家族が身を寄せ合って、少し不便なサバイバル生活をしている様子は、映画として観たことがないものだった。牧歌的で、少しほのぼのとも見えてしまった。かなり実験的だったと思う。

あまりホラーっぽくはないな…と思っていたところで、妊婦である母が一人家に残されている時に事件が起こる。洗濯物が入った袋を引き上げようとするが、階段の釘に引っかかってしまい、その釘が飛び出てしまう。
ああ、これは後で踏むんだろうな…と思っていたら案の定。しかも、破水している時に。
当然謎の生き物がやってくるんですが、それから逃げつつの出産するまでのシーンの緊迫感が素晴らしかった。怖いというよりはいろいろなアイディアがちりばめられていておもしろかった。

家の周りには電球があって、夜に灯るのが綺麗だった。質素な生活の中で豊かに生きる知恵なのかもしれない。謎の生物は目が見えないようなので、視覚表現はいろいろとできるようだった。
ただ、その電球は、家の中でピンチなのを伝えるために色が赤くもできるとは知らなかった。遠方にいる家族にピンチを伝えるために声を出すわけにはいかないのだ。なるほど。そして、真っ赤な電球が多数灯っている様子は見た目的にもピンチなのがよくわかる。
それで、家から離れた場所にいる父と息子が音を出して謎の生物の気を引いてピンチを脱した。

リーガンの弟、マーカスは臆病者で家から離れた場所に出かけるのも嫌がっていた。けれど、母に年をとったら守ってくれと言われて、いやいやながら父親と狩りへ出かけていく。
ここで、父と語っていたし、謎の生物の気をひくための花火も一人で点火しにいって、ちゃんと成長していた。母を守ったのだ。

ホラーというよりは家族愛の映画の面が強いと思う。
父も子供達に手話で愛していると伝えてから、絶叫して生物を引き寄せていた。つらかったが、手話があれば、少し離れていても声を出せなくても思いが伝えられるというのも面白いアイディアだと思った。

また、いくつか、えっ?それ伏線だったの?というものが回収がされていくのがおもしろかった。ルールが明示されて、少し後にそれが応用される。とはいえ、最初に出て来た時にはそれがルール説明なのだとはわからないのが巧みだと思う。

滝に行って、もっと大きな音がしてる場合は声を出しても大丈夫というルールが、親子の狩りシーンで出てきて、その後に家の中の水漏れで地下室がピンチというシーンが出てくる。水漏れも結局、滝と同じである。

細かいところだけれど、遊ぶことも限られていて、マーカスが暇つぶしに車を運転するようにハンドルを持っているシーンが序盤に出てきますが、後半に子供二人で車で逃げて来るシーンがあって、なるほど繋がっていると思った。

ただ、ここまで世界観がちゃんと作られているのに、なぜこの中で子供を作ってしまったのか。赤ちゃんはいつ大きな声で泣くともしれないのに。
ホラー映画を観ていると、ルールにのっとった生き残りゲームというように見えてくることがあるけれど、赤ちゃんはルールをより厳しくする要素の一つに思えてしまった。
けれど、幼い子供を失ったからかもしれないし、もう一人作ることでリーガンを安心させようとしたのかもしれない。それとは関係なく、もう一人子供が欲しかったのかもしれないけど。

この映画はほとんど家族四人の俳優しか出てこないが、四人とも上手くて見応えがあった。

エミリー・ブラントは安定してますが、特に最後の銃を構える顔ですね。リーガンとともに、戦う覚悟を決めた顔がとても恰好よかった。一気に表情が変わっていた。
弱点もわかったし、何匹いるからわからないけどきっと一掃できる日も近いのだろうという、希望と強さが感じられた。

監督であり、父親役のジョン・クラシンスキーは実生活でもエミリー・ブラントの夫らしい。片耳ずつイヤホンをつけてダンスを踊るシーンが美しかった。やはり、『ベイビー・ドライバー』や『タリーと私の秘密の時間』でも出て来たけれど、最近はワイヤレスが主流でも、この場合のイヤホンは有線に限る。糸というか、コードで繋がれているところに情緒がある。

リーガン役のミリセント・シモンズは、実際に聾者だというのに驚いた。今年四月に公開された『ワンダーストラック』にも出演していたようで観たい。まだ映画出演経験が少ないようだけれど、これから増えそう。

マーカス役のノア・ジュプは、予告で見た限りだとだいぶ幼く見えたけれど、映画で全身が映ったら結構頭身が高かった。童顔なので、幼く見えていただけのようでした。『ワンダー 君は太陽』よりも更にお兄さんっぽく見えて、順調に成長してるなという感じ。ただ、怯えた顔も泣き顔も可愛かったです。
毛糸の帽子も可愛いけど、とったときのくるくるの髪型も可愛い。
これまでの出演作については『ワンダー』の感想の最後のあたりに書きました。
あと、出演ドラマ『ナイト・マネジャー』の感想はこちら

今後の予定は
12月にアメリカで公開予定のウィル・フェレルがシャーロック・ホームズ、ジョン・C・ライリーがジョン・ワトソンを演じる『Holmes and Watson』。
2019年はシャイア・ラブーフの自伝映画『Honey Boy』にシャイア・ラブーフの少年時代役で出演。ちなみに青年時代はルーカス・ヘッジズが演じる。
もう一作は『Ford v. Ferrari』。フォードのデザイナーのキャロル・シェルビー(マット・デイモン)とドライバーのケン・マイルス(クリスチャン・ベイル)がフェラーリをル・マンで倒そうとする姿を描く伝記映画で、ノア・ジュプはケンの息子のピーター役。

また、『HHhH』が原作の『The Man with the Iron Heart』(2017年)にもアタ・モラヴェツ役で出演していて、『ナチス第三の男』の邦題で来年一月に日本でも公開されます。

『クワイエット・プレイス』は続編構想もあるらしい。別の家族の話になるのか、敵は同じままなのか、いろいろと気になるけれど、今のところは続けなくてもいいのではないかと思ってしまう。




『オクジャ/okja』



2017年ネットフリックスでの配信のみのオリジナル映画。ポン・ジュノ監督。
『最後の追跡』と同じく、こちらも映画館で公開されていないのがもったいないが、このような作品が増えていくのだろうか。

ストーリーについてまったく調べていなかったんですが、内容自体はシンプルながら、とっかかりと題材がなんでこんなことを思いつくんだろう…と思ってしまうような意外性があった。内容は全く違うけれど、突拍子もなさは『スノーピアサー』と同じです。

以下、ネタバレです。







舞台はおそらく近未来。食料が不足していて、スーパーピッグという豚を改良した謎の生物を使って食糧不足を解消しようとルーシー・ミランドが会社を立ち上げる。世界の26軒の農家に預け、10年後にどこの農家が一番うまく育てられるかを競わせるというエンターテイメント性も付加して、発表も派手にして、話題性も抜群。しかし、このスーパーピッグは品種改良がおこなわれていたことは消費者には知らされていない。ルーシーの発表会の様子は胡散臭さすら感じられた。ルーシー役にティルダ・スウィントン。57歳ですが、メイクによって何歳にも見えるし、疲れている時には歳をとって見える。人物自体の胡散臭さも彼女が演じるからこそ表現できている。それに、生き生きと演じているのがわかって笑ってしまう。
『スノーピアサー』と同じようなぶっとんだ印象で、ポン・ジュノ監督の彼女に対する印象…というか信頼がうかがえる。

この時点ではスーパーピッグについては謎のままなんですが、ここから10年後に舞台が移る。26軒の農家のうちの一つへ移る。おそらく韓国の山の中。少女ミジャが巨大な生物と戯れている。これが10年経って育ったスーパーピッグらしい。鳴き声は豚っぽいけれど、顔はカバに似ている。乳房は一つ。少女と意思の疎通ができているようだったし、感情もありそう。それに、崖から落ちそうになっている少女を機転を利かせて救うということで知性もある。目が人間の目に似ているのも特徴的だと思った。
ミジャはオクジャと名前をつけて、彼女と4歳から一緒に育って来たようだ。しかも、両親が亡くなっているようだし、山奥なので友達もいなさそうだった。オクジャがミジャの唯一の友達である。

ところが、10年後のコンテストでオクジャが一位になってしまう。ミジャの家にルーシーと同じく胡散臭い動物博士が来るんですが、演じているのがジェイク・ギレンホール。似ているなとは思っていたけれど、あまりにもハジけた役だったのでエンドロールを見るまで自信が持てなかった。
そして、ソウル、それからニューヨークへ連れて行かれてしまったオクジャを連れ戻すミジャの旅が始まる。

ソウルでなんとか取り戻せそうになるものの、失敗…しそうになるところで、動物解放戦線(ALF)が邪魔をする。Animal Liberation Frontとは実際に存在する団体らしく、劇中の通り、かなり過激な行動に出るようだ。動物解放のためには手段を選ばないらしく、テロリスト的な扱いを受けているらしい。それに比べると、劇中の団体はおとなしかったかもしれない。
ALFのリーダー的なジェイ役にポール・ダノ。このポール・ダノはかなり良い役でした。過激な手段に出つつも、ミジャの意見を尊重しようとする。物腰も柔らかい。ただ、いつものポール・ダノのような気弱さはない。意志は強い。
だから、通訳の役割だったALFのKが嘘の訳をした時にも怒って、ボコボコにしてALFを追放していた。

ホテルマンに変装したジェイが、韓国語と英語を併記したプラカードでミジャに物事を伝えているシーンも好きでした。「私たちはあなたが好きです」で締めているところも良かった。一人きりだと思っていたミジャにやっと味方ができる。

オクジャはスーパーピッグの中で、データや見た目から優勝したのだが、そのせいで研究所に連れて行かれてしまう。オクジャの耳の裏にはカメラが取り付けられているのだけれど、このシーンがかなりつらい。
巨大な雄によるレイプ、部位のサンプルを採取されての試食…。これらが、酔った動物博士によって行われる。彼だって、本当は動物が好きだったはずで、人気の落ち込みによって歪んでしまったのではないか。
ただ、オクジャに関しては可哀想とか見てられないとか思うけれど、私は普通に豚肉を食べるし、豚に関してはここまで考えない。この映画はそこに関しても警鐘を鳴らしているのだろうか。製作がプランB(ブラッド・ピットの会社)であり、少し説教くさいこともなくはないのかなとも思う。けれど、おそらくそこが主題ではないかなと思った。

サンプル食べる試食係が三人出てきますが、そのうちの一人が少し気になったので調べてみたら、Cory Gruter-Andrewという子でした。俯いていたので、ルーカス・ヘッジズかトーマス・B・サングスターかと思ったら違った。『Summer of 84』という15歳の男の子4人が肝試し的な冒険をするって映画に出てるみたいで観たい。今年8月に公開されたばっかりのようですが、日本ではやらなさそう。(追記:2019年8月3日より新宿シネマカリテ他でロードショーとのこと)
ネットフリックスで配信されているドラマ、『アンという名の少女』のシーズン2や『ハンドレッド』のシーズン3のE3、4、7、9にも出演しているらしい。

ルーシーの会社の従業員役の俳優たちも豪華。秘書のような役割のシャーリー・ヘンダーソン(相変わらず声かわいい)や『ブレイキング・バッド』のガス役でお馴染みジャンカルロ・エスポジート(相変わらず怖い印象)など知っている顔が次々と出て来る。

スーパーピッグのナンバーワンのお披露目式のパレードが浮かれていて禍々しい。映画最初のスーパーピッグ発表会も空元気と楽しそうな雰囲気で胡散臭かったけれど、パレードはさらに規模が大きくなって、禍々しさだけが際立つ。
スーパーピッグを模った巨大な風船人形、パレードをしている人も豚の帽子を被っていて笑顔で手を振っている。
動物博士はステージではしゃぎまくり、調子のいいことばかりをスピーチするルーシーの後ろで柱に乗ってぐるぐる回って上がっていく様子もいらっとして、何をやっているのか見ていたら、その柱からミジャが出て来た。あの中ではミジャだけがまともに見えた。

ミジャはここでオクジャと久しぶりに対面をするんですが、酷い目に遭ったオクジャはミジャのことがわからない。目が充血していて、やっぱり、オクジャに感情を与えているのは瞳なのかなと思った。
それでも、ミジャがオクジャを信用してあげて、オクジャも正気を取り戻す。ここでは、裏でルーシーたちは逃げ、警察とALFとが揉めてるんですが、ミジャとオクジャにはそれらがまったく関係なさそうだった。二人だけの世界になっていた。

オクジャは解体施設へ運ばれるんですが、そこには無数のスーパーピッグがいる。次々に解体されていく様子はグロテスクで、でもやっぱりここで、豚肉は食べるしな…と考えさせられた。
この施設からはオクジャと、子供のスーパーピッグ一匹だけを救ってミジャは村へ帰る。

おそらく、ALFが正義のように描かれていても(ポール・ダノが良すぎて私が勝手に正義だと受け取ってしまっただけで実際には描かれていないのかも…)、動物を食べるのはやめよう!というのが主題の映画ではないのだ。
かといって、『ブタがいた教室』的な、豚を学校で育てて食べるという教育の話でもない。
主題はあくまでも少女と不思議な生き物の友情だと思う。不思議な生き物の危機を、少女が救うというシンプルなストーリーに、ALFや食品偽造などが関わって来ているだけだ。

というのも、ミジャ自体、魚を捕って食べていたし、おじいさんも鶏の煮物を作っていた。家で鶏を飼っていたから、あれが鍋になっていたのかもしれない。
鶏や魚とオクジャ、何が違うのかというと、やはり感情とか知性という話になるのだろうか。ただ、イルカは頭がいいから追い込み漁は可哀想みたいな話とも繋がって来てしまいそうで、それも違う気もする。

ただ、オクジャというかスーパーピッグは遺伝子操作によって作り出された謎の生物だというのが違うのかもしれない。
ここで思ったんですが、あの目と感情と知性、それに耳打ちをしあったり、「電話をさせて!」と言っていたということは言葉もわかるということで、これってもしかして、人間の遺伝子も入っているのでは…。
映画内でそんなことまでは明かされないけれど、もしかしたら。

エンドロール後、ジェイとKは一緒に出所する。Kがタバコを吸っていて、それをジェイに渡すと、ジェイは靴底でその火を消す。とてもいい関係。

Kについて、裏切り、そして戻ってくるというのはテンプレだとも思うんですが、さじ加減が完璧だった。悪い奴ではないのは、わざと違う訳をして瞬時に後悔していたことからもわかる。困っている時に戻ってくるのも良かったし、これからはジェイにちゃんと従うのだろうし、ジェイも許していた。
最後、ジェイなりALFメンバーがミジャに会いにいくという展開もなくてもいい。ミジャはいままで通り、オクジャと子豚と祖父と穏やかに暮らしていくし、ALFたちは目出し帽をかぶって次の現場へ急ぐのだ。それぞれの日常が続いていくというラストが好きでした。





タイトル通り、くまのプーさんと大人になったクリストファー・ロビンの再会が描かれている。
クリストファー・ロビン役にユアン・マクレガー、妻イヴリン役にヘイリー・アトウェル。
監督は『ネバーランド』、『主人公は僕だった』、『007慰めの報酬』、『ワールド・ウォーZ』のマーク・フォースター。

以下、ネタバレです。









予告編を見た限りだと、大人になって人生に行き詰っていたクリストファー・ロビンが100エーカーの森に行って、プーとその仲間たちと再会、遊んだりプーの言葉で子供の頃の自分の心を取り戻して、また日々の生活に戻っていくという、所謂『行きて帰りし物語』の形式なのだと思っていた。日々の生活に戻るけれど、100エーカーの森での経験によって成長するから以前のような陰鬱な気持ちは消える。

しかし違っていて、これは私が原作の『くまのプーさん』に詳しくないから知らなかっただけかもしれないけれど、プーさんはクリストファー・ロビンのイマジナリーフレンドではなく、本当に存在していた。
しかも、100エーカーの森を飛び出してロンドンの街中にも来る。それも、プー自らの意志で。ちゃんと思考しながら木の穴を抜けて来るし、ロンドンでは最初、困惑もしていた。クリストファー・ロビン目線の中だけで動くプーというわけではなく、プー視点もある。

それに、プーやその仲間はクリストファー・ロビンにだけ見えるわけではなく、動いて喋るぬいぐるみとして存在していて、他の人が見て目を丸くしたり叫び声をあげたりしていた。
予告でヘイリー・アトウェルがティガーたちを抱っこしている映像は見ていたけれど、それもあくまでもぬいぐるみを抱っこしているのかと思っていた。

例えば、『パティントン』であれば、あれは人語を話し二足歩行だけれど、みんなに受け入れている世界観である。一部、おもしろくないと思っていた人もいたようだけれども、それでも存在自体は受け入れていたようだった。プーの場合は、驚いたり叫ばれたりということは、やはり、ぬいぐるみが動くのが当たり前の世界ではないということになる。そうなると、クリストファー・ロビンが幼い頃に一緒に遊んでいたのもただのぬいぐるみに男の子が魂を宿したわけではなく(イマジナリーフレンド)、本当に動くぬいぐるみだったのだろうか。このあたりは、原作を読めばわかるのだろうか。

世界観がよくわからなかったんですが、エンドロール後にビーチで寝転んでいるプーとその仲間たちを見たら、もう細かいことはどうでもいいという内容なのかなとも思った。ちなみに、ビーチの椅子に寝ている御一行はポスターなどで出ていて可愛かったけれど、まさか、森を抜け出して劇中でこの姿が見られるとは思わなかった。
ビーチに来ていたのは普段せこせこ働いて、たぶんクリストファー・ロビンと同じく心が死んでいる人たちである。彼らが有給をとって海に遊びに来て、プーたちを見て好意的にとらえていたということは、動くぬいぐるみはあの世界では周知されたのだろうか。

なんか設定ばかりが気になってしまって、プーがのんびりしたことを言ってクリストファー・ロビンが何かを発見して癒されて変わっていくという様子を見せられても、予告編でそこまではわかっていたことだし、あまり心に響くものがなかった。

ただ、アニメCGと実写の共演ではなく、本当にぬいぐるみ形態だったし、表情が過剰に変わらなくて一見無表情に見えるところは良かった。ぬいぐるみプーとユアン・マクレガーの並びは見ていて可愛かったです。

あと、マーク・ゲイティスのコミカルとも言える大仰な悪者演技は愉快でした。あの様子を見ると、本当に真剣に考えながら見るものではないのかもしれないとも思ってしまった。
オープニングも絵本の絵で、終わる時にも絵本の絵に変わるので、もう、あまり辻褄とかは考えず、ファンタジーとしてふんわり楽しむのでいいのかもしれない。
それにしては前半、プーに再開するまでのクリストファー・ロビンの日常は厳しかったけれど。

あと、プー界隈のことを何も知らないので、ドーナル・グリーソン主演サイモン・カーティス監督の『グッバイ・クリストファー・ロビン』(2017年公開)はあわせて観たい案件なのではないかと思うので観たい。劇場未公開だが、Amazonにてレンタル中、10月にはDVDとブルーレイが発売される。








前回のアカデミー賞外国語映画賞にノミネート(レバノン初)(受賞は『ナチュラルウーマン』)。ダブル主演だと思われますが、その一人、ヤーセル役のカメル・エル=バシャがベネチア国際映画祭で主演男優賞を受賞(パレスチナ人初)。
監督、脚本のジアド・ドゥエイリは、クエンティン・タランティーノの『レザボア・ドッグス』や『パルプ・フィクション』にアシスタントカメラマンとして参加していたという経歴の持ち主。

予告を見ただけだとわからなかったけれど、某ラジオで難民映画と紹介されていて、確かに難民問題も扱われている映画でした。

単なるご近所トラブルのようなところから、話が意外な方向へ転がっていく。

以下、ネタバレです。













最初はバルコニーから水が漏れていて、工事に支障が出るからどうにかしろと業者が注意をしに行ったら、住民であるトニーが聞く耳を持たないため、勝手に配管に繋ぐ工事をしていたら、それをハンマーで壊すという暴挙に出られてしまう。
直してやってるのにその態度はちょっとどうかしてるし、怒りがわいた。だから、工事の現場監督であるヤーセルが「クズ野郎」と発した時も当然だと思った。

けれど、これについて、ヤーセルが謝罪をしなかったことが発端となって話がどんどん大きくなって行く。

トニーの態度にはいちいちイライラしたけれど、それは、トニーがレバノン人で、ヤーセルがパレスチナ難民であることが原因のようだった。単に気難しい性格というわけではなかった。
しかも保守派でその中でも極右政党を支持しているようで、そうすると難民だというだけでちょっとしたことでも許せなくなってしまうのは、仕方がないとも言えないけれど、一概に悪いとも言い切れないのかもしれないと思ってしまった。

トニーは序盤に、妻に「ここは暑いから、あなたの実家に戻りましょうよ」と言われても、「貯金をしてこの家を買ったから実家には戻りたくない」と言っていた。これも、ただの頑固な生活かと思っていたけれど、それも、後半に進むに従ってその理由も明らかになる。トニー自身も子供のころに住んでいた村を追われた経験を持っていた。そうなると、映画を観ながらトニーのことを、こいつ横暴だな…と思っていたけれど、もう責められない。

映画のほとんどが法廷劇なんですが、それぞれの弁護士が事態をまとめて話し、さらに裁判長がそれをまとめてくれるので話の流れというか、レバノンで何が起こっていた(いる)のか、ひいては中東情勢までがとてもわかりやすい。
レバノンの映画を観たのはたぶん初めてだと思うし、何も知らなかったけれど、その国の内情を知ることができるのは外国の映画を観る醍醐味だと思う。

ただ、この映画は深刻な事態を深刻に描くドキュメンタリータッチのものというわけではなく、両者の弁護士が実は父娘というのが途中で明らかになったりと、ちょっとウェットな面もある。それが映画の観やすさになっているのも魅力だと思う。

ついには二人は大統領に呼ばれたりするんですが、そのあと、ヤーセルの車のエンジンがかからなくて困っている時に、車工場勤務のトニーが戻って来て直してあげたシーンで涙が出た。困った人を助けてあげるという、普遍的な行いをするシンプルなシーンである。
その人の背景を無視して、一人の人間としてなら、ちゃんと親切にしてあげられるのだ。
また、終盤、ヤーセルがわざと罵ってトニーに突き飛ばす機会を与えて、喧嘩両成敗というか、これでおあいこねという感じになる。不器用だけれど、いい方法だと思った。互いの気持ちが理解できる。

映画内では、終盤になると、事が大きくなりすぎて、二人よりも周辺が騒ぎすぎていた。もう、ただ二人の話ではなく、みんなが自分の話として怒ったり罵ったりしていた。
その人の国、宗教、政治派閥など、信じているものや所属している場所。それが相反するなら敵対してしまう。自分が正しいと信じているから主張をわかってもらいたい。わかってもらえなかったり、逆に罵られれば、争いが起きる。
けれど、一方向からだけでなく、その人の背景なども交えて事情を鑑みれば、理解できることもあるのかもしれない。
でも、国、宗教、政治派閥などはその人を形作ってるものだと思うし、アイデンティティでもあるだろうから、それを全部とっぱらえというのは無理な話だろう。
それに、集団になると、よりヒートアップするだろうし、なかなか難しい。
ただ、一概にどちらが悪いとは言えないということは覚えておいたほうがいいんだろうなとは思った。

アメリカだとトランプ支持者なんかは個人的には信じられないけど、彼らにも彼らなりの事情があるのだと思うと、それも一概に非難するわけにもいかない。

難しい問題で、双方の言い分がわかった上でどうにもならないことが多くて、何度も唸り声をあげながら観てました。
ただ、邦題に入っている“ふたつの希望”という言葉はとてもいいと思う。原題はフランス語タイトルL'insulte、英語も同じ意味でThe Insultということで、単なる“侮辱”になってしまうので。

映画内では丸く収まるが、映画の最初に『この映画は監督と脚本家の意見であり、レバノン政府の見解ではありません』という注意書きが出たことを思い出した。映画を観て、何かが片付いた気持ちになってしまったけれど、いまだに問題は解決されていないのだ。





2012年公開。イギリスでは2011年公開。原題『You Instead』。
ルーク・トレッダウェイ目当てで観たんですが、監督は先日観た『最後の追跡』のデヴィッド・マッケンジーだった。
スコットランドの夏フェスが舞台。
ルーク演じるアダムはTHE MAKEというバンドをやっていて、夏フェスに出るべく会場を訪れるんですが、そこで、ガールズバンドと喧嘩になる。そこに現れた謎の男性に、音楽を通じて仲良くなれというようなことを言われ、ガールズバンドのモレロとアダムは手錠で繋がれてしまう…という内容。

ちょっと、最初から少女漫画みたいなんですが、展開も少女漫画だった。
仲が悪いから手錠で繋がれててもいちいち衝突するし、お互いに彼女も彼氏もいる。でも、モレロと一緒に仕方なくステージで演奏したことで心が通じ合う。アダムは彼女を振って、モレロに惹かれていくけれど、モレロは遊ばれていると思って相手にしないが、結局惹かれ合う。

『ブリジット・ジョーンズの日記』でも夜のグラストンベリーの様子を見て驚いたけれど、本作に出てくるスコットランドのフェスも夜は大概乱れてる。みんながみんな、夜の相手を探しているようだった。海外のフェスはそんな感じなのだろうか。

そして、手錠をはずす鍵を実は少し前に入手していたけれど黙っていたアダムはモレロを怒らせてしまう。けれど、ステージ上から、モレロの名前を呼びかけるんですね。この辺も、少女漫画っぽい。しかも、THE MAKEは思っていたよりも売れているバンドだった。一番大きいステージで演奏していた。音楽は80’Sっぽいエレクトロポップのような感じでした。その音楽性でそのステージ?とは思ってしまった。
それだけ人気だと、フェスの夜に女性と二人でうろうろしていても大丈夫だったのかなとも思った。それに、ライブ前のサイン会で、ファンガールたちがきゃっきゃ言っていたのに、ステージ上で恋人の名前を呼ぶなんて。しかもお客さんにも一緒に名前を呼んでくれと言っていたけれど、ファンガールたちも呼んだのだろうか。彼女たちの気持ちは…。モレロも現れて、後方からお客さんの上を通ってステージに送られていた。ファンガールたちの気持ちは…。あれだけお客さんがいたら、過激なファンもいそうなものだけれど…。
そして、ステージ上でキスをしてハッピーエンドという。
少女漫画だと思えばいいけれど、いろいろとうまくいきすぎる展開に思えてしまった。

どちらかというと、うまくいっていないTHE MAKEでキーボードを担当していたもう一人のメンバーとマネージャーのそれぞれの最悪な夜について描いてほしかった。ラブストーリーではなくなるし、音楽映画でもなくなるけれど。

映画自体、本当にフェスに潜入して5日間で撮ったとのこと。だから、ルーク・トレッダウェイがステージで歌ったんですね。お客さんたちもエキストラではなく、夏フェスに来ていた人らしい。他のバンドの演奏風景も少し映るし、最初の方は音楽ドキュメンタリーのようでもあった。でも、ちょっとストーリーがありきたりすぎたかなと思った。



2016年アメリカ公開。日本では2017年にDVDスルー。
監督は『MUD』、『ラビング』のジェフ・ニコルズ。原作があるものなのかと思っていたけれどないようで、脚本もジェフ・ニコルズらしい。

謎の力を持った少年を男性二人が連れ出して、それをカルト教団や国家安全保障局が追うという内容。少年はゴーグルを付けていて、なぜかと思ったけれどはずすと目が光って周囲を攻撃する。力を抑制するためだったらしい。
また、人工衛星を落としたりと力はかなり強そうだった。急に謎の言葉で話し始めて、ラジオを合わせるとまったく同じ内容が流れていたりもした。
結局、自分は『上の世界』から来てそこへ帰るのだと言い出す。宇宙人みたいなものだったようだ。
男性二人のうちの一人は父親、もう一人は父親の幼なじみだった。そして、母親と大人三人で少年に対する追跡を振り切りながら、帰るのをサポートする。

おもしろくなくはなかったけれど、ちょっと描き足りなかったかなと思った。逃げているシーンから始まるから、少年と親の平和だった頃の心の交流はあまり描かれていないから、いざ別れるとなっても、どれだけの仲だったのかよくわからない。特に、母親と少年はあまり近しい存在には見えなかった。
また、幼なじみもなぜそこまでしてサポートしてくれるのかよくわからなかった。父親とどの程度仲が良かったのだろうか。
含みを持たせたラストは良かったと思うんですが、少年の力についてもいまいち不明。不明でいいのかもしれないけど。できれば全6回くらいのテレビドラマにしてほしかった。

ただ、父親がマイケル・シャノン、幼なじみがジョエル・エドガートン、少年がジェイデン・リーバハー(『IT』の吃音の少年、ビル役)、母親がキルスティン・ダンスト、カルト教団の教祖がサム・シェパード、国家安全保障局の男性がアダム・ドライバーとキャストがすごく豪華で、全員とてもうまい。
特に、描かれていないけれど何かを捨てて決意して一緒に行動しているんだろうなと思わせるジョエル・エドガートンの物悲しさと強さを感じる演技が良かった。あと、アダム・ドライバーの弱気で情けなさそうだけれど優しく多分仕事ができるんだろうなと思わせる演技も良かった。彼らの話も連続ドラマだったらもっと詳しく描かれたはず…。


2015年公開『アントマン』の続編。
監督は前作と同じペイトン・リード。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と同じく、シリーズで同じ監督だと世界観も同じになるのがよくわかった。(だから、GotGについては別の監督で続編というのはありえないと思っている)

MCU20作目。ですが、時系列は前作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の少し前とのこと。MCU10周年ということで10の文字が浮かび上がり、他のシリーズにも想いを馳せた。
けれど、この映画自体は、MCUを追っていなくても、単体でも楽しめる。前作を観ていたほうがキャラクターに愛着はわくかと思いますが、本作からでも十分楽しい。

以下、ネタバレです。『インフィニティ・ウォー』のネタバレも含みます。















前作ではアントマンは小さくなるだけだったけれど、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』にて大きくもなれることが明かされた。今回は大きくなる能力も存分に使われる。

前作は駄目な父親のスコットがヒーロー(アントマン)になって娘の信頼を取り戻す話だったと思う。
クライマックスでは量子世界へ行って、不可能と思われたそこからの帰還を成し遂げる。ハンクの妻も量子世界で行方不明になっており、ひょっとしたら帰還が望めるのでは…という話が出ていた。
今作は、ハンクの妻であり、ホープ(ワスプ)の母であるジャネットを探す話がメインです。だから、どちらかというとアントマン(スコット)よりは、ハンク親子がメインかなと思った。
他にも、スコットと娘のキャシーはもちろん、ビルとエイヴァも擬似ではあるけれど父娘のようで、全体的に親子愛がテーマだったと思う。

敵らしい敵は出てこない…というのは言い過ぎだけど、強力で極悪な所謂ヴィランは出てこない。
バーチは結局ただの金に汚い小狡い男だし、エイヴァもジャネットの力を利用しようとはしていても、元々は被害者だから、悪とも違う。
だから、戦い自体は殺してやろうとか殺されるといったものではなく、奪ったり奪い返したりがメインです。

ただ、そのバトルが自分も大きくなったり小さくなったりするし、出てくるもののサイズも自由自在に変えられるので観ていて愉快。
予告でもビルを縮ませてスーツケースのように運んだり、キティちゃんのペッツを投げつけてから大きくして障害物にしたりと、映像的に見応えがありそうだと思ったけど、そのようなものの連続だった。
カーチェイスもミニカーになったり、蜂になって敵の車に侵入して中で大きくなったりと一筋縄ではいかなかった。
海で大きくなってクジラと間違えられたり、スマホでばんばん写真を撮られているのもおもしろかった。
また、今回も蟻たちは手伝ってくれる。大量の蟻たちが出てくるけれど、海辺ではどんどんカモメに食べられてしまっていた…。でもこれも虫ゆえの特徴である。

バトルを純粋に楽しめたのも、生死が関わってなかったせいもあるかもしれない。
ただ、量子世界に行ったハンクがジャネットを見つけて連れて帰るというミッションは、どちらかが死ぬか、二人とも死んでしまうのではないかと思っていた。こちら二人がメインで、アントマンとワスプはサポートといった感じに思えた。

ちなみにここに、スコットの悪友三人組も加わっている。この三人の悪ふざけは前作から引き続き可愛かった。『ダークナイト』のシフ役でお馴染みのデヴィッド・ダストマルチャンは、個人的に出てくるだけで嬉しいのですが、マイケル・ペーニャが徹頭徹尾ずっと可愛い。愛されキャラです。また、前作にもあった、早口で過去を振り返るシーンもあって大満足。この三人のカラーがそのままなのは、同じ監督ならではだと思う。
それを言うなら、ポール・ラッドもです。スコットはGotGのピーター・クイルをもっとダメにして年を取らせたキャラだと思う。しかも、今回は見た感じだと主役ですらなかった。それでも、なぜか魅力的だし嫌いになれないのはポール・ラッドが演じているからだと思う。特に、ジャネットが憑依したあたりの、感動的なのになんとなくコントみたいな空気は絶妙だった。

本作は、これはこれで楽しく観られたからいいのですが、一つケチを付けるなら、アントマンとワスプの二人の共闘シーンがもっとあっても良かったかなとは思う。これはスコットのスーツが最後まで不調(やっぱり主役だとは思えない…)だったせいもあると思う。不調なせいで、娘の学校で中途半端なサイズに縮んでいたシーンは、デッドプールが下半身だけ赤ちゃんになっていたのと同じような気持ち悪さがあった…。スコットも自在にサイズを変えられたら、もっとまともに戦えたのかもしれない。
『シビル・ウォー』で、ホークアイの弓矢にアントマンが乗っていたけれど、あんな感じの斬新な共闘が観たかったとも思う。二人ともサイズを変えられたら、色々出来そう。次回に期待。

ハンクもジャネットも量子世界から帰ってくるし、エイヴァの体も治った。FBIに監視される期間も終わり、スコットとホープもいい雰囲気。
楽しく観られたし、これ以上のハッピーエンドってないと思っていた。完全に油断してました。

エンドロールで、スコットが量子世界に入っていき、普通の世界のハンク、ジャネット、ホープとコンタクトを取っていたんですが、急に音声が途切れる。
不思議に思っていたら、三人は塵のように消えてしまって…。
あー! 『インフィニティ・ウォー』とここで繋がってしまった!
かさぶたを無理やり剥がされて、爪でぐりぐりとやられたような感じだった。『インフィニティ・ウォー』と同じくなすすべなく泣くしかないようなつらさがまた訪れた。
だいぶ傷が癒えてきたと思ってたのに…。そうだった。世界は大変なことになっていた。

本作は時系列的には『インフィニティ・ウォー』の前ということは以前から言われていたが、『インフィニティ・ウォー』を観た後ではそりゃそうだろうと思った。『インフィニティ・ウォー』にアントマンは参加していなかったが、あの後の世界を一人(タイトルからするとワスプもいるのだろうから二人か)で背負っていくのはつらすぎるだろうと思っていた。
それに、前作『アントマン』はこぢんまりはしていても、クスッとくるし、親子愛が描かれている、誰が観てもおもしろい作品だった。『インフィニティ・ウォー』後の世界はどうしたってシリアスにならざるをえない。『アントマン』の世界とはかけ離れてしまう。
だから、本作はあくまでも『インフィニティ・ウォー』とは別次元での楽しい話なのかと思ってた。

違うのだ。『アントマン』もMCUなのだし、同じ世界線である。
繋がってしまったのはいいんだけど、スコットは量子世界に取り残されてしまっているけどどうなるのだろう。気になるし、もしかしたら何かキーになるのかもしれない。
クォンタム…ということは『ドクター・ストレンジ』…? それに、量子世界で、『ドクター・ストレンジ』に出てきた万華鏡のような映像も少し出てきた。何か関係があるのかもしれない。

つらいけれど、ますます『アベンジャーズ4』が楽しみになったことは間違いないです。
本作は単体の作品としても楽しめたし、引きでばっちり次作以降への興味も持続させる。
毎回思うけれど、MCUを追っていて良かったし、これからも追い続けるしかなくなった。


『最後の追跡』



アメリカでは2016年公開。日本ではNetflixでの配信のみ。
テイラー・シェリダン脚本作で、彼が脚本を担当した『ボーダーライン』、『ウインド・リバー』とアメリカフロンティア三部作になるとのことなので観ました。
原題『Hell or High Water』。どんなことが起ころうとも、みたいな意味。
去年のアカデミー賞で作品賞、助演男優賞、編集賞、脚本賞にノミネート。邦題だとテキサスレンジャーのジェフ・ブリッジスが主役みたいに見えますが、助演男優賞にノミネートされているので、主役は兄弟だと思う。
兄弟を演じたのが、兄がベン・フォスター、弟がクリス・パイン。

兄弟が銀行強盗を…みたいなあらすじが書いてあったけれど、いきなり銀行強盗のシーンから始まるとは思わなかった。町の静かな朝の様子をカメラが長回しでとらえるオープニングは、少し『フロリダ・プロジェクト』のオープニングを思わせた。
イラクに行ったのになんの補助も出ないといった落書きがあったり、サブプライムローンの余波なのか、そのような看板が立っていたり。誰もが金に困っているようだった。
場所はテキサス州西部。テキサス州は東部はヒューストンなどがあり栄えているが、西部は貧しい地域のようだった。周囲に建物もない。
テキサスレンジャーも一般の人もカウボーイハットをかぶっていたので、カウボーイが多いのかもしれない。牧場は多そうだし、土地は広大そうだった。

兄弟が銀行強盗をしているけれど、兄は刑務所帰りと言っていたし、悪いことにも慣れているようだった。しかし、弟は銀行強盗などはしたことがないようだった。ただ、計画を立てたのは弟のようだった。弟の計画は慎重なものだったけれど、兄はその計画通りにはやらない。慣れていないことと、その杜撰さですぐに捕まってしまうのかと思ったけれどそうはならなかった。

兄弟を追うのが引退間近の老テキサスレンジャーとその相棒。相棒はメキシコ人とネイティブアメリカンの血を引いているらしく、老テキサスレンジャーから先住民ハラスメントというか、からかいを受けていた。おそらく、悪気はなさそうだけれど、あの地域に住んでいるオヤジは不謹慎ギャグを言いがちなのだろうか。
『ウインド・リバー』でもそうでしたが、銀行強盗が起こっても、盗まれた額が小さいし、死人も出てないとなればFBIなどは派遣されない。田舎の事件は地元で解決しろということらしい。しかし、これも『ウインド・リバー』でもそうでしたが、おそらく範囲が思っているよりも広い。アメリカ大陸の広大さはあまり想像がつかないけれど、地元任せだとなかなかうまくいかないのだと思う。
老テキサスレンジャーがジェフ・ブリッジスなのですが、相棒は『ウインド・リバー』にも出ていたギル・バーミンガム。

テキサス州は元々ネイティブアメリカンが住んでいた土地で、そこにいたネイティブアメリカンの資金源のバッファローを白人が虐殺したことで追いやられたらしい。ただ、ネイティブアメリカンに限ってテキサス州でカジノを開くことが認められていて、カジノは『現代のバッファロー』と呼ばれているらしい。このあたりの話も知らなかった。映画内に直接出てくる話ではないです。でも、盗んだ金をマネーロンダリングをするのにカジノが出てくるので、あれがそうだったのかもしれない。

映画の作りとして、何かが起こって悩んだ末に銀行強盗に踏み切るわけではなく、銀行強盗シーンから始まるので、事態が少しずつ明らかになっていく。
この映画で取り上げられているのはテキサス州から追い払われたネイティブアメリカンではなく、ホワイトトラッシュです。
母親は多額の借金を残して亡くなる。その借金も銀行に騙された形で…と言われていたので、サブプライム関連かなとも思ったが、あまり詳しくは語られない。借金を返せないと牧場も取り上げられてしまうが、石油が出ることがわかったので、それは阻止したい。そのための、兄弟での銀行強盗だった。

兄役にベン・フォスター。いかにも荒くれという役柄だったけれど、うまかった。刑務所帰りでたぶん人生にもう何も目的も望みもない。テキサスレンジャーが言うように本当に『強盗が好き』だったのかもしれない。どちらかというと、弟の銀行強盗を手伝ってあげたという感じである。
弟役がクリス・パイン。クリス・パインは今まで優等生というか、ハンサム役が多かったけれど、頭はいい役ではあると思うけれど、泥臭く、影を背負っている演技がとても上手かった。今まで特に演技が上手い俳優としては認識していなかったけれど、一気に好きになりました。

元々血の絆があって、母が亡くなったことでさらに絆は強まったと思うけれど、銀行強盗を一緒に行ったことで共犯者として、絆は一層強まっているように見えた。忘れられた土地で、後戻りのできないところまで来てしまった兄弟。ハッピーエンドは望めないのだろうと思って観ていた。

銀行で撃ち合いになり、弟は背中を撃たれる。弾は貫通していても、放っておいたら危険である。そこで、兄は弟だけ逃すんですよね。
たぶん、自分には未来はないけれど、せめて弟だけでも…と思ったのだろう。
別れ際に「愛してるぜ、トビー」、「僕も兄貴のこと愛してる」と真面目に言ったあとで軽口を叩いて、違う方向へ車を走らせるシーンが泣けた。たぶんもう、一生の別れだと覚悟をしていたのだろう。

逃げた兄は丘の上からライフルでテキサスレンジャーを撃つ。相棒を失った老テキサスレンジャーは怒り、裏側から兄を撃つ。悲しい連鎖である。
弟は逃げ切り、金も手に入れて、牧場と石油は守られたが、老テキサスレンジャーは勘が鋭く、まだ弟を怪しんでいた。

これも途中で明らかになることだけれど、弟には別れた妻と子供が二人いる。普通、映画だと別れた妻はしっかりものだったり綺麗だったりするものだけれど、本作の場合は、妻も貧しい生活を送っているようだった。そういう土地なのだ。子供二人と暮らしているが、弟は自分のためではなく、この子供たちに牧場というか石油を残したのだ。

怪しんでいたテキサスレンジャーは牧場に来て弟と対峙する。
弟も銃を持っていたし、もしかしたら、撃ち合いになったりするのかと思った。
弟がこのシーンで言うが、貧乏な親の元に生まれると、子供も貧乏になり、またその子供も…というように、貧困が感染するように広がっていく。そこから抜け出すためには、一攫千金を狙うしかないのだ。
牧場を売らなくてもよくなったのだし、子供に引き継ぐこともできて、一応は作戦はうまくいった。勘付いているのは老テキサスレンジャーだけで、彼が何も言わなければ、この事件は終わりである。

兄を殺したテキサスレンジャーが来ても、弟は撃たなかった。テキサスレンジャーはあの場面で元妻(お金が入ったせいか小綺麗になっていた)と子供達が来なかったら、弟を撃ったのだろうか。
老い先短い(相棒に「一年後に死んでる」と言っていたのが冗談なのか、本当に病気か何かだったのかわからない)、テキサスレンジャーを引退した自分と、目の前の弟ではなくその子供達の未来を天秤にかけた時に、やはり撃てないのではないだろうか。
撃たないまでも、弟を捕まえたら、子供達も貧困から抜け出せない。それはこの先、その子供の子供とずっと続いていくのだ。ここで一旦断ち切れば、子供達の未来はきっと変わるのだ。その辺の事情だって、あの場でずっとテキサスレンジャーを務めて来た男ならわかるはずだ。

ただ、自分の功績というか、許せないという気持ちや正義感というのは、老テキサスレンジャーはもう何年間も積み重ねて来たのだと思う。
それを、初めて見逃すのだと思うと、かなりぐっとくるものがある。

兄弟とテキサスレンジャーたち。互いに、兄を亡くし、相棒を亡くしている。しかも、兄が相棒を撃ち、テキサスレンジャーが兄を撃った。因縁の二人である。
最後の会話のシーンは息詰まるような緊張感がありながらも、物哀しくもある。

砂ぼこりの舞う乾燥した土地は、いかにも暮らしにくそうだし、貧困もそれこそ感染するように蔓延しているだろう。
『ウインド・リバー』と同じく、描かれているのはこぼれ落ちた人々、見捨てられた人々である。




『ボーダーライン』の脚本のテイラー・シェリダンが監督・脚本。その時点で気づくべきだったんですが、“なぜここで少女ばかりが殺されるのか”というコピーから猟奇連続殺人ものだと勝手に思っていたのですが、もっと重く、深く、考えさせられる内容だった。ニック・ケイヴの音楽も合っている。
主演はジェレミー・レナーとエリザベス・オルセン。「この扉を出たら君もアベンジャーズだ」のホークアイとスカーレット・ウィッチコンビ。

以下、ネタバレです。













舞台はワイオミング州ウインド・リバー・カントリー。冬は雪深く、厳しい土地のようだった。ここにインディアン保留地が舞台。私はインディアン保留地というのも知らなかったんですが、先住民が集められた場所がアメリカ国内に300箇所以上あるらしい。
本作で描かれている限り、牛がピューマに襲われたり、周囲には何もなかったり、雪もかなり降るようだったりと、住むのも大変そうな場所だった。

ジェレミー・レナー演じる コリーはここで野生動物被害に対応するハンターをしている。どうやら妻との関係がうまくいっていないようで、妻はこの場所を離れるらしい。観ているうちに明らかになるのだが、妻はネイティヴ・アメリカンの血をひいていて、白人のコリーはここに婿入りしたようだ。
コリーは野生動物の捕獲途中に少女の遺体を見つける。裸足、口から血が出ていて暴行の痕もあるという異常な状況。口からの血は、寒さで肺が傷つき、出血したとのこと。夜はマイナス30度になるらしい。そして、都会からやって来たFBIのジェーン(エリザベス・オルセン)と地元の保安官と協力して捜査を進めていくことになる。
コリーも娘を同じように亡くしていて、しかも遺体は野生動物に食われてしまっていてもう検視も何もできない状況だったことがあとで明らかになる。だから、今回遺体を発見した時のコリーは、どんな気持ちだったのか想像するとやりきれない。今回こそ、どうしても犯人を捕まえたかっただろう。

ジェーンはこの土地のことを何も知らないから、いわば観客と同じ目線であり案内役である。最初に訪れた時は自動車も冬仕様ではなかったし、服装も薄着だった。見くびっている。でも、この場所の土地の異常さは捜査をするうちに明らかになっていき、私もそれを知っていく。あまりにも無知だった。

雪山で見つかった遺体の少女の兄はヤク中ということで、悪いやつとも付き合いがあって、映画を観ながら、ああその辺りなのかなと思う。でも、違った。ただ、この映画の場合は違ったが、保留地でのドラッグが蔓延も根深い問題らしい。

そして、捜査班は殺された(というか、暴行は受けていても、直接の死因は凍死)少女の彼氏がいた掘削所へ乗り込む。
捜査の進展具合がよくわからないし、FBIはジェーン 1人だけで、お手伝いは来たものの権限は持たず、犯人が捕まえられたら運とも言っていたし、もしかして捕まらないのでは…と思い出していた。
しかし、掘削員たちの暮らすトレイラーハウスの扉をジェーンがノックする。中では髭の男性がシャワーを浴びている。そのままの姿で扉を開くと、扉の外には“殺された”少女が。一瞬にして過去に場面転換し、事件の種明かしが始まった。うまい。
シャワーを浴びていた男性がジョン・バーンサルだったため、こいつが犯人か!と思ってしまいました。

二人がトレイラーハウスで会っていたところに、他の掘削員たちが帰ってくる。酔っていて、暴行をしたということだった。少女はここから裸足で逃げる。

彼氏も退役軍人のようだったが、退役軍人は職が見つからないらしいから、仕方なくここで働いていたのかもしれない。それでも、少女と一緒に、抜け出して新しい場所に行こうと話している姿は、たとえ夢物語だとしても幸せそうだった。
ここで働く他の白人たちも訳ありなのだろうとは思う。周囲に何もない、女もいない、楽しみがない。それはわかるが、だからレイプをしていいというわけはない。それに、インディアン保留地の近くで掘削をしているということは、追いやられた先住民たちをさらに追いやる行為でもある。

コリーは、逃げた犯人を追い、少女と同じように裸足で放置をする。「道へ出れば助かるが、お前など100メートルくらいしか走れないだろう」と言っていたけれど、本当にそれくらいしか走れず、すぐに肺から血を出していた。

少女は10キロ走ったのだ。それだけ、生きたいという強い意志があったのに、結局死んでしまったことを思うと本当にやりきれない。
親は自分のことを責めていたし、その気持ちもわかるけれど、少女のことは映画内でほとんど描かれないけれど、10キロ走って逃げたという情報だけで、性格までわかる。このあたりも描き方がうまいと思った。
たぶん本当にしっかり者で、親たちも信用していたのだと思う。

コリーとジェーンの病室での会話のシーン。「生き残るか、諦めるかしかない」というコリーの言葉が重い。普通に、のうのうと暮らしていては死んでしまうのだ。
保留地の中では、死因はガンより殺人の方が多いらしい。少女は、大人になるための通過儀礼のようにしてレイプをされる。そして、映画の最後には、『失踪した女性の人数は把握されていない』というテロップが出る。
やりきれない。こんなことなら、まだ猟奇殺人もののほうが救いがあった。

最近、ホワイトトラッシュを題材とした映画が多いけれど、本作はホワイトトラッシュとは違うけれど、こぼれ落ちた人々、見捨てられた人々、取り残された人々を描いているという点では共通していると思う。
そんな状況になっていることを、まったく知らなかった。知ることができただけでも、観てよかったです。



2008年公開『マンマ・ミーア!』の10 年ぶりの続編。
前作を観てはいましたが、楽しかったという印象のみで、内容をほぼ忘れていました。たぶん、前作を観てからのほうが楽しめると思うので、復習をしておけばよかったと思った。また、本作を観ると絶対に前作が観たくなる。
監督はオル・パーカー。『マリー・ゴールドホテルで会いましょう』シリーズの脚本の方。

以下、ネタバレです。











まず、前作の主人公であるメリル・ストリープ演じるドナが亡くなっていて、前作ってそんな結末だったっけ?と思ったけれど、違った。本作は映画公開と同じく、前作より10年後設定とのこと。そして、ドナが亡くなったのは去年と言っていたので、前作では描かれていないですね。
娘のソフィは母の残したホテルを改築し、そのオープンパーティの準備を進めている。
その合間に母の昔の出来事が展開される。

とはいえ、過去の話ばかりというわけではなく、現在と半々くらいです。現在のソフィを演じるアマンダ・サイフリッド他、ドミニク・クーパー、すちゃらか男3人組(ピアース・ブロスナン、コリン・ファース、ステラん・スカルスガルド)、ダイナモスの2人(クリスティーン・バランスキー、ジュリー・ウォルターズ)と現在版キャストは続投。

過去のドナを演じるのがリリー・ジェームス。元気で奔放なドナがとても可愛い。ドナと出会う若いハリー、ビル、サムもそれぞれ可愛い。歌ももちろんうまいです。ハリー役の ヒュー・スキナーは少しマット・スミスに似ていた。『レ・ミゼラブル』に出ていたみたいなので、そこでアマンダ・サイフリッドと共演済みなのかな。レストランでの二人のダンスが楽しかった。ビル役のジョシュ・ディランはトム・グリン=カーニーと同じ学校(ギルドホール音楽演劇学校)で年も近い友人らしく、彼目当てでもありました。トム・グリン=カーニーもミュージカル映画に出てほしい。サム役は『戦火の馬』などのジェレミー・アーヴァイン。ちょっと情けない3人組…というかドナが魅力的すぎて3人組が情けなく見えてしまうのかもしれない。

彼らの他に若いダイナモスの2人も登場。彼女たちはいい友人であり、強い。ふられっぱなしでも、ドナを恨むことはしない。
現在の2人は、恰好良い男性を見れば「静まれ、私のヴァギナ」と言っていたりと相変わらず、口が悪い。でも恰好いいし、やはり可愛い。若い頃のキャストも、現在のキャストも全員可愛いのだ。
それに全員、良いキャラクターである。悩んだりはするけれど、人を恨まずにあっけらかんとしていて、いやなことがあっても、憂さ晴らしにケーキを食べたりお酒を飲めば忘れてしまう。だから、男3人ともどろどろの関係にはならないし、ダイナモス2人とも仲良しのままだ。これもドナの性格もあるのかもしれない。
映画を観ていて、嫌な気分になることがまったくない。

ソフィは、ホテルのオープンのパーティをやろうとしたけれど、嵐が来てめちゃくちゃになってしまう。飛行機も飛ばず、ゲストも来ない。島にいるサムはサポートをしてくれているけれど、ほかの父親2人は仕事でそれぞれ忙しい。
ご都合主義といえばそうなのだけれど、ハリーは長い会議を切り上げるし、ビルはスピーチに替え玉を立てる。双子だった。本来なら双子はご法度ですが。
また、フェリー乗り場で、過去に助けた男性に会って、恩返しをしてもらう。漁師たちが船を出してくれて、皆でパーティへ向かうのだ。
本当ならこのあたりの脚本にケチをつけたくなるところだけれど、今回は楽しく観てしまった。

そして、島に派手な船がやってくる。
コリン・ファースとステラン・スカルスガルドが船首でタイタニックポーズをやってるのが可愛かった。
そして、ここで満を辞してダンシングクイーンが流れる。
コリン・ファースもちゃんと踊っていて可愛い。人がたくさんいる中、コリン・ファースを目で追ってしまった。
コリン・ファースはこの前のシーンでも、椅子に縛られたまま海に落とされてずぶ濡れになったりと、散々だけれど可愛い。

また、パーティでの現在ダイナモス2人と亡くなったドナの代わりに現在ソフィの3人で歌うのも良かった。衣装も最高。過去シーンのダイナモスが店でマンマ・ミーアを歌うシーンも良かった。
ダイナモス関連のシーンは過去も現在も全部良かった。この映画はいいシーンが多すぎる。

メリル・ストリープに関しては、『ブリジット・ジョーンズの日記3』のヒュー・グラントも写真だけだけだったことを思い出した。きっと契約関係で写真だけになってしまったのだろうなと思っていた。でも、もし予算の関係ならば、ちょっとシェールの部分がおまけ的な要素としては長いと思ったので、シェールをばっさり削ってはどうか…などと思っていた。しかし、最後の最後、ソフィが赤ちゃんを教会に洗礼のために連れていくシーンで、ちゃんとメリル・ストリープが出てきた。これがすごく効果的でした。
出ないと思っていたのが最後に出てきて一曲歌う、しかもすごくうまい。それに、今までは写真で動かなかった母が動き、ソフィとの母娘のデュエットが実現する。
一緒に歌っていた曲は本来ならばラブソングなのだろうか。しっかりと母娘や絆の歌になっていた。
最初にドナが死んでいるということが明らかにされることで、全体的に楽しく能天気ではあるけれど、感傷的な空気が密かにずっと漂っていた。しかも、もちろんソフィにとっては母、男たち3人にとっては恋人、ダイナモスの2人にとっては友人ということで、ただでさえ喪失感は大きいけれど、前作の主人公であり、メリル・ストリープでもあるということで、失ったものをより大きく見せていた。
それが映画最後にきっちり出てくるのは、真打ち登場というか、出てくると出てこないでは映画の印象がだいぶ変わる。
ドナというか、メリル・ストリープが出てこなくても、ドナは話に出てくるし、常にみんなドナのことを考えているし、若いドナは出てきている。作品の中にずっとドナはいた。メリル・ストリープの出演がカメオ的になってしまったのは予算の関係もあるのかもしれないけれど、作り自体が実はとてもうまいのではないか。

また、エンドロール前の、歌のシーンが最高に楽しい。カーテンコールですね。登場人物が全員出てきて歌う。ここまで観て、全員のことが好きになっているので楽しかった。だから、過去、現在関係なく、全員勢揃いの海外版ポスターがとても良い。
過去の若いハリーがノリノリで煽りに行くのに、現在のハリーが踊らないぞ!といった感じにむすっとしている場面も楽しかった。

ABBAの曲がいいのはもちろんのこと。ミュージカル映画で曲が悪かったらどうしようもない。でも、それだけではなく、キャラクターが本当に良くて、観ているだけでにこにこしてしまった。とても好きな映画になってしまった。

大ヒット映画の続編、しかも10年ぶりともなれば、つまらなそうとかやめときゃいいのにと思ってしまっていたが、ちゃんと前作ありきに徹していたし、リスペクトを感じた。

また、エンドロール後にギリシャの税関職員の男性の小ネタがあるんですが、これも本当に最高でした。本編中でも印象的な動きを見せていたけれど、最後の最後にもにっこりさせられた。





ダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)の妹、デビーが主人公。とはいえ、続編という感じでは無かった。前シリーズを未見ですが、おそらくほぼ繋がりはない。

監督は『シービスケット』『ニュートン・ナイト』などのゲイリー・ロス。

以下、ネタバレです。








刑務所を出たデビー(サンドラ・ブロック)が化粧品売り場と高級ホテルで華麗に万引きや詐欺まがいのことをするオープニングが楽しい。ほとんど歩みを止めないままテンポ良く進んでいくが、このテンポの良さはそのまま作品のテンポの良さに繋がっていたと思う。

デビーは旧友、ルーに声をかける。ルーを演じたのがケイト・ブランシェットでサンドラ・ブロックも恰好良かったが二人並ぶと倍増する。デビーとルーが並んでシャボン玉を吹いているシーンはキュートでした。
「塀の中で、あなたのことを考えてたのよ」「プロポーズ?」というやりとりもよかったし、そのあとにスプーンを差し出すシーンもよかった。。
自分に自信をなくしたデザイナーのヘレナ・ボナム=カーターも可愛かった。気弱っぽくおどおどしていて、とても有能には見えなかったけれど。
サンドラブロックと は黒髪とブロンドで並んでいるだけでも本当に恰好いいのに、二人で並んでシャボン玉を吹いて気を引こうとするシーンは可愛かった。
他にも、恰好良く、媚びずに生きてる、手グセの悪い女性たちを集めていく。

メットガラで女優がつけてるダイヤのネックレスを奪うという作戦が実行される。ターゲットの女優役にアン・ハサウェイ。犯罪集団の女性たちとは違って、ちょっと抜けているけど愛嬌があって綺麗で可愛いという感じに描かれていて、これがおそらくこれまでの映画での女性の描かれ方なのではないかなと思う。
しかし、メンバーが7人、タイトルがオーシャンズ8ということで、察しはつくけど仲間になります。「同性の友達がいないから」と言っていた。同性に嫌われる女性像でもあったわけです。

テンポ良く仲間が集まり、下準備もいざ実行という時にも、ずっとテンポが良かった。ただ、そのテンポを大事にするあまり、ピンチらしいピンチに陥らず、様々なことがあっけなく成功していた。
カルティエの人はフランス語を話しただけで心を許すのか。美術館御用達の鉄壁の警備会社の防犯カメラ担当の人は、いくらワンちゃんが好きだからって脇が甘すぎる。警護の人は女子便所だからついていかないってことはないだろう…といろんなことが気になった。
展示の宝石を盗むのも、あれは最初から作戦のうちだったのか。5年かけて練ったと言ってたけど。

また、保険会社の男性が無能すぎる。まったく追いつめない。ジェームズ・コーデンが演じてるからただのコメディキャラで、重要な役ではないですよということなのだろうか。だったら、後半にあんなに時間を割かないでほしい。もっとメンバーの活躍が見たかった。
もう一つ気になったのは、ダイヤは手に入れたけど、結局のところデビーの復讐にみんな加担したということになってしまう。それ、作戦の説明の段階ではルーしか知らなかったような。

あと、所謂、女の武器というか、色仕掛けみたいなものは、途中まで入れなかったのだから、一切無くても良かったと思う。潔く削ってほしかった。でも、デビーじゃなくて、ダフネにやらせたのでいいのかな…。

キャラクターとテンポは良く、楽しく観られたけれど、もっと脚本を練って、驚くようなどんでん返しとか仕掛けがほしかった。さらっと終わってしまった。
ただ、もし同じ出演者での続編があるならば、それは観たいです。




『追想』





原作はイアン・マキューアンの『初夜』。未読です。
監督はドミニク・クック。映画というよりは舞台の演出が中心の方のようで、2007年には『るつぼ』でローレンス・オリビエ賞の演出家賞を受賞している。2014年には大英帝国勲章も授与されている。

以下、ネタバレです。









予告編が結構見せすぎで、6時間だけの結婚ということも本当は知りたくなかった。そして、原作のタイトルから、初夜で何か起こる…ということは、セックス絡みのことで破局することになるのだろうというのは予想していた。
ただ、映画の作りとして、二人が出会い、愛を育んで、結婚式のシーンがあってのクライマックスで破局という感じかと思っていたがそうではなかった。

映画の開始時、すでに結婚式は終わっていて、二人はハネムーンでイギリス南部のチェジルビーチ(原題は『On Chesil Beach』)のホテルに来ている。そこで、二人が食事をし、初夜を迎える様子が丁寧に描かれる。
合間合間に出会いや、お互いの家を訪れる様子など過去のことが挟まれるせいもあるけれど、簡単に事態は進まないし、二人は何かに怯えているようで、一触即発といったムードである。とても新婚夫婦の初夜といった雰囲気ではない。ロマンティックというよりはぴりぴりとした空気感が伝わってくる。

セックスに至るまでの緊張感が丁寧に描かれているのはこの前の『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』もそうだったんですが、それとは違い、こちらは緊張感が最高潮に達して、爆発してすべてが台無しになってしまう。

最初に予告を観た時点では、階級の違いでうまくいかなくなるのかと思っていたけれど、挟まれる回想を見る限りだと、その辺はクリアできていたようだ。ただ、フローレンスの母とエドワードが接するシーンは出てこなかったのと、フローレンスの父とも良好ではない様子だった。

ビーチで思いをぶつけ合っているシーンを見て、フローレンスが「セックスの才能がない」と言っていたので、ノンセクシャル(でいいのかな。恋愛感情はあってもセックスはできない)なのかと思ってしまった。訳が少し違ったのだろうか。
また、エドワードがフローレンスを「不感症」となじるシーンもあったが、それも訳がどうなのだろう。この部分は原作を読んでみたい。

でも、直接的には描かれないけれど、フローレンスが精液を見て思い出していたのは父親とのことだったので、虐待をされていたのではないかと思われる。でも、セックス指南書を読んだ時にはキャー!となって少し楽しそうでもあったので、普段は思い出さない、心の奥底のトラウマのような記憶なのだろうか。

いずれにしても、1975年の時点では、フローレンスに子供がいたので、養子でない限りは夫が事情を理解し、辛抱強く待ったのだと思う。

エドワードはヒッピー仲間にも言われていたけれど、若すぎて繊細だったのだと思う。それに加えて、エドワードは喧嘩っ早くて短気だった。だから、ビーチで別れるしかなかったのだろう。

結局、フローレンスと結婚したのは楽団の仲間のチャールズだったことが映画の後半で明らかになる。彼なら階級も同じだろうから親も賛成だろうし、フローレンスとも好む音楽も合うだろうし、描く夢も同じだ。恋愛感情を抜きに考えたら、結婚するにはうまくいきそうではある。

映画内で、エドワードだけのシーンだと、ロックが流れる。対して、フローレンスのシーンではクラシックが流れる。これは互いの音楽の趣味でもあると思うけど、二人のシーンでもクラシックが流れていた。序盤に二人のシーンでチャック・ベリーが流れますが、1975年に娘がエドワードのレコード屋に来た時に、「お母さんは普段はクラシックしか聴かないけど、チャック・ベリーは好きみたいで」と言っていた。逆に言うと、フローレンスは、チャック・ベリー以外はエドワードの趣味は理解してなかったのではないか。エドワードはもしかしたら、フローレンスに合わせてクラシックを理解しようとしていたのかもしれない。劇中に流れる音楽のチョイスからそう考えてしまった。
そうすると、やはりエドワードはどこかの時点で我慢ができなくなって、うまくいかなかったかなとは思う。

それに、若かった、繊細だったというのはもちろんあると思うけど、もう少し歳をとってから二人が出会っていたら、階級も何も構わずの恋はできなかっただろう。そう考えると、どのみちうまくいかなかったのかもしれない。

エドワードの家の中、カメラが彼の背中に張り付くように動いていたのが印象的だった。それほど広くない田舎の家というのがよくわかった。カメラワークも凝っていたと思う。
特にラスト、フローレンスが「二人で生きていきたい」と語りかけても、エドワードは彼女に背を向ける。そこで、フローレンスは諦めて、エドワードに背を向けて歩き出す。二人が離れていくのに合わせてカメラが引いていき、なんとか二人の姿をスクリーンにとどめようとするが、ついにカメラは止まり、歩みを止めないフローレンスだけがスクリーンから消えて、エドワード一人が取り残されるという。切ないが、どうしようもなく綺麗だった。

きっと、エドワードはまだあの浜辺に立ち止まったままなのだ。
2007年、おそらくまだ独り身のエドワードが、成功したフローレンスの楽団の演奏会に行くシーンは、『ラ・ラ・ランド』を思い出した(『初夜』が出たのは2007年)。エドワードは気持ちをとどめたまま、たぶん後悔をしている。女性は後悔をしていたとしても、前を向いて進んでいる。二人の道が分かれてからの、この45年の過ごし方がまったく違う。
けれど、あのきらきらした時間は、二人の胸の中にずっと残り続けるのだ。




原題もThe Night Manager。ナイト・マネジャーという役職を知らなかったのですが、ホテルの夜の時間帯の最高責任者のことらしい。
イギリスBBCとアメリカAMCの共同制作。2016年放送。日本ではAmazonプライムビデオで配信中。Dlifeで4月に放映されていて、8/13より再放送があるとのこと。もともと全6話ですが、日本では40分前後の全8話に編集されている。

プライムタイム・エミー賞の監督賞と作曲賞を受賞。監督は2010年のアカデミー賞外国語映画賞『未来を生きる君たちへ』のデンマーク出身のスサンネ・ビア。
ゴールデングローブ賞のリミテッドテレビドラマ部門でトム・ヒドルストンが主演男優賞、オリヴィア・コールマンが助演女優賞、ヒュー・ローリーが助演男優賞を受賞。
他にもBAFTAや様々な賞を受賞したりノミネートされていたりしています。

原作はジョン・ル・カレの1993年の小説。原作は未読なので、どの程度忠実なのかわかりませんが、シーズン2も放映されるらしい。

トム・ヒドルストンがホテルのナイト・マネジャー役ということで、姿勢が良く、礼儀正しく品行方正な様子が彼にとても合っていた。ホテルのユニフォーム姿も素敵でした。
ただ、彼はもちろん見た目が恰好良いのですが、たぶん役の上でも恰好良いらしく、地元のほぼマフィアのような有力者の愛人と寝てしまう。それで、愛人はジョナサン(トム・ヒドルストン)に武器取引のデータを流し、それがきっかけで愛人は殺され…という感じにジョナサンは事件に巻き込まれていく。

私はジョナサンが何か影のありそうな男だな、ジョン・ル・カレだしスパイなのかなと思っていたけれど、最初の時点では本当にただのホテルマンだった。ただ、父親がスパイだったという話は出てきた。そして、イギリスの国際執行機関員アンジェラ(オリヴィア・コールマン)に武器取引のデータを流したことで、彼女から、武器取引の中心人物、リチャード・ローパー(ヒュー・ローリー)の組織の奥に入れと言われる。ここで初めてスパイになる。
オリヴィア・コールマンは妊婦役なんですが、妊婦と言ってももういつ産まれてもおかしくないくらいお腹が大きい。そのお腹のまま、銃を構えたりするのでひやひやした。オリヴィア・コールマン、相変わらずうまい。少し『ブロード・チャーチ』での役に似てるかなと思った。

ジョナサンは、2話でも女性と寝て経歴詐称に役立てたり、ローパーの妻にも惚れられて寝たりするので、やはり容姿の良い役なのだと思う。
ただでさえ容姿の良いトム・ヒドルストンが容姿の良い役を演じているので、容姿の良さが際立って迫力があった。また、人も数人殺すので影もあるし、恋人がいるわけではなく、8話中で三人の女性と寝て、一人は有力者の愛人、一人はまったく好きではない女性、もう一人は人妻と、最初の品行方正具合はどうしたと問い詰めたくなる感じでしたが、そのようなダーティーなトム・ヒドルストンもよかったです。
あれ、最後にローパーの妻が「連絡するわね」だか「連絡して」だかと言っていたけれど、たぶん二度と会わないと思う。結局最後まで本名は明かさなかったし、スパイとして潜入していた以上、事件が片付いたら会わないのがルールだろう。

ローパーの妻役がエリザベス・デビッキ。お金持ちの妻役なので、毎回毎回着ているドレスもゴージャスだし、彼女も憂いを抱えていて、悲しんでいる瞳が綺麗だった。また、ショートヘアがよく似合っていて、顔が一層小さく見えた。実際、とてもスタイルが良い。
トム・ヒドルストンも相当スタイルがいいし、顔が小さいと思っていたけれど、エリザベス・デビッキと並ぶとトムヒの顔が大きく見えるというくらいだった。

エジプトの高級ホテル(実際にはスペインのホテルだったらしい)から始まり、スイスのツェルマットの山奥の高級ホテルからマヨルカ島の高級リゾートへ舞台が移り…と映像もとても見応えがあった。
また、7話で再び、元いたエジプトのホテルへ戻ることになるのにぞくりとした。全ての始まりの場所が終わりの場所になる。働いていた時代の友人に協力してもらうのもなるほどと思ったし、アンジェラもエジプトのホテルに来る。
ジョナサンは身分を偽ってローパーの組織の内部に潜入して以降も、アンジェラとはちょこちょこ接触はしていたけれど、そのどれもがもちろんローパー一味には知られてはいけないものだから、暗号などを使っていてスパイ物特有のハラハラ感も味わえた。けれど、7話で久しぶりにちゃんとアンジェラと会って抱き合うシーンは本当にほっとした。

なんとか事件がちゃんと片付くのかなと思っていたが、最終話が進んでも事態が悪い方へ進行していき、雲行きが怪しくなって来る。まさか、シーズン2に持ち越されるのでは…と思いながら、残り30分になったあたりから、ちょこちょこと残り時間を確認してしまった。
無事にローパーは逮捕されたけれど、ローパーの言う通り、彼は金持ちだし、根回しもきく。すぐに釈放されるのではないか…と思っていたら、武器の取引を失敗した相手にさらわれる。それ以降のことは描かれないけれど、おそらく無事ではないだろう。

一応の一件落着なので、原作はここまでなのかもしれない。だとすると、シーズン2はオリジナルになるのかな。ちなみに本国版の四話にジョン・ル・カレご本人がカメオ出演していたらしい。

出演者が豪華なんですが、私は『ワンダー』に出ていたノア・ジュプ目当てで見ました。
撮影が2015年だったらしいんですが、『ワンダー』よりもだいぶ幼く見えた。しかし、『ワンダー』の撮影も2016年だったらしく、子役は一年で結構成長するのがよくわかった。

ノア・ジュプは8話編集版だと3、4、5話に出演。ローパーの息子ダニー役。父親に怯えている部分はありそうだったけれど、聡明で良い子。父親の部屋に入って足を怪我して海に立たされたというのは、「怪我が治るから」と言っていてたけれど、おしおきとか虐待の類だと思う。

3話出てきた場面から、エリザベス・デビッキに頭を強めに撫でられて照れ臭そうに体が斜めになってしまっていたのが可愛かった。音楽に合わせて、二人で踊るのも可愛い。ローパーの部下にシャンパンを初体験させられて、興味津々で飲んでいる様子も可愛かった。
ダニーは暴漢に誘拐されるが、そこをトマス(ジョナサンの偽名)が救うことで、ローパーの組織に潜入する。もちろん暴漢も仕込みである。
怪我をして寝込むトマスにイカの本を読んであげるダニーも可愛かった。
そして、護衛付きだけれど、トマスと二人で街へ出た時のピンクのシャツもよく似合ってました。トマスに肩車をされて笑顔になっていた。また、アイスを買ってあげるシーンでのピスタチオアイスというチョイスも最高で、青いシャツのトムヒとピンクのシャツを着たノア・ジュプが手を繋いで薄緑色のアイスを舐めるというのはちょっとしたシーンながらもとてもよかった。
「パパの部屋にはミントのお菓子が隠してあるから入っちゃいけないんだって」と言うシーンや、寝る前に絵本を読んであげると言っていたトマスとの「どの本にする?」「『三匹の子豚』」「じゃあ、トマス版で読んであげよう」「やった!」という会話も子供(子供ですが)っぽくて、良かったです。
5話の頭で、学校があるからなのか、リゾート地のマヨルカ島から家に先に帰る。帰り際、ローパーに渡した花の絵がやけに大人びていたのも印象的でした。

今年4月にロンドンで行われた『クワイエット・プレイス』のプレミアの映像を見ると、もうだいぶ背も伸びていて、2015年とはだいぶ違う。声も低くなりかけています。これからの成長も楽しみだし、これまでの出演作ももっと観たい。
できたら、もう五年後くらいに、ローパーの復讐を企てる息子役で再び『ナイト・マネジャー』に出てきてほしい。シーズン4くらいで。






私はこの映画がロシア製作だと思っていたので、本国で上映禁止になっていてそれは大変なことになっているし、随分チャレンジャーだなあと思っていた。けれど、イギリス、フランスの製作で、しかも原作もフランスのグラフィックノベルだった。それでも、上映禁止になっているということは、ロシアに随分怒られていることには変わりない。

スティーヴ・ブシェミが出ているところで気づけばよかったんですが、ロシア語ではなく、英語作品です。スターリン死後の側近たちの椅子取りゲームを描いたほぼ実話の政治ものというととっつきにくい印象ですが、思った以上に観やすかった。

監督もスコットランド生まれのアーマンド・イアヌッチ。次作は来年公開予定のチャールズ・ディケンズ原作の『The Personal History of David Copperfield』。ティルダ・スウィントン、ベン・ウィショー、ピーター・カパルディ、アナイリン・バーナードと楽しみなキャスト。

以下、ネタバレです。













コミカルだし、思わず声を出して笑ってしまうシーンがいくつもあったけれど、不謹慎ギャグというか、笑わせようと思ってるわけではなくて、大真面目なのに結果的に面白くなっちゃってるというシーンが多かった。スターリンが倒れた後と葬儀での騒動だから、それでコントをやろうとすると、当然そうなるのだろうけど。

しかし、ただ笑っておしまいというわけではなくて、そのコミカルなシーンと同時に市民は秘密警察や軍にあっけなく撃たれる。葬儀に訪れた市民も1500人も撃たれていた。壁に立たされて順番に撃たれるシーンでも、急に殺さなくていいってよという通達が来て、隣りの人が撃たれて横で倒れているのを見ながら釈放されるというシーンもあった。あまりにも、ただの作業としての銃殺刑。

上層部のごたごたが中心に描かれているから市民はさほど出てこないけれど、画面の後ろで連行されたり、銃声だけが聞こえて来たりと、決してただゲラゲラ笑うだけのコメディではない。医者についても、優秀な医者から優先して殺してしまったから、ヤブ医者しか残っていないというのも笑えるけれど笑えない。

ベリヤの無慈悲な最期もひんやりした。結局、味方を失った者は容赦無く殺される。ただの権力争いではなく、生死をかけた争いで、根回しがうまく小狡いフルシチョフが勝ったという感じだった。

フルシチョフを演じたのがスティーヴ・ブシェミ。おしゃべりで調子のいい男だった。スターリンにウケたギャグ/ウケなかったギャグをメモしたり、慌ててパジャマで駆けつけたりと小物感に溢れていた序盤から、画策しつつ  を陥れるべく目を光らせ、結局は最高指導者になってしまう様子は、結果がわかっていてもおもしろかった。

側近たちはそれぞれ個性が強いけれど、その他、スターリンのアル中の息子やソビエト軍のあまりにも体育会系な雰囲気が漂う元帥など、どんどん面倒な人物が増えていく。
それぞれがそれぞれの事情を抱えているから、ちょっとした群像劇である。

葬儀のパーティーのシーンでは思惑が渦巻いていて、小分けになって何かしら話してるんですが、そこを歩くフルシチョフにカメラがついていくシーンは、会場の様子もわかるし、彼の暗躍具合もわかる。カメラワークが凝っていた。

この映画はスターリンが死去するシーンから始まるのかと思っていたが、ラジオでのオーケストラの演奏シーンから始まり、そこのプロデューサーかディレクターだと思われる裏方の男性がパディ・コンシダインだったのに驚いた。その時点でもロシア製作だと思っていたからだ。言語もロシア語だと思っていたが、英語だったので、少しほっとした。

政治もので、ブラックコメディというと、2015年(日本では2016年公開)の『帰ってきたヒトラー』を思い出したが、あれは笑える部分もあったにはあったけれど、それよりは少し怖くなってしまったし、なんとなく、ドイツ映画のノリに私がついていけてないような気持ちになってしまった。

今回もロシア映画だし、ブラックコメディとはいえ、合わなかったらどうしようと少し身構えていたけれど、イギリスとフランス製作なのと知っている俳優が多く出ていたことでまずとっつきやすかった。
かつ、美麗な美術(考えてみれば当たり前だけれど、ロシアでは撮影できなかったそうで、室内でのシーンはほぼイギリスで撮影したらしい)と、凝ったカメラワークも見応えがあった。